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カテゴリー: ______歴史に思う

理系の増員なくして日本は滅ぶ

2017 MAY 23 18:18:33 pm by 東 賢太郎

大航海時代まで世界の覇権はスペインにありました。海を支配し、新大陸を含む植民地、銀の産出という当時として絶対の利権を握り神聖ローマ帝国のハプスブルク家と姻戚を結んだというのは宗教的にも世俗的にも並ぶ者のない権力を持った、陸海を制しまさに日が沈むことがなかったということで、今の米国よりずっと優位だったのです。

これを島国の英国がひっくり返した。一気の戦争によるKO勝ちではないが、市民革命の時代までには判定ポイントで優勢となり産業革命に至って恒久的勝利が確定した。野球なら5回までに10点取られてノーヒットだったチームが勝ってしまった感じでしょう。世界史で空前の大逆転といえば僕はこれを挙げます。

スペインの敗因は複数ありますが、膨大な利権に甘んじてフロンティア、辺境で競り負けアメリカを取られたのが逆転満塁ホームランになったという見立ては衆目の一致する所。当時のフロンティア開拓はイコール海軍力であり、もともと海賊の英国は生命線としてその得意技に徹したのに対し、スペインは陸地の経営でも楽に食えてしまった。これがまずかったと思うのです。

つまり持てる者である大株主、地主となった。配当、家賃というキャッシュフローは安泰だから「攻め」の必要なし。防御型の人生観が支配的になります。かたや持たざる者はフロンティアで攻撃型にならなくては生きられません。そのどちらが強いか。自然界でいうなら無限に生える草(=キャッシュフロー)を消化できる草食獣は多産で個体数が確保できる限り牙も爪も必要なく、攻撃力は進化してません。三百年ほどで徐々に防御型となり草食化したスペインを、航海で牙と爪を研いだ攻撃型肉食獣の英国が食った、僕にはそういう光景と映ります。

現代において国力のフロンティアと目されているのはIT、AIの技術力です。軍事、情報、金融、生活関連産業すべての興隆がこれからそれに大きく依存するからです。70余年前、我が国は石油供給を止められて開戦に至りましたが、今や石油がないどころか国民が餓死していてもIT技術を磨いて核ミサイルを持てば攻撃はされない時代になったことがその証拠です。

IT技術のフロンティアで我が国がどこにいるか。これが不安です。日本は欧米が基礎研究した技術を民生用に汎用化するアプリケーションテクノロジーで筆頭の勝ち組でした。高度経済成長による国力興隆の背景はそれであり、その仕上げがいよいよIT技術に及んでIBM-日立事件が起きた80年代はそのピークだった。

80年代はバブル時代だとネガテイブに語る人もいるが、自虐史観の洗脳ここに至れりであって、日本人が我が世の春を謳歌し欧米を震え上がらせて何が悪いのだろうか。あれは敗戦で焦土と化し地にまみれた屈辱からフロンティアを攻めまくって勝ち取った大戦果なのです。

ところが今やそのIBMすら影は薄く、投資の神であるウォーレン・バフェットが「唯一の失敗はIBMを買ってアマゾンを買わなかったことだ」と認めるほどITの時代も急転回しています。我が世の春だった日本がITのアプリケーションにおいて "スペインの轍" をふみ、フロンティアを中国、台湾、韓国に猛攻撃されて主要な要塞はすでに陥落してしまったと感じるのは僕だけではないでしょう。

日経の記事によると米国シリコンバレーには三百万の住民がいますがうち40%が外国人で、インド、中国、韓国に比べ4万4千人の邦人は存在感が低い。世界のIT基本ソフト、ブラウザー、クラウドで二大巨頭であるマイクロソフトとグーグルのCEOはどちらも40才台のインド人であり、ペンタゴンが恐れるハッカー集団は中国人です。

フランスのマクロン新大統領は「経済成長と起業は不可分」とし、創業期の負担を減らす政策を強調しています。16年までの20年間、米国の成長が年平均2%に対しフランスは1%であるのは、起業家の成人人口に対する割合(TEA)が米国の12%に対しフランスは5%であることが原因であると危惧している、それは皆さんもう忘れたでしょうが、あのピケティという学者の講義を思い起こせば納得のいくことです。そして、これもご想像に難くないでしょうが、わが日本国も同じく5%であり、中国、韓国の半分以下であるのです。

(出所:野村総合研究所、平成28年3月)

日本人の特性として元来そうかどうかは議論がありますが、少なくとも徳川時代以降は「農耕民的防御型」で「キャッシュフロー安泰志向型」が国民の多数を占め、「フロンティア攻撃型」は少数派といえるでしょう。防御型=地主型=草食系がフロンティア攻撃型=肉食系に食われるのはすでに見た通り歴史に実例は枚挙がなく、かつて高度成長の牽引車であったエレクトロニクス産業が韓国、台湾に食い荒らされれている真因はここにある、すなわち防御型優勢でなくフロンティ攻撃型の起業家を増やさなくては国力に関わると考えるのはマクロン大統領だけではありません。

城の本丸が落ちようとしている危機に頼るよすがは優秀な頭脳と教育であり、大学こそが防御型に生まれついた人材を導いて世界のフロンティア攻撃型人材との戦い方を教えねばなりません。その人個人のためでもあるが、優秀な一握りの個人は国の助けなどいらず日本の大学を捨てて米国へ出ていく(頭脳流出)道がある。米国どころかヘタすると数年でシンガポール大学、香港大学、北京大学のほうが東大より起業に有利という時代になるのは、そこに関わる金融、証券の実務をしていると肌で感じることです。

だからこれは何より日本国の経済成長と雇用の継続のための問題であります。我が国の学校における起業家教育は世界最低レベルという事実があるからです。日本という「農耕民的防御型」で「キャッシュフロー安泰志向型」の土壌にはそういう教育概念すら存在せず、教えられる教師は実業界にしかいないという事情が背景にあります。

(同上)

はっきり言うが、日本の大学の経済学部は草食獣の学生に100年前の教科書を教えることが唯一の仕事である草食獣の先生の職場である。ここからは100年たってもノーベル経済学賞受賞者は出ないことは賭けてもいいでしょう。そんなものはもうフロンティアではなく、学問であれ実業であれそこでの戦争には無用だからです。もしそれを学んで卒業した学生が世の中で成功したとしたら、それはその人がもともと優秀だったというまぎれもない証左としては高い価値があるだろう。

本丸が落ちたS社とT社において、研究員、技術者、職工が無能であったと考える日本人は少ないはずです。だからこそ台湾のH社はSを買ったし、Tの半導体事業に海外からビッドが入るわけです。失敗の本質は100年前の教科書しか知らない先生に学び、高度成長期の国家的浮力に助けられた成功体験のみで育った、肉食獣の本能と生態系を良く知らない草食系経営陣(その多くは経済学部など文系)のまいた種によるのは衆目の合致するところです。

そしてそれを見た新聞の社説に「外資の傘下に入るのは決して悪いことではない」などと、これまた100年前の教科書の草食獣である論説委員が書く。ばかとしか思えない。マイクロソフトとグーグルのCEOはインド人でもガバナンスは米国にある。本社が日本にあって日本人が雇用されれば経営者は台湾人でもいいというのは奴隷国家の考え方だ。経済学部の先生は彼らにガバナンスと株式支配の意味を教えていないのだろう。

安倍内閣は大学まで授業料無償化というが、まったくの無駄です。高等教育は国家戦略であり、幼稚園の「みんな仲良く」の世界など存在しないのです。自身がそれが何の役に立っているか自覚できない(早い話がどうでもいい)文系学科卒である政治家の発想だろう。100%の子が大卒になれるならそんな教育はそもそも大学教育ではないから中学までで履修できるはずなのです。言ってることが自己矛盾だ。そんな金を使うなら東大、京大、国立理系大学(東工大、電通大)等の収容人員と実験等教育予算を倍増したほうがよほどいい。優秀な才能に国家の計で教育をする。留学生の頭脳も集める。シリコンバレーもすべてのIT産業も牽引車は最先端理系教育を受けた技術者なのであり、100年前の経済理論や帳簿の管理術やお金集めやセールスマンなど国家が教育しなくても商人道だから誰でもできるし、そこを台湾に譲っても日本は失うものはなしです。

文系はいらんという御仁もいますし僕も結果的にはそれに近くなります。近年の中国共産党中央政治局常務委員の指導者の学歴を調べると習近平(清華大学化学工程学部)、胡錦濤(清華大学水利エンジニア学部)、温家宝(中国地質大学)、朱鎔基(清華大学電機製造学科)、江沢民(上海交通大学電気機械学部)、賈慶林(河北工学院電力学部)、李長春(ハルビン工業大学電機学部)、曽慶紅(北京工業学院自動制御系)、羅幹(北京鉄鋼工業学院圧力加工学部)、周永康(北京石油学院)、賀国強(北京化学工業学院無機化学工業学部)、呉邦国(清華大学無線電子学科真空トランジスタ学部)と驚くべき理系王国であり、文系は北京大学法学部卒の李克強ぐらいです。

