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カテゴリー: ______マーラー

マーラー 交響曲第9番

2018 APR 22 23:23:54 pm by 東 賢太郎

マーラー9番というと、ロンドン時代にバービカンでクラウディオ・アバドのを聴いて感銘を受けた。87年1月のことだから31年も前だ。そこからカラヤン、ジュリーニ、クーベリック、ワルター、セル、バルビローリ、バーンスタイン、ノイマンを買っているから聴きこみはしたようだ。

第九の死の呪縛を大地の歌のフェイントでかわしたマーラーは、ついに正面から取り組むことになった9番を謳ったこれの終楽章をersterbend(死に絶えるように)と書いて終えた。そしてそのとおり、彼は聴くことなく亡くなった。

9番を書いていたころ、ニューヨーク・フィルの指揮に専念した彼は欧州を飛び回って7,8番の指揮で多忙でもあり、アルマとの関係は微妙になり、心身共に交響曲を作曲できたとは信じ難い状況にあった。そこで「狂ったように大急ぎで、あわただしく、ほとんど書きなぐられた」9番になにか秩序を求めても仕方ないと思っている。

この曲は形式論理が一見ありそうでなく、熱病にうかされたように散文的だ。緩-急-急-緩の4楽章をフランス風序曲に倣ったとする人がいるそうだが、この時のマーラーがこの重いテーマの狂ったような曲でそんなものに倣う必要がどこにあろう。理解不能の説である。チャイコフスキーの悲愴に倣ったのだと思う。だからersterbendであり緩-急-急-緩なのだ。彼がニューヨーク・フィル定期公演で振ったプログラムに悲愴を見つけてそれを確信した。

スコアを見て思い浮かべるのは曼荼羅、タペストリーだ。狂ったようにではなく、狂っている(特に第3楽章)が鳥瞰するとまとまった図柄に見えるという性質のものだ。だから、ここからは毎度のマーラー批判になるが、僕は人間の恣意ばかり感じて神性をいささかも感知せず、分析しようという意欲に着火しない。ピエール・ブーレーズが晩年にブルックナーを振ったのは何とか理解するがワーグナー、ましてマーラーに行ったのはわからない。ワーグナーの音楽は図抜けているが僕は彼のがなった朗読を聞きたいと思わないし、マーラーは楽器でそれをやっているとしか思えない。

マーラーはワーグナーと同じく鳥瞰的な天与の和声感覚、バランス感覚があり、ミクロの整合性には一向にこだわりがないのに終わってみるとまんまと強引な計略にはまっているという音楽を作ったが、しかし僕は神様は絶対に細部(ミクロ)で手は抜かないと思っているから、うまく書けている作曲技巧に敬意を表しつつも、人為的な押しつけがましさに辟易するぐらいならお付き合いはやめておこうと思うに至って久しい。

金曜にこういうプログラムを聴いたが、以上書いた心象が特に変わるものでもない。アイヴズは実演を初めて聞いた。前から苦手の最右翼だが、一音たりとも良いと思う音は感知しなかった。

 

指揮=シルヴァン・カンブルラン

アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所
マーラー:交響曲 第9番 ニ長調

(サントリーホール)

 

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マーラー 交響曲第7番 (N響定期)

2018 FEB 11 10:10:17 am by 東 賢太郎

我が家のノイは、絵画は鑑賞するが抱っこが嫌いである。そこについては十猫十色ではあるが、僕の知る猫は概して好かなかった。人のにおいがつくのを嫌っているのだという説も有力だが、なんといっても百獣の王ライオン様のご親族だ。抱っこは捕まって拘束されて食われてしまうかも知れない姿勢ということで、そんなのは末代の恥だと思っているのではなかろうか。

ところが飼い主である僕自身だって、抱っこではないが長いこと椅子に拘束されて動けなくされるのがまずい。閉所恐怖症でもある。動けない自分というものを意識するとじっとしていられなくなるから周囲を驚かせてしまい、今度はそうなるかもしれないという意識が恐怖になるから手に負えない。だから飛行機、床屋は苦手で、脳ドックの穴倉は生き地獄であり、最近はコンサートまで危なくなってきた。

きのうN響定期で何も見ずにぶらっとNHKホールに行ってみてこれは参ったと観念した。マーラーの7番。しまった、誰かにあげればよかった・・・。

これは群を抜いてだめな曲で、ウィーン・フィルのヴィオラの人が食事の時にマーラーはバーンスタインだよというので彼のを買ってみたが面白くもなんともない。おまけにスポンジが変性してCDがだめになってしまったが買いなおす気力もない。尊敬するクレンペラー大明神でもアウト。90年にロンドンでA・デイヴィス/BBC SOで聴いたらしい(記録がある)、つまりチャレンジする気になったことはあるらしいが、何の記憶もない。ひょっとして最後まで通してまじめに聞いたことないんじゃないかとさえ思う。弟子なのにこれにいっさい手を付けなかったブルーノ・ワルターの慧眼はさすがと思う。

まあ興味のないのはいい。困ったのは休憩なしで1時間半も椅子にしばりつけられてしまうことだ。それに耐えるには関心の持てる曲でないと難しい。マーラー7番で床屋の3倍も長い時間じゃないか、ちょっと自信が持てない、捨てて帰ろうかどうしようか迷ったが、終楽章のアレグロに15小節ぐらい好みのところがあるのを思い出し、そうか、あれを楽しみに待っていよう、それなら気がまぎれるんじゃないかと思い至った。

マーラーはホルンが立って朝顔を上にしたりクラリネットが一斉にはしたなく尻を持ち上げたり、音響の要請なんだろうがなんとも大道芸的で下品だ。紅白歌合戦の小林幸子さながらで、あのまま15番ぐらいまで生きてれば直径5メートルの巨大ドラを鋳造して運命のハンマーで5人がかりでぐわ~んとやったかもしれない。マーラーの下品のお師匠はワーグナーだが、あのバイロイトの劇場という奇天烈なシロモノは、ドイツ王族界の小林幸子、ノイシュヴァンシュタイン城で有名なルートヴィヒ2世の狂った精神の投影である。

