人生あと20年だったら何をしますか?
2019 JUL 1 1:01:46 am by 東 賢太郎
高島屋へ家族で食事にいくと「二子玉川50年の歩み」とポスターがある。そうか、あれからもう半世紀になるのか。1969年だから中学3年だった。オープンの時に来てギターを買ってもらったっけ。いまや高級住宅街とされてるらしいが、僕の脳裏にあるニコタマなんてこんなもんだったのだ。
ただ、写真の奥の上野毛の丘陵はお袋が皮手芸教室を始めたときにビラまきを手伝ったが、古くから居並ぶ豪邸に圧倒された。富士山を望む多摩川沿いの丘陵の南西向き斜面は「国分寺崖線」と呼ばれる。成城学園からここを通って田園調布まで続いているが、その記憶があるものだから東京広しといえど国分寺崖線以外に自宅を構えようという気はからっきし出てこなかった。そのために働いたみたいなものだったかもしれない。
いまやこの先あと何年あるかと思うようになってきていて、もう50年前のように夢を持つほどはないのは確実だから、それなら自然に生きるしかないと思っている。仮にあと20年あるとして17万5千2百時間だが、あるかもしれないしないかもしれないものを長いの短いのと考えてもしかたない。要はその17万時間、何をして過ごすか、何で埋めるかが重要なのである。
先日、蔵前国技館で相撲を観ていたら高須クリニックの懸賞がたくさん出ていた。高須院長が砂かぶり最前列におられてお元気そうで、報道によると彼は癌だがこういっておられる。「ムダな健康の知識なんて必要ないよ。だって身体ってコンピュータみたいなもんで、不調だったら原因は身体がわかってる。それで『眠い』とか『これ食べたい』という信号を送ってくるんだから、それに従うのが一番いいの」。そういうことだ。自然に生きようというのは、頭で決めるのではなく体がこうしたいと欲するままにするということだ。
僕の場合べつに長生きしたいということではなくて、17万時間の効用価値を最大化したい。そうすれば、最後になって「いい人生でした、ありがとう」となるだろう。しかし、おしりが見えないのだから「いま」の効用を最大にしながら、いざ終わってみたらトータルで幸せでしたとするしかない。だから結論はこうなる。常に目の前にある「いま」の選択として、
①やりたいことだけやる
②それ以外はぜんぶ捨てる
の2つを同時にする。いつ何時もそう考えて行動する。そうすると義理、人情、忖度みたいなもので惰性でやってきたものはぜんぶ不要という結論になるのではないだろうか。自分で体を張ってビジネスをすると誰にも忖度などいらなくなるのだ。モノは捨てればいいし、つきあいたい人だけとつきあえばいい。
でも身体に従うと言っても、自分が本当はどういう人なのかは誰もわかるようでわからないだろう。社会生活にまみれて手垢がついてしまい、鏡を見ても仮面をかぶった自分しか写っていないからだ。例えば僕は何か日常のありふれた出来事を見て、たぶん何万人に一人もそうは思わないだろうという風に思うことがある。そう生まれているのであって遺伝子の仕業だからどうしようもない。
そこで他の何万人は「**ですよね」と当然のように同意を求めるだろう。こっちはちっともそう思わない。そういうことが嵐のようにあるのである。それでよく証券会社なんかでやってきた。我慢してきたのだ。しかし行動するにあたってはそんなのは無視して100%自分の流儀でしてきた。それでいまがある。つまり我慢など実は一文の値打ちもないということを証明しながら生きてきたのだ。お客様だって一文の値打ちもないことに熱心な人間のサービスを受けたいとは思わないだろう。
ただし、矛盾するようだが、よほどの実力がある人を除いて若い人たちはそれではいけないとも思う。そんな実力なんかおよそ無縁な僕は忍耐、我慢の何十年を生き抜いてきたのだ。世間は大人が動かしている。大人に受け入れられるには多大な我慢がいるし、そうならなければやりたいことはできないのである。やってみればわかる。自分流を通すのは非効率と裏腹であって、時間を空費するし、それで嫌われて挫折した人を僕はたくさん知っている。だから、我慢はしながら、いつか自由を手に入れるぞと爪を研いでその日を虎視眈々と狙えばいい。
もう狙うもののない人生は退屈だが、やりたいことをすれば退屈ではないのだ。そうやって17万時間(?)をアロケートしていく。物事を見て僕と同じ風に反応してくれる人はいないことが分かったが、仮にいたとしてもそれでこっちが面白いかどうかは未体験ゾーンなのでわからない。まったくもって面倒くさい人間だ。いま周囲にいてくださる多くの方々は少なくとも嫌でないということは確実なのだが、なにを面白いと思っているかは言わないで死ぬだろう。どうしてって、それが人生面白いからだ。
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「うじうじ人間」の金持ちはいない
2019 JUN 16 12:12:19 pm by 東 賢太郎
先週はいろんな人と会って面白かった。来る人は会うし去る人は追わない。会っても何も期待しない。Let it be. なるようになるさ。
ソナーという名は探知機から来た。何を探知するか?「よいもの」である。なんであれ。そういう会社をがんばって作ろうということではなく、すでにそう生まれついている。僕はそれだけで64年生きている。
僕のソナー ➡ よい > わるい
だからよいと思ったらすぐ手に入れる。家を建てようと土地を探した。家内と半年も探した。なかった。10年まえ、いまの場所が出た。来た。見た。買った。所要時間5秒。いまも満足、ここで死にたい。
いまの若者は手に入れることをしない。借りる。共有する。クラウド。それは大賛成だ。なぜなら即決できる。失敗のコストが安い。うじうじ考えてチャンスを逃すよりよっぽどいい。いい練習だ。でも持たないと資産はできない。
僕はアメリカや香港に住んだ。米中には「うじうじ人間」が少ない。金持ちほど決断が速い。こういうことは何年住んでも、カネが商品の僕らしか知らない。なぜ速いか。「うじうじ人間」の金持ちはいないことを知ってるからだ。
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「銀行で投信を買うと46%が損(金融庁)」のインサイド
2019 JUN 13 7:07:05 am by 東 賢太郎
先日、野村証券で現役の後輩と新幹線でいろいろ話したら、会社はもう様変わりになっていて驚いた。時代というものはあるが、それにしてもあの会社がそこまでなるかというほど「普通の会社」になっているではないか。僕がいた最後のころ、こう感じた。「いま入社試験を受けたら落ちるだろうな」。そのころ僕は金融経済研究所の部長であり、100人ぐらいのアナリスト、ストラテジスト全員にこう言っていた。「君たちの調査レポートはまったく面白くないね」。
僕は調査部門の経験はない。レポートを書いたこともない。そんな上司にそんな事を言われたらむかつくだろうが彼らはプロなのだ。僕はそのレポートで商売してきたプロなのだ。プロとプロの対決であり、それは相手が何百人だろうと僕が勝つに決まってるのである。上司だからではない。ユーザーである僕が面白くないものは売れないからだ。面白いというのは儲かりそうだということである。損するかもしれないがひとつ話に乗ってみようとお客様が思うかどうかだ。それがかけらもない、干からびた学術論文みたいなもの、情報端末よりすこし早耳情報ですよみたいなものは単なるクズなのである。
