僕が国学院久我山高校を応援するわけ
2022 APR 4 21:21:58 pm by 東 賢太郎

自分の嫌な所というのは誰しもあえて見たくないものだ。だからだろうか人間の脳はうまく出来ていて、嫌なことがあるとその記憶は徐々に消そうと作用するらしい。過去は時がたつほど美化されてゆくということなのだろう。
先だって、春の甲子園大会で東京代表に選ばれた国学院久我山高校がベスト4まで勝ち進んだ。同校には思い出がある。準決勝の大阪桐蔭高校戦をテレビで観戦しながら、僕はある出来事を思い出していた。
九段高校に入学したその年、新チームでのぞんだ東京都秋季大会の1回戦で、はじめて公式戦の先発マウンドに立った相手が同校だった。試合は9対0で完敗して実力差を思い知ったのだが、出来事というのはそれではない。
それを知ったのは35年後に学士会館であった高校の同窓会でのことだ。海外暮らしを終えて帰国した僕は卒業以来はじめての参加である。18才の顔しか覚えがない。でも確かに、集まった見知らぬ初老の男女はあの時の面々だった。
岡崎が「久しぶりだな」とやってきた。そこでいきなり「東、あんときはゴメンな」と語りだした意外なことは、僕をとても驚かせた。それは以前のブログに書いた。だがここに書くのはそれではない。さらに驚くことがあったのだ。
岡崎は中学からの野球仲間で、高校では1年から新チームの二塁手に抜擢された。「えっ、なんだよ?」「ほら、4回ぐらいにさ、お前が苦労して打ち取ったゲッツーのショートゴロさ、宍戸さんのトスを俺がぽろっとやっちまってよ」。
覚えてない。えっ、どの試合だったっけ?言いかけたが、やめた。そうも言えない雰囲気が岡崎にあったからだ。彼は「あんとき」で僕が当然わかると思ってる。それどころか、ずっと怒ってただろうと思って謝ってるわけだ。
それをわからなかったことに、僕はいま罪の意識がある。なんて申しわけなかったんだろう。「おいそんなのもういいじゃねえか、飲もうぜ」と肩を叩いて話題は変わった。三菱地所勤務だった岡崎は元気だったが、その数年後に他界した。
あの同窓会から22年。のど骨のようにひっかかっていたそれがついにとれた。
テレビにかじりついて応援している国学院久我山が、無双の強さで全国優勝することになる大阪桐蔭に押しまくられ、想定外の劣勢である。たしか3回に5点取られて8対0になった時のことだった。
岡崎のアレ、国学院久我山戦の出来事だったんじゃないか?
不意にそんな気がしてきた。懸命に記憶をたぐる。だめだ。あの試合、いいことなかったから脳が消したんだろう。覚えてるのは3回まで0対0で行ったのに中盤からがんがん打たれ、7回で9対0でコールド負けした、それだけだ。
13対4で負けてベンチに帰る久我山の選手をテレビで見ていて、もう一つ思い出した。そういえばあの時、先輩に「馬鹿野郎、負けたら悔しそうな顔しろ」と怒鳴られたことだ。大敗したのに僕はひとり清々としていたらしい。
そういえば。。。
岡崎は言った。「あんとき、お前が滅茶苦茶がっくりきた顔しててよ・・」。そうだったのか、全力で投げてゲッツーと思ったらイージーミスでキレてしまい、もういいやとなってしまったような、なんとなくそういうココロの記憶はある。
嫌なことだが、そういうことは僕には「あるある」なのだ。強豪相手だから負けは覚悟だった。だからそれじゃない。脳が記憶を消したかったのは、自暴自棄になって「打たれても構わん」になっちまった不徳のことだったのではないか?