従ってきのうも舞台にドラが10個も並んでるかもしれんと心配したが、意外に叩き物、鳴り物は普通だ。ヤルヴィがさっそうと登場し棒をおろす。おおヴィオラがいい音だ。これならいけると期待したが、5分で意識は散漫となり、10分で飛び、数分後に消えた。まずい、イビキをかいてはいけないという自制心がカウベルの催す眠気と退屈を緩和してくれ、バルトークを知る身としてこんなのどこが夜の音楽だという怒りも参加してなんとか1時間もった。

どかどかとティンパニの乱れ打ちで目が覚める第5楽章。やっと来た、よかった。長い船旅で港の明かりが見えた心もちだ。あの部分、おおいいぞ、これだこれだ。

しかしそこから僕には何の感興ももたらさない音の嵐が襲いかかり、節分で雨あられと豆をまかれる鬼の気分になってくる。コーダはお決まりの大騒動で打楽器奏者二人を動員してでっかいカウベルまでこれを見てみんかいと鳴らしまくる。なんだ?大団円の歓喜(かどうか知らないが)に牛まで参加しているという隠喩であろうかと錯乱していると曲は終ってしまう。この楽章、モーツァルトのオスミンを思わせる弦のユニゾンが出てくる。後宮を聴いた皇帝が「音符が多すぎる」と言うとモーツァルトは「ちょうどよい数です」と答えた。マーラーはモーツァルトを崇拝していたのに音がとっても多すぎる。

マーラーファンには申し訳ないが、彼の曲を何度聴いて耳になじんでも、僕は普遍性を感じない。モーツァルトのオペラやベートーベンの交響曲は当時として斬新で、20世紀初頭に現れたマーラー以上にプライベートな着想にあふれ非常に独創的だが、しかし普遍的なのだ。これが宇宙の定理のようなものとするならマーラーは私小説で、作家本人の自伝的要素、告白性がある太宰治や川端康成のようなものと感じる。そういう文学が明治以来の近代小説の主流となったのだから我が国の精神風土は色濃くそういうものということであって、マーラー好きが多いのはわかる気もする。

それがどうのということもないが、純文学という意味不明の言葉とともに僕にはなよなよして苦手なにおいがあり、それがそのままマーラーにも当てはまる。宇宙でも普遍でもない彼の個人のお話だ、出自が貧しかろうと誰と恋に落ちようと死に別れようと僕にはとんと共感がなく、音符や和音や楽器がひとつやふたつ変わろうが抜け落ちようがどうでもいいことに聞こえ、ヨーゼフ2世にああいわれても「ちょうどよい数です、陛下」とは言い返せなかったのではないかと思う。自然界に無駄はない。あるのは人間の精神にだけで、メタボの腹みたいにぶよぶよで不健康な感じがする。

モーツァルトが誰と恋に落ち死に分かれたかに僕は多大の関心があるが、それは彼が自分の痴話話を持ち込まない宇宙の真理のように澄みわたった音楽しか書かない人だからだ。痴話話を題材とした音楽しか書かない人間に僕は関心のもちようがないのだから、その人の痴話話ともなると、きいたこともない芸人の浮気話未満である。学生のころ太宰治をダザイと呼んで「人間失格」がわからんと一人前じゃないみたいないやらしい空気があって、そういうことをぬかすやつはだいたいが似合わない長髪で薄汚く、フォークなんて気絶するほどくだらないのを音楽と思って自尊心に浸れる程度のかわいそうな男だった。

ああいうものの主人公はだいたいが虚弱な秀才で自虐的で気弱で自堕落で酒や薬や女におぼれ、馬鹿馬鹿しいほど判で押したように肺の病気で(肺をやるというイディオムすらある)喀血したり自殺を試みたりするが、そんなに肺をやる人が多かったとも思えないしもとから危なげな浮浪者がそんなことしても小説にならないのであって、書いてる本人が帝大なものだから許されて、これ実は俺なのよ、ちょっと知的なマゾだろみたいな気色悪さに満ちあふれる。したきゃ勝手にしろよ、このオカマっぽいステレオタイプと面倒くさい共感の強要は何なんだとおぞましいばかりで新興宗教に近く、はっきり言って吐き気がするほど大嫌いであり、マーラーがそうであるわけではないのだがどうしてもそのイメージが被ってしまう。

N響はとても良い演奏をした。ヤルヴィは脂がのっているしヴァイオリンもピッチが良かった。この曲、ひょっとしてマーラーはどれもかもしれないが、オケには顕著にやり甲斐がある風に見える。我が国の管はブラバン出身の人が多く、大勢が呼ばれてばりばり吹けるマーラーはそういう事情からもアマオケで人気があると聞いた。ブルックナーでもいいのだが、声楽が多く入るから合唱団の関係者にチケットがさばけて更にありがたいという動機もある。それが年末の第九祭りの真相の一端でもあるがそれはサプライサイドのマーケティングだ、そんなのでアートをしてはいけない。聴く側には詮無いこと、僕にはまったく困ったことである。

 

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マーラーの墓碑銘

2017 SEP 10 12:12:03 pm by 東 賢太郎

「私の墓を訪ねてくれる人なら私が何者だったか知っているし、そうでない人に知ってもらう必要はない」と語ったグスタフ・マーラーの墓石(右)には名前しか刻まれていない。作品が語っているし、わからない者は必要ないということだ。去る者追わずの姿勢でも「やがて私の時代が来る」と宣言した堂々たる自信は畏敬に値する。

冒頭の言葉の墓をブログに置き換えて死にたいものだと思う。昨今、一日にのべ 2,000人ものご訪問をいただくようになってきてしまい、普通はなにか気の利いたサービス精神でも働かせるのだろうが僕にエンターテイナーの才能はない。何者か知っている方々だけが楽しんでくださればそれ以上は不要だ。

