Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______モーツァルト

「猫科」に分類されるラヴェルとハスキル

2025 DEC 30 2:02:02 am by 東 賢太郎

夏目漱石が結婚し、英国留学から帰国して東京帝国大学の講師になった翌年の明治37年初夏、千駄木の家に子猫が迷い込んできた。黒猫だった。家に出入りしていた按摩のお婆さんが、「奥様、この猫は足の爪の先まで黒いので珍しい福猫でございます。飼っていれば家が繁盛いたしますよ」と伝えたことで飼われることになったが、名前はつかずにずっと「猫」のままだった。明治39年に本郷に引っ越した(西片のそこは僕が2年住んだ下宿の目と鼻の先だ)。「猫」は明治41年9月13日に病で5歳に満たない生涯を閉じ、漱石は彼を庭に葬って墓碑を立て、知人や門弟に死亡通知を出した。程なくして「吾輩は猫である」は文学誌『ホトトギス』に11回に分けて掲載され、彼の処女作の長編小説となる。かくして「猫」は人類史上最も重要な猫に列せられることとなったわけだ。

誠に結構なことだが、僕としてはとりわけ彼が黒猫であったことに誇りを覚えるものである。我が家のフクもしかりだからで、さらにその名も福猫由来と言いたいところだが、実は顔がぷっくりしたぷくちゃんに由来する。しかし、共に過ごした5年といえばあの忌まわしいコロナの厄災期にぴたりと重なっているのであり、我が家はワクチンを一本も打たずに事なきを得ているのだから守り神ではあった。しかも外出ままならぬその期間にビジネスでは次々と新たな出会いがあって、そのおかげでいま仕事が国内とアメリカで9つもある。数えてみると社員の3倍近い19名の国内外パートナーが実現に向けプロフィットシェアリングの形で協力してくれており、ソナーを中心にハブ・アンド・スポークスの事業モデルができてきた。 そのうち13名はフクの5年間にご縁ができたというのだから、まさに福の招き猫だったのである。

フク

思いおこせば小学校時分から一緒に暮らしてきた昔の猫たちも、みんな僕の中で生きている。おしりをポンポンしてひょいと肩に担ぎ上げた時の感じや、両手をお腹にまわして持ち上げたときの、あの猫この猫のボリューム感が、当時の東家の出来事や世情の思い出と共にまざまざと手のひらに蘇ってくるからだ。その度に僕は「ああ猫のいる星に生まれてよかったなあ」と神様に感謝を捧げるわけである。この性格はいかなる理由があろうと寸分も揺らぐことなき頑強なもので、すなわちどんなに美人だろうが金持ちだろうが、猫を捨てて猫嫌いの女性と暮らすという人生観は僕の中に100%存立の余地がなかったわけで、この点、確かめたわけではなかったけれど家内がそうでなかったのは幸いだった。

一般社団法人ペットフード協会のデータ(2024年)によれば、日本人は犬を約679万頭、猫を約915万頭飼っているそうだ。我が家は野良猫しか飼わないからデータ外だろうし、ペットショップの客になる気はないし、「犬も好きですが」という猫好きは別人種と認識している。ほとんどの飼育者というものは人間と動物を峻別し、ペットなる擬人化したコンセプトで認識し、優位に立つ人間の視点で共生を楽しむ人たちである。それを否定する気はないが、家内が指摘するように僕は猫の生まれ変わりの「猫科」に分類されるべきであり、自らを擬猫化した感覚で人間をやっており、すべての猫様に敬意を払って接しているという者である。そんな妙ちくりんな人はまずいないだろうし猫も些か驚いてはいよう。ヘミングウェイや伊丹十三の猫愛の底知れぬ深さについては知得しており、いくら畏敬しても足らないのだが、しかし彼らは愛犬家でもあるから僕としては準会員なのである。915万頭の飼い主さんのうち肝胆相照らすことができる方はきっとおられるとは思うが数える程度だろうし、それ以外の圧倒的大多数の愛猫家とは深いところで話は合わないだろうという半ば諦念の世界に長らく僕は住んでいる。

あらゆる芸術家は猫と相性が良さげに思えるが、では彼らの何%が我が身のようであるかというと怪しい。例えば猫と文学を結ぶ試みというと、真の天才ETAホフマンが1819~1821年に書いた『牡猫ムルの人生観』を始祖とする。現実に彼は「ムル」という名の牡猫を飼っており、同作の構成はカットバック手法のミステリーもかくやと思わせる驚くべき斬新さを誇る。これを書けたということはホフマンは少なくとも猫好きであったろうが、果たして自身が「猫科の動物」であったかとなると疑問である。また、同作と「吾輩は猫である」の関係はいろいろな識者が語っているが、ドイツ語ゆえ漱石が読んだかどうかは不明とされる。作中で婉曲に言及はしているので存在を知っていたことは確実であり、ホフマンがムルの逝去で人間並みの「死亡通知」を友人たちに送付した事実があることから、同じことをした漱石の行為が偶然であり模倣でなかった確率は非常に低いことを僕は断定する。しかも、関連した資料を一読するに漱石はホフマン同様に猫科でなかったばかりか、猫好きだったかどうかさえも怪しい人物の気がするのだ。作中の言及はいずれ模倣が発覚することを予見してのアリバイ作りであり、動機は異なれどハイドンが交響曲第98番にその当時は誰も知らぬジュピターを引用した意図に通底するものがあったというのが私見である。

いっぽう猫と音楽となると、結びつけ方はいろいろだ。ミュージカル「キャッツ(Cats)」はイギリスの詩人T・S・エリオットの『キャッツ – ポッサムおじさんの猫とつき合う法』なる興味深い作品を原作とする。アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽も楽しい。これを観て思い出したのは、成城学園初等科にいた時分、作曲家の芥川也寸志さんの娘さんが同じ桂組におられ、クラス担任だった北島春信先生の台本に芥川さんが作曲したミュージカル「子供の祭り」が歌の上手い子たちの出演、作曲者の指揮で演じられるという贅沢なイベントがあったことだ(記憶違いでなければ渋谷公会堂で)。生のオーケストラはこれが初めてであり、次々とくり広げられるきれいな歌やダンスに心がうきうきし、音楽の授業を嫌悪していたことを少々悔悛したものだ。この経験があるから、オペラと違いミュージカルというジャンルには遠いふるさとを見るような郷愁がある。Catsは素晴らしい。猫界の繁栄に貢献した事は間違いない。

ロッシーニが書いたことになってる『二匹の猫の滑稽な二重唱』は鳴き声の雰囲気をよく活写している。しかしこれこそがペットを擬人化し、優位に立つ人間の視点で共生を楽しむという趣向において、いわばトムとジェリーの古典音楽版であり、作曲者が猫科か否かという視点の解明とはなんら相いれない所に成立しているという点において漱石の猫の音楽版でもある。オペラ・コミックの路線と見れば十分に楽しめるが、それはロッシーニの世界ではないという矛盾をはらむのである。

この路線の親類とでもいうスタンスとして、標題をつけないショパンが何も語っていない音楽を「猫が突然鍵盤の上に飛び上がって走り回っている様を連想させる」として押しつけがましく猫のワルツと呼んでみたりする人がれっきとして存在するわけだが、僕は作品34-3にそんなものを微塵も連想しない。それは誰の連想なんだ、それとショパンと何の関係があるんだと、いかがわしい表題には作曲家の著作権を弁護したくなるばかりだ。のちにクラシックを深く学ぶにつれ、そうしたことどもは永遠に表層の部分だけに関わる種の人々がやり取りする稚拙な表象であったことを知るが、そうした理解不能な異人種の存在が子供時分の僕を長らく音楽室から遠ざける元凶だった事実も知ることになった。猫はおろか音楽までおぞましく擬人化する地平で素人や子供に親しんでもらおうというアイデアは、パンダに頼る田舎の動物園経営のようなもので、3歳の乳飲み子ならともかく真の聴衆を育成しない全くの愚策である。

猫科の音楽家はいないのだろうか?そんなことはない。仲良しだった女性ヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン・モルランジュに「猫の鳴きまねの際立った才能がある」と高く評価されたモーリス・ラヴェル(左)はシャム猫2匹を飼い、オペラ「子供と魔法」で猫の二重唱を作曲した。家でエレーヌとそれをミャオミャオ歌っていると、心配そうな顔をしたシャム猫たちが集まってきたというからその腕前は本家のお墨付きを得たものである。しかし、猫の鳴きまねにおいてなら僕はラヴェルに負けない自信がある。彼は2匹だが僕は10匹の同棲経験があり、その各々の声色をいまでも鳴き分けることができるからである。そうした見地から作曲家の「猫度」を判定してみるならラヴェルは1位と言っていいだろう。理由は42歳の時に母親が亡くなってからの行動と経緯にある。結婚しなかった彼は重度のマザコンであり、 1人でいられず弟や友人の家を転々としていた。 その喪失感を体験している僕としては理解できるし、むしろよく4年も耐えたものだと同情もする。回復途上にあったわけでないことは、 3年後に友人に「日ごとに絶望が深くなっていく」と悲痛な手紙を出し、作曲中だったクープランの墓およびラ・ヴァルスを除くと実質的な新曲は生み出せていないことで想像がつく。現代ならおそらく抗鬱剤が投与されて救われたろうが当時はそれがない。ドツボの修羅場から逃れるべく、ついに4年目になってパリから50キロ離れたモンフォール・ラモリーに人生初めての一軒家を買って引っ越す。そしてその家に住んでいたのがミャオミャオのシャム猫一家だったのだ。その甲斐もあって彼はやがて渡米できるまで回復を見せ、結果として我々は『ボレロ』、『左手のためのピアノ協奏曲』、『ピアノ協奏曲 ト長調』などを持つことができたのだ。