問題はこの中国共産党がどういう思考回路を持っているかということです。我が国の政治家の平均的プロフィールとは良くも悪くもかけ離れていることは間違いなく、どちらがいいということではないものの、文系頭では想像もつかない戦略を練ってくる不気味さを感じるのです。彼らはもちろん孫氏の兵法、三国志に通暁しており自己の生存のためには恩人も殺す曹操のようなことを平気でやるだろう。そのトップにある連中がサイエンス、エンジニアリングを自分で理解して国家戦略を練ってくる。数学・物理音痴の文系が理系を従える日本の行政と産業の支配構造は、楽譜も読めない指揮者が振っているオーケストラみたいなものです。中国共産党幹部は若い才能の発掘と教育に国運をかけるだろう。フロンティアでの攻撃型競争が才能を開花させることを当然の如く知っているだろう。

我が国が明治時代なみの理系文系なる無意味な区分のまま大学教育を改革せず、だから学生の知能指数で30位ということはまずない東大が大学世界ランキングで35位にしかなれない現実に目をつぶり、実社会で何の役にも立たないから留学生が来ない100年前の学問を先生の権威のために温存していけば、50年後には科学技術はもちろんITの関わるすべての産業でアメリカと対等のパートナーとなる中国に確実にぼこぼこにされるだろう。それしか優位性のない我が国は、したがって実質的に滅びるのです。新聞の論説委員おすすめの奴隷国家になるのです。そんなはずはない、モノづくり、匠の技は凌駕などできない。そう思う方はスペインと英国の覇権の歴史をもう一度勉強されるといいと思います。

そうならないための絶対の妙案はありませんし、もう遅いかもしれないと半分は思っていますが、私案として、全大学の学部を是々非々で要不要を検討し、予算総額は限りがあるので国家の百年の大計に添ったお金と教師と生徒数の再配分を決めるというのが最も合理的でしょう。この趣旨を説けば、高額所得者増税には反対の超富裕層は名誉と引き換えに大学に多額の寄付をしてくれるだろう。文科省天下りがいかんというのも一概にそうはせず、大学教員は派閥や各界余剰経営者の受け皿というサプライサイドの考えをまず一掃し、国に必要な学生を育てる能力があれば天下りでも外人でも何でもよしというディマンドサイドのポリシーから合目的的に改革をすればいいと思料いたします。

 

(ご参考)

脳内アルゴリズムを盗め

小保方氏に見るリケジョとAO入試

クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

 

 

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高輪泉岳寺にて思う

2017 MAY 4 1:01:00 am by 東 賢太郎

豊洲でファツィオリを弾かせていただいた帰りに高輪の泉岳寺に立ち寄りました。先日、両国で吉良上野介邸に偶然行き当たったものですから、こっちも行っておかないとどこかバランスが悪いと感じていたのです。

ロンドン時代、同僚が会議で高輪に来るたびに浪士の墓に手を合わせに寄っていて不思議に思ってました。この日も参拝者はそこそこでしたが白人が多く、説明ビデオも英語版が終わるまで待たされました。外人といってもランチをした銀座が中国語で溢れるのとは雰囲気が違う。

私刑は目には目をのイスラム法でも認めませんから赤穂事件はどこの国でもれっきとした殺人罪であり、これを西洋人が正義と見るのかハーバードのマンデル先生にでも聞いてみたいものです。両藩の大名が死んで喧嘩両成敗で収まり良し。日本人は事件当時から正義派が多く、今でもそうでしょう。

感覚では正義なのに、私刑は幕府の法では不義。死者の数で1対47?こりゃないぜ、赤穂がかわいそうだというのが多くの人の思いかと思います。武士の名誉で切腹を許し情状酌量はするが巷の正義より公儀が上位であることを周知させる。心は同情しましたが徳川幕府の裁断は権力者としては是です。

4代将軍家綱の後継に公家を推す動きがあったほど将軍職は文官化しており、赤穂事件は武士の精神を称揚して見せる好機でもあった。5代綱吉は犬公方とされますが畜生の殺生禁止は結果的には太平の世を生んだし、側用人なる官房長官職を作ってすえた柳沢吉保がしたたかだったということでしょうか。

内匠頭は刃傷沙汰で何がおきるか知っていたのにやってしまい、討ち損じた。動機は不明。殺人の故意を自供しているから乱心とは思い難い状況がありながら即日切腹、開城、御取り潰し、親族にも係累が及ぶ。常識論としてはかなり軽率な殿であり、殿の失策を動機は知らずに家来が果たしたのを仇討ちと言うんだろうかという疑問は昔から挙げられています。仇討ちというのは当時は親族間のもので、殿のご無念を晴らすというのはこれが初の事例だったそうです。

吉良は抜刀しておらず内匠頭の一方的な攻撃(乱心)と主張し、理由の是非を明らかにせず武家諸法度による喧嘩両成敗とせず一方のみに死刑を命じて殺したのは幕府である。だから藩士が恨んだのが幕府なら道理であり、報復は力関係から無理なので赤穂城で抗議の切腹をすればこの事件はわかりやすかったのです。藩を挙げて殺したいほどの恨みが吉良にあったということに事後的にはなってしまっているわけで、それなら討ち損じなどあり得ない。自爆テロなのだから場所などわきまえず確実に殺せる瞬間を狙うべきだった。

現に家来たちは討入りで見事にそれをやり、一人の死者も出さずにスナイパーぶりを発揮したわけで、その殿にして何故?やはり乱心であろう、であれば喧嘩両成敗の理は立たず吉良は無罪だということになり浪士たちはテロリストになってしまう。どっちにころんでもおかしい。そこで彼が暗愚でないならば病気か?そういう説もありますが病気なら適切にケアしなかった大石の過失になってしまう。それも心情として困るので、後世は吉良の悪徳を並べ立てたのだろうかとも思うのです。

赤穂藩とともに接待役だった伊予藩も石高はそうかわらないが吉良に差し出した謝礼は浅野1両に対し100両だった。吉良は石高は少なく朝廷のコネで綱吉に重用されていることは周知でありました。鼻薬をけちられていじめれば朝廷の使者に無礼が生じてわが身に責任がふりかかるからそれはないという説もあるが、刃傷沙汰になっても無罪だった証拠があるのだからこの説は承服しがたい。狸おやじなのだから自らに火の粉がふりかからぬよう周到ないじめをした挙句、公然と無能扱いする手など百もあったろう。それに逆切れしたなら政治家としては無能ということになりましょう。

最大の失態は公家儀式を重んじ母の従一位に執心した綱吉が朝廷使者の面前で起きた不始末に激怒して「喧嘩か乱心か」の尋問を十分行わなかったことで、つまり武家諸法度という法律が厳格に適用されずに刑が執行されて「理が通らぬ」という不満が赤穂藩士はもちろん巷にも流布したことです。それが仇討ちか報復かという小さな理などふっ飛ばして、吉良暗殺という私刑やむなしの渦をつくってしまった。生類憐みの令(そんな法律はないが)なる135のお触れで殺生を禁じ太平の元禄を生んだ綱吉は賢いという評価もあるが、本件のお裁きはそうは見えない。

義士の遺品展示館に木刀があり「人を殺せば死ななくてはなりません」と彫られています。だから俺が持つのは人を斬れない木刀なのだという狂歌なのですが、「お犬様を斬っても死罪の世なのに」という暗黙の前提がこめられていて、この言葉はわが身の安全を装いながら吉良に向けられていたのだと感じました。わが殿を殺したあなたも死ぬんですよと。しかし、上述のように「理」がない。いやいや、そんなことはない、お裁きをした綱吉公がそれを下さっているではないかと、将軍まで批判している。私見ですが、そう読めてしまうのです。

英国人の同僚が何に感動してくれていたかは聞きそびれましたが、武士と騎士は共通点があるのかもしれません。いや「だから三権分立が必要なんだ。ジョン・ロックを見習うべきだった」と言ったかな(でもそれは無理だ、ロックが死んだのはちょうどこの事件のころだ)。さすがに特攻隊を称賛するわけにもいかないからこっちに来てるのか。この話を知って四十七士の墓前に参れば、日本人の見方がきっと変わるでしょう。たくさんの外人ツーリストの前で、どこか誇らしい気持ちになったことは事実です。

この精神を王政復古で天皇にむけさせたのが明治政府による日本国という概念で、そういうものはそれまではなかった。司馬遼太郎は「坂の上の雲」までが良き国であった史観ですが、明治からすでに国民は身分を問わず陛下の義士であることを強要されて対外戦争へと突き進んだのだから日露戦争の前も後もない。徳川時代が悪かったわけでも後進国だったわけでもない、僕はそう思います。

四十七士の墓前に線香をたむけながら、この事件はよくわからない、どこか釈然としないという思いと、日本が近隣国とは決定的に違う民族であることを赤穂事件によってもっと示すべきだという思いが交差します。吉良邸でも泉岳寺でも、手を合わせようというときにやおら雨がぱらつき始め、去るとあがりました。

(PS)

義士はこの隊列で吉良の首を両国から3時間ほど(約10キロ)を歩いて泉岳寺に運び、首を井戸で洗い内匠頭の墓前に据えて本懐を遂げた報告をした。クリックで拡大します。

僕はスナイパーしか使わない

 

 

 