岡崎が二塁から見たもの。走者一二塁から僕が崩れ、ダムが決壊したみたいになって、野手として打ってもやれなかったことか?でなければ彼が責任を感じ、がっくり顔を覚えていて、35年もたって謝りにくるはずないではないか・・・。
どの試合かすらわかってないのに「そんなのもういいじゃねえか」で終わることは、今なら絶対になかったと天国の彼にいいたい。甲子園いっしょに見ながら我々のあの試合についてもっともっと語り合いたかった。
岡崎は中学で僕に「野球人間オズマ」とあだ名をつけた。「ぜったい硬式やろうぜ」と誓ったら高校が学校群で同じになった。それも嬉しかったが、彼と同じチームで野球ができることはその百倍も嬉しかった。
15才の出来事の真相を67才で知った間抜けな男。真剣に野球をやった男がエースと呼んでくれた不甲斐ない男。彼のプレーも球筋も「いこうぜいこうぜ!」もくっきり覚えてるが、そっちの記憶も僕は墓まで持っていく。
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令和3年10月18日、阪神・広島戦の大誤審
2021 OCT 19 15:15:27 pm by 東 賢太郎

「球がグラブに入る前」か「いったん入った後」かが判定できないが、前者ならワンバウンド捕球、後者なら落球である。この2つ以外にこの写真が示す状態が発生することはあり得ない。従って、板山選手は直接捕球しておらず、アウト判定は100%誤審である。
しかしビデオでは100%とまでは言い切れない。ここが問題だった。
TVで流れた別角度の映像でも判定は微妙だった。リクエストの検証で審判団が確認したのも同じ画像であり、だから僕はこの誤審は仕方ないと思う。しかし、そう思わない人もたくさんいるだろうし、現にこうして証拠写真がネットばらまかれて誤審が証明されてしまうとプロのジャッジとして権威がなくなる。審判員の方々も大変だと思うがIT化は世の流れなのだから前向きに対処していくしかないのである。
問題はそこではない。アウトのコールを至近にいた2塁または3塁の塁審が即座にしたか否かである。コールがあれば1塁走者はゲッツーだから即座に帰塁する。ところが走者はそうしておらず、阪神の野手も確信をもって1塁に返球してはいない。ビデオには映っていないがアウトコールがはっきりせず、もしくは出たのが遅かった可能性が非常に高い。
佐々岡監督はまさにその点(塁審の判定の遅さ)について球審に抗議したが、その是非の検討はなくそのまま試合が再開した。問題はこちらの方である。「塁審のコールは必要なく、走者は自分のリスクで走塁せよ」ということならば結構だ。そう説明してこの事例を「判例」にすべきである。すると紛らわしいコールは不要だから現場は「しないでくれ」「しても見るな」となるだろう。
本件でいうなら、まず板山の捕球コールの是非、かつ、帰塁をアウトとした1塁塁審のコールの是非の2つを必然的に同時にビデオ判定することになるのである。
つまり、審判の権威はのっけから奪われ、若い世代の目からすれば、「なぜ目の悪いおじさんが決めてるの?」「そんなもんで私たちが一喜一憂しなきゃいけないの?」「審判はいらん、ロボットにしろ」となってITの浸食が進むのである。それを望まないのであれば、塁審が板山の捕球のアウト判定を「即座に」しなくてはならないのは自明だ。
したがって、本件において、「塁審の判定の遅さ」につき、捕球のアウトセーフとは全く別な問題として抗議があったにもかかわらず、「その是非の検討はなくそのまま試合が再開した」ことが大誤審なのである。佐々岡がNPBへ意見書を提出するよう球団に要望した行為はまったく正しいものとして擁護する。
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中日ドラゴンズ・木下雄介投手のこと
2021 AUG 8 14:14:09 pm by 東 賢太郎

外出はまったくしないことにしているが、先月にひとつだけ禁を破って某著名企業の新社長T氏と会食する運びになった。氏が慶応のラガーマンであることは周知である。ひとしきりその話になったはずみで「東さんは?」「野球しかやったことないです」となり、しばし間があって、眼をじっと見ながら「ガチですか?」とくる。さすがだ。ガチの人しかそういうことは聞かないから。「ガチです」。眼を見て答える。ラグビーも野球もない、それだけであの “キツくて理不尽な体育会の世界” をくぐりぬけた同志という感じになる。
