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カテゴリー: ______作品について

ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

2017 OCT 23 1:01:27 am by 東 賢太郎

ブーレーズの代表作である当曲についてとなるとやや話がこみいってしまうがお許しいただきたい。これを初めて聴いたのは大学の時に借りたレコードだった。いきなりなんじゃこりゃで最後まで聴いたかは記憶がない。

ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)の邦訳は当時「主のない槌」だったと思う。槌とはなんだろう?見たことない。打ち出の小槌を連想し、そんなものを置き忘れてくる奴がいるのかと思った。というのは僕は生来の忘れ魔で、考え事をしていて電車に野球のネット用の鉄柱を忘れ過激派と間違われた前科があるから槌ぐらい忘れるのはなんでもないと思えていた。

この題はルネ・シャールなるシュルレアリスム作家の詩か何からしいが知らない。現代詩というのは読んだことぐらいはあるが、僕にはネコにイタコの呪文をきかせる未満のものであって、大変失敬とは思うがああいうものを愛でる方々とは人種はおろか生物種すら異なるのではないかと感じいるしかない。人間の作ったものに関心がないこっちの方がきっと異種なんだろうが。

音楽だって人間の作ったものじゃないかといわれそうだが、音階や和音の心に与える効果はそうではない。ドミソは明るい、ラドミは暗いと誰かが決めたわけじゃない。聞こえるのは純然たる自然現象の音波であり神様が人間の心の方をそう作ったのだ。だから僕は音楽は物理学、生理学、心理学のどれでもないが、ちょっとずつそれらと「かすっている」サイエンスだと思っている。

和音というのは美しい(少なくとも僕には)がその各音は倍音による音階から生まれたもので、ということは美しさの根源は自然倍音(上)に存在していることになるだろう。右の図は平均律と自然倍音の差異を示すが、ここでは64個目の倍音までのうちで各音の出現回数にご注目いただきたい。Ⅰ(基音)は6個、Ⅴ(完全5度)は5個である。ド(6)、ミ(4)、ソ(5)は出現回数で第1位~3位であり「ドミソが美しい」のは神様が決めた理に適っていると思えないだろうか。第4位のシ♭(4)を加え、各々の5度上(完全調和する)のシ、レ、ファ、その5度上のラを得ると、オクターヴ(2倍の周波数)を12分割する「音階」が得られる。出現回数ランキング上位の倍音を並べて、それが「美しい」となるように人間は神様によって作られていると考えるしかない。

言いたいのは出現回数は物理的に決まっており、誰か人が決めたものではないということである。だから12分割も宇宙の理であり10でも11でもいけない。それが「調和」の根源だ。縦(和音)であれ横(旋律)であれ、それが無調だろうが12音音楽だろうが不協和音であろうがである。協和音、不協和音とはミスリーディングな誤った用語である。ピッチの悪い音は他の音と一切調和しない。だから神の原理にはずれていて、そもそも音楽の素材として美しくない。「音程の悪いドミソ」(協和音)は不ぞろいの真珠をつないだネックレスであり、「音程の良い不協和音」はばらばらに配置した粒のそろった真珠である。

お母さんが近未来的には子守唄を12音で歌うようになるとは思わないが、そういう美というのはまだ動物に近い赤ちゃんに訴えかける力はない(千年後の赤ちゃんはわからないが)。数学が美しいとは僕ごときが言うのはおこがましいが、数ⅡBでもある日突然そう思えたのは厳然たる事実であり、しかしそれは赤ちゃんにとっては今のところやっぱりネコに呪文未満ということになるだろう。

僕がさわる楽器はピアノであるのはそれが理由だ。平均律なる近似値とはいえ耳に不調和と聞こえないぎりぎりで踏みとどまった不調和で、ピッチの心配がなくどのキーをたたいても許せる調和があるからだ。即興でアトランダムのキーを弾いて(たたいて)楽しむが、それが曲といえようがいえまいが楽しい。アッ今のはいいなと思う瞬間があるが、それを譜面に書きとるのはめんどうくさい。即興してればまた来るさで済ますし、無限の可能性がありそうでわくわくもする。

以下、2016年1月16日に書いたブログから「ル・マルトー・サン・メートル」について書いた部分の要旨を引用する。

 

9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっている。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だった。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしである。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ると思う。

「主のない槌」の自筆譜

ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようである。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思う。

しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思う。その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散する。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもあるはずの宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者だ。

 

固く信じるとどうなるか?僕は「主のない槌」に、特にアルトが入る章に美を感じるのであって、それは魔笛やエロイカに感じるものと何ら変わりがない。ライブを聴いて帰宅する時の充足感の質は同じだ。とすると、それを生み出した何物かが3つの音楽のスコアに共通して隠れているはずなのである。これが「音楽をサイエンスと考える」ということだ。

例えば太陽(The Sun)をどう考えるか?まったく相いれない2つの道がある。ひとつはスペクトル型はG2V、表面温度約6000度、推測年齢は約46億年で中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し主系列星として存在できる期間の半分を経過している銀河系の恒星の一つと考える。もうひとつは、「おてんとうさま」「おひさま」「朝日」「夕日」であり、信仰の対象となり、女性を「君は僕の太陽」などとたたえたり詩の題材ともなるがスペクトル型は気にしない。僕はその前者ということになる。

「主のない槌」はピッチの美しさ、曼陀羅、ガムランのイメージを混合したタペストリーのような音色美を根源とした音楽である。その質感はドビッシー、メシアンの、セリー合成はシェーンベルクの遺伝子を継ぎ、必要とするアルト・フルート、ヴィオラ、ギター、ヴィブラフォン、シロリンバ、打楽器でピッチが可変的なのはヴィオラだけ(フルートもある程度)であり、ピッチは基本的に固定的環境で成立する。そこに声(アルト)という可変的な音が加わるため、そのピッチが厳密に問われ、それが達成されてシンクロナイズした時の美しさは誠に格別だ。

こういう質の美の世界の住人であるブーレーズがマーラー全曲を振ったというのは僕には青天の霹靂だった。今もって謎だが、本当に彼は共感したのだろうか?それとも僕の方がマーラーを誤解してるのか?

