Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______モーツァルト

日韓国交正常化60周年記念演奏会をきく

2025 MAR 3 19:19:52 pm by 東 賢太郎

2025年3月2日(日)14:00開演 13:15開場
東京オペラシティ コンサートホール

指揮:チョン・ミョンフン(東京フィル 名誉音楽監督/KBS 交響楽団 桂冠指揮者)

ピアノ:ソヌ・イェゴン、五十嵐薫子
KBS交響楽団&東京フィルハーモニー交響楽団合同オーケストラ

モーツァルト/2台のピアノのための協奏曲
マーラー/交響曲第1番『巨人』

主催会社様からのご招待で次女と聴かせていただきました。マエストロ・チョン・ミョンフンは何度か聴いており、同世代であったことが幸運だったと思う音楽家のひとりです。そして、我々昭和のファン周知の名ヴァイオリニスト、姉上のキョンファ氏のことも思い出します。大学時代に僕は彼女のファンであり、70年代、韓国といえば彼女、ヴァイオリンといえば彼女であり、初めて同国に訪問したのはずっと後の42才でしたが政治、民族に関する雑念はのっけからなかったことを昨日のように覚えています。その後に投資の関係で何十回もソウルと往来していますがいまだ同様なのです。音楽に国籍はなく、そこから大人になり物心がついたことに感謝しています。

弟のミョンフン氏を知ったのは後でしたが、ふれこみに1974年にチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で2位とあったのをこれまたよく覚えてます(協奏曲第1番のレコードもたしかあった)。同年の優勝はアンドレイ・ガヴリーロフ、4位があのアンドラーシュ・シフというのだからピアニストでないのが不思議であり、そっちでデビューして名を成してから指揮もするようになったバレンボイム、アシュケナージとはちがう。1984年の姉弟のバルトーク、31才の指揮をご覧になればそちらの才能に納得でしょう。29才でシカゴ響にデビューし、トロント響の音楽監督になった小澤征爾に比肩する唯一の東洋人です。

ご両人の音楽に共通なのですが、広々とした “気” が静かに背景に横たわっているように感じます。どんな激した箇所になってもそれは濃紺の深海のように不動なのです。音楽には演奏する人が現われると言いますが、本当に不思議だ。他の誰からも感じたことのないこれはお二人の持てるものなんだろうと感じます。

このビデオの会話、そして素晴らしいとしか言いようのないブラームスを聴くと、言いたいことがお分かりいただけるかなと思います。このインタビュー、英語は母国語でないのに、やさしい言葉なんだけど選び方に奥深い品格とインテリジェンスを感じます。細かいことですがなかなかできることではない。カルロ・マリア・ジュリーニが弟子とし、世界のトップオーケストラが畏敬し、あのオリヴィエ・メシアンが認めて数々の初演を託した理由の一端を見た気がします。

昨日の演奏会。モーツァルトk.365は大好きなのですが意外に演奏会にあたらず、フランクフルトで95年にアルゲリッチ&ラビノビッチで聴いただけだったので楽しみでした。第1楽章アレグロはやや遅めのテンポでピアノを伸びやかに歌わせ、ミラベル公園に遊ぶ風情の第2楽章はまさにそのもので欧州の息吹を感じさせます。終楽章のアレグロは不遇のパリ旅行から帰ったモーツァルトがすっかり快復し、姉ナンネルとのりのりのテンポで弾きまくったであろう心沸き立つ速さでありました。ソヌ・イェゴン、五十嵐薫、これから楽しみでしかない俊英ふたりの愉悦感あふれる演奏に心より満足。

マーラー巨人。これは一生記憶に残るものでした。ミョンフン氏は2008年にN響でブルックナー7番をやり、これがかつて1,2を争う名演で期待はありました。冒頭の弦がひっそりと奏でるaから広々とした “気” が静かに、しかし仄かな緊張感を漂わせながらホールに満ちます。この曲のこの時間は生きる喜びのひとつです。終楽章でまさにこれが戻ってくるのを予感して感じるものがたくさんあり、それがやってくる未来に無限の喜びを覚えるのです。何十回聴いたかわからない同曲ですが、白眉は地の底まで沈底する如く気を鎮めた第3楽章で、下手な指揮だと俗界の闖入が滑稽に浮いてしまうだけなのですが、ここでこそ彼の「濃紺の深海のように不動なもの」の神秘感が活きたのです。ここから終楽章の白熱と爆発へのコントラストは俗っぽさと無縁で、何のあざとさもなく自然体のように頂点まで高揚した解釈の、彼の言葉のように品格とインテリジェンスがあったこと!韓国のN響のような存在であるKBS響と東京フィルの合同オーケストラは指揮の意をくんで見事に融和し、唯一無二の渾身の演奏になりました。まさに、音楽に国境なし。

公演後のレセプションでマエストロは「自分が何者かと問われれば、まずhumann being(人間)です。そして次に音楽家です。こんな素晴らしい音楽というものと共に生きられることが無上の喜びです。そして最後に、韓国人であることが来ます。国よりも、音楽はずっと大事な存在なのです」とスピーチしました。だから20年も東京フィルハーモニーの音楽監督がつとまったのでしょう。同感です。僕にとっても音楽は3位でなく2位の存在です。マエストロと話したかったのですが、大変なオーラを放ちつつも少々お疲れのように見えたので自重しました。あれだけのマーラーを振ってオーケストラと我々に気を吹き込んだのだから当然でしょう。日韓両国にとって記念すべき演奏会に皇室はじめ各界重鎮と共にお招きいただいたことは光栄であり、株式会社ロッテホールディングス様に心より御礼申し上げます。

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モーツァルト ミサ曲 第13番 変ロ長調 K.275

2025 FEB 13 10:10:07 am by 東 賢太郎

K.275の成立時期については、母と共にパリに旅立つ直前に書いたという説、および、中途のミュンヘンで書きあげてザルツブルグへ送ったという説がある。出発が1777年9月23日で、唯一の手掛かりである父の手紙が12月21日の初演のことを伝えているからだ。3か月の空白の理由は自筆譜が失われ説明できないのである。

Leopold Mozart

どちらが真相であれ、大事な点はK.275が人生をかけた就活旅行を前にして書かれたことだ。幼い少年の芸は王侯貴族に愛でられたが、ポストという実利を得られないまま息子はもう21才だ。焦った父レオポルドは6月に父子での2、3か月の旅行(休暇)をコロレド大司教に嘆願したが「息子だけなら」の許可が出た。これはあながち意地悪とは思えない、なぜなら7月末に皇帝ヨゼフ2世がザルツブルグを来訪し、式典のため父子どちらかがコンマスとして必要だったからだ。憤懣やるかたない父は再度8月に「父子で」を飲ませようと、息子の名を語って「だめなら私は辞職したい」(もちろんポーズ)と大胆にも書き添えた手紙を出す。息子を失うのは困るだろうと勝負をかけたわけだが、偽装を見抜いた大司教は「二人とも辞職を認める」(要は親父はクビ)ともっと困る返答をしてモーツァルト家を仰天させる。父はショックで寝こんでしまい、姉のナンネルは頭痛に襲われて嘔吐した。まさしくお家の一大事だったのである。

Anna Maria Mozart

息子は休暇をもらい、旅慣れぬ母親が自分の代わりに同行する、という窮余の辻褄合わせで父は許しを得、クビは免れた。どう考えても就活に寄与するとは思えない母アンナ・マリアの同行。これがなぜなのか僕には長年の疑問だった。全行程を馬車で行くのは現代ならタクシーをチャーターするようなものであり、宿泊代はもとより膨大な出費を伴う点でも無用な同行者をつける余裕など一介のサラリーマンにすぎないレオポルドにあったはずがない。息子の素行を信用していなかったことはあろう。しかし問題の大司教への手紙をよく読むと、父の同行の必要性をこじつけようと「子を助ける親の義務」を聖書まで引き合いにして権力者に対して不遜なまでに強く説いてしまっている。6月時点で「息子だけならOK」だった許可に文句をつけた以上、偽手紙を書いてばれたみっともない咎(とが)を許してもらう綱渡りの状況の中で、「母親の同行」で書いたことへの最低限の筋を通す必要がどうしてもあったのではないだろうか。そんな経験のある方はほとんどおられないだろうが、経営に反発して自分から辞めたいと申し出たサラリーマンごときに世間はそう甘くないのである。レオポルドにとっては人生の汚点であるこの顛末が手紙によって音楽史に刻まれようなど思いもよらなかったろうが、自分の身を守るため当局に魂胆をさらに読まれる危険のある言動は断じて慎んだに違いない。だから文献が残っていようはずもなく学者の立場にある方がとりあうことはできない。幸いにして僕は素人であり、さらに「自分から辞めたい」の申し出を3度やったことがあり、経験から補完して察している。もしそうならレオポルドの後悔はいかばかりだったろう。

そんな激動の中で息子が書いたのがK.275だったのである。大司教の「45分以内」の注文に添う、むしろ反抗かあてつけとさえ思えるわずか20分の異形のミサである。他の都市での売りこみ商品にしようという意図はあまり感じられない。ではなぜ書いたのだろう?母との旅路の平穏を神に祈るためだろう。旅路というより、異国も外国語も知らぬ可哀想な母の無事である。しかし神の加護はなかった。母は思いもよらぬ厳しい馬車の旅、見慣れぬ土地での不安、寒い冬、貧しい宿と食事に疲労困憊し、病となり、翌年の7月3日にパリで客死してしまう。それほど無謀な計画を履行するほどモーツァルト家は権力に平伏し、しかし息子の栄達への願望と確信はレオポルドの心中では我が事になっていたのである。

僕はこの曲が大好きであり、何十回聴いたことか。祈りはキリエのソプラノ独唱で始まる。Vnの「ンタタタ」で気分は軽く、最後のタで弱起するソプラノもスキップのように浮き浮きはずむ。極めて肯定的に、「僕と母は大丈夫ですよね、いいことありますように」と旅路の平穏を神に祈る。すると3小節目、テュッティで合唱が神の声で、強起で決然と、「そうだ、いいことあるぞ!」と歓喜の爆発で答えてくれる。彼はこの安心を心から求めていたんだろう。こうしてKyrie eleisonが2度繰り返される。

ところがChriste eleisonになると曲想はハ短調に暗転し「そうはいっても危険はあるよ、気をつけなくっちゃね」となりもう一度明るくKyrie eleisonを歌った次、二度目のChriste eleisonが下の楽譜になる。ソプラノの移動ドで読んだ変ロ長調のファが予想外に半音上がってふわっと宙に浮かんだ感じになり、次の小節で戻りバスが半音下がって陰る。和声進行で示すならB♭、C、F、Fm、B♭、E♭だ。この部分を聴くたびに僕は「いいことあるぞ!」と一瞬にして希望に胸をふくらませ、一瞬にして雲間にそれが陰る情動の揺れにおののく。まるで魔法のように。

音楽に理屈はない。美味に舌がとろけたり香水で華やかな気分になったりするようなものだが、ほんの一瞬に過ぎ去るこの和声進行は僕は彼の作品で他に知らない。少なくとも、例えば、4音のジュピター音型やアマデウスコードなら若い頃から複数の場面で使っているのにこれはそれがない。どうしてこんな素敵なものが降ってきたのか?どうしてこれを繁用しなかったのか?奇跡と贅沢が謎となって耳にこびりつく。こういうことをもってモーツァルトが天才だというなら反論の余地もなく、彼は今をもってしても人類唯一無二の作曲家だと思う。

僕にとって大事なのは、モーツァルトも魔法を感じたからこう書いたのだろうということだ。かように、彼ほど精神の合一感を与えてくれる作曲派は僕には他にいない。それを見つけることこそがモーツァルトを聴く喜びであり、皆様にとってどうかはわからないし、それを喚起する曲がケッヘル何番かも人それぞれなのだろうと思う。

もしそう意図してこの場所にこの音符を置いたなら、キリエは旅立ちの祈りにふさわしい、というより、僕にとってそれ以外に解釈のしようがない。平穏を神に祈り、祝福されている喜び。ザルツブルグの気障りで不愉快な空気から脱して、翼が生えたように自由の身となって、ミュンヘンやマンハイムやパリで大チャンスをつかんでやるぞという21才の、Christe eleison(キリスト憐れみたまえ)を突き抜けた幸福への憧憬、極楽への希求がありありと感じられる。

そう思うのは僕だけだろうか?それほどの魔法である和声進行B♭、C、F、Fm、B♭、E♭の効果に他に気がついた人はいないのだろうか?いや、そうではない。いる。どこかで聴いたことがある。弾いているとわかった。これだ。

皆さんご存じの「サウンド・オブ・ミュージック」の「クライム・エヴリ・マウンテン」だ。これも教会音楽の設定であり、なんとこれも変ロ長調だからまったく同じ和声進行。ミュージカル作曲家のリチャード・ロジャースがK.275を知っていたかは不明だが、オーケストレーターでナディア・ブーランジェに師事し、ガーシュインやラフマニノフと仕事をしたロバート・ラッセル・ベネットが知らなかったとは考えにくい。パリに意気揚々と向かうモーツァルト、Climb every mountain!