マーラーがスコアに「足音をたてるな」と書いたぐらい、僕は部下への指示が細かくてしつこかったと思う。理由は信用してないからだから言わない。しないと何をすべきかわからない人にはなぜかを説明するが、そういう人は得てしてそうしてもわからない。より平易にと親切心で比喩を使うと、主題転換の方に気を取られてますますわからなくなる。よって面倒なので、自分でやることになる。

マーラーを聴くと、そこまで僕を信用しませんか?それって、そこまでするほど重要なことでしたっけとなる。そして部下も僕をそう嫌ってるんだろうなと自省の念すら押し付けられて辟易し、音楽会が楽しくもなんともなくなってしまうのだ。ボヘミアンを自称したコンプレックスを断ち切ってウィーンの楽長まで昇りつめたエネルギーの放射と自信はすさまじいが、灰汁(あく)を伴う。

ショスタコーヴィチはマーラーの灰汁を彼自身のシニシズムと混ぜ合わせてスターリン将軍様に見せる仮面に仕立ててしまった賢人である。革命後の1920年代より一貫して第一線に立ち続けることができた芸術家は彼以外にほとんどいない。招かれざる個性だったがその陰に隠れた怒りのくどさも格段で、仮面がだんだん主題にすらなる。交響曲第13番は「バビヤールには墓碑銘がない」と始まるが、「私の交響曲は墓碑銘である」と語ったショスタコーヴィチの墓には「DSCH音型」(自分の名の音名)の墓碑銘がある。

僕は自分の音楽史の起源にある下のブログを書いていて、ネルソン・リドルのスコアに偶然かどうかDSCH音型があるのに気づいた(hが半音低いが)。

アンタッチャブルのテーマ(1959)The Untouchables Theme 1959

こういう、人生になんら影響のないことに気が行って、気になって眠れなくなるのをこだわり性格という。こだわりには人それぞれの勘所があって万事にこだわる人はまずない。芸術家はすべからくそれであって、そうでない人の作品にこだわりの人を吸引する力などあるはずがない。

例えば僕は猫好きだが子猫はつまらないし毛長の洋ものは犬ほど嫌いだから猫好きクラブなど論外である。生来の鉄道好きだが、勘所は線路と車輪のみでそれ以外なんら関心がないから今流の鉄オタとは遠い。原鉄道模型博物館に感動してこのブログを書いたのはわけがある。

原鉄道模型博物館(Splendid Hara Railway Museum in Yokohama)

車輪のフランジへのこだわりは書いた通りだが、書いてないのは「音」だ。線路と車輪は普通は安価で錆びず持ちがいいステンレスで済ますが継ぎ目を車輪が通過するカタンカタンの音が軽い。原信太郎氏は原音にこだわって鉄を使っているのである。そんなことは普通の客は気にしないし気づきもしないだろうが、僕のような客は気にするのだ。

バルトークの息子ペーテルが書いた「父・バルトーク」(右)に「なぜレールの継ぎ目で音がするの?」とカタンカタンのわけを質問したくだりがあって、父は線路と車輪を横から見た絵を描いて(これが実に精密だ!)、音の鳴る原理を克明に息子に説明しているのである。原信太郎氏はこれを見たかどうか、もし見たなら同胞の絆と膝を打ったに違いない。僕はバルトーク氏も原氏も直接存じ上げないが、心の奥底のこだわりの共振によってそれを確信できる。上掲ブログはあえてそう書かなかったが、それが2014年、3年半前の僕だ。いま書くとしたらぜんぜん違うものができていただろう。

原氏のこだわりの類のものを見ると、大方の日本人はこれぞ匠の技だ、我が国のモノづくりの原点だとなりがちだ。そうは思わない。ヨーロッパに11年半住んでいて、精巧な建築物、構造物、彫刻、絵画、天文時計などジャンルに数限りないこだわりの物凄さをたくさん見たからだ。クラシックと呼ばれる音楽もその最たるもののひとつだ。僕は洋物好きではない、精巧好きであって、それは地球上で実にヨーロッパに遍在しているにすぎないのである。

さて、マーラーの墓から始まって僕のブログはレールの継ぎ目の話にまで飛んでしまう。計画はなく、書きながらその時の思いつきを打ち込んでいるだけだ。アンタッチャブルは出るわ猫は出るわで常人の作文とも思われないが、こういう部分、つまり主題の脈絡なさ唐突さ、遠くに旅立つ転調のようなものがマーラーにはある。そして僕は、それが嫌だからショスタコーヴィチは好きでもマーラーは嫌いなのである。

 

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

マーラー 交響曲第8番 変ホ長調

 

 

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大名演だったルイジ/N響のマーラー巨人

2017 APR 17 0:00:58 am by 東 賢太郎

指揮:ファビオ・ルイージ

ヴァイオリン:ニコライ・ズナイダー

アイネム/カプリッチョ 作品2(1943)

疲れがたまっていて休日のマチネーは眠くなってしまう。敬遠しているのですが昨日の読響が重なっていて止むなく振り替えました。ファビオ・ルイジは名前は記憶があってドイツ、スイスで何だったか聴いてるはずだけど覚えてない。気に留めてなかったのでしょう。メンデルスゾーンの速めのテンポでやや意識が戻るも集中せず。観念して後半のマーラーを迎えました。ところが、これがめちゃくちゃ面白かった。場外ホームラン。何年に一度の快心の一発です。

第2楽章は冒頭のチェロがゆっくり入って加速したり、第3楽章はコントラバスが全員で弾いたりとえっという感じでしたが、緩急自在のテンポでエピソードごとに大きく表情は変転。一時も飽きることなし。一気に覚醒。管楽器ごとにニュアンスと色合いが豊富なばかりか、弦5部も曲想によってそれぞれが自己主張して歌うので音楽がロマンティックに脈打つ。ヴィオラ、チェロは音が違う。ルーティーンで流すところは皆無、すべてのフレーズに血が通い奏者の息づかいまで感じられるという異例さで、何もなければ無難に終えてしまうN響も名演。

手垢のついた伝統の解釈を一旦ふりほどいてというのは誰もが試みることですが、これは聴いていて違和感のある恣意ではなく、ヨーロッパの伝統に根差した新しいスピリットの注入とでもいう感じがいたしました。第1楽章のカッコウの森の深々とした遠近感、第2楽章のホイリゲの雑踏のようなライブ感、第3楽章の軍楽隊はドンチャンと速めに行進してはっとさせ、ハープの「彼女の青い眼が」は白い霧のなかの白昼夢みたいに響く。それぞれ場面場面で11年住んだヨーロッパの懐かしい光景が脳裏に明滅するのには本当に驚きました。

僕にとってマーラーの安っぽくて嫌だと思っていた部分はこういうものだったか、いままで何を聴いていたんだろう?