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

芥川也寸志さんと岩崎宏美さん

2017 FEB 21 1:01:09 am by 東 賢太郎

成城学園初等科にいたのですが、金持ちの坊ちゃんではありません。お嬢で育ったお袋の趣味だったんでしょうがお品が良すぎてなんとなく肌には合わなかったですね。制服が帽子に半ズボンで軟弱っぽくて、公立の子とちがってて嫌だなあと思ってました。あの反動だったんでしょうか、なんちゃって硬派、バンカラ、アンチ・ブルジョアのほうにいってしまい、振ったのがゲバ棒ではなくバットだったのは救いでした。

勉強はした記憶がないというか、僕の勝手解釈によればしなくていい雰囲気であって、クラスも塾に行く者など皆無で考えたこともなし。あまりの出来の悪さを知った親父がエスカレーターは勉強せんし遊び人になりそうだこいつはだめだとなって中学で外を受けさせられてぜんぶ落ちましたが、親父はそのころから東大へ行けと存外なことを言いだして五月祭に連れていかれたりしました。だからなんとなく当然入れるもんと信じこんでました。

そのかわり映画とか劇とか舞踊とか彫塑なんて授業があって、そういうのはとんと興味ありませんでしたがアートは生活のそこらへんにごろごろところがっていて当たり前という感覚にしてくれました。こういうのは文部省指導要領じゃどうしようもない。このあいだ銀座で卒業生の女の子がいて、40才ぐらい後輩とわかり彫塑室の粘土の穴ぐらの描写をしたら「いやだ、それそのまんまですよ~」と、その子も成城っぽい「アートはあって当たり前」感をただよわせながらびっくりして、年の差などものともせず共感しあったりできてしまう。不思議なもんです。

いま思うとまわりはすごかったですよ。ラグビーの松尾兄弟や、3つ下の妹のクラスには歌手の岩崎宏美さんもいました。彼女がスター誕生という番組でデビューしたてのころ食事したりしましたが、あれ、この頃でしたかね、この歌はずいぶんヒットしましたが。

同じ学年の桜組、橘組の父兄には黒澤明さん、三船敏郎さん、東大総長の加藤一郎さんなどがおられ、僕の桂組には芥川也寸志さんがおられました。龍之介の次男で日本を代表する作曲家で家もお邪魔しましたが、当時はY子ちゃんのお父さんというだけで誰だかよくわかってませんでしたね。

成城は学校劇なるものがあり、まあ子供ミュージカルみたいなもんで面白かった。その音楽を芥川さんが作られ指揮もされた。生のオーケストラも指揮者というものも、その時初めて見たのですね、そしてその子供の祭りという劇で主演をして主題歌を歌ったのが岩崎宏美さんで、めちゃくちゃうまいなあと感動した記憶が残ってます。

NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」の音楽は芥川さんでこのメロディーはいまでも鮮烈に覚えてます。えらいかっこいいなあと思ってましたが、調べてみるとこれも昭和39年、東京オリンピックの年の放映だったようで僕は小4です、あのころだったんですね。

Y子ちゃんちは成城の高台で見晴らしの素晴らしい場所にあり、もちろんピアノがあって、子供心に素敵だなあと俺もああいう家に住むぞと憧れました。高台というとバーデンバーデンのブラームスの家も崖の上で、どうも僕の「崖好き」はお二人の作曲家の趣味から来ているようで、いざ自分で建てるとなったときに成城~田園調布を走る国分寺崖線の崖の上ありきになりました。なかなか出てこないので出たら即決で買った。家族は高いと大反対でしたが、三つ子の魂みたいなもんでかなり執念に近かったです。

 

(ことらもどうぞ)

______男の子のカン違いの効用 (6)

我が来し方に響く音楽

 

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ヘンツェ 交響曲第8番(1992/1993)

2017 FEB 19 22:22:44 pm by 東 賢太郎

電車でイヤホンできいてるのはatonal(無調)の曲です。最近はヘンツェなどですね。同時に「ながら」でブログを書いてますから、頭がキリッと冴え喜怒哀楽の感情の波がおきない現代音楽がよいのです。

ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(1926-2012)はドイツ人ですがヒトラーにかぶれた父に反抗して育ち、徹底した反ナチズムを標榜してイタリアのローマ近郊に居を構え、共産主義に共鳴しキューバの革命政権を支持してチェ・ゲバラの追悼曲まで書いた。ホモでもありましたから、バーンスタインのいう理想の音楽家、「ホミンテルン」に完璧に適合する人物でありました。

ポスト・ウォーの作曲家として僕はフランスでブーレーズ、ドイツでヘンツェを評価しております。ヘンツェの音楽はしかしブーレーズとは対極的でセリーでも微視的でもなく、多くのオペラ、バレエがあるように劇場で映え、無調ではあるが旋律がきこえ骨太でどこか肉感的です。10曲書いた交響曲はドイツの楽団の音になじみ、音響としてはブラームスの末裔としてとらえられるどっしりとした名曲ぞろいであって、ぜひ広く聴かれることを願ってやみません。

第二次大戦後も母国と絶縁状態にあった彼の活躍の場はイタリア、英国でしたが、ようやく1980年代になって復縁の方向となります。シェークスピアの真夏の夜の夢から発想し1992/1993年に書かれた交響曲第8番は、ベルリンの壁崩壊を経た復縁後の作風としてややラディカルさは後退していますが、60才台半ばの円熟の技法が冴えわたった名品で僕は特に愛好しています。

マルクス・ステンツ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のこの演奏は驚くばかりの名演で何度聴いても圧倒される稀有な録音として記憶されるでしょう。

この作曲時に我が家はドイツに住んでいたわけで、まさにコンテンポラリーであります。和声はatonalなりにロマンティックであり、旋律性とあいまって独自の美感を確立しています。これは同じドイツ語圏の新ウィーン楽派とは一線を画した世界で僕にとって非常に妖しく魅力的な交響曲なのです。