1777年のモーツァルト

K.275の和声、リズムについて細かいことを書くときりがない。神は細部に宿っているとだけ書いておく。しかしモーツァルトはブルックナーのように神や信仰を描くのではなく、まったく人間くさい。構造的には定型的なミサのラテン語歌詞につけてはいるが作法はまるで無視で、対位法より圧倒的に和声の音楽だ。くそうるさいコロレド大司教へのあてつけと取る人がいるのもごもっとも。アニュス・デイはまるでオペラで、これを教会の冒涜と怒る輩が出たのも仕方ない。しかし使っている和声は後期ロマン派を聴き尽くした耳も飽きることがなく、ケッヘル番号200番代でこの域というのは驚くしかない。作法は無視でも全曲を聴き通すと一個の作品として凝縮した感性を味わうことになる。そうしたきき方を宗教家、保守本流の学者・評論家が許容しないことは知っているが僕はそうしたドグマから自由な立場で楽しむ鑑賞者だ。自由な彼の精神は縛られた耳では感知できない。父子のやりとりの手紙。天才の日々や精神活動を知る克明で大量の一次資料がこれほど残るケースは稀有で、だからこそモーツァルトは「後世にこぞって語られる存在」であったのだが、必ずしも音楽を深くは知らない人々も多く参加し、200年のうちに人口に膾炙した一人歩きの物語ができ、それもまたドグマとなり、固定したモーツァルト像を形成してしまっている。僕は手に入る一次資料、研究、学説はほぼ読破しているがだからどうということはない。自分の耳と感性であれっと思うことがたくさんあるからで、本稿はその一例である。

ロマン派のように開始するアニュス・デイはアレグロ・モデラートに転じる第26小節から第175小節の終結に至るまで歌詞はドナ・ノービス・パーチェム (Dona nobis pacem、われらに平和を与えたまえ)の繰り返しで、その言葉こそが彼がこの曲にこめた願いだろう。最後、つまり全曲の結尾がピアニッシモで、まるで彼と母を乗せた馬車が晩秋の霧の彼方にひっそりと消えていくようではないか。

ずっとのち、1791年のことになる。身重の妻コンスタンツェにスパ療養を必要としていたモーツァルトは、温泉地バーデン・バイ・ウィーンに宿泊施設を見つけてくれたバーデン聖シュテファン教会の楽長アントン・シュトールの求めで、自身の指揮でK.275を演奏した。それがこの写真の場所だ。7月10日の日曜日だ。母の命日は7月3日。そして彼は5か月後に母のもとに旅立った。

Baden-Kirche St. Stephan

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ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5

2025 JAN 27 3:03:31 am by 東 賢太郎

ハイドン(1732 – 1809)が「シュトルム・ウント・ドラング」的な特徴をそなえた楽曲を1768年~1773年(36~41才)頃に多作したことを前稿に書きました。シュテファン教会合唱団で歌っていた少年時代にC.P.E.バッハの楽譜を研究した成果です。ハイドンの現存する最初期の曲は、変声期で合唱団を解雇された1750年(18才)ごろ書いた『ミサ・ブレヴィス ヘ長調(Hob. XXII:1)』です。

この頃から作曲を始めて認められ、1757年(25才)ごろボヘミアのカール・モルツィン伯爵の宮廷楽長の職に就きプロの作曲家となります。ここで約15曲の交響曲を含む作曲をし、1761年(29才)にハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長のポストを得て、1766年(34才)には楽長に昇進。これこそがハイドンのみならず音楽史にとって最大級の僥倖でした。曲作りの過程で音響の「実験」「冒険」をできるマイ・オーケストラを持っていた恵まれた作曲家は他にいません。そうしてかねてよりのC.P.E.バッハの楽譜研究を2年あまり重ねたことを自身で「私を知る人は誰でも、私がエマヌエル・バッハに多大な借りがあること、彼を理解し熱心に研究したことに気づくに違いない」と述べ、1768年(36才)ごろ「いわゆるシュトルム・ウント・ドラング期」に突入するのです。

その最大の成果のひとつが1772年に作曲した6曲の「太陽四重奏曲」作品20です。特筆すべきことはその第1番変ホ長調をベートーベンが筆写し、ブラームスが全曲の楽譜を所有していたことでしょう。この執着はハイドンがC.P.E.バッハから吸収したエッセンスが「太陽四重奏曲」にあるという関心に発していたのではと思うからです。ふたりのC.P.E.バッハへの評価は以下の史実で伺えます。ベートーベンは「私は彼のクラヴィーア曲を少数しか保有していないが、その幾つかはすべての真の芸術家に高度な歓びを与えるだけでなく研究対象にもなる」(ブライトコプフ&ヘルテル社への手紙)と称え、ブラームスは師匠のシューマンが「大バッハに著しく劣る」と無視したのに対し、高く評価して一部を校訂までしたことです。

ベートーベンが筆写した「太陽四重奏曲」第1番変ホ長調です。

ベートーベンがC.P.E.バッハから受け継ぐものがあると感じさせる例もひとつ。鍵盤ソナタH283、自由幻想曲、ロンド(1785年) – ハ短調の鍵盤のためのロンド(Wq 59:4)です。

ベートーベンはピアノ・ソナタ第1番へ短調(1795年)をこう始めます。

このソナタはいみじくもハイドンに捧げられています。師の向こうにC.P.E.バッハが透かし彫りのように浮かんでいる、そう聞こえてなりません。

Gottfried Freiherr van Swieten

プロテスタントのC.P.E.バッハをカソリックのウィーンに紹介したのはモーツァルトの庇護者でもあったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵です。ハイドンがC.P.E.バッハのクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論』を学んだのがスヴィーテンの影響かどうかはわかりませんが、同書第一部発刊時(1753年)に彼はウィーンにおり、21才のハイドンは作曲の勉強中でした。ずっと後年のことですが「天地創造」「四季」の創作に関わり、ハイドンの遺産の中には大バッハの「ロ短調ミサ曲」と「平均律クラヴィーア曲集第二集」の筆写楽譜があったことからスヴィーテンとの深い交友があったことは事実です。

ではモーツァルトはどうでしょう?彼はリアルに太陽四重奏曲から学習しています。6曲から成る「ウィーン四重奏曲」(K.168~173)がその成果です。その経緯に関し多くの学者が与える評価が2つあります。①C.P.E.バッハを消化吸収した40才のハイドンの円熟と「とんがった」技法、➁それをウィーンで目の当たりにして父とのイタリア楽旅で得た自信を粉々にされた17才の当惑です。①の形容こそが再三僕が辟易している「シュトルム・ウント・ドラング」であり、➁からウィーン四重奏曲は過渡期の作品と結論を導き出すのです。しかし、K.626まで知った我々の耳にそうきこえるのは当たり前でしょう。ウィーン四重奏曲は喩えるなら高校生の大谷翔平の投球です。彼が甲子園に出て当惑した云々は本質に関係ない大衆向け解説であって、スカウトの目で彼の球質を観ることでいろいろな物事が見えてきます。例えば第1番(弦楽四重奏曲第8番ヘ長調K.168)のスコアなど驚嘆以外の何物でもありませんし、それを当時のウィーン人がアプリシエートしたとは思えない暗澹たる気持ちも入り混じります。お聴きください。

第2楽章の主題はハイドンの太陽四重奏曲の第6曲、弦楽四重奏曲第35番ヘ短調の第4楽章からの引用でしょう。

これを作曲することになる3度目のウィーン旅行は、父子が宮廷楽長ガスマンが病気で倒れたと知ってチャンスだと出向いたものでした。ウィーン四重奏曲を息子の尻を叩いて書かせマリア・テレジア皇太后に拝謁までしましたが、その御仁こそがアンチの胴元だったのだから仕官できるはずないのです。この夜の女王みたいに恐ろし気な女性と小物役人以外の何物でもないザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド。ふたりの権力者の壁に人生を阻まれたモーツァルトは気の毒でしかありません。しかしそれも犯人を知って推理小説を読むようなもの。「馬鹿どもはまあどこでだって物分かりがよくはありません!」と妻に手紙を書いたレオポルド氏に共感しますが、しかし、この曲集、当時のウィーンでは馬耳東風だったろうなあという虚無感を僕は禁じえません。後世のモーツァルト学者、文筆家のほとんどがミラノ楽旅で学んだイタリア式四重奏曲との断層を論じます。それは正しい。しかし決定的に間違いであるのは、これを「ウィーン四重奏曲」と安直に呼ぶあんまりインテリジェントでない土壌のうえで論評していることです。モーツァルトを圧倒し、狼狽させ、模倣・引用しようと奮い立たせたのはウイーン式でもウィーン四重奏でも何でもなく「ハイドン式」である。これが本稿を貫く僕の主張です。しかも、そのハイドンも、それを創造したのはウィーンではなくハンガリーなのです。エステルハージ家でC.P.E.バッハ研究から吸収した創造物をマイ・オーケストラで「冒険」「実験」できた。そんな理想郷のような工房を所有した大作曲家はハイドン以外にひとりもいません。だからハイドンのエステルハージ家の楽長就任を僕は「音楽史にとって最大級の僥倖でした」と書いたわけです。ここにおける我が結論は①いかに太陽四重奏曲が先進的だったか➁それに即座に反応・対応したモーツァルトのエンジニア能力がいかに図抜けていたかの2点。それだけです。

特に第13番ニ短調 K. 173は “短調” かつ “フーガ付き” というハイドンが売りにしようと目論んだ特徴をフル装備しており、第4楽章の半音階のフーガ主題はウェーベルンさながらで初めてのときは驚いたものです。21世紀の耳でそれですから当時の聴衆の度肝を抜いたはずですが春の祭典のような騒動にならず静かに無視。それがウィーンです。だから彼も感動を喚起しようと思って書いてない。あくまで高度な技術のデモで、それを評価できる人はウィーン中を探してもヨーゼフ・ハイドンしかいなかったことをわかっていたと思います。17才が40才を凌ぐとすれば円熟味のようなものではなく技術の切れ味しかないことを父子は理解していました。しかし息子はともかく父の政治的センスがなかったですね。人事は学歴やTOEICの点数だけでは決まらない、つまり作戦ミスなんですが、家の財政事情や揺るぎない向上心で一気にトップを狙い、失敗した。いいんじゃないですか、人生一度っきりだし。