中日ドラゴンズの木下雄介投手のことを書きたい。彼は駒大で肘(ひじ)を故障して1年で中退、大阪でアルバイト生活を送り、フィットネスジムのトレーナー、不動産会社で営業の仕事を経て徳島インディゴソックスで復活、育成選手枠1位で中日に入団した速球投手だ。僕は肘を故障した自分とどことなく重なるものを感じ、やった者だけが知る ”あの” 苦しみから不死鳥のように蘇った彼をずっと応援していた。
人生最大のトラウマだ。あれでメンタルが強くなったなんて負け惜しみを言ってる自分がみじめでしかない。あれだけは消えてしまってほしい・・・いまでも夢に出るシーンがある。投げてるのに痛くない。目が覚める。寝ぼけまなこで「ほんとうならいいな」としばらく願っている自分がいる。しかし、肘を伸ばしたまま左右にひねってみると、やっぱりその箇所がかすかに痛く、肩は怖くて寝返りを打てないポジションがある。
肘をやった当初は投げられないし、バットも振れない。ショックで何とかならないかと母に相談し、整形外科へ通い、電気治療もしたし鍼灸師にハリを打ってもらったりもしたがだめだった。高2の夏の前だ。チームの空気は暗転し東京大会は初戦で負けた。3年生には土下座して謝りたい、本当に申し訳なかった。背番号は1番から2桁に降格になり明けても暮れても走るだけの悶々とした日々を送ったが、秋には少し良くなって、球速は落ちたが投げられるようにはなった。ところが、肘をかばって無理に投げたせいか、秋になって今度は肩をやってしまった。直観的にこれは致命傷だと感じ、運命を呪った。
木下は今年一軍に定着が期待され、3月21日に日ハムとのオープン戦の8回に登板した。そこで、試合で肩をやったらしいということを記事で知った。肘、肩の順番が僕と同じであり心配だったが、そのシーンは怖くて画像を見ないまま今に至っていた。そして昨日のことだ、それをyoutubeでとうとう見ることになった。言葉にならない衝撃を受けた。(ここに貼るのは控えます)
僕が肩をやったのも試合中だった。投球の寸前に肩甲骨に異常を感じ、肩にビリッと激痛が走り、投じたボールは右打者の頭の1メートル上あたりを通過してバックネットにぶつかった。とっさに驚いて逃げた打者の姿をはっきり覚えている。監督が飛んできて交代を告げられ、1塁側ベンチで後輩の投球をボーっと眺めていた。やっちまった、どうしよう。悔しい。そんな思いがぐるぐる渦巻いていたのは覚えている。そして、そこからは、何も覚えていない。相手がどこだったかも。球場は南武線の矢野口にある九段高校の尽誠園だった。そこのマウンドで野球人生は終わった、記憶はそれだけだ。
問題のyoutubeで木下投手が平沼選手を三球三振に取った2球目、3球目を見てほしい。ため息が出るほど素晴らしいストレートだ。僕の大好きな球、憧れの球、何度見返しても元気をくれる球だ。藤川球児が自分のようになれるとエールを送っていたのはこれだったのだ。そして次の浅間選手の4球目に突然 “それ” は起きる。そして僕はトラウマが蘇り、しばし固まって動けなくなった。なんとかビデオを止め、やがて涙がぽろぽろ出てきた。これはもう厳しいのだろうか、でも彼の野球は職業だ、奥さんも2人の小さいお子さんもいる・・・・
ピッチャーというのは天国と地獄が隣り合わせのポジションだ。こんなにハイリスクなんだけど、やった者しかわからないウルトラ・ハイリターンがあるからやめられないのである。木下投手は僕なんかの千倍もそれを味わう才能と実力があったし、恐らく人知れない凄まじい努力をしたのだろう、その結果、地獄から這い上がってそれをついに掴み取った。それだけでもまぎれもなく超一流の男である。そして、もっともっと凄いことだが、彼は体がぼろぼろになるまでガチでそれをやり遂げたということなのだ。
このビデオを見ることになったのは、27才の木下投手の訃報にびっくりしたからだ。とうとう勇気を出して見ずにはいられなくなった。これ以上言葉もないのでここで本稿は閉じる。再々復活に向けて勇躍してランニングを始めた姿が中日ドラゴンズ球団のビデオにはある。怪我した者の星として応援したかった。多くの野球ファンに勇気と希望を与えて下さった。心からご冥福をお祈りします。
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猫のケンカと野球の深い関係
2021 MAR 8 0:00:30 am by 東 賢太郎