彼の代表作のひとつ、ピアノ協奏曲「トリスタン」 (1973) (ピアノとテープと管弦楽のための)にはブラームス第1交響曲の冒頭があからさまに引用されます(16分57秒~)が、ヘンツェの交響作品の質感がブラームスに近似性を感じさせる好例としてお聴きいただければと思います。

このところ取り上げるのが現代音楽ばかりになりましたが、音楽=tonal(調性)とは教育の嘘です。我々が聞く99.99%の音楽は調性音楽ですが、それは音楽をする方も聞く方もそういう既成概念の奴隷として育つからで、雅楽であれ長唄であれ江戸時代までの日本に三和音による調性音楽など存在しません。古来よりの日本人の心の耳を開いて聴けば無調音楽にいかに偏見をもって育ったかはご理解いただけると信じます。

ヘンツェの8番。何度もくりかえし聴いていただき、それが信じがたいほど「美しい」というのを知っていただければ幸いです。

 

 

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クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)

2017 FEB 14 12:12:14 pm by 東 賢太郎

会社にいたころ、金属関係の大手企業との会食がありました。話のなりゆきの思いつきで「ところで社長、金属ってなんですか?」とうかがったところ、しばしの間じっとお考えになられ、「それはいいご質問です」と周囲の役員さんに目をやり、結局みなさん「調べてお答えします」とあいなりました。

意外に定義が難しいというものがあります。音楽もそうかもしれません。空気の振動?そうですね、でも聞こえる音がぜんぶ音楽ではありません。音ではあるが、人の心になにか感動、感情を喚起するものです。しかしそう定義してもずいぶん漠然としてます。

皆さんこれを聞いてどう感じるでしょう?

NASAの衛星が録音した「地球の音楽」だそうです。地球内部を流れる電流と磁場の相互作用によって電波が発しており、そのゆらぎをスピーカーで人間の可聴域内の音に変換したものです。知らなければ雑音か風の音ですがその割には定常的で長い、しかも不規則だが微細な変化があります。

少なくとも僕には不快な音ではなく、これを1時間も聴いていると気分の変化があるかもしれないなとは感じます。我々の体は地球と同じ元素でできています。母なるものの発する声は僕らの脳に何らかの共振を起こしても不思議ではないように思います。それは物理現象ではなく、メタフィジックなものである「こころ」によってしかつかまえられないものとしてです。

モーツァルトの音楽といえど、物理的には空気の振動であります。それに感動するのは、僕らの「こころ」がそこに何かをつかまえるからです。その何かはたしかにモーツァルトが盛り込んだものですが、しかし、彼のこころも宇宙のどこかからそれを見つけ、共振を感じて拾ってきたに違いない。彼が地球の声のごときものをどこかで聴き取り、それを、いわば霊媒として人間の可聴域内の音に変換したものではないかと思うのです。

バルトークの弦チェレ第3楽章やピアノ協奏曲第2番第2楽章はきっとそういうものだろう、と思っています。ことに彼の曲で僕がそう感じるものをお聴きいただきます。皆さんはどうお感じになるでしょうか? ピアノ曲「戸外にて」(Sz81)より「夜の音楽」です。ぜひ、何も考えず空っぽになって、こころを開いて聞いてください。

シベリウスの交響詩「タピオラ」(作品112)は、極寒の吹雪の中を歩く森のイメージを強く喚起します。吹きつける風の音も聞こえます。楽器の楽音なのだから不思議ですが、作曲家が聞き取った森の音を霊媒となって管弦楽の音響に変換したといえるように思います。

そう考えてくると、一つの考えに至りませんか?

つまり、「地球の音楽」は音楽ではないけれど、作曲家がそこから得たエモーションを楽器や声の音に変換したならば、僕らはきっとそれを音楽と呼ぶんじゃないか?ということです。もしあなたがその音楽を聴いて感動したならば、その感動は作曲家が「地球の音楽」と共振したこころのふるえであり、だからあなたは作曲家を通じて地球と共振していることになります。

バルトークもシベリウスもそういう音楽を書いた。僕はブルックナーもそういう作曲家と考えています。いえ、モーツァルトだって、彼のこころに去来して彼の手を動かして楽譜に記された音楽は、やはり天空のどこかからやってきて、その源が尊いものだから我々のこころをゆさぶるのではないか。作曲家の能力とは上手にフーガを書くことではなくて、宇宙の音によく共振し、人間のわかる音に変換する能力ではないかと思います。

作曲することと演奏することはまったく別な行為であり、ブーレーズが語っていますが演奏はインタープリテーションつまりスコアというテキストの解釈であり有から有を生む行為、作曲はクリエーションという無から有を生む行為です。無の裏側には宇宙の秩序や均整があって美しい。その美を感知する霊媒能力がなければ作曲は出来ませんが、書かれた音符を音として美しく鳴らすことは訓練すれば誰でもそれなりにはできると思います。

つまり作曲家は神域に至れる特種能力者として人類に何人も現れていないが、演奏家の能力は人間界のみで完結可能であって、トップクラスといえど現れた人数ははるかに多い。聖書を書いた人と牧師の関係でしょう。僕が演奏会でする拍手の9割は作曲家にというのはそういう思想からであり、だから普通の人である演奏家が天才の労作をお気軽に改竄などするのは不届き者も甚だしいと不快に思うのもそこから来ています。

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ギリシャの作曲家ヤニス・クセナキス(1922-2001)に6人の打楽器奏者のための「プレアデス」という興味深い作品があります。プレアデス星団(プレアデスせいだん、Pleiades )は、おうし座の散開星団(M45)で、これの和名が皆さんよくご存じの「すばる」であります(写真下)。