後世のベートーベン、ブラームスがハイドンの太陽四重奏曲に関心を持ったのはなぜかという話に戻ると、C.P.E.バッハのエッセンスをハイドンが消化吸収し、それを自己同化することでさらに新しい音楽が創造できる可能性を17才のモーツァルトが証明したことが背景にあったのではないか。二人にとってモーツァルトは神ですから、神が崇めたものに神性を感じたかもしれませんが、決して骨董品を愛でる類いの関心ではなく「お前はハイドンのスコアに何を見出せるか」という、自分が計られるような関心(もしくは不安)があったと想像するのです。それなくしてベートーベンが筆写するとは思えません。その解答集がウィーン四重奏曲ですから彼らは当然こちらも微細に調べてます。特許を競うエンジニアとはそういうものだからです。モーツァルトの当惑を聞き取るのも一興かもしれませんが、彼はそういう関心のもたれ方にそぐわしい文学青年ではなく、文学青年を泣かせる名人の技術者であったということです。

弦楽四重奏曲第13番 ニ短調 K. 173(1773年)をお聴きください。

モーツァルトにこれを書く衝動を与えた作品は太陽四重奏曲(1772年)6曲のうちのどれでしょうか?第35番作品20-5ヘ短調と思います。何故なら、K. 173にとどまらず、これを研究した痕跡と思われるものが1782~1785年に作曲した「ハイドン・セット」に多く刻み込まれているからです。そしてこの曲を僕はハイドンの弦楽四重奏曲の最高傑作のひとつと考えております。お聴きください。

第35番作品20-5ヘ短調の痕跡を列挙しましょう。出だしからいきなり連想されるのは弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(ハイドン・セット第2番)です。第2楽章メヌエット主題の結尾のバス、およびヘ長調のトリオ主題は同第19番ハ長調K.465「不協和音」(同第6番)の第3楽章メヌエットで(両者ともあまりの相似に驚きます)、K.421の第4楽章、最後から二番目の変奏(ニ長調)に第2楽章メヌエット主題の結尾が再び現れます。第3楽章冒頭はピアノ協奏曲第23番K.488 第2楽章冒頭のリズム(シチリアーノ)です。太陽四重奏曲で第35番作品20-5ヘ短調ほど引用された曲は他にありません。いかがでしょうか?痕跡はその作曲家について多くのことを教えてくれるのです。

Nancy Storace

ハイドンはウィーンの「フィガロハウス」でK.421、K.465を試演しています。添えられた手紙と共にモーツァルトの敬意と自負を知ったでしょう。キャリアの絶頂にあったモーツァルトですが、トルコ戦争で貴族がウィーン不在となって収入が激減します。別な大都市に活路を見出そうと考えるのは当然のことでしょう。そこにフィガロのスザンナ役の創唱歌手で懇意の英国人ナンシー・ストレースが「ロンドンにおいでよ!」と誘っていました。「OK!フィガロは自信あるよ。ピアノ協奏曲は3つ(第22,23,24番)ある、でもハイドンさんお得意の交響曲が足りないなあ。よし!」そこで、ハイドンセット作曲の経緯を思い出し、ハイドンに取り立ててもらおうと全身全霊をこめて書き上げたのが第39,40,41番の「三大交響曲」だった。これ以外に、彼にとって極めて異例である「誰の依頼もない力作」が3つセットで現れた理由をどなたか説明できるでしょうか?。調性は変ホ長調、ト短調、ハ長調でした。ハイドンセットのお手本になった太陽四重奏曲の第1,2,3番も変ホ長調、ハ長調、ト短調です。これが偶然でしょうか?

以下は東説です。証拠はないため推理です。

ハイドンはモーツァルトの意向を知っていました(別れの会食で他に何の話題があったでしょう?)。三大交響曲のうち41番ハ長調はクラリネットなしです。ハイドンも98番まで「クラぬき」で書いています。ザロモンのオケにはクラリネットがなかったのです。奏者はいましたが採用しませんでした。クラ入り交響曲はモーツァルトのトレードマークだからです。ところが、モーツァルトが亡くなると99番から「クラ入り」で作曲し始めるのです。偶然でしょうか?

作曲中だった98番第2楽章に英国国歌と41番第2楽章を引用したことはモーツァルトの訃報への弔意と思われます。問題はなぜ引用できたかです。スコアを持っていたからです。国内でさえ初演記録のない同曲です。演奏のあてのないロンドンで写譜される事態をモーツァルトが許容する理由はありません。ということはモーツァルトから全幅の信頼のもとに手渡されていたのです。ザロモンのオケで即演奏可能なスコアです、できれば演奏してほしいという含みでもって。この行為は6曲の弦楽四重奏曲を手紙を添えて献呈した1785年の「ハイドンセット」とまったく同じです。ハイドンがそれを演奏、紹介などで広めた形跡はありません。しかしモーツァルトは敬意を示した唯一の作曲家であるハイドンがメンターでいてくれることを死ぬまで疑いませんでした。

ハイドンはモーツァルトの1才年下の弟子イグナツ・プレイエルが1791年にロンドンでザロモンのライバル興行主に雇われ、人気を二分され、プレイエルはその成功でストラスブールにお城を買いました。もしモーツァルトが海を渡ってきたら?もし41番のスコアがザロモンの手に渡ったら?今回が最後の渡英と悟っている60才の老人が脅威を感じない方が不思議ではないでしょうか?プレイエルは後に自分の名を冠したピアノ製造会社創業者として著名になります。モーツァルトの41番は人類の宝として著名になります。そのスコアを見て怖れを懐かなかったという仮定ほど交響曲の父に対する愚弄はないというのが拙考です。

最後にハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調のもうひとつの興味深い事実を記して本稿を閉じようと思います。同曲第4楽章フーガ主題はヘンデル「メサイア」25番「主の受けられた傷によって」の引用であることにお気づきでしょうか。メサイアは言うまでもなく、ダブリンで初演され英語で歌われる「英国音楽」です。英国に渡って名を成したドイツ人作曲家は3人います。ヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンです。後の二人にモーツァルトは個人的に関わっており、4人目として名を連ねることに抵抗はなかったでしょう。私事ですが、僕は6年ロンドンに住んでクラシック愛好家の英国人先達たちから多くの教えを受けました。そのひとつが「モーツァルトはロンドンに来るべきだった」なのです。

モーツァルトにとってメサイアは特別な音楽でした。その25番を17才のモーツァルトが「ウィーン四重奏曲」の1番K.168に引用したビデオは既にお示ししましたが、それがハイドン作品からか直接メサイアからかは不明です。メサイアのドイツ初演は作品20-5作曲と同年の1772年ににハンブルグで行われています。スヴィーテンは1777年まで駐ベルリン大使で、スコアはC.P.E.バッハ経由でウィーンにあった可能性は否定できませんが、私見ではハイドン「太陽四重奏曲」第6曲からの引用と考えます。モーツァルトは英国滞在中にメサイアを知っており、ハイドンの引用に気づき、それを見抜いたアピールで引用した可能性もあると思います。

そのうえ、1789年3月にスヴィーテンの依頼でメサイアの独語による管弦楽改定版を作っており、この作業でメサイアはドイツ音楽にもなりました。25番は縁の深い旋律だったのです。そして、それが「レクイエム」のキリエになった。弟子による若干の補筆を伴うだけで、キリエはモーツァルトの真筆であることが判明しています。委嘱されたのは最後の年の夏ですが、オペラ『ティトの仁慈』『魔笛』の作曲がありとりかかったのは10月と推察されています。1か月後にあの世に行くと思っていなかった彼が何をもってメサイアを引用したのか。いろいろ思いは巡りますね。

ヘンデル「メサイア」25番

ハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調第4楽章

モーツァルト「レクイエム」よりキリエ

 

(ご参考)

モーツァルトの謎『レジナ・チェリ K.276』

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ハイドンと『パルメニデスの有』

2025 JAN 20 16:16:20 pm by 東 賢太郎

ハイドンが40才で作曲した太陽四重奏曲Op.20を鑑賞したのは、2005年に買ったウルブリヒ弦楽四重奏団のCDで目覚めてからです。シューベルトやモーツァルトが亡くなった年をこえて完成されている作品にそうなってしまったのはなぜか。理由は3つあります。①ジャンルでカウントするので作品番号20が若書きに見えた➁曲名が意味不明(出版時の表紙に太陽の絵があっただけ)③シュトルム・ウント・ドラング期という解説が不勉強で意味不明。

ということで、要は「高級品」に見えず食わず嫌いしていたのです。そんな曲を長時間かけてきく意味を感じませんし、レコード屋でなけなしの金で何を買おうかとなって、並み居る高級品の中でそう思えない2枚組を選ぶことは50才になるまで一度もなかった、そういうことです。僕において高級とは希少性や値段の意味ではありません。英語ではluxury, premium, high-endなどですが、やっぱりどれでもない。高級の「級」は段階、「高」は比較で、それは受け取る人間が判定します。同じワインを飲んでどう思うかは十人十色で、皆さんが「赤い」と思っている色彩もそうであることがわかっています。つまり、判定している対象物は「あるがまま」で一個ですが、している人間が十人十色なのです。

Parmenidēs

この「ある」(有る)を突き詰めた思想家がパルメニデス(BC515/10〜450/45頃以降)です。大学で最も難解だった授業というと、哲学の井上忠先生による『パルメニデスの有』に関する講義をおいてありません。これが日本語と思えぬほどまったくわからない。ソクラテス以前の思想が理解できないショックは駒場のクラス全員が少なからず共有したのではないでしょうか。なんでこんなわけわからんものをと思いましたが、あれはたぶん思考訓練だったんですね。叙事詩の解釈が哲学になり、完全なものは球体をしているなんて宇宙的な命題が忽然と表明される。そういう講義は寝るんですが、先生の訥々とした話しでシュールな時間が流れ、打算なくそれに浸るのが教養だという贅沢感を噛みしめました。はっきりいって講義内容はほとんど理解しませんでしたが哲学は面白そうだという直感と、ギリシャ行きてえなあという夢が沸き起こりました。10年後に真夏のパルテノン神殿に立った時の心の底から噴き出す歓びは昨日のことのように覚えてます。

無知を悟り、これを端緒に哲学をかじり、「有るは認識」の理解に至ります。アリストテレスの『形而上学』につながること、言語が与える思考の呪縛は現代でも世界を支配しているという理解は生きる上で有益でした。感覚よりも理性(ロゴス)を優先する理性主義もロゴス=言語ですから明快に定義された言語によって進められるべきで、古代ギリシャの政治がそうだったし現代もディベートが基本でない国は西洋にありません。G7国だと自慢するならそれなしに民主主義などあり得ないわけで、言語で政策も語れない総理大臣が選ばれる日本とは何なのか、非常に示唆に富みます。ご興味ある方は先生の学位論文要旨をどうぞ。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=213152

ワインはパーカーの点数が高ければ誰にもおいしいわけではないです。十人十色では収拾がつかないので多数派がいいね!と言うと「おいしい」というタグを貼るのです。それが「級」で、いいね!が六人より七人が上、これが「高」です。両方合わさって「高級」。レコード屋でなけなしの金で買う最低基準より上のクオリティの音楽。これが僕の「高級な音楽」の定義で、太陽四重奏曲は3つの誤解で「不合格」にしたという失敗例をお示ししました。クラシックといってもベートーベンすらまったく感動できない作品はあるし、人間だから性の合わない作曲家もあるし、そういう曲を僕がブログに書く意味がありません。「名曲名盤おすすめ」みたいな本がありますが、本になるほどたくさんのおすすめ曲がある人は「合格点のバーが低い」わけで、クラシックという嗜好品でそれとなると太陽の絵で楽譜を買う人向けということになりましょう。