猫を見ていると、知らない相手にいきなりケンカを売ったり尻尾を巻いて逃げたりはしない。じっと距離をとって目線を合わさないように相手の気配をうかがい、「おぬしできるな」となると無用な争いはせず、離れていく。ここまでけっこう時間がかかるがとても面白い。
野球をやっていて、それだなと感じたのは試合開始前の整列だ。日本のアマ野球にしかない儀式である。両軍がホームベース前に整列し、審判が「それでは九段高校対**高校の・・試合を始めます」なんて宣言する。
これ、チームのみんなはどう思ってたか知らないが、ピッチャーは相手の全員と一対一の対決をするから、ずらっと並ぶ相手の顔と図体を眺めてデカいなとかチョロそうだなとか、ケンカ前の値踏みをしていたのを思い出す。
そのときの心境はというと、こういう感じだ。
これを何度もやってるから、ぱっと見で相手を計る力はとてもついたように思う。負けるケンカはしないに限るから良いことだ。しかし、猫はヤバいと思えば去ればいいが、野球はそうはいかない。怖いと思う時もあった。
後攻めだと列からそのままマウンドに登る。そこでゆっくりと足場をならして5,6球のウォームアップをする。うん、行ってるぞ。いい球を投げてるという自信と幸福感に包まれた自分がいる。これでOK。アドレナリンが出てしまうともう自分の世界だ、いつの間にか怖さは消えている。不思議なことだった。
なぜなら怖いのは相手だけではない、投手と打者は18メートルちょっとの距離だ。ヘルメットも防具もつけずそんな近くから硬球を思いっきりノックされたら殺されかねない。ところがアドレナリンが出てしまうと、俺の球が打たれるわけないさと根拠のない買いかぶりで平気になってしまうのだ。
もともと小心者なのに、やってるうちにそうなった。ただ試合が始まるといろいろある。マウンドでは誰も助けてくれないからすごく孤独だ。ピンチになると野手が集まってきて「守ってやるからな、打たしてけよ」なんて励ましてくれる。あのね、打たれてるからこうなってるわけよ・・・と孤独感は倍になる。
投手は練習も野手とは別メニューである。捕手と皇居一周してダッシュして柔軟して黙々と投げ込みだ。帰りがけに同期で飯田橋の甘味屋であんみつを食べる。野手どもは「Yさん(先輩)よぉ、走りながらぷっぷって屁こくんだぜ」でガハハと盛り上がる。僕はカーブの落ちが悪いなぁ、なぜかなあと一人考えてる。
こうして毎日の「おひとり様」生活を2年もしてると性格もそうなってくる。チームを背負ってる責任感はなかった。そんなので勝てるほど野球は甘くない。そのかわりカーブの握りは研究した。今でいうナックル・カーブという奴だったようだがあんまり打たれず、アメリカではこれのおかげでトロフィーをもらった。
その性格が私生活でプラスにもマイナスにもなったことはないが、ゴルフでは活きた。ゴルフがうまいと思ったことは一度もないが、ベット(賭け)の強さは自他ともに認める。スコアは負けてもそっちは勝つのがモットーである。野村ではあいつと握るのはカネをどぶに捨てるようなもんだといわれた。
理由は簡単だ。ゴルフも「おひとり様競技」だからピッチャーとよく似てる。マウンドと同じ境地なら負けるはずない、ここぞの寄せやパットが決まってベットは勝つという道理だ。プロはそれで食っているんだろう、だからナイッショーなんて言わないし、ラウンド中は笑顔もなければまったく口もきかない。
マウンドでおしゃべりする奴はいないから僕においてもラウンド中の無言は当然だった。すると変な奴だと噂される。もとより本性は飲み会を絶対断る男であり、そっちは妥協したがゴルフではしなかっただけだ。ベットをするモチベーションがなくなってゴルフはやめた。麻雀の代わりにやってたということだ。
思えば猫もすぐれておひとり様の動物だ。子供の時からずっと猫が家にいて一緒に遊んで育ってる。祖父が手相を見て一匹狼だといったからポテンシャルはあり、猫に同化したのだろうと思われる。それにしても猫のケンカは深い。
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無観客試合で聞こえたもの
2020 MAR 1 18:18:07 pm by 東 賢太郎

無観客試合は初めてだ。球場に冴え冴えと音が響きわたるのが心地よい。客がいない僕らの練習試合はいつもこういう感じだった。普段は歓声やラッパにかき消されてるミットの音。ビシエド選手のホームランの打球音。そしてなにより、選手が一球ごとにあげるベンチからの大音声である。かつてプロ野球でこんなものが聞こえたことはない。