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モーツァルト、俳優座、忠臣蔵の芳醇な一日

2017 APR 23 3:03:21 am by 東 賢太郎

きのうは午前9時からライヴ・イマジン祝祭管弦楽団の本番会場での練習(豊洲シビックセンターホール)、皆さまと昼食、そして2時から劇団俳優座の観劇(両国、シアターX)でした。オケは息子、劇は長女を連れて行きましたが楽しんだようです。

ライヴ・イマジンは5月7日のここでのコンサートに向けて練習は順調とお見受けしました。とても楽しみです。このホールは音が良く、300ある座席の最後部まで確かめましたが良好でムラがありません。奏者の皆さんから「届いてないのでは」という声がありましたが、充分届いてます。

このピアノ(ファツィオーリ)は日本に数台しかなく、僕もチッコリーニのリサイタル以来実音を聴くのは2度目ですが素晴らしいものでした。吉田さんのピアノ協奏曲第25番(K.503)はオケにブレンドしてまろやかなホールトーンに包まれ、誠にモーツァルトにふさわしい。ご自作のカデンツァも趣味が良く聞きものです。ジュピターとハイドン98番も指揮の田崎先生のボウイングが徹底し整ってきました。本番当日は開演前に僕が15分ほどお話をさせていただくことになっております。ハイドンがジュピターのどこをどう引用したかファツィオーリをお借りしてお耳に入れようと思います。5月7日は多くの皆さまとお会いできれば幸いです。


午後は早野さんが出演する劇団俳優座公演を阿曾さんと娘で。3-11を題材とした重めで幻想的な話を楽しませていただきました。演劇は何もわかりませんが、人物がみな亡くなった人(おばけ?)でシックス・センスという映画を思い出しながら観てました。役者の技量が問われる設定ですが、さすが俳優座ですね。早野さんは軽めの浮気な女房というかつてない役どころでしたが大女優となると守備範囲広いですね。大変満足。千秋楽お疲れさまでした。

 


両国駅からの道すがらたまたま見つけて、これがここ(本所松坂町)にあったのかと立ち寄ったのが吉良上野介邸跡でした。元禄15年(1702年)「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士四十七士が討ち入りした現場で、この像のすぐ左に「御首級(みしるし)洗い井戸」があります。泉岳寺から戻った吉良の首はこの井戸で清められ、医師「栗崎道有」により胴と縫合、そのあと埋葬されたとのことです。享年62。同い年になってしまいましたね。八重桜が満開でした。合掌。

 


せっかくなので、昭和12年創業のちゃんこ鍋の老舗「川崎」へ。鶏ガラと醤油のシンプルな味はすばらしい。これまた飾らない味わいの樽酒とは相性抜群であり、江戸からの伝統料理はほんとうにうまい。東京の食の奥深さも捨てたもんじゃないと再確認しましたが、京の天皇、公家に対し江戸も将軍がおり世界最大にしてパリの倍の人口があった。100万都市の食文化が貧しいはずはないと思えば納得であります。

 

(こちらへどうぞ)

高輪泉岳寺にて思う

ファツィオリ体験記

 

 
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トランプと習近平が証明したこと

2017 JAN 18 23:23:21 pm by 東 賢太郎

いよいよ習近平がダボス会議に現れて「保護主義は利益にならない」と主張しました。その昔黒船を送って開国を迫ったアメリカが「国を閉じます」と言って、嫌がっていた中国が「開け」と言っている。天地逆転であり、いかに歴史的大転換の時代に我々は生きているかお気づきでしょうか。

僕の香港駐在による経験的持論である「中国ビッグバン仮説」が、実は仮説ではなかったことをトランプと習近平が証明しています。オバマはTPPでグローバリズムの延長線上に安直な勝機を見ていたが、トランプはもはやビッグバンを引き起こしたそのゲームのルールのままでは勝ち目はない、そんな悠長な事態ではないと言っている。彼はおそらく正しいのです。

正しいというのは「社会の変化によって追認されてあとからそういう流れが底流にあったのかと気づくような根拠のある」、という意味で言っています。それは白人のヘゲモニーの終焉かもしれず、自分が決めたのにルールが悪いと批判してみたり、中国が非道だと責任転嫁をしてみたり、はたまたインテリになればもう資本主義は役目が終わったんだという議論まで出てくる。

しかし、トランプが僅差ではあれ選ばれたという「社会の変化による追認」は、それがどんなに気に食わないことであっても事実であって、そこに至る底流は中国が「グローバル大貧民ゲーム」で独り勝ちした以外に整合的な根拠を見出すことは困難である。だからトランプは「閉じる」であり、習近平は「開け」なのです。失業はしない学者は気づかないが白人キリスト教徒の労働者階級は気づき、移民排斥という別な形でも不満は噴出しています。

トランプは中国も批判するが、メキシコという身近なシンボルを攻撃して同じことを労働者にわかりやすく訴え、当選した。かたや「資本主義は終わりです」、「みんなで貧乏になれば平等でしょ」と主張する政党がリベラルであり、ユートピア国家を目指しましょうという左翼学者が大学で教えている我が国。自分だけは大貧民になりたくない人の方がずっと多かった米国はわかりやすい資本主義国です。しかし仮に今世紀中にヘゲモニーが中国に移転したとしても、中国ほど資本主義が好きな国はないからそれが終わることなどないのです。

「中国ビッグバン仮説」は机上の空論ではありません。大貧民ゲームは麻雀と同じく「点棒(=お金)を争うゲーム」と認識しているからです。この現象は政治学、経済学、歴史学という分断された視点からの分析ではわからない、例えれば、現代医学が臓器ごとに専門分化しているため胃を全摘して治ったはずの癌が他臓器に転移するリスクを排除できないのと似ています。癌の根源を断つのが合理的で、「お金」を横軸として観察するヘゲモニー分析はそれに相当し、その結論が我が説なのです。

米国だけでなく欧州の反EUの様々なムーヴメントも同じです。2001年の中国のWTO加盟の瞬間(=ビッグバン)からこの日に至るのは宇宙の膨張のごとき「不可避的結末」だったのであって、米国といえど原理には逆らっても無駄なのです。白人が有色人種国を「辺境」として搾取し、贅沢でプライドある生活にあぐらをかくというインバランスはこれから音をたてて崩壊します。僕は中国共産党を支持する者ではまったくないですが、そのインバランスをアジアで独り壊そうと試みた結果あの戦争に突入してしまった我が国として、「アジア人」がヘゲモニーの一翼でも担えるようになることは別に悪いことではないでしょう。

我々が米国と同盟国であり続ける形で世界平和に貢献することが今後も重要であることは変わらないでしょう。しかし米中の軍事バランスもいずれは拮抗するだろう。そこで我が国の未来のためにどんな均衡点があるのかはまだ誰もわかりません。朝鮮半島が一つになればそれは核保有国だ。とすれば核保有がその唯一の解になることも視野に入るでしょう。エスニックで人を見る白人社会が終焉したわけでない以上、それに対峙してアジア人のプレゼンスが増すことは大いに歓迎したいというのが海外で16年を送った僕の持論ですが、今度はインバランスが転移してアジアに癌を作らないことが重要です。

(ご参考)

中国ビッグバン仮説 (追記あり)
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秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

2016 AUG 19 23:23:30 pm by 東 賢太郎

 

1280px-Danjogaran_Koyasan16n4272話はいきなり40年前にさかのぼります。高校の友人2人と車で高野山へ行った夏のこと、宿坊に泊まるつもりが空きがなく、金剛峯寺のお堂の廊下に寝袋を敷いて野宿したことがあります。罰当たりなことでしたが、この写真の根本大塔を見ながら暗闇で寝たわけですね。

大変恐ろしい一夜でした。夏でも夜気はぐんぐんと冷んやりしてきて、寝袋に入って何か食っておこうぜと無理にカップヌードルをかきこみウィスキーをがぶ飲みしましたが、闇夜の中から読経がきこえたりあまりの不気味さに吐き気をもよおしました。やがてなんとか寝付いたところ、突然友人の I 君が「うわあ~~」と何かにおののいたような声をあげます。寝言だったのですがびっくりしたこっちは寝られなくなってしまい、なんだか霊魂や人魂が飛び交っていそうな闇の中、夜明けの薄明りと鳥の声で救われたのです。

思えば、ここに登る参道の途中で信長、信玄、正宗、三成、光秀など名だたる武将の墓がずらりと並んでいました。とんでもない霊気の漂う場所だった。そこに秀吉の墓もあったことをはっきりと覚えています。秀吉?そういえば、ここは豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて出家し、切腹したとこじゃないか。当時はそれに気づいてなかったのですが・・・。

話はかわって、去年8月の旅行の続きです。福岡から新幹線で12日に京都に出向き、13日に安土城址に登って( 織田信長の謎(1))近江八幡のホテル・ニューオウミ泊。翌14日は丸1日かけて近江八幡の市街を見て回りました。ここに日牟禮八幡宮があります。中元大萬燈祭の前日だったようです。信長由来の左義長祭り(3月)や八幡まつり(4月)は一度行ってみたいものです。

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神社のすぐ横からケーブルカーで八幡山に登ります。

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ここが、豊臣秀次が城主であった八幡山城のあった場所でありました。琵琶湖はこう見えます。すぐ船で出られる立地なのは安土城、長浜城と同じ信長スタイルです。信長が石山本願寺を死力を尽くして落としにかかったのも、当時かの地は物流と共に海運、水運の要所だったからです(のちに大阪城が築城される)。

