緒方監督が野間を殴った気持ち
2019 JUL 25 23:23:49 pm by 東 賢太郎
打撃のことはあんまり覚えてないが、痛い思い出がある。高校2年の秋の日大一高戦、肩の故障からサードコーチをした試合だった。終盤に一死一塁で代打のお呼びがかかったはいいがカウント1-2から一塁線のゴロでぎりぎりゲッツーだった。打った瞬間にファウルと思って止まった、あれヤバかったなと思ってベンチに戻ったら監督にめちゃくちゃ怒られた。当然だ。すごく落ちこんだ。
先日それを思い出すプレーを見た。俊足のカープ野間が投手への小飛球で全力疾走しなかった。投手が落球したのにアウト。そのまま同点でゲームは終わった。
「こいつ2軍に落とせ!」僕がTVに向かって吠えていたちょうどその頃、今日の報道によると、監督室で野間は緒方に平手で殴られていたらしい。
「愛の鞭」 or「暴力禁止」の戦いがネットで熱いが、前者に勝ち目はゼロだ。鞭だけなら傷害罪でアウト。でも愛があれば?当事者が納得すれば?もっとだめだ。「なんだ、あいつは鞭だけで免罪かよ」「俺なら即2軍だぜ」「やってらんねえよな」となって論功行賞の根幹が崩壊する。つまり、リーダーに愛の鞭は使用禁止なのである。問答無用で「暴力禁止」がいい。
僕なら監督に「報奨金」と「罰金」を決める権限を与える。どちらも年俸の何%と決める。選手は手柄をあげたらもらう。足をひっぱったら払う。球団が契約更改でする査定権の一部を監督は使って信賞必罰のチームマネジメントができる。査定は戦国時代の首実検に相当する。もちろんフロントがやってもいいが、監督に現場の目で修正させるのは士気を高めるためには大事である。緒方監督は「ひいき」が過ぎると批判されるが、この仕組みだと愛する野間が数字を出さないと「報奨金」は出せないし、あの怠慢走塁は「罰金」でフェアにかたがつく。
そこまで理性的な解答を考えはしたものの、緒方監督が野間を殴った気持ちはわかってしまう自分がいるから困る。お前は本当にへたくそだね、学ばないね、何考えて毎日生きてるんだ?わかる。僕も昭和の人間なのだ。
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ピッチャーの指先感覚(ロージンバッグ)
2019 MAY 11 13:13:27 pm by 東 賢太郎
米大リーグ・マリナーズの菊池雄星投手に、禁じられている「松脂(ヤニ)」の使用疑惑が現地メディアで取りざたされていると報じられた。帽子のツバに塗っていたらしく真偽のほどはわからないが、しかし、禁じられているというとイメージが悪い。スピットボール(指にツバをつける)は唾液がだめということだが、松脂はだめというわけではない。
ピッチャーがマウンドの後ろで拾いあげてポンポンやってる白い物体、あれをロージンバッグといい、指先のすべり止めの白い粉が布の中に入ってる。小さいころテレビのプロ野球中継で「老人用なのか」と不思議に思っていたが、Rosin(松脂)だった。今の今までぜんぶ松脂と思っていたが、調べると炭酸マグネシウムが80%らしい。だが松脂も15%はいってるんだから禁止物質というわけではない。審判が認めたロージンバッグ以外は物質が何であろうと使用禁止ということである。
高校に入って最初に嬉しかった記憶はあのポンポンだ。やったと思ったがそれもつかの間、試合であれが置いてあるマウンドのホンモノ感、仕事場という圧迫感はただならぬものだった。その印象が尾を引いて、ホンモノしか興味がないオトナになってソナーの社是まで『本物主義』になってしまった気がする。
しかしあれがそんなに必要だったかというと、雨の日以外は覚えてない。プロは松脂を塗るほど必要なんだろうが、高校野球はフライアウトは勿論、内野ゴロでも同じボールが返ってくるのが半ば当然であり、一塁手が素手でコネコネして土を落としてきれいにして返してくれる。捕手はピンチで毎球コネコネ、ニューボールもコネコネだ。それでOKだったし、仲間の思いやり、期待がこもったボールのほうが好きだった。
ロージンは滑るリスクを少なくしてくれるだけでコントロールを良くしてくれるわけではない。ないものは出ないし、悪い投手はより精密に悪くなるだけだ。僕にとっては心を落ち着けるお守りだった。その意味では、ピンチではロージンもコネコネも伝令も内野全員マウンド集合もぜんぶお守りにすぎない。打たせないぞという動物的本能以外に頼りになるものはなかったように思う。
ちなみにこの感じはゴルフに役立った。パットが入らなくなって、やたらとパターを買い替えたがやっぱり入らない。要はヘタなんだと練習したらうまくなった。当たり前だろと思われるだろうが、クラブに頼るのは他力本願。皆さんきっと生きていくうえで他力本願がたくさんある。それがいかに自分を救ってくれないかは、自力本願で結果を出してみないとわからない。
野球は攻・走・守といわれるが僕の関心はどれでもなく「投」だった。投は指先感覚99%だから、野球の記憶は右手の中指、人差し指の先っぽに詰まってる。身体は脳の特定部位にリンクしているから、きっとその部位はシナプスが多く、僕は日々右手を使いながら野球回路が関与して生きている可能性がある。だから社是まで『本物主義』になってしまったということで話は丸く収まる。
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野村證券・外村副社長からの電話
2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎
外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前の27才。コロラド大学エコノミック・インスティトゥートで1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだ。
「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」
一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。
「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」
コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルのロッキー山脈の高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもう10年もやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。
その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで朝の飛行機に乗り、午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。外人とバッテリー組むのは初めてだ。「俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね」。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。
いよいよ日曜日だ。初めて知ったが、それは第七回日本クラブ主催軟式野球大会というものだった。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで僕が一番若い。初回、先頭打者にストレートの四球。2番には置きにいった初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、やばいと思った。鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。3番は記憶がないが、4番を三振に取ればマウントできると思って渾身の高めストレートで狙い通り空振り三振にとった。それで平常心に戻り、なんとか2点で抑えた。
勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、相手投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。ダン捕手のリードが良くてカーブがまったく打たれず、後半はのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。
午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。
準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。
残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。
この大会の結末はというと、決勝戦は日本教育審議会とJALの対決となり、1965年の夏の甲子園1回戦であの平松政次の岡山東を完封した神山投手(日大二)擁する日本教育審議会が1-0の接戦の末に優勝した。JALのエースはニューヨーク・ヤンキースのテスト生で剛球左腕のオザワだった。もう試合を終えていた僕は客席で観戦していたが、この試合は緊迫したプロ並みの投手戦となり球場がかたずをのんだ。
試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表である。優勝投手の神山さんと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は神山さんが阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位である。聞き間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。
これを最後に僕が野球に呼ばれることはなかったから、これが引退の花道みたいになった。高2で肩・ひじを故障して泣く泣く野球を断念した人間だ、おかげでそのトラウマは薄れた。しかし、それもこれも、同じほど信じれられなかった外村さんの電話からはじまったことなのだ。これがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、今度は英国流にゴルフを何度もご一緒し、テニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。
そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目でお叱りもいただき、数えたらきりのないご恩と激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まるニューヨーク野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とその話だけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。
きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、
「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」
「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」
が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、
東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村
とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、
外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。
東
とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。
12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。
あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どうして書く気になったんだろう?どこからともなくその気がやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本のお電話だったのかもしれない。
外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。
大谷くん、ピッチャーやめなさい
2018 SEP 9 3:03:07 am by 東 賢太郎
何年か前に大谷の二刀流の話が出たとき僕は「投手だけで行け」と書きました。バッターがダメなのでピッチャーになった奴は聞いたことない。その逆はプロにもいくらもいる。だからまずピッチャーやって、ダメなら打者に専念すればいいという趣旨でした。
ヒジのトミージョン手術という話が本当なら、いよいよその時が来たということです。ちょっと早くて残念だけど、充分にスピードボールで世界を驚かせました。ぜひ大谷にはピッチャーを辞めてもらいたい。打者でもホームランで松井を抜いているのだから専念すればそれだけでメジャーで長くできて歴史に残るバッターになれるでしょう。ヒジが悪化して打者もできなくなるリスクは取るべきではありません。
僕ごときの体験で言うのも憚られるのですが、ヒジをやって「患者」「傷病兵」になってしまえばプロもアマもありません。ピッチャーのオーバーハンドの肩・ヒジの動きというのは構造的に不自然で動物は猿でもできないものだそうです。人間だからOKというわけではありません。投手はその異常動作を連続で100回もやるわけで肩・ヒジに何も起きない方が不思議ですらあり、ひと試合に全力投球は数回しかなく、肩・ヒジに何の問題もない打撃だけの野手よりリスクが明らかに高いのです。それも、壊したらもうただの人であって野手のポジションを取るにも不利であり、ボールが行かなくなればもう野球はできません。それで過去何人も引退を余儀なくされてる、そんなひどいスポーツほかにありませんよ。まだヒジ痛だけなら今の医学でどうにかなるのかもしれませんが、最悪の事態としてそれが肩に連鎖して野球を断念したケースもあるということで、これから野球をやる少年たちのためにも僕の顛末を書いておきます。
夏の大会前で毎日投げこみの日々でした。ここは個人差があるでしょうが、ある日、投げているとボールをリリースしてヒジを伸ばす瞬間にピリッと軽い痛みが来るようになりました。部位は、手の平を上にして腕を伸ばした時のヒジの折れ曲がる所の左下、骨と骨の間のくぼみを押したあたりです。これが悪夢の始まりでした。いずれ治るだろうと我慢して投げていたらだんだんひどくなってきて、とうとうそこの奥の方に投げた瞬間に激痛が走るようになり、グーの拳を作ってヒジを伸ばしたまま右に捻ると電気が走ったようにビリっと来て、やがて日常生活でもヒジがまっすぐ伸ばせなくなりました。そうなると打撃でもフォローでビリッと来るようになって、結局バッティングもできなくなりました。ヒジは放っておいても絶対に治らない、虫歯と一緒と覚えてください。
投球をしばらくやめていたら痛みは来なくなりましたが、それは体が反応してヒジが痛くない投げ方になっていただけだったのです。その分の負荷は肩に行っており、スピードがおちてますから補おうとますます肩に無理が来ていたと考えられます。知らずに登板してたら今度は試合中の投球の瞬間に肩甲骨が背中でずるっとズレて肩が抜けたような、あれ以前も以後も一度も味わったことのない異変がありました。球は右打者のはるか頭上を通ってバックネットに行ってしまい何が起きたか自分もわからず周囲も驚き、ああやばい、やっちまったと思ったのをはっきりと覚えてます。次の球も同じでショックでした。イニング途中で降板したのはこの時が初めてで、自分からだめだと伝えたかもしれませんが覚えてません。ベンチで東すまんとY監督が肩をもんでくれたことだけでそれからどうなったかも。それで僕の投手生命は一巻のおしまい。高2の秋でした。