LP、CDの音源を所有する楽曲のカードは家に約300枚あります。感動できない作品、性の合わない作曲家の作品もあるとはいえpetrucci等で楽譜も調べて耳と目で楽曲をそこそこ記憶しております。ここまで行くと消費した時間もそれなりで、本業には微塵も関係ないのに人生をかけてしまったホビーでした。それでもブログに残したいのは旅行記のようなものだからです。面白いという方がおられればそれはそれですが99%は自己満足です。元気ならば半分の150曲ぐらい、深く書きたいのはもう半分の7~80曲程度でしょうか。僕はプラトンのイデア論の信奉者ですから感動の根源は100%楽曲にあると考える主義で、つまらない曲だって何度も聴けばわかるという経験論は否定します。パルメニデスの説くとおり「無が有ることはない」のです。

演奏なしでは楽曲は認識できませんが、ストヴィンスキーが述べたとおり「鐘は突けば鳴る」で、正確にリアライズすれば感動できるように楽曲はできています。だから演奏はよほど酷くなければ良し。毎日ピアノに向かってシューベルトとラヴェルを弾きますが、そんなレベルでも感動。そうなるように音を組成する作業がコンポジション(「一緒に置く」「組み立てる」が原意)で、どっちも指が感じる「いい所に音を置いてるなあ・・」という匠の技への感動なのです。あらゆる芸術家の中で作曲家と建築家はエンジニアであるというのが僕の持論です。エンジニアは理系です。モーツァルトはひらめき型の天才ではありますが、ベースとなった能力は卓越したエンジニア的学習能力で、3才で精巧な大型プラモデルの設計図を読み解いてあっという間に組み立ててしまう類いの神童であり、それが魔笛やレクイエムを生んだわけではありませんが、それがなければあの高みまでは至らなかったでしょう。「可愛らしいロココのモーツァルト」的な表現は僕からは千年たっても出ません。あっても一時の装いで彼の作曲の本質に些かの関係もありません。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732 – 1809)が18世紀後半にかけてシュトルム・ウント・ドラング期を生きた人であるのは事実です。絶対王政時代のバロック音楽(厳格なポリフォ二ー音楽)を脱した旋律+伴奏の「ギャラント様式」(ホモフォニー音楽)の装飾や走句を多用する明るく明快な音楽がフランスに現れますが、羽目をはずさない均整の取れた音楽であり、そうではなく、主観的、感情的スパイスを加えて気分の急激な変化や対立を盛り込もうという「多感様式」のホモフォニー音楽が北ドイツに現れます。これが同時期にドイツ文学に出現した概念を援用してシュトルム・ウント・ドラングとも呼ばれるものです。代表格とされる作曲家は大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788、以下C.P.E.バッハ)です。ウィーン少年合唱団員だったハイドンは音楽理論と作曲の体系的な訓練を受けておらず独学でしたが、名著で知られるフックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』の対位法と、後に重要な影響を受けたと認めるC.P.E.バッハの作品を研究したことが知られています。

独学をベースに古典派を形成して弦楽四重奏、交響曲で「父」の称号が与えられるハイドンのエンジニアリング能力も驚くべきですが、「音楽家は自分自身が感動しなければ、他人を感動させることはできない」と主張したC.P.E.バッハの影響下でソナタに短調楽章やフーガを入れるなど「多感様式」の特徴を取り入れた音楽を書いたのも事実です。問題はそれを1770年代後半の文学運動に対する語に当てはめて呼ぶかどうか、それに何か看過できぬ理由や鑑賞への利益があるかどうかというだけです。C.P.E.バッハの影響はモーツァルトにもあることから、私見は否定的です。明白な痕跡として、1753年作曲の6つのクラヴィーア・ソナタより第6番ヘ短調(Wq.63-6)の第1楽章をお聴きください。

ピアノ協奏曲第20番K.466第2楽章で激しい短調になる中間部に現れる印象的な和声進行が聴きとれます。ソナタに短調楽章やフーガを入れるばかりかC.P.E.バッハを1785年に引用までしてるのですから、外形的には「モーツァルトはシュトルム・ウント・ドラングの作曲家だ」と主張しても誤りではないですが、少なくともそうレッテルを張る人を知りませんから同じ外形のハイドンだけにそう主張する根拠もありません。モーツァルトはハイドンを模したとされますが、K.466の例はハイドン経由でなくC.P.E.バッハの直輸入です。

二人は親子ほどの年齢差があるという反論がありそうですが、彼にはハイドンより13才年上の図抜けて有能な父親というマネージャーがいたため著名作曲家の楽譜へのアクセス環境は劣らず、息子の学習能力はこれまた図抜けていたのです(父子で当たり前のように交わしていた他人の楽譜の品評が書簡集で確認できます)。ハイドンは温和な性格でモーツァルトと友好関係にあったことは、一緒に四重奏を演奏し、その勧めでフリーメ―ソンに入るなどから事実でしょう。しかし弟子にしたイグナス・プレイエルほどのメンターシップを見せるまでではなく(そこはレオポルドへの配慮かもしれませんが)、仲は良くとも能力が拮抗したエンジニア同士ですから、テスラとエジソンではありませんが、二人はC.P.E.バッハの様式の導入においてライバル関係にもあったと考えるのは不自然でないでしょう。

ハイドンは1768年~1773年頃にシュトルム・ウント・ドラング期とされる特徴をそなえた楽曲を多作します(交響曲第26~65番、太陽四重奏曲を含む)。それが12~18才のモーツァルトの研究対象となったことは間違いありませんが、なぜハイドンが舵を切ったかは諸説あります。最も信頼できるのは1776年の自伝にある以下の言葉です。

私は(エステルハージ侯爵の)承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができた。

この発言、とりわけ「実験」(Experimenten)という言葉ほど、彼が(作曲家がと言ってもいい)エンジニアで理系の資質の人であるという僕の主張を裏付けるものはありません。こういう人の行動や事跡をあらゆる文系的な要素だけを取り出して解釈するのは、はっきり書きますが間違いです(僕もそういう人間なので)。彼はウィーン合唱団時代からC.P.E.バッハを研究して影響があったことを認めていますが、自分はさらに冒険したのだ、世間から孤立した私には、自分を疑わせたり、困らせたりする人が近くにいなかったので、私はオリジナルになることを余儀なくされた、と断言している孤高の人なのです。その意味で、モーツァルトも同様です。唯一ちがうのは、彼は大バッハ、その息子たち、ヘンデル、ハイドン以外の作曲家は父も含めて歯牙にもかけずオリジナルになったことです。後世の学者を含めた普通の人が想像する世の中の風潮、他愛ない流行、良好とされる人間関係、思慕の念の如きものを僕は一切排除してザッハリヒに物を見ます。才能が才能を知る。「あるもの(有/在、ト・エオン)はあり、あらぬもの(非有/不在、ト・メー・エオン)はあらぬ」(パルメニデス)。

 

ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5

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モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調k488

2025 JAN 12 23:23:07 pm by 東 賢太郎

この協奏曲はモーツァルトが書いたコンチェルトのうちでも完成度が高く、結果としてその域に至った作品は幾つかあるが、意図してそこまで磨き上げたという意味で最高だろう。神品を最高の演奏で味わいたい人は1976年にリリースされたポリーニとベーム / ウィーン・フィルによるDG盤をお聴きになるがいい。この天国のように美しい演奏に加える言葉はない。極上のモーツァルトがどんなものか、ムジークフェラインのウィーン・フィルがどういう音か知りたい人、天上の調べに癒されたい人、疲れている人、ぜひこれをヘッドホンで目をつぶってお聴きになられるといい。

同一箇所(Mov1)の第一ホルンに微細な特徴があり、youtubeにあがったこのライブと同じ音源だろうと思われる。ポリーニが若い(34才)。日本ではテクニックだけ扱いされていたが節穴の耳としか言いようがない。ピアノはスタインウエイだ。

K.488のレコードを買ったのは大学2年のこと。4月に世評の高かったハスキル、パウル・ザッヒャー盤、5月に評論家宇野功芳氏が激賞していたハイドシェック、ヴェンデルノート盤だ。曲はすぐ好きになったが、最終的にジュピターを46種類、オペラである魔笛を19種類集めたことからすると21種類と特に多くない。ハスキル盤は悪くないが録音が貧弱、ハイドシェックのピアノはMov3の天馬空を行く快演ぶりは大いに気に入ったが、Mov1は伴奏(パリ音楽院管弦楽団)ががさつでテンポも落ち着かず、フランスの管のバランスがモーツァルトらしくなく、Mov2は速すぎ、なによりMov1のカデンツァを自作にしているのが意に添わない。

というわけで深入りすることはなくLPはのちにロンドンでブレンデル、マリナー盤とポリーニ、ベーム盤(左)の2枚を買っただけだ。ポリーニを聴いてるのだがリストでは無印で感動してない。ベームの穏健、盤石なテンポが凡庸に聞こえた。そうでないとこの曲の各所に散りばめられた短調の翳りは死んでしまうのだが、ハイドシェックの快速のMov3が耳に残っており、そういうものという固定観念ができてしまっていた。

K.488はアレグロ楽章にアダージョ楽章がはさまり、調性はイ長調-嬰ヘ短調-イ長調で何の変哲もない。しかし冒頭小節でいきなりⅠ⁷の和音(7thコード)が現れ、古典派らしからぬ佇まいで春風そよぐ朝のような第1主題が提示される。管弦楽の導入部で主題が4つ現れ、最後は憂いを湛えた嬰ヘ短調だ。ピアノが登場し4つをその順番で変奏するが、新しい主題がモーツァルトに珍しいホ短調で現れる。ここから再現部までずっと短調が支配するので第1主題が回帰するとほっとした気分になる。カデンツァは類のないほど緻密に書き取られており、他楽章にはなく、ソリストの遊びは限定される(冒頭はそういう意味だ)。コーダは徐々に脱力し最後は p で消え入るように終わり、興奮でなく静寂がやってくる。

第2楽章は虚空の中から立ち現れる。孤独を湛えたピアノのモノローグは、管弦楽が入るとクラリネットが悲痛な高音で歌い、なにやらとてつもない哀哭の涙に押し流される。ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調第2楽章を作曲者は「モーツァルトのクラリネット五重奏曲の助けを借りた」と述懐したが、私見では、借りたのはこの楽章だろう(長短調は逆転、彼一流の婉曲な真相ほのめかしと思料)。中間部は一抹の明るさを見せ、木管群のアンサンブルが饒舌だがやがてモノローグが戻り、6/8の律動が最後は2音符で断絶したように終わる。この終止は印象的だ。聴き手は再び虚空の闇に投げ出され、そこに第3楽章の煌めくばかりの陽光が不意に差し込むのである。これは魔笛でパミーナが悲嘆にくれて歌う “Ach Ich Fühls” の終結の2音を思い出す。この歌は前後をタミーノとパパゲーノのドタバタに挟まれて哀感が引き立つが、K.488第2楽章の配置も同様である(両者ともシチリアーナというリズムの共通項があることも特筆)。

第3楽章はオペラブッファのように明るく快活で心躍る。そこを短調の翳りがよぎり、何度聴いてもはっとさせられる。目にもとまらぬ展開に味の濃い和声が落としこまれるのに気づくが、一度や二度きいても何が起きたのか掴めない点、魔笛でモノスタトスがおどけて歌う快速のアリアのようだ。コーダにはアマデウスコードが繰り返されるが、これまた魔笛のザラストロ礼賛の合唱。魔笛の基調は変ホ長調、こちらはイ長調、同時に書いていた24番はハ短調でどれも♭か#が3つだ(メ―ソンの数字)。

逆転の発想だが、K.488を「フルート、クラリネット、ファゴット、ホルンが歌手でありクラヴィーアの賑やかなコンティヌオが付いているオペラ・ブッファ」と見ると同曲にトランペット、ティンパニが使用されない理由が想像できる。アントン・ヴァルター(1792年頃製作)モデルのピアノフォルテで弾くブッフビンダー、 アーノンクール盤だと、僕にはそう聞こえる。いかがだろう。