 

pleiades クセナキスはアテネ工科大学で数学と建築を専攻した変わり種の作曲家です。建築家としてはスイス人で「近代建築の三大巨匠」のひとりであるル・コルビュジエ(1887-1965)の弟子である。コルビュジエはレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体図」における人体の寸法の数学的な比率と黄金比を基にモデュロールという建造物の基準寸法の数列を作りました。それが「美」のみなもとになるという考えです。我々は均整の取れた人体を見れば確かに「美しい」と感じます。その感情を喚起する「比率」(均整の秘密)を建築に応用した。そしてクセナキスはそれを音楽に応用したのです。

パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに師事したクセナキスは、数学で生み出されるグラフ図形から縦軸を音高、横軸を時間とした音響の変化を記す、コンピューターによる確率論、ブラウン運動を応用した音価技法などユニークな作曲理論を開発し、1971年の大阪万博では鉄鋼館で彼の音楽が流れました。数学が出てくるのは「美のみなもと」としてであり、ピエール・ブーレーズと共通するのですが、おそらくそれが故に二人は対立しました。

そういう難しいことは聞き流していただいて、クセナキスは「こころを開いて」いれば決して難しいものではないことを感じていただきたいと思います。こういう音楽が苦手だった方、メロディーも和音もないのにどう聞いていいかわからない、こんなものは音楽じゃないと思われる方、クセナキスが宇宙から聞き取ったもの、それを打楽器だけで可聴域に変換した「プレアデス」に耳を傾けてみてください。

僕はこれが、NASAの衛星が録音した「地球の音楽」にそう遠くないものに聞こえるのです。

(こちらへどうぞ)

我が来し方に響く音楽

空のおはなし (今月のテーマ そら)

 

 

 

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デュトワ・N響のカルメンを聴く

2016 DEC 15 0:00:05 am by 東 賢太郎

carmen

このカルメンのために金曜から休暇で西表島に行くのを1日延期した。NHKホール前は青のイルミネーションで美しい。

ao

カルメンの舞台は海外で何度観たかわからない。なかでは二度真近に見て圧倒されたギリシャ人のアグネス・バルツァが強烈で、ビデオでも彼女のをくり返し見ているのだから、なにか意識の中でカルメンは実在の女でそれはバルツァなのだという困ったことになっている。

マリア・カラスがどうしてこれを舞台でやらなかったのかそういう芸能界的な部分は知らないがきっと適役だったろう。これを演じるには歌だけでなく全人格的なもの、ああこの女だったらやりそうだなあと男の五感に訴える「カルメンシータらしきもの」を備えていないと物足りないものがあるのである。

それはこのオペラのリブレットがカルメンとホセの生々しい愛憎、つまりloveとhateのアンビバレントな二面性を軸としたものだからだと僕は解釈している。

パリのオペラ・コミックでの初演は一般に失敗とされる。プレスがカルメン役のセレスティーヌ・ガッリ=マリーを「不道徳なアバズレ」「悪の化身」と評し、技術的にもオケ、合唱団が演奏不能とした箇所があったことから、当時のモラルや楽曲の常識を超えたものだったと思われる。劇場が懸念していたように裏切りと殺人というリアルな題材が保守的な聴衆に受け入れ難かったせいもあろう。

しかし失敗と思いこんだのは初演後3か月で死んでしまいそこから先を知らなかったビゼーであって、臨席したマスネとサンサーンスは好意的であったし当初から彼の他の作品よりは上演回数は多かった。カルメン並みの女はいくらもそのへんを闊歩していてモラルなど雲散霧消した現代にこの作品が好まれているのは、男女の生々しい愛憎ドラマがいつの世も関心事であるからだと思うのだ。

loveがhateに転化する最後の闘牛場の場面がクライマックスだ。歓声と前奏曲が遠くから鳴り響き不吉な運命のテーマと交差する、そこで純情一途の男が一世一代の決断をしたのが殺人だった。公序良俗にも法律にも反している話なのだが、ホセを死刑にしろという気に一向にならないのはカルメンが「悪女仕立て」だからだろう。吉良上野介を憎々しげに演じてくれないと忠臣蔵にならないのとまことに似ている。

彼女はロマ(ジプシー)であり社会の底辺で既存のレジームに同化できないはねっかえりだが、しかしだからといってそれだけで悪女といわれる道理もないのであって、どうしてそうなるかというと、その妖しい魅力のボルテージが異様に高くてホセが入れあげても仕方ないと思わせ、「悪い女だねえ」と満座にため息をつかせてしまう秘術を次々繰り出すからなのだ。

一例をあげよう。工場から女工たちがどっと出てきてカルメンが傷害事件を起こしたぞ、このアバズレをひっとらえろ!とスネガが命じる場面であざ笑うように歌う「Tra-la-la…」、この単純なEーAmの和声進行にのっかる妖艶な歌!メロディーが非和声音のd#に落っこちるぞくぞくする色っぽさ!

これだけじゃない、ハバネラ、セギディーリャ、ジプシーの歌、これでもかとウルトラ肉食系の妖しい歌に攻め込まれるホセなのである。いったい何なんだよこの女?この歌なに?(このビデオがアグネス・バルツァだ)

仕方ないんじゃないの?と男なら同情するしかない。だから否応もなく「悪い女だねえ」となるのである。

断っておくがそれは歌手の容姿、色香だけではない、ビゼーの書いたあまりに天才的な音楽によってである。頭や理屈や技術やもの真似ではできない真のインヴェンション!初演をきいたシャルル・グノーは俺の真似だ剽窃だと否定的だったが、たしかにビゼーが交響曲ハ長調の作曲などでグノーをメンターと仰いだ形跡はある。グノーは優れたメロディストだが時代の常識の範囲内で美しい音楽を書く達人だった。女中に私生児までいたビゼーの女遍歴は日本語世界ではあまり知られていないが、カルメンの音楽はそういう男にしか書けない毒の味がある。

さような観点でこのオペラを見ると、エスカミーリオとミカエラはベルリオーズの幻想交響曲の恋人のごときイデー・フィクス(固定楽想)付の単なるキャラクター、着ぐるみのような存在なのであって、それぞれがホセの嫉妬心、改心の念をかきたてる添え物である。主役はその両者の狭間で揺れ動く優柔不断なホセに見える。いや、そうであってこそ男のフラフラ、優柔不断が生んだ悲劇としてこのオペラに一本すじが通るのである。