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そして、これが重要ですが、信長の安土城はこう見えるのです(遠方の西湖のすぐ向こうの低めの黒い山)。

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八幡山城を造らせたのは秀吉です。安土城に替わる近江国の国城とし、城下には町民を安土から移住させています。ここのほうが安土山より高い、京にも近い。この場所に立ったとき、秀吉は御館様(信長)を見おろしたと直感しました。手練れの爺殺し術でかつぎあげ、利用して出世し、そしてうまく死んでくれた。明智憲三郎氏の「本能寺・秀吉グル説」はこの後で知りましたが、ここで得た感覚からもそれは説得力を感じました。

秀次は秀吉の甥であり、秀吉の養子になり関白にもなりましたが、秀吉に実子・秀頼が生まれると疎まれるようになり、ついには切腹を命じられ、秀次の妻・妾39人も三条河原で4時間かけて1歳の稚児に至るまでことごとく斬首され、遺体は穴ぐらに投げ込まれました(秀次事件)。秀吉は切腹は命じておらず、勝手に腹を切った(無実のアピールになる)ことに逆ギレしたという説もあるようですが、いずれにせよ「逆賊」扱いし一族郎等根絶やしに、跡形もなく殲滅してしまった怒りは鬼か仁王のごとく凄まじいものがあります。

瑞龍寺は秀吉の姉、秀次の母である日秀尼の菩提寺で、この写真の門跡は八幡山に京都から移されました。豊臣秀次の幟が見えます。ここをぬけてケーブル口まで下山します。oumi5

下の写真は秀次が見ていた近江八幡の城下町の景色です。罪人を自ら好んで刀で切り刻むなど残虐な「殺生関白」だったとされますが、それは秀吉が逆賊とあえて印象づけたもので、実は学もあり近江八幡の町民、農民からは名君と慕われたという話もあります。どちらが秀次の実像なのかは不明ですが、まだ20代半ばの男が好き放題できたわけですからどっちの面もあったのではないでしょうか。後世はとかく勧善懲悪や判官びいきなどの感情がはたらいて黒白をつけたがりますが、人間そうきれいに割り切れるものではないように思います。

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秀次事件。いまドラマで有名になっているそうですが僕はTV見ないので知りません。

この八幡山と金剛峯寺。その地に立って、呼吸をして感じるもの・・・。

理不尽な出家命令、切腹してのありえないさらし首、女子供の三条河原の処刑はあまりも残虐であり、秀次の痕跡を根こそぎ抹消するかのごとく聚楽第まで破壊する。秀次に謀反の意があったのか老いた秀吉が狂っていたのか?

諸説あるようですが、秀頼かわいさであることは明白でしょう。それだけでやったとするなら狂ったとみるしかありません。しかしそこまで秀吉が精神を病んだとは思えず、むしろ天下にそれを見せつける冷徹な政治的意図があった、私見ですが、事件当時秀吉が唐入り(朝鮮出兵)を決行していた、この作戦に命運をかけていたことが根底にあったのだと思います。

ここで再度時間を巻き戻しますが、2009年に九州は佐賀県松浦半島の名護屋城址に行ってみました。唐入りの前線基地だった城で、イカで有名な呼子の近くです。城は五重の天守を備えており、城下町は一時は10万人規模にもなった。10万というと今の兵庫県芦屋市、岐阜県高山市より大きい街ができてしまった。秀吉の本気度がわかります。下の絵がその復元ですが、城のむこうの黒い部分は玄界灘で、壱岐、対馬を経て朝鮮半島へ至る最短コースです。文禄、慶長の役はここから出兵となったのです。

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今はもう何もなくて山林と野っ原だから当時もそうだったでしょう。1599年に秀吉が死ぬと唐入り構想はただちに雲散霧消し、この城は壊されて唐津城の築城に使われました。この海をのぞむ小高い丘に名だたる戦国大名がずらりと集められただけでも想像を絶します。日本史に類のない異常事態です。

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nagoyajyou02その荒涼たる城跡に立って玄界灘から朝鮮半島方面を遠望してみると、諸大名には唐入り構想がいかに恐怖をあおるものであり、浮世離れしたものに思えたか、実感されます

唐入りのオリジナル構想は信長がつくりました。水辺に居城をなす信長スタイルは船で軍を出すためで、彼は村上水軍との戦でその怖さと重要性を知っていました。そして、船で西洋から来た宣教師から多くを学んだ。海の向こうに何があるか?現実にやって来た人間たちが目の前にいたのだから信長は地球が丸いことを理解したでしょう。彼は領土拡大より明の王になり世界制覇する、天下布武の先にそれを見たのだと思います。だから、城は水とつながっていなくてはならなかったのです。

しかし秀吉は領土拡大の切実な必要があった。彼は企業に例えるなら信長というワンマン・オーナー社長に仕える副社長のひとりでした。オーナーが急逝して社長の座に就いたが、副社長が何人もいて政権は安定しません。そりゃ、昨日まで同格のライバルだったのが社長ではすんなりおさまらないでしょう、権威の根拠がないから「ところで、どうしてお前が社長なんだったけ?」となるんです。いつ謀反で寝首をかかれるかわからない。

つまり本能寺の変まで日本国は天皇、寺社勢力をもしのぐ信長という「疑似オーナー」が出現したオーナー企業化が着々と進んでいましたが、秀吉はそうはみなされず、複数いた副社長のリーダー程度であった。だから統治はポスト(人事)、カネ、ストックオプションなど報酬にたよる、つまり石高で処遇するしかなかった。ところが国内の領地の年貢は太閤検地で搾りつくしており、新たな石高を与えようとするなら海外に活路を見出すしかなかったのです

これは日本企業が売り上げが行き詰まると、英語もできない社長が「これからはグローバルだ!」とぶちあげるのに似たものです。しかし国内に先祖伝来の領地や家臣団など失うものが多くある社員たちはどうしても内向きで、海外赴任などしたくない。「うまくいったら君を現地の社長にしてやるぞ」と言われても困るのです。秀吉の唐入りは前社長のビジネスプランを借りた自己の権威正当化策だった。だからこそ本気だったし、実利のない部下からは見放されたのです

秀吉は大名たちの不興をやわらげ、名護屋城待機の退屈を紛らわせようと「やつしくらべ」(コスプレ大会)をやって自分も出場までしていました。今ならさしづめガス抜き目的の「秀吉杯ゴルコンペ」でしょう。面従腹背である大名の本音を見抜いて警戒していたが、信長のこわもて強権発動型ではなく、お茶目、おちゃらけ型でやったところが彼らしい。いや、強権発動の威嚇は何度もしたがそれでは部下が本気で動かない危機感を「唐入りプロジェクト」で初めて感じたのではないかと想像するのです。

明智憲三郎氏説だと、海外(朝鮮)に派遣されて先祖伝来の領地や家臣を失いそうだった光秀が、人事発令を阻止しようと謀反を起こして信長を殺した。これは説得力があります。信長は唐入りに本気であり、光秀は源氏の血を引くばりばりのドメス派エリートだったからです。「内向き社員たち」にはトップ経営者の目線はなかった。それが本能寺の変の真因であり、本稿のポイントですが、秀次事件の真因でもあったのではないか?秀次は再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかった。唐入りに従わなかったのです

秀吉はそれをなぜ咎めなかったのか?それは自分が出陣して名護屋に前線基地を構える必要があったからです。唐入りほどの兵隊の恐怖をあおるプロジェクトにおいては本社から人事権だけで指揮しようとしても前線は動かないことを知っていたという点、秀吉は太平洋戦争の大本営エリート官僚よりも賢こかった。だから1591年に関白職を辞して、唐入りに専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せるとし秀次には京都に残って守護を命じたのです。

これは米国に進出しようという会社の社長が自らニューヨーク支社に赴任するようなものです。すると東京本社は誰か信頼できる部下に一任せざるを得ない。それが秀次だったのであり、彼しかいなかったのであり、だから関白にして後継者宣言をした。赴任に当たって秀吉は茶の湯、鷹狩り、女狂いはほどほどにしろ、俺のマネはするなと厳命しています。お前は「代行」だからなと念を押した。利休もそうだったが、自分を超えるものはあってはならない。それが権力者です。

ところがその部下が2度も天皇の行幸を受け、書や茶の湯、連歌をよくして公家の評判も悪しからず文武両道の力量を見せている。秀吉は「本能寺の変」で明智とグルだったとすれば、海外やめてくれの「国内派」の謀略で信長は殺されたことを知っていました。今度は我が身に暗殺の危機が降りかかるかもしれないという恐怖は常にいだいていたでしょう。力量がある者が謀反をおこすことを何より恐れていたと思われます。

自分が名護屋城にいて鬼のいぬ間に秀次が国内派を陽動しているのでは?謀反のうわさがあったのは事実のようなので、「関白にまでしてやって一緒に前線でアクセルを踏むべき奴が裏でブレーキを踏み、自分を追い落とそうと企んでいる。」「いや、ひょっとして次の本能寺を画策してるか?」彼の思考回路の中ではそういう結論になってしまったのではないか。それが逆賊一族郎等根絶やしの悲劇を生んだのではないか。