思い出したのは、外野を守ったらやたら静かだったことだ。なんと視界の半分は空である。野球は遥か遠くでやっていて、まるで隣り村のお祭りだ。たまにフライが飛んできて、風を切るシューっという音で我に返る。
マウンドで空が気になることはない。視界はキャッチャーミットだけだ。同じスポーツとは思えない、ラグビーみたいなワンチームはないのだ。
しかし、ベンチで大声を出していると、ひとつな気になる。上級生も下級生もない。相手投手のミット音が気になる。それを味方が打つとベンチがどっと沸く。野球は半分はベンチで座ってる怠慢なスポーツだとサッカー部の奴は思ってるがそうじゃない、ベンチでも競技してるのだ。
慣れない無観客試合はいろんなことを思い出させてくれる。全部それでもいいぐらい音が心地よい。でもプロの選手は張り合いがないだろう。
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神宮第二球場
2019 NOV 9 13:13:52 pm by 東 賢太郎

ラグビーをやっていた後輩に「生まれかわったらまたやるかい?」ときいたら、間髪入れずに「はい」ときた。「いえ、こんどは**を」なんてことであれば、ちょっと彼らしくないなと思っていたから安心した。
僕は飽きっぽい。中学のころ、学年のはじめに真新しい教科書を手にすると「よし、やるぞ」と固く誓ったものだが、ひと月ももったためしがない。高校になると、それじゃだめだと思い、誓いは「今年こそは」にかわってきた。それで二か月ぐらいはもつようにはなったが、二年生の夏あたりから「来年こそは」になった。最初から最後まで日々「やるぞ」が消えなかったのは野球だけだ。
つまり、高校には野球をしに行っていたのであり、ついでに教室にも寄っていた。親をふくめて誰も信用しないが、ほんとうなんだからしかたない。それで、人生を生き抜くためのインテリジェンスはグラウンドで学び、野球ができないうっぷん晴らしに仕事したというのが僕の人生である。当然、生まれかわったら、やることは野球しかない。
「親をふくめて」というのは母親はべつだ。ガリ勉嫌いで男の子は外で遊べと叩き出す「非教育ママ」だった。自分の父親は初代か2代目の慶応大学の野球部だ、息子の野球漬けはぜんぜん自然であり、かたや勉強にうるさい親父には「ちゃんとやってます」と虚偽報告をしてくれてたらしく、あとで親父に申しわけなくて勉強した。
九段高校はまだ東西いっしょだった東京都大会の第6シード校だった。入部して校庭の端から端までの声出し訓練からはじまり、万事きつかったが耐えた。そうしたら夏の甲子園大会地区予選に1年なのにベンチ入りを命じられた。軟式の草野球とはいえ大人たちを手玉にとっていた小僧だから驚きもなく、まあ当然と思うほどの天狗だった。15才で世の中なめていたわけだが、良くも悪くもそんな経験は他のことでは無理だ、ないよりはよかったかもしれない。
運悪く優勝候補の日大一高と当たった。神宮第二球場だった。どうせ登板はないと思い、正直のところ、高校球界No.1左腕でドラフト1位候補の保坂投手を見られてラッキーというお客さん気分だった。一塁側ベンチでまのあたりにした保坂は凄まじく、練習試合で打たなかったのを見たことない4番の桧前さんが浅い外野フライがやっとというのがショックだった。コールド負けだった。そのまま勝ち進んで出た甲子園の都城高戦で17三振を奪った破壊力あるストレートは衝撃で、後にも先にもボールに恐怖感をもったのはこのときだけだ。彼はその時2年で、翌年の東京都予選で日大鶴ヶ丘に10-0の6回コールド勝ちした際、18個のアウト中17個のアウトが三振だった。僕もそうだが、当時の高校生はスライダーやフォークやチェンジアップなんか投げない。直球とカーブだけである。それでこれ。いかにものすごいピッチャーだったかご想像つくだろうか。いまだって、そんな猪口才(ちょこざい)な小道具で三振とっても僕はちっとも尊敬しない。野茂とか大魔神は立派と思うが、これは美学なんで争い難いのであって、直球とカーブだけで三振を取りまくった金田正一、外木場義郎、そして保坂英二は僕の神である。
ところで、ベンチではマウンド上の保坂がやたらでっかく見えていて、さっきwikipediaを調べたらなんと168センチだ。驚いた。人間ってそういうもんなんだ。圧倒されると相手が大きく見えてしまうのだ。高校時代はやせていて立派な体格にあこがれたが、間違いなくあの保坂のイメージがあったと思う。あのぐらいでっかくないとあんな球は投げられないと。