彼らはすべて超高学歴で頭脳明晰だ。しかしエリートはつまらないのだ。こと株に関する限り話していても面白くも何ともない。いや、向こうもそう思ってただろうから「面白い」がバロメーターというより「自分で儲ける能力があるのかどうか」と言った方がフェアだ。彼らが独立して自分で株で財を成せるか?賭けてもいいが全然無理だろう。そういう旗揚げをしてみようというタイプは皆無だしできたという話も聞いたことがない。従って、それでは何のプロなのか未だに不明だがそういう人に株のアドヴァイスをしてもらおうというお客さんがいるはずないのは宇宙の原理といっていい。きっと、こういうことの行く末にプロがどんどん普通の人になっていって、会社ごと普通という姿が待っていたんだろう。
ジョージ・セルがクリーブランド管弦楽団に着任して団員を7割クビにしたが、自由にしていいなら僕もした。あるいは3割を連れて調査会社をたちあげた。当時、野村の調査は一流ということになっていたが世界レベルでは7割はアマチュアだった。能力とはいわない。彼らは官僚か銀行員ならおそらく僕より優秀だ。でも株式ではアマチュアなのだ。それは日本の運用業界の縮図であって、そこで7割の運用者が求めるサービスもそうなのだ。だから同類の「普通の人」が求められ、食っていけてる。これが野村から情報をもらって運用している「プロ」側のインサイドに他ならない。だから「銀行で投信を買うと46%が損(金融庁)」という事態になっている。どなたもすっきりとご納得いただけるのではないか。しかし、そういう程度の投信を買ってしまう大半の日本の投資家も無知すぎる。百年安心年金などというのがおお嘘なのは明々白々たる事実なのだから投信を資産に組み入れること自体は正当な資産防衛だが、大事なのは真実を語って顧客側に立ってくれる営業マンから買うこと。それに尽きるし、その吟味こそが正しい資産防衛だ。
(本件のようなことに至ってしまう「事の本質」はこのブログに書いてあることである)
情報と諜報の区別を知らない日本人
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日本人の資産運用の偏差値は30台である
2019 JUN 9 19:19:34 pm by 東 賢太郎
5年前にこのブログを書いた。
ここに百年安心年金はウソだからダマされるなという趣旨のことを書いた。ウソである論拠も数字で明確に示してある。何人の方が読んだかは知らないが、反響はなかった。きっと誰も重大さがわからなかったのだろうと思って続編を書くのは無駄だからやめた。そうしたら今になって「人生100年時代」という煙幕を目くらましに使って、
百年安心年金はおおウソでした
と政府が発表しておお騒ぎになってる。
なつかしいなあ。むかしむかし、昭和という時代があり、「夢は夜ひらく」(藤圭子)という歌が流行った。
夜咲くネオンは 嘘(ウソ)の花
夜飛ぶ蝶々も 嘘の花
嘘を肴(さかな)に 酒をくみゃ
夢は夜ひらく
永田町寄席は昼からひらく。
~♪てけてんてんてんつくてんてん♪~
まずボケがはいる。
「老後は年金ではあきまへん、2000万円必要でっせ~」
そしてツッコミがはいる。
国民民主党の玉木雄一郎代表は党会合で、「『100年安心』が既に崩れていることは間違いない」と政府を批判。「新しい時代に本物の社会制度改革をしなければならない。訴える最大の機会が参院選だ」と争点化する考えを示した(毎日新聞)。
⇒ 既に崩れている?そんなもん5年前からジョークネタだろ!
立憲民主党の福山哲郎幹事長も「いつから2000万円貯蓄をしなければ老後が迎えられなくなったのか。(安倍晋三首相に)国会に出てきて国民に説明していただきたい」と語った(同)。
⇒ 10年前から常識だろ!ボーっと生きてんじゃねーよ!。
客席は爆笑ではなく、失笑の嵐となる。チコちゃんも来ていたのだ。
こういう馬鹿な人たちに政治を任せておくことこそ一番先に改革しなければならないことである。資産運用なんて中学・高校はもちろん東大にだって教えられる先生はひとりもいない。マスコミは理解できないから書かない。「百年安心年金」がおかしいと疑問を持たない国民はどんどんたかり体質になり、食いっぱぐれてもクニが何とかしてくれるとまじめに信じている。
でもそんなものは5年前の時点で僕のブログで計算すれば小学5年生でもわかったのである。
残念ながら結論はこうだ。
日本人の資産運用の偏差値は30台である
僕はいまさら世の中に警鐘を鳴らす気もないし、それを教えて商売にしようなんて気はさらにない。最後のひとことになるが、30代以下の人は偏差値50ぐらいにはしとかないと本当に将来大変なことになるよ。
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副業解禁はウソ。好きなことを大事になさい
2019 JUN 9 13:13:30 pm by 東 賢太郎
筋トレは成果が出ているものの首が痛く、それを話したら他人をあまり褒めない後輩のF君が「神の手です」というのでかかってみた四谷の理学療法士Mさん。素晴らしい。彼女に「見えませんね」と言われてそうか俺は64才だったのかと我に返ってがっかりする。ジムの外転筋マシン150Kgでカラ元気がついてしまっている。
昔からみんなに言っているが金融の仕事が好きでこの道に入ったわけではぜんぜんない。人生、物心ついてから一貫して好きなのは音楽であって、アーティストの方が向いていたのかなと直島の現代アートを見ていて思った。きのう野球を観ていて好きなことで飯が食える選手たちがうらやましかったが、しかしあれを毎日やるのはしんどいだろうとも思った。両立しようがしまいが野球に煩悩が出てくるだろう。だったら「好き」ぐらいは「飯」から隔離して汚れないようにしてあげた方がいいのかもしれない。
僕は家事はしない。料理はもし本気でやれば相当うまいはずだがしない。そう母親に厳しくしつけられているので忠実に守っているのである。家内の作ってくれるものに満足しているしそれがWhen I am sixty fourの歌詞で貴重なこととわきまえてるし、敬意をもって女性の専門領域と思っているし、本気でしないならへたな職域侵犯だ。ということで、食事は出るのをじっと待つから猫と同格である。この点においても、子供時分から猫といっしょに育っていてよく先を越されていたから自然なことだ。むしろ、猫様がいてくれて僕は精神の平衡状態が保てているのだから先に食べていただいて当然である。
昔から生徒会長やキャプテンの柄でないから社長業はできればやりたくない。むしろ嫌である。飲み屋の話ではなく、社会人40年のうち数えたら17年も「シャチョー」とまじめに呼ばれているのは子供時分の自分から思えば驚愕の事実でしかない。ほんとうはクラス会で女子に「あずまくん」とまじめに呼ばれるほうがうれしい人間だが、周囲でそれを知っている人は誰もいない。ふりかえってみると僕は女の人のいうことはよくきくのだということがわかる。若い頃はそれを出すとみっともないと思っていたが、もうどうでもいいのでシャチョーをやってもらった方が気楽なくらいである。
という風に、「ふつうはこうですよね」とならないものがたくさんあって、あんまり書けないがその数からしてそもそもふつうでない。そうやって東京の子なのに昭和30年代に熱狂的カープファンになってしまう。だからふつうであることを要求されるシャインなどのっけから無理だったのであって、消去法の行く末にかろうじて残った職業がシャチョーだったと考えるのがいちばん説得力がある。留学生に選ばれたのも、英語ができたわけでもなんでもないのだから、クラシックが性根まで好きだというオーラが出ていて自然とそうなったと思う。