1番のオーケストレーションは見事で第3楽章で一回だけひっそりとマレットでたたくシンバルの響き一つでも頭に焼きついています。音楽が生き物のように流れるとその効果が色づいて見える。ルイジのスコアの読みはマーラーの意図かどうかはともかく、僕も耳にタコができている1番の再発見をさせてくれました。クラシックはまだまだこういう余地がある。学んだと同時に、頭を芯まですっきりさせてくれました。

(こちらへどうぞ)

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

 

 
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クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

2016 DEC 5 11:11:11 am by 東 賢太郎

探偵小説マニアの女性というのはあんまり見かけない。いるのだろうが今の周囲にはいない。僕は女性が好きそうなトラベルミステリーとか人情物は興味がないというのもあるかもしれない。

たまたまそういう方がいて、じゃあどこが好きかということになった。人間ドラマのどろどろですねという彼女に対し僕はロジックの理路整然なのだからまったくの対極でかみ合わない。純文学だろうが探偵小説だろうが人間なんて一皮むけばみんなどろどろなんだから、そんなわかりきった小説を書くのも読むのもエネルギーの無駄だろうと思ってしまうのだ。

探偵小説というのは暗黙のルールがあって、犯人は智者で読者は愚者、そして探偵は天才であるという三位一体がつねにある。愚者と天才はまあどうでもよくて、犯人=智者というのが問題だ。犯人が行きずりの粗暴な衝動犯でもいけないし、一応は計画犯だが愚鈍だったりでもいけない。警察捜査で事件は片付いてしまって、肝心の天才の出番がないのである。

しかし犯人が天才では探偵と相討ちになってしまって事件は解決しない。だから仕組んだロジックにわずかなほつれを作るぐらいの智者がいいのであって、天才である探偵はそれを見逃さない。はい、では皆さんは見つけられましたか?という物語であって、ほら、やっぱり無理でしたね、どうですこの名探偵、天才でしょ?というホラ話をまじめに受け入れられる素直な人たちのために書かれているのが探偵小説である。

そこで、智者である犯人像の創造が難しい。変人だと読者にバレる。しかし智者すぎると、そんなリスク・リターンの悪い犯罪なんか頭のいい奴がやるはずねえだろとなってしまうのだ。いわゆる本格推理小説というのはほとんどがそこに破たんの源があって、読み終わるとこんな低能な物書きに騙されて印税まで払ってしまったという自己嫌悪感しか残らない。

そこで目くらましとして「どろどろ派」やら「社会派」が出てくる。それに犯人をまぶして動機と人間性を隠ぺいするのである。それでも童謡に添って人を殺したり現場にトランプを置いていったりなんてくだらないことで捜査側をあざ笑おうなんてハイリスク・ノーリターンな行為がいささかも現実味を帯びるとは思わないが、仕方なくやる隠ぺいが謎を深めるといういっときのプラス効果はある。その失敗のツケは種明かしのあほらしさとなって倍返しでやってくるのだが。

そういいながら探偵小説に騙され続けているのは、小中学生のころ読んだホームズやクイーンが面白かったからだ。三位一体とワトソンの叙述がエクリチュール化して逸脱を許容しないホームズ物はともかく、挑戦状による読者参加型を装っておいて解決が完全にはロジカルでなく実は三位一体型以外の何物でもないクイーン物は造りそのものが騙しであるという確信犯的部分に創造性を感じるから騙されても腹は立たなかったのである。

中では、オランダ靴の謎とエジプト十字架の謎の二作だけが犯人が当てられるという意味でロジカルであり三位一体としては失敗作なのであるが、ちなみに冒頭の方は後者は未読で前者は面白くなかったらしい。X・Y・Z・レーンはYだけではニーベルングの指輪と言ってもわからない。人生楽しみが残っててうらやましいですねと申し上げるしかない。

ロジカル派には時間がたつと犯人を忘れるという文学作品ではあるまじき特色がある。数学の問題は解ければいいのであって解答が2だったか3だったかはどうでもよくて後で覚えてもいない。しかし上記のような名作はそれがない。ロジカルである数学の問題は解ける人と解けない人がいて、ある物体に気づけば解けるエジプト十字架などとても数学、いや受験数学的だ。

しかるにどろどろはどうも探偵小説に本質的なものではなくて、その大御所はドストエフスキーだし音楽ならマーラーでしょとなってしまう。寒村のどろどろまぶしの達人である横溝正史は、あれはあれでああいう特異なホラーものとして僕も嫌いでないが、まぶしの技巧が後天的に売りになったのであって彼もクイーン的ロジックを構築する緻密さが基底にある。室内楽で名品を書けたからマーラーはマーラーたりえたのと似る。

マーラーこそ交響曲の到達点だと信じこんでいる人に音楽は進化論では語れないと説いても無意味であり、あれは文学であってとっつきようもないと表現するしかないが、そういう人はバッハやベートーベンまで文学的に聞いたり演奏したりしている気がしてこれまたとっつきようもないのは別人種なのだから抗い難い。作曲家がソナタという定型的なしきたりで曲を仕上げる作業は探偵小説作家の作業と通じるように思う僕には、その問題は避けて通れない。