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ちなみに有名な大盗賊の石川五右衛門は秀次事件の前年1594年の夏に子供と共に釜茹で処刑されましたが(右の絵)、その刑場がまさに三条河原だった。なぜ盗賊ごときを見せしめ刑で殺し、その最期が伝承されて歌舞伎にまでなっているのか、不思議に思いませんか?秀次の家臣だった木村常陸介 重茲(文禄の役で3,500の兵を率いて朝鮮に渡海)が五右衛門に秀吉暗殺を命じたという説もあり、また秀次も木村も91年に切腹した利休の弟子だった。いろんな意味深長な糸がつながってきます。

 

国内派は簡単にまとまります。生まれた土地に居たいのが人の本性だし天皇、公家という伝統的な権威は当然そうだし、いとも自然に国内派=保守派としてまとまるのです。海外派は朝廷権威を否定する膨大なエネルギーを要します。秀吉は太政大臣になって豊臣姓を賜るや方広寺に奈良をしのぐ巨大な大仏を建立発願した。唐入り願望を正のエネルギーとするならそれを守護してもらうためであり、それに反抗する負のエネルギーに対しては大仏発願と同じだけの勢いで強烈なバッシングを加え、それを天下に見せつける必要があったと思われます。

つまりこれは秀次側の行状の善し悪しや謀反の有無、内容などのことを論じてもわからないことです。すべては太閤様の心の中で起きた事件だからです。唐入りが政権維持に必要という、その地位についた者しかおそらく分からない恐怖感、焦燥感が動機だったからです。彼が老いて狂っていた、秀次は善人だったのにという視点は唐入りを「殿ご乱心」というステレオタイプに封じ込めて思考停止したものと思料いたします。

居酒屋で「うちの部長さ~、海外海外って参ったよ」とボヤく。秀次事件は圧倒的に日本人の多数派でもある国内派、保守派の在野の視点から描いた方が共感されやすいし、罪もなく蹂躙された朝鮮半島の人々の怒りにも沿う。しかし、あえてそれを権力者の脳内現象として冷徹に追体験してみたいのです。鬼畜と罵るのではなく、秀吉にもヒットラーにもルーズヴェルトの心にも去来した「悪魔」をマキアベリのように客体視してみよう、それが僕の立場です。

秀次事件が尾を引いて関が原に至ったという説は正しいように思います。秀次がまとめた国内派、保守派が東軍についた。そしてまさしく秀吉が恐れていたように、彼の政権はオーナー社長・信長のもうひとりの副社長であった家康に倒され、乗っ取られてしまうのです。

信長、秀吉の末路の悲しさがグローバル戦略にあった。これは現代の日本企業の陥る隘路を象徴します。日本企業で真の意味でグローバルになれたのはトヨタはじめ数社しかありません。掛け声だけなら何千社もありますが、その失敗のツケが来て業績悪化して、逆に買収されたり外人に経営されたりするケースは続出、今後も増えるでしょう。

最後はこちらも情けないボヤキになりますが、海外で16年、グローバル部門で仕事をしてきましたが、MBAをとってこれからはグローバルの時代だと本気で思ってやってきましたが、日本はそういう国じゃない、そういうことは百年後はともかく生きているうちはないなという結論にうすうす至りました。海外派は無力でありました。

人生をかけてきて悔しくもあり、会社人生においては、まさに秀吉が思い込んだ秀次のような人間をまとめて打ち首にしたいと思ったことが何度もありますが(いま思うと物騒なことだ)そんな能力も権力もなかった。海外生活でいい思い出も残させていただいたし、信長、秀吉ができなかったんだから仕方ないじゃないかと思えばまた痛快なことではあります。

 

織田信長の謎(1)

交響曲に共作はない

 

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陛下の生前退位報道とミクロネシア

2016 JUL 15 1:01:29 am by 東 賢太郎

ミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia 略称:FSM)の首都パリキールに行っておりました。昨日帰国して北緯7度の同国より東京が暑いのには閉口しましたが、涼しげなそうめんを食すとやっぱり日本はいいなと思ったりするのです。

僕のビジネスは多国籍で、証券の発行体まで含めるとすでに6か国に関わっております。自分が駐在した香港、ドイツ、スイスはそこに入っておらないので可能性があり、これからは西アジアの国も候補になってくるという塩梅です。ICONtvにいたっては視聴者は全世界ですから、自分は日本にいますがそれは両親がいて日本食があって温泉があってプロ野球が観られるという以外には積極的な理由はないのかもという気もしてきます。16年も海外で暮らすとそういう感覚になります。愛国心とは別のことです。

今回の出張はこういうものでした。

ミクロネシア連邦のジョージ副大統領と会談

このほか、堀江良一特命全権大使にもお時間をいただきました。同国への僕の関心は日本国の歴史への関心と畏敬であり、教科書や日教組がまじめに教えない太平洋戦史であり、10数年前に鹿児島の知覧を訪問して以来深く心に残った何ものかです。海外生活を通して外国の良いところもたくさん知ることになりましたが、その何十倍も「俺は日本人だ」というアイデンティティーと誇りを深めて帰ってきたのは行く前からは想像できないことでした。

今日報道された陛下の生前退位ですが、驚き、感慨を覚えるとともに、昨年4月の悲願であられたパラオご訪問を成し遂げられたこともあるかと愚考する次第です。出発にあたって東京国際空港で述べられたお言葉にこうありました。

終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで,この戦いにおいて日本軍は約1万人,米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で,このような悲しい歴史があったことを,私どもは決して忘れてはならないと思います。

ペリリュー島はパラオ中心部から南に50キロも離れており、大人数が乗れる飛行機が離着陸できる空港がなく、船で行き来するには片道1時間以上かかるため海上保安庁の巡視船「あきつしま」に両陛下お二人が宿泊し、船に搭載されたヘリコプターでペリリュー島に向かうルートで訪問が実現したそうです。ご病身で貴賓室も何もない熱帯の船上でご宿泊とは異例なことで、これがいかに覚悟がいることかは南洋の島に行けばわかります。

これがその時のニュースです。

150409-16daitouryounadoその時の晩餐会の写真で、左のお二人がミクロネシア連邦モリ大統領夫妻です。パラオに招かれてミクロネシア連邦にも同様のお言葉とお気持ちが述べられたということです。同国でもパラオと同様の激戦があったことはこれまで何度も書かせていただきました。

 

この大戦が無謀であったことは論を待たないし二度と過ちを犯してはならないことは誰の目にも明白ですが、だからといって犠牲になった方々を忘れてよいわけではありません。ミクロネシアには沈船をはじめ戦跡が多数あり、巻き添えになったにもかかわらず島民の方々が日本を嫌うことも批判することもなく今も親日的です。陛下のパラオ訪問にはミクロネシア三国のそうした事情へのお気持ちもあったと察するものです。

今回もそうですが、ミクロネシア連邦の政府閣僚にそういう話題を投げると、わからない人もいるが呼応する人もいます。全員が親日などというバラ色の話ではないが、アジア周辺でそうではない国が多い中で僕は台湾と同じく大切にしたいものを感じるのです。ここに残ったものはナショナル・トレジャリーとして大事にするのが英霊への礼であり、ご赴任して1か月の堀江全権大使閣下には、放置されて荒れている山本五十六邸のことも申し上げておきました。

海外事業を中心にすえるので実務としてワークしさえすれば投資の本拠はどこでもよいのですが、いまさらニューヨーク、ロンドンというのも粋でなくコストも高い。ならば大事に思ったミクロネシア連邦の首都パリキールにおいて幾ばくか税金も落としてあげ、それで我が国のナショナル・トレジャリーを保全などしてもらいたいという強い気持ちです。管理、保全するのは同国だからですが、しかし民間でできるのはそこまでで、大使を通じて国ができることも多々あろうかと思います。現に中国はカネをばらまいて政府の心をつかんでいる様子が大いに感じられ、レストランには去年は聞こえなかった中国語が飛び交っていました。陛下のパラオご訪問は、そういう流れへの危惧のご表明でもあったのではないでしょうか。

今回はジョージ副大統領とローレンス財務大臣にお会いし、そういう気持ちで同国に投資をしている会社として政府の動きに不満があることを僕流にストレートにお伝えすることになりました。朝の役人との会議で僕が「場合によってはカネをひき上げる」と言ったもので緊迫しましたが、最後には国会対応も含めてしっかりやるという副大統領のお約束があったのでとりあえず安心はしました。

最後に、これから同国にての活動を社員としてお手伝いいただきたいということをSMCにお入りになった市原さんにお願いしたところ即ご快諾いただきました。23年の滞在経験は大変心強く思いますし、初めてお会いしたばかりですがすぐそういう関係ができたご縁というものを強く感じます。

 

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織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

2015 OCT 12 0:00:28 am by 東 賢太郎

今回京都へ行って進歩?したのは、なんとも低レベルのことですが京風の住所の言い方である**通上ル下ル××西入ル東入ルをマスターしてタクシーで指示できるようになったこと。これが正確にわかっていなかったのは、どうせ適当だろうと思っていたせい。実はそうではなかったのですね。

