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カテゴリー: ______歴史に思う

太閤秀吉の完全犯罪(私説・本能寺の変)

2019 APR 26 1:01:04 am by 東 賢太郎

10年ほど前に福岡に行ったおり、秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」の折に諸大名を集結した基地である名護屋城跡を見に佐賀へ行った。韓国で秀吉は蛇蝎の扱いであって、平城まで攻め込んできた日本軍に立ち向かった李 舜臣(イ・スンシン)将軍は救国の英雄である。彼を知らない韓国人はいないから、ということは秀吉を知らない人もいないということだ。朝鮮出兵といわれ、結果的にはそういうことになってしまったが、本来の目的は「唐(明国)入り」であった。経路とされた朝鮮には迷惑至極な話だったが、逆に日本が侵略されかかった元寇もあるのだから秀吉の頭の中ではあいこの話だったかもしれない。

その時に名護屋城跡で眼下に見た玄界灘の光景が記憶に焼きついていて、のちに安土城址から眺望した琵琶湖の姿にそれが重なった。「唐入り」は周知のようにもともと信長のプランであり、重用したルイス・フロイスらイエズス会宣教師から得た地球の地理・地勢、天文学、航海術、宗教、交易の利、近隣国の政治情勢などに関わる知識とビジョンを彼は持っていて、それを若者に学ばせようと安土城の麓にセミナリオ(学校)まで造らせている。彼は神仏にすがらぬ唯物論的思考の人で、思考が合えば人種も宗教も一気に飛び越えられる。西洋人的であり、今流ならグローバルである。一方のイエズス会としてそれは無償のサービスであるはずがない。日本はもとより、強大な武力を有する信長を焚き付けて大国・明を攻め落とさせ、中国大陸に布教を進めようという下心があったと思われる。

しかし秀吉はというと信長の唯物論はかけらもない。やがてイエズス会を異質なものとして警戒し全面的に追放してしまうのだから、国内に焚き付ける者はもういなくなった。そこに「唐入り」プランだけが頑迷に彼の頭に残ったのは思えば奇異だ。それも病がちになる最晩年である。聚楽第から指揮しようというのではなく自ら朝鮮に渡るとまで言い放って名護屋に陣を構えた執着ぶりは生命を賭したもので、部下となった諸大名の心を外敵との戦さに向けさせる必要があったとはいえ、そこに勝算があると信じこめた彼のポジティブ・シンキングはビジネス的視点からすると誠に凄まじい。ただでさえ常軌でない日々を生きた戦国武将の心を平和ボケした現代人の常識や正義感で読み解くことには抵抗感を覚えるが、このケースはそうと知っていてもなお、凄まじい。

を囲む諸大名の陣形はこうだ。まさしくこの時点での戦国武将オールスターであって、徳川家康はもとより信長の次男、織田信勝、かつて三法師であった孫の織田秀信の名も見える。ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。誰も来たくなかったし、まして荒海を渡って未知の土地で手の内の知れぬ異国人と斬りあいなどしたくなかったろう。全員が殿の乱心と見て取ったろうが、それが政権での仕事なのであり、権力には服従するしかない。秀長がなくなり、利休を切腹させ、鶴丸をなくし、母をなくし、秀頼が生まれ、そして後継含みの関白を譲ったはずの秀次を切腹させた秀吉がここにいた。老いのあがきや狂気と通解されるが、信長の残虐と同様に現代人の善悪観念では量り得ないものがあると思う。

後の関ケ原合戦での東軍、西軍の色分けを見ると、城周辺に東軍が多く、石田三成は離れて後方を固めているが、注目したいのは足利義昭の名がみえることだ。武力は期待できない征夷大将軍がなぜ陣を張ったのだろうか?

本能寺の変の真相、黒幕探しは諸説の百花繚乱だ。大体目を通したが、真犯人は秀吉という説が格段に面白い。文献資料がないため俗説扱いされるが、長年ビジネスの権謀術数でもまれた僕にはけっこうリアリティがある。ぜんぜん「あり」だ。なぜなら、秀吉は戦さもうまかったが、天下を取れたのは「調略」の達人だったからだ。「人たらし」という評判は、調略能力が上司に対して行使された場合のいち名称に過ぎないわけである。ビジネス界にもへたな調略だけで飯を食ってるしょうもない奴がいて僕は蛇蝎かゴキブリと思い成敗してきた。しかし達人の域のは手ごわい。逆に痛い目にあわされるし、誰が仕掛けているかわからない危うさがあって毛沢東が三国志を愛読したのはわかる気がする。そういう生々しい体験から本稿を書いており、もちろん僕も調略を試みたことがあるが、うまくいかなかったことを告白しておく。はっきりいって、へたくそである。そんなつまらん労力を使うなら集中力を高めて中央突破したほうがよっぽど早いし、痛快でもある。

調略は人知れず行うから調略なのであって、書面、書簡に残すような馬鹿はおらず、爾後に口を滑らすような相手は殺すか最初から輪に加えないのは常識である。秀吉がこんなこと言ってたぞと口が軽い奴、命令通りに動かない奴は一切信用せず、こういうお家の一大事には関わらせないのである。つまり「秀吉真犯人説は一級文献資料がない」という批判は、秀吉のクレバーさと完全犯罪を証明する言葉ではあっても、批判としてはまったくナンセンスである。むしろ資料がないからどれもが真相であり得るのであって、しかも誰でも推理ゲームに参加できる。若い頃は関心がわかなかったが、この年になってみて、この場面ではこう考えるだろう、こう動くだろうという読み方ができるようになって俄然面白くなった。そこへ岐阜に行って、関ヶ原古戦場のあちこちに立ってみて、戦国時代好きにまたまた火がついてしまった。歴史は本当に面白い。以下私見を書き連ねるが、まったく何の根拠もないからご笑納をお願いする域を出ない。ただ、ビジネス界の奥座敷では「あるある」だということだけは自信をもって申し上げられる。

明国に後陽成天皇を移す意図を持つ信長の専断は朝廷の度肝を抜いた。最後の抑止力であった武田氏が滅亡し止める者はなくなった1582年3月、天下の空気は一変し、朝廷による旧体制である室町幕府再興を旗印に反信長諸将がまとまる余地が垣間見えてきた。征夷大将軍・足利義昭にかわって信長を誅する大義をまっとうする武将は家格が問われ、それは毛利ではあり得たが力不足であった。しからば明智であろうという流れは光秀をくすぐるには自然である。その時点で義昭は毛利配下の鞆城に身を寄せており、室町幕府再興案が信長の排除になるなら高松攻めで追い込まれている毛利も、信長と敵対していた土佐の長宗我部(光秀の親類)も加勢することは目に見えている。その情勢を手に取るように読める位置にあったのが、中国攻めを拝命し高松城攻略を決行していた秀吉なのである。

この計画の最大のボトルネックは家督相続人である織田信忠だった。信州高遠で勝頼を深く追い詰め武田を皆殺しにした信長の長男だ。この戦いは織田家、武田家の跡取り息子同士による雌雄をかけた決戦という意味合いもあった。父の天下布武を固めるメルクマールとなった戦勝に武運を見て、信長後継の地位を固めたと諸将は理解した。信長を誅しても、信忠がとってかわる。従って、信長政権奪取という「調略」は信長・信忠を同時に葬ることが必須であったのである。その機を狙って練られたものであり、側近のみの知る父子の身辺情報とスケジューリングに関与できる者しかなし得ない。最重要の身辺情報とは、武田滅亡による信長の心の隙だ。護衛もなく富士を眺めに出かけて悦に入る。その隙が軍勢なく至近の二寺に二人が泊まるというあるまじき油断を呼ぶ。そうしたものは語られたり書かれたりはしない。空気で読むのであり、常に側近にあって最も信頼される部下しか機会はない。

秀吉が中国攻めのキーポイントである高松城攻略に信長の主力軍勢など3万を率いていた事実は、彼が信長の全幅の信頼を得ていたことを示す。高松城側の勢力は高々3000人でしかないが、そこで秀吉はなぜか信長に援軍要請をする。家康の接待役を務めていた明智光秀に急遽助太刀の命がくだり、さらには信長自身も加勢せんとして本能寺に逗留することになる。命にかかわらないビジネスでもここまで部下を信用したことがない。私心への疑念など微塵もない、驚くべき、最大級の信頼である。秀吉は情報操作でいくらでも信長を欺ける立場に昇りつめていたということがわからない人にはわからないだろうが、経験から申し上げる。こういう部下が一番危ないのである。3万の兵力でも苦戦して水攻めに切りかえた城に光秀と信長がさらに大軍で押し寄せて何ができよう?それを失態と責められず済ます自信があるから仕掛けられるのである。援軍要請は光秀に軍勢を与え、信長、信忠を安土城から丸腰でおびきだすための調略であり、帳尻合わせに高松城の難攻不落ぶりを誇張して流言させ、後世になって、奇想天外な戦法、彼一流の軍略であると尾ひれがついたのは流言がいかに多かったかを物語る。