どうしてそうなるまで投げたんだ、馬鹿だなと思われるでしょうが、カッコよく表むきを言えば1年夏からつけた背番号1の重みでしょう。監督の「東、すまん」はそういうことです。しかし実はそれよりなにより危ない原因があって、ピッチャーズ・ハイとでもいうかマウンドに立つ類のない快感なのです。以後の人生あれより気持ち良かったことはなくあそこに立ってしまうと痛いもくそもありません、全校男子千人ぐらいで一人だけ、勉強の一番などよりよっぽど上でヒジが痛いぐらいで明け渡すわけにはいかないのです。プロの人はそこに生活もかかってくるわけで、手術してでもというのは仕方ないし本能だから傍が止めようのないものなのです。
肩に来てからの経緯を書きます。体重移動してトップに入り、そこから腕を振ってボールを前に持ってこようとする、肩関節が一番捻じれて一気に加速にはいるその一瞬、ズキッ!なのです。ヒジはリリースの瞬間でしたがこれは加速直前でもうお話にならない、ボールが投げられないということであって、2,3メートルのキャッチボールでも怖かった。腱が損傷しており整形外科、鍼灸、電気治療にワラにもすがる思いで通いましたが効果はなく、また2,3か月ぐらいボールは触らず黙々と走るだけの灰色の日々を過ごしました。やがてなんとか肩が痛くない投げ方を体が覚えはしましたが、元の球威が戻ることは二度とありませんでした。
肩の方は打撃に支障はなく代打で試合に出ましたが、野手に転向する気にならなかったのはピッチャー東を捨てきることがどうしてもできなかったからです。マウンドに立てない体になったという絶望感に打ちのめされてしまい、いま振り返るとただただ人間が弱かった。3年の春の練習試合、エースが1回いきなり3点取られての無死満塁でリリーフして9回まで完封して3-0で負けた墨田工業戦が高校で最後のマウンドでした。試合後に相手がナイスピッチと声をかけてくれ、投手として誇らしく野球を終えたのだけは幸せでしたが、あの試合で打たれてたらその後の人生どうなったか・・・きっと大げさに思われるでしょうがいくら笑われようと、僕は甲子園で負けた方が泣くのをわかるしその位のコミットメントで野球をやっていた、まぎれもない高校球児だったと思います。
それからは何というか、ただの人になったというか、不遜ですが残りの高校生活はそんな感じのなかでふわふわと終わってしまいました。受験があって会社に入って、会社の野球ではピッチャー東に戻ることができて仕事よりそっちで有名になって大会でトロフィーを2つもらいましたが、でもそんなのは軟式の草野球であって、あんなみじめな球威になってもできたことで、今でも「あそこでヒジをやってなければ」という悔しい思いがあるし、その十字架を背負ってしまった自分から逃げたくて勉強や仕事に走ったかもしれません。だからかえって良かったじゃないかとよくいわれたし僕はポジティブ・シンカーだからそうだよねと言えそうなものですが、これだけはだめだ。むしろ逃れるために性格を無意識にポジティブ・シンカーにしていったかと思うぐらいこれはだめ、心の深い傷なのです。
ヒジは致命傷ではなかったが痛みのショックを体が覚えていてトラウマになっています。すると無意識に投球フォームが変わってくるのです。それはリリースの瞬間のことで自分ではわかりません。そして負荷が肩に「転移」して致命傷になりました。癌みたいに。ピッチャーズ・ハイで気持ちいい本人はヒジはもう治ったと嬉しくなって、投げまくってしまうから危険なのです。
今どうなったかです。ヒジは日常生活では忘れていて、まっすぐ伸ばせるしゴルフでは多少気にはしましたが大丈夫でした。肩の方はというと、これはゴルフも含めて日常生活では一切出てこない動きなので大丈夫。ということは投球する肩がいかに異常な使われ方をしているかということですね。先日マッサージに行って「手を背中に回して上にあげ、上からおろした反対の手とタッチしてください」という柔軟性テストで、左手は普通に上がってタッチできますが右手は背中の半分までも持ち上がりません。右の肩甲骨をひっぱられると古傷の肩の腱がいまだにズキズキうずいてそこでやめてもらいます。
いま少年に相談されたら、ピッチャーはやめといたら?というでしょう。世界の大谷君にも、やっぱり同じことをいいたいのです。
PS1(これは今日引退を発表した巨人・杉内投手のケースだ)
「右股関節をかばい、左肩を痛め、今年のキャンプはリハビリ組の3軍スタート。日ごとにキャッチボールの距離は延びたが、その後は一進一退。8月にはブルペン入りが視野に入るほど回復したが、今度は内転筋を痛めた。」(スポーツ報知)
PS2(ダルビッシュはもう壊されてしまった)
カブスのダルビッシュ有投手が9月12日(日本時間13日)に右肘の手術を受けたことを報告した。5月20日を最後にメジャーのマウンドから離れていた右腕はMRI検査の結果、右肘のストレス反応と右上腕三頭筋の挫傷と診断され、今季絶望となっていた。今季は8登板で1勝3敗、防御率4.95。
PS3(2018年9月15日)
以下昨日の報道です。ソーシア監督、オトナの判断をありがとう!!
でも怖いのは大谷の気持ちです。オレ、投げれるんだけどぉ・・・絶対に虫が騒ぐ。そこを我慢する。そのフラストを思いっきり打撃にぶつけてくれ!
大谷は来年投げない 監督明言
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炎天下は喜び
2018 JUL 31 20:20:28 pm by 東 賢太郎
体感39度の炎天下で娘に「この気候になると俺は戦闘モードに入るからね」という話をした。ひなたは避けなさい、こまめに水分を、いい年なんだからといろいろ心配してくれるが、そういう危惧は僕に関してはまったくない。「へ~、得だね」と相槌を打ちながら、でもたぶん娘もわかってない。