「子供と魔法」猫の二重唱

ドビッシーが猫科だという人もいるが僕にはちょっとイメージがわかない。猫好きな人、猫的な人と猫科は生物学的に異なるのである。仕事柄もう世界中で何千人と握手をしているが、想像するに、ラヴェルの手は骨張って華奢だがドビッシーは肉厚でごつい感じがする。手は人物を語るが、猫科の感じがしない。ちなみに僕の手は男としては小さめでとても華奢だ。仲良しの某大企業経営者にその話をしたら、彼はプーチンとメドベージェフの両方と握手しており、メドくんが先で、しなっとして女性みたい、続くプーさんはゴツくてまさに熊だったと笑う。あいつを首相にした気持ちが分かったよとはまさに経営者の至言であろう。ドビッシーは確かに猫2匹と暮らしていたが、後に後妻エンマの影響か犬2匹に乗り換えている。いかなる理由があれ、猫科にこうしたことは起こりようがない。

写真を見て、あっ、この人は猫科だなと直感したのはクララ・ハスキルだ。猫を抱いているからではない、抱き方だ。この猫は、察するにスタジオ撮影用の借り物であるか、もしくは自分の猫だがカメラのフラッシュに怯えている。そこで右手に優しく手を添えて安心させている図である。このさりげない優雅な仕草には、単なる猫好きという程度ではない、猫科の人にしか発露できない深い愛情と共感がさりげなく現れ出ているのである。皆さんも例えば公式の食事の場での普段のほんのちょっとしたこと、ナイフ・フォークの置き方やお箸の作法やおちょこを口に持っていく動きなど、ほとんどの人が気づかない所で氏素性がはかられることはお聞きになったことがあろう。ハスキルが、こちらも猫科まるだしの男であるモーツァルトを十八番にしていたことはいとも自然なことだったのだ。素晴らしい録音がたくさん残っているが、僕が愛してやまないのはピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280のドイチェ・グラモフォン盤である。K.488の第2楽章を彷彿とさせるシチリアーノをこんな見事なニュアンスと凛と澄ました清冽な音で弾ける人がいまのピアニストにいるだろうか。そして第3楽章に至っては音楽も弾き方もまるで猫であるという至芸を。猫同士にミャオミャオはいらない。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

高市早苗さん ザラストロになってくれ!

2025 OCT 22 22:22:04 pm by 東 賢太郎

魔笛!27歳の僕を夢中にさせ、クラシックの世界に引きずりこんだオペラ。これを35歳の死の直前に超高速で書き上げたモーツァルト!この人そのものが壮大なワンダーランドである。その謎を解き明かそうと何度ウィーンの街を歩きまわったことだろう?秘密は魔笛の中にある。一緒に全曲を歌おう。モーツァルトに同期する。そこには人間と宇宙との完璧な合一という神秘がある。

音楽は僕にとって全人格的な存在である。モーツァルトというワンダーランドでおきること。それは生きていてそう何度も触れる機会のない超常現象だ。一切の思考を停止して身をゆだね、地球の重力をも振り切って、自分が宇宙の一部であるという「無」の境地になるとわかる。そして俗界に帰還すると、目はなぜか涙でいっぱいなのである。魔笛にドラマとしての悲劇性はない。勧善懲悪ものに見えるが、我々の心を熱くしてくれるのは底流に溢れかえっている人間愛なのだ。仏陀もキリストも宇宙は愛に満ちているという。涙はそこから来ている。

リッカルド・ムーティとスカラ座の演奏。こんな素敵な魔笛が手近に聞ける。余生をミラノで送ってもいいなとさえ思う。

ビデオの「2:41:10(2時間41分10秒)から終幕まで」を高市新総理誕生への祝意としたい。この個所を字幕とともにじっくりご鑑賞いただきたい。我が国に僥倖がやってくることをモーツァルトが予見していたかのようではないか。成り行きはこうだ。

夜陰に乗じて「シーシー、静かに静かに」と夜の女王を筆頭とする三人の侍女、モノスタトスの悪玉軍団が忍び足でお出ましだ。女王は別れた夫であるザラストロの軍団に締め出され、いざ復讐せんと神殿を襲撃に来たのだ。

ムーア人のモノスタトスは白い肌のパミーナを2度も犯そうとしたが失敗してる。それを知る女王は「あんた、襲撃に成功したら娘をあげるよ」と噓で釣っているが、彼女はタミーノ王子も「救出したら娘は永遠にあなたのものよ」と二股かけてそそのかしている大嘘つきの悪女なのだ。それでも長い物に巻かれる一同は「偉大なる夜の女王様~」と口をそろえて歌う。

夜の女王

思い起こしてほしい、2022年の7月を。そこで我々は夜の女王の支配下に入った。天空は特殊な電磁波によるアイアンドームですっぽり覆われ、外界の真実から遮断された。空に浮かぶ太陽も月も星もぜんぶ作り物に思えた。腐ったオールドメディアが見せるもの、聞かせるもの、すべてが女王軍団の垂れ流す嘘だ。真実が暴かれると「それ陰謀論だ」と新たな嘘がばらまかれた。民から税を搾り取り、外国に貢いでキックバックをもらう「おぬしもワルよのう」汚職が跋扈したが、いよいよその支配に終焉の時がやってきたようだ。

 

雷、滝のような恐ろしい音が響いてくる。そして強烈な天の鉄槌が下る。

あれ~~~「我らの力は打ち砕かれた」「永遠の夜に突き落とされる」・・・・

 

女王軍団は蹴散らされる

太陽の輝きが夜の闇を払う。正義を背負うザラストロ様の登場だ!

ザラストロ

偽善者の悪の力を滅ぼす。入門を許された者たち、万歳。あなた方は夜を通り抜けた。強さが勝利を収め、美と叡智が永遠に讃えられる。

魔笛はこうして幕を閉じる。

18世紀のオペラだ。ムーア人は肌の色で堂々と差別されている。女は嘘をつく、男をたぶらかす、信用してはいけないとアンチのオンパレードだ。台本家のシカネーダーもモーツァルトも聴き手も当時の民衆も、誰もそれをおかしいと思ってなかった。つまり、夜の女王に正義があり、ザラストロをやっつけて大団円という筋書きはなかったのだ。

しかし、このオペラが書かれる11年前にある女性が世を去っていることを忘れてはならない。オーストリア女大公マリア・テレジアだ。モーツァルトは自分を乞食扱いして職をくれなかったこの女帝を呪った。階級社会で屈辱を味わい、貴族に尻を蹴られて追いだされた彼はドン・ジョバンニというプレイボーイ貴族を地獄へ引きずり落とす。その場面を描写するショッキングな音楽に、貴族この野郎の怨念が木霊する。

21世紀の東のさい果ての国で女性が王になった。天国のモーツァルトはマリア・テレジアを思い出すのだろうか?いや、銀のスプーンをくわえた生まれでない高市早苗を彼は応援するに違いない。人智を超越するひどさだった前任、前々任総理の醜怪な残像現象で、高市氏は何をしても評価されるだろう。しかしそんなものにかまけてはいけない。一気にやることをやり、総選挙をかまして単独安定多数になること。これで政権は10年もつづき、あなたは日本を救うだろう。「英国に必要なのは鉄の女よ」(What Britain needs is an iron lady)。自ら言ってのけたサッチャーは11年半やった。「私の批判者たちは、たとえ私がテムズ川の上を歩いて渡ったとしても、それは泳げないからだと言うでしょう」。このスピリットだ。日本人は望んでいる。国のため国民のため、正しいことを情け容赦なくやることを。楽しみでしかない。それであなたはザラストロになります。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

僕が聴いた名演奏家たち(山田一雄)

2025 AUG 6 21:21:18 pm by 東 賢太郎

いま自分の宇宙観(前稿)をまえにして、ひとつ仕事をなしとげた気がしています。それ以上に天上を知ることはないだろうし、もう九千以上のかたが読まれて新しい交信が生まれています。

音楽もまぎれもない「波動」です。音楽を聴くという行為も作曲家、演奏家との「波」(霊感)の交信と考えています。前稿で、

『(ブログで)「これを書こう」という衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える傾向があることがわかった』

と述べました。発信者(作曲家)が紙に記した情報(楽譜)にこめた衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える(感動は大きくなる)と読み替えれば同じことを言ってます。

良い音楽に接したときに心に巻き起こる嵐のような感動は他のものからは絶対に得られないものであり、そうとしか説明できないのです。正確には、演奏することがそれに当たるのですが、我々聴衆はそれができませんから演奏家にゆだね、そこからスピリットをいただいているわけです。

宇宙で最も完璧な音楽は何だろう?何十年も前から僕の答えは決まっています。モーツァルトの交響曲第41番ハ長調K.551 ≪ジュピター≫ です。完璧なんだけど、一か所だけ修正しています。ここです(第二楽章コーダ)。

これを見るとモーツァルトも人間なんだとほっとした気になります。でも、これによって逆に「一筆書き」なんだとわかり、かえって凄みが増していますね。さもなくば清書と思ったでしょう。

モーツァルトがこれにどれほどの「衝動」をこめたか。並々ならぬものがあったはずです。その理由はここに書いてある私見をご参考いただければと思います。

クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?- | Sonar Members Club No.1

スコア全47頁を聴いた時の “感じ” 。「ハ長調の神の殿堂」です。そう感じる音楽はもう一曲あって、ワーグナーの名歌手第一幕前奏曲です。これのすばらしさも神品レベルですが、宇宙的なスケールとパルテノン神殿の如き絶対普遍の美の構造は一歩譲る。モーツァルトの天才はありとあらゆるところで語られ皆様も飽食気味でしょう。そこで殿堂に唯一迫ったワーグナーを引き合いに出すのですが、きっとワーグナー自身も認めると思うことは、すなわち、あらゆる大作曲家の中でモーツァルトの天才は図抜けて別格であることです。それが問答無用に証明されたのが交響曲第41番ハ長調K.551であり、神の中の神、すなわち「ジュピター(ユピテル)」に見立てた命名は大半が稚拙であるニックネームのうちでは最も的を得たものでしょう。これもお導きでしょうか、8年前、第二楽章を満員の豊洲シビックホールで弾かせていただきました。ピアノを大勢の前で弾くことはもうないでしょうから唯一無二、本当に特別な音楽になりました。