昨今、「副業解禁、主要企業5割」と話題でいよいよ銀行まで副業OKを言い出したが、そんなのは僕にとって何を今さらだ。シンセサイザーでチャイコフスキー悲愴、ドヴォルザーク8番、モーツァルト41番、ハイドン104番の全曲を演奏、録音したのはサラリーマンしながらであり、シャチョーしながらである。シンセがやりたいから稼業の仕事もついでにしていたようなものであり、しかもそこにゴルフというものが入ってきてそっちもシングルになるまで気持ちは本業になってしまった。ただし言い訳になるがそれで湧き出たエネルギーで一気に仕事も乗り切ったのであって、いまはそれが猫になっている。
「副業解禁」の本音は「当社にいても給料そんなに出ませんよ、他でお好きに稼いでね」だ。政府の「年金頼るな」発言とペアである。この問題に深く立ち入るのはやめておこう。なぜなら僕にはどうしようもない。「他で稼いでね」の部分で啓蒙ぐらいできると思って一時頑張ってブログを書いたことがあったが百万言を費やしてもそれで救われた人がいるとはまったく思えないと考えるに至った。日本人の投資の偏差値は30台であり、もう救いようがない。要するに、国であれ会社であれ皆さんの人生をお看取りまで面倒見てくれる他人など世の中にいるわけないという、もとから自明ではあった峻厳な事実と向き合うご時世になってきたのだ。
ひとことだけ書くなら、好きなことを大事にして、それを理解してくれる人を大事にすることだ。
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カープはなぜ5月に強くなったのか
2019 MAY 31 23:23:12 pm by 東 賢太郎
広島カープが4月に8連敗し、最下位を独走した時にこう書いた。
ところがカープは昨日はこの相手だったヤクルトを3タテして5月は月間の球団最多勝記録を更新。交流戦次第で首位独走の気配すら出てきている。いったい何がおきてるんだ??それに明快な答えは考えつかない。そんなに元気だったヤクルトが昨日のカープ戦大敗で屈辱の14連敗でもあり、こっちだっていったい何がおきてるんだ??だが、明快な答えはないだろう。
野球は9人でやるから、各ポジションにいる選手、例えば投手と投手、セカンドとセカンドを比べて自軍が9人とも格上ならその試合はまず勝つだろう。しかし能力の拮抗したプロではそれはない。しかもチーム力とは9人の守りの連携、打線のつながり、チームのモチベーション、ベンチワークの成否など、個々人の能力だけで説明のできない要素も入ってくる。だから、5月のカープの躍進は床田の好投だとかバティスタの3番定着だとかの個の要素だけで明快に説明することはできないのである。
その問題を考えるとき頭をよぎるのは月はどうやってできたか??という問題への説明の試みである。「月は地球と別天体で地球の引力にとらえられた」という考えは正しく聞こえるが物理的に完全な説明力がなく、「火星ほどの天体が地球に衝突し、飛び散った破片が固まって月になった」という「ジャイアント・インパクト説」が脚光を浴びつつあるというものだ。
カープの躍進を月の生成に例えるなら、丸が抜けた衝撃が天体の衝突であり、そのジャイアント・インパクトで飛び散った破片が床田やバティスタの出現だ。それらが混然一体となって、やがて冷えて固まって月となったのが「強くなった5月のカープ」である。そう考えて、このビデオをご覧いただきたい。
野球が天文にワープするが、そのことに目を奪われては物事を原理的に理解することはできない。考え方としておすすめ。落語の「なぞかけ」(○○とかけて××と解く、その心は□□)と思えばいい。それを単なるひらめきと思っては自分のものにならない。ひらめきは再現性がない。原理はひらめかなくとも常に成立するからとても役に立つ。マスターすればわかる。ビジネスで特に有効である。
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英語義務教育不要論
2019 MAY 24 10:10:43 am by 東 賢太郎
先日お会いした先輩はドイツ語で入られたそうだが今も東京大学の入試は英語・ドイツ語・フランス語・中国語の選択が可能だ。どうして人口の多いスペイン語がないのか、アジアの時代と言いながらどうして欧米偏重なのか、ミクロな疑問はあるが、それ以前にマクロな疑問がある。英米人は外国語が達者でないと大学に行けないなんてことはない。逆にウォートン・スクールにドイツ語で入ることもできない。どうして日本に生まれると外国語の点数で人生が左右されてしまうのだろうかということだ。
英国がスペインを抑えて7つの海を支配し、植民地のアメリカが世界の覇権国になったからだと言ってしまえば簡単だ。そのアメリカとうまくやり、うまく生きるためには数ある外国語の中でも英語ができたほうがいい。それもその通りである。だから我々はそれが世界の常識であるかのように学校でThis is a penをやったのだ。では仮に、英語の授業がなくて時間割で空いた時間と労力を他に費やしたらどうだっただろうと考えていただきたい。英語を履修した今のあなたと比べて、幸福か不幸かということをだ。
外国語の習得はそれ自体は別に学問でも何でもない。単に外国の何かを学んだりコミュニケーションを取ったりの手段であり、そういうものにさっぱり興味のわかない僕の場合はできれば御免こうむりたかった。大事な10代に膨大な時間を英語の点数を取るのに費やすより宇宙や作曲の勉強をした方が人生豊かだったように思うし、何よりそれは日本語で学べたのだから、何のことない、英語は入試のためだけに必要だったというむなしい結論になるのである。別な道では英語はわからず留学もなかったわけだが、2013年の調査だと日本人の72%は英語が話せないがべつにそれで誰も困ってないのだから僕だけが特に困ったとも思えない。
しかも、これから強い味方が現れる。スマホのSiriが進化した「マルチ言語対応自動音声翻訳機」だ。英語は勿論、主要な外国語はこれで会話ぐらいは苦も無くOKになる。まだ進化は序の口だが需要があるものは世界の天才がシリコンバレーに集結して作ってしまう。需要がどこにあるかというと、覇権主義で外国語ができないアメリカと中国にこそあるのだから必ず進む。このありさまはEVの進化とまったくおなじなのだ。10年前、電気自動車はドラえもんの世界だったが近未来にガソリン車は消える。それどころか「自動運転車」になる。
近未来を知るのが商売だから社用車をテスラにしたらいろんなことがわかった。一言でいえばゴルフ場のカートをパソコン制御するみたいな車だ。シリコンバレーで新機能ができるとプログラムが書き換えられて車が日々勝手に進化する。だから買い換えなくてもいいしそのうち寝て出勤したり空港まで行って無人で自宅に戻したりできる。すでにクルマの側は問題なくそれができる。あとは道路インフラが追いつけばいいだけだが、公共投資は景気にも雇用にもプラスだし世界で起きることだから日本でも必ず起きる。すると公共交通、商業交通の大革命がつづくのだ。
AIはかように生活を一変させる。「なくなる職業」とネガティブばかりが喧伝されるが日本人の悪いくせだ、どうしてポジティブに目を向けないのだろう。英語は道具に過ぎないのだからひとえに利便性で要不要が決まるのである。日本でふつうの生活をしてふつうに生きるなら、英語ができなくて不幸になる人はいない。できるということだけで幸福になる人もいない。つまり、ひと言でいえば、どうでもいいのである。それが、絶対にそうではない日本語の読み書きや算数の四則計算に肩を並べてどうして英・数・国と同格扱いになったりするのか不思議に思われないだろうか?