事件は6月2日未明に起きたが、秀吉が「信長斃れる」の変報を聞いたのは3日夜から4日未明にかけてのことであった。太閤記は光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したとするが、この書は44年後に書かれた秀吉親派のよいしょ本である。密使は毛利でなく、秀吉に送ったものである。秀吉は5日に「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れている」と大嘘の返書を「ただ今京都より下った者の確かな話」と更なる大嘘で塗り固めて摂津茨木城主・中川清秀に送っている。信長生存の煙幕は光秀をも疑心暗鬼にした。遺骸を見ていないのに光秀は「信長斃れる」と書けただろうか?仮に共謀がなかったとして、秀吉はそれを鵜呑みにしただろうか?では秀吉はどこで父子の死の確報を得たのだろうか?真実を知らぬ者に嘘はつけないのである。

明智光秀にいつどこで囁いたか知る由はない。胡散臭いが口八丁手八丁の手練れ坊主である安国寺恵瓊なら間者をできただろう。こういう手合いもビジネスではよく遭遇するが注意しなくてはいけない。「信長主力軍は我がもとにあり上様は本能寺、殿様は至近の妙覚寺にてどちらも茶会で丸腰である。かくなる好機がまたとあろうか。我が軍も高松より急行して貴殿に合流し御沙汰に従う」と焚き付け、呼応して意を決した光秀は万感の思いで「ときは今・・」を詠む。「ときは今」であったのは秀吉であり、配下の少数精鋭の兵で光秀に先立って深夜に本能寺に忍び込んでやすやすと無防備の信長、信忠を討ち、首級を京都の外に持ち去った。目的は達したがそこで終われば下手人はやがて発覚する。だから光秀に罪をきせる。騒然とする本能寺に討ち入った光秀は遺骸を探したが見つからず、火を放って事態を収める。討ち入った以上は勝どきを上げるしかない。光秀がダミーであることを知るのは秀吉だけであり、本人が勝どきを上げるわけであるから、秀吉は堂々と虚報、大嘘を流布して光秀を主犯に祭り上げることができた。

この手は1963年11月にケネディ大統領暗殺でオズワルドの単独犯行としておいて2日後にダラス警察署で彼を撃ち殺した主犯の手口と同じだ。どちらもダミーを殺した人間が主犯なのであり、どちらも首尾よくつかまっていない。そして秀吉が口実とした足利義昭による室町幕府再興は闇に葬られることになるが、「家格が大事」は光秀用のセールストークであって、天皇、公家からすれば信長の脅威を除いてさえくれればそんなことはどうでもよい。家柄が賤しい。だからこそ、それを逆手にとって光秀に「拙者でなく貴殿だ」をすんなり信じこませることができたのであり、秀吉は政権を確立すると徹底した親朝廷政策をとり、朝廷の官職にある足利義昭を奉じて自らは関白就任に成功する。それで朝廷の面目も立って恩が売れるという見事な計算であり、だから、実体は狂気である「唐入り」の国家による箔付けとして名護屋城に義昭の陣が張られたのである。

清須会議、賤ケ岳合戦、小牧・長久手の戦いは朝廷の関与がない武家の覇権争いであり、信長政権乗っ取りを計った光秀を討っただけでは正当性に欠ける。光秀が第1次なら秀吉は第2次の乗っ取り者であるにすぎず、武家の棟梁になっただけで朝廷を震え上がらせた信長の威信は自分にはないことを彼は知っていた。彼は頂点には向いてないNo2の男なのであり、調略能力は仕掛ける相手がないと持ち腐れなのだ。だから朝廷の威を借りつつ総大将として諸将を従え命令する「唐入り」という大イベントに賭けた。この戦さで大将に立てる者(立ちたい者)は自分しかいない。それは信長様もできなかった地位だ。明、朝鮮の知行地と戦利品を恩賞として与えれば部下はついてくると踏んだのである。これがポジティブ・シンキングの悲しい実相だ。それは数々の「あり得ない」で出来ている。そんなものを生煮えのまま常人に語って聞かせたところで馬の耳に念仏にもならない。まず自分を奮い立たせ、できると自らに信じ込ませ、酒で恐怖を追い払い、鬼気迫るオーラが漂ってきたら部下はついてくる。ビジネスはそういうものだ。調略の天才・秀吉を僕はあらゆる意味で尊敬するし、その彼ですら苦労した経営のもろもろはほろ苦いと思う。

さて最後になる。秀吉の「唐入り」が気になっているのは、もしそれがなかったならば僕はこの世にいないからだ。

おふくろの方のばあちゃんの旧姓は「眞崎(まさき)」である。二・二六事件の眞崎甚三郎陸軍大将の眞崎だ。常陸(茨城)の清和源氏、佐竹氏の分流だが、ばあちゃんは長崎(諫早)の人だ。なぜかというと眞崎氏は上掲陣形図にある佐竹義宣と共に「唐入り」で名護屋へ出陣し、秀吉の没後は鍋島藩によって諫早藩の監査のために当地にある城(眞崎城)に残った。つまりそれ、それを契機に420年前に九州人になったからだ。だから、もし唐入りがなければ、ばあちゃんは長崎港から上海に向かう三井物産社員のじいちゃんに出会うことはなく、つまり僕はこの世にいなかった。いっぽう、じいちゃんは武田が信州高遠で生き残った末裔。にっくき敵方総大将が話題の織田信忠であったのだから、秀吉と光秀が京都・二条城で敵(かたき)をとってくれたことに感謝しなくてはいけない。それで信長ファンというのも実に変だが、東京人なのにカープファンだというのとちょっと似ている。

 

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

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道三と信長の破天荒を見たり

2019 APR 21 1:01:55 am by 東 賢太郎

県庁でとあるプレゼンテーションがあって、岐阜市に一泊した。ここに前から関心があったのは信長の城があるからで、安土山は登ったが金華山はまだだったからである。その程度でファンを語るのはおこがましいが、彼が企てていた(と思われる)プランは実に破天荒である。魅力的以外の何物でもない。日本の支配者にこんな男がいたためしはなく、まずもう出ない。秀吉は人たらしの天才だが、たらす相手がいなくなるとだめなNo2男だった。家康は相手が官僚タイプの光成だったから勝てたが、信長が生きていたらどこかで殺されたろうと僕は思う。

金華山の頂から信長が見た城下の眺望はこんなだ。周の文王の気分になったとしてそう不思議ではない。岐阜とはいい名だ。

この写真は実は前回訪問で撮ったもので、今回は城に登ったわけではなく、老舗の十八楼に宿をとってふもとの鏡岩水源地や護国神社あたりを歩いた。そして、常に信長に見張られているかのように、山のてっぺんに城を認めた。

東京から来ると、この感じは得も言えぬ奇妙なものだ。

思った。あそこに家を建てる奴はいないだろう。この感覚は、北京の北方で万里の長城を歩きながら懐いたものにまぎれもなく近い。

先人の道三もそうだったことになるが、破天荒ここに見たりだ。家臣や人夫の気など知ったことではない、防御と威嚇のためのラショナールを瞬時に貫通する電光のごとき発想。天下を取るとはそういうことなんだろうか。ふたりが息子や家来に襲撃されたのも世の中はちゃんとお釣りがくるようにできていたのかもしれないが、いつしかわが身も平穏になってしまったなとふと考えた。

 

安土城跡の強力な気にあたる

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高度成長期はカンブリア紀であった

2019 JAN 20 0:00:07 am by 東 賢太郎

最近のヒザ痛は精神的にもよくないですね、何はなくとも足腰だけは自信あったですから。今日はニューオータニのゴールデンスパに入会し、ジムでトレーナーの小山さんについて鍛えなおそうと奮起いたしました。

体幹のストレッチをやっていて、何か運動されてました?と聞かれ野球と答えましたが、いかんいかんと思ったのです。そんなのいつの話だよ?そうね、それ、今はショーワって呼ぶんだよね。意味ないんですね、だって平成すら終わろうとしてるのに・・・。子供のころ、おばあちゃんってメージ生まれなんだねと言いながら江戸時代みたいに遠い気がしてた、あの立場になっちゃったんですね。

去年は経営上の大きな危機がありました。そのときはそう思ってなかったけど、いまになって振り返るとそうだ。それは外的な変化によるもので、未曽有のストレス要因でもありました。おかげで心身とも弱りましたが、なんとかそれを乗り越えつつあるいま、逆に会社としては一皮むけて強くなった実感があるから不思議ですね。

このことは、地球の歴史と生物進化の関係を独創的な視点で説いた東工大 丸山 茂徳特命教授の主張を思い出させます。

非常に刺激的な仮説である

教授の著書「地球史を読み解く」によると地球には原生代に銀河系の星雲衝突によるスターバースト放射線によって雲に覆われ、太陽光線が遮断されて赤道まで完全に凍りつくという「全球凍結」が2回(22-24億年前と5.5-7.7億年前)おこりました。その極寒環境で既存の生物は絶滅し、火山帯の熱で生き残った生命が突然変異を伴って次世代に繁殖したのですが、この環境変化において細胞は別生物だったミトコンドリアを取り込み、後に哺乳類と腸内細菌がしているような「共生関係」になるという新しい適応方法も生まれて新しい生物が生存したそうです。