必死に試合を戦ってる子は暑いなんて思ってないのだ。だから猛暑の記憶は体にだけあって、校歌を聞いて「あの頃」を思い出すみたいに肌から「あの頃」がよみがえってくるという具合だ。そして、その連鎖反応で、やおら頭が思い出すのは「野球ができてうれしい」という心の底からわきあがる喜びのマグマなのだ。それこそが「戦闘モード」の正体だ。
「おじさん野球に入れてもらえばいいじゃない、たくさんあるわよ」と言われる。そうかもしれないが、きっとぼこぼこに打たれてしまうだろうし、どうもそういう自分をなだめて持ちこたえる勇気が出ない。若者にはチャレンジしろとすすめながら、なんのことない自分は尻ごみという情けなさだ。こういうつまんないプライドを男はなかなか捨てきれないのである。
ときどき夢に出るのは河原の草野球?で、さあ待ちに待った試合だとグラウンドまで走っているシーンだ。本当にそんなことがあったのか、ただの夢なのか、とにかくそのころ僕を支配していた打たれないという絶対の自信があって、早く早くと気ばかり焦る。皆さんが僕の到着を待っている。そうしていよいよ着いたとなって必ず、試合になる前に目が覚めるのだ。
会社の野球大会でダブルヘッダーを一人で投げ、14イニング目で腕が上がらなくなった。しかたなくカーブ連投になったら打席のおっさんが「ストレートで勝負してこい!」とバットを僕に向けて凄い剣幕で怒鳴った。彼はカーブで三振に打ちとった。その回に5点取られて負けたが準優勝トロフィーを部長がくださった。もうその時は肩も肘も壊していた、でも炎天下で鍛えてあった。
大阪の野球大会。受けてくださった名門・広商出身のYさん。不思議な「磁力」のあるリードで、ミットめがけて投げればちゃんとそこにボールは行き、なぜか打たれない。あんな経験は後にも先にもない。投げている方がキツネにつままれ、1対0の1安打完封だったから生涯ベストピッチだったかもしれない。あれぞ炎天下で戦った甲子園強豪校。Yさんはエースだった。
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あなた変な人ですね
2018 FEB 10 1:01:06 am by 東 賢太郎
クラシック音楽ファンが働く業界ランキングは知らないが、証券業は最下位に近い方であることは間違いないだろう。企業オーケストラはメーカーに多いが商社にもあり、金融だと銀行にもある。しかし証券会社のはきいたことがない。僕のいた会社を思い浮かべても、100年たって富士山が噴火して消えていようと人工知能の総理大臣が誕生していようと、あそこに交響楽団が設立されているとだけは思えない。楽器演奏はおろか、本格的にクラシック好きという証券マンに出会った経験もない。40年近く業界にいるのだから恐るべきことだ。
忙しくて無理というのもあるだろうが、もともと静かに交響曲を聴いたり幼少から楽器を習って学生オケに入ったりという家庭環境の人は証券界のような粗暴な世界には縁遠いのだ。日本だけかと思ったが、米国でもモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにオーケストラがあるとは聞かないから国際的にそうかもしれない。たしかに、世界の証券マンを見わたしても、バックオフィスはともかくフロント部門には強欲、野獣系が多く、高学歴ではあってもインテリヤクザの観がある。
お前もそうだといわれそうだがそうではない。もともとピアノを弾いたり交響曲をじっと聴いたり系の人間であって、ただ尋常でなく株が好きだ。これは星が好きなのと同系統の趣味で、お買い得の株を探すのが飯より好きである(だからソナー探知機の社名にした)。そこにお金が落ちているのにどうして拾わないんですか?あなた変な人ですねと他人を説得することに情熱が入ってしまう。別にそんなことが生き甲斐でも得意技でもないが、本能、本性なのだからそれで飯が食えるんなら楽でいいというのが僕のようなクラシック好きが証券界に棲息している唯一の理由だ。
一方、証券界に野球好きは多い。きのうは弁護士先生がやはりそうとわかり、都大会ベスト8で京華に負けましてなどときくと神々しく見えてくる。こっちはたいした戦績もないが、わかってくれるかなと話すとわかってくれる。これはキャッチボールしてちゃんと胸元にバシッと速球が返ってくるあの清冽な折り目正しさを伴った感触であって、こう書いてもわかる人しか全然わからないだろうが、わからない人や女子供に話しても「でも負けたんでしょ」で終わるあの馬鹿らしい淋しさの対極なのだ。無理に「へ~すごいですね」と確実に何もわかってないのに言われるとすきま風は倍加するのであって、先生との会話はまさしく一服の清涼剤であった。
硬式野球経験者でクラシック好きとなるとどうかというとやっぱり珍種であることは確実と思われる。野球好きからもクラシック好きからも証券インテリヤクザからも、いったん仲間かなと期待されるだけにそれがかえってあだとなり、えっそんなのも好きなの?あなた変な人ですねと引かれてしまうのだ。だから友達はそのどれでもない人しかいないと言って過言でない。彼らは元から別世界の人としてつきあってくれるし、こちらも無用にそのとんがった所を見せずに平穏につきあえるからだ。