オーケストレーションの観点から興味深いのは、モーツァルトがピアノ協奏曲でオーボエの代わりにクラリネットを使っているのは第22番 K.482、第23番 K.488、第24番 K.491の3つだけという事実である。これについては別稿にしたい。

最近の愛聴盤はレオン・フライシャー / シュトゥットガルト室内管弦楽団(弾き振り)だ。フライシャーは16才でピエール・モントゥー / ニューヨーク・フィルと共演、シュナーベルに師事、ブルーノ・ワルターと同曲を録音しており、ジョージ・セルとの素晴らしいベートーベンなどで記憶に焼きついていた。ところが病で右手の自由を失い左手のピアニストになっていた。ここまで回復され素晴らしいモーツァルトを残して2020年に旅立たれたとは。フライシャー氏が偉大な先人たちから受け継いだ音楽がぎっしり詰まっているこれはポリーニ盤と双璧の大人の23番であり、オーケストラ、録音とも大変に素晴らしい。

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モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)

2024 DEC 9 23:23:09 pm by 東 賢太郎

この曲について何度か書こうと思ったがやめた。こういう音楽に軽々に物をいうのはどうかという気持ちになってしまったのだが、思えばそうやってこの曲を神棚に祭りあげてしまっていたのかもしれない。つい先日、ベルリンRIAS室内合唱団による一期一会の演奏に感嘆したことは前稿で述べた。ああいい曲だなあと心が安らぎ、やがて目がしらが熱くなって涙がこぼれてきて、あれ、なんで泣いてるんだろうと不思議に思うが、わけを知る間もなく音楽は淡々と流れ、一時の悲しみを見せつつ天空の棲み家にもどるが如くそっと消え去っていった。

なにかあちらの世に接したかのようだが、我に返ると心は滋味あふれる暖かい喜びでいっぱいに満たされているではないか。あの晩、サントリーホールでこうやって何人の人が泣いただろう。こんな経験が人生で何度できるだろう。半年後に世を去ったモーツァルトへの感謝は言うまでもないが、音楽という芸術がもつ意味深さ、崇高さというもの、それはお高くとまったクラシックの権威主義の表現ではなく、生身の人間に寄り添って安楽と希望と救済を与える霊的、スピリチュアルなものを包含している。

 

 

その間3分。46小節のアヴェ・ヴェルム・コルプスはピアノ譜にすればたった1ページのものだ。4、5時間もオペラハウスで頑張ってこんなに感動したことって何度ある?

 

 

 

この感じ、覚えがある。いちどだけ味わっている。フィレンツェのウフィツィ美術館で、ほんの数分ばかりのことだったと思うが、これの前にしばし立ってぼーっと眺めていた時の感覚だ。

ボッティチェリ!何だろうこの世界は?アインシュタインによるとこの宇宙は時間と空間が互いに関連し合って1つの四次元時空間になってるらしい。二次元的、静止画像的なのに触れそうにリアルな質感、重量感があるこの矛盾。それを啓蒙された21世紀の頭で考えず、あるがままに受け入れるとアヴェ・ヴェルム・コルプスの3分間になる。

しかし演奏会場を去り、美術館を後にすると、どうしても啓蒙された頭が働きだす。なぜこんなに感動するんだろう?小宇宙を調和させている隠された数理でもあるんじゃないか。ギリシャ彫刻の肉体美にはそれがあるらしいし、アヴェ・ヴェルムにあったら面白い。そこでいよいよ本稿にとりかかることにした。好奇心だ。それで人類はおろか僕ひとりですら幸福になるわけでもない。でも意味ない無駄に夢中になれるのは人間だけなのだ。

モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を初めて聴いたのは一橋中学の音楽の授業で森谷先生が選んだレコード鑑賞の時間だった。その中でボロディンの「中央アジアの草原にて」に衝撃を受けてクラシックの道に分け入ったのだから先生に感謝しかない。アヴェ・ヴェルムを聴いたことは、クラスメートのYが長い曲名を面白がって呪文のように何度も口にしていたから間違いない。そしてもっと間違いないことだが、肝心の音楽はさっぱり記憶にない。

ボロディンの衝撃は転調だったが、アヴェ・ヴェルムにも衝撃的な転調がひそんでいるのに、そっちの真価に気づくのに僕は20年もかかった。クラシックといえばモーツァルトとお気軽に言われているが、僕にとってはモーツァルトは難しい作曲家だった。思えばその年月はクラシック音楽の深奥に到達するまでの時間だったのだろう、まるで屋久島の千年杉のごとく、険しい山道を登ってやっとたどり着いた先に朧げに彼の姿があり、ああやっぱり特別な人なんだなあという感じなのだ。

しかし、神棚に祭りあげて思考停止は良くない。アヴェ・ヴェルムの出だしは歌詞にないアーヴェーのくり返しがあり、和声はD➡Em/dになる(一般化してⅠ➡Ⅱ)。これはヘンデルのオペラ「リナルド」のアリア「私を泣かせてください」(Lascia ch’io pianga)のパクリかとも思うがラ、ソ#、ソと2度半音降下するソプラノのメロディーラインで気づかない。どことなく似るドン・ジョヴァンニの「薬屋の歌」もバスをⅠ➡Ⅱにしており、スヴィーテンの図書館でヘンデルを研究したモーツァルトはLascia ch’io piangaが好きだったと思う。

ブルックナー4番の稿に、2005年12月末日の雪の日にウィーンに行ったことを書いた。シュテファン聖堂に近い楽譜店ドブリンガーでアヴェ・ヴェルムの自筆譜ファクシミリを見つけて欣喜雀躍して買ったのが昨日のようだ。

1ページの右上に自身が記したように、1791年6月17日(金曜日)、モーツァルトは身重の妻コンスタンツェがバーデンでのスパ滞在中の宿泊施設を見つけるのを助けてくれたバーデン・バイ・ウィーンのシュテファン教会楽長アントン・シュトールへの感謝として、バーデンの宿屋「ツム・ブルーメンシュトック」で上掲スコアを書いた。左は同教会のオルガンに昇る階段の入り口に掲げられたプレートである(モーツァルトも弾いたであろう)。楽長との関係はその義理の妹アントニア・フーバーがソプラノ・ソロを歌ったミサ曲変ロ長調K.275の演奏をモーツァルト自身が翌月7月10日(日曜日)に指揮したことで伺える。

アヴェ・ヴェルムが「魔笛」の作曲中に書かれたことはモーツァルトが同年6月11日(土曜日)にウィーンから妻へ綴った手紙からわかる。「今日、まったくの退屈しのぎにオペラのアリアをひとつ作った」。結びに「お前に1000回キッスをし、お前と一緒に心の中で言おうー “死と絶望がその人の報いだった”」とある。そのアリアはこれ(第2幕No.11)だ。

アヴェ・ヴェルムに「魔笛」の雰囲気を濃厚に感じるのは僕だけではないだろう。漠然と曲調がそう感じるともいえようが、細部に歴然と根拠がある。番号からして後に書かれただろう同じニ長調の第2幕No.18(O Isis und Osiris)はアヴェ・ヴェルムの特徴的な和声連結が現れるのが一例だ(0分16秒のA➡Gの連結、0分30秒Gmへの移行、1分53秒のD➡f# on G)。

アヴェ・ヴェルムはD(ニ長調)で始まりドミナントのA(イ長調)を経てF(ヘ長調)に印象的な転調をし、A7からDに帰還したと思いきや、さらにGmaj7、Em、A、F#m、Bm、E7、D、A、G、D7、Gm、D#dim、E7、A7、D、G、D、A、D、Bm、Em、D、A7sus4という想定外の旅路を経てD(ニ長調)に帰着し、闇の彼方に消える。これはニ長調のアマデウス・コードd, b, g(またはe), a、およびイ長調のアマデウス・コードa, f#, d(またはb), e上の三和音を組み合わせたものである。そこに f はない。いっぽう、魔笛の第2幕NO.10(ヘ長調)はFからf, e, dと下がる旋律がa#に、No.11(ハ長調)はF➡Aの連結があり、ヘ長調のアマデウス・コードf,  d,  b♭(またはg), cである。そこにa#はない。どちらも音列を外れた音で、それ上の三和音の登場は目立たないが音楽のディメンションを広げている。僕にはこれが「魔笛的」になる隠し味のように思える。

和声だけではない。アヴェ・ヴェルムが均整の取れたフォルムであることを象徴するのは、前から23番目、および後ろから23番目がこの2小節であることだ。

いわゆる「サビ」の入り、ニ長調からヘ長調へ転調する全曲のハイライトといえる魔法の瞬間がぴったり曲の折り目になっているのは、意図したものでないかもしれないがまるで奇跡を目撃したようだ。

キリスト教徒でないのに僕は宗教音楽が大好きだ。モーツァルトで最も好きなジャンルがそれで、次がオペラだ。宗教には駄洒落も猥談も出てこない。それ嫌いなのではないし、そういうモーツァルトがいけないというのでもない、生身の人間としての彼こそ愛すべき存在で音楽とは関係ない。ただ、いわゆるクラシック音楽というものの本質はシリアス(まじめ)さにあると僕は信じていて、金銭、名誉、情欲、お遊びなど世俗にまみれた精神を断ち切ったところにそそり立つ崖のように峻厳なものだけがシリアス・ミュージックと呼ばれ、いわゆるクラシックのほんの一部分を成す。

モーツァルトは生きるために機会音楽、娯楽音楽もたくさん書いたが大いにそういう面もあったのは信仰心と無縁でない。書簡集から彼のカソリック信仰への帰依が厚かったとは思えないが、神なる超越した存在を信じる心があったことは両親の最期に際しての言葉に読み取れる。フリーメーソンは宗教ではない。クリスチャンでもユダヤ教徒でも仏教徒でも受け入れるが、絶対超越の神の存在を信じることだけが要件だ。だから彼はメーソンに親和性を見出したし、僕もそれを信じるので違和感がない。唯一大事なのはシリアスなことである。ザルツブルグを去った彼は宗教曲を書かなくなり(書いても未完)、完成したほんのわずかな作品のひとつがアヴェ・ヴェルムだ。珠玉と呼ばずしてなんだろう。

パターソン氏とスヴィーテン男爵

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調

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人生で5指にはいる!第643回読響定期演奏会

2024 DEC 4 19:19:06 pm by 東 賢太郎

指揮=鈴木優人
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団

ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)

 

最高の演奏会であった。アンコールのアヴェ・ヴェルム・コルプスがはじまると同行のビジネスパートナーD氏とともに涙がこらえきれず。べリオは心の底から堪能(Mov3はマーラー3、ラ・ヴァルス、田園、海など響く)。8人の男女声楽ソリストの声、語り、騒音?をマイクで拡声、シェーンベルク「ピエロ」のシュプレヒシュティンメの発展形か(オケとの混合が非常に印象的)。通常オケの音場だがシアターピース的。めちゃくちゃ面白い!指揮、オケにも脱帽。

K.626は自分にとって特別な曲。ジュスマイヤー部分に落差はあるがモーツァルト模倣としてはまあ合格点と思えばいい(彼自身のレクイエムを聴けば良くやったと健闘を讃えたい)。うまいと思ったらベルリンRIAS室内合唱団!(プログラム見てない)。これが聴きたくて本シリーズを選んだ甲斐あった。ソプラノのジョアン・ランが格別に良し!オケともどもの古楽風のピュアな声は生命線であるピッチがお見事(この人のバロックオペラ、リサイタル関心あり)。べリオのソリストはK.626では合唱に加わり、アンコールではそのソリストも合唱に。ああやるなと思ったらニ短調からニ長調の世界が広がって暖かく包み込む。アヴェ・ヴェルム・コルプス(オケパート弾くのが大好きだ)。終演後、このプログラムにして異例のブラヴォーが止まず我々も感動のあまり最後まで残って絶賛の拍手。いかに演奏レベルが高かったか。D氏が「これ見て下さい」とスマホを開くとご自身のサイトのバックはアヴェ・ヴェルムのスコアである!「ちょっと飲みましょう」とパブに入り、K.626にまつわる数奇で神秘的な我が体感を語った。なんという日だろう。