ところが、実はホセには固定楽想もなければインパクトのある固有のアリアもない。彼は嫉妬心に駆られ、燃え立ってしまった恋心に悩み、訴え、怒り、母の待つ故郷に思いをはせもするのでいい歌をそこかしこで歌うのだが、それらの情はすべて他者に駆り立てられたもので何が彼の本質なのか明らかでない。ホセとはカルメンの妖気に篭絡される男という、朗々たる男の帝国であるテノールのアリアにはなじまない性質の役なのだと書いた方がいいだろう。

固有の歌、アリアは、したがって手を変え品を変えて強烈にセクシーな磁力を送り続けるカルメンという女が繰りだす秘術にだけ与えられているのである。彼女の歌だけが人間の地を丸出しで偽善の着色がない。カルメンを演じるメゾ・ソプラノ歌手というのはそういう生身のオーラを放っていないと様にならないのだ。カルメンがいなければこのオペラは観る意味もないが、困ったことに歌も容姿もロマらしい雰囲気も満点であるバルツァのような人がそんじょそこらにいるわけではないのである。

下が初演したセレスティーヌ・ガッリ=マリー(中段左から二人目)を含む歴代のカルメンである。容姿だけでもなかなかの面々だ。ちなみにマリーはこんな地味な歌いやよと文句をつけてあのハバネラを書かせ、ビゼーと関係があったともうわさされている。

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前置きが長くなった。結論としてこの日に聴いたケイト・アルドリッチという素材はバルツァ後継の有力候補と言っていいと思われるが、まだまだ普通の女が演じるアバズレだ。真のアバズレをえぐり出している超ド級の音楽に置いて行かれている部分がある。演技がいけないわけではない、バルツァだって6才からピアノをやってそこそこの家のお嬢だろうが演技であれができている。

長身のイケメンで押し出しが良く声量もあるマルセロ・プエンテのホセは当たりだった。純情路線でバルツァに丸め込まれていたカレーラスの記憶が強いが、非常にコンペティティブな所にいると思料。

ダルカンジェロのエスカミーリオはこれまたメットで観たサミュエル・レイミーが姿も声も一級品で比べてしまう。闘牛士の歌は彼のキャラクターソングだが曲調は大衆歌謡に近い(とにかくこのオペラには小難しい旋律や和声やフーガは皆無なのだ)。それだけにバスの朗々とした艶やかな低音がないとしょぼいものになってしまう。ダルカンジェロの声は合格だがプエンテのホセが恋には勝ってしまうかなあ。

ミカエラのシルヴィア・シュヴァルツは大いに好感を持った。なによりミカエラらしい雰囲気と声が誠に好ましい。アバズレと対極の恋を夢見る貞淑な乙女キャラクターであって、主役がメゾだからソプラノが愛らしく映える。当時のパリの女性に対する道徳観ではこういう要素が毒消しとして必要だったかもしれない。道徳はともかく、ミカエラがはまる声質のソプラノは僕はだいたい好きである。

他の声楽陣も合唱も不足はなく、12月のデュトワを楽しめた。欲を言えばN響がこの曲には「いい子」の草食系だ(きちんとまとまってはいたのだが・・・)。闘牛で血が流れカルメンも血を流すのだ、もっとスペインのラテンのどぎつくてワイルドで粗暴な熱がほしい。デュトワにはない物ねだりになるがレヴァインが振ったメットのオケは熱かった。それが舞台と相乗効果で火炎が立ちのぼるような忘れられない効果をあげた。優れた音楽とはそういうものだ。

 

(ご参考) ビゼー オペラ「カルメン」 (Bizet: Carmen)
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武満徹 「雨の呪文」 (Rain Spell)

2016 SEP 18 3:03:36 am by 東 賢太郎

そのむかし東大生だったころ、法律の授業に辟易してしばし本郷を抜け出していたことがある。いたのは上野の東京文化会館音楽資料室だ。膨大な枚数のLPがただで聴けるのがありがたく、漁るように現代音楽のレコードを聴きまくった。

現代曲は廉価盤になることはなく、定価の2千円も出してつまらないかもしれない未聴の曲を買うわけにはいかなかった。だから食指が動くかどうか、聴くだけで価値があった。今ならyoutubeで手軽にできることだが、上野は当時は宝の山に見えたものだ。

浪人生のころ、ヒマ?だったのでストラヴィンスキーとバルトークを聴きまくった。それが「三つ子の魂」になったのか、当時モーツァルトというと諳んじていたのはアイネ・クライネぐらいで興味は100%、20世紀音楽に向かっていた。第九交響曲より詩編交響曲の方を先に覚えたのは相当変わり者だろう。

上野で知ったメシアンはこれが強烈だった(メシアン トゥーランガリラ交響曲)。ただ、オンド・マルトノがどうにも苦手であり、オルガン曲とこれの方が気に入っていた。「世の終わりのための四重奏曲」(Quatuor pour la Fin du Temps)である。第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ポーランドの収容所で書いたいわくつきの曲だ。

メシアンの作曲法は 音価、モード、移調の限られた旋法で有名だが、旋法2番はディミニッシュ・コードで3通りしか移調できないのはいわば当たり前であり、だから何か価値があるかというとどうもよくわからない。規則で可能性を縛ると神性に至るという思想はキリスト教的、一神教的、三位一体的で、12音技法も実はそれである。

僕は「春の祭典」にそれがあるとは思わないが、カソリックの人たちはそれでは困るんだろう。この曲がスキャンダルを起こし人心を捕らえてしまった神性の根源として、そこに数学的な秩序(メシアンの音価、モードの秩序)をブーレーズが「発見」したのもまた有名だ。この論文も読んだが、しかし、正直のところそんなに大層なものとも思わない。

僕的には、可能性を縛る(シンプルで強靭な神のルールへの服従)よりも、音素材のディメンションを拡大してスピリチュアルな精神作用である音楽というもののメッセージ伝達の可能性を広げる方法論の方に共感が出てきている。