要は「3種混合」であって自分でもそのどれがホンモノかよくわからないというコンプレックスな人間ということになる。既製品の鋳型にはまりようがないから日本で生きにくかったのはそれもあるかもしれない。あえて、どの同種と話すと楽しいかというと、それはもう圧倒的に野球ということがこのところの一連の経験で自覚した。僕は音楽家でも証券マンでもなく、野球人間オズマだったのだ。しかし、ないものねだりだが、色覚さえ普通なら絶対に宇宙物理をしたかった。
ディールの追い込みで3連休など存在しないが、気持ち的には小休止してマサチューセッツ工科大学物理学教授、マックス・テグマーク氏の著書「数学的な宇宙」(究極の実在の姿を求めて)にとりかかることにした。氏は51歳と若いが数学的宇宙仮説の提唱者として知られ、200以上の論文・著作を持ち、その内の、9つは500回以上引用されている傑物である。宇宙のことは誰もわからない。物理学といって哲学に思えるものもある。であれば、おそらく人間の知るワールドで万物の説明言語として最も解明力のあると思われる数学に頼ってみるのが筋じゃないかと素人なりに思うのだ。
中村先生の紫色LEDとレーザーをわかるのに高校の物理の教科書を読んでいるレベルだ、この本が平明に書かれているとはいえわかるとは思えないが、本能的に引きつけられるものがあるから仕方ない。毎日こういうことをする人生も楽しかったろうと思うし、こうして空の彼方を考えているとヘンツェの交響曲が聞こえてきて、やがて星の彼方に父はいるというシラーの詩から第九交響曲が聞こえてきたりする。そうして音楽愛好家の自分がたちあらわれてきて、ますます人間とは何かがわからなくなるのだ。
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野球ロスという憂鬱
2017 NOV 5 17:17:21 pm by 東 賢太郎
2012年というとSMCが始まった年だ。その年の9月にブログというものを初めて書き、11月4日に投稿したのがこれだった。
いまの気持ちそのものだ。毎年ここで精神がダウンしてきたんだと思うと、もう風物詩とでも考えるしかない。正月、桜、梅雨、花火大会、秋晴れ、台風のようなもので、「野球なし」は俳句の季語になるばかりかこの世の終わりに近い気もする。
僕は基本的に退屈を知らないが、ここ数日は確実に退屈するだろう。他のものがなくなるわけではないが、野球の喪失感を埋めるものは無い。つまり、日々の楽しみというならば飲・食・聴・読・書などいくつかあるが、これがおきるかどうかで判断するならば、僕の人生に最も大事なのは野球であるということになる。
ソフトバンクの松坂がとうとう戦力外通告となりコーチ契約のオファーをけって退団するそうだ。「もう一度マウンドに立ちたい」ときくと、とてもシンプルに、腹の底からわかる気がする。まだいけるぞ、やれやれと。僕ごときが松坂におこがましいが、野球少年だったのはいっしょ。そうじゃなきゃ、それがわかんなきゃ、あんなことやってないし。
ときどき夢に出てきてきてはっと目が覚めるのは、マウンドの投球プレートに白球がぽんとある景色だ。それが僕のマウンドの一番の記憶ということなんだろう。高校生は最後のアウトをとった球を、そうして置いてベンチにひきあげる。礼儀みたいなもんだ。だから、守りにつく側の投手がマウンドに登ってご対面するのはきまってその景色なのだ。
上の写真はちょっとちがう。こういうことはあり得ない。実際はスパイクが掘った穴ぼこが荒々しく野蛮にぽっかりあいていて、そこに球がはまっているのである。こんなに土がきれいな状態は初回だけだが、初回に置いてあることはない。ネットで探したがそういう写真は無かった。写真家の美のイメージと、そこで闘争している者の残す生々しい痕跡は似て非なるものだ。
梶井 基次郎の代表作「檸檬(れもん)」にこういうくだりがある。
「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化していた。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。
そこで、前から気に入っていた寺町通の果物屋でレモンを一つ買って、ひととき幸福な気分になった「私」はこういうことをする。
久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。
そしてこう書くのだ。
見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた
カーンと冴えかえっていた。穴ぼこの白いボールがまさにそうだった。夢に出るのは炎天下の7回ぐらいか。打たせたくない、がんばるぞ、でもしんどい、ものすごく暑い、もう握力がない、球はすこし泥でよごれてるぞ、汗ですべらないかな、ロージンバッグだ・・・。
しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。
いまはそんなものだ。
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(PS)
現在、東のブログがトップページからは開かない状態になっております。SEさんが調べたところ「wordpressのアクセスカウンタープラグイン”Count per Day”が原因で、東さんのサイトはアクセス数が非常に多いため、高性能な分たくさんの情報を内側にストックしてしまい、それが限界を超えたという形です」との連絡がありました。修復すべく作業をお願いしております。
オレンジバット悲話