黒船が来て植民地にされるか不平等条約に甘んじるかの「負けの二択」になったのが幕末、明治である。敵状をスパイし知得して凌駕するのが詰んだ将棋盤をひっくりかえす唯一の方策だったのだから暗号解読としての外国語習得は国策であった。当然だ。だから官僚養成学校の東大の入試にあるのであり、今でも「英文解釈」なのだ。解釈はできるがリスニングはできませんという英語教育はそうやって鹿鳴館といっしょに出来あがり、へ長調の平行調は答えられてもクラシックは聞きませんという国民を作る音楽教育ときれいな平行調を奏でながら150年もの時を経て寸分違わぬまま生き延びているのである。
英・数・国に33%づつはやめて数・国に50%づつにしたほうがいいと言うととんでもないと思われるだろうが、スマホ翻訳機は鹿鳴館時代にはなかったのだ。環境適応しない人間も生物も滅びる。英語が必要だと親が思えば小学校から選択して学ばせる道を作ればいいし、シェークスピアを原語で読みたい人は今の第二外国語のように教養として学べばいいのである。しかし勘違いしてはいけない、これはいらないものを切って身軽になろう、楽をしようというゆとり教育の提案ではない。平成負け続けの日本にそんな余裕なんかかけらもない。
英語は英米人には国語だ。僕らは日本語(国語)と英語と2科目を履修する必要がある。日本人がグローバルビジネスで勝てないのはこのハンディのせいもあると僕は留学して確信した。数・国を削って英語を詰め込んで、それでも、ビジネススクールに来ている高学歴で帰国子女を含む人たちですら米国人と喧々諤々の議論やディベートが闊達にできる者は少数だった。悔しいが僕もできなかった。できるようになったのはロンドンでビジネスをしたからだが、その6年でカラオケのレパートリーがなくなった。英語を得るためには必ず犠牲があるのである。
まして数学ができずロジックに弱い、日本語のきちんとした文章すらまともに書けない。そんなのがちゃらい英語をしゃべってグローバルビジネスなんて馬鹿も休み休みにしてほしい。高学歴者がこれだけ一生懸命やって成果がないものは無駄だ。日本のテクノロジー企業は日本人にフレンドリーな自動翻訳機を徹底的に開発・進化させて教育現場がその時間を数学、IT、国語とその他科目に回せば英米人とハンディはゼロになる。近未来に科学分野で間違いなく手強い競争相手となる中国人に対してもなくなる。2番じゃダメなのだ。国は開発予算を補助ぐらいしていい。
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太閤秀吉の完全犯罪(私説・本能寺の変)
2019 APR 26 1:01:04 am by 東 賢太郎
10年ほど前に福岡に行ったおり、秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」の折に諸大名を集結した基地である名護屋城跡を見に佐賀へ行った。韓国で秀吉は蛇蝎の扱いであって、平城まで攻め込んできた日本軍に立ち向かった李 舜臣(イ・スンシン)将軍は救国の英雄である。彼を知らない韓国人はいないから、ということは秀吉を知らない人もいないということだ。朝鮮出兵といわれ、結果的にはそういうことになってしまったが、本来の目的は「唐(明国)入り」であった。経路とされた朝鮮には迷惑至極な話だったが、逆に日本が侵略されかかった元寇もあるのだから秀吉の頭の中ではあいこの話だったかもしれない。
その時に名護屋城跡で眼下に見た玄界灘の光景が記憶に焼きついていて、のちに安土城址から眺望した琵琶湖の姿にそれが重なった。「唐入り」は周知のようにもともと信長のプランであり、重用したルイス・フロイスらイエズス会宣教師から得た地球の地理・地勢、天文学、航海術、宗教、交易の利、近隣国の政治情勢などに関わる知識とビジョンを彼は持っていて、それを若者に学ばせようと安土城の麓にセミナリオ(学校)まで造らせている。彼は神仏にすがらぬ唯物論的思考の人で、思考が合えば人種も宗教も一気に飛び越えられる。西洋人的であり、今流ならグローバルである。一方のイエズス会としてそれは無償のサービスであるはずがない。日本はもとより、強大な武力を有する信長を焚き付けて大国・明を攻め落とさせ、中国大陸に布教を進めようという下心があったと思われる。
しかし秀吉はというと信長の唯物論はかけらもない。やがてイエズス会を異質なものとして警戒し全面的に追放してしまうのだから、国内に焚き付ける者はもういなくなった。そこに「唐入り」プランだけが頑迷に彼の頭に残ったのは思えば奇異だ。それも病がちになる最晩年である。聚楽第から指揮しようというのではなく自ら朝鮮に渡るとまで言い放って名護屋に陣を構えた執着ぶりは生命を賭したもので、部下となった諸大名の心を外敵との戦さに向けさせる必要があったとはいえ、そこに勝算があると信じこめた彼のポジティブ・シンキングはビジネス的視点からすると誠に凄まじい。ただでさえ常軌でない日々を生きた戦国武将の心を平和ボケした現代人の常識や正義感で読み解くことには抵抗感を覚えるが、このケースはそうと知っていてもなお、凄まじい。
城を囲む諸大名の陣形はこうだ。まさしくこの時点での戦国武将オールスターであって、徳川家康はもとより信長の次男、織田信勝、かつて三法師であった孫の織田秀信の名も見える。ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。誰も来たくなかったし、まして荒海を渡って未知の土地で手の内の知れぬ異国人と斬りあいなどしたくなかったろう。全員が殿の乱心と見て取ったろうが、それが政権での仕事なのであり、権力には服従するしかない。秀長がなくなり、利休を切腹させ、鶴丸をなくし、母をなくし、秀頼が生まれ、そして後継含みの関白を譲ったはずの秀次を切腹させた秀吉がここにいた。老いのあがきや狂気と通解されるが、信長の残虐と同様に現代人の善悪観念では量り得ないものがあると思う。

後の関ケ原合戦での東軍、西軍の色分けを見ると、城周辺に東軍が多く、石田三成は離れて後方を固めているが、注目したいのは足利義昭の名がみえることだ。武力は期待できない征夷大将軍がなぜ陣を張ったのだろうか?