11年前、ここに幾つかおすすめ盤を書きましたが、

モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551

 

いまはもっぱら山田一雄です。彼はたった一度、86年5月21日に英国人のお客様を東京にお連れしたおり、文化会館で東京交響楽団を振ったベートーベン7番を聴きました。今も記憶に残る名演でした。もっと聴きたかった。亡くなる9か月前、サントリーホールでN響とのジュピター、神のような演奏、モーツァルトが降臨してますね。最高です。誰のより好きです。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

日韓国交正常化60周年記念演奏会をきく

2025 MAR 3 19:19:52 pm by 東 賢太郎

2025年3月2日(日)14:00開演 13:15開場
東京オペラシティ コンサートホール

指揮:チョン・ミョンフン(東京フィル 名誉音楽監督/KBS 交響楽団 桂冠指揮者)

ピアノ:ソヌ・イェゴン、五十嵐薫子
KBS交響楽団&東京フィルハーモニー交響楽団合同オーケストラ

モーツァルト/2台のピアノのための協奏曲
マーラー/交響曲第1番『巨人』

主催会社様からのご招待で次女と聴かせていただきました。マエストロ・チョン・ミョンフンは何度か聴いており、同世代であったことが幸運だったと思う音楽家のひとりです。そして、我々昭和のファン周知の名ヴァイオリニスト、姉上のキョンファ氏のことも思い出します。大学時代に僕は彼女のファンであり、70年代、韓国といえば彼女、ヴァイオリンといえば彼女であり、初めて同国に訪問したのはずっと後の42才でしたが政治、民族に関する雑念はのっけからなかったことを昨日のように覚えています。その後に投資の関係で何十回もソウルと往来していますがいまだ同様なのです。音楽に国籍はなく、そこから大人になり物心がついたことに感謝しています。

弟のミョンフン氏を知ったのは後でしたが、ふれこみに1974年にチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で2位とあったのをこれまたよく覚えてます(協奏曲第1番のレコードもたしかあった)。同年の優勝はアンドレイ・ガヴリーロフ、4位があのアンドラーシュ・シフというのだからピアニストでないのが不思議であり、そっちでデビューして名を成してから指揮もするようになったバレンボイム、アシュケナージとはちがう。1984年の姉弟のバルトーク、31才の指揮をご覧になればそちらの才能に納得でしょう。29才でシカゴ響にデビューし、トロント響の音楽監督になった小澤征爾に比肩する唯一の東洋人です。

ご両人の音楽に共通なのですが、広々とした “気” が静かに背景に横たわっているように感じます。どんな激した箇所になってもそれは濃紺の深海のように不動なのです。音楽には演奏する人が現われると言いますが、本当に不思議だ。他の誰からも感じたことのないこれはお二人の持てるものなんだろうと感じます。

このビデオの会話、そして素晴らしいとしか言いようのないブラームスを聴くと、言いたいことがお分かりいただけるかなと思います。このインタビュー、英語は母国語でないのに、やさしい言葉なんだけど選び方に奥深い品格とインテリジェンスを感じます。細かいことですがなかなかできることではない。カルロ・マリア・ジュリーニが弟子とし、世界のトップオーケストラが畏敬し、あのオリヴィエ・メシアンが認めて数々の初演を託した理由の一端を見た気がします。

昨日の演奏会。モーツァルトk.365は大好きなのですが意外に演奏会にあたらず、フランクフルトで95年にアルゲリッチ&ラビノビッチで聴いただけだったので楽しみでした。第1楽章アレグロはやや遅めのテンポでピアノを伸びやかに歌わせ、ミラベル公園に遊ぶ風情の第2楽章はまさにそのもので欧州の息吹を感じさせます。終楽章のアレグロは不遇のパリ旅行から帰ったモーツァルトがすっかり快復し、姉ナンネルとのりのりのテンポで弾きまくったであろう心沸き立つ速さでありました。ソヌ・イェゴン、五十嵐薫、これから楽しみでしかない俊英ふたりの愉悦感あふれる演奏に心より満足。

マーラー巨人。これは一生記憶に残るものでした。ミョンフン氏は2008年にN響でブルックナー7番をやり、これがかつて1,2を争う名演で期待はありました。冒頭の弦がひっそりと奏でるaから広々とした “気” が静かに、しかし仄かな緊張感を漂わせながらホールに満ちます。この曲のこの時間は生きる喜びのひとつです。終楽章でまさにこれが戻ってくるのを予感して感じるものがたくさんあり、それがやってくる未来に無限の喜びを覚えるのです。何十回聴いたかわからない同曲ですが、白眉は地の底まで沈底する如く気を鎮めた第3楽章で、下手な指揮だと俗界の闖入が滑稽に浮いてしまうだけなのですが、ここでこそ彼の「濃紺の深海のように不動なもの」の神秘感が活きたのです。ここから終楽章の白熱と爆発へのコントラストは俗っぽさと無縁で、何のあざとさもなく自然体のように頂点まで高揚した解釈の、彼の言葉のように品格とインテリジェンスがあったこと!韓国のN響のような存在であるKBS響と東京フィルの合同オーケストラは指揮の意をくんで見事に融和し、唯一無二の渾身の演奏になりました。まさに、音楽に国境なし。

公演後のレセプションでマエストロは「自分が何者かと問われれば、まずhumann being(人間)です。そして次に音楽家です。こんな素晴らしい音楽というものと共に生きられることが無上の喜びです。そして最後に、韓国人であることが来ます。国よりも、音楽はずっと大事な存在なのです」とスピーチしました。だから20年も東京フィルハーモニーの音楽監督がつとまったのでしょう。同感です。僕にとっても音楽は3位でなく2位の存在です。マエストロと話したかったのですが、大変なオーラを放ちつつも少々お疲れのように見えたので自重しました。あれだけのマーラーを振ってオーケストラと我々に気を吹き込んだのだから当然でしょう。日韓両国にとって記念すべき演奏会に皇室はじめ各界重鎮と共にお招きいただいたことは光栄であり、株式会社ロッテホールディングス様に心より御礼申し上げます。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

モーツァルト ミサ曲 第13番 変ロ長調 K.275

2025 FEB 13 10:10:07 am by 東 賢太郎

K.275の成立時期については、母と共にパリに旅立つ直前に書いたという説、および、中途のミュンヘンで書きあげてザルツブルグへ送ったという説がある。出発が1777年9月23日で、唯一の手掛かりである父の手紙が12月21日の初演のことを伝えているからだ。3か月の空白の理由は自筆譜が失われ説明できないのである。

Leopold Mozart

どちらが真相であれ、大事な点はK.275が人生をかけた就活旅行を前にして書かれたことだ。幼い少年の芸は王侯貴族に愛でられたが、ポストという実利を得られないまま息子はもう21才だ。焦った父レオポルドは6月に父子での2、3か月の旅行(休暇)をコロレド大司教に嘆願したが「息子だけなら」の許可が出た。これはあながち意地悪とは思えない、なぜなら7月末に皇帝ヨゼフ2世がザルツブルグを来訪し、式典のため父子どちらかがコンマスとして必要だったからだ。憤懣やるかたない父は再度8月に「父子で」を飲ませようと、息子の名を語って「だめなら私は辞職したい」(もちろんポーズ)と大胆にも書き添えた手紙を出す。息子を失うのは困るだろうと勝負をかけたわけだが、偽装を見抜いた大司教は「二人とも辞職を認める」(要は親父はクビ)ともっと困る返答をしてモーツァルト家を仰天させる。父はショックで寝こんでしまい、姉のナンネルは頭痛に襲われて嘔吐した。まさしくお家の一大事だったのである。

Anna Maria Mozart

息子は休暇をもらい、旅慣れぬ母親が自分の代わりに同行する、という窮余の辻褄合わせで父は許しを得、クビは免れた。どう考えても就活に寄与するとは思えない母アンナ・マリアの同行。これがなぜなのか僕には長年の疑問だった。全行程を馬車で行くのは現代ならタクシーをチャーターするようなものであり、宿泊代はもとより膨大な出費を伴う点でも無用な同行者をつける余裕など一介のサラリーマンにすぎないレオポルドにあったはずがない。息子の素行を信用していなかったことはあろう。しかし問題の大司教への手紙をよく読むと、父の同行の必要性をこじつけようと「子を助ける親の義務」を聖書まで引き合いにして権力者に対して不遜なまでに強く説いてしまっている。6月時点で「息子だけならOK」だった許可に文句をつけた以上、偽手紙を書いてばれたみっともない咎(とが)を許してもらう綱渡りの状況の中で、「母親の同行」で書いたことへの最低限の筋を通す必要がどうしてもあったのではないだろうか。そんな経験のある方はほとんどおられないだろうが、経営に反発して自分から辞めたいと申し出たサラリーマンごときに世間はそう甘くないのである。レオポルドにとっては人生の汚点であるこの顛末が手紙によって音楽史に刻まれようなど思いもよらなかったろうが、自分の身を守るため当局に魂胆をさらに読まれる危険のある言動は断じて慎んだに違いない。だから文献が残っていようはずもなく学者の立場にある方がとりあうことはできない。幸いにして僕は素人であり、さらに「自分から辞めたい」の申し出を3度やったことがあり、経験から補完して察している。もしそうならレオポルドの後悔はいかばかりだったろう。

そんな激動の中で息子が書いたのがK.275だったのである。大司教の「45分以内」の注文に添う、むしろ反抗かあてつけとさえ思えるわずか20分の異形のミサである。他の都市での売りこみ商品にしようという意図はあまり感じられない。ではなぜ書いたのだろう?母との旅路の平穏を神に祈るためだろう。旅路というより、異国も外国語も知らぬ可哀想な母の無事である。しかし神の加護はなかった。母は思いもよらぬ厳しい馬車の旅、見慣れぬ土地での不安、寒い冬、貧しい宿と食事に疲労困憊し、病となり、翌年の7月3日にパリで客死してしまう。それほど無謀な計画を履行するほどモーツァルト家は権力に平伏し、しかし息子の栄達への願望と確信はレオポルドの心中では我が事になっていたのである。