そのように、生命というものが外的環境の変化、特に危機的な激変によってダイナミック(動的)に急速に変化するということ、それも、その変化が後世に生き残るという鍵であるという点は歴史(結果論的視点)からは「いつも正しい」わけです。変化して死んだのもいるでしょうが、変化しなかったのは確実に絶滅したわけですから、「適応力のあること」こそが進化、成長、繁栄への一里塚(必要条件)であることは間違いないと思います。この「外的環境の、しかもとりわけシビアで危機的な変化こそが生物を強くして進化させる」というテーゼがどういうメカニズムで発生するのかは丸山教授の本でも他の書籍でもわかりませんでした。

しかし、そうではあっても、ということは、重要な結論を導くのです。結果論的視点ではない「現在(now)」においてAかBかを選択しなくてはいけない場合、「適応力のないほうは捨てろ」という結論です。どんなにいま現在、盤石で強く、永続的、魅力的に見えようとです。人、会社、大学、役所、国、経営戦略、すべてにおいてと考えたほうがよい。僕は若者に「若いときの苦労は買ってでもしろ」「選択肢があれば嫌な方を選べ」と教えるのはそのためです。適応力はそうやって訓練できるからです。国だってそうだ。三方敵であるスイスに住んでその強さを知ったし、日本国の歴史だって中国、韓半島の情勢変化に揺動されておきた事件がたくさんある。両国とも事態に適応する力で征服されずに生き延びた歴史をもっています。

しかしもっと身近な例で、皆さんが学校、就職先、恋人、結婚相手、社員を選ぶとき、投資する株、人事評価、経営者にとって経営戦略を策定するとき、もっというなら皆さんは毎日何らかの小さな選択をしていますが、そこでもです。人生はその積み重ねだからこのテーゼを常に頭の片隅に置いた方が良いと僕は思っています。

第一世代のルンバ

企業に当てはめてみましょう。企業というのは生物と似ていて、ダイナミックな外的環境変化に適応し変化していかないと死を迎えます。倒産するか吸収合併されるということです。後者の場合、社名やブランド名は残ってもそれは外部に見せるだけの抜け殻で、内臓は捕食者に食い尽くされています。日本のお家芸だった半導体や家電産業は好例でしょう。気づかぬうちにスターバースト放射線が放射され、全球凍結があったのです。その極寒の環境のなかで、死滅したと思われた英国の家電業界からサイクロン式掃除機のダイソン社が、アメリカからは「ルンバ」のiRobot社が出現しました。日本の家電メーカーが思いもよらぬ新生物の登場です。僕はルンバを初めて見たとき、カンブリア紀に我が世を謳歌した古生物さながらに見えました。しかし、仮に100年後にルンバやサイクロンしか残らなかったとするならば、後世人類の目には、我々の使ってきた日立や東芝の「電気掃除機」が奇態なカンブリア紀の生物に写るでしょう。

ルンバはロボット、AIという進化した脳が掃除機という旧世代生物に寄生してできた新生物です。これが「細胞は別生物だったミトコンドリアを取り込み、哺乳類は腸内細菌と共生関係になる」という適応です。我々の脳と腸はもともと別生物だったそうで、企業でいうとM&Aで合併した会社として適応・進化して地球の支配者になったということです。このことは、「既得権益を守ってぬるま湯に安住」し「武士は食わねど高楊枝」を決め込み、「人材の多様化を図らず純血主義に固執」する企業は、やがて全滅すると考えるに足る理由です。僕がそう思うからではなく、結果論として、生物進化と企業盛衰は似た現象であり、メカニズムはどちらもわからないが、結果論的視点に拘泥するのは科学的姿勢でないと批判するよりもそれを信じてしまって行動したほうが、学者ではない僕たちには実利的な生き方ではないか、ということです。

僕ら昭和世代は高度成長期の誇りをもって生きてきましたが、世界の産業界のダイナミックな変化と新生物のたびかさなる出現を見るにつけ、あの繁栄はカンブリア大爆発の類だったのかもしれないと思うのです。

アノマロカリス、ハルキゲニア、オパビニア・・・

まずいまずい、これって意外に俺なのかもしれない・・・・

始祖ではあるけれど、自分は生き残らないんだろうな・・・・

昭和の成功体験にすがればすがるほど、企業も国もつぶれるでしょう。そう確信してます。僕はサラリーマン時代の(昭和の)成功体験は全部捨てました。それがソナーの真骨頂で、そう考えると去年の苦労もストレスも我が社を適応させて生存能力を高めたのかなと手前味噌に考えております。

 

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ルサンチマンの壁

2018 SEP 23 21:21:36 pm by 東 賢太郎

東北出身の先輩であるKさんの口から「ルサンチマン」と「美学」という言葉が出てなんだか懐かしくなりました。先週はご来社いただいて結局7時間も話しこんだのですが、還暦を超えてからは「自分が何者か」の総括にかかっているので、こういうタイミングでKさんとお会いできたのは天啓でしょう。

「何者か」は無論のこと先天的、後天的の両面で決まりますが、後者はどこで何を学んだかで基礎がほぼ決まると思います。僕は独学型ゆえプレッシャーがないとマイペースで、だから本気で勉強したのは大学受験とMBAしかありません。ただそのどちらも「筋トレ」であって、そこでつけた筋肉にのちに学んだものが血液になって流れてビジネスで使えているイメージです。

「ルサンチマン」や「美学」は受験が終わって哲学やら科学史やら英文学やら、当時はどうでもよかった授業や教材などでふれた言葉です。Kさんは「東北になぜ製造業がないか?」という僕の長年の疑問を「戊辰戦争以来の統治が官界でまだ続いている」という一言で氷解してくれました。それは東北のルサンチマンとなり、東北人の美学にもなったそうです。

こういう観察や理解は何十冊の書物にも勝ります。人間は経験してないことはわからない(わかるはずがない)という経験論者ですので、識者の経験に学んで自分の足りない部分を補うことが僕にはどうしても必要です。Kさんは官界、政界で豊富なキャリアを積まれた経験から独自の視点をお持ちでありますが、同じ空気を吸って育ったベースをお持ちなため双方の理解が速く、これから顧問としてご指導をお願いすることに即決しました。東北人ではありませんが僕は北陸人で、美学も似たところがあります。

逆にそれほどの智者でも運用やファイナンスについてはかなりのブリーフィングが必要と思われます。明治政府による蘭学以来の独仏文化移入のベースに第2次大戦が称揚した鬼畜米英精神が搭載された「英語文化排斥」が日本のエスタブリッシュメントの精神構造に残滓としてある、いわば東北と同様の現象で仕方ありません。昭和の言論界、クラシック音楽界もそうだったようにインテリは戦後も引き続き英米を嫌い、文化は軽視してきました。まさにルサンチマンが存在したものです。

英語教育が遅れ、英語で書かれたIT文化は韓国にも後れをとりました。投資助言・代理業の登録をした際に東京法務局営業保証金500万円を供託しますが、2010年当時は振込不可で現金でした。札束を運んでいくと薄暗い窓口でおばちゃんが紙幣計数機でシャカシャカと万札を数えて受領証をくれる、あれは僕が野村證券に入った1979年と何も変わらん昭和の牧歌的原風景で驚きましたが、少なくとも8年前まで役所のITリテラシーはそんなものだったのです。ルサンチマンによる「英語世界蔑視」で国家の頭の方が大きく後れを取ってしまった。

同じことが運用やファイナンスのリテラシーにも起きているといえば分かり易いでしょう。なぜならそれは英語世界由来だから『ルサンチマンの壁』に阻止されてきました。まず教師がいない、だから大学で教えない、だから学問ではない、というルサンチマンの自己満足のループに陥り、みんなで無視して終わり。結果として運用・ファイナンスが国是のごとき米国に母国の金融界を牛耳られたのは識者はもちろん知っているが、自分が知らない世界ゆえダチョウ症候群で終り。いまやそれを米国並みに国是にした中国にもいずれやられるリスクがあります。

僕は米国ウォートン・スクールで最先端の投資理論を2年勉強し、すぐ英国に赴任を命じられて東インド会社以来の投資のメッカであるロンドンの「シティ」で6年間それを実践応用したという人間ですから、資産運用・ファイナンスにおいて保守本流の「英語世界人」であります。その分、日本語世界人としては欠けたものがあるでしょうが、そこにとても強いKさんと組むと何か面白いことができる気がしております。

 

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理系の増員なくして日本は滅ぶ

2017 MAY 23 18:18:33 pm by 東 賢太郎

大航海時代まで世界の覇権はスペインにありました。海を支配し、新大陸を含む植民地、銀の産出という当時として絶対の利権を握り神聖ローマ帝国のハプスブルク家と姻戚を結んだというのは宗教的にも世俗的にも並ぶ者のない権力を持った、陸海を制しまさに日が沈むことがなかったということで、今の米国よりずっと優位だったのです。

