歯を抜かれた爺いのたわごと
2026 SEP 27 12:12:50 pm by 東 賢太郎
このところ歯が時折痛むようになっていた。 2、3年前にかけた左上のブリッジの裏で、虫歯かどうかはわからないが、歯茎が痛いのだから異変があるには違いない。そうした中で韓国旅行となり、 4日分ということで、常用しているリステリンを携帯用の小瓶から少し大きめの容器に入れて携帯した。これがまずかった。羽田の手荷物検査で引っかかり、問答無用で没収されてしまったのだ。
帰国した9月7日から痛みはさほどでもなくなりなんとか持ちこたえていたが、今度は噛むと痛くなってきた。これはまずい。でも歯医者は嫌いだ。子どもの頃からロクな記憶がない。トドのつまりがロンドンだ。藪医者で親知らずを抜いて血が止まらなくなり、数日間も左の頬が腫れ上がってひどい目にあった。
そうこうしているうちに9月24日になった。朝方のこと、ふと、そういえば母が「歯が痛いの、噛めないのよ」と深刻な顔で頬を押さえており、何日かたって歯医者に行ってきたんだろう、「こうしてもらったのよ」と笑うとその歯が半分くらい金ピカになっていて何だか複雑な気持ちがしたのを思い出した。
9時になった。株価をチェックする。「どの辺で売るかな」と仲間に電話をすると、「別件ですが」と提案をもらった。いいねと即決し、あれこれ算段を練る。電話を置き、「そうだなこういう前向きなことを考えている時に歯が痛いなんて戦意喪失だわな」とふんぎり、ついに思い切って歯医者に電話したのである。
看護師に感じを伝えると「それはいけませんね、午後3時半に来てください」だ。もうジタバタしても仕方ない。ただでも嫌なのに、床屋すら危険であるパ二ックも出かねない、この恐怖たるや文字でお伝えするのは難しい。するとまた母が出てきた。「行きなさい」。叱られた気分になって渋々歯医者に足を向けた。
「こりゃ抜くしかないですな」。即座に死刑宣告だ。「先生、べつに痛みが収まりゃいいんですけど」「また痛くなります」。問答無用。完全降伏だ。彼の顔が舌を抜く閻魔大王に見えてきた。「わかりました。やりましょう。痛くないようにお願いします」。看護師さんの失笑を買い、刑はつつがなく執行された。
この話は、翌25日金曜日のディナーでいい酒のつまみになった。みんな同世代だ。「俺なんか5本インプラントだぜ」。こういうのは女性のほうが強かったりもする。「なによそんなの」。もうボコボコである。 吉祥寺の南欧料理の名店だ、奥歯が一本なくても意外に食える。ワインも旨い。やっぱ抜いてよかったんだ。
会社からは四ツ谷で中央線だった。 18時前だ。ギュウ詰めの快速を一本やり過ごす。次のは乗れたが身動きできぬ押しくら饅頭だ。そうそう、中高とこれに乗って通学が往復3時間。しかも野球部。「俺の人生何が偉いってこれに耐えたことさ。毎日が護摩行みたいなもんよ、もう何にも怖いもんなくなっちゃった」。
超満員のまま電車は吉祥寺に着いた。早めだ。東京にこんな人がいたのか。雑踏をかき分けて「猫でもわかるわよ」と言われた東急デパートを探すのにうろうろして15分。「左が北口、右が公園口?なんで南口じゃねえんだよ?わけわかんねえ」と電話すると「その辺の人に聞きなさい」だ、いい加減なやつだ、人後に落ちぬ方向音痴ってわかってるのに。
いい店だった。「南欧料理ってのがまたいいな」。そういや先日までセビリアのブログ書いてたし。奥方、ここ高校時代からお気に入りだったのよという。カネ持ちっていうかそれ不良じゃねえかなんてチャチャが入る。マスターが最近なくなって息子が継いでる。彼女の横に写真が置かれた。「ああこういう雰囲気の人だ、いい感じだねえお会いしたかったなあ、俺、南欧大好き人間なんだよ」。
「1学年上だね」「この歳になると明日生きてるかどうかも分からんよ」「終わったことなんて関係ねえな」「いまの1分1秒が楽しいかどうかだけだ」「でもいい時代に生まれたよな」「そう、なんでも俺らしかわかんない感性あるらしい。他の世代からは謎らしいぞ」「 一流国じゃなかったしモノなかったし脱脂粉乳出てたしな」「でも夢あったもんな」「だから何か残してやらなくちゃいけないな」
「そうそう、 お土産があるのよ」。マレーシアのポロシャツだ。キャプテンバティック。「いいね。俺自分で買わない色だ」「だからいいのよ、あのウグイスのパンツに合わせて」「そんなの持ってねえぞ」「持ってるの」そもそもウグイス見たことないしそんな色わからん。でもはいてるの見たって言うんだから持ってるらしい。
完全に酔っ払って帰り道は犬好きの女性陣、他人の高そうな犬をわあ珍しいなんて褒めてしばし飼い主と盛り上がってしまう。野良猫専門の僕は為すすべなしだ。旦那に向かって「君たちね、その腹はいかんよ、俺も人のこと言えんけどね、きゅうりダイエットで79キロが74まですぐ落ちたの。すごいよ、塩もマヨネーズもつけちゃだめだよ丸かじりで、騙されたと思ってやってみな」
帰りもまた中央線かと諦めてたら「井の頭線で渋谷に行っちゃいな」だった。「次は何だっけ」「やだね鬼怒川でしょ」でお別れ。「今度いい株くるからこれ買っとけよ」。「その次は不動産王のマレーシアかな」。「そろそろ野球ロスの季節だありがてえな」。電車は前に住んでた下北沢、そして青春時代の駒場東大前を通った。半世紀前か。世紀で数えられる。ジュラ紀みたいに。
帰ってみると、なんと広島カープが3対1で巨人を下していた。いい日だった。もう歯のことなんか忘れちまった。部屋で机に向かって、どんなに酔っぱらってもつける日記帳を開いた。あれれ?昨日が空欄だぞ。歯医者のドタバタで忘れてたんだ。でも抜いといてよかった、じゃなきゃ今日も痛くて食えなかったさ。ええと昨日は・・9月24日。あっ、母の誕生日じゃないか。
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西村 淳
9/28/2026 | 8:46 AM Permalink
台湾、クルマの中で。「老後はここに住もうかと思ってるんだ、食べ物は旨いし、気候もいい、それに親日だもんね」「で、医者はどうする?歯医者はヤバそう」「ギクッ!・・・・」これ以来、日本食と歯医者のことが頭から離れず、そうだ日本で生きて行こう!となりました。