僕はこの曲が大好きであり、何十回聴いたことか。祈りはキリエのソプラノ独唱で始まる。Vnの「ンタタタ」で気分は軽く、最後のタで弱起するソプラノもスキップのように浮き浮きはずむ。極めて肯定的に、「僕と母は大丈夫ですよね、いいことありますように」と旅路の平穏を神に祈る。すると3小節目、テュッティで合唱が神の声で、強起で決然と、「そうだ、いいことあるぞ!」と歓喜の爆発で答えてくれる。彼はこの安心を心から求めていたんだろう。こうしてKyrie eleisonが2度繰り返される。

ところがChriste eleisonになると曲想はハ短調に暗転し「そうはいっても危険はあるよ、気をつけなくっちゃね」となりもう一度明るくKyrie eleisonを歌った次、二度目のChriste eleisonが下の楽譜になる。ソプラノの移動ドで読んだ変ロ長調のファが予想外に半音上がってふわっと宙に浮かんだ感じになり、次の小節で戻りバスが半音下がって陰る。和声進行で示すならB♭、C、F、Fm、B♭、E♭だ。この部分を聴くたびに僕は「いいことあるぞ!」と一瞬にして希望に胸をふくらませ、一瞬にして雲間にそれが陰る情動の揺れにおののく。まるで魔法のように。

音楽に理屈はない。美味に舌がとろけたり香水で華やかな気分になったりするようなものだが、ほんの一瞬に過ぎ去るこの和声進行は僕は彼の作品で他に知らない。少なくとも、例えば、4音のジュピター音型やアマデウスコードなら若い頃から複数の場面で使っているのにこれはそれがない。どうしてこんな素敵なものが降ってきたのか?どうしてこれを繁用しなかったのか?奇跡と贅沢が謎となって耳にこびりつく。こういうことをもってモーツァルトが天才だというなら反論の余地もなく、彼は今をもってしても人類唯一無二の作曲家だと思う。

僕にとって大事なのは、モーツァルトも魔法を感じたからこう書いたのだろうということだ。かように、彼ほど精神の合一感を与えてくれる作曲派は僕には他にいない。それを見つけることこそがモーツァルトを聴く喜びであり、皆様にとってどうかはわからないし、それを喚起する曲がケッヘル何番かも人それぞれなのだろうと思う。

もしそう意図してこの場所にこの音符を置いたなら、キリエは旅立ちの祈りにふさわしい、というより、僕にとってそれ以外に解釈のしようがない。平穏を神に祈り、祝福されている喜び。ザルツブルグの気障りで不愉快な空気から脱して、翼が生えたように自由の身となって、ミュンヘンやマンハイムやパリで大チャンスをつかんでやるぞという21才の、Christe eleison(キリスト憐れみたまえ)を突き抜けた幸福への憧憬、極楽への希求がありありと感じられる。

そう思うのは僕だけだろうか?それほどの魔法である和声進行B♭、C、F、Fm、B♭、E♭の効果に他に気がついた人はいないのだろうか?いや、そうではない。いる。どこかで聴いたことがある。弾いているとわかった。これだ。

皆さんご存じの「サウンド・オブ・ミュージック」の「クライム・エヴリ・マウンテン」だ。これも教会音楽の設定であり、なんとこれも変ロ長調だからまったく同じ和声進行。ミュージカル作曲家のリチャード・ロジャースがK.275を知っていたかは不明だが、オーケストレーターでナディア・ブーランジェに師事し、ガーシュインやラフマニノフと仕事をしたロバート・ラッセル・ベネットが知らなかったとは考えにくい。パリに意気揚々と向かうモーツァルト、Climb every mountain!

1777年のモーツァルト

K.275の和声、リズムについて細かいことを書くときりがない。神は細部に宿っているとだけ書いておく。しかしモーツァルトはブルックナーのように神や信仰を描くのではなく、まったく人間くさい。構造的には定型的なミサのラテン語歌詞につけてはいるが作法はまるで無視で、対位法より圧倒的に和声の音楽だ。くそうるさいコロレド大司教へのあてつけと取る人がいるのもごもっとも。アニュス・デイはまるでオペラで、これを教会の冒涜と怒る輩が出たのも仕方ない。しかし使っている和声は後期ロマン派を聴き尽くした耳も飽きることがなく、ケッヘル番号200番代でこの域というのは驚くしかない。作法は無視でも全曲を聴き通すと一個の作品として凝縮した感性を味わうことになる。そうしたきき方を宗教家、保守本流の学者・評論家が許容しないことは知っているが僕はそうしたドグマから自由な立場で楽しむ鑑賞者だ。自由な彼の精神は縛られた耳では感知できない。父子のやりとりの手紙。天才の日々や精神活動を知る克明で大量の一次資料がこれほど残るケースは稀有で、だからこそモーツァルトは「後世にこぞって語られる存在」であったのだが、必ずしも音楽を深くは知らない人々も多く参加し、200年のうちに人口に膾炙した一人歩きの物語ができ、それもまたドグマとなり、固定したモーツァルト像を形成してしまっている。僕は手に入る一次資料、研究、学説はほぼ読破しているがだからどうということはない。自分の耳と感性であれっと思うことがたくさんあるからで、本稿はその一例である。

ロマン派のように開始するアニュス・デイはアレグロ・モデラートに転じる第26小節から第175小節の終結に至るまで歌詞はドナ・ノービス・パーチェム (Dona nobis pacem、われらに平和を与えたまえ)の繰り返しで、その言葉こそが彼がこの曲にこめた願いだろう。最後、つまり全曲の結尾がピアニッシモで、まるで彼と母を乗せた馬車が晩秋の霧の彼方にひっそりと消えていくようではないか。

ずっとのち、1791年のことになる。身重の妻コンスタンツェにスパ療養を必要としていたモーツァルトは、温泉地バーデン・バイ・ウィーンに宿泊施設を見つけてくれたバーデン聖シュテファン教会の楽長アントン・シュトールの求めで、自身の指揮でK.275を演奏した。それがこの写真の場所だ。7月10日の日曜日だ。母の命日は7月3日。そして彼は5か月後に母のもとに旅立った。

Baden-Kirche St. Stephan

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5

2025 JAN 27 3:03:31 am by 東 賢太郎

ハイドン(1732 – 1809)が「シュトルム・ウント・ドラング」的な特徴をそなえた楽曲を1768年~1773年(36~41才)頃に多作したことを前稿に書きました。シュテファン教会合唱団で歌っていた少年時代にC.P.E.バッハの楽譜を研究した成果です。ハイドンの現存する最初期の曲は、変声期で合唱団を解雇された1750年(18才)ごろ書いた『ミサ・ブレヴィス ヘ長調(Hob. XXII:1)』です。

この頃から作曲を始めて認められ、1757年(25才)ごろボヘミアのカール・モルツィン伯爵の宮廷楽長の職に就きプロの作曲家となります。ここで約15曲の交響曲を含む作曲をし、1761年(29才)にハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長のポストを得て、1766年(34才)には楽長に昇進。これこそがハイドンのみならず音楽史にとって最大級の僥倖でした。曲作りの過程で音響の「実験」「冒険」をできるマイ・オーケストラを持っていた恵まれた作曲家は他にいません。そうしてかねてよりのC.P.E.バッハの楽譜研究を2年あまり重ねたことを自身で「私を知る人は誰でも、私がエマヌエル・バッハに多大な借りがあること、彼を理解し熱心に研究したことに気づくに違いない」と述べ、1768年(36才)ごろ「いわゆるシュトルム・ウント・ドラング期」に突入するのです。

その最大の成果のひとつが1772年に作曲した6曲の「太陽四重奏曲」作品20です。特筆すべきことはその第1番変ホ長調をベートーベンが筆写し、ブラームスが全曲の楽譜を所有していたことでしょう。この執着はハイドンがC.P.E.バッハから吸収したエッセンスが「太陽四重奏曲」にあるという関心に発していたのではと思うからです。ふたりのC.P.E.バッハへの評価は以下の史実で伺えます。ベートーベンは「私は彼のクラヴィーア曲を少数しか保有していないが、その幾つかはすべての真の芸術家に高度な歓びを与えるだけでなく研究対象にもなる」(ブライトコプフ&ヘルテル社への手紙)と称え、ブラームスは師匠のシューマンが「大バッハに著しく劣る」と無視したのに対し、高く評価して一部を校訂までしたことです。

ベートーベンが筆写した「太陽四重奏曲」第1番変ホ長調です。

ベートーベンがC.P.E.バッハから受け継ぐものがあると感じさせる例もひとつ。鍵盤ソナタH283、自由幻想曲、ロンド(1785年) – ハ短調の鍵盤のためのロンド(Wq 59:4)です。

ベートーベンはピアノ・ソナタ第1番へ短調(1795年)をこう始めます。

このソナタはいみじくもハイドンに捧げられています。師の向こうにC.P.E.バッハが透かし彫りのように浮かんでいる、そう聞こえてなりません。

Gottfried Freiherr van Swieten

プロテスタントのC.P.E.バッハをカソリックのウィーンに紹介したのはモーツァルトの庇護者でもあったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵です。ハイドンがC.P.E.バッハのクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論』を学んだのがスヴィーテンの影響かどうかはわかりませんが、同書第一部発刊時(1753年)に彼はウィーンにおり、21才のハイドンは作曲の勉強中でした。ずっと後年のことですが「天地創造」「四季」の創作に関わり、ハイドンの遺産の中には大バッハの「ロ短調ミサ曲」と「平均律クラヴィーア曲集第二集」の筆写楽譜があったことからスヴィーテンとの深い交友があったことは事実です。