これを島国の英国がひっくり返した。一気の戦争によるKO勝ちではないが、市民革命の時代までには判定ポイントで優勢となり産業革命に至って恒久的勝利が確定した。野球なら5回までに10点取られてノーヒットだったチームが勝ってしまった感じでしょう。世界史で空前の大逆転といえば僕はこれを挙げます。

スペインの敗因は複数ありますが、膨大な利権に甘んじてフロンティア、辺境で競り負けアメリカを取られたのが逆転満塁ホームランになったという見立ては衆目の一致する所。当時のフロンティア開拓はイコール海軍力であり、もともと海賊の英国は生命線としてその得意技に徹したのに対し、スペインは陸地の経営でも楽に食えてしまった。これがまずかったと思うのです。

つまり持てる者である大株主、地主となった。配当、家賃というキャッシュフローは安泰だから「攻め」の必要なし。防御型の人生観が支配的になります。かたや持たざる者はフロンティアで攻撃型にならなくては生きられません。そのどちらが強いか。自然界でいうなら無限に生える草(=キャッシュフロー)を消化できる草食獣は多産で個体数が確保できる限り牙も爪も必要なく、攻撃力は進化してません。三百年ほどで徐々に防御型となり草食化したスペインを、航海で牙と爪を研いだ攻撃型肉食獣の英国が食った、僕にはそういう光景と映ります。

現代において国力のフロンティアと目されているのはIT、AIの技術力です。軍事、情報、金融、生活関連産業すべての興隆がこれからそれに大きく依存するからです。70余年前、我が国は石油供給を止められて開戦に至りましたが、今や石油がないどころか国民が餓死していてもIT技術を磨いて核ミサイルを持てば攻撃はされない時代になったことがその証拠です。

IT技術のフロンティアで我が国がどこにいるか。これが不安です。日本は欧米が基礎研究した技術を民生用に汎用化するアプリケーションテクノロジーで筆頭の勝ち組でした。高度経済成長による国力興隆の背景はそれであり、その仕上げがいよいよIT技術に及んでIBM-日立事件が起きた80年代はそのピークだった。

80年代はバブル時代だとネガテイブに語る人もいるが、自虐史観の洗脳ここに至れりであって、日本人が我が世の春を謳歌し欧米を震え上がらせて何が悪いのだろうか。あれは敗戦で焦土と化し地にまみれた屈辱からフロンティアを攻めまくって勝ち取った大戦果なのです。

ところが今やそのIBMすら影は薄く、投資の神であるウォーレン・バフェットが「唯一の失敗はIBMを買ってアマゾンを買わなかったことだ」と認めるほどITの時代も急転回しています。我が世の春だった日本がITのアプリケーションにおいて "スペインの轍" をふみ、フロンティアを中国、台湾、韓国に猛攻撃されて主要な要塞はすでに陥落してしまったと感じるのは僕だけではないでしょう。

日経の記事によると米国シリコンバレーには三百万の住民がいますがうち40%が外国人で、インド、中国、韓国に比べ4万4千人の邦人は存在感が低い。世界のIT基本ソフト、ブラウザー、クラウドで二大巨頭であるマイクロソフトとグーグルのCEOはどちらも40才台のインド人であり、ペンタゴンが恐れるハッカー集団は中国人です。

フランスのマクロン新大統領は「経済成長と起業は不可分」とし、創業期の負担を減らす政策を強調しています。16年までの20年間、米国の成長が年平均2%に対しフランスは1%であるのは、起業家の成人人口に対する割合(TEA)が米国の12%に対しフランスは5%であることが原因であると危惧している、それは皆さんもう忘れたでしょうが、あのピケティという学者の講義を思い起こせば納得のいくことです。そして、これもご想像に難くないでしょうが、わが日本国も同じく5%であり、中国、韓国の半分以下であるのです。

(出所:野村総合研究所、平成28年3月)

日本人の特性として元来そうかどうかは議論がありますが、少なくとも徳川時代以降は「農耕民的防御型」で「キャッシュフロー安泰志向型」が国民の多数を占め、「フロンティア攻撃型」は少数派といえるでしょう。防御型=地主型=草食系がフロンティア攻撃型=肉食系に食われるのはすでに見た通り歴史に実例は枚挙がなく、かつて高度成長の牽引車であったエレクトロニクス産業が韓国、台湾に食い荒らされれている真因はここにある、すなわち防御型優勢でなくフロンティ攻撃型の起業家を増やさなくては国力に関わると考えるのはマクロン大統領だけではありません。

城の本丸が落ちようとしている危機に頼るよすがは優秀な頭脳と教育であり、大学こそが防御型に生まれついた人材を導いて世界のフロンティア攻撃型人材との戦い方を教えねばなりません。その人個人のためでもあるが、優秀な一握りの個人は国の助けなどいらず日本の大学を捨てて米国へ出ていく(頭脳流出)道がある。米国どころかヘタすると数年でシンガポール大学、香港大学、北京大学のほうが東大より起業に有利という時代になるのは、そこに関わる金融、証券の実務をしていると肌で感じることです。

だからこれは何より日本国の経済成長と雇用の継続のための問題であります。我が国の学校における起業家教育は世界最低レベルという事実があるからです。日本という「農耕民的防御型」で「キャッシュフロー安泰志向型」の土壌にはそういう教育概念すら存在せず、教えられる教師は実業界にしかいないという事情が背景にあります。

(同上)

はっきり言うが、日本の大学の経済学部は草食獣の学生に100年前の教科書を教えることが唯一の仕事である草食獣の先生の職場である。ここからは100年たってもノーベル経済学賞受賞者は出ないことは賭けてもいいでしょう。そんなものはもうフロンティアではなく、学問であれ実業であれそこでの戦争には無用だからです。もしそれを学んで卒業した学生が世の中で成功したとしたら、それはその人がもともと優秀だったというまぎれもない証左としては高い価値があるだろう。

本丸が落ちたS社とT社において、研究員、技術者、職工が無能であったと考える日本人は少ないはずです。だからこそ台湾のH社はSを買ったし、Tの半導体事業に海外からビッドが入るわけです。失敗の本質は100年前の教科書しか知らない先生に学び、高度成長期の国家的浮力に助けられた成功体験のみで育った、肉食獣の本能と生態系を良く知らない草食系経営陣(その多くは経済学部など文系)のまいた種によるのは衆目の合致するところです。

そしてそれを見た新聞の社説に「外資の傘下に入るのは決して悪いことではない」などと、これまた100年前の教科書の草食獣である論説委員が書く。ばかとしか思えない。マイクロソフトとグーグルのCEOはインド人でもガバナンスは米国にある。本社が日本にあって日本人が雇用されれば経営者は台湾人でもいいというのは奴隷国家の考え方だ。経済学部の先生は彼らにガバナンスと株式支配の意味を教えていないのだろう。

安倍内閣は大学まで授業料無償化というが、まったくの無駄です。高等教育は国家戦略であり、幼稚園の「みんな仲良く」の世界など存在しないのです。自身がそれが何の役に立っているか自覚できない(早い話がどうでもいい)文系学科卒である政治家の発想だろう。100%の子が大卒になれるならそんな教育はそもそも大学教育ではないから中学までで履修できるはずなのです。言ってることが自己矛盾だ。そんな金を使うなら東大、京大、国立理系大学(東工大、電通大)等の収容人員と実験等教育予算を倍増したほうがよほどいい。優秀な才能に国家の計で教育をする。留学生の頭脳も集める。シリコンバレーもすべてのIT産業も牽引車は最先端理系教育を受けた技術者なのであり、100年前の経済理論や帳簿の管理術やお金集めやセールスマンなど国家が教育しなくても商人道だから誰でもできるし、そこを台湾に譲っても日本は失うものはなしです。

文系はいらんという御仁もいますし僕も結果的にはそれに近くなります。近年の中国共産党中央政治局常務委員の指導者の学歴を調べると習近平(清華大学化学工程学部)、胡錦濤(清華大学水利エンジニア学部)、温家宝(中国地質大学)、朱鎔基(清華大学電機製造学科)、江沢民(上海交通大学電気機械学部)、賈慶林(河北工学院電力学部)、李長春(ハルビン工業大学電機学部)、曽慶紅(北京工業学院自動制御系)、羅幹(北京鉄鋼工業学院圧力加工学部)、周永康(北京石油学院)、賀国強(北京化学工業学院無機化学工業学部)、呉邦国(清華大学無線電子学科真空トランジスタ学部)と驚くべき理系王国であり、文系は北京大学法学部卒の李克強ぐらいです。

問題はこの中国共産党がどういう思考回路を持っているかということです。我が国の政治家の平均的プロフィールとは良くも悪くもかけ離れていることは間違いなく、どちらがいいということではないものの、文系頭では想像もつかない戦略を練ってくる不気味さを感じるのです。彼らはもちろん孫氏の兵法、三国志に通暁しており自己の生存のためには恩人も殺す曹操のようなことを平気でやるだろう。そのトップにある連中がサイエンス、エンジニアリングを自分で理解して国家戦略を練ってくる。数学・物理音痴の文系が理系を従える日本の行政と産業の支配構造は、楽譜も読めない指揮者が振っているオーケストラみたいなものです。中国共産党幹部は若い才能の発掘と教育に国運をかけるだろう。フロンティアでの攻撃型競争が才能を開花させることを当然の如く知っているだろう。