そういえば50を過ぎてから「ご立派な体格で」といわれるようになった。そんなことは40代まで一度もいわれたことがない。要はデブという意味だが、ひょっとするとそうじゃないのかもしれない。俺も仕事の貫禄がついてでっかく見えるということか。じゃあ60代だ、もう何もこわいもんないな。15才で世の中なめた経験はいつもこういうふうにきいてくる。
神宮第二球場がなくなるそうで、最後の試合が昨日行われたらしい。
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渋野日向子、驚異の1年生世界制覇
2019 AUG 7 18:18:59 pm by 東 賢太郎

渋野日向子がAIG全英女子オープンを征したがTVを観てなかった。そのぐらいゴルフはご無沙汰になっていて、きのう野村ロンドン会の会合で「東さん、ウォーバーンでしたね」といわれ、何のことかわからなかった。「オーバン?なんだそれ?」「ちがうちがう、なに言ってんです、ウォーバーンですよウォーバーン、連れてってくれたじゃないですか」。
ウォーバーン・ゴルフ・クラブ(Woburn Golf Club)、懐かしい名前だ。「そうか、昔っから全英女子オープンはあそこだった。渋野が勝った勝ったって大騒ぎになってるのはあそこだったか」。「そうですよ、ほら、覚えてます?18番でああなってこうなって・・・」。
覚えてない。あまりにあちこちでやったのもあるがあまりに沢山のことを忘れちまってもいるんだろう。ウォーバーンはロンドンから車でそう遠くなくって、親父のつてで三井銀行の上の方にご紹介いただいて、たぶん3、4回ぐらいはプレーしたと思うが、あんまり得意なコースじゃなかった。1番のティーショットがちょっとスライスするとフェアウェーが右下がりで2オンが難しいのが嫌だった。それぐらいしか記憶にない。パネルを見ると、ここはブリティッシュ・マスターズのトーナメント・コースでもあってグレッグ・ノーマン、リー・トレビノ、セベ・バレストロス、マーク・マクナルティ、サンディ・ライル、ニック・ファルド、イアン・ウーズナムなんて当時の綺羅星のような名前が並んでる。こういう憧れのスターを見てゴルフに目覚め、彼らと同じコースでプレーしていたのだから贅沢な日々だった。
僕はゴルフをなめていた。止まった球だ。野球のノックと一緒だろ。ノックなら二塁ベースの左右1メートル幅内に9割入れる自信あるぜなんて思ってた。それはゴルフでもその通りだった。ところがそこから先がちがう。球が曲がるのだ。野球ならバックスクリーンの距離で2、30メートルも曲がってしまう。野球はキャッチされなければそれでOKだが、標的を狙うゲームであるゴルフでは話にならない。だから僕のゴルフは、飛ばすことは放棄し、曲げないことに傾注する闘争となった。
ウォーバーンの1番は200ヤード先で2、30ヤードもスライスしたら右に転がってもうパーが危ない。でも行ってしまう。わかってたんだろ、お前は馬鹿か!自分の内なる声が責めたてる。第2打はラフでライが悪い。ツイてねえな。そう呟くとダフって草だけ勢いよく飛んで、肝心のボールはグリーンのはるか手前だ。ちくしょう。切れて打った第3打がトップして大オーバー。もうここで人生をはかなんでしまい、スリーパットしてトリプルボギーと、だいたいこんな感じのゴルフをやっていた。
完全主義なのでスタートでつまずくとモチベーションが切れてしまう。これが僕の最大の欠点だった。そういう性格に生まれついており、それじゃ何やってもだめだと問答無用に数字で思いしらせてくれたのがゴルフだ。野球でそれに気がつくことはなかったからやってよかったし、性格を変えてくれるほどゴルフにのめり込んだことは大きかった。そんなレベルからシングルになる道のりは長かったが、その過程で発見した数々のことはビジネスに絶大な価値がある。一番才能のない勉強は予備校の助けを要したが野球とゴルフは完全独学であり、その自信でビジネスも独学で来れた。
渋野日向子がソフトボール選手でピッチャーだというのはいいと思う。有利だ。しかもゴルフよりソフトボールが好きだと言ってのける。彼女はなんであんなに明るくプレーできるんだろう?阪神の西投手がいつも笑顔で投げてカープがやられている。あの顔は不思議であり、打者は余裕を持たれてる感じで嫌だろうなあと思う。その境地でゴルフをやって、去年プロテストに14位タイで合格した1年生が全国制覇どころか世界制覇してしまう。なんじゃこの子は??