ではモーツァルトはどうでしょう?彼はリアルに太陽四重奏曲から学習しています。6曲から成る「ウィーン四重奏曲」(K.168~173)がその成果です。その経緯に関し多くの学者が与える評価が2つあります。①C.P.E.バッハを消化吸収した40才のハイドンの円熟と「とんがった」技法、➁それをウィーンで目の当たりにして父とのイタリア楽旅で得た自信を粉々にされた17才の当惑です。①の形容こそが再三僕が辟易している「シュトルム・ウント・ドラング」であり、➁からウィーン四重奏曲は過渡期の作品と結論を導き出すのです。しかし、K.626まで知った我々の耳にそうきこえるのは当たり前でしょう。ウィーン四重奏曲は喩えるなら高校生の大谷翔平の投球です。彼が甲子園に出て当惑した云々は本質に関係ない大衆向け解説であって、スカウトの目で彼の球質を観ることでいろいろな物事が見えてきます。例えば第1番(弦楽四重奏曲第8番ヘ長調K.168)のスコアなど驚嘆以外の何物でもありませんし、それを当時のウィーン人がアプリシエートしたとは思えない暗澹たる気持ちも入り混じります。お聴きください。

第2楽章の主題はハイドンの太陽四重奏曲の第6曲、弦楽四重奏曲第35番ヘ短調の第4楽章からの引用でしょう。

これを作曲することになる3度目のウィーン旅行は、父子が宮廷楽長ガスマンが病気で倒れたと知ってチャンスだと出向いたものでした。ウィーン四重奏曲を息子の尻を叩いて書かせマリア・テレジア皇太后に拝謁までしましたが、その御仁こそがアンチの胴元だったのだから仕官できるはずないのです。この夜の女王みたいに恐ろし気な女性と小物役人以外の何物でもないザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド。ふたりの権力者の壁に人生を阻まれたモーツァルトは気の毒でしかありません。しかしそれも犯人を知って推理小説を読むようなもの。「馬鹿どもはまあどこでだって物分かりがよくはありません!」と妻に手紙を書いたレオポルド氏に共感しますが、しかし、この曲集、当時のウィーンでは馬耳東風だったろうなあという虚無感を僕は禁じえません。後世のモーツァルト学者、文筆家のほとんどがミラノ楽旅で学んだイタリア式四重奏曲との断層を論じます。それは正しい。しかし決定的に間違いであるのは、これを「ウィーン四重奏曲」と安直に呼ぶあんまりインテリジェントでない土壌のうえで論評していることです。モーツァルトを圧倒し、狼狽させ、模倣・引用しようと奮い立たせたのはウイーン式でもウィーン四重奏でも何でもなく「ハイドン式」である。これが本稿を貫く僕の主張です。しかも、そのハイドンも、それを創造したのはウィーンではなくハンガリーなのです。エステルハージ家でC.P.E.バッハ研究から吸収した創造物をマイ・オーケストラで「冒険」「実験」できた。そんな理想郷のような工房を所有した大作曲家はハイドン以外にひとりもいません。だからハイドンのエステルハージ家の楽長就任を僕は「音楽史にとって最大級の僥倖でした」と書いたわけです。ここにおける我が結論は①いかに太陽四重奏曲が先進的だったか➁それに即座に反応・対応したモーツァルトのエンジニア能力がいかに図抜けていたかの2点。それだけです。

特に第13番ニ短調 K. 173は “短調” かつ “フーガ付き” というハイドンが売りにしようと目論んだ特徴をフル装備しており、第4楽章の半音階のフーガ主題はウェーベルンさながらで初めてのときは驚いたものです。21世紀の耳でそれですから当時の聴衆の度肝を抜いたはずですが春の祭典のような騒動にならず静かに無視。それがウィーンです。だから彼も感動を喚起しようと思って書いてない。あくまで高度な技術のデモで、それを評価できる人はウィーン中を探してもヨーゼフ・ハイドンしかいなかったことをわかっていたと思います。17才が40才を凌ぐとすれば円熟味のようなものではなく技術の切れ味しかないことを父子は理解していました。しかし息子はともかく父の政治的センスがなかったですね。人事は学歴やTOEICの点数だけでは決まらない、つまり作戦ミスなんですが、家の財政事情や揺るぎない向上心で一気にトップを狙い、失敗した。いいんじゃないですか、人生一度っきりだし。

後世のベートーベン、ブラームスがハイドンの太陽四重奏曲に関心を持ったのはなぜかという話に戻ると、C.P.E.バッハのエッセンスをハイドンが消化吸収し、それを自己同化することでさらに新しい音楽が創造できる可能性を17才のモーツァルトが証明したことが背景にあったのではないか。二人にとってモーツァルトは神ですから、神が崇めたものに神性を感じたかもしれませんが、決して骨董品を愛でる類いの関心ではなく「お前はハイドンのスコアに何を見出せるか」という、自分が計られるような関心(もしくは不安)があったと想像するのです。それなくしてベートーベンが筆写するとは思えません。その解答集がウィーン四重奏曲ですから彼らは当然こちらも微細に調べてます。特許を競うエンジニアとはそういうものだからです。モーツァルトの当惑を聞き取るのも一興かもしれませんが、彼はそういう関心のもたれ方にそぐわしい文学青年ではなく、文学青年を泣かせる名人の技術者であったということです。

弦楽四重奏曲第13番 ニ短調 K. 173(1773年)をお聴きください。

モーツァルトにこれを書く衝動を与えた作品は太陽四重奏曲(1772年)6曲のうちのどれでしょうか?第35番作品20-5ヘ短調と思います。何故なら、K. 173にとどまらず、これを研究した痕跡と思われるものが1782~1785年に作曲した「ハイドン・セット」に多く刻み込まれているからです。そしてこの曲を僕はハイドンの弦楽四重奏曲の最高傑作のひとつと考えております。お聴きください。

第35番作品20-5ヘ短調の痕跡を列挙しましょう。出だしからいきなり連想されるのは弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(ハイドン・セット第2番)です。第2楽章メヌエット主題の結尾のバス、およびヘ長調のトリオ主題は同第19番ハ長調K.465「不協和音」(同第6番)の第3楽章メヌエットで(両者ともあまりの相似に驚きます)、K.421の第4楽章、最後から二番目の変奏(ニ長調)に第2楽章メヌエット主題の結尾が再び現れます。第3楽章冒頭はピアノ協奏曲第23番K.488 第2楽章冒頭のリズム(シチリアーノ)です。太陽四重奏曲で第35番作品20-5ヘ短調ほど引用された曲は他にありません。いかがでしょうか?痕跡はその作曲家について多くのことを教えてくれるのです。

Nancy Storace

ハイドンはウィーンの「フィガロハウス」でK.421、K.465を試演しています。添えられた手紙と共にモーツァルトの敬意と自負を知ったでしょう。キャリアの絶頂にあったモーツァルトですが、トルコ戦争で貴族がウィーン不在となって収入が激減します。別な大都市に活路を見出そうと考えるのは当然のことでしょう。そこにフィガロのスザンナ役の創唱歌手で懇意の英国人ナンシー・ストレースが「ロンドンにおいでよ!」と誘っていました。「OK!フィガロは自信あるよ。ピアノ協奏曲は3つ(第22,23,24番)ある、でもハイドンさんお得意の交響曲が足りないなあ。よし!」そこで、ハイドンセット作曲の経緯を思い出し、ハイドンに取り立ててもらおうと全身全霊をこめて書き上げたのが第39,40,41番の「三大交響曲」だった。これ以外に、彼にとって極めて異例である「誰の依頼もない力作」が3つセットで現れた理由をどなたか説明できるでしょうか?。調性は変ホ長調、ト短調、ハ長調でした。ハイドンセットのお手本になった太陽四重奏曲の第1,2,3番も変ホ長調、ハ長調、ト短調です。これが偶然でしょうか?

以下は東説です。証拠はないため推理です。

ハイドンはモーツァルトの意向を知っていました(別れの会食で他に何の話題があったでしょう?)。三大交響曲のうち41番ハ長調はクラリネットなしです。ハイドンも98番まで「クラぬき」で書いています。ザロモンのオケにはクラリネットがなかったのです。奏者はいましたが採用しませんでした。クラ入り交響曲はモーツァルトのトレードマークだからです。ところが、モーツァルトが亡くなると99番から「クラ入り」で作曲し始めるのです。偶然でしょうか?

作曲中だった98番第2楽章に英国国歌と41番第2楽章を引用したことはモーツァルトの訃報への弔意と思われます。問題はなぜ引用できたかです。スコアを持っていたからです。国内でさえ初演記録のない同曲です。演奏のあてのないロンドンで写譜される事態をモーツァルトが許容する理由はありません。ということはモーツァルトから全幅の信頼のもとに手渡されていたのです。ザロモンのオケで即演奏可能なスコアです、できれば演奏してほしいという含みでもって。この行為は6曲の弦楽四重奏曲を手紙を添えて献呈した1785年の「ハイドンセット」とまったく同じです。ハイドンがそれを演奏、紹介などで広めた形跡はありません。しかしモーツァルトは敬意を示した唯一の作曲家であるハイドンがメンターでいてくれることを死ぬまで疑いませんでした。

ハイドンはモーツァルトの1才年下の弟子イグナツ・プレイエルが1791年にロンドンでザロモンのライバル興行主に雇われ、人気を二分され、プレイエルはその成功でストラスブールにお城を買いました。もしモーツァルトが海を渡ってきたら?もし41番のスコアがザロモンの手に渡ったら?今回が最後の渡英と悟っている60才の老人が脅威を感じない方が不思議ではないでしょうか?プレイエルは後に自分の名を冠したピアノ製造会社創業者として著名になります。モーツァルトの41番は人類の宝として著名になります。そのスコアを見て怖れを懐かなかったという仮定ほど交響曲の父に対する愚弄はないというのが拙考です。

最後にハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調のもうひとつの興味深い事実を記して本稿を閉じようと思います。同曲第4楽章フーガ主題はヘンデル「メサイア」25番「主の受けられた傷によって」の引用であることにお気づきでしょうか。メサイアは言うまでもなく、ダブリンで初演され英語で歌われる「英国音楽」です。英国に渡って名を成したドイツ人作曲家は3人います。ヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンです。後の二人にモーツァルトは個人的に関わっており、4人目として名を連ねることに抵抗はなかったでしょう。私事ですが、僕は6年ロンドンに住んでクラシック愛好家の英国人先達たちから多くの教えを受けました。そのひとつが「モーツァルトはロンドンに来るべきだった」なのです。