我が国が明治時代なみの理系文系なる無意味な区分のまま大学教育を改革せず、だから学生の知能指数で30位ということはまずない東大が大学世界ランキングで35位にしかなれない現実に目をつぶり、実社会で何の役にも立たないから留学生が来ない100年前の学問を先生の権威のために温存していけば、50年後には科学技術はもちろんITの関わるすべての産業でアメリカと対等のパートナーとなる中国に確実にぼこぼこにされるだろう。それしか優位性のない我が国は、したがって実質的に滅びるのです。新聞の論説委員おすすめの奴隷国家になるのです。そんなはずはない、モノづくり、匠の技は凌駕などできない。そう思う方はスペインと英国の覇権の歴史をもう一度勉強されるといいと思います。

そうならないための絶対の妙案はありませんし、もう遅いかもしれないと半分は思っていますが、私案として、全大学の学部を是々非々で要不要を検討し、予算総額は限りがあるので国家の百年の大計に添ったお金と教師と生徒数の再配分を決めるというのが最も合理的でしょう。この趣旨を説けば、高額所得者増税には反対の超富裕層は名誉と引き換えに大学に多額の寄付をしてくれるだろう。文科省天下りがいかんというのも一概にそうはせず、大学教員は派閥や各界余剰経営者の受け皿というサプライサイドの考えをまず一掃し、国に必要な学生を育てる能力があれば天下りでも外人でも何でもよしというディマンドサイドのポリシーから合目的的に改革をすればいいと思料いたします。

 

(ご参考)

脳内アルゴリズムを盗め

小保方氏に見るリケジョとAO入試

クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

 

 

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高輪泉岳寺にて思う

2017 MAY 4 1:01:00 am by 東 賢太郎

豊洲でファツィオリを弾かせていただいた帰りに高輪の泉岳寺に立ち寄りました。先日、両国で吉良上野介邸に偶然行き当たったものですから、こっちも行っておかないとどこかバランスが悪いと感じていたのです。

ロンドン時代、同僚が会議で高輪に来るたびに浪士の墓に手を合わせに寄っていて不思議に思ってました。この日も参拝者はそこそこでしたが白人が多く、説明ビデオも英語版が終わるまで待たされました。外人といってもランチをした銀座が中国語で溢れるのとは雰囲気が違う。

私刑は目には目をのイスラム法でも認めませんから赤穂事件はどこの国でもれっきとした殺人罪であり、これを西洋人が正義と見るのかハーバードのマンデル先生にでも聞いてみたいものです。両藩の大名が死んで喧嘩両成敗で収まり良し。日本人は事件当時から正義派が多く、今でもそうでしょう。

感覚では正義なのに、私刑は幕府の法では不義。死者の数で1対47?こりゃないぜ、赤穂がかわいそうだというのが多くの人の思いかと思います。武士の名誉で切腹を許し情状酌量はするが巷の正義より公儀が上位であることを周知させる。心は同情しましたが徳川幕府の裁断は権力者としては是です。

4代将軍家綱の後継に公家を推す動きがあったほど将軍職は文官化しており、赤穂事件は武士の精神を称揚して見せる好機でもあった。5代綱吉は犬公方とされますが畜生の殺生禁止は結果的には太平の世を生んだし、側用人なる官房長官職を作ってすえた柳沢吉保がしたたかだったということでしょうか。

内匠頭は刃傷沙汰で何がおきるか知っていたのにやってしまい、討ち損じた。動機は不明。殺人の故意を自供しているから乱心とは思い難い状況がありながら即日切腹、開城、御取り潰し、親族にも係累が及ぶ。常識論としてはかなり軽率な殿であり、殿の失策を動機は知らずに家来が果たしたのを仇討ちと言うんだろうかという疑問は昔から挙げられています。仇討ちというのは当時は親族間のもので、殿のご無念を晴らすというのはこれが初の事例だったそうです。

吉良は抜刀しておらず内匠頭の一方的な攻撃(乱心)と主張し、理由の是非を明らかにせず武家諸法度による喧嘩両成敗とせず一方のみに死刑を命じて殺したのは幕府である。だから藩士が恨んだのが幕府なら道理であり、報復は力関係から無理なので赤穂城で抗議の切腹をすればこの事件はわかりやすかったのです。藩を挙げて殺したいほどの恨みが吉良にあったということに事後的にはなってしまっているわけで、それなら討ち損じなどあり得ない。自爆テロなのだから場所などわきまえず確実に殺せる瞬間を狙うべきだった。

現に家来たちは討入りで見事にそれをやり、一人の死者も出さずにスナイパーぶりを発揮したわけで、その殿にして何故?やはり乱心であろう、であれば喧嘩両成敗の理は立たず吉良は無罪だということになり浪士たちはテロリストになってしまう。どっちにころんでもおかしい。そこで彼が暗愚でないならば病気か?そういう説もありますが病気なら適切にケアしなかった大石の過失になってしまう。それも心情として困るので、後世は吉良の悪徳を並べ立てたのだろうかとも思うのです。

赤穂藩とともに接待役だった伊予藩も石高はそうかわらないが吉良に差し出した謝礼は浅野1両に対し100両だった。吉良は石高は少なく朝廷のコネで綱吉に重用されていることは周知でありました。鼻薬をけちられていじめれば朝廷の使者に無礼が生じてわが身に責任がふりかかるからそれはないという説もあるが、刃傷沙汰になっても無罪だった証拠があるのだからこの説は承服しがたい。狸おやじなのだから自らに火の粉がふりかからぬよう周到ないじめをした挙句、公然と無能扱いする手など百もあったろう。それに逆切れしたなら政治家としては無能ということになりましょう。

最大の失態は公家儀式を重んじ母の従一位に執心した綱吉が朝廷使者の面前で起きた不始末に激怒して「喧嘩か乱心か」の尋問を十分行わなかったことで、つまり武家諸法度という法律が厳格に適用されずに刑が執行されて「理が通らぬ」という不満が赤穂藩士はもちろん巷にも流布したことです。それが仇討ちか報復かという小さな理などふっ飛ばして、吉良暗殺という私刑やむなしの渦をつくってしまった。生類憐みの令(そんな法律はないが)なる135のお触れで殺生を禁じ太平の元禄を生んだ綱吉は賢いという評価もあるが、本件のお裁きはそうは見えない。

義士の遺品展示館に木刀があり「人を殺せば死ななくてはなりません」と彫られています。だから俺が持つのは人を斬れない木刀なのだという狂歌なのですが、「お犬様を斬っても死罪の世なのに」という暗黙の前提がこめられていて、この言葉はわが身の安全を装いながら吉良に向けられていたのだと感じました。わが殿を殺したあなたも死ぬんですよと。しかし、上述のように「理」がない。いやいや、そんなことはない、お裁きをした綱吉公がそれを下さっているではないかと、将軍まで批判している。私見ですが、そう読めてしまうのです。

英国人の同僚が何に感動してくれていたかは聞きそびれましたが、武士と騎士は共通点があるのかもしれません。いや「だから三権分立が必要なんだ。ジョン・ロックを見習うべきだった」と言ったかな(でもそれは無理だ、ロックが死んだのはちょうどこの事件のころだ)。さすがに特攻隊を称賛するわけにもいかないからこっちに来てるのか。この話を知って四十七士の墓前に参れば、日本人の見方がきっと変わるでしょう。たくさんの外人ツーリストの前で、どこか誇らしい気持ちになったことは事実です。

この精神を王政復古で天皇にむけさせたのが明治政府による日本国という概念で、そういうものはそれまではなかった。司馬遼太郎は「坂の上の雲」までが良き国であった史観ですが、明治からすでに国民は身分を問わず陛下の義士であることを強要されて対外戦争へと突き進んだのだから日露戦争の前も後もない。徳川時代が悪かったわけでも後進国だったわけでもない、僕はそう思います。

四十七士の墓前に線香をたむけながら、この事件はよくわからない、どこか釈然としないという思いと、日本が近隣国とは決定的に違う民族であることを赤穂事件によってもっと示すべきだという思いが交差します。吉良邸でも泉岳寺でも、手を合わせようというときにやおら雨がぱらつき始め、去るとあがりました。

(PS)

義士はこの隊列で吉良の首を両国から3時間ほど(約10キロ)を歩いて泉岳寺に運び、首を井戸で洗い内匠頭の墓前に据えて本懐を遂げた報告をした。クリックで拡大します。

僕はスナイパーしか使わない

 

 

 

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モーツァルト、俳優座、忠臣蔵の芳醇な一日

2017 APR 23 3:03:21 am by 東 賢太郎

きのうは午前9時からライヴ・イマジン祝祭管弦楽団の本番会場での練習(豊洲シビックセンターホール)、皆さまと昼食、そして2時から劇団俳優座の観劇(両国、シアターX)でした。オケは息子、劇は長女を連れて行きましたが楽しんだようです。