対極をすっと受け入れるほど僕は大物ではないが、しかし仕事ではそれは意識して重視している。僕のような性向の人間が気がつかないことを指摘してくれるのは、いつもそういう対極側の人だったという明白な経験則があるからだ。

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

 

 

 

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マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

2016 JUL 16 0:00:29 am by 東 賢太郎

指揮=コルネリウス・マイスター

ハイドン:交響曲第6番 ニ長調 「朝」
マーラー:交響曲第6番 イ短調 「悲劇的」

(サントリーホール)

マーラー6番は1997年正月にウィーンでニューイヤーコンサートを聞いたおり、楽友協会(Musikverein)のアルヒーフでマーラーの自筆楽譜を拝見した記憶があります。

もっとも、所望したのではなく協会長さんがその場で選んで書庫からうやうやしく出してくださり、係員が白手袋でまるで月の石でも扱うように、息も吹きかけないように慎重にページをめくってくれた数曲、シューベルトのザ・グレート、ブラームスのドッペル、モーツァルトのピアノ協奏曲20番などのひとつだっただけです。そこにもうひとつ、たしかハイドンの弦楽四重奏曲第1番があったように思います。

マーラーは大嫌いなんですとはさすがに申し上げなかったが、猫に小判でした。

なにせ6番は格別に苦手で、行ったけど寝てしまったなんてのがあるかなと帰宅して調べたらやっぱり一度も聴いてない。つまりこれが記念すべきライブ初体験だったわけで、例によってホールに行ってからプログラムを知るもんですから、ありゃ~まいったなってなもんです。この鑑賞スタイルにするまではチケットは選んで買ってましたからね、買うわけないんです6番は。

何が悪かったのか、初めて買ったのがジョージ・セル盤でその後にアバド、クーベリック、ハイティンクを買っていて、おまけにセルのライブ盤、ブーレーズ盤までCD棚に鎮座している。好きな指揮者でそろえて懸命に好きになろうと努めた痕跡は痛々しいばかりですが結局徒労に終わった。曲を記憶していてこれほどダメだというのは、マーラーとは実に相性が悪いごめんなさいしかありません。

ということで本稿もファンの方にはお耳障り良ろしくないものになりますがご容赦をお願いする次第。

感想1

「寝てしまった」というのはないはずだった。終楽章の大音量ではさすがの僕も無理。

感想2

名高い「ハンマーの一撃」なるものを目撃。有識者の方々の数々のコメントにたがわず、インパクトのあるものであった。

ハンマーその1

あれほど初動から打点までが離れていて時差の生ずる楽器はない。ハンマー投げか野球の打者がセンター前に返す難しさを想像させ、正確にシンクロさすのはアスリート能力が問われる。2発目は0.1秒ぐらい早かった。

ハンマーその2

あの立派なハンマーはオケに常備されてるんだろうか?どこ社製が音のヌケがいいなんて評判あるんだろうか。気になる。

ハンマーその3

あれは何をぶったたいてるんだろうという関心も喚起する。ハンマーとセットで売ってるんだろうか。1発目で力余ってそれをぶち割ってしまったりしたら2発目は床でもたたくんだろうか?床板が砕ける音響でもスコア上はOKなのか?その場合修理代はオケ持ちなのか、心配してしまう。

ハンマーその4

ただ、ものものしいヴィジュアルほど音響は大したことはなく、同時に鳴るほかの打楽器に埋もれる。べつに気張らなくても、ティンパニ8個ぐらいとバスドラと銅鑼にシンバルでもぶちかませばいいんじゃないか。いや、そうじゃないんだ、これは運命を打ち砕くハンマーなんだ、あの鉄槌が下る姿を見てもらわなきゃマーラーの意図はわからんということかな。そういうのが苦手なんですが。

ハンマーその5

奏者のかた、ご苦労さま。そう思っていて、スコアは2発版と3発版があるものだから、これどっちかなと気を取られているうちに曲が終わってしまった。

感想3

金管セクションが多くて派手派手しく、これまた東京ビッグサイトの博覧会のごとき多種多様の打楽器セクションと混じるともう何が行われているのか僕の耳ではよくわからない。その裏でヴィオラが絶対に聞こえないピッチカートなどしていたりで、いったいこれは何なんだと思考停止に陥る。冗談音楽のホフナング音楽祭というのがあったが、オケにゴムホースの3本ぐらい入っていても誰も気がつかないだろう。

感想4

よかったのはカウベルだ。スイスで毎週やってたゴルフ場に乳牛がたくさん放牧されていて、コロロン、コロロンとのどかだった。それも1頭や2頭じゃない、何十頭もいて、右左、近く遠くから風にのってかすかに響いてくる。9列目で聞いてるとオケの後ろの方に牛がいる感じがよく出ていた。実にライブリーだ。そこに教会の鐘みたいな音がガランゴロンと重たげにきこえてくる。ああもう6時だな、今日の夕食は何かな、なんて邪念がはいると大事なパットを外すのだ。

というわけで 、いままでCDで夢想していた6番の印象が覆ったのはハンマーとカウベルのみでした。

一般論としてですが、

ティンパニがものものしく叩くリズムがあまりにダサすぎていけません。どうひいき目に見ても尊敬できないし、知性のかけらも感じない。つまり大嫌いであり、あれが何回も何回も、さも「何か意味深いことを暗示してますよ」風にくどくどともったいつけて出てくるともう田舎の猿芝居でかなわないのです。

楽想は僕としてピアノ版でも聞きたいと思うものは皆無で、オーケストレーションでぶよぶよにしないともたない。同じく一見ぶよぶよに見える春の祭典はピアノ版でもオケ版なみに興奮でき、明らかに化粧よりスケルトンに美点がある。それに加えて随所に「凄い」管弦楽法が潜んでいて高校時代に3か月分の小遣いを貯めてスコアを購入。これは経済的に痛かったが、それほど好奇心をかきたてるものがある。