モーツァルトにとってメサイアは特別な音楽でした。その25番を17才のモーツァルトが「ウィーン四重奏曲」の1番K.168に引用したビデオは既にお示ししましたが、それがハイドン作品からか直接メサイアからかは不明です。メサイアのドイツ初演は作品20-5作曲と同年の1772年ににハンブルグで行われています。スヴィーテンは1777年まで駐ベルリン大使で、スコアはC.P.E.バッハ経由でウィーンにあった可能性は否定できませんが、私見ではハイドン「太陽四重奏曲」第6曲からの引用と考えます。モーツァルトは英国滞在中にメサイアを知っており、ハイドンの引用に気づき、それを見抜いたアピールで引用した可能性もあると思います。

そのうえ、1789年3月にスヴィーテンの依頼でメサイアの独語による管弦楽改定版を作っており、この作業でメサイアはドイツ音楽にもなりました。25番は縁の深い旋律だったのです。そして、それが「レクイエム」のキリエになった。弟子による若干の補筆を伴うだけで、キリエはモーツァルトの真筆であることが判明しています。委嘱されたのは最後の年の夏ですが、オペラ『ティトの仁慈』『魔笛』の作曲がありとりかかったのは10月と推察されています。1か月後にあの世に行くと思っていなかった彼が何をもってメサイアを引用したのか。いろいろ思いは巡りますね。

ヘンデル「メサイア」25番

ハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調第4楽章

モーツァルト「レクイエム」よりキリエ

 

(ご参考)

モーツァルトの謎『レジナ・チェリ K.276』

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ハイドンと『パルメニデスの有』

2025 JAN 20 16:16:20 pm by 東 賢太郎

ハイドンが40才で作曲した太陽四重奏曲Op.20を鑑賞したのは、2005年に買ったウルブリヒ弦楽四重奏団のCDで目覚めてからです。シューベルトやモーツァルトが亡くなった年をこえて完成されている作品にそうなってしまったのはなぜか。理由は3つあります。①ジャンルでカウントするので作品番号20が若書きに見えた➁曲名が意味不明(出版時の表紙に太陽の絵があっただけ)③シュトルム・ウント・ドラング期という解説が不勉強で意味不明。

ということで、要は「高級品」に見えず食わず嫌いしていたのです。そんな曲を長時間かけてきく意味を感じませんし、レコード屋でなけなしの金で何を買おうかとなって、並み居る高級品の中でそう思えない2枚組を選ぶことは50才になるまで一度もなかった、そういうことです。僕において高級とは希少性や値段の意味ではありません。英語ではluxury, premium, high-endなどですが、やっぱりどれでもない。高級の「級」は段階、「高」は比較で、それは受け取る人間が判定します。同じワインを飲んでどう思うかは十人十色で、皆さんが「赤い」と思っている色彩もそうであることがわかっています。つまり、判定している対象物は「あるがまま」で一個ですが、している人間が十人十色なのです。

Parmenidēs

この「ある」(有る)を突き詰めた思想家がパルメニデス(BC515/10〜450/45頃以降)です。大学で最も難解だった授業というと、哲学の井上忠先生による『パルメニデスの有』に関する講義をおいてありません。これが日本語と思えぬほどまったくわからない。ソクラテス以前の思想が理解できないショックは駒場のクラス全員が少なからず共有したのではないでしょうか。なんでこんなわけわからんものをと思いましたが、あれはたぶん思考訓練だったんですね。叙事詩の解釈が哲学になり、完全なものは球体をしているなんて宇宙的な命題が忽然と表明される。そういう講義は寝るんですが、先生の訥々とした話しでシュールな時間が流れ、打算なくそれに浸るのが教養だという贅沢感を噛みしめました。はっきりいって講義内容はほとんど理解しませんでしたが哲学は面白そうだという直感と、ギリシャ行きてえなあという夢が沸き起こりました。10年後に真夏のパルテノン神殿に立った時の心の底から噴き出す歓びは昨日のことのように覚えてます。

無知を悟り、これを端緒に哲学をかじり、「有るは認識」の理解に至ります。アリストテレスの『形而上学』につながること、言語が与える思考の呪縛は現代でも世界を支配しているという理解は生きる上で有益でした。感覚よりも理性(ロゴス)を優先する理性主義もロゴス=言語ですから明快に定義された言語によって進められるべきで、古代ギリシャの政治がそうだったし現代もディベートが基本でない国は西洋にありません。G7国だと自慢するならそれなしに民主主義などあり得ないわけで、言語で政策も語れない総理大臣が選ばれる日本とは何なのか、非常に示唆に富みます。ご興味ある方は先生の学位論文要旨をどうぞ。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=213152

ワインはパーカーの点数が高ければ誰にもおいしいわけではないです。十人十色では収拾がつかないので多数派がいいね!と言うと「おいしい」というタグを貼るのです。それが「級」で、いいね!が六人より七人が上、これが「高」です。両方合わさって「高級」。レコード屋でなけなしの金で買う最低基準より上のクオリティの音楽。これが僕の「高級な音楽」の定義で、太陽四重奏曲は3つの誤解で「不合格」にしたという失敗例をお示ししました。クラシックといってもベートーベンすらまったく感動できない作品はあるし、人間だから性の合わない作曲家もあるし、そういう曲を僕がブログに書く意味がありません。「名曲名盤おすすめ」みたいな本がありますが、本になるほどたくさんのおすすめ曲がある人は「合格点のバーが低い」わけで、クラシックという嗜好品でそれとなると太陽の絵で楽譜を買う人向けということになりましょう。

LP、CDの音源を所有する楽曲のカードは家に約300枚あります。感動できない作品、性の合わない作曲家の作品もあるとはいえpetrucci等で楽譜も調べて耳と目で楽曲をそこそこ記憶しております。ここまで行くと消費した時間もそれなりで、本業には微塵も関係ないのに人生をかけてしまったホビーでした。それでもブログに残したいのは旅行記のようなものだからです。面白いという方がおられればそれはそれですが99%は自己満足です。元気ならば半分の150曲ぐらい、深く書きたいのはもう半分の7~80曲程度でしょうか。僕はプラトンのイデア論の信奉者ですから感動の根源は100%楽曲にあると考える主義で、つまらない曲だって何度も聴けばわかるという経験論は否定します。パルメニデスの説くとおり「無が有ることはない」のです。

演奏なしでは楽曲は認識できませんが、ストヴィンスキーが述べたとおり「鐘は突けば鳴る」で、正確にリアライズすれば感動できるように楽曲はできています。だから演奏はよほど酷くなければ良し。毎日ピアノに向かってシューベルトとラヴェルを弾きますが、そんなレベルでも感動。そうなるように音を組成する作業がコンポジション(「一緒に置く」「組み立てる」が原意)で、どっちも指が感じる「いい所に音を置いてるなあ・・」という匠の技への感動なのです。あらゆる芸術家の中で作曲家と建築家はエンジニアであるというのが僕の持論です。エンジニアは理系です。モーツァルトはひらめき型の天才ではありますが、ベースとなった能力は卓越したエンジニア的学習能力で、3才で精巧な大型プラモデルの設計図を読み解いてあっという間に組み立ててしまう類いの神童であり、それが魔笛やレクイエムを生んだわけではありませんが、それがなければあの高みまでは至らなかったでしょう。「可愛らしいロココのモーツァルト」的な表現は僕からは千年たっても出ません。あっても一時の装いで彼の作曲の本質に些かの関係もありません。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732 – 1809)が18世紀後半にかけてシュトルム・ウント・ドラング期を生きた人であるのは事実です。絶対王政時代のバロック音楽(厳格なポリフォ二ー音楽)を脱した旋律+伴奏の「ギャラント様式」(ホモフォニー音楽)の装飾や走句を多用する明るく明快な音楽がフランスに現れますが、羽目をはずさない均整の取れた音楽であり、そうではなく、主観的、感情的スパイスを加えて気分の急激な変化や対立を盛り込もうという「多感様式」のホモフォニー音楽が北ドイツに現れます。これが同時期にドイツ文学に出現した概念を援用してシュトルム・ウント・ドラングとも呼ばれるものです。代表格とされる作曲家は大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788、以下C.P.E.バッハ)です。ウィーン少年合唱団員だったハイドンは音楽理論と作曲の体系的な訓練を受けておらず独学でしたが、名著で知られるフックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』の対位法と、後に重要な影響を受けたと認めるC.P.E.バッハの作品を研究したことが知られています。

独学をベースに古典派を形成して弦楽四重奏、交響曲で「父」の称号が与えられるハイドンのエンジニアリング能力も驚くべきですが、「音楽家は自分自身が感動しなければ、他人を感動させることはできない」と主張したC.P.E.バッハの影響下でソナタに短調楽章やフーガを入れるなど「多感様式」の特徴を取り入れた音楽を書いたのも事実です。問題はそれを1770年代後半の文学運動に対する語に当てはめて呼ぶかどうか、それに何か看過できぬ理由や鑑賞への利益があるかどうかというだけです。C.P.E.バッハの影響はモーツァルトにもあることから、私見は否定的です。明白な痕跡として、1753年作曲の6つのクラヴィーア・ソナタより第6番ヘ短調(Wq.63-6)の第1楽章をお聴きください。

ピアノ協奏曲第20番K.466第2楽章で激しい短調になる中間部に現れる印象的な和声進行が聴きとれます。ソナタに短調楽章やフーガを入れるばかりかC.P.E.バッハを1785年に引用までしてるのですから、外形的には「モーツァルトはシュトルム・ウント・ドラングの作曲家だ」と主張しても誤りではないですが、少なくともそうレッテルを張る人を知りませんから同じ外形のハイドンだけにそう主張する根拠もありません。モーツァルトはハイドンを模したとされますが、K.466の例はハイドン経由でなくC.P.E.バッハの直輸入です。