微分音というものがある。半音を2分割(四分音)、3分割(六分音)、4分割(八分音)などしたものだ。例えば、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章に「四分音」が現れるが、これがその一例だ(12:44から)。

旋法とはオクターヴ12音から順番に音を選びとる際の2音間の間隔の半音と全音の規則性のことである。しかしその素材である12音は平均律に調律されたピアノで演奏される12音である。四分音はそのピアノで弾けないことは言うまでもない。これが「音素材のディメンションの拡大」ということだ。前掲のリゲティらがそれを取り入れている。

「スピリチュアルな精神作用である音楽」という側面を見せてくれるのが、武満徹である。彼はことさらに日本風の音楽を書いたわけではない。しかしそこにあるのは古来より我が国の風景文物に対峙して先祖が磨き上げてきたエッセンスとしての抽象的な美であって、他国のどこのそれとも違う。

この「雨の呪文」(Rain Spell)をお聴きいただきたい。音楽の泉から湧き出る清水のような透明な美は何にもかえがたい。

フルート(アルト・フルート持ち替え)、クラリネット、ハープ、ピアノ、ヴィブラフォンという編成である。そしてこのハープだが、レとシが四分音だけ高く、ラとドとファが四分音だけ低く調弦されているのである(耳を澄ましてお聴きいただきたい)。12音の音素材が拡大しているという点で、これは「世の終わりのための四重奏曲」とは決定的にディメンション(象限)の異なる音楽である。各所に生じる近接和音と四分音の独特のうなりが波紋のような絶妙の効果をあげるのがお分かりだろうか。繊細極まりない和の芸術と思う。

 

クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)

 

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スティーヴ・ライヒ 「18人の演奏家のための音楽」

2016 SEP 16 13:13:30 pm by 東 賢太郎

前回のリゲティが宇宙空間をただよう静けさならこちらはどうか。単調なリズムの反復による同一和音の漸強、漸弱と音色によるグラデーション。満ちては引く潮のようであり、生まれ羽ばたく生命の息吹のようである。宇宙的に対して地球的であり、リゲティが横断的ならこちらは垂直的に感じる。これはミニマル・ミュージックと呼ばれ、スティーヴ・ライヒはその作風を代表する米国の作曲家である。

地球的?いや、しかし、これは実はCosmic(宇宙的)でもあるのだ。このリズム・パターンの繰り返しは、高速でぐるぐる回る中性子星が送ってくるX線パルスの描くグラフの規則的な律動を強く想起させる。

話はあらぬ方に行くが、天文マニアである僕がいま最も興奮している星がある。白鳥座の1,480光年先にあるKIC 8462852という恒星がそれだ。ご興味ある方は、米国エール大学の天文学者、タバサ・ボヤジアン博士のわくわくする講義をお聞きいただきたい。

この星の明るさ(明度)は唐突に不規則的に22%も落ちる。何か物体が恒星の前を通過して光を遮っている。その部分の明度グラフは非対称だからその物体は球形ではない。彗星ではない。恒星のエネルギーで熱を持つと出る赤外線放射がない。太陽系外から見ると木星による明度低下ですら1%でしかなく、22%になるには地球の1,000倍の超巨大な物体が横切ることが必要だ。

そんな物体があり得るのだろうか?

この問いにリーゾナブルに答え得る解答は「巨大な人工建造物」だそうだ。地球外生命が作ったダイソン球というストラクチャーが恒星をぐるりと取り囲んでいるのだと博士は推論する。要するに、平たく言えば、そこに高度な文明を有する宇宙人がいなくてはならないということになる。

米国人はこういう話題が好きで、お茶の間向けのワイドショーまでがとりあげていると聞く。4人にひとりが地球が太陽を公転していることを知らない国でもあるが、サイエンスへの素朴かつ素直な好奇心が比較的広くあるように思う。フロンティア精神に起因するのか教育なのかアポロ計画以来の宣伝効果なのか。

一方、これを我が国のバラエティ番組が放映することは想定しがたいが、ことはお茶の間の話しばかりではない。太陽のような恒星のぐるりにエネルギーを取り込む装置をめぐらせ、地球のエネルギー源が枯渇しても宇宙ステーションで生きのびるという科学者のデッサンには底知れないスケールとパワーを感じる。その実例が1480光年先にあるのだとする推理力、構想力はなんと雄大なものだろう。

5か国に住んでみて思ったのは、平均的な日本人の科学への知識と敬意は先進国としては低いことだ。科学者は特別に頭脳明晰な人であり、同時にお相撲さんと同じぐらい一井の人とは別種の人だ。ノーベル賞をとると、彼の研究内容ではなくいかに「普通の人」のところもあるかという関心がもたれる。

報道はお茶の間で「へ~」という声が上がる方向に偏向し、科学に関心を向けるのは視聴率を気にしなくてもいいNHKの教育番組ぐらいのものだ。僕はお茶の間の科学への関心と知識レベルは江戸時代と変わらないと思っている。天に唾するが、僕を含めた大学の文系卒業者も似たものだ。地球の公転はクイズ番組と同じノリで、知らないと恥ずかしい国民の常識として知られている。

その土壌で育った科学者が、タバサ・ボヤジアン博士のようになるのだろうか?能力の問題ではない。良い種も土に左右される。KIC 8462852の不可解な現象に「エキサイティング!」と目を輝かせ、一般人か学生と思われる聴衆、公衆に自らのわくわく、どきどきを訴えかける。ペンシルバニア大学で彼女のような先生たちについて勉強しながら、僕は何度「エキサイティングな国だ」とため息をついたことか。

女性科学者と見るや割烹着を着せ、「リケジョの星」に仕立ててお茶の間の「へ~」にしようなどという恥ずかしい国との差は測りがたいものがある。お茶の間は仕方ないだろう。しかし「2位じゃダメなんですか」がお茶の間受け狙いのバラエティー番組作戦だったことがバレた、そんな政党が政権を取るという日本史上最大の悪夢があった。こういう日本人の民度を下げ国力を削ぐ政治家は僕が長年主張してきていることと真逆の人間であって、日本国のために永遠に許し難い。