6番はどちらも皆無。厚化粧のマツコ・デラックス。オケの音が前提であって、バルトーク流にいうなら「管弦楽のための交響曲(ハンマーつき)」みたいなもの。リヒャルトシュトラウスの「家庭交響曲」や「英雄の生涯」の親類というイメージに限りなく近い。これが田園交響曲の末裔かというと疑問で、幻想のそれでもない。これらは「客体」を題材、標題としているが、家庭、英雄、第6はそれが「主体」であり「俺様」だ。ピアノ名人の俺様、リストの標題音楽の系譜と僕はとらえている。

そういう音楽は僕には無縁です。

ということなので、この曲をもって新鋭指揮者のコルネリウス・マイスター氏の論評をするわけにはいかないですね。

ハイドン、マーラーのプログラムを見て、ウィーンを思い出したのですが、彼はこのオケの首席客演指揮者になるようで、交響曲の元祖と末裔の6番そろえという意匠は凝ってます。集中力がありそうだし凝り性ならいいなと期待します。

 

マーラー 交響曲第8番 変ホ長調

 

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マーラー 交響曲第8番 変ホ長調

2016 MAY 23 2:02:42 am by 東 賢太郎

Gustav Mahler in the foyer of the Vienna State Opera, 1907マーラー嫌いは何度も書いているが、これは生理的に合わないのであって、猫好きに理屈はないのとおなじほど理由は見当たらない。弁解になるがけっして食わず嫌いではなく、代表作品は全部聞いていてスコアも持っており、知りたいと思って勉強もしている。努力の証として、なにより交響曲はぜんぶ記憶している。

マーラーが流行りだしたのは1970年代だ。ステレオのハイファイ録音が活きるコンテンツとしてオペラでは60年代にすでにショルティの指輪のように音で売り物になる録音が現れた。70年代はそれが細部の明晰なクラリティを持った近代もの、フランスもの、後期ロマン派の巨大な管弦楽など、LPの解像力やダイナミックレンジがなくては再現しにくい領域が開拓されたイメージがある。

その時代にクラシック音楽を吸収した僕がマーラーでお世話になったのは、特別な存在だった1番を除外するなら、60年代のバーンスタインの全集(CBS)、ショルティの2番(LSO)、70~72年のショルティの第5,6,7,8番、大地、75年のLP2枚組で優秀録音の最右翼だったメータの2番といったところだ。

しかし安物の装置であったし大音響で鑑賞できる環境でもなく、ダイナミックレンジの恩恵にあずかるわけでもなかった。僕の関心はもっぱらmicroscopic(微視的)な方向へいっていて「復活」のような音楽が大味で堪えられなくなった。ライブを経験しなかったことはマイナスだったかもしれないが、本場の劇場でたくさん聞いたイタリアオペラがだめだったのだからそれが理由ではないだろう。

マーラーの交響曲で例外的によく聞いていたのが8番だ。大学時代に下宿でカセットにエアチェックしたショルティ盤をよくきいていた。アメリカ留学中は小澤/BSOのカセットも買って聴いた。これが大好きな変ホ長調であって、トニックからサブドミナントに向かう希望和音に満ちているのが気に入ったのかもしれない。

しかし、もっと大きいのは、マーラー自身が「大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」、「これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」と述べているように、マーラーの自画自賛でないのがよかったと思われる。

Mahler_8_Rehearsalニックネームだが千人の交響曲といわれるだけに、これのライブは格別だ。この独特なアトモスフェアだけは録音には入らないので演奏会場に足を運ぶしかない。左の写真は1910年のミュンヘンでの初演の練習風景で、指揮者マーラー以下、出演者1030人であった。本当に千人なのである。

めったにやらないからあったら行くしかない。僕はたぶん3度で94年にドイツでヤノフスキ/ユンゲ・ドイッチェPO、同年に東京でオンドレイ・レナルド/都響、それから2011年12月3日のデュトワ/N響のはこのビデオになっているのを見つけたが、これは素晴らしい演奏会であったので大変懐かしい。アルトのイヴォンヌ・ナエフさんはフランクフルト駐在時代に本当にいろんなオペラでよく聞いた、そういう意味でも感無量の公演だった。

終演後のデュトワと奏者たちの表情はこれが何かスピリチュアルなイヴェントであるかのようで、客席にいた僕も得体のしれない偉大なものにふれたという感じがしたものだ。

こうしてあとから冷静に聞いてみると、コーダで後方からバンダの金管が聞こえたりティンパニが2人で同じ音をたたいたりアーメン終止に大仰なドラが鳴ったりと、何の意味があるんだとCDを聴きながら思っていたことが頭をよぎる。しかしNHKホールでそう思った記憶がない。

マーラーのスコアというのは、シェーンベルクのそれが書いてある通りに聞こえるのと一風違っていて、実演で聴くと初めてなるほどということが多い。シアターピースのような360度の3次元聴感体験でもあり、ホルンが突然立ち上がってあさがおを向けて吹くと目が行って音が増幅して聞こえるような心理効果もある。劇場的、オペラ的といってもいいかもしれない。

そういう要素で語るというのは大いに非ベートーベン的、非ブラームス的なのであって、それは彼らがオペラがあんまりうまくなかったり書かなかったりしたことと平仄が合っているのだが、モーツァルトだったら面白がったかもしれないと思わないでもない。「私には彼(シェーンベルク)の音楽は分からない。しかし彼は若い。おそらく彼が正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」と妻に語った彼の臨終の言葉は「モーツァルト…!」だった。

 

ゲオルグ・ショルティ/ シカゴ交響楽団

888これを下宿で夜にしょっちゅう聞いて曲を覚えたせいもあるが、今でもこの演奏のインパクトには脱帽するしかない。このすさまじい声楽陣を凌駕するのはもはや困難ではないだろうかというレベルにある。ショルティのマーラーは96年にチューリヒ・トーンハレで最後の演奏会での10番アダージョを聴いたが、スピリチュアルな領域にある彼岸の音楽だった。この8番は71年、彼のピーク時の代表作の一つだろう。

 

 

クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

 

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マーラー 交響曲第3番ニ短調

2015 JUN 8 0:00:37 am by 東 賢太郎

先週、本当に久しぶりにライブでマーラーの3番をききながらあのテンシュテットを思い出した。なにせ3番はコンサートホールではあれ以来一度も聴いていないのだから・・・。

何度も書いたことだが、世界のクラシック好きで僕ぐらいマーラーがだめな人間も少ないだろう。退屈で聞かないんじゃない、はっきりだめなのだ。それも生理的に我慢の限界に近いといったほうがいい。

マーラーの交響曲はどれも純粋な絶対音楽ではなく何らかの人間くさい主張があると思う。それが何かははっきりはしていないが。ということはそれが彼に大曲を書かせた何かだと思うのが常識だろう。しかし、それってそんなに大事なことなの?という感じが常にしてしまうのだ。僕にはついていけない。

これは人間性や人生観の相違だ、どうしようもない。テンシュテットは「マーラーは遅くにやって来た」と語っており、中年になって共感を初めて得たらしい。マーラーが1時間半かけないと語れない「何か」が大事に思えるようになる年齢があるのかもしれないが、還暦になってまだその訪問がない僕にはきっと縁がないものなんだろうと想像する。

さらに僕は閉所恐怖症なので、狭いところに閉じ込められて耐えるのが難しくなることがある。だから飛行機も床屋も苦手だ。あの日も実は途中で退席しなくてはならないかもしれないと危惧したが、幸い端から3つ目の席だったのでそこは安心した。

こういうことだからそもそもマーラーを聞きに行くなんて異例だ。たぶん4、5年前にN響がやったデュトワの8番以来だろう。もちろんそれも知らずにホールに行ってみて、あっそうだったのかということで遭遇しただけだが。

テンシュテットの3番は2回聴いている。記録を見ると1回目はフィラデルフィア管で82年の11月5日だったが、MBA1年目で勉強が忙しい時期だったせいか何も覚えていない。

そして2回目が29年前のことだ。こちらは違う。この時ほど芯からうちのめされてコンサートから帰った記憶はそうはない。ロンドンに着任してまだ2年目のことだったしマーラーを聴く機会はほかにもあったわけで、あれだけが僕の中で今も暖かい光を放つ残像となっているのはすこし意外なことだ。

これが僕が聴いたそのコンサートの録音だ(第5楽章)。

このコンサートに衝撃を受けて3番に関心を持ったのはもちろんで、すぐにいろいろ聴いたはずだ。はずというのは誰のかあんまり覚えてないからで、それでもそう思うのは昨日それを耳にしながら随分と音楽の先々がちゃんと頭に浮かんできてあれれと思ったからだ。
mahler3

 

もしやと思って本棚を探すと、ちゃんとあった。けっこう厚めのポケットスコアだ。でもあんまり開いた形跡がないし書き込みなどもしてない。表紙の11.40(ポンド)でこれはロンドンのトッテナムコート・ロードにあるFoylsで買ったことがわかる。テンシュテットを聴く前ということは絶対にないからまだコンサートの熱の冷めてない86年の暮れあたりのことだったろう。
mah3LP棚を探してみるとこれがあるだけ。だから大学時代は聴いてないし、LPを最後に買ったのはロンドンだから、やはり86-7年あたりだったろう。チャールズ・アドラーがウィーン交響楽団を振って52年3月27日に録音したものだ。これは覚えている。値段が安くてラッキーと思って買ったがモノラルで音が貧しくてがっくりしたのだ。ハルモ二ア・ムンディ(フランス盤)だから解説が読めないし、なんでCDが出る時代にこんな音のが売られてるんだと思って1回しか通針してないんじゃないか(だから安かったんだ、価格原理でしたね)。ところがさっき調べるとアドラーはマーラーの直弟子で、これは3番の初録音かどうかとにかく最初期のひとつで希少のようだ。そう思うと音はそう悪くはないと思えるんだからそういう印象や判断というのは実に主観的なものだ。これはすこし聴き込んでみるのもいいかもしれないと思う。

これがそのアドラー盤の最後のところだ。

MI0001046374ということで、ロンドンでしばらくはこれに落ち着いていた。ただし、これと5番はその頃にCDという新メディアが出てきて初めて買ったもののひとつで、購入動機は録音が良かったから。デモCDとして聴いていたようなものだから次々といろんなものを買っていくうちに存在価値が薄れてきたようだ。最初のホルンのユニゾンに打楽器が絡むところのかっこよさはしびれたが、そこからやおら音楽がわからなくなって降参だった。

MI0001031542CD棚にこれがあったのでさっき聴いてみた。ヴァ-ツラフ・ノイマン指揮のチェコ・フィルハーモニー盤、こりゃあたしかチューリヒ時代にロンドンのショップからメールオーダーで買ったものだ。全く忘れてたが、滋味あふれる高雅な音だ。このオケとウィーン・フィルとコンセルトヘボウ管、どれも管の音程がどうしてこんなにいいんだろう?周波数測定してみたくなるぐらい。演奏は実にあっさり系だ。速い部分でのオケのクリアな早口言葉的発音も小気味良し。クリスタ・ルートヴィッヒのO Mensch! はヴィヴラートが大きすぎて好みでないが、この楽章の彼岸の境地は魅力を感じる。これでマーラーが好きになるとは思わないが、僕にとっては浸っていて心を幸福で満たし頭をすっきり快調にしてくれる演奏だ。

その第3楽章である。

さて、結局のところ、こうして振り返るとマーラーとはこうしてニアミスを重ねながらもちっとも親しくはなれなかったわけだ。テンシュテットの3番は、その後に聴いたどの3番の録音より記憶に残っているというのはあの演奏の力だったと考えることになろう。しかし、音楽にないものが演奏家の努力で出てくることはないのだから、3番のスコアにその源が隠されているはずでもある。こういう経験をした音楽はまたとなく、ちょっと気になる交響曲である。

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クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

 

 

 