ビデオでバットスイング見た。左打ちだ。たしか王貞治さんがゴルフは右でシングルだった。運動神経すごい。中学で男の野球部に入部してる。足腰が野球だ、できてるね。だからかもしれないがゴルフスイングは女子プロによくあるオーバースイングじゃない、テークバックが小さめでフォローが大きい。パットもなんとなくそう感じる。思い切りもいい。カープの小園を思い出すなあ。盤石の安定感。すばらしい!彼女にスイング習いたいなあと思う。
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緒方監督が野間を殴った気持ち
2019 JUL 25 23:23:49 pm by 東 賢太郎

打撃のことはあんまり覚えてないが、痛い思い出がある。高校2年の秋の日大一高戦、肩の故障からサードコーチをした試合だった。終盤に一死一塁で代打のお呼びがかかったはいいがカウント1-2から一塁線のゴロでぎりぎりゲッツーだった。打った瞬間にファウルと思って止まった、あれヤバかったなと思ってベンチに戻ったら監督にめちゃくちゃ怒られた。当然だ。すごく落ちこんだ。
先日それを思い出すプレーを見た。俊足のカープ野間が投手への小飛球で全力疾走しなかった。投手が落球したのにアウト。そのまま同点でゲームは終わった。
「こいつ2軍に落とせ!」僕がTVに向かって吠えていたちょうどその頃、今日の報道によると、監督室で野間は緒方に平手で殴られていたらしい。
「愛の鞭」 or「暴力禁止」の戦いがネットで熱いが、前者に勝ち目はゼロだ。鞭だけなら傷害罪でアウト。でも愛があれば?当事者が納得すれば?もっとだめだ。「なんだ、あいつは鞭だけで免罪かよ」「俺なら即2軍だぜ」「やってらんねえよな」となって論功行賞の根幹が崩壊する。つまり、リーダーに愛の鞭は使用禁止なのである。問答無用で「暴力禁止」がいい。
僕なら監督に「報奨金」と「罰金」を決める権限を与える。どちらも年俸の何%と決める。選手は手柄をあげたらもらう。足をひっぱったら払う。球団が契約更改でする査定権の一部を監督は使って信賞必罰のチームマネジメントができる。査定は戦国時代の首実検に相当する。もちろんフロントがやってもいいが、監督に現場の目で修正させるのは士気を高めるためには大事である。緒方監督は「ひいき」が過ぎると批判されるが、この仕組みだと愛する野間が数字を出さないと「報奨金」は出せないし、あの怠慢走塁は「罰金」でフェアにかたがつく。
そこまで理性的な解答を考えはしたものの、緒方監督が野間を殴った気持ちはわかってしまう自分がいるから困る。お前は本当にへたくそだね、学ばないね、何考えて毎日生きてるんだ?わかる。僕も昭和の人間なのだ。
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ピッチャーの指先感覚(ロージンバッグ)
2019 MAY 11 13:13:27 pm by 東 賢太郎

米大リーグ・マリナーズの菊池雄星投手に、禁じられている「松脂(ヤニ)」の使用疑惑が現地メディアで取りざたされていると報じられた。帽子のツバに塗っていたらしく真偽のほどはわからないが、しかし、禁じられているというとイメージが悪い。スピットボール(指にツバをつける)は唾液がだめということだが、松脂はだめというわけではない。
ピッチャーがマウンドの後ろで拾いあげてポンポンやってる白い物体、あれをロージンバッグといい、指先のすべり止めの白い粉が布の中に入ってる。小さいころテレビのプロ野球中継で「老人用なのか」と不思議に思っていたが、Rosin(松脂)だった。今の今までぜんぶ松脂と思っていたが、調べると炭酸マグネシウムが80%らしい。だが松脂も15%はいってるんだから禁止物質というわけではない。審判が認めたロージンバッグ以外は物質が何であろうと使用禁止ということである。
高校に入って最初に嬉しかった記憶はあのポンポンだ。やったと思ったがそれもつかの間、試合であれが置いてあるマウンドのホンモノ感、仕事場という圧迫感はただならぬものだった。その印象が尾を引いて、ホンモノしか興味がないオトナになってソナーの社是まで『本物主義』になってしまった気がする。
しかしあれがそんなに必要だったかというと、雨の日以外は覚えてない。プロは松脂を塗るほど必要なんだろうが、高校野球はフライアウトは勿論、内野ゴロでも同じボールが返ってくるのが半ば当然であり、一塁手が素手でコネコネして土を落としてきれいにして返してくれる。捕手はピンチで毎球コネコネ、ニューボールもコネコネだ。それでOKだったし、仲間の思いやり、期待がこもったボールのほうが好きだった。
ロージンは滑るリスクを少なくしてくれるだけでコントロールを良くしてくれるわけではない。ないものは出ないし、悪い投手はより精密に悪くなるだけだ。僕にとっては心を落ち着けるお守りだった。その意味では、ピンチではロージンもコネコネも伝令も内野全員マウンド集合もぜんぶお守りにすぎない。打たせないぞという動物的本能以外に頼りになるものはなかったように思う。
ちなみにこの感じはゴルフに役立った。パットが入らなくなって、やたらとパターを買い替えたがやっぱり入らない。要はヘタなんだと練習したらうまくなった。当たり前だろと思われるだろうが、クラブに頼るのは他力本願。皆さんきっと生きていくうえで他力本願がたくさんある。それがいかに自分を救ってくれないかは、自力本願で結果を出してみないとわからない。
野球は攻・走・守といわれるが僕の関心はどれでもなく「投」だった。投は指先感覚99%だから、野球の記憶は右手の中指、人差し指の先っぽに詰まってる。身体は脳の特定部位にリンクしているから、きっとその部位はシナプスが多く、僕は日々右手を使いながら野球回路が関与して生きている可能性がある。だから社是まで『本物主義』になってしまったということで話は丸く収まる。
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野村證券・外村副社長からの電話
2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎

外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前の27才。コロラド大学エコノミック・インスティトゥートで1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだ。
「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」