ライヴ・イマジンは5月7日のここでのコンサートに向けて練習は順調とお見受けしました。とても楽しみです。このホールは音が良く、300ある座席の最後部まで確かめましたが良好でムラがありません。奏者の皆さんから「届いてないのでは」という声がありましたが、充分届いてます。

このピアノ(ファツィオーリ)は日本に数台しかなく、僕もチッコリーニのリサイタル以来実音を聴くのは2度目ですが素晴らしいものでした。吉田さんのピアノ協奏曲第25番(K.503)はオケにブレンドしてまろやかなホールトーンに包まれ、誠にモーツァルトにふさわしい。ご自作のカデンツァも趣味が良く聞きものです。ジュピターとハイドン98番も指揮の田崎先生のボウイングが徹底し整ってきました。本番当日は開演前に僕が15分ほどお話をさせていただくことになっております。ハイドンがジュピターのどこをどう引用したかファツィオーリをお借りしてお耳に入れようと思います。5月7日は多くの皆さまとお会いできれば幸いです。


午後は早野さんが出演する劇団俳優座公演を阿曾さんと娘で。3-11を題材とした重めで幻想的な話を楽しませていただきました。演劇は何もわかりませんが、人物がみな亡くなった人(おばけ?)でシックス・センスという映画を思い出しながら観てました。役者の技量が問われる設定ですが、さすが俳優座ですね。早野さんは軽めの浮気な女房というかつてない役どころでしたが大女優となると守備範囲広いですね。大変満足。千秋楽お疲れさまでした。

 


両国駅からの道すがらたまたま見つけて、これがここ(本所松坂町)にあったのかと立ち寄ったのが吉良上野介邸跡でした。元禄15年(1702年)「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士四十七士が討ち入りした現場で、この像のすぐ左に「御首級(みしるし)洗い井戸」があります。泉岳寺から戻った吉良の首はこの井戸で清められ、医師「栗崎道有」により胴と縫合、そのあと埋葬されたとのことです。享年62。同い年になってしまいましたね。八重桜が満開でした。合掌。

 


せっかくなので、昭和12年創業のちゃんこ鍋の老舗「川崎」へ。鶏ガラと醤油のシンプルな味はすばらしい。これまた飾らない味わいの樽酒とは相性抜群であり、江戸からの伝統料理はほんとうにうまい。東京の食の奥深さも捨てたもんじゃないと再確認しましたが、京の天皇、公家に対し江戸も将軍がおり世界最大にしてパリの倍の人口があった。100万都市の食文化が貧しいはずはないと思えば納得であります。

 

(こちらへどうぞ)

高輪泉岳寺にて思う

ファツィオリ体験記

 

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トランプと習近平が証明したこと

2017 JAN 18 23:23:21 pm by 東 賢太郎

いよいよ習近平がダボス会議に現れて「保護主義は利益にならない」と主張しました。その昔黒船を送って開国を迫ったアメリカが「国を閉じます」と言って、嫌がっていた中国が「開け」と言っている。天地逆転であり、いかに歴史的大転換の時代に我々は生きているかお気づきでしょうか。

僕の香港駐在による経験的持論である「中国ビッグバン仮説」が、実は仮説ではなかったことをトランプと習近平が証明しています。オバマはTPPでグローバリズムの延長線上に安直な勝機を見ていたが、トランプはもはやビッグバンを引き起こしたそのゲームのルールのままでは勝ち目はない、そんな悠長な事態ではないと言っている。彼はおそらく正しいのです。

正しいというのは「社会の変化によって追認されてあとからそういう流れが底流にあったのかと気づくような根拠のある」、という意味で言っています。それは白人のヘゲモニーの終焉かもしれず、自分が決めたのにルールが悪いと批判してみたり、中国が非道だと責任転嫁をしてみたり、はたまたインテリになればもう資本主義は役目が終わったんだという議論まで出てくる。

しかし、トランプが僅差ではあれ選ばれたという「社会の変化による追認」は、それがどんなに気に食わないことであっても事実であって、そこに至る底流は中国が「グローバル大貧民ゲーム」で独り勝ちした以外に整合的な根拠を見出すことは困難である。だからトランプは「閉じる」であり、習近平は「開け」なのです。失業はしない学者は気づかないが白人キリスト教徒の労働者階級は気づき、移民排斥という別な形でも不満は噴出しています。

トランプは中国も批判するが、メキシコという身近なシンボルを攻撃して同じことを労働者にわかりやすく訴え、当選した。かたや「資本主義は終わりです」、「みんなで貧乏になれば平等でしょ」と主張する政党がリベラルであり、ユートピア国家を目指しましょうという左翼学者が大学で教えている我が国。自分だけは大貧民になりたくない人の方がずっと多かった米国はわかりやすい資本主義国です。しかし仮に今世紀中にヘゲモニーが中国に移転したとしても、中国ほど資本主義が好きな国はないからそれが終わることなどないのです。

「中国ビッグバン仮説」は机上の空論ではありません。大貧民ゲームは麻雀と同じく「点棒(=お金)を争うゲーム」と認識しているからです。この現象は政治学、経済学、歴史学という分断された視点からの分析ではわからない、例えれば、現代医学が臓器ごとに専門分化しているため胃を全摘して治ったはずの癌が他臓器に転移するリスクを排除できないのと似ています。癌の根源を断つのが合理的で、「お金」を横軸として観察するヘゲモニー分析はそれに相当し、その結論が我が説なのです。

米国だけでなく欧州の反EUの様々なムーヴメントも同じです。2001年の中国のWTO加盟の瞬間(=ビッグバン)からこの日に至るのは宇宙の膨張のごとき「不可避的結末」だったのであって、米国といえど原理には逆らっても無駄なのです。白人が有色人種国を「辺境」として搾取し、贅沢でプライドある生活にあぐらをかくというインバランスはこれから音をたてて崩壊します。僕は中国共産党を支持する者ではまったくないですが、そのインバランスをアジアで独り壊そうと試みた結果あの戦争に突入してしまった我が国として、「アジア人」がヘゲモニーの一翼でも担えるようになることは別に悪いことではないでしょう。

我々が米国と同盟国であり続ける形で世界平和に貢献することが今後も重要であることは変わらないでしょう。しかし米中の軍事バランスもいずれは拮抗するだろう。そこで我が国の未来のためにどんな均衡点があるのかはまだ誰もわかりません。朝鮮半島が一つになればそれは核保有国だ。とすれば核保有がその唯一の解になることも視野に入るでしょう。エスニックで人を見る白人社会が終焉したわけでない以上、それに対峙してアジア人のプレゼンスが増すことは大いに歓迎したいというのが海外で16年を送った僕の持論ですが、今度はインバランスが転移してアジアに癌を作らないことが重要です。

(ご参考)

中国ビッグバン仮説 (追記あり)
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秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

2016 AUG 19 23:23:30 pm by 東 賢太郎

 

1280px-Danjogaran_Koyasan16n4272話はいきなり40年前にさかのぼります。高校の友人2人と車で高野山へ行った夏のこと、宿坊に泊まるつもりが空きがなく、金剛峯寺のお堂の廊下に寝袋を敷いて野宿したことがあります。罰当たりなことでしたが、この写真の根本大塔を見ながら暗闇で寝たわけですね。

大変恐ろしい一夜でした。夏でも夜気はぐんぐんと冷んやりしてきて、寝袋に入って何か食っておこうぜと無理にカップヌードルをかきこみウィスキーをがぶ飲みしましたが、闇夜の中から読経がきこえたりあまりの不気味さに吐き気をもよおしました。やがてなんとか寝付いたところ、突然友人の I 君が「うわあ~~」と何かにおののいたような声をあげます。寝言だったのですがびっくりしたこっちは寝られなくなってしまい、なんだか霊魂や人魂が飛び交っていそうな闇の中、夜明けの薄明りと鳥の声で救われたのです。

思えば、ここに登る参道の途中で信長、信玄、正宗、三成、光秀など名だたる武将の墓がずらりと並んでいました。とんでもない霊気の漂う場所だった。そこに秀吉の墓もあったことをはっきりと覚えています。秀吉?そういえば、ここは豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて出家し、切腹したとこじゃないか。当時はそれに気づいてなかったのですが・・・。

話はかわって、去年8月の旅行の続きです。福岡から新幹線で12日に京都に出向き、13日に安土城址に登って( 織田信長の謎(1))近江八幡のホテル・ニューオウミ泊。翌14日は丸1日かけて近江八幡の市街を見て回りました。ここに日牟禮八幡宮があります。中元大萬燈祭の前日だったようです。信長由来の左義長祭り(3月)や八幡まつり(4月)は一度行ってみたいものです。

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神社のすぐ横からケーブルカーで八幡山に登ります。

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ここが、豊臣秀次が城主であった八幡山城のあった場所でありました。琵琶湖はこう見えます。すぐ船で出られる立地なのは安土城、長浜城と同じ信長スタイルです。信長が石山本願寺を死力を尽くして落としにかかったのも、当時かの地は物流と共に海運、水運の要所だったからです(のちに大阪城が築城される)。

