モーツァルト 交響曲第1番変ホ長調 k.16
2015 JUN 14 22:22:13 pm by 東 賢太郎
「交響曲第1番変ホ長調k.16」をN響定期で聴き、刺激を受けました。
この曲は父レオポルドが姉弟の売り込みを図った西方への大旅行でロンドンを訪問したおり、1764年末頃作曲され翌年1765年2月21日、ロンドンのヘイマートの小劇場で催された「声楽ならびに器楽の演奏会」で初演されました。モーツァルト8才、つまり小学2年生で書いた曲です。
父親が病気になり滞在が長引いた上に演奏会ができなくなったため作曲に時間を割き、ヨハン・クリスチャン・バッハらの影響でこれを書いたなどの能書きはネットにいくらでも書いてありますからご覧ください。モーツァルト家の大旅行 – Wikipedia
僕は書いてないことを書きます。
この曲は本当に小学校2年生の作品か?全部を親父が書いたか、息子が書いたにせよ手を入れたのではないか?についてです。
この疑念はレオポルドが神童の売り込みに熱心なあまり年齢を低めに詐称した証拠があるので昔からあります。
まず皆さんの耳で全曲をお聴きください。
第2楽章アンダンテの7小節目からホルンが「ジュピター音型」であるド・レ・ファ・ミを吹くのはお分かりでしょうか。最初と最後の交響曲にこれが現れる!意図的なら意味深な符牒かもしれないし、偶然なら不吉な運命の暗示のようで、いずれにしても気にかかります。第2楽章はハ短調であり、モーツァルトとベートーベンにとって意味深な調性と思われている変ホ長調とハ短調が小学校時代にあっさりと出ています。
k.16が変ホ長調(Es-dur)なのは使っているホルンがEs管だからです。当時は半音階がきれいに吹けるバルブホルンはまだなく、楽器はすべて自然音階しか出ないナチュラル・ホルンでした。だからニ長調ならD管、ト長調ならG管が必要であり、楽曲の調性とホルンの調性が合致するというのがいわば法則でありました。
短調の曲が少ないのは、ド・ミ♭・ソの真ん中のミ♭を出すには別な調の管が必要だという楽器法上の理由があったからです。ハ短調ならドとソを出すC管と、ミ♭を出すB管かEs管が必要になります。モーツァルトの交響曲で先の「法則」が初めて破られたのは第25番ト短調です。B管とG管が2本ずつ指定されて、ソ・シ♭・レが克服されたからです。短調作品にことさらに思いがあったかどうか、否定はできませんが、楽器のメカニックな理由で書きにくい(不経済)というわけがあった。こっちの理由の方ははるかに確たるものです。
第1楽章はパンチのある主題をいきなり提示し、次々に主題なみのエピソードが現れて本来なら第1主題と対比される第2主題が目立たなくなるほど饒舌です。これを聴くと僕は31番ニ長調k.297のいわゆる「パリ交響曲」の第1楽章を想起します。
パリで就職活動のために書いたk.297も異例に饒舌であり、第1主題のあとに次々と副主題のエピソードが現れます。モーツァルトは
「最初のアレグロのまん中に、これはきっと受けると思っていたパッサージュが一つあったのですが、はたして聴衆は一斉に熱狂してしまいました。 そして拍手大喝采です。 でもぼくは、書いている時から、それがどんな効果を生むかを知っていたので、それを最後にもう一度出しておきました。」「それで当地の牛どもは大騒ぎをするでしょう!」
と父に書き送っています。モーツァルトが常に演奏される土地の聴衆の好みを忖度し、当地の牛どもを騒がそうと作曲技巧を弄したことは多くのモーツァルティアンの認めたくないことの一つでしょうが、自分でそう述べているのだから否定しても仕方ないでしょう。K.16は演奏会をストップされたため、作品でロンドンの牛どもを騒がそうとした。これを聴くと「三つ子の魂」を感じます。
演奏会といっても少年少女の目隠し弾きなどの曲芸見たさに人が集まった程度であり、バッキンガム宮殿で王妃のアリアの伴奏したりシャーロット王妃に曲を献呈する機会を与えられましたが仕官のお呼びはかからず、父の療養で1年3か月滞在しましたが最後の方は家に来た人が5シリング払うとヴォルフガングが何か弾いたり、2シリングと6ペンスでパブで演奏したりしていたのです。
やや誇張して言えばサーカスの芸人親子のイメージに近いでしょう。パトロン探しと日々かさむ旅費の金策に涙ぐましい努力をしていたわけでから、彼らが舞台裏でお客を牛に見立てていても非難されるものでもないでしょう。同地で流行している作曲家のスタイルをモノにすることは目隠し弾きと同じぐらいにマーケティングに必須の技術だったのです。
それを彼は1年3か月のロンドン滞在で身につけた。モーツァルトの天才の本質はここにあります。バチカンのシスティナ聖堂で証明された「ピクチャー・メモリー」です。彼は何でも誰でも即座に真似できた。だから誰のスタイルでも即興演奏できた。その時点でもうそれはケッヘル番号が付される彼の曲になるのです。そうやって14年後の22才にパリを訪問して牛どもを騒がす用途の交響曲が必要になったおり、似たコンセプトの作品ができたのではないでしょうか。
K.16はマーケティング用途の作品なのだから、8才の息子を7歳とうそをついて紹介しているほどの父親がゴーストライターをしてしまっていてもおかしくない。長らく僕はそう疑ってました。