一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。
「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」
コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルの高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもうやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。
その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで飛行機に乗り午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。外人とバッテリー組むのは初めてだ。「俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね」。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。
いよいよ日曜日だ。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで僕が一番若い。初回、1番にストレートの四球。2番に初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、天を仰いだ。コロラドから鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。そこから必死でどうなったかあんまり記憶がないが、僕の身上である渾身の高め直球で4番を空振り三振にとったのだけは確かで、なんとか2点で抑えた。
勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。後半はまったく打たれる気もせずのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。
午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。
準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。
残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。
この大会の結末はというと、決勝戦は日本教育審議会とJALの対決となり、1965年の夏の甲子園1回戦であの平松政次の岡山東を完封した神山投手(日大二)擁する日本教育審議会が1-0の接戦の末に優勝した。JALのエースはニューヨーク・ヤンキースのテスト生で剛球左腕のオザワだった。もう試合を終えていた僕は客席で観戦していたが、この試合は緊迫したプロ並みの投手戦となり球場がかたずをのんだ。
試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表である。優勝投手の神山さんと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は神山さんが阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位である。聞き間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。
これを最後に僕が野球に呼ばれることはなかったから、これが引退の花道みたいになった。高2で肩・ひじを故障して泣く泣く野球を断念した人間だ、おかげでそのトラウマは薄れた。しかし、それもこれも、同じほど信じれられなかった外村さんの電話からはじまったことなのだ。これがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、今度は英国流にゴルフを何度もご一緒し、テニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。
そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目でお叱りもいただき、数えたらきりのないご恩と激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まるニューヨーク野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とその話だけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。
きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、
「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」
「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」
が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、
東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村
とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、
外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。
東
とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。
12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。
あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どうして書く気になったんだろう?どこからともなくその気がやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本のお電話だったのかもしれない。
外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。