2017 SEP 12 0:00:26 am by 東 賢太郎
野球のU-18で、話題の清宮は高校111号を放ったが広陵の中村が打てなかった。これが木製バットに慣れてないせいだという記事があって、本当にそうかどうかはともかくさもありなんという気はした。
僕らの代か次あたりまで高校生もバットは木製だった。木のバットの快心の打球音はカシーンだが芯じゃない打球音はそれ以外のすべてだから外野手はでかいかどうか音で瞬時にわかる。しかし金属バットである甲子園大会の打球音はどれもこれもクィーンで、あれじゃあ音で初動を判断できないと思う。なお、軟式というのはゴムまりであって打感も音もぜんぜん別物だ、あれは別なスポーツだと思った方がいい。
大学に入って閑になり野球の虫が騒ぎだして、同期が監督だったものだからご厚意に甘えて九段高校硬式野球部の夏連に参加させてもらったことがある。フリーバッティングの順番が来て、人生初めて手にしたのが金属バットだった。
打ったら感触がぜんぜん違う。芯を食った感じが鈍いが、外しても手が痺れない。テニスでいえば「デカラケ」の感じというのが近い。芯でなくても反発力があって、芯付近なら非力な僕でも軽く振り抜いてレフトを超える。なんだこれは?という感じであった。木製で芯を外すと悲惨だ。飛ばないし手が痺れて、気温が低い時は感覚がなくなるほど痛かったりする。しかもすぐ折れる。バットは高価なのだ。内角を攻めてバットをへし折るのは投手の快感だが、金属は折れるどころか詰まっても内野を越されるなと感じた。投手はたまったもんじゃない。甲子園大会でホームランが多いのも、振り回して当たれば飛ぶバットと筋トレの相乗効果だろう。でも木製は芯に当たるかどうかだ、それじゃあ通用しないと思う。
高校時代、僕はずっと6番で打撃は好きだった。バットは木目が詰まって真っ直ぐなのを厳選して大事に使ったが、あるときOBのYさんが部に差し入れてくれたオレンジ色のバットがぴったりで快打を連発したものだからいつしかそれは僕専用になった。毎日手塩にかけて大事に磨き、乾燥に心がけ、折らないよう打席では一球ごとに入念にマークの位置を確認した。バットコントロールは我ながら非常に良くて、バントではずされてバットを投げて当てたこともある。だから打ち損じてバットを折ったのはたぶん1,2回ほどであり、このバットを生涯の伴侶としようとまで誓っていたのである。
練習試合の聖学院戦で相手の快速球左腕におさえこまれ3安打完封負けしたが、僕はセンターのフェンスまで三塁打を放った。ナイン推定の飛距離100mで両翼ならホームランだから人生一番の当たりだった。しかしなぜか、お前のあれはまぐれだ、Y先輩のバットが凄いんだということになってナインはそっちを称賛し「オレンジバット」と命名までしたものだ。確かに、あれはスイングのパワーでなく、トスバッティングの感じで当てたら高めのストレートが凄く速かったので遠くへ飛んだのだった。ホームランもそういうのがあるんだろう。ついでだが、こうやって芯を食うと手は何も感じない。「感触はいかがでしたか?」と知らないアナウンサーは聞くが、感触が残れば残るほど悪い当たりであって、その最悪が痺れなのだ。
とにかくその後も僕はよくタイムリーを打ったので、神であるオレンジバットを折ったらいかんという部内の空気になってきて誰も使わなかったが、練習の日にフリーバッティングでT先輩が「俺にも打たせろ」とそれを持って打席に入った。嫌な予感がしてわざと軽く投げたが、打ち気にはやったT先輩が思い切り振ると手には見事にグリップだけが残っていた。オレンジバットの最期である。動転してたんだろう、なぜか「すいません」と謝ってしまい「いいよ俺が悪いんだ」と気まずい会話があったが良くないのはこっちだった。以来、僕の打撃は絶不調に陥った。
思えば木のバットは工芸品というか、一本一本個性がある。形は規格でそろえられても、材質も重量も同じものはない。特に木目が大事で、反発がいいかどうか、折れやすいかどうかはそれで判断した。打席ではマークを正確に自分の体に向ける。そうしないと折れるのである。打撃というのは芯に正確に当てることだ。芯を食うかどうかで天国と地獄だから振り回すよりピンポイントでたたくスイングを僕はした。金属は少々アバウトでも当たれば飛ぶデカラケ、デカヘッドのドライバーだからスイングも振り回すだけでアバウトになるんじゃないか。
そういえば金属バットはどれもおんなじ規格工業品で味がない。僕は大事な試合前にバットを抱いて寝たが、金属だったらどうかなと思う。これはLPレコードとコンパクトディスクの関係に似ているかもしれない。レコードは同じものは二つとない。名演の美品は中古で何万円もの価値が出る。CDは何十万と同じものがあって、少々傷があっても問題なく鳴ってしまう味気ない物体である。鳴ることの有難味より味気なさの方が勝って、なんとなく僕など大事に手入れして保存しようという気が失せてしまう。
オレンジバットは僕にとって神品だった。プロ選手はだいたいそういうぴったりくる自分モデルを持っているようだ。カープの安部もそうときくが、去年からC28と刻印された新井モデルにしたらしい。二人はタイプは違うが、バットの好みは感覚的なものだ。昨年259打数73安打、打率・282の数字を残した安部だが、たくさん用意した新井モデルのバットはシーズンが終わるときには1本しか残ってなかったそうだ。戦友、散るだ。この感覚がどうにもいとおしい。
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この時代に間に合ってよかった