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テミルカーノフ・読響のマーラー3番をきく

2015 JUN 6 1:01:30 am by 東 賢太郎

いよいよ梅雨入りでしょうか、午後からの雨でした。サントリーホールの読響定期、いつもどおり曲目は見ずに行きます。さて、そっとプログラムを開いてみるとマーラーの3番とあるではないですか。

こりゃまいった。あんまり聞きたくない。知ってたら誰かに券あげたのに・・・。

ロンドンにいた30代のころはまだマーラーにチャレンジ中でたまにチケット買ってきいてました。4番のアバドとバーンスタイン、5番のドホナーニ、ショルティ、7番のアンドリュー・デービスなどで、特に9番のアバドは秀逸でこの曲だけは別格に思うようになりました。そうして3番はこれをきいたわけです 僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)

それがすごい演奏で、後に彼のCDを聴いたのですがあのライブにはとうてい及ばない。そこでショルティ盤を買ってきいてました。たぶん録音が良かったからですね。しかし、僕のマーラーは結局そこ止まりでした。どうしても相性が合わないから仕方ないですね。

さて、舞台のオケを眺めるとなんせ絶食してカロリーコントロール中の身だからか、「ぜい肉多いなあ」なんてどうでもいいことを考えます。この曲は歌が出てくるまでは完全に苦手です。野の花、森、人間、という音楽の主張は僕にはちんぷんかんぷん。管が多い割にそれが音量の効果に使われる傾向があって何か精妙な仕掛けやエポックメイキングな管弦楽法があるわけでもない。

歌は子供も女声合唱もきれいで良かったですね。アルトの小山さんの暗めの声も曲調に合ってました。ここ、O Mensch! に寄りそうハープの高音、あれは3番で唯一何かを喚起するイマジネーションにあふれた独創的な音と思います。

初めて対位法的になる終楽章はやけに和声がむずむずと感動を喚起しようとハートをくすぐります。よく聞くとなるほどサブドミナントに滞留する時間が長いんですね。ワーグナーの楽劇の最後の最後にそれがきてぱっと未来が見えて明るくなる、あれがそこらじゅうにある感じです。マーラーはワーグナーをあちこちで盗んでます。

まあそんな感じで、前半は睡魔に襲われつつ(演奏のせいじゃないです)後半は楽しみました。これが3番は2度目のライブ。自分からこの曲のチケットを買うことは絶対ないので貴重でした。あんまり聞いてない曲なのでいいとか悪いとかは遠慮します。そもそも僕にはマーラーのどういう演奏がいいと評価されるのかわかりませんし。

 

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マーラー 交響曲第3番ニ短調

 

 

 

 
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ブログ閲覧数30万によせて

2015 MAY 21 18:18:01 pm by 東 賢太郎

おかげさまをもちまして総閲覧数が30万を超えました。毎日400~500のアクセスをいただいているようで大変光栄に思います。

いろいろな方からご意見ご指導をいただきますが、内容がコアすぎて(特に音楽)わからんというのが多いですね。だからコメントも入らないしと。

ただ、数を増やそうとして軽めのツイッター風にしたり、人気はあるけど関心のない曲について書くのは趣旨が変わってしまいます。

例えばマーラーですが、6番や7番も好きになろうとしたことはあるので音楽自体はよく知ってます。しかし結局努力は報われず疎遠な部類になりました。そういう曲の演奏や解釈にYESもNOもありませんから、書かないというのが良心でしょう。関心あることだけ書く。するとコアなものになってしまう。そういうことです。

ただし先日、ポリシーでなかったCD聴き比べ(ブラームス2番)を書きました。それは理由があります。所詮趣味だからと思って書いていたら、「おすすめのCD探して買いました」という方がおられることがわかったのです。

投資されるわけだからそれに満足されたかどうか気になります。だから、僕がYES、NOとしているモノサシを「開示」しておくべきだと思ったのです。ご自分がYESだった演奏を僕がNOなら、たぶん趣味が合わないので一切無視していただくほうがよろしいということです。

僕自身の経験談があります。学生の頃、「天下の名盤」という評論家の意見を読んでブルーノ・ワルターのモーツァルトを買ったのですが、いくら聴いてもつまらなくて自分はクラシックがわからないのかと悩んだ時期があります。

それはワルターのせいではなくて、レコードの録音が良くなくモーツァルトの音楽にも慣れてなかったというだけだったのですが、そのせいでストラヴィンスキーは好きなのにモーツァルトは御免なさいという時期がけっこう長くありました。

モーツァルトのようなものは「だまってこれを10回聴きなさい」と誰か先生が教えてくれたらもっと楽に入れたなとは思いますが、それがワルター盤だったらだめだった、でもそれが万人が名盤と推すものだったという困った経験があるのです。

こういうのを心理学で認知的不協和と呼ぶんでしたっけ。とにかく不快なので人間の心は自然に不協和を解消しに行くそうです。普通の場合、「ワルターの演奏は良いのだ」と思い込み、自分を騙す。そうやって長いものに巻かれるのが楽なのかなと思います。

ところが僕はそうする前にスイトナー盤に出会ってしまったのです。世評は高くもなく廉価盤だったスイトナーを耳にして、僕は一発で、目からうろこで、モーツァルトの魅力を知ることになりました。

この経験は痛快でした。以来、世評や通説はどんな権威者のものでも鵜呑みにしなくなり、自分の眼力とテーストでものを判断する自信がつきました。こと音楽以外の物事でもその姿勢が座標軸となり、その後の人生にまで影響しました。

僕は中学まで音楽の通信簿が2の劣等生です。だからこれから聞こうという方々全員に自信を持っていただきたいのですが、僕のスイトナー盤のような出会いを遂げれば難なくハードルは超えられます。

嫌いなものはどんどん捨てて構わない。世評なんかどうでもいいのです。100あって99捨てても、これだという一つに出会えばそれで人生の宝が手に入ります。誰だってできます。できないかもしれないのは、そこまで我慢することだけです。

 
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