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ベートーベン ピアノソナタ第28番イ長調 作品101

2024 NOV 8 23:23:51 pm by 東 賢太郎

1815年にインドネシアのタンボラ山で過去1600年間で最大規模の噴火があった。ポンペイを消滅させた79年のヴェスヴィオ山噴火の約20倍の規模で、広島型原爆の約52,000倍に相当するエネルギーであったと見積もられている。噴煙や火山灰が成層圏に達して火山性エアロゾルにより日射が遮られたため夏の気温が平年より4℃も低く7月4日には米国東海岸で降雪が、ハンガリーには茶色の雪が降り、イタリアでは1年を通して赤い雪が降った。大雨でライン川が洪水をおこして農作物が大被害を受け、暴動が相次ぎ、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出た。ナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つはこの大雨であるといわれ、1816年は欧米で近代史上最も寒い年として夏のない年(Year Without a Summerと命名されている。

噴火の3年前、1813年12月8日にベートーベンはウィーンにて「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い」作品91を自らの指揮で初演していた。別名「戦争交響曲」という。ナポレオンを賞賛し、当初は「ボナパルト」と題されていた「英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」を作曲したが皇帝になったと聞いて激怒し、楽曲の表紙を真っ二つに引き裂き床の上に投げ捨てた。そしてその10年後、今度はナポレオンの敗戦を望む王侯貴族を歓喜させる作品91を轟かせて大人気を博したのである。

翌年の1814年、彼らの望み通りにナポレオンは敗退してエルバ島に流される。諸国の王、外交官が集結して戦後処理のウィーン会議が開かれ、ベートーベンはさらにカンタータ「栄光の瞬間」を書き「戦争交響曲」がもたらした収入は彼の全作品の最高額にのぼった。しかし貴族階級に対して根深いルサンチマンがあった彼の心情が複雑だったことは、エロイカが至高の名曲となったのに対し、戦争交響曲とカンタータはほとんど演奏されなくなったという出来栄えの格差からうかがえる。

そのせいだろうか、人気、収入、そして不滅の恋人の出現と人生の絶頂であった1810~1814年に作曲はスランプに陥っているのである。その期間の彼のメインストリームの作品というと、1810年の弦楽四重奏曲「セリオーソ」、1812年の交響曲第8番、1814年のピアノソナタ第27番しかなく、公衆を喜ばせ金銭を得ることと真に書きたい音楽を書くことへの分裂があったかのようだ。これは一見、フィガロの作曲中にピアノ協奏曲第24番ハ短調を書いたモーツァルトに重なるようにも見える。しかし、真相はそうではない。

1814年4月11日、ナポレオンが島流しになった5日後にベートーベンはウィーンのホテル「ローマ皇帝」で自身がピアノを弾いてピアノ三重奏曲「大公」を初演したが、それが彼の公の場での最後の演奏になった。なぜかというと、弦楽器の音をかき消すほど乱暴にピアノを弾き、演奏は失敗に終わったからだ。近代史上最も寒い年まであと2年。人前での演奏を断念するほどに彼の耳は絶望の崖に向けてさらに悪くなっていたのである。スランプの理由は難聴が最悪になったショック(パニック)だったとシンプルに考えれば筋が通る。その証拠に、問題の1816年には藁をもつかむべく「補聴器」が、そして18年にはいよいよ言葉を聴きとることを断念して「会話帳」が必要になっている。

1815年に弟カスパル・カールが死去し、甥カールの親権をめぐる法定闘争が4年半もあったことがスランプの原因とする説もあるが、私見では、それは原因ではなく結果である。彼は日々心血を注いで育てるべくカールを手元に置くことに異常な執念を見せたわけだが、なぜかというと、ひたひた迫りくる悪魔の如き「音無き世界」の恐怖から逃れるために集中する相手が必要だ。彼が多くの女性、とくに人妻(子連れ)に結婚を迫ったことも同様で、多情だったわけでもプレイボーイだったのでもなく、そうした別の、誰かと一緒にいたいというより切実な「内面からの」切ない欲求だったと解釈ができる。この恐怖はただでさえ人を支配する。しかも、心から気の毒と思うことに、健常者すら平穏に過ごせぬ気象の暗転が追い打ちをかけていた。

以前に書いたが、僕は香港時代にストレスから突然パニック障害に襲われた経験がある。消えたと思うや何の前ぶれもなく現れ、内面の異変から一生逃れられない恐怖は人を打ちのめす悪魔だ。ベートーベンほど細かい神経を持つ人間が絶望の淵に追い込まれ、そんな状態で生きるなら自死して悪夢を絶つ方が余程ましだと追い込まれて書いたのがハイリゲンシュタットの遺書だという理解は僕には自然だ。死ぬまで至らぬとも多くの人が一歩手前で容易に陥る症状であるパニック障害(現代の米国人の2%が罹患)に陥らなかったとは考えにくく、そう記録されていないのは当時の医学では病気と認識されず奇行癖で片づけられたからだ。

そしていよいよ夏のない年、1816年がやってくる。補聴器を携えひとり過ごす日々は歴史に刻まれるほど長く暗く寒かった。前年から手掛け、この年に完成したピアノソナタ第28番イ長調が問題の年のベートーベンの心を映す鏡だったことは多くの方の同意を頂けるのではないか。同年にはもうひとつ、連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」も作曲されている。これは史上初のリーダークライス(円環形に閉じた連作歌曲)であり、すでにソナタ第28番においてMov1冒頭主題が終楽章で再現する原型が見られる。連作歌曲はシューベルト、シューマンに連なり、冒頭主題の終楽章での再現はブラームス、フランク、ヤナ―チェックに連なる。「遥かな恋人に寄せて」はシューマンが愛好し幻想曲ハ長調、弦楽四重奏曲第2番に引用しており、第3曲はメンデルスゾーンの真夏の世の夢の「舌先裂けたまだら蛇」にエコーしており、これがメインストリームの作品であることがわかる。困難の最極北にありながら彼は運命に抗い、けっして負けていない。このことほどベートーベンという人の本質をあらわすものはない。

本稿の本題であるピアノソナタ第28番にやっとたどり着いた。僕はこれにベートーベンの内的葛藤を聴いて心苦しくなりもする(Mov2)が、終楽章の圧倒的なフーガ(厳密なフーガでないのはモーツァルトのジュピターと同様)に至って、この理詰めで精緻な音楽構築への没頭こそ彼が病を乗り越えて天寿を全うできた鍵であったことを知るのである。これの同型のバージョンアップが第29番ハンマークラヴィールであり、どちらも絶対の勇気を与えてくれるのは、彼が難事を克服せんと封じ込めた音魂が琴線に触れ、鼓舞もしてくれるからだ。彼の実像は蓋し肖像画がイメージさせる不屈の意志を持った強い超人ではないだろう。我々と同じく弱い一個の人間だ。にもかかわらず、折れかかっては立ち向かい、それが最後に彼を満足させたかどうかは問うまでもないが、為すべきことをしたのである。28番がその入り口とされ、以降は「後期」と呼ばれる彼の最後のピリオドは他のどの作曲家とも違うのはもちろん、それまでの彼自身とも異なる。

28番はドミナントのホ長調で優しげに始まる。しかし調性も曲調もファジーであり、やがてシンコペートされたリズム、増四度のAisの曖昧模糊とした霧にまぎれこみ、終わってみれば何を見ていたか忘れてしまった白昼夢のようだ。そこに唐突なヘ長調で暴力的に闖入するMov2はメフィストフェレスのダンスで、平和な気分を狂気の情動が突き上げる。スケルツォのようだが “生き生きと行進曲風に” とあるこれは心中で彼を追い詰めるカリカチュアだが、諧謔とは程遠い残酷で無気味なものだ。リヒテルとホロヴィッツのライブは一聴に値する。特に後者のスタッカートは悪魔的であり、シューマンのクライスレリアーナ第1曲にエコーしていることがわかるという点でMov2は僕はホロヴィッツを採る。

クライスレリアーナのクライスとはE.T.A.ホフマンの自画像であるヨハンネス・クライスラー楽長に由来するが、Kreisは「円」であり、リーダークライス(Liederkreis)に通じることからも両曲の関連をシューマンは意図したと見える。やがて右手がつまづいたが如くDes durの挿入で切断され、音楽は低音部で調性感を失って浮遊しながら落ちてゆき、地の底に届いて沈殿する。するとピアノはサステインペダルを解放し、大地から立ち昇る陽炎が天使の姿になって無数に空に昇ってゆく風である。右手のつまづきの部分はクライスレリアーナでは闖入するB durの驚くべき和声的イベントとして耳を釘づけにする。中間部は鏡像の対位法的で最後に低音でリズムの律動が裸で脈打つ所はシューマンがライン交響曲Mov1で使う。神は細部に宿るというが、こうした部分に天才たちの感性が光っている。

Mov3は序奏にアダージョがある。アンドラーシュ・シフはこれがチェロ・ソナタ第4番と共通の構造だと看破しているが、僕はMov3序奏を楽章と見た場合に28番の楽章の調性A-F-Am-Aと交響曲第7番のA-Am-F-Aに近親性を見る。このアダージョは通して弱音ペダルを踏み、素材もテンポも類似はないが第7番のMov2を想起させる。緩・急の対比ということでいえば大公でラズモフスキー1番を先駆とする「緩と急(スケルツォ)の逆転」がおきており、ピアノソナタ第28-31番、第九交響曲、弦楽四重奏曲第16番に引き継がれる。28番では逆転した緩徐楽章が終楽章の序奏になっており、これは29番で長大かつ深淵なアダージョ楽章に発展する萌芽である。ちなみに彼を尊敬したシューベルトはこれだけは従わず完成されたピアノ・ソナタで第2楽章にスケルツォが来る作品はなく、ベートーベンを範としたブラームスも交響曲でそれを踏襲しなかったが、シューマン(!)は交響曲第2番で、ブルックナーは8、9番、マーラーは6番で行った。

アダージョの最後にひっそりとMov1冒頭のテーマが再現する。それは旋律的ではあるが後ろの楽章の素材になっていたわけではなく、醸し出すある一定の夢のような感情、アトモスフィアを漂わせるだけの存在であったことがわかる。そして、それをかき消すように精気溢れるアレグロ主題が現れる。こちらは旋律的ではなく運命主題のごとくメカニックであり、技法の限りを尽くした息もつかせぬ展開の末にフーガに至る。彼は11才から先生のネーフェにバッハの平均律をたたきこまれており、これは29番のフーガフィナーレに発展するものだ。ベートーベンにしか書けぬ鋼の如き音楽である。白昼夢、悪夢、悲嘆と辿ってきた音楽は白昼夢の回想で目覚め、意志の力ですべてをふりはらう。

PS

昨日11月7日、インドネシアのレウォトビ火山で大噴火が発生した。それを知ったのは同日の夕刻、出張先の静岡でのことだ。本稿はインドネシアのタンボラ山噴火の話で始まるが、執筆は11月3日からで噴火の前日の6日に脱稿している。何とも奇遇だなあと思った。先ほど帰宅して調べると噴火は11月3日から始まっていて、書き始めたのはほぼ同時だったこともわかった。もちろんそんなこととは夢にも知らない。

11月7日のレウォトビ火山

ベートーベンの28番に言及するのに噴火の話から書き始めたのは、太陽黒点の数が減少した「ダルトン極小期」と関係がある。僕は太陽活動が人類に影響を与えると考えており(与えないはずがないと言った方がいい)、太陽黒点数の推移データに関心を持っている。この期は1790年から1830年まで続いた。すなわち、ベートーベンの全作品は始めも終わりもほぼぴったり重なってダルトン極小期に書かれているのである。