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しげ森さんに「みずゑ會」なる宮川町の踊りの会にお招きに預かってとても楽しみました。常磐津「乗合船恵方万歳」、清元「吉原雀」、長唄「三重霞傀儡師」など、春の「京おどり」に比べると秋の彩りのしっとりした味わいがこれまた良かった。

 

前回も泊まったスマイルホテルというのが気に入りました。安いというのもありますが、元本能寺の目の前というのが信長ファンとしてたまらない。そういえば信長は本能寺の変で死ぬ前年に「馬ぞろえ」という観兵式・軍事パレードを大々的に2度やってますが、その隊列は「室町通り」を北上しました。

この通りに足利義満の花の御所があったのでその時代が室町時代と呼ばれるようになりました。それを踏まえたのかもしれませんが、信長は会場の京都内裏東まで民衆の群がるこの通りで騎馬行列をやって軍事力を天皇、公家、諸将に知らしめ、天下布武に手をかけた。

kyoto17どうしてもその室町通り(ホテルに近い)が見たくなって、2次会のあと夜中1時にひとりで歩きました。左の写真がそれです。歴史好きには京都は夜がいいですね。目障りな建物等が目に入らず、存分に雰囲気にひたれます。信長公記に「信長は下京本能寺を辰の刻(午前8時ごろ)に出発し、室町通りを北へ上り、一条を東へ折れて馬場に入った」とある。この時も彼は本能寺に泊まっていたんです。天皇も見物した数百人の行進を目撃した太田牛一の筆はこの描写に異例の8ページも割いていて興奮気味であることからも、この道が凄いことになっていたのが偲ばれます。

信長は記録にあるだけで本能寺に4回泊まっており住職の日承上人とつながっていました。本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者がおり、鉄砲と火薬の入手が容易になったといわれます。かように彼の眼は常に海の外へ向いています。京の馬ぞろえの直前に安土でもそれをしていますが、太田牛一の描写によるとその時の彼の服装は、今風にいうなら西洋のフェルト帽に中国風の袖なし羽織に虎柄のズボンです。思いっきり海外かぶれですね。洋物の鉄砲に飛びついたのもわかります。

seminario安土城のふもとにセミナリオというイエズス会のミッションスクールがあり、宣教師たちに布教を許可していました。自身もそこへたびたび訪れて話をきき、クラシック音楽を聴いています。キリシタン大名とは違った風に西洋人に開明的だったのです。つまり教化されるわけではないが、自分の頭で咀嚼して利用できるものはする。実にプラグマティックであり、秀吉はそれを真似たが器量がなく禁止に転じ、家康はのっけから守りに入り鎖国してしまいました。

tukeこれで思い出しましたが、ミクロネシアのチューク島に行った時に土地の高校に案内されたのですが、その名も「ザビエル高校」でした(左)。イエズス会の創始者フランシスコ・ザビエルの名を冠した学校であり、彼がここに来たわけではないが会の宣教師が布教したのです。つまりセミナリオはこれと同じ趣旨でできたのであり、信長は学びたいと考えたが家康は恐れた。今の日本人の思考回路の原型は家康の江戸時代にできてますね。僕は圧倒的に信長を支持します。もし本能寺の変がなかったら?日本は明治維新を300年早く迎えられており、全く違った国になっていたと思います。

そういう視点でもう一度本能寺の近辺の地図を見ます。すると、あるではないですか!目と鼻の先に「南蛮寺」というのが。建物は跡形もないので碑をさがします。地図はおおざっぱで載ってないのでマスターした京都式住所をスマホで検索して、この通りのこの辺と当たりをつけて行ってみると、ありました。

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これは実質は教会だったようでミサまでやっていた。これが本能寺のほぼ隣にあったというのは実に意味深長ではありませんか。鉄砲と火薬でしょうね、貢がれていたのは。それこそ織田軍の武力の生命線だった。思えば英国が坂本龍馬をディーラーとして敵対する薩長に武器を売って手を組ませ、フランスがついている徳川幕府を倒した、その手法を信長に対してイエズス会は狙っていたかもしれません。倒すのは支那であり、彼らにとって支那での布教こそが最終目的だった。それが信長の唐入り構想へと進展したのが、彼は彼で天皇を体よく支那の王にして日本から追い出し、自分は日本の王となるという目論見があったからです。

そうなると俺は支那の支配人に飛ばされそうだと悟った明智光秀がクーデターを起こした。しかし唐入り構想はやはり日本の王を狙う秀吉に引き継がれ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)というおぞましい愚行に至ってしまった。その豊臣家を根こそぎ滅ぼした家康は前任者を全面否定し、だから朝鮮通信使による友好が始まったが、徳川を滅ぼした明治政府もやっぱり前任者を否定して日韓併合をしてしまったと同時に、天皇は支那に追い出すまでもなく殺して替え玉の明治天皇にすり替えてしまった。これが日本史の真相と思います。

織田信長は死にましたが、実は死んでも日本史を動かしていた。そのぐらい革命的な人間だったということです。安土城とセミナリオ、本能寺と南蛮寺、この2つのペアの見事にパラレルな関係に歴史を突き動かす真因が隠されていたということです。元本能寺のあたりを夜中にほっつき歩いて、鶏がらラーメンを食べながらそんなことふと思いついてしまった。本能寺跡に寄って合掌してホテルの戻ると2時でした。聞こえたのは彼の声でしょうか。

 

 

(こちらへどうぞ)

秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて)

宵越しの金をもたねぇのが江戸っ子ってもんで、、、

オローラ島での瞑想

 

 

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嬉野温泉スパイ事件の謎

2015 SEP 13 22:22:57 pm by 東 賢太郎

先週末は雨とコンサートでジョギングできませんでした。2週空いてはまずいので今日はまた二子まで10km。けっこう調子が良くてついに初めて1時間を切りました(57分)。

阿曾さんたちにそれならハーフマラソンはいけるいけるとけしかけられたのと、もう一つ佐賀の嬉野温泉へ行った時に按摩(あんま)さんに「筋肉は50才ぐらい」とおだてられたのが効いてますね、たぶん。

この嬉野(うれしの)という所は福岡空港からだと高速バス(九州号長崎行き)で諫早方面に1時間半ほどです。地図で見るほど遠い感じはしません。福岡空港発11:02に乗って筑紫平野を下り、筑紫野、基山を通って12:36に嬉野バスセンターで降ります。

「まめ多」の降旗女将にいい旅館があるよと教わっていて、昭和天皇が泊まった和多屋というのですがそれは満員でした。そこで和楽園さんという旅館に1泊しましたが良かったです。

湯質は無色透明ながらぬめりがあります。傷を負った鶴がこの温泉で治るのを見た神功皇后が「あなうれしや」といったのが名称の語源だそうだから、日本書紀の時代から知られていたということです。和銅七年(714年)に記された肥前国風土記に名前が出てくるそうです。

「シーボルトの湯」というのがあります。

 

シーボルト_川原慶賀筆フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年 – 1866年)がここに長崎から何度か来ていた。彼はオランダ人と偽って出島に入ったがドイツ人であり、出身地はヴュルツブルグです。思えば僕はフランクフルト駐在当時、友人とよく車でヴュルツブルグの劇場にオペラを聴きに行ってました。

フランクフルトを流れるマイン川は、ワーグナーの聖地バイロイトあたりに源流を発して、長躯バンベルグ、ヴュルツブルグを流れてフランクフルト・アム・マインに来ます。そしてマインツでライン川に合流するのです。そういえばシーボルトの従兄弟の娘に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835年 – 1909年)は、あのブラームスの婚約者であったっけ!

 

どんどんパズルのピースがつながっていきます。

 

あそこから長崎に、そしてこの嬉野温泉に来ていた。彼はプロイセンのスパイだったという説もあり、幕府禁制の日本地図を持ち出そうとしたことで国外追放処分となるのです(1828年、シーボルト事件)。このとき、丸山町遊女であった瀧との間に生まれた娘(日本人女性で初の産科医となった楠本イネ)を残して去ったのはどこか「蝶々夫人」を思わせます。

イネは大村益次郎に恋した人であり、京都で襲撃された彼を看護しその最期を看取っている(司馬遼太郎「花神」)、また、吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」の主人公にもなっています。彼女の美しい娘が宇宙戦艦ヤマトのスターシャのモデルらしいというのも知りませんでした。

そこで、もうひとつ、思い出した。「シーボルトの湯」の目の前の橋のたもとにあった「大村屋」という旅館の跡に、こういう来歴が書いてあって、なんとなく写真を撮っていたのです。

 

伊能忠敬!!

そうか、幕府禁制の日本地図を役人の目が光る長崎・出島で受け取るのはあまりに危険である。温泉で湯治すると偽装して、ここで入手したんじゃないか??