しかし、そうだとすると説明のつかない部分を今回発見したのです。
第1楽章展開部でまず変ロ長調で第1主題が出ますが、それが次にハ短調に衣替えします。その9小節目で第2ホルンのesと、オーボエと第2ヴァイオリンのdが短2度でぶつかってしまうのです。天才モーツァルトに僕ごときがこんなことを書くのは畏れ多いことですが、これはミス、誤りです。写譜のミスかと思い自筆譜までチェックしましたが、間違いなくモーツァルトの誤りです。
N響もそうでしたが、第2ホルンを半音下げて演奏すると誤りは補正されます。しかしEs管のナチュラル・ホルンでd(つまりシ)は第8部分音から「ストップ」(朝顔に手をつっこむ)しないと得られない音で、モーツァルトはそれを知らなかったはずだからそう書こうと思ったはずはなく、したがって半音の「誤記」ではない。完全に頭の中で間違っていたと考えられます。
ピアノなしで書いたか、移調楽器のホルンの記譜に慣れていなかったか、とにかく、子供とはいえ弘法も筆の誤りですね。上掲のyoutubeの演奏はそこを修正せずに楽譜通りにやってますので、えっという凄い音がしてますがお気づきになられましたでしょうか?
最後に、このスコア、ほんとにウォルフガングが書いたの?にお答えしなくてはいけません。
あくまで推理ですが、僕がレオポルドなら第2ホルンは絶対に直したろうなあと思います。彼ほどのプロが気がつかなかったというのも変ですし、あえてそのまま残したのではないでしょうか。自分が書いてわざと子供らしい細工をした?であれば知能犯ですが、数年後の曲(まちがいなく息子が書いた)が親父の能力をはるかに凌駕していますからね、「息子の真作でミスはあえて残した」が正解と考えております。
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N響Cプロ、バボラークのモーツァルト
2015 JUN 14 2:02:44 am by 東 賢太郎
指揮:アンドリス・ポーガ
ホルン:ラデク・バボラーク
モーツァルト/交響曲 第1番 変ホ長調 K.16
モーツァルト/ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K.412(レヴィン補筆完成版)
R.シュトラウス/ホルン協奏曲 第1番 変ホ長調 作品11
ラフマニノフ/交響的舞曲 作品45
アンドリス・ポーガという指揮者は初めて知りましたが、好感を持ちました。まずモーツァルトの交響曲第1番。作曲者8才の曲です。プログラムには「モーツァルトも最初はこんな曲しか書けなかったのね」とあるが、僕にとっては「小学校2年生がこんな曲書けたのね」です。
調性は変ホ長調ですがこれはホルンがEs管だからで、ちなみに彼のホルンのための曲はホルン協奏曲第1番K.412がD管であるのを唯一の例外としてすべてEs管です。これは友人ロイトゲープのために書いたためで彼がEs管を使っていたと思います。当時はナチュラル・ホルンしかないのでEs管を使えばその曲は変ホ長調になってしまいます。
交響曲はD、G、C管を使って様々な調で書いていますが、ホルンのない曲はひとつもないので、41曲の交響曲の調性はホルンが何管かと一致します。ロンドンで書いたK16も何かの理由でEs管になったのでしょう。そのホルンが第2楽章の第7小節からE♭-F-A♭-Gと-A♭-Gという「ジュピター音型」を吹くのですが、2番目の音でE♭とFが長2度でぶつかるのはぎょっとします。これをライブで聴けたのは貴重な体験でした。
2曲目は名手ラデク・バボラークが上記のK.412とR・シュトラウスを演奏しました。以前にやはりN響でグリエールのホルン協奏曲をやって、これが名演でしたが今日のも良かった。聞き惚れました。それにN響も弦がチューンアップしてますね。コンマスの伊藤亮太郎さん、曲ごとにチューニングされてよろしいですね。Vnセクション、いい音してました。オケとしても、R・シュトラウスの出だしのトゥッティのEs-dur、ワールドクラスの見事な音でした。
後半も指揮者、オケとも熱演でした。大変申し訳ないのですが、僕はラフマニノフのこの最後の作品が苦手で、何度か実演も聴いたのですがだめでした。楽器の数も音符の数も膨大なのですが、何のためかよくわからないのはマーラー以上です。
アンドリス・ポーガは35才ですが音楽の流れをまとめるのが上手いですね。オケは弾きやすいのではないでしょうか。こういうのは才能だなあと感服。リーダーに年齢は関係なしですね、人をひっぱることができる人は何才でもできるのだと思いました。
なにより前半の選曲がいいですよ。これは知性とセンスを感じるし、モーツァルトの1番からオケの方々は楽しそうでしたからR・シュトラウスの名演につながったかもしれませんね。やっぱりモーツァルト効果はほんとうにあるかもしれない。バボラークがのびのびと吹いてくれたのも、そういう空気があったんでしょうか。楽しませていただきました。
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クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-