2017 AUG 23 1:01:21 am by 東 賢太郎
なんでも積極的にやってみるもんだと思ったのがyoutubeへのクラシック動画アップロードです。きっかけはブログに貼った動画が頻繁に消え、他人のを拝借するとそうなるなら自分で作ろうと思ったことです。5か月前にテンシュテットのブラームス4番をアップしたのがスタートで、気がついたら動画数56、チャンネル登録者79人・視聴回数14,780回になってました。ほとんど欧米人のようでイタリアのピアニストの方もおられ感慨深いものがあります。
動画を貼るような芸はなく音のみで、しかも独断と偏見でいいと思ったものだけであり言葉を交わすわけでもない、それでもサブスクライブしてくださるのはテーストが合うからでしょう。趣味が広いですねとよくいわれますが、実はニッチで狭いです。音楽に限らずそうです。この狭さを分かってくださる79人なのかなと想像しますし、音楽には人種も国籍も宗教も言語もなくて、わかる人同志は自然に集まるものなのかなと思いました。
ネットに発信する人の99%は「いいね」を求めています。だからどんな人にも受け入れられようと、実物よりいい人になって、あえてテーストは出さない傾向があると思います。数字が増えるのを見て誰かとつながっている充実感を求める人やバナー広告料が欲しい人はそれでいいと思いますが、僕は趣味を共有してくれる人にお会いしてみたいのです。
この時代に間に合って生まれてよかったと思います。いまの日本、これだけ物質的に豊かなのに老若男女問わず「人生孤独だ」「寂しい」と感じる人が増えているという統計があるそうですが、youtubeで発信をしてみたらそんなことはないとわかります。人の個性は誰のものであれ地球人口70億分の1のニッチでしかありません。しかしネットはそれでも気の合う誰かを無料で見つけてくれます。
ちなみに僕は長年、写真の仁丹ガムのおまけ、12球団メダルを探してます。小学校時代に集めてましたが12球団そろいませんでした。全部あればぜひ欲しいですが、右のように部分しか出ないしすぐ売れてしまいます。世の中、こういうニッチなことに懸命になってる人がいて、競争相手ではありますが友達になれそうな気もします。
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野球人類学《キャッチャー》
2017 AUG 19 22:22:13 pm by 東 賢太郎
野球人間オズマなものだからそれ以外のスポーツは基本的に見ない。僕は選手の動きを自分の五感で感じたいタイプで、体育程度でまともにやったことないスポーツはそれが無理だから見てもつまらないのだ。
ゴルフはシングルだったこともあるが野球打ちを改良したインチキで、グリーン上で麻雀をしてただけ。野球選手だった余興でできただけだ。女子プロと回って飛距離さえ別物と知って、男子プロとは同じスポーツをしているという感覚がふっとんでしまった。
前回に30年前のゴメンの話を書いたが、見ているほうには大したこともないことが当人には一生の記憶、場合には心の傷にもなってしまうのはどんなスポーツでもあるだろう。高校生活というとほぼ野球しか覚えてない僕にとって、甘酸っぱい思い出など皆無であって「苦味」ばっかりみたいに感じる。
当時の我々は東京都3、4回戦ボーイで相手を選んでやる練習試合も5分5分ぐらいだ。負けが多い。ホームラン、サヨナラ打を打たれた球はコースも覚えてるし夢に出る。首にぶつけてしまって騒ぎになった死球は指先にひやっとする感覚が残ってる。
さて、捕手だ。投手は山の上で試合時間のほとんどを彼のサインとミットを凝視して過ごす。200回近く彼の返球を受けるが、そこに無言の「ナイスピッチ」や「このボケ!」がこもってる。例えば練習で200球投げて、最後の10球は連続ストライクでないと10球やり直しになる。サインを出してだ。これができなくて辛かった。終了のOK出すのは捕手であり、女房というより主人であった。
投手が試合を握るというが、投手を気持ちよく乗せるのも流れやムードを作るのも捕手だ。だからいい捕手がいると打席で磁力を感じて嫌だった。しかもその捕手に打たれるとチームを乗せてしまってだいたい負けたと思う。きのう巨人の宇佐美という2年目の左打ちの捕手がサヨナラホームランを打ったのを見た。嫌だなあ、なんか育つと阿部2世になりそうだ、雰囲気も弾道も。セリーグでは捕手ではないが阪神の大山と2人、要注意マークである。
捕手は重労働でそんなに打たなくてもいい。ところが今日の甲子園、広陵の捕手、中村くんには驚いた。4-4の9回に聖光学院の背番号1番が投じたウエストボール、できれば振って三振してくれという速球をレフトスタンドに突き刺した。渾身の高めストレート、あれを打たれると投手は身も心も打ち砕かれてしまう。彼は既に直後から顔に出ていた。6-4で負けると泣き崩れて監督に支えられて引き上げた。男は人前で泣いちゃいかんが、これは完璧に許される。
中村は肩もコントロールも抜群で、バントを拾ってゲッツーにした二塁送球は記憶に残る。投手でも行けるだろうが広陵は先輩の巨人・小林誠司が入部は投手だったが広島・野村祐輔にゆずって捕手になってる。広陵というと広島は古くは投手の佐伯、野手で金本、現役で捕手の白濱、投手で中田、野手で上本、土生がいる。中村はドラ1は間違いない。取れたらいいなあ。
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