 

まあ大昔の犯罪だしもうどーでもいいですけどね。

このことは実はさっき気がついたんで、当日は中村兄と来ていたんですが仕事で疲れてぼーっとしていて、名物の豆腐を食べてなんにも考えてませんでした・・・。母方の出身地が諫早なもんで、どのへんかなと旅館で尋ねたら、車で30分ですよ近いですよなんてことも知った。

ぎすぎすした東京からくると、人当たりがやわらかくてどこかほっこりしてて、安らぎました。いいところでした。また行くことになると思います。

 

(追記)

嬉野で撮った一枚に故・中村兄の後姿があった。昨日のことのようだ。

 

(こちらへどうぞ)

あれからもう一年か・・・

わが温泉考 (Splendid hot springs in Japan !)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

 

 

 

 

 

 

 

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織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

2015 SEP 2 2:02:23 am by 東 賢太郎

歴史ファンには有名な話ですが、1581年に「竹生島事件」というのがあります。概略はこういう話です。

安土城の信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣したときのこと。遠路ということで、信長は羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと考えた女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。ところが信長はなんと当日に戻ってきてしまう。信長は女房衆の怠慢に激怒、縛り上げて即刻差し出すよう寺に命令します。女房衆は恐れおののいて寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願いますが信長はそれを見てますます怒り、長老もろとも女房衆を成敗しました。(『信長公記』天正9年4月10日の項より)

「成敗」が処刑だったかは不明ですが、けん責ぐらいでは信長公記に載らなかっただろうからまず全員死刑でしょう。安土城に強い気があるのもむべなるかなです。社内ルールを社員が守らなかったので幹部が激怒したといえば「ナッツ姫事件」というのがありましたが、僕はあれを聞いてこの「竹生島事件」を思い出したのです。

nobunagaまず関心を持ったのは、「安土城から竹生島までの距離」でした。衛星写真の星形(安土城)⇒ひし形(長浜城)⇒丸印(竹生島)と進んだのですが、全行程往復で約120kmです。そのうち琵琶湖の船が40kmほどなので早馬が競争馬の半分の時速30km、船が10kmとすると約6時間40分の移動時間。竹生島参拝が2時間、長浜城に2時間滞在として朝6時に安土城を出れば午後5時には戻れます。船がもう少し遅くても午後6時ですね。充分に可能です。

でも女房衆は帰ってこないと確信した。信長の性格からして油を売っているのがばれたら命がないぐらい熟知しているのに不思議です。どうしてだろう?まず120kmという遠さです。その距離を日帰りという常識はなかったのでしょう。次に、可愛がられていた部下の秀吉が饗応して帰すはずがない、引きとめるに違いない、殿もそれに応じるに違いないという思いこみがあったのではないでしょうか。120kmは遠く、秀吉との関係は近かったということでしょう。

8月13日、僕は安土城近くのホテルからJR琵琶湖線で米原へ、そこから北陸本線に乗りついで長浜に行き北ビワコホテルグラツィエに宿をとりました。そして翌朝9:00、長浜港発の船で竹生島へ渡ったのです。もちろん、「竹生島事件」のあった天正9年4月10日の信長の行程をそのまま実体験したかったからであります。

nagahama昼間は安土城近くの近江八幡の町を歩きまわったので、長浜にはへとへとになって午後5時前に着き、夕食は近くの寿司屋にぶらっと出かけました。知らない土地のカウンターで地酒がいいねと親父相手に適当につまむのが僕のスタイルです。すると何気なくこんなのが目に入りました。

ルービン ・ リキ ?

何だ、地元のプロレスラーの応援ポスターか?絵の女性の色っぽい眼つきと後ろの「ヨソ見はダメ」が酔った頭に交差します。おかげでキリンビールが読めるまで5秒はかかりました。

 

nagahama1

 

翌朝、快晴。今日も暑そうだ。琵琶湖をのぞむ絶景のホールでバイキングの朝食をすませ、9:00出航の船に並びます。

 

 

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竹生島まで約30分。いっぱしのクルーズ気分です。対岸は琵琶湖西南側で比良山地、叡山の北方にあたります。この湖面は太古から変わりなし。信長も秀吉もこういう風に見ていた。彼らも同じ航路で島へ何度も向かったのです。感無量ですね。

 

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さていよいよ念願の竹生島に接岸です。歴史への思いは地面に根ざす。島は動かしようがないし、この狭い港から竹生島神社、宝厳寺へ登る参道も他に選択の余地のない場所にあり、まぎれもなく信長はここを歩いたと確信できるのです。

 

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これが竹生島神社(都久夫須麻神社)への参道です。雄略天皇3年に浅井姫命(浅井氏の氏神)を祀る小祠が建てられたのが創建とされるので5世紀の話であり、歴代天皇が参詣しています。信長、秀吉にとっても我々とたいして変わらず、すでに歴史スポットであったわけです。

 

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ここで湖へ向かって「かわらけ」を投げます。かようなお堂の背景がオーシャンブルーのレイクビューというのも見慣れません。歴代の天皇も空海も信長、秀吉もここで「絶景よのう」とつぶやいたにちがいない。

 

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これが神社の本殿(竹生島神社)。秀吉が伏見桃山城の日暮御殿(ひぐらしのごてん)を本殿にとして寄進した。この本殿の左手から、秀吉が朝鮮出兵に用いた日本丸の船櫓を用いたとされる「舟廊下」が宝厳寺へ続きます。元は弁財天社であり右手には弘法大師がいたほこらもあるが、秀吉が初めての城主となった長浜に来て彼の色が強くなったと思われます。初めて支店長になった地に強い思い入れがあったというのは気持ちわかります(僕はフランクフルトがそう)。ここを氏神とした浅井氏の三姉妹の三女・江が家光の母であり、徳川にとっても特別の場所であったろうと思います。

 

nagahama8三重塔を経て、宝厳寺の本堂へ出ます。すごく暑い。平安時代から神仏習合の信仰だったため寺が分離されたのは明治になってから。弁財天とはインド起源の神であり湖水を支配する神とされたが、琵琶湖は古代から日本海、太平洋の縦断ルートでシルクロードの末端とでもいう大陸、半島のにおいがある。じっくり勉強してみたくなります。

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本殿から港へ向かって長い長い階段を降りていくと、なにか人だかりがあり、雅楽の笙、篳篥(ひちりき)の音が遠く聞こえてきます。やがて異(い)なるものを目撃しました。この写真の行列であります。

 

 

 

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金色の烏帽子をかぶった稚児もいる平安時代のいでたち。これが自然に風景に同化してしまい、雅な楽の音もあってあたりの空気が一変します。時代感覚が麻痺するという貴重な経験を致しました。

 

 

どちらかご名家の法事でもあるのかと思っていましたが、8月14日のことであり、あとで調べるとこれだったようです。

「蓮華会」

浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返します。(元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきました。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれます(竹生島・宝厳寺 〜西国第三十番札所~より

nagahama13港に帰りつきます。信長の装束でこの土産屋の人混みから誰かがひょっこり出てきたらそれらしく見えてしまう気分になっておりました。次の船が11時過ぎで、正味1時間ほどしか居られませんでしたが大変に濃い時間であり、ここも安土城に劣らず強い「気」を感じるところであります(特に空海のほこらのあたり)。もう一度ゆっくり来たいものです。

これが帰路にのぞむ湖東方面です。中央の雲がかかっている高い山が伊吹山で、その真下にホテルが見える。つまりそこが長浜であり、信長の船頭はこの山を目ざして漕いだに違いない。そして、伊吹山の向こう側に広がるのが、あの関ケ原なのです。

nagahama14

かなり疲れました。

ここからまた早馬を駆って日帰りで安土まで戻ろうというのはフルマラソンでも走ろうかというほどの体力と精神力だと感じました。粉骨砕身の新任支店長・秀吉も島には同行していたろうし、「社長、ぜひ今宵は長浜にお泊りを!」と言わなかったはずはないんです。女房衆もどうせそうよと高をくくっていた。

想像ですが、信長はそれを読んでいたのではないでしょうか。少なくとも何らかの強い意志を持って、秀吉を振り切って帰ったのだと思うのです。安土城を築いてから約2年。度肝を抜く城を建てたのは権勢を示すためですが、まだ事は成ったわけではない。野心ある経営者が借金して巨大な本社ビルを建て、業界トップの大企業にだって買収を仕掛けるかもしれんぞと社内外に大風呂敷を広げたようなものです。

社内である安土城は大変なテンションの日々だったでしょうが、「いや~さすが殿ですな」というお追従の嵐でもあったろう。これが危険なんです。もはや天下布武は近いぞという大風呂敷が効いていて外敵の脅威に脅える日々ということもなかったのではないでしょうか。大手門から直線で天主に向う道はどう見ても防御には弱い。あれはもはや向かう所敵なしという示しであり、そういう強気なトークは敵をひるませるのですが時として社内に慢心の火種をもまくのです。

それは社長がいなくなる時間に反動でゆるみが出ることでわかるのです。僕も支店長になって出張から帰ると、そういう気配を感じた経験があります。そういう立場になってみて初めてわかる肌感覚で、なんとなくいや~な感じがするのです。怖いのは敵ではなく内輪のトップだけということであり戦う組織としてはまことにまずい。信長ほどの男にしてその感覚が研ぎ澄まされてないはずはなく、銃後の守りがそんなことでは天下布武は成らないと信長が危機感を抱いたのは想像に難くありません。