そこでネットを検索すると、他の多くの極小期と同じくダルトン極小期でも寒冷化の現象が見られ、特に1816年はタンボラ火山の噴火から極めて寒冷となり「夏のない年」となったことを知った。こうなると僕は抗いようのない習性から「その年にベートーベンは何を書いたろう?」となる。それが28番であり、偶々11月2日にそれを聴いており、朝からMov2が頭で鳴っていた。だから11月3日に28番について書こうと思い立ち、夏のない年、タンボラ火山、という流れになったのが顛末だ。

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三島の「憂国」と「トリスタン」の関係

2024 JUL 28 0:00:50 am by 東 賢太郎

次女が来たので寿司でも行くかと玉川高島屋に寄った。高校に上がった時にこのデパートができてね、田舎の河原で玉電の操車場だったこのあたりが一気に開けてニコタマになったんだ。鶴川からおばあちゃん運転の車で家族で食事に来てね、おじいちゃんに入学祝いに買ってもらったのがあのギターなんだよ。しっかりした楽器でね、今でもいい音が鳴るだろ。

こういうことはつとめて言っておかないと消えてしまう懸念がある。寿司屋の階にロイズという英国のアンティーク店があり、帰りにふらっと入ってみる。イタリアのランプや書棚など、あれとあれね、いくつかここで衝動買いしてるだろ、でも基本はお父さんはアメリカのドレクセル・ヘリテイジ派なんだ、書斎の革張りの両袖デスクもランプも、どっしりしたの20年も使ってるでしょ。

そう言いながらこのアメリカとイタリアにまたがる根本的に矛盾したテーストが何かというと、生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分に気づくのである。実際、自覚した答えには今もって至っていないが、おそらく生まれつき両方があり、本来は別々のものだが、長い人生であれこれ見ているうちに互いの対立が解けてこうなったのだろうと想像は及ぶ。それを静的な融合と見るか動的な発展と見るか、はたまたそんなものは言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止してしまうかだが、それだとドイツ人の哲学は永遠にわからない。となるとベートーベンの音楽の感動がどこからやってくるかもわからないのである。

さように自分が何かと考えると、三島由紀夫の「詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」を思い出す。この言葉は啓示的だ。そのいずれによっても告白する能力がない僕の場合、告白が表せるのは批評(critic)においてだ。その技巧ではなく精神を言っているが、これは自分を自分たらしめた最も根源的な力であろう。しかも、最も辛辣な批評の対象は常に自分であって情け容赦ないから、学業も運動も趣味も独学(self-teaching)が最も効率的だったのだ。しかしteacherである自分が元来アメリカ派なのかイタリア派なのか迷うといけない。そのteacherを劣悪であると批評する自分が現れるからだ。だから、僕においては、言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止することはあり得ず、やむなく弁証法的な人間として生きてくる面倒な羽目に陥っており、そのかわりそれは動的な発展であり進化であると無理やり思っているふしがある。

詩が一番。これは賛同する。40年近く前になるが、高台の上に聳えるアテネのパルテノン神殿に初めて登って、太いエンタシスの柱廊の間をぬって8月の強い陽ざしを浴びた刹那、西脇順三郎が昭和8年に発表したシュルレアリスム詩集「Ambarvalia」冒頭の著名な「天気」という詩、

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

がまったく不意に電気のように脳裏を走ったのを思い出す。高校の教科書にあったこれが好きだった。覆された宝石はジョン・キーツの「like an upturn’d gem」からとったと西脇が認めているらしく、それでも()で括ってぎゅっと閉じた空間の鮮烈は眼に焼きつく。ひっくり返された宝石箱、誰かも何語かも知れぬ言葉のざわめき、色と光と音の渾沌と無秩序が「それは神の生誕の日」の句によって “なにやら聖なるもの” に瞬時に一変する万華鏡の如し。回して覗くとオブジェがぴたりと静止し、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたではないかの如くふるまう、それを言語で成し遂げているのは見事でしかない。神といいながら宗教の陰はまるでない(少なくとも高校時代にはそう読んだ)。それは無宗教とされて誰からも異存の出ない日本という風土の中でのふわふわした神なのだが、キリスト教徒やイスラム教徒はそうは読まないだろう。それでいいのだ、彼らは日本語でこの詩を読まないから。

作者はこれを「ギリシヤ的抒情詩」と呼んだが、確かにアテネのちょっと埃っぽい乾いた空気に似つかわしいのだが、僕にはすぐれて叙事的に思える。であるゆえに、この詩の創造過程に万が一にも多少の噓の要素があったとしても、できあがって独り歩きを始めた詩に噓はないと確信できるのだ。

フルトヴェングラーは語る。バッハは単一主題の作曲家である。悲劇的な主題を創造したがそれは叙事的であり、曲中でシェークスピアの人物の如く変化する主題を初めて使ったのはハイドン、進化させたのはベートーベンとしている(「音楽を語る」52頁)。そこでは二つの主題が互いに感じあい、啓発しあって二項対立の弁証法的発展を遂げ、曲はそうした “部分” から “全体” が形成される。これはドラマティックな方法ではあるが、ドラマ(悲劇)による悲惨な結末がもたらす、即ちアリストテレスのいう「悲劇的浄化」ほどの効果は純音楽からは得られないから悲劇的結末を持つ「トリスタン」「神々の黄昏」のような音楽作品は “楽劇” である必要があると説くのである。

これは音楽は言葉に従属すべきでないと述べたモーツァルトの思想とは正反対であって、長らく彼を至高の存在として信奉してきた僕には些かショッキングな言説であった。だが矛盾はないのだ。なぜならワーグナーの楽劇という思想は彼でなくベートーベンから生まれたからである。単一主題の作曲家といってもバッハの曲ではあらゆる発展の可能性が主題自身に含まれており、フーガの場合のように対旋律を置いているときでさえもすべてが同じ広がりの流れで示され、断固とした徹底さをもって予定された道を進んでいく。ベートーベンにそれはなく、複数ある主題の対立と融合とから初めて曲が発展している、そして、そのように作られた第九交響曲の音楽にふさわしいシラーの詩を後から見つけてきたことで、モーツァルトから遊離もないのである。

明治25年生まれの芥川龍之介はクラシックのレコードを所有しており、それで幼時からストラヴィンスキーの火の鳥やペトルーシュカを聴いて育った三男の也寸志は作曲家になった。三島由紀夫は三代続けて東大法学部という家系でみな役人になったのだから文学者にあまり似つかわしくはない。彼はニューヨーク滞在歴はあるが留学はしておらず、にもかかわらず、録音が残るその英語は非常に達者だ。内外に関わらず言語というものに精通し、図抜けて回転が速く記憶力に秀でた知性の人が、自己の論理回路に子細な神経を通わせてこそ到達できるレベルだ。音楽については「触れてくる芸術」として嫌い、音楽愛好家はマゾヒストであるとまで言ったのでどこまで精通したのかは不明だがそうであって不思議はなく、少なくともトリスタンは愛好したとされている。

なぜだろう。トリスタンとイゾルデは運命においては敵同士という二項対立であり、それが媚薬で惹かれあって生々流転の宿命をたどり、最後は二人ともに死を迎える。ドラマとしてはロメオとジュリエット同様に紛れもない悲劇なのだが、音楽がカルメンやボエームのように短調の悲痛な響きによってこれは悲劇だと告知することは一切ない。それどころか、先に逝ったトリスタンの傍らでイゾルデは長調である「愛の死(Isoldes Libestot)」を朗々と歌い上げ、至高の喜び!(hoechste Lust!)の言葉で全曲を感動的に締めくり、トリスタンに重なるように倒れ、息を引き取るのである。すなわち、生と死という二項対立が愛(Liebe)によって「悲劇的浄化」を遂げ、苦痛が喜びに変容し、二人は永遠の合一を許されたのである。

永遠の合一。この楽劇の揺るぎないテーマはそれである。歌劇場で客席について息をひそめるや、暗闇からうっすらと漏れきこえる前奏曲(Vorspiel)は、まさに艶めかしい ”濡れ場” の描写だ。それはこの楽劇が叙情的(lyrical)なお伽噺ではなく、すぐれて叙事的(narrative)であり、それまでの歌劇のいかなる観念にも属さぬという断固たる宣誓だ。演劇でいうならシラーを唯物論化したブレヒトを予見するものであり、映画なら冒頭の濡れ場が「愛の死」のクライマックスで聴衆の意識下でフラッシュバック (flashback) する現代性すら暗示する。その写実性が作曲時に進行中だったマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫に由来するのは言うまでもないが、それを写実にできぬ抑圧から、既存の音楽のいかなる観念にも属さぬ「解決しない和声」という、これまた現代性を纏わせた。

これがヒントになったかどうか、定かなことは知らぬが、三島が二・二六事件を舞台に書いた「憂国」の青年将校武山信二と麗子はトリスタンとイゾルデであり、その含意は「潮騒」の久保新治と宮田初江いう無垢な男女がダフニスとクロエである寓意とは様相が大いに異なる。自身が監督、信二役で映画化した「憂国」はむしろ乃木希典将軍夫妻を思わせるのだが、将軍は明治天皇を追っての殉死、信二夫妻は賊軍にされた友への忠義の自決であり、今の世では不条理に感じるのはどちらも妻が後を追ったことだ。庶民はともかく国を背負う軍人にとって殉死も忠義も夫婦一体が道理の時代だったのだが、それにしても気の毒と思う。まして西洋人女性のイゾルデにそれはあるはずもなかったのに、やはり後を追っている。こちらは殉死でも忠義でもなく「愛」の死が彼女を動かした道理だったのであり、それがトリスタンが苦痛のない顔をして逝ったわけであり、二人が永遠の合一という至高の喜びへ至るプロセスだというドラマなのだ。「潮騒」にもダフニスとクロエにも命をも賭す道理というものはないが、憂国とトリスタンには彼我の差はあれど道理の支配という共通項は認められるのである。

三島は団藤重光教授による刑事訴訟法講義の「徹底した論理の進行」に魅惑されたという。わかる気がする。その文体は一見きらびやかで豊穣に見え、英語と同様に非常にうまいと思うわけだが、根っこに無駄と卑俗を嫌悪する東大法学部生っぽいものを感じる。あの学校の古色蒼然たる法文1号館25番教室は当時も今も同じであり、彼はどうしても等身大の平岡公威(きみたけ)氏と思ってしまう。虚弱でいじめられ、運動は苦手で兵役審査も並以下であり、強いコンプレックスのあった肉体を鍛錬で改造し、あらまほしき屈強の「三島由紀夫」という人物を演じた役者だったのではないかと。彼は蓋しイゾルデよりもっと死ぬ必要はなかったが、名優たりえぬ限界を悟ったことへの切々たる自己批評(critic)精神とノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を原動力とした自負心から、彼だけにとっての道理があったのではないか。そこで渾身の筆で自ら書き下ろした三島由紀夫主演の台本。その最後のページに至って、もはや愛と死は肉体から遊離して快楽も恐怖もなく客体化されており、そこにはただ「切腹」という文字だけが書いてあったのではないかと思えてならない。

もし彼が生きていたら、腐臭漂うと描写してすら陳腐に陥るほど劣化すさまじい、とてつもない場末で上映されている西部劇にも悖る安手の “劇場” と化した現在の暗憺たる世界の様相をどう描いたのだろう。間違いなく何者かの策略で撃ち殺され亡き者になっていたはずのドナルド・トランプ氏が、何の手違いか奇跡のごとく魔の手を逃れ、あれは神のご加護だったのだとされる。そうであって一向に構わないが、西脇順三郎が描いた、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたと思わせてくれるような神の光臨、それを目のあたりにする奇跡というものを描けて賛美された時代はもう戻ってきそうもない。