二人は親子ほどの年齢差があるという反論がありそうですが、彼にはハイドンより13才年上の図抜けて有能な父親というマネージャーがいたため著名作曲家の楽譜へのアクセス環境は劣らず、息子の学習能力はこれまた図抜けていたのです(父子で当たり前のように交わしていた他人の楽譜の品評が書簡集で確認できます)。ハイドンは温和な性格でモーツァルトと友好関係にあったことは、一緒に四重奏を演奏し、その勧めでフリーメ―ソンに入るなどから事実でしょう。しかし弟子にしたイグナス・プレイエルほどのメンターシップを見せるまでではなく(そこはレオポルドへの配慮かもしれませんが)、仲は良くとも能力が拮抗したエンジニア同士ですから、テスラとエジソンではありませんが、二人はC.P.E.バッハの様式の導入においてライバル関係にもあったと考えるのは不自然でないでしょう。

ハイドンは1768年~1773年頃にシュトルム・ウント・ドラング期とされる特徴をそなえた楽曲を多作します(交響曲第26~65番、太陽四重奏曲を含む)。それが12~18才のモーツァルトの研究対象となったことは間違いありませんが、なぜハイドンが舵を切ったかは諸説あります。最も信頼できるのは1776年の自伝にある以下の言葉です。

私は(エステルハージ侯爵の)承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができた。

この発言、とりわけ「実験」(Experimenten)という言葉ほど、彼が(作曲家がと言ってもいい)エンジニアで理系の資質の人であるという僕の主張を裏付けるものはありません。こういう人の行動や事跡をあらゆる文系的な要素だけを取り出して解釈するのは、はっきり書きますが間違いです(僕もそういう人間なので)。彼はウィーン合唱団時代からC.P.E.バッハを研究して影響があったことを認めていますが、自分はさらに冒険したのだ、世間から孤立した私には、自分を疑わせたり、困らせたりする人が近くにいなかったので、私はオリジナルになることを余儀なくされた、と断言している孤高の人なのです。その意味で、モーツァルトも同様です。唯一ちがうのは、彼は大バッハ、その息子たち、ヘンデル、ハイドン以外の作曲家は父も含めて歯牙にもかけずオリジナルになったことです。後世の学者を含めた普通の人が想像する世の中の風潮、他愛ない流行、良好とされる人間関係、思慕の念の如きものを僕は一切排除してザッハリヒに物を見ます。才能が才能を知る。「あるもの(有/在、ト・エオン)はあり、あらぬもの(非有/不在、ト・メー・エオン)はあらぬ」(パルメニデス)。

 

ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調k488

2025 JAN 12 23:23:07 pm by 東 賢太郎

この協奏曲はモーツァルトが書いたコンチェルトのうちでも完成度が高く、結果としてその域に至った作品は幾つかあるが、意図してそこまで磨き上げたという意味で最高だろう。神品を最高の演奏で味わいたい人は1976年にリリースされたポリーニとベーム / ウィーン・フィルによるDG盤をお聴きになるがいい。この天国のように美しい演奏に加える言葉はない。極上のモーツァルトがどんなものか、ムジークフェラインのウィーン・フィルがどういう音か知りたい人、天上の調べに癒されたい人、疲れている人、ぜひこれをヘッドホンで目をつぶってお聴きになられるといい。

同一箇所(Mov1)の第一ホルンに微細な特徴があり、youtubeにあがったこのライブと同じ音源だろうと思われる。ポリーニが若い(34才)。日本ではテクニックだけ扱いされていたが節穴の耳としか言いようがない。ピアノはスタインウエイだ。

K.488のレコードを買ったのは大学2年のこと。4月に世評の高かったハスキル、パウル・ザッヒャー盤、5月に評論家宇野功芳氏が激賞していたハイドシェック、ヴェンデルノート盤だ。曲はすぐ好きになったが、最終的にジュピターを46種類、オペラである魔笛を19種類集めたことからすると21種類と特に多くない。ハスキル盤は悪くないが録音が貧弱、ハイドシェックのピアノはMov3の天馬空を行く快演ぶりは大いに気に入ったが、Mov1は伴奏(パリ音楽院管弦楽団)ががさつでテンポも落ち着かず、フランスの管のバランスがモーツァルトらしくなく、Mov2は速すぎ、なによりMov1のカデンツァを自作にしているのが意に添わない。

というわけで深入りすることはなくLPはのちにロンドンでブレンデル、マリナー盤とポリーニ、ベーム盤(左)の2枚を買っただけだ。ポリーニを聴いてるのだがリストでは無印で感動してない。ベームの穏健、盤石なテンポが凡庸に聞こえた。そうでないとこの曲の各所に散りばめられた短調の翳りは死んでしまうのだが、ハイドシェックの快速のMov3が耳に残っており、そういうものという固定観念ができてしまっていた。

K.488はアレグロ楽章にアダージョ楽章がはさまり、調性はイ長調-嬰ヘ短調-イ長調で何の変哲もない。しかし冒頭小節でいきなりⅠ⁷の和音(7thコード)が現れ、古典派らしからぬ佇まいで春風そよぐ朝のような第1主題が提示される。管弦楽の導入部で主題が4つ現れ、最後は憂いを湛えた嬰ヘ短調だ。ピアノが登場し4つをその順番で変奏するが、新しい主題がモーツァルトに珍しいホ短調で現れる。ここから再現部までずっと短調が支配するので第1主題が回帰するとほっとした気分になる。カデンツァは類のないほど緻密に書き取られており、他楽章にはなく、ソリストの遊びは限定される(冒頭はそういう意味だ)。コーダは徐々に脱力し最後は p で消え入るように終わり、興奮でなく静寂がやってくる。

第2楽章は虚空の中から立ち現れる。孤独を湛えたピアノのモノローグは、管弦楽が入るとクラリネットが悲痛な高音で歌い、なにやらとてつもない哀哭の涙に押し流される。ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調第2楽章を作曲者は「モーツァルトのクラリネット五重奏曲の助けを借りた」と述懐したが、私見では、借りたのはこの楽章だろう(長短調は逆転、彼一流の婉曲な真相ほのめかしと思料)。中間部は一抹の明るさを見せ、木管群のアンサンブルが饒舌だがやがてモノローグが戻り、6/8の律動が最後は2音符で断絶したように終わる。この終止は印象的だ。聴き手は再び虚空の闇に投げ出され、そこに第3楽章の煌めくばかりの陽光が不意に差し込むのである。これは魔笛でパミーナが悲嘆にくれて歌う “Ach Ich Fühls” の終結の2音を思い出す。この歌は前後をタミーノとパパゲーノのドタバタに挟まれて哀感が引き立つが、K.488第2楽章の配置も同様である(両者ともシチリアーナというリズムの共通項があることも特筆)。

第3楽章はオペラブッファのように明るく快活で心躍る。そこを短調の翳りがよぎり、何度聴いてもはっとさせられる。目にもとまらぬ展開に味の濃い和声が落としこまれるのに気づくが、一度や二度きいても何が起きたのか掴めない点、魔笛でモノスタトスがおどけて歌う快速のアリアのようだ。コーダにはアマデウスコードが繰り返されるが、これまた魔笛のザラストロ礼賛の合唱。魔笛の基調は変ホ長調、こちらはイ長調、同時に書いていた24番はハ短調でどれも♭か#が3つだ(メ―ソンの数字)。

逆転の発想だが、K.488を「フルート、クラリネット、ファゴット、ホルンが歌手でありクラヴィーアの賑やかなコンティヌオが付いているオペラ・ブッファ」と見ると同曲にトランペット、ティンパニが使用されない理由が想像できる。アントン・ヴァルター(1792年頃製作)モデルのピアノフォルテで弾くブッフビンダー、 アーノンクール盤だと、僕にはそう聞こえる。いかがだろう。

オーケストレーションの観点から興味深いのは、モーツァルトがピアノ協奏曲でオーボエの代わりにクラリネットを使っているのは第22番 K.482、第23番 K.488、第24番 K.491の3つだけという事実である。これについては別稿にしたい。

最近の愛聴盤はレオン・フライシャー / シュトゥットガルト室内管弦楽団(弾き振り)だ。フライシャーは16才でピエール・モントゥー / ニューヨーク・フィルと共演、シュナーベルに師事、ブルーノ・ワルターと同曲を録音しており、ジョージ・セルとの素晴らしいベートーベンなどで記憶に焼きついていた。ところが病で右手の自由を失い左手のピアニストになっていた。ここまで回復され素晴らしいモーツァルトを残して2020年に旅立たれたとは。フライシャー氏が偉大な先人たちから受け継いだ音楽がぎっしり詰まっているこれはポリーニ盤と双璧の大人の23番であり、オーケストラ、録音とも大変に素晴らしい。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)

2024 DEC 9 23:23:09 pm by 東 賢太郎

この曲について何度か書こうと思ったがやめた。こういう音楽に軽々に物をいうのはどうかという気持ちになってしまったのだが、思えばそうやってこの曲を神棚に祭りあげてしまっていたのかもしれない。つい先日、ベルリンRIAS室内合唱団による一期一会の演奏に感嘆したことは前稿で述べた。ああいい曲だなあと心が安らぎ、やがて目がしらが熱くなって涙がこぼれてきて、あれ、なんで泣いてるんだろうと不思議に思うが、わけを知る間もなく音楽は淡々と流れ、一時の悲しみを見せつつ天空の棲み家にもどるが如くそっと消え去っていった。

なにかあちらの世に接したかのようだが、我に返ると心は滋味あふれる暖かい喜びでいっぱいに満たされているではないか。あの晩、サントリーホールでこうやって何人の人が泣いただろう。こんな経験が人生で何度できるだろう。半年後に世を去ったモーツァルトへの感謝は言うまでもないが、音楽という芸術がもつ意味深さ、崇高さというもの、それはお高くとまったクラシックの権威主義の表現ではなく、生身の人間に寄り添って安楽と希望と救済を与える霊的、スピリチュアルなものを包含している。

 

 

その間3分。46小節のアヴェ・ヴェルム・コルプスはピアノ譜にすればたった1ページのものだ。4、5時間もオペラハウスで頑張ってこんなに感動したことって何度ある?