本能寺の変の真相、黒幕探しは諸説の百花繚乱だ。大体目を通したが、真犯人は秀吉という説が格段に面白い。文献資料がないため俗説扱いされるが、長年ビジネスの権謀術数でもまれた僕にはけっこうリアリティがある。ぜんぜん「あり」だ。なぜなら、秀吉は戦さもうまかったが、天下を取れたのは「調略」の達人だったからだ。「人たらし」という評判は、調略能力が上司に対して行使された場合のいち名称に過ぎないわけである。ビジネス界にもへたな調略だけで飯を食ってるしょうもない奴がいて僕は蛇蝎かゴキブリと思い成敗してきた。しかし達人の域のは手ごわい。逆に痛い目にあわされるし、誰が仕掛けているかわからない危うさがあって毛沢東が三国志を愛読したのはわかる気がする。そういう生々しい体験から本稿を書いており、もちろん僕も調略を試みたことがあるが、うまくいかなかったことを告白しておく。はっきりいって、へたくそである。そんなつまらん労力を使うなら集中力を高めて中央突破したほうがよっぽど早いし、痛快でもある。
調略は人知れず行うから調略なのであって、書面、書簡に残すような馬鹿はおらず、爾後に口を滑らすような相手は殺すか最初から輪に加えないのは常識である。秀吉がこんなこと言ってたぞと口が軽い奴、命令通りに動かない奴は一切信用せず、こういうお家の一大事には関わらせないのである。つまり「秀吉真犯人説は一級文献資料がない」という批判は、秀吉のクレバーさと完全犯罪を証明する言葉ではあっても、批判としてはまったくナンセンスである。むしろ資料がないからどれもが真相であり得るのであって、しかも誰でも推理ゲームに参加できる。若い頃は関心がわかなかったが、この年になってみて、この場面ではこう考えるだろう、こう動くだろうという読み方ができるようになって俄然面白くなった。そこへ岐阜に行って、関ヶ原古戦場のあちこちに立ってみて、戦国時代好きにまたまた火がついてしまった。歴史は本当に面白い。以下私見を書き連ねるが、まったく何の根拠もないからご笑納をお願いする域を出ない。ただ、ビジネス界の奥座敷では「あるある」だということだけは自信をもって申し上げられる。
明国に後陽成天皇を移す意図を持つ信長の専断は朝廷の度肝を抜いた。最後の抑止力であった武田氏が滅亡し止める者はなくなった1582年3月、天下の空気は一変し、朝廷による旧体制である室町幕府再興を旗印に反信長諸将がまとまる余地が垣間見えてきた。征夷大将軍・足利義昭にかわって信長を誅する大義をまっとうする武将は家格が問われ、それは毛利ではあり得たが力不足であった。しからば明智であろうという流れは光秀をくすぐるには自然である。その時点で義昭は毛利配下の鞆城に身を寄せており、室町幕府再興案が信長の排除になるなら高松攻めで追い込まれている毛利も、信長と敵対していた土佐の長宗我部(光秀の親類)も加勢することは目に見えている。その情勢を手に取るように読める位置にあったのが、中国攻めを拝命し高松城攻略を決行していた秀吉なのである。
この計画の最大のボトルネックは家督相続人である織田信忠だった。信州高遠で勝頼を深く追い詰め武田を皆殺しにした信長の長男だ。この戦いは織田家、武田家の跡取り息子同士による雌雄をかけた決戦という意味合いもあった。父の天下布武を固めるメルクマールとなった戦勝に武運を見て、信長後継の地位を固めたと諸将は理解した。信長を誅しても、信忠がとってかわる。従って、信長政権奪取という「調略」は信長・信忠を同時に葬ることが必須であったのである。その機を狙って練られたものであり、側近のみの知る父子の身辺情報とスケジューリングに関与できる者しかなし得ない。最重要の身辺情報とは、武田滅亡による信長の心の隙だ。護衛もなく富士を眺めに出かけて悦に入る。その隙が軍勢なく至近の二寺に二人が泊まるというあるまじき油断を呼ぶ。そうしたものは語られたり書かれたりはしない。空気で読むのであり、常に側近にあって最も信頼される部下しか機会はない。
秀吉が中国攻めのキーポイントである高松城攻略に信長の主力軍勢など3万を率いていた事実は、彼が信長の全幅の信頼を得ていたことを示す。高松城側の勢力は高々3000人でしかないが、そこで秀吉はなぜか信長に援軍要請をする。家康の接待役を務めていた明智光秀に急遽助太刀の命がくだり、さらには信長自身も加勢せんとして本能寺に逗留することになる。命にかかわらないビジネスでもここまで部下を信用したことがない。私心への疑念など微塵もない、驚くべき、最大級の信頼である。秀吉は情報操作でいくらでも信長を欺ける立場に昇りつめていたということがわからない人にはわからないだろうが、経験から申し上げる。こういう部下が一番危ないのである。3万の兵力でも苦戦して水攻めに切りかえた城に光秀と信長がさらに大軍で押し寄せて何ができよう?それを失態と責められず済ます自信があるから仕掛けられるのである。援軍要請は光秀に軍勢を与え、信長、信忠を安土城から丸腰でおびきだすための調略であり、帳尻合わせに高松城の難攻不落ぶりを誇張して流言させ、後世になって、奇想天外な戦法、彼一流の軍略であると尾ひれがついたのは流言がいかに多かったかを物語る。
事件は6月2日未明に起きたが、秀吉が「信長斃れる」の変報を聞いたのは3日夜から4日未明にかけてのことであった。太閤記は光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したとするが、この書は44年後に書かれた秀吉親派のよいしょ本である。密使は毛利でなく、秀吉に送ったものである。秀吉は5日に「上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れている」と大嘘の返書を「ただ今京都より下った者の確かな話」と更なる大嘘で塗り固めて摂津茨木城主・中川清秀に送っている。信長生存の煙幕は光秀をも疑心暗鬼にした。遺骸を見ていないのに光秀は「信長斃れる」と書けただろうか?仮に共謀がなかったとして、秀吉はそれを鵜呑みにしただろうか?では秀吉はどこで父子の死の確報を得たのだろうか?真実を知らぬ者に嘘はつけないのである。
明智光秀にいつどこで囁いたか知る由はない。胡散臭いが口八丁手八丁の手練れ坊主である安国寺恵瓊なら間者をできただろう。こういう手合いもビジネスではよく遭遇するが注意しなくてはいけない。「信長主力軍は我がもとにあり上様は本能寺、殿様は至近の妙覚寺にてどちらも茶会で丸腰である。かくなる好機がまたとあろうか。我が軍も高松より急行して貴殿に合流し御沙汰に従う」と焚き付け、呼応して意を決した光秀は万感の思いで「ときは今・・」を詠む。「ときは今」であったのは秀吉であり、配下の少数精鋭の兵で光秀に先立って深夜に本能寺に忍び込んでやすやすと無防備の信長、信忠を討ち、首級を京都の外に持ち去った。目的は達したがそこで終われば下手人はやがて発覚する。だから光秀に罪をきせる。騒然とする本能寺に討ち入った光秀は遺骸を探したが見つからず、火を放って事態を収める。討ち入った以上は勝どきを上げるしかない。光秀がダミーであることを知るのは秀吉だけであり、本人が勝どきを上げるわけであるから、秀吉は堂々と虚報、大嘘を流布して光秀を主犯に祭り上げることができた。