いま地球は一神教であるグローバル教によって空が赤く、血の色に染め上げられている。それが昔ながらのブルーだと嘘の布教をする腐敗したメディアが巧妙にヴィジュアルに訴求する画像を撒き散らし、世界のテレビ受像機、スマホ、パソコンの類いを日々覗いている何十億人の者たちはその洗脳戦略によって空はいまだ青いと信じさせられており、その残像に脳を支配されている。誰かが耐えきれず「空は赤いぞ」と言えば「王様の耳はロバの耳」になってその者がyoutube等のオンラインメディアで私的に主催する番組が強制的にバン(閉鎖)されたりするのである。これが顕在化した契機は2020年のアメリカ大統領選におけるトランプ候補の言論封殺であった。政治とメディアがグルになった超法規的な言論統制が公然と行われたことからも、あの選挙がいかに操作されたものだったかが類推されよう。オンラインでの商売をするGAFAが必然とする越境ビジネスで各国の税務当局と徴税権を争った訴訟を想起されたい。これはB29が高射砲の届かぬ高度での飛行能力を得ることで安全に楽々と原爆を投下できたようなものだ。グローバル教の本質は各国の刑法も刑事訴訟法も裁けぬ強姦である。AIが越境洗脳の基幹ツールであり、生成AI半導体を牛耳るエヌビディアがあっという間に3兆ドルと世界一の株式時価総額(日本のGDPの8割)に躍り出たのはそのためだ。団藤重光教授の刑事訴訟法講義に啓発された三島はこれをどう評しただろう。かような指摘が陰謀論でなく確たる事実であると語れるのは、僕がグローバル教の総本山のひとつである米国のビジネススクールで骨の髄まで教育されているからなのだ。だから、経済的なことばかりを言えば、僕はフィラデルフィア、ニューヨークに根を張るその流派の思想に何の違和感もなく唱和、融和でき、現にそれが運用益をあげるという現世享楽的なエピキュリアンな結末を長らく享受している。日本の運命は商売には関係なく、独語でいい言葉があるがザッハリヒ(sachlich、事務的、即物的)に行動すれば食うのに何も困らない。

しかし僕は金もうけのためにこの世に生を受けた人間ではない。そこで「生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分」という冒頭に提示した批評が内でむくむくと頭をもたげるのだ。渋沢栄一と袂を分かって伊藤ら長州のクーデターに組した先祖、天皇を奉じて陸軍で国を護ろうとした先祖、誰かは知らぬが京都の公卿だった先祖、そうした自分に脈々と流れる血は畢竟だれも争えないものなのであり、家康につながる父方祖母の濃い影響下で幼時をすごした三島の意識下の精神と共鳴はありそうにないと感じる。断固たる反一神教なら徳川時代の鎖国に戻るしかなく、むしろ国を滅ぼす。外務省がやってるふりを装おう賢明な妥協を探る努力は解がないのだから永遠に成就しない「アキレスと亀」であって、いっぽうで、学問習得の履歴からして賢明ですらない現在の政治家がグローバル教の手先になって進める世界同質化は国の滅亡を加速する。異質を堂々と宣言して共存による存在価値を世界に認めてもらうのが唯一の道であり、それを進めるベースは直接にせよ間接にせよ核保有しかない。非核三原則修正で米国の原潜を買うか、少なくとも借りれば必要条件は満たすからトランプとディールに持ち込むべきであり、9月の自民党総裁選はその交渉能力と腹のある人が選ばれないと国の存亡に関わる。くだらない政局でポストを回すなら紛れもない国賊としてまず自民党が潰されるべきである。

これまで何度も、メディアが撒き散す画像が虚偽であり、その戦略の源泉は共産主義に発し、ロシア革命を成功させたがソ連という国を滅ぼし、ギー・ドゥボールが卓越した著書「スペクタクルの社会」に活写したそれそのものであり、米国大統領、日本国首相は紙人形より軽いパペットでよく、むしろ神輿は軽めが好都合でさえあることを書いてきた。バイデンが賞味期限切れだ。「あたしがクビならうちのカミさんでいかがですか」とコロンボ刑事ならジョークを飛ばしそうだが、まじめな顔で “劇場” がバイデン夫人、オバマ夫人が民主党候補と世界に流すともっともらしいスペクタクルに化ける。そうなったかどうかではなく、それを現象として観察すべきなのだ。東京都知事ごときはうちのカミさんどころか “ゆるキャラ” でよく、すでにメディアの祭り上げで知名度だけはポケモン並みである小池氏においては、教養と知性の欠如が露見してしまう選挙期間中の露出や討論など有害無益と判断されたのだろう。いや、ひょっとすると、ワタクシ小池百合子は一神教の教祖様と市区町村長に強く請われて出馬してるんです、あんたら賤民の支持率なんて岸田さんと一緒で0%でよござんす、それより妙なことをおっしゃると「王様の耳はロバの耳」で厳罰に処されますわよ、青い空を赤と言ったりできないのが日本の常識ですわよね2年前の7月8日からオホホ、という新演出のスペクタクルを都民は見せられたやもしれぬ。うむむ、なんという奇っ怪、面妖な。

欧州各国では葦が「王様の耳はロバの耳」とつぶやき出して政権のバランスが激変してきている。イランでは王様が嫌がる政権が誕生した。トランプになれば・・・そう願うが敵もさるものだ。何といっても、4年前、僕も目撃した歴史的放送事故があった。テレビだったかオンライン番組だったか、バイデンが「我々は過去に類のない大規模な投票偽装の仕組みを既に用意している!」と力こぶをこめ、当選に自信のほどをぶちあげてしまったのだ。TPOを誤解してたんだね、気の毒だねと認知症が全米にバレた。そのバイデンを本当に当選させてしまった奇術師の如き連中だ、今回はどんな出し物が登場するか知れたものではない。そうなればなったで一市民は無力である。株も為替も動くから僕は経済的なことに徹してポジションを最適化するだけだ。「王様の耳はロバの耳」。日本の多くの葦たちが唱和するしか日本を救う道はない。かっぱらいと万引きと、どっちが罪が軽いですかというお笑いイベントになってしまった都知事選、本来なら投票率は激減だったはずがアップさせた石丸氏の健闘は一服の清涼剤ではあった(僕も投票した)。

「トリスタンとイゾルデ」に戻ろう。この音楽については既稿に譲るが、ここでは「憂国」に即して前奏曲と愛の死につき、これがセクシャルな観点で女性には申し分けないが想像を逞しくしてもらうしかないものであることにもう一度触れよう。ブラームスやブルックナーのような奥手な男にこういう皮膚感覚とマグマに満ちた音楽は書けないのである。ワーグナーはイケメンでもマッチョでもないが女性にもてた、これがなぜか、これは逆に男には不明だが、くどいほど雄弁で押しが強い大変なフェロモンのある男だったのだろう。

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

前奏曲のピアノ・リダクションで、音量が1小節目の ff から2小節目のmeno f(あまり強くなく)にふっと落ち、第1,2ヴァイオリンの波打つような上昇音型が交差する部分だ。ここで官能のスイッチが切り替わる。そして徐々に、延々と、フィニッシュの極点(ff)に向けて激していく。

ここの曲想の質的な変化に非常に官能的に反応しているのがカラヤン/BPOだ。こういう感覚的な読みができるのがこの人の強みで、人気は決して伊達ではない。それを5年前にはこんな婉曲な方法で書いた自分もまだまだであった。

数学とトリスタン前奏曲

menofでホルン(f)をやや抑えて、弦の音色を柔らかく変化させ絶妙の味を醸し出しているのが7か月後に世を去ることになるフルトヴェングラー/BPOの1954年4月27日のDG盤(前奏曲と愛の死)だ。この部分から身も世もないほど激して一直線に昇りつめるのではなく(それは楽譜から明らかに誤りだ)、潮の満ち干のごとく押しては引き、内側から渦を巻いてぐんぐん熱を帯び、秘められた論理構造に添って目くるめく高みに労せずして達していくという大人の音楽が聴ける。コンサートのライブであり愛の死に歌がないのが残念だが、頂点に至っての命がけのテンポ伸縮を聴けばそんな不満は吹っ飛んでしまう。もうフルトヴェングラーの秘芸とでも形容するしか言葉が見つからないトレジャーだ。

クナッパーツブッシュ盤はウィーン・フィルとの王道の横綱相撲で、黄泉の国から立ち上がるようにひっそり始まる曲頭のチェロの a音などぞくぞくものだ。ただ楽譜2小節目のmenofはほぼ無視で音色も変えず、ひたすらぐいぐい高揚してしまうのは大いに欲求不満に陥る。しかしこの演奏、愛の死に至ると様相は一変するからここに書かざるを得ない。一世を風靡したビルギット・二ルソンは贅沢な御託を垂れれば立派すぎて死の暗示に幾分欠ける(その点はライブで聴いたレナータ・スコットとヒルデガルト・ベーレンスが忘れられない)。だが、ないものねだりはよそう。圧倒的な歌唱はもう泣く子も黙るしかなく、指揮と歌が一体となって頂点に血を吹いたように燃えるこれを聴かずしてワーグナーを語らないでくれ、こんな成仏ができるなら「悲劇的浄化」もなにもいらない。音楽は麻薬だ。トリスタンとイゾルデは彼の芸術の最高峰であり、全曲完成後に「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだワーグナーも、これを聴いて自分の中に棲む魔物に気づいたんじゃないか。三島がそれを見てしまった演奏は誰のだったんだろう?

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読響定期 ダン・タイ・ソンを聴く

2024 JUN 16 0:00:53 am by 東 賢太郎

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ピアノ=ダン・タイ・ソン

ウェーベルン:夏風の中で
モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K. 414
シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」 作品5

 

音楽に割ける時間が少なくなっているのが悩ましい。ヴァイグレは先代のシルヴァン・カンブルラン同様にフランクフルト歌劇場で活躍した人だが、同劇場は思い出深い場所であり縁を感じる。フランス人カンブルランのメシアンは衝撃的だったが、東独で学びシュターツカペレ・ベルリンの首席ホルン奏者だったヴァイグレの新ウィーン学派はこれまた楽しみで、このシリーズには3月にヴォツェックがあってウェーベルン、シェーンベルク、ベルクが揃う。

この日はヴァイオリニストの前田秀氏とご一緒したが、予習されたとのことでペレアスのスコアを持参された。12音前、ポストマーラーの入り口に立つ作品である。メリザンドは男の本能を手玉に取る。僕も抗しがたいがフォーレ、ドビッシー、シェーンベルク、シベリウスもそうであり、シェーンベルクの回答がこの作品5だ。作品4「浄められた夜」同様に調性音楽で室内交響曲第1番作品9に向けて調性が希薄になる。その時期を横断して書かれたのが「グレの歌」でこれは作品番号なしだ。過去2度ライブを聴いたが春の祭典ができそうな大管弦楽で精密な音楽を構築している。独学の作曲家、おそるべし。ヴァイグレの指揮は主題の描き分けが明快で音は濁らず立体的に鳴り心から満足した。

キャリア官僚を勤められた前田氏はいまは客席よりステージにいる方が多いとのこと。米国の学者との交流、シベリウス5番を平均律で弾けという指揮者の指示など興味深い話を伺った。思えば氏とは2017年に豊洲シビックセンターで行った「さよならモーツァルト君」の演奏会で、ライブイマジン管弦楽団のコンマスをやっていただいたのがきっかけだ。ハイドンが98番にジュピターを引用してモーツァルトを追悼したというテーマだったが、そういえば、ピアノ協奏曲第12番はモーツァルトがヨハン・クリスティアン・バッハの訃報を知り、彼のオペラ「心の磁石」序曲の中間部を引用して追悼した曲だ。偶然だが何かのご縁だったのだろうか。

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