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そして、これが重要ですが、信長の安土城はこう見えるのです(遠方の西湖のすぐ向こうの低めの黒い山)。

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八幡山城を造らせたのは秀吉です。安土城に替わる近江国の国城とし、城下には町民を安土から移住させています。ここのほうが安土山より高い、京にも近い。この場所に立ったとき、秀吉は御館様(信長)を見おろしたと直感しました。手練れの爺殺し術でかつぎあげ、利用して出世し、そしてうまく死んでくれた。明智憲三郎氏の「本能寺・秀吉グル説」はこの後で知りましたが、ここで得た感覚からもそれは説得力を感じました。

秀次は秀吉の甥であり、秀吉の養子になり関白にもなりましたが、秀吉に実子・秀頼が生まれると疎まれるようになり、ついには切腹を命じられ、秀次の妻・妾39人も三条河原で4時間かけて1歳の稚児に至るまでことごとく斬首され、遺体は穴ぐらに投げ込まれました(秀次事件)。秀吉は切腹は命じておらず、勝手に腹を切った(無実のアピールになる)ことに逆ギレしたという説もあるようですが、いずれにせよ「逆賊」扱いし一族郎等根絶やしに、跡形もなく殲滅してしまった怒りは鬼か仁王のごとく凄まじいものがあります。

瑞龍寺は秀吉の姉、秀次の母である日秀尼の菩提寺で、この写真の門跡は八幡山に京都から移されました。豊臣秀次の幟が見えます。ここをぬけてケーブル口まで下山します。oumi5

下の写真は秀次が見ていた近江八幡の城下町の景色です。罪人を自ら好んで刀で切り刻むなど残虐な「殺生関白」だったとされますが、それは秀吉が逆賊とあえて印象づけたもので、実は学もあり近江八幡の町民、農民からは名君と慕われたという話もあります。どちらが秀次の実像なのかは不明ですが、まだ20代半ばの男が好き放題できたわけですからどっちの面もあったのではないでしょうか。後世はとかく勧善懲悪や判官びいきなどの感情がはたらいて黒白をつけたがりますが、人間そうきれいに割り切れるものではないように思います。

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秀次事件。いまドラマで有名になっているそうですが僕はTV見ないので知りません。

この八幡山と金剛峯寺。その地に立って、呼吸をして感じるもの・・・。

理不尽な出家命令、切腹してのありえないさらし首、女子供の三条河原の処刑はあまりも残虐であり、秀次の痕跡を根こそぎ抹消するかのごとく聚楽第まで破壊する。秀次に謀反の意があったのか老いた秀吉が狂っていたのか?

諸説あるようですが、秀頼かわいさであることは明白でしょう。それだけでやったとするなら狂ったとみるしかありません。しかしそこまで秀吉が精神を病んだとは思えず、むしろ天下にそれを見せつける冷徹な政治的意図があった、私見ですが、事件当時秀吉が唐入り(朝鮮出兵)を決行していた、この作戦に命運をかけていたことが根底にあったのだと思います。

ここで再度時間を巻き戻しますが、2009年に九州は佐賀県松浦半島の名護屋城址に行ってみました。唐入りの前線基地だった城で、イカで有名な呼子の近くです。城は五重の天守を備えており、城下町は一時は10万人規模にもなった。10万というと今の兵庫県芦屋市、岐阜県高山市より大きい街ができてしまった。秀吉の本気度がわかります。下の絵がその復元ですが、城のむこうの黒い部分は玄界灘で、壱岐、対馬を経て朝鮮半島へ至る最短コースです。文禄、慶長の役はここから出兵となったのです。

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今はもう何もなくて山林と野っ原だから当時もそうだったでしょう。1599年に秀吉が死ぬと唐入り構想はただちに雲散霧消し、この城は壊されて唐津城の築城に使われました。この海をのぞむ小高い丘に名だたる戦国大名がずらりと集められただけでも想像を絶します。日本史に類のない異常事態です。

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nagoyajyou02その荒涼たる城跡に立って玄界灘から朝鮮半島方面を遠望してみると、諸大名には唐入り構想がいかに恐怖をあおるものであり、浮世離れしたものに思えたか、実感されます

唐入りのオリジナル構想は信長がつくりました。水辺に居城をなす信長スタイルは船で軍を出すためで、彼は村上水軍との戦でその怖さと重要性を知っていました。そして、船で西洋から来た宣教師から多くを学んだ。海の向こうに何があるか?現実にやって来た人間たちが目の前にいたのだから信長は地球が丸いことを理解したでしょう。彼は領土拡大より明の王になり世界制覇する、天下布武の先にそれを見たのだと思います。だから、城は水とつながっていなくてはならなかったのです。

しかし秀吉は領土拡大の切実な必要があった。彼は企業に例えるなら信長というワンマン・オーナー社長に仕える副社長のひとりでした。オーナーが急逝して社長の座に就いたが、副社長が何人もいて政権は安定しません。そりゃ、昨日まで同格のライバルだったのが社長ではすんなりおさまらないでしょう、権威の根拠がないから「ところで、どうしてお前が社長なんだったけ?」となるんです。いつ謀反で寝首をかかれるかわからない。

つまり本能寺の変まで日本国は天皇、寺社勢力をもしのぐ信長という「疑似オーナー」が出現したオーナー企業化が着々と進んでいましたが、秀吉はそうはみなされず、複数いた副社長のリーダー程度であった。だから統治はポスト(人事)、カネ、ストックオプションなど報酬にたよる、つまり石高で処遇するしかなかった。ところが国内の領地の年貢は太閤検地で搾りつくしており、新たな石高を与えようとするなら海外に活路を見出すしかなかったのです

これは日本企業が売り上げが行き詰まると、英語もできない社長が「これからはグローバルだ!」とぶちあげるのに似たものです。しかし国内に先祖伝来の領地や家臣団など失うものが多くある社員たちはどうしても内向きで、海外赴任などしたくない。「うまくいったら君を現地の社長にしてやるぞ」と言われても困るのです。秀吉の唐入りは前社長のビジネスプランを借りた自己の権威正当化策だった。だからこそ本気だったし、実利のない部下からは見放されたのです

秀吉は大名たちの不興をやわらげ、名護屋城待機の退屈を紛らわせようと「やつしくらべ」(コスプレ大会)をやって自分も出場までしていました。今ならさしづめガス抜き目的の「秀吉杯ゴルコンペ」でしょう。面従腹背である大名の本音を見抜いて警戒していたが、信長のこわもて強権発動型ではなく、お茶目、おちゃらけ型でやったところが彼らしい。いや、強権発動の威嚇は何度もしたがそれでは部下が本気で動かない危機感を「唐入りプロジェクト」で初めて感じたのではないかと想像するのです。

明智憲三郎氏説だと、海外(朝鮮)に派遣されて先祖伝来の領地や家臣を失いそうだった光秀が、人事発令を阻止しようと謀反を起こして信長を殺した。これは説得力があります。信長は唐入りに本気であり、光秀は源氏の血を引くばりばりのドメス派エリートだったからです。「内向き社員たち」にはトップ経営者の目線はなかった。それが本能寺の変の真因であり、本稿のポイントですが、秀次事件の真因でもあったのではないか?秀次は再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかった。唐入りに従わなかったのです

秀吉はそれをなぜ咎めなかったのか?それは自分が出陣して名護屋に前線基地を構える必要があったからです。唐入りほどの兵隊の恐怖をあおるプロジェクトにおいては本社から人事権だけで指揮しようとしても前線は動かないことを知っていたという点、秀吉は太平洋戦争の大本営エリート官僚よりも賢こかった。だから1591年に関白職を辞して、唐入りに専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せるとし秀次には京都に残って守護を命じたのです。

これは米国に進出しようという会社の社長が自らニューヨーク支社に赴任するようなものです。すると東京本社は誰か信頼できる部下に一任せざるを得ない。それが秀次だったのであり、彼しかいなかったのであり、だから関白にして後継者宣言をした。赴任に当たって秀吉は茶の湯、鷹狩り、女狂いはほどほどにしろ、俺のマネはするなと厳命しています。お前は「代行」だからなと念を押した。利休もそうだったが、自分を超えるものはあってはならない。それが権力者です。

ところがその部下が2度も天皇の行幸を受け、書や茶の湯、連歌をよくして公家の評判も悪しからず文武両道の力量を見せている。秀吉は「本能寺の変」で明智とグルだったとすれば、海外やめてくれの「国内派」の謀略で信長は殺されたことを知っていました。今度は我が身に暗殺の危機が降りかかるかもしれないという恐怖は常にいだいていたでしょう。力量がある者が謀反をおこすことを何より恐れていたと思われます。