2015 JUN 12 2:02:01 am by 東 賢太郎
オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日 – 1973年7月6日)という人は作曲家でもあり6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、オペラ、歌曲を書いていますが「それらの作品はほとんど省みられることはなく、評価の対象にすらなっていない」(wikipedia)ようです。トスカニーニやカラヤンがそうだったという話は聞きませんが、フルトヴェングラー、ワルターはやはり作品を残しています。作曲家の落ちこぼれが指揮者といっては失礼だが両方で成功したR・シュトラウスやマーラーもいるわけで、現実的にはそう見えます。
後述しますが僕は作曲家と演奏家は人種が違うと思っています。マニア(mania)であってもなくても演奏はできるが、マニアでないと作曲はできないと思うのです。マニアというのは辞書によると「躁状態」とか「信念や行動に対する不合理だが抑えがたい動機」なんてある。マニアックとは、そういうものを持った人のことです。
何とかキチとか何々オタクってのがそうです。前回ブログに大阪人のほうがマニア的資質の人が多いと書きましたが、虎キチはいても巨人キチはいませんよね。あるとするとG党ですが、キチの域には達してなくてちょっと冷めた趣味的、同好の士的な集団のように思います。
僕は生まれつきのマニア資質です。子供のころ、外で遊んでいて「夕方だから帰ろう」という子がいる。なんで?**ごっこが佳境に入ってるのに!と思うのは僕だけなんですね。みんな「帰ろ帰ろ」になってすぐ誰もいなくなっちゃう。
このこだわりのなさ、このあっさり感は、5時間でも10時間でもごっこをやっていたい者にとってつらいものでした。そういう子たちとは友達になれませんでした。そんな少年時代でしたから、高校でクラブに入って、死にそうだ、もう終わりたいと思うまで毎日一緒に野球をやってくれる仲間ができた時は本当に幸せでした。
だから同じように、朝から晩まで音楽やってる演奏家はマニアなんだろうと思ってました。ところがオーケストラのリハーサル時間が長いと組合が指揮者に文句を言ったなんて話もごろごろある。「仕事」なんですね、寂しいですね。デスクワークみたいに大過なく片付けて早く帰りたいということのようです。
そういう人はマニアでもオタクでもキチでもない、れっきとした普通の人です。オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」にオランピアというゼンマイ仕掛けの歌う人形が出てきますが、そういう話を聞くとオーケストラの面々がみんなオランピアに見えてくる。そこに生命を吹き込む指揮者という人が、だから必要なんでしょう。
ところが作曲家というのはマニアです。書きたいものは時間を忘れ、夜を徹してでも何千時間かけてでも書くのであって、モーツァルトがオペラを時給いくらで書いたり、自分用に別のアリアを足せといわれて残業代を要求したなんてことはないのです。あと1万円くれればもう5小節書いてもいいですよなんて人間ではありません。
だから組合活動に精を出すような演奏家と作曲家とは人種が違う。僕はマニアですから、音楽をやはりマニアである作曲家寄りに見ています。自分の心の声ですから正直に書きますが、声や楽器を大衆好みに派手に扱うだけの演奏家はどんな大家であろうと芸人と思ってしまう。芸人がいい悪いではなく、時給いくらの芸は心を打つことはないということです。
もちろん演奏家にもマニアがたくさんいます。演奏することのマニアですね。オットー・クレンペラー(右)は代表格でしょう。知人が家を訪問すると彼は全裸で楽譜に向かっており、知人には構わずそのままの姿で楽譜を研究し続けていた逸話がWikipediaにあります。僕はクレンペラーのそういうところが好きで、彼がマニアックにこだわった部分がだいたい想像がつくと勝手に得心しております。それに直感的な共感があるからです。
ユダヤ人の彼はナチの排斥によってドイツ物を振れるドイツ人指揮者が枯渇した英国でEMIに登用され、だからドイツ物が評価され、その奇矯で偏屈で激しやすい性格と女グセの悪さにもかかわらずロンドンで敬愛されました。僕がロンドンにいたころも、年上の英国人のお客さんで音楽好きな人たちはみな彼をきいていて、大体がほめてましたね。
我が国ではフルトヴェングラーを賛美するような性質のファンがそのアンチとして崇めていることが多い音楽家という印象です。実演に接してではなくレコードだけでの偶像崇拝だから仕方ないのですが、彼は楽譜をドライにクリティカルに見る人でフルトヴェングラーと同じ座標軸で比べることのできない指揮者です。メンデルスゾーンの3番はエンディングを直してしまうし、恩師マーラーの1番や5番は批判もしていて、望めばEMIにいくらでも機会をもらえたでしょうが、2、4、7、大地、9番しか録音していません。ブルックナーは4番以降は全部残しているのに。
彼のベートーベンは不動、堅固、