出張に出る社長が秘書室にいつ帰るか言ってないなんて考えられません。泊まるかどうか、女房衆なら身支度でもわかるはずだ。お迎えする支店長のほうの準備だって半端じゃないから、それは事前に決まっていたはずです。推測ですが、わざと「泊まりだよ」と言って出たんじゃないか。秀吉とはあらかじめ諮ってあって、ひょっとすると島にも行ってないかもしれない。不意打ちで帰って皆ちゃんと働いておればそれでよし。そうでなければ成敗してその悪い芽を根絶やしにする。そういう計略だったのではないでしょうか。

なにもその程度で殺さなくても・・・。僕もそう思いますが、当時は法律はないんです。殺人罪という法を作ろうという倫理観がなかった。諸大名を率いる者が統治するすべはアメとムチ以外に一切ありません。そのムチの恐怖による反逆、謀叛への抑止力をもつことは権力を握ることと同義であった。自身が法律という身ですから、子の名前に付けた忠、孝の文字に背く行為には極刑でのぞむのは彼のポリシーであり、それが奏功してあそこまでいったわけです。

綱紀粛正ということで思い出しますが、徳川時代にも江島生島事件があり、公務である墓参りの帰りに芝居を見て歌舞伎役者・生島新五郎と宴会におよび門限に遅れた大奥御年寄・江島の行状が発端となり、旗本であった江島の兄・白井平右衛門は切腹も許されず斬首、役者まで島流し、関係者1400名が処罰されるという大事件となっています。この事件は権力争いの謀略という側面が強いのですが、綱紀のゆるみはそれを口実に政敵をおとしめる大義に使われるほど武家社会では許されないことだったのです。

猫は鼠を殺すから残虐な動物である、だから猫はけしからんと裁いてみるのは別に間違いではないでしょうが、そういう倫理観を導入することで人間社会への貢献があるとは特に誰も考えないでしょう。歴史もそういうことと考えております。歴史は「その時代の人々が当然としている思考の枠組み」に自分の思考を意図して適合させないと誤解を招きます。僕の信長観は彼の人間性うんぬんではなく、発想と事績が日本人離れし、図抜けていたことに依っています。

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織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

こちらがスタートです。

織田信長の謎(1)

 

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織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

2015 AUG 28 23:23:08 pm by 東 賢太郎

昨日のブログにこう書きながら、どうしてそうなったんだろうと考えてました。

「自分の御しがたい性格であるのですが、終わったことに執着がないというのが良くも悪くもございます。昨日はもう今日に関係ないのであって、簡単に忘れてしまいます。もちろん事実としての記憶はありますが、そこでの感情を引きずらないという意味ではプラスであり、その感情の発展を期待して下さった人には期待に添えないかもしれないという意味ではマイナスであります。」

おいおい信用できん奴だなと思われても仕方ないし、子供のころは決してそんなことはなかったように思うのです。むしろ昨日をひきずって悩んだりする子でした。

おそらく、①野球をして育った ②野村證券で育った、という決定的な2大要因があって「戦場脳」が後天的にできてしまったのだと思います。①も②も毎日の数字で勝ち負けが出る世界でした。勝負だから勝たないと意味がないという意味で戦場であり、戦場は常にサドンデス(負け=死)です。昨日大勝しても今しくじって負けたら終わりであり、昨日を引きずって悲観したり油断したりする者はだから弱いのです。

武士、武将がみな戦場脳が強かったかというと、たぶん太平の世になった江戸時代は違うのではないか。真剣で切り合いをしていた薩摩侍は、忠臣蔵が美談になってしまうほど殺し合いのない江戸を、そしてそんな江戸が武士道の鏡と讃える忠臣蔵を嘲笑していたそうです。たしかに、負け=一族の死という強烈なストレスとプレッシャーの中に生きていないと、日々の積み重ねで生きる農耕民族に戦場脳は発達する余地は少ないでしょう。

日本の経営者には「軸がぶれませんね」が誉め言葉です。僕はそれを言われたら不本意です。それは農耕民の価値観であって戦場ではナンセンスであり、それを喜ぶのは戦さをしていない証拠なのです。負けたら死ぬという時に軸もへったくれもないのであって、越前 朝倉攻めで信長は作戦失敗、ケツをまくって逃げ帰ってます。野球で「監督、軸がぶれませんね」は「ベンチに策がない」と同義だろうし、欧米の経営者にYour decision is always stable.なんて言うとinflexible(変えられん無能)の皮肉ととる人もいそうです。その心配が皆無である日本の経営者はすぐれて農耕民です。

僕は企業経営は朝令暮改あたりまえと思ってるし、まして朝でなく昨日のことなら改めようが何しようが是非を問うべくもなしです。昨日上がった株が今日も上がる保証なんてどこにもない世界で軸をぶらさずに今日も買いましょうなんて、すっ高値をつかんで即死するかもしれません。負けと思ったらすぐ売って逃げる。戦国武将の思考こそが自然であり現実的と思われます。

「おいおい信用できん奴だな」という不信任は困るのですが「会社をつぶす不信任」とは別格のものであって、僕は会社をつぶさないためだったらそれ以外のどんな不名誉でも不信任でも甘んじます。小さくても会社を持つとはそういう覚悟をするということであって、大名や武将が家を守るのと同じと思います。お取り潰しさえ免れればという江戸時代の大名ではなく、僕ら新興の中小企業は圧倒的に戦国大名に近い。①②のおかげでそれが楽しめてしまう、そういう性格になっていたことは有難いことです。

51Ld6Q-BbML__SX331_BO1,204,203,200_明智憲三郎氏のこの本を読んではたと気づきました。彼は「信長脳」「信秀脳」なる言葉を使っておられますが、戦国武将が「戦場脳」の持ち主だったのはあまりに当たり前であって、本能寺で信長に油断があったとか、光秀がいじめられて逆ギレしたなんてことはあり得ないと指摘しておられます。まったくそのとおりと思います。

戦場脳のない学者や小説家が書くからそういうことになるとの趣旨の指摘もされています。野球をしたことのない観衆や記者が今日の原監督の采配はどうだこうだと言ったり書いたりする、あれとまったく同じであって、僕らはそれを「歴史」として読まされ習ってきたと思います。的外れなことでしょう。

5_a明智氏が「桶狭間の勝利は幸運の結果ではなく奇襲でもなく、考え抜かれた合理的な勝つための戦法による」と看破され、実証的に戦さの実況中継風に解説されていますが、非常に腑に落ちる説明です。それが孫子をはじめとする兵法書の知識の実践であったのであり、信長に限らず戦国武将は中国古典に精通していたということもまた納得です。信長が描かせた安土城の天主の絵(右上は内藤昌氏の説に基づく復元、「安土城天主 信長の館」HPより)が中国故事のオンパレードだったのもうなずけます。

「軍人」「武士」の思考回路や瞬時の判断は、同じ思考回路を持つ脳をつくりあげないと直感すらできないと僕も思うのです。例えば野球でも、あほらしい質問を選手にするアナウンサーが大勢います。「今日のホームラン、感触はいかがでしたか?」と聞かれ、困った選手が「最高でーす!」と叫ぶ。感触が残らないのが「いい当たり」なのは硬式野球経験者には常識ですが、やったことのない人にはわからないのです。歴史でもそういうプロセスが積み重なって、戦場脳のない人の手によってやがて「信長はそこで快哉を叫んだのである」という小説ができあがる、そんな感じでしょう。娯楽ならいいが教科書はそれではまずいと思うのです。

800px-Minamoto_no_Yoshitsune実は前掲書は読んでいる途中で阿曽さんのところで歴女ですという子にさしあげてしまいました。歴女は大変いいことですね、カープ女子みたいなもんかもしれないが、女子だって北条政子がいましたからね。政子でいえばちなみに、僕は頼朝の政治力、リスク管理力は買うが大将の器としては低評価です。政子の尻に敷かれた感じであるのも嫌だが、僕はなんといっても義経が好きなのです。史実とされ語られている一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦績が本当であるならば彼の軍功はすばらしく、信長同等の天才かもしれないと思います。

でも結局、その義経も殺されてしまう。戦場脳が図抜けて優秀であるがゆえに、それに劣り、部下として使いこなす才覚も能力もない兄貴が恐れて殺した。こういう小心無能な上司はいたるところにいます。いっぽうで信長の「唐入り構想」は彼みたいなグローバルな戦場脳のない部下には皆目理解できず、本能寺というクーデターの引き金となった。こういう危険な部下もいたるところにいるのです。戦場脳の最大の弱点は、「身内が敵かもしれない」というパラメーターが欠落すると、緻密であるがゆえにかえって無防備になってやられてしまうことである。これは学ばなくてはいけないことです。

歴史はいま戦場を生きている者にとって最高の羅針盤であると僕は確信いたします。会社を成長させるためのビジネススクールの教材と考えてます。孫子の兵法も机上の空論でなく歴史と実戦に学んで作られたに違いなく、だから価値が失せないのです。小説や評論は暇つぶしにはいいですが落語や漫談と同じく実用性はありません。僕は歴史をアミューズメントとして知る関心はなく暇もないので、したがって小説はあまり読みません。最高の教材は現場にあるはずです。だから安土城、長浜城のあった場所に行き、そこいらじゅうを歩き回りました。信長、秀吉の史上最高度の戦場脳を自分の脳でトレースしてみたいという欲求が断ち切れなくなったのです。

 

(こちらへどうぞ)

織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

歴女の「うつけもの」人気の謎

 

 

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