ライヒのミニマル・ミュージックは「意図的に単調」であって、こういう音楽を発想する、これもまた科学と同様、「デッサンの底知れないスケールとパワー」を体感するのだ。最初はクラシックを聴くモードで入るが、だんだん集中力が弛緩してぼんやりしてくる。これまたどういうわけか僕は眠気を催すのだ。旋律も和音変化もないものだから中性子星のX線パルスみたいなものだ。KIC 8462852の非対称性がないものだから脳が思考停止してしまうのだろう。

眠るというのは、意識が飛んで精神が宇宙に同化している状態のような気がする。人生最後の睡眠が死というものだ。寝ている間、精神はふるさとである宇宙を彷徨っているが、最後の日だけは地球にある元の体に戻ってこない。音楽という精神作用は、深いところで人の生死、睡眠と関わっていると僕は信じている。そういうスピリチュアルな次元において、表面的には正対しているリゲティもライヒも新しい音楽の地平を開いているのである。

 
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リゲティ 「ルクス・エテルナ(永遠の光)」

2016 SEP 15 1:01:25 am by 東 賢太郎

皆さんこれを聴いてどう感じられるだろうか。ジェルジ・リゲティ(1923-2006)はハンガリーの作曲家で、これはトーンクラスターから発展したミクロポリフォニーの手法で1966年に作曲した無伴奏16部混成合唱曲である。

僕は目をつぶっていると20種類ぐらいの「協和音」の部類(9th、11th、13thなど)が数々の色を伴ってきこえてくる。リズムはなく残響もあるかないか不明である。一貫したp~ppの静けさが無限の見えない質量を感じさせる。見えるのは黒色を背景に時間と共に変化する淡い色彩のグラデーションだけだ。

映画「2001年宇宙の旅」に使われて有名になった。宇宙空間に音はないし宇宙に行ったこともないのだが、あるならこんなものだろうというイメージがふくらむ。このスコアにはどんな秘密がこめられているのだろう?

どういうわけか、これを聴いていると眠くなる。ゴールドベルク変奏曲で眠れる気はまったくしないが、これは脳髄の奥の奥まで入り込んで麻酔作用を及ぼし、深い眠りにいざなってくれる。不眠症のかたにはおすすめの非常に不思議な音楽だ。

 
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R・シュトラウス 歌劇「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」

2016 AUG 7 14:14:04 pm by 東 賢太郎

リオ滞在中のことです。当地企業の方々にお連れいただいたナイトクラブは圧巻でした。何が出てくるかと思いきや、何十人のカリオカの美女がずらっと並んで踊る。バレエじゃない、サンバですね。少々の物事は言葉にしてみようと努力もしますが、あの壮観はギブアップせざるを得ません。

ギター、ピアノ、サックス、ペット、ドラムス、ボンゴみたいな手でたたく様々な打楽器などが、はじめはスローなムード音楽のようなのを奏でています。こっちも酔ってて心地よし。ダンサーたちもそれにあわせて体を動かす程度です。徐々にリズムが乗ってきてアップテンポに。すると踊りも激しさを増してセクシーになっていきます。そしていよいよサンバの激しいアレグロに・・・。

妖艶なものをご想像されましょうが、全くの正反対です。照明は終始煌々と明るく、なにせダンサーの子たちがあっけらかんと底抜けの笑顔で、キャーキャーと陽気である。裸体はまさしく堂々たる威容であり、気恥ずかしげな顔をして目のやり場に困っているのは我ら日本人だけ。もはやスポーティとさえ言え、目など合うとみてみてサインが飛んできたりして、これは見ないと失礼にあたるかという空気におされる。

西洋人の裸体への感情はわからないものがあります。ギリシャ彫刻はみなフリチンだし、紀元前8世紀から1200年続いた古代オリンピックの選手は、もちろん全員が男ですが、平民でも貴族でもことごとく全裸で競技をするという決まりだったのです。理由は諸説あるが、神の似姿という意味があったという説が有力なようです。

では女の裸体のほうは必ずエロティックかというとそうともいえない感性があって、パリで行かれた方も多いと思いますがリドやムーラン・ルージュなどカップルで正装して食事しながら、舞台にはトップレスのダンサーが平気でずらっと現れる。全然なんのこともなし。この「あっけらかん」は日本人には新奇ですらあり、郷に入って郷に従い難い部分を残すのです。

オペラにストリップが出てくるというのもそれと同様に新奇であって、そのもっとも有名なものがR・シュトラウス 歌劇「サロメ」でありましょう。

クラシックがお堅いまじめなものだという日本。教科書が「音楽の父」だなんだと教えるそばから女が裸で踊ったりする。「いかがなものか!」なんて声が飛んできそうです。ベートーベンはモーツァルトを評価したが「コシ・ファン・トゥッテ、あれは淫乱でいかん」と嫌った。日本人が彼を好きなのはそのストイックな性分もあるかもしれません。

ヘロデ王の前で妖艶に舞い、何を所望するかと尋ねる王に「ヨハネの首を」と答えるサロメ(ヘロディアの娘)。これはヘロディアと結婚したい王が邪魔になったヨハネを殺す奸計だったことが新約聖書(福音書)にあります。みな実在の人物とされています。事実は小説より奇なりを地で行く話ではありませんか。

盆にのせて差し出されるヨハネの生首にキスするサロメ。なんとも煽情的な場面であり、そんなことに至るなんて、サロメは王にどんなエロティックな舞いを見せたのだろうと想像をたくましくしてしまうのです。このシーンが戯曲になり、音楽をつけたいと思う者が現れるのは自然でしょう。それがリヒャルト・シュトラウスだったのは幸いでした。

