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モーツァルト 『音楽の冗談』K.522

2023 NOV 16 22:22:20 pm by 東 賢太郎

モーツァルトは楽譜通り演奏すると破綻する『音楽の冗談』(Ein Musikalischer Spaß、K.522)を書いた。作品目録への記載は1787年6月14日と父レオポルトの死(5月28日)の直後だが、アラン・タイソンの研究によると1785年に書き始められており、動機は不明だ。

この曲、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトという男の恐ろしさを垣間見せる意味で出色だ。彼はどんなスタイルでも書ける。イタリア風でもフランス風でもロココ風でもハイドン風でもお馬鹿さん風でも。

音楽の破綻は終楽章結尾など誰でもわかる部分もある。作曲法上の禁じ手使用のミスはわかりにくい。米国のプロの作曲家が解説したビデオを見てみたが、平行八度、五度など近代音楽やロックなどに耳慣れした者にはそれほど酷く聞こえない部分もある。つまり「冗談」は今としては和声学というマニアックな領域に達しており、一度聞いて全て笑える人は専門教育を受けた人だけではないか。

K.522を聞いたことがなくジョークとも知らない人ばかりをコンサートホールに呼んで演奏したらどうだろう。拍手がおこるだろうか?あれは本当にへたなんですか?わざとですか?わざとなら何故そんなことをしたのですか?と質問攻めになるだろう。答えはモーツァルトしか知らないが。

実演をご覧いただい。キエフの聴衆はプログラムノートで知っていたろうがこういう反応だ。

ちなみに僕はこの曲をフリッツ・ライナー指揮シカゴ響のレコードで初めてきき、想像はしていたがシメの和音には面食らった。これだ(Mov4)。

シカゴ響のように整然としたアンサンブルだと落差が大きすぎ、あと味悪さでこの曲もレコードもお蔵入りになってしまった。最後の和音をヘ長調できれいに閉めればそれはなかったように思う。K.522は予約演奏会のような場でお金を取って演奏することは想定していなかったのではないか。

ぴったりと感じるのがこちらだ。

大変失礼だが、このぐらいの合奏で来てくれると結びも納得できる。仲間うちで初見の合奏をして楽しむ joke だったなら納得というものだ。当時はありだ、ドン・ジョヴァンニの序曲は初演の前の晩に仕上がったぐらいなのだから。

赤枠の部分がK.522の結尾だ。調は上からヘ長調(ホルン、F)、ト長調(G)、A(イ長調)、変ホ長調(E♭)、変ロ長調(B♭)である。

これは三大交響曲が書かれる前年の作品だ。注目すべきは終楽章で、ジュピターを想起させるフーガらしきものが始まるがすぐ展開をあきらめ、間の抜けたホルンで帳尻を合わせる。赤枠でF-G-B♭-Aのジュピター音列が同時に鳴っており、その直前のホルンとバスはジュピター第1楽章の結尾そのものだ。ジュピターのエコーは珍しくなく、交響曲第1番に始まり、ウィーンに出てからも1783年(以降)の「5つのディヴェルティメント4番」(K.439b)、1790年の弦楽五重奏曲ニ長調(K.593)などにあるが、この終楽章は意味深い。この楽章のテーマでも彼は神品であるK.593の終楽章を書けただろうと思うのだ。

ここで、彼が何故にK.522を書いたのか、なぜ父の死後すぐに取り掛かったのかを考察してみよう。演奏会用でないのだから、彼が愛好した仲間内の卑猥な歌詞によるロンドや、仲良しだったホルン奏者のロイトゲープをいじめるおふざけ協奏曲の類だった可能性が高い。ここでは奏者をいたぶるのではなく下手くそな音楽を書く作曲家をおちょくっている点で他の作品とは一線を画している。

1785年、彼はキャリアの絶頂期にある。結婚をし、予約演奏会は満員で大人気、ピアノ教授で貴族に入りこみ、メーソンに入会し、社会を揺るがすかもしれないフィガロの上演を目論んでいた。富裕層向けのフィガロハウスに住み、仲間を集めて日夜のお遊びにふけった。

K.522の草稿はその躁状態で着想したパロディーの演目として書き始めたが、翌年2月に彼の運の尽きとなる墺土戦争勃発で貴族が出征してウィーンからいなくった。収入が消えて引っ越しを余儀なくされる。生活は落ちぶれ、躁状態は雲散霧消し、草稿はそれとともに放棄されていた可能性が高い。

父の死を知って初めてカタログに書き入れたのがそのK.522だという事実は、うまくいってなかった父子の疎遠を表すという説になるが、そうだろうか。草稿を書き始めた1785年は父レオポルドをフィガロハウスの招待した年だ。父も合奏の一員としてお遊びに参加しており、ハイドンも交えて新作の「ハイドンセット」を試奏した記録も残っている。

父子はザルツブルグ時代にカーニヴァルや仮装舞踏会を家族で楽しんでおり、父はお祭りに愉快音楽を提供した作曲家だった。ここがポイントだ。父はヴァイオリンの名手だったが作曲家としてはそうではなく、結果として楽長がせいぜいで大都市の音楽監督にはなれないことを知っていた。だから息子に作曲を徹底的に仕込んだ。

楽譜を書いては叱られ直され、時に父が代作した痕跡が残っている。13~17才の間に父子がイタリアを3度訪問したのも、本場で息子に作曲家として箔をつけ、名を成させるがためである。そうしてシスティーナ礼拝堂の逸話、マルティーニ神父の逸話がうまれ、出世してオペラを書いて能力にお墨がつけられたのだからモーツァルトにとって忘れ得ぬ日々だったに違いない。

K.522はウィーン風のディヴェルティメントをザルツブルグの田舎楽師が書き、演奏したという見立ての愉快演目として父子が昔を偲んで一緒にコンセプトを作り、息子がフィガロハウスで書き始めていたというのが僕の仮説だ。それが父との最後だった。父の死を知って悄然とし、それを完成させようとなるのは息子としてまったく自然なことではないか。

財政的に窮地にあった彼は何が何でも成功させなくてはならないドン・ジョヴァンニ作曲のためザルツブルグの葬儀参列を断念し、K.522をいち早く完成させることで父を見送ろうとそれを成し、カタログの “いの一番” に1787年6月14日の日付を記したのだ(命日は5月28日)。

ありがとう、楽しかったね。K.522の終楽章にそのイタリア楽旅で書いた「エクスルターテ・ユビラテK.165」のハレルヤ主題が出てくるのを知って、僕は確信した(VnⅡ、第76小節)。この意味をわかるのは天国の父だけだ。

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