この手は1963年11月にケネディ大統領暗殺でオズワルドの単独犯行としておいて2日後にダラス警察署で彼を撃ち殺した主犯の手口と同じだ。どちらもダミーを殺した人間が主犯なのであり、どちらも首尾よくつかまっていない。そして秀吉が口実とした足利義昭による室町幕府再興は闇に葬られることになるが、「家格が大事」は光秀用のセールストークであって、天皇、公家からすれば信長の脅威を除いてさえくれればそんなことはどうでもよい。家柄が賤しい。だからこそ、それを逆手にとって光秀に「拙者でなく貴殿だ」をすんなり信じこませることができたのであり、秀吉は政権を確立すると徹底した親朝廷政策をとり、朝廷の官職にある足利義昭を奉じて自らは関白就任に成功する。それで朝廷の面目も立って恩が売れるという見事な計算であり、だから、実体は狂気である「唐入り」の国家による箔付けとして名護屋城に義昭の陣が張られたのである。
清須会議、賤ケ岳合戦、小牧・長久手の戦いは朝廷の関与がない武家の覇権争いであり、信長政権乗っ取りを計った光秀を討っただけでは正当性に欠ける。光秀が第1次なら秀吉は第2次の乗っ取り者であるにすぎず、武家の棟梁になっただけで朝廷を震え上がらせた信長の威信は自分にはないことを彼は知っていた。彼は頂点には向いてないNo2の男なのであり、調略能力は仕掛ける相手がないと持ち腐れなのだ。だから朝廷の威を借りつつ総大将として諸将を従え命令する「唐入り」という大イベントに賭けた。この戦さで大将に立てる者(立ちたい者)は自分しかいない。それは信長様もできなかった地位だ。明、朝鮮の知行地と戦利品を恩賞として与えれば部下はついてくると踏んだのである。これがポジティブ・シンキングの悲しい実相だ。それは数々の「あり得ない」で出来ている。そんなものを生煮えのまま常人に語って聞かせたところで馬の耳に念仏にもならない。まず自分を奮い立たせ、できると自らに信じ込ませ、酒で恐怖を追い払い、鬼気迫るオーラが漂ってきたら部下はついてくる。ビジネスはそういうものだ。調略の天才・秀吉を僕はあらゆる意味で尊敬するし、その彼ですら苦労した経営のもろもろはほろ苦いと思う。
さて最後になる。秀吉の「唐入り」が気になっているのは、もしそれがなかったならば僕はこの世にいないからだ。
おふくろの方のばあちゃんの旧姓は「眞崎(まさき)」である。二・二六事件の眞崎甚三郎陸軍大将の眞崎だ。常陸(茨城)の清和源氏、佐竹氏の分流だが、ばあちゃんは長崎(諫早)の人だ。なぜかというと眞崎氏は上掲陣形図にある佐竹義宣と共に「唐入り」で名護屋へ出陣し、秀吉の没後は鍋島藩によって諫早藩の監査のために当地にある城(眞崎城)に残った。つまりそれ、それを契機に420年前に九州人になったからだ。だから、もし唐入りがなければ、ばあちゃんは長崎港から上海に向かう三井物産社員のじいちゃんに出会うことはなく、つまり僕はこの世にいなかった。いっぽう、じいちゃんは武田が信州高遠で生き残った末裔。にっくき敵方総大将が話題の織田信忠であったのだから、秀吉と光秀が京都・二条城で敵(かたき)をとってくれたことに感謝しなくてはいけない。それで信長ファンというのも実に変だが、東京人なのにカープファンだというのとちょっと似ている。
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“賢い女性”を持て余す日本(上野千鶴子さんの東大入学式祝辞)
2019 APR 14 10:10:06 am by 東 賢太郎
上野千鶴子さんの東大の入学式スピーチが話題らしい。読んでみると、
「知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です」
とたしかに良いことをおっしゃっている。知識は知ではない。
「東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい」
これも、まったくその通りだと膝を打った。海外に出ればそのブランドは無きに等しい。僕は16年外国で苦労してみて、ブランドは自分なのであって、それなしではどこの国でも通用しないことを知った。ということは、実は日本でもそうであって、最後に助けてくれるのは「知」しかない。
「東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました」
これはどうか。女性が少ないのは別に東大のせいではなく、門は万人に開かれている。学生に言っても仕方ないと思う。
それは世間一般にほぼ普遍的に存在するジェンダーの問題で、どっかの医大が女子と浪人を差別していた動機はそれだったようだが、東大の場合は単に志願者の男女比が1:1でないだけであって今に始まった話でも何でもない。受験しないのだから増えるはずもない。その底流にジェンダー問題が潜むというご趣旨であり、未来のリーダーとして心してかかれというなら、それはそれで同意するが。
しかし、桃太郎はこう始まるのだ、「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」。500年も昔の話である。なぜおばあさんが洗濯なんだ、しば刈りではいけないんだ、男女差別だろうと目くじら立てる人はあまりいないのも事実であって、差別なのではなくそれが古来からの男女の好ましい分業の姿であり、自然にやってきたことだと思うしかない。日本人の主食がなぜ米だといって、自然にそうなったとしか説明できないような性質のものなので、東大生の目くじら程度でそう簡単に変わるとも思えない。
日本という国がいかに変わらない、変われない国かを痛感した経験がある。僕ら1980年代の留学組は「これからはグローバル時代だ」といわれて尖兵の気持ちで米国へ行った。日本企業もやがてそうなった。しかし、あれから35年、日本は「なんちゃってグローバル祭り」の残務整理にさしかかっているのだ。千年たってもあのころ夢想した国にはならないと今は確信を持って言える。だから僕は海外派の道はばっさりと捨て、国内で「ちょい英語うまいオヤジ」になる軌道修正をしたわけだ。流れに逆らうより環境適応。それはシンプルにsustainableな人生を送りたいと思ったからだが、隕石衝突後の恐竜と哺乳類の運命という中学生でも知ってる「知」に従ったと言えないこともない。おかげで生き延びた。
上野さんは東大の男子学生はもてますというが、時代が違うのかそんないい思い出はなくてずっと慶応のほうがもてたし、東大女子とつきあったことはない。そもそも文Ⅰには20人もおらず駒場のクラスはゼロで男子校状態だったし、片山さつきや福島瑞穂みたいな面々に太刀打ちできたとも思えない。しかし、彼女らは優秀なのだ、とてつもなく。なるほどそうか、一つだけ手があったかもしれない。ヒモになることだ。東大女子は学歴を隠す必要なんて毛頭ない、堂々と社会に進出して稼いで、男は養ってやる。格下でも優しくて尽くしてくれて、精神的安寧をくれるようなタイプを探すといいのかもしれない。まあ僕にそのメはなかったが。