彼が管弦楽を描写的、絵画的に色彩的に鳴らす名匠であることは否定しようがありません。ワーグナーの音楽がすぐれて劇場的であり、ピアノではなく分厚い管弦楽を前提に発想されたと同じ意味でR・シュトラウスも劇場型の音楽家であり、彼の管弦楽曲の作法はハリウッドの映画音楽に大きな影響を与えたとされています。

「7つのヴェールの踊り」は歌劇「サロメ」のハイライトシーンであり、ストリップを芸術的に描いたという意味で古今東西、最右翼。これ以上に格調の高いエロスを僕は知りません。

この音楽は凄まじい。リオのサンバぐらいで目が点になってしまう僕らには発想すらできない、人間の欲望、セクシュアリティの根源のようなものをえぐったものです。

僕はR・シュトラウスの音楽に深みや哲学を感じることはまったくありませんが、彼はそういう人ではなく、音で何か人間という浅はかなもののありのままの姿を描き出すことの職人であって、アルプス交響曲で登山風景と心象を見事に活写したように、ここでは女の妖艶さと観る者の心象を活写するのです。

こちらはアルバニアのオペラハウスのもの。バルカン半島のお土地柄なのか、なんとも雰囲気出てますね、いいですね。ギリシャ、マケドニア、モンテネグロのお隣で目の前に真っ青なアドリア海。こんなところで聴くサロメなんて最高です、行ってみたいですね。

 

R・シュトラウス アルプス交響曲(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

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マルセル・ティーベルグ(Marcel Tyberg)交響曲第2番

2016 MAY 28 20:20:33 pm by 東 賢太郎

ここに男のレガシーについて書きました。

オバマの広島訪問

出世が早いとか遅れたとかどこまで登りつめたとか男の悲喜こもごもがあって、それは半沢直樹ものや古くは白い巨塔などでなまなましく描かれています。もちろん僕も得意ではないながらやってたわけです。

そういうときもありましたと別な世界の人に言ったところで「あっそう」でおわり。他業界だとヒット商品とか橋だとか、あれを作ったのは俺だみたいなのがあってうらやましいが、証券業界は難しい。だからアート系の人はいいなあと思います。成功すれば生きてることがレガシーになります。

広島・長崎とアウシュヴィッツ。やった者も立場も理由もちがうが、罪もない民間人を殺戮し人間の尊厳もレガシーも踏みにじった大罪であることになんの変りもないでしょう。

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マルセル・ティーベルグ(Marcel Tyberg、1893-1944)はポーランド系のウィーンの作曲家です。3曲の交響曲、室内楽、宗教曲、ピアノソナタ、歌曲などを残し、シューベルトの未完成交響曲の4楽章完成版もつくりました。彼はナチスに捕らえられてアウシュヴィッツで命を落とした悲劇の作曲家の一人ですが、それによって事跡が最も忘れ去られてしまった一人であり、そして、最もそうなるべきない一人でもあることを僕は知りました。

 

 

彼は北イタリアのアバツィアに母と住んでいました。母親はシュナーベルと同門の名ピアニストでした。彼は作曲をしながらピアノ教師などで生計を立て、交響曲第2番は友人であったラファエル・クーベリックがチェコ・フィルと初演するほどでしたが、名声には関心を示さない性格でした。

1943年、ムッソリーニが失脚した年、アパツィアはイタリア社会共和国としてナチス・ドイツの傘下になります。官憲に呼び出された母親は世事には疎かったようで「ユダヤ人は名乗り出よ」という査問にひっかかって「曽祖父がそうだ」と答えてしまうのです。彼女はそれからすぐ亡くなり(これは自然死とされる)、失意のなかで息子は捕らえられアウシュヴィッツに送られます。

カソリックであり16分の1の血であったのですが(別にそういう問題ですらないが)、彼は捕らえられてしまったのです。ナチスのおぞましい執念というしかない。彼は自殺したという噂がたちますがナチス側の記録では収容所にて44年12月31日に亡くなったとされています。幸いなことに、彼は拿捕を予知して全作品の楽譜を友人に託していました。

この友人の息子がのちに米国に渡り、ニューヨーク州バッファローで医師となった。そして近年になって楽譜の蘇演を思い立ち、バッファロー・フィルハーモニーの指揮者ジョアン・ファレッタらがNAXOSレーベルに見事な演奏で曲の真価を再現したものがこれです。

ある日、この交響曲第2番を聴いて僕は唖然としたのです。ぜひ、通してお聴きください。

第1、3楽章はまるでブルックナーであり、アダージョにはマーラーの響きもあって濃厚な弦のテクスチュアと和声は忘れ難い。終楽章の導入部の感動的なこと。どこから見ても立派で上質の音楽ではないですか。あまりに素晴らしく、僕はもうこの交響曲をすっかり覚えてしまいました。これから折にふれ、とりだして聴く曲の一つになるでしょう。

皆さまほとんどがご存じでない作曲家と思いますから、名前をどう読むかは大事です。ネットでは違う表記がされていますが、上記の指揮者ジョアン・ファレッタはこのビデオで「ティーベルク」と発音しています。

それは米語だろうと言われそうでですが、別の資料も「ti:」(ティー)と書いており、彼は米国人の手で同地で蘇ったのだから、僕はそう記します。

絶筆となった交響曲第3番がかなりマーラー寄りの音楽になっているのはどういうわけだろう。これが拿捕される直前の作品です。そのことが耳に焼き付いて離れません。

そのこととは別に、1943年にもなってこういうシンフォニーを書けたというのは如何なることでしょう?言いたいのは調性音楽だということでも後期ロマン派風ということでもありません。このクオリティの交響曲が書けたということです。オリジナリティーがないという指摘は受けるだろうが、では流儀は何でもいいからこれだけの音楽が書けますかといわれてイエスと答えられる作曲家がいま何人いるだろう。

この2曲はブルックナー、マーラーなみに評価されるべき作品であり、やがて広く知られ、今世紀中にはコンサートレパートリーとして定着すると信じます。

ティーベルクが生きていたら?音楽史にもうひとりの偉大なシンフォニストの名が間違いなく刻まれていたでしょう。男のレガシーとは、こういうものですね。

 
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