 

 

 

この感じ、覚えがある。いちどだけ味わっている。フィレンツェのウフィツィ美術館で、ほんの数分ばかりのことだったと思うが、これの前にしばし立ってぼーっと眺めていた時の感覚だ。

ボッティチェリ!何だろうこの世界は?アインシュタインによるとこの宇宙は時間と空間が互いに関連し合って1つの四次元時空間になってるらしい。二次元的、静止画像的なのに触れそうにリアルな質感、重量感があるこの矛盾。それを啓蒙された21世紀の頭で考えず、あるがままに受け入れるとアヴェ・ヴェルム・コルプスの3分間になる。

しかし演奏会場を去り、美術館を後にすると、どうしても啓蒙された頭が働きだす。なぜこんなに感動するんだろう?小宇宙を調和させている隠された数理でもあるんじゃないか。ギリシャ彫刻の肉体美にはそれがあるらしいし、アヴェ・ヴェルムにあったら面白い。そこでいよいよ本稿にとりかかることにした。好奇心だ。それで人類はおろか僕ひとりですら幸福になるわけでもない。でも意味ない無駄に夢中になれるのは人間だけなのだ。

モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を初めて聴いたのは一橋中学の音楽の授業で森谷先生が選んだレコード鑑賞の時間だった。その中でボロディンの「中央アジアの草原にて」に衝撃を受けてクラシックの道に分け入ったのだから先生に感謝しかない。アヴェ・ヴェルムを聴いたことは、クラスメートのYが長い曲名を面白がって呪文のように何度も口にしていたから間違いない。そしてもっと間違いないことだが、肝心の音楽はさっぱり記憶にない。

ボロディンの衝撃は転調だったが、アヴェ・ヴェルムにも衝撃的な転調がひそんでいるのに、そっちの真価に気づくのに僕は20年もかかった。クラシックといえばモーツァルトとお気軽に言われているが、僕にとってはモーツァルトは難しい作曲家だった。思えばその年月はクラシック音楽の深奥に到達するまでの時間だったのだろう、まるで屋久島の千年杉のごとく、険しい山道を登ってやっとたどり着いた先に朧げに彼の姿があり、ああやっぱり特別な人なんだなあという感じなのだ。

しかし、神棚に祭りあげて思考停止は良くない。アヴェ・ヴェルムの出だしは歌詞にないアーヴェーのくり返しがあり、和声はD➡Em/dになる(一般化してⅠ➡Ⅱ)。これはヘンデルのオペラ「リナルド」のアリア「私を泣かせてください」(Lascia ch’io pianga)のパクリかとも思うがラ、ソ#、ソと2度半音降下するソプラノのメロディーラインで気づかない。どことなく似るドン・ジョヴァンニの「薬屋の歌」もバスをⅠ➡Ⅱにしており、スヴィーテンの図書館でヘンデルを研究したモーツァルトはLascia ch’io piangaが好きだったと思う。

ブルックナー4番の稿に、2005年12月末日の雪の日にウィーンに行ったことを書いた。シュテファン聖堂に近い楽譜店ドブリンガーでアヴェ・ヴェルムの自筆譜ファクシミリを見つけて欣喜雀躍して買ったのが昨日のようだ。

1ページの右上に自身が記したように、1791年6月17日(金曜日)、モーツァルトは身重の妻コンスタンツェがバーデンでのスパ滞在中の宿泊施設を見つけるのを助けてくれたバーデン・バイ・ウィーンのシュテファン教会楽長アントン・シュトールへの感謝として、バーデンの宿屋「ツム・ブルーメンシュトック」で上掲スコアを書いた。左は同教会のオルガンに昇る階段の入り口に掲げられたプレートである(モーツァルトも弾いたであろう)。楽長との関係はその義理の妹アントニア・フーバーがソプラノ・ソロを歌ったミサ曲変ロ長調K.275の演奏をモーツァルト自身が翌月7月10日(日曜日)に指揮したことで伺える。

アヴェ・ヴェルムが「魔笛」の作曲中に書かれたことはモーツァルトが同年6月11日(土曜日)にウィーンから妻へ綴った手紙からわかる。「今日、まったくの退屈しのぎにオペラのアリアをひとつ作った」。結びに「お前に1000回キッスをし、お前と一緒に心の中で言おうー “死と絶望がその人の報いだった”」とある。そのアリアはこれ(第2幕No.11)だ。

アヴェ・ヴェルムに「魔笛」の雰囲気を濃厚に感じるのは僕だけではないだろう。漠然と曲調がそう感じるともいえようが、細部に歴然と根拠がある。番号からして後に書かれただろう同じニ長調の第2幕No.18(O Isis und Osiris)はアヴェ・ヴェルムの特徴的な和声連結が現れるのが一例だ(0分16秒のA➡Gの連結、0分30秒Gmへの移行、1分53秒のD➡f# on G)。

アヴェ・ヴェルムはD(ニ長調)で始まりドミナントのA(イ長調)を経てF(ヘ長調)に印象的な転調をし、A7からDに帰還したと思いきや、さらにGmaj7、Em、A、F#m、Bm、E7、D、A、G、D7、Gm、D#dim、E7、A7、D、G、D、A、D、Bm、Em、D、A7sus4という想定外の旅路を経てD(ニ長調)に帰着し、闇の彼方に消える。これはニ長調のアマデウス・コードd, b, g(またはe), a、およびイ長調のアマデウス・コードa, f#, d(またはb), e上の三和音を組み合わせたものである。そこに f はない。いっぽう、魔笛の第2幕NO.10(ヘ長調)はFからf, e, dと下がる旋律がa#に、No.11(ハ長調)はF➡Aの連結があり、ヘ長調のアマデウス・コードf,  d,  b♭(またはg), cである。そこにa#はない。どちらも音列を外れた音で、それ上の三和音の登場は目立たないが音楽のディメンションを広げている。僕にはこれが「魔笛的」になる隠し味のように思える。

和声だけではない。アヴェ・ヴェルムが均整の取れたフォルムであることを象徴するのは、前から23番目、および後ろから23番目がこの2小節であることだ。

いわゆる「サビ」の入り、ニ長調からヘ長調へ転調する全曲のハイライトといえる魔法の瞬間がぴったり曲の折り目になっているのは、意図したものでないかもしれないがまるで奇跡を目撃したようだ。

キリスト教徒でないのに僕は宗教音楽が大好きだ。モーツァルトで最も好きなジャンルがそれで、次がオペラだ。宗教には駄洒落も猥談も出てこない。それ嫌いなのではないし、そういうモーツァルトがいけないというのでもない、生身の人間としての彼こそ愛すべき存在で音楽とは関係ない。ただ、いわゆるクラシック音楽というものの本質はシリアス(まじめ)さにあると僕は信じていて、金銭、名誉、情欲、お遊びなど世俗にまみれた精神を断ち切ったところにそそり立つ崖のように峻厳なものだけがシリアス・ミュージックと呼ばれ、いわゆるクラシックのほんの一部分を成す。

モーツァルトは生きるために機会音楽、娯楽音楽もたくさん書いたが大いにそういう面もあったのは信仰心と無縁でない。書簡集から彼のカソリック信仰への帰依が厚かったとは思えないが、神なる超越した存在を信じる心があったことは両親の最期に際しての言葉に読み取れる。フリーメーソンは宗教ではない。クリスチャンでもユダヤ教徒でも仏教徒でも受け入れるが、絶対超越の神の存在を信じることだけが要件だ。だから彼はメーソンに親和性を見出したし、僕もそれを信じるので違和感がない。唯一大事なのはシリアスなことである。ザルツブルグを去った彼は宗教曲を書かなくなり(書いても未完)、完成したほんのわずかな作品のひとつがアヴェ・ヴェルムだ。珠玉と呼ばずしてなんだろう。

パターソン氏とスヴィーテン男爵

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

人生で5指にはいる!第643回読響定期演奏会

2024 DEC 4 19:19:06 pm by 東 賢太郎

指揮=鈴木優人
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団

ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)

 

最高の演奏会であった。アンコールのアヴェ・ヴェルム・コルプスがはじまると同行のビジネスパートナーD氏とともに涙がこらえきれず。べリオは心の底から堪能(Mov3はマーラー3、ラ・ヴァルス、田園、海など響く)。8人の男女声楽ソリストの声、語り、騒音?をマイクで拡声、シェーンベルク「ピエロ」のシュプレヒシュティンメの発展形か(オケとの混合が非常に印象的)。通常オケの音場だがシアターピース的。めちゃくちゃ面白い!指揮、オケにも脱帽。

K.626は自分にとって特別な曲。ジュスマイヤー部分に落差はあるがモーツァルト模倣としてはまあ合格点と思えばいい(彼自身のレクイエムを聴けば良くやったと健闘を讃えたい)。うまいと思ったらベルリンRIAS室内合唱団!(プログラム見てない)。これが聴きたくて本シリーズを選んだ甲斐あった。ソプラノのジョアン・ランが格別に良し!オケともどもの古楽風のピュアな声は生命線であるピッチがお見事(この人のバロックオペラ、リサイタル関心あり)。べリオのソリストはK.626では合唱に加わり、アンコールではそのソリストも合唱に。ああやるなと思ったらニ短調からニ長調の世界が広がって暖かく包み込む。アヴェ・ヴェルム・コルプス(オケパート弾くのが大好きだ)。終演後、このプログラムにして異例のブラヴォーが止まず我々も感動のあまり最後まで残って絶賛の拍手。いかに演奏レベルが高かったか。D氏が「これ見て下さい」とスマホを開くとご自身のサイトのバックはアヴェ・ヴェルムのスコアである!「ちょっと飲みましょう」とパブに入り、K.626にまつわる数奇で神秘的な我が体感を語った。なんという日だろう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