ちなみに東大の女子比率はこうだ(2019年)。歴史的にほぼこうであり違和感はない。

理系:文系が57:43で人数は理系のほうが多く、最も多い理Ⅰの8.1%が全体を下げていることを見ると、数学が難しいから女子は敬遠してるのだという巷の推測が的を得ているように思う。僕のころ4問中1問解ければオッケーといわれた文Ⅲだけ3分の1が女子と突出して多いのもそれで納得である。上野さんによると理Ⅲは男女各々の合格率比の値が1.03(男が僅差で上)だそうである。ということは、全国模試一桁クラスの、数学もめちゃくちゃできる優秀な女子志願者が男子志願者の18%ぐらいいたということを意味するが、18%「も」いたと考えるか、18%「しか」いなかったと考えるかは何とも言えない。以下論考する。
ジェンダー(gender)とは単に性差の意味であり、それが「問題」かどうかを問題にされているようなのだが、僕自身は個人的に知っている範囲という限りにおいて、女性に学業で勝てないと思ったことは駿台予備校にいた1人の女性を除いてないし、成績順に並ぶ周囲に女子はひとりもいなかった。その背景には「女だてらに勉強なんて・・・」という日本の社会風土の影響が色濃くあるという現象的には不平等なものが存在していることは理解しているし、むしろ、社会で “賢い女性” を持て余すような男がバカなだけなのだというご趣旨ならば100%賛成である。僕自身、女性の社会進出は徹底推進派だし、それが国益にもなると信じるし、我が社は優秀な女性たちの支えなくして存立しない。
しかし、女性は差別されている、犠牲者だ、だから・・・という論調には組することはできない。その議論は18世紀からあるが、人種差別と同様に万人が納得する解決が得られたという証拠はなく、ジェンダー(gender)とは本来はニュートラルな定義であり、我々は男女が相互に補完する本来的な人間関係のあり方から自由であることはできないと考えるからだ。男は子供を産めない。社会というフレームワークの中では女性の産休が出世のハンディだといえないこともないだろうが、家庭というフレームワークの中ではずっと家にいて授乳や育児をすることのできない男性は子供との1対1の愛情を形成するのにハンディがあると言えないこともない。仕事と家庭とどっちが大事なの?と問い詰められるのは常に亭主だが、その選択肢を持っているのは実は女性だけである。
僕は女性しかできないことにおおらかな敬意を持っているし、同様の青年男子は増えているように感じる。もしそうならば、これからの世の中では、ハンディは男女の「創造的分業」で解消できるのではないかと思っている。「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待され、愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手(男性)を絶対におびやかさないという保証が含まれている、だから東大女子は校名を隠すのだ」と上野さんはいわれる。東大女子は入れないのではなく、今は知らないが、正確には特定の他校女子と設立されたサークルがあったことも事実であるし、校名を言うとひかれてしまい女子はそれをハンディと思うのはわかる気がする。
しかし、それを認めつつも疑問が残る。もしご説に従って、①女子の東大志願者が少ない理由が親や社会の性差別による制約であり、②統計的には偏差値の正規分布に男女差はないと仮定するならば、理Ⅲを狙える学力があるのに受験しなかった82%の女子が日本国のどこかに存在するはずであるが、①を特段に差別とは思わず「かわいく生きたほうが得だもんね」という女性の特権的かつ環境適応的に合理的選択をした人を含んでいるという結論に何故ならないのかをどう説明されるのだろうか。それ以前に、そもそも「82%の女子」は本当に存在するのだろうか?顕在化していない学力(能力)を、理由は何であれ、「あります」といっても相手にしないのは差別でなく世の中の常識であり、努力に対する公平性を担保する厳然たるルールでもある。
それだけで愛され、選ばれ、守ってもらえる保証があるなら相手の足の裏を舐めてでも『かわいく』したい男は世の中に掃いて捨てるほどいる。豊臣秀吉でさえ出世の手管とはいえそれをした。しかし、子どものときから『男らしい』ことを期待され、愛し、選び、守れと教育される男にはそんな道はルーティンとして用意されているわけではない。仮に、一部の特殊なアノ道があるではないかというマイノリティー・オピニオンを最大限に尊重してみたとしても、『かわいい』志願の女性の18%もの数の男が夢をかなえるほど需要があろうとは到底思えないのである。そういうあふれた男にとって女性の進出は脅威以外の何物でもない。東大女子であろうがなかろうが「男を絶対におびやかさないという保証」などないのだからパスポートとしての学歴ぐらいは持っていて悪くないし、まして隠す必要などない。
だから女性は、理Ⅲに受かるような人は堂々と正面突破すればいいし、どなたもが女性しかできないことを男との分業としてプライド高くハイレベルのパフォーマンスでやれば男は手も足も出ないのであって、要は、家庭でも職場でも、「創造的分業」のメリットを男に認識させればいいのである。同じことをしているのに女性だと評価されないと嘆くのではなく、評価されるに違いない違うことをするのである。
男子学生には、上野さんの言葉を引用しつつこう伝えたい。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。
まさにそう思うし、さらに加えるが、東大を出たぐらいで未知の世界で一生安泰に暮らせるほど世のなか甘くないよ。男も学校名を言うとひかれるよ(女だけではない)。東大がいない組織に入ると暗黙のいじめにあうよ。それがこわいなら官僚になるしかないがブランドはなくなるよ。女性は弱者のままで尊重されたいというフェミニズムも理解しないといけないし、男はつらいよ。やさしいだけのエリートなんか世界史上ひとりもいない。世界のエリートと伍して生きるには絶対的になにかで強いことが必要条件だから、本当に大変だよ。徹底的に突っ走ってください。
最後に提唱したい。男も女も会社も国もwin-winになる「創造的分業」について。何が創造的かは千差万別だが、例えば僕の会社は秘書を2人採用し、各々の能力と個性で男ができない部分をバックアップするフォーメーションが1年かけて自然にできている。それは実務的なものだけでなく安心感という精神的なものもある。そのおかげで会社のパフォーマンスは上がっており万事うまくいっているのだから「後方支援」「お手伝い」という階級的視点はない。1+1が3になって全員がハッピーになるから創造的な分業であり、男女なく同等な評価をさせていただいている。国中の男がこう考えるようになれば日本国だって1+1が3になって何も悪いことはない。