自分が名護屋城にいて鬼のいぬ間に秀次が国内派を陽動しているのでは?謀反のうわさがあったのは事実のようなので、「関白にまでしてやって一緒に前線でアクセルを踏むべき奴が裏でブレーキを踏み、自分を追い落とそうと企んでいる。」「いや、ひょっとして次の本能寺を画策してるか?」彼の思考回路の中ではそういう結論になってしまったのではないか。それが逆賊一族郎等根絶やしの悲劇を生んだのではないか。

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ちなみに有名な大盗賊の石川五右衛門は秀次事件の前年1594年の夏に子供と共に釜茹で処刑されましたが(右の絵)、その刑場がまさに三条河原だった。なぜ盗賊ごときを見せしめ刑で殺し、その最期が伝承されて歌舞伎にまでなっているのか、不思議に思いませんか?秀次の家臣だった木村常陸介 重茲(文禄の役で3,500の兵を率いて朝鮮に渡海)が五右衛門に秀吉暗殺を命じたという説もあり、また秀次も木村も91年に切腹した利休の弟子だった。いろんな意味深長な糸がつながってきます。

 

国内派は簡単にまとまります。生まれた土地に居たいのが人の本性だし天皇、公家という伝統的な権威は当然そうだし、いとも自然に国内派=保守派としてまとまるのです。海外派は朝廷権威を否定する膨大なエネルギーを要します。秀吉は太政大臣になって豊臣姓を賜るや方広寺に奈良をしのぐ巨大な大仏を建立発願した。唐入り願望を正のエネルギーとするならそれを守護してもらうためであり、それに反抗する負のエネルギーに対しては大仏発願と同じだけの勢いで強烈なバッシングを加え、それを天下に見せつける必要があったと思われます。

つまりこれは秀次側の行状の善し悪しや謀反の有無、内容などのことを論じてもわからないことです。すべては太閤様の心の中で起きた事件だからです。唐入りが政権維持に必要という、その地位についた者しかおそらく分からない恐怖感、焦燥感が動機だったからです。彼が老いて狂っていた、秀次は善人だったのにという視点は唐入りを「殿ご乱心」というステレオタイプに封じ込めて思考停止したものと思料いたします。

居酒屋で「うちの部長さ~、海外海外って参ったよ」とボヤく。秀次事件は圧倒的に日本人の多数派でもある国内派、保守派の在野の視点から描いた方が共感されやすいし、罪もなく蹂躙された朝鮮半島の人々の怒りにも沿う。しかし、あえてそれを権力者の脳内現象として冷徹に追体験してみたいのです。鬼畜と罵るのではなく、秀吉にもヒットラーにもルーズヴェルトの心にも去来した「悪魔」をマキアベリのように客体視してみよう、それが僕の立場です。

秀次事件が尾を引いて関が原に至ったという説は正しいように思います。秀次がまとめた国内派、保守派が東軍についた。そしてまさしく秀吉が恐れていたように、彼の政権はオーナー社長・信長のもうひとりの副社長であった家康に倒され、乗っ取られてしまうのです。

信長、秀吉の末路の悲しさがグローバル戦略にあった。これは現代の日本企業の陥る隘路を象徴します。日本企業で真の意味でグローバルになれたのはトヨタはじめ数社しかありません。掛け声だけなら何千社もありますが、その失敗のツケが来て業績悪化して、逆に買収されたり外人に経営されたりするケースは続出、今後も増えるでしょう。

最後はこちらも情けないボヤキになりますが、海外で16年、グローバル部門で仕事をしてきましたが、MBAをとってこれからはグローバルの時代だと本気で思ってやってきましたが、日本はそういう国じゃない、そういうことは百年後はともかく生きているうちはないなという結論にうすうす至りました。海外派は無力でありました。

人生をかけてきて悔しくもあり、会社人生においては、まさに秀吉が思い込んだ秀次のような人間をまとめて打ち首にしたいと思ったことが何度もありますが(いま思うと物騒なことだ)そんな能力も権力もなかった。海外生活でいい思い出も残させていただいたし、信長、秀吉ができなかったんだから仕方ないじゃないかと思えばまた痛快なことではあります。

 

織田信長の謎(1)

交響曲に共作はない

 

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陛下の生前退位報道とミクロネシア

2016 JUL 15 1:01:29 am by 東 賢太郎

ミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia 略称:FSM)の首都パリキールに行っておりました。昨日帰国して北緯7度の同国より東京が暑いのには閉口しましたが、涼しげなそうめんを食すとやっぱり日本はいいなと思ったりするのです。

僕のビジネスは多国籍で、証券の発行体まで含めるとすでに6か国に関わっております。自分が駐在した香港、ドイツ、スイスはそこに入っておらないので可能性があり、これからは西アジアの国も候補になってくるという塩梅です。ICONtvにいたっては視聴者は全世界ですから、自分は日本にいますがそれは両親がいて日本食があって温泉があってプロ野球が観られるという以外には積極的な理由はないのかもという気もしてきます。16年も海外で暮らすとそういう感覚になります。愛国心とは別のことです。

今回の出張はこういうものでした。

ミクロネシア連邦のジョージ副大統領と会談

このほか、堀江良一特命全権大使にもお時間をいただきました。同国への僕の関心は日本国の歴史への関心と畏敬であり、教科書や日教組がまじめに教えない太平洋戦史であり、10数年前に鹿児島の知覧を訪問して以来深く心に残った何ものかです。海外生活を通して外国の良いところもたくさん知ることになりましたが、その何十倍も「俺は日本人だ」というアイデンティティーと誇りを深めて帰ってきたのは行く前からは想像できないことでした。

今日報道された陛下の生前退位ですが、驚き、感慨を覚えるとともに、昨年4月の悲願であられたパラオご訪問を成し遂げられたこともあるかと愚考する次第です。出発にあたって東京国際空港で述べられたお言葉にこうありました。

終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで,この戦いにおいて日本軍は約1万人,米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で,このような悲しい歴史があったことを,私どもは決して忘れてはならないと思います。

ペリリュー島はパラオ中心部から南に50キロも離れており、大人数が乗れる飛行機が離着陸できる空港がなく、船で行き来するには片道1時間以上かかるため海上保安庁の巡視船「あきつしま」に両陛下お二人が宿泊し、船に搭載されたヘリコプターでペリリュー島に向かうルートで訪問が実現したそうです。ご病身で貴賓室も何もない熱帯の船上でご宿泊とは異例なことで、これがいかに覚悟がいることかは南洋の島に行けばわかります。

これがその時のニュースです。

150409-16daitouryounadoその時の晩餐会の写真で、左のお二人がミクロネシア連邦モリ大統領夫妻です。パラオに招かれてミクロネシア連邦にも同様のお言葉とお気持ちが述べられたということです。同国でもパラオと同様の激戦があったことはこれまで何度も書かせていただきました。

 

この大戦が無謀であったことは論を待たないし二度と過ちを犯してはならないことは誰の目にも明白ですが、だからといって犠牲になった方々を忘れてよいわけではありません。ミクロネシアには沈船をはじめ戦跡が多数あり、巻き添えになったにもかかわらず島民の方々が日本を嫌うことも批判することもなく今も親日的です。陛下のパラオ訪問にはミクロネシア三国のそうした事情へのお気持ちもあったと察するものです。

今回もそうですが、ミクロネシア連邦の政府閣僚にそういう話題を投げると、わからない人もいるが呼応する人もいます。全員が親日などというバラ色の話ではないが、アジア周辺でそうではない国が多い中で僕は台湾と同じく大切にしたいものを感じるのです。ここに残ったものはナショナル・トレジャリーとして大事にするのが英霊への礼であり、ご赴任して1か月の堀江全権大使閣下には、放置されて荒れている山本五十六邸のことも申し上げておきました。

海外事業を中心にすえるので実務としてワークしさえすれば投資の本拠はどこでもよいのですが、いまさらニューヨーク、ロンドンというのも粋でなくコストも高い。ならば大事に思ったミクロネシア連邦の首都パリキールにおいて幾ばくか税金も落としてあげ、それで我が国のナショナル・トレジャリーを保全などしてもらいたいという強い気持ちです。管理、保全するのは同国だからですが、しかし民間でできるのはそこまでで、大使を通じて国ができることも多々あろうかと思います。現に中国はカネをばらまいて政府の心をつかんでいる様子が大いに感じられ、レストランには去年は聞こえなかった中国語が飛び交っていました。陛下のパラオご訪問は、そういう流れへの危惧のご表明でもあったのではないでしょうか。

今回はジョージ副大統領とローレンス財務大臣にお会いし、そういう気持ちで同国に投資をしている会社として政府の動きに不満があることを僕流にストレートにお伝えすることになりました。朝の役人との会議で僕が「場合によってはカネをひき上げる」と言ったもので緊迫しましたが、最後には国会対応も含めてしっかりやるという副大統領のお約束があったのでとりあえず安心はしました。

最後に、これから同国にての活動を社員としてお手伝いいただきたいということをSMCにお入りになった市原さんにお願いしたところ即ご快諾いただきました。23年の滞在経験は大変心強く思いますし、初めてお会いしたばかりですがすぐそういう関係ができたご縁というものを強く感じます。

 

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