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財務省キャリアに東大法学部ゼロ
2019 APR 6 0:00:59 am by 東 賢太郎
「おい、財務省キャリア入省に東大法学部がゼロだったらしい、財界に激震が走ってるぞ」と一昨日ある経済団体トップの方からききました。逆に増えたのはコンサル系、ファンド系だそうです。そのど真ん中にいて言うのも些か自虐的ですが、「日本の屋台骨が年々おかしくなってきましたね」とお答えしました。
そのココロはというと、「万人は万人に対して狼」(または「万人の万人に対する闘争」)という自然状態を克服するため社会的な契約を結んで国家に主権を委譲している(ホッブズ「リヴァイアサン」)と、単なる教養やお題目としてではなく、真剣に考えているからです(僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源)。僕は政治、行政にプロフェッションとしての関心も能力もないので、平穏な市民生活を送れるよう狼、闘争から守ってもらうために政府と官庁に税金を納め、優秀な人たちにその責務を負っていただき、それならば主権が制約されることをやむなしという契約をしているのだという観念をもって日本国で生きています。だから税金が下がらないのに官僚の質が劣化するとしたら俄には認容し難いのは当然のことなわけです。
官邸主導も結構だが、官僚の頂点の財務省でそのまた頂点の次官や局長にまで登りつめても政治の人身御供でああいうことになり、お茶の間の下世話な勧善懲悪ネタに飢えたマスコミの格好の餌食になって国民の理解も得られないどころか悪玉として記憶されてしまう。苦労して勉学しながら入省した挙句に大臣が人の税金で勉強したまで言ってくれる。 後輩たちは優秀なんです。たくさんの選択肢をもっています。想像するに、漢字も読めない上司にそんなことを言われて辞書に書いてない人生航路を行くのはアホらしい、それならば税金を払って守ってもらう側で能力を活かしたいということなのでしょうし、そう考えるならそれがいいよ、税金をたくさん払って「お釣りはいりません」というぐらいに国と貸し借りない人生を歩めばいいよと先輩として賛意を送りたい。読んでない人は「リヴァイアサン」をお読みなさい。
昨日は韓国のソウルで中村修二先生にファイナンスのコンサルとして助言を申し上げていましたが、人の税金で勉強するのがいかんなら「税金を1円ももらわないでノーベル賞を取ったのは私だけです」との中村先生のお言葉をここでお伝えするので官邸は麻生大臣の論旨を真摯に受け止め、先生に国民栄誉賞を検討すべきでないか。ところがその先生は「日本に事実に基づいた正義など存在しない、正義は既得権者の保護という落としどころありきで決まり、彼らはやったもん勝ちだ」と本質を看破してすでに米国市民になっておられ、「茹でガエルの日本は一度ぶっ壊れて沈没したほうが長い目で見ればいい、そうしないといずれ茹であがって滅びる」と愛国心、老婆心でおっしゃる。世界の熾烈な競争環境にいる者は皆同じ気持ちで、鈴木一朗氏(イチロー)が茹でガエルのNPBの栄誉も国民栄誉賞もいらないのも同根のことではないかと拝察しております。
池田信夫氏が「『葉隠』で印象的なのは「釈迦も孔子も鍋島家に仕官しなかったので家風に合わない」という言葉だ。ここでは佐賀藩(鍋島家)が、仏教や儒教などの普遍的な価値を超える絶対的な存在だった」と書いています。日本人の精神構造を考えるとき武士道は避けて通れませんが、それは影響のプロセスにおいて韓国の「国民情緒法」とファンクションはあまり変わらない。韓国のそれは、国民が騒げば、そんな法律はないが時に憲法にも優先して大統領や財閥トップが有罪になってしまうinvisible law(見えない法)ですが、「家風に合わない」で真理や正義を葬れる国なら韓国を法治国家にあらずと笑うことはできないでしょう。
「普遍的な価値を超えた存在」で日本国の「家風」を決める存在になろうとしているように見える官邸の主導という政治は、平成初期に雲霞のように大量発生して大企業の根幹部門に巣くい、会社を軒並みダメにした茹でガエルの集団に乗っかって命脈を保っているだけであり、お湯が熱くなってきて大きめのカエルが次々と茹であがってきたのが平成という世でした。その間に時価総額という企業の通信簿で日本の全大企業は米中はおろか韓国にも大負けであり、これは野球なら20対0のノーヒットノーラン負けぐらいの大屈辱敗戦なのに「株価なんて尺度は家風に合わない」という空気がいまさらのように残っている。個社として本気でそう思うなら構わないがそれならば自ら上場廃止すべきであって、それもしない。つまりなぜ株式を公開しているか意味すら分かっていない。
買収というのは、レバレッジド・バイアウトを除けば原則として時価総額の大が小を食うものです。捕食者か獲物かは株価で決まると言って過言でない。ある朝に出社したら会社は食われて今日から外資系でしたという可能性は世界に普遍的に存在するし、そうなっても個人としては生きていける人たちはそれを何とも思っていないのですが、それを「リスク」だと一番思わなくてはいけないのはサラリーマン社長を含むそうでない社員であり、皮肉なことに、「家風にこだわっている茹でガエル」であり、「株を理解していない人たち」なのです。カルロス・ゴーン事件の本質はそこというアングルでマスコミはほとんど報じないが、彼らは茹でガエルの代表選手で放送法の外国人株式保有規制(20%)でそれが起きえない業界に生息する最も感度の低い人たちなのです。そんな低次元の報道ばかり見ていれば、英国で移民に職を奪われたくない一心でBrexitにこぞって賛成投票したらホンダが工場移転して自分が失業しましたというようなことがあり得るのが日本の現実です。
後輩たちにアドヴァイスするとすれば、日本というplay groundはこれから悪くはないよ、ただ良いとすればそれは外資にとっても同じく良いよ、だから引きこもりの茹でガエルはいずれ全部死ぬしそこにいる君も死ぬよ、世界の最先端技術(deep tech)にフォーカスしたほうがいいよ、大企業がへたる環境は隙間ができるということだから君らの世代には大チャンスだよ、という簡単なことです。コンサル、ファンドがいいよとは言いませんが、有能な人がビジネス界に入ってくるのはウェルカムだ、皆さんの「未来アンテナ」は結構いい線いってるな、日本のビジネスパースンの未来はずいぶん明るいなという印象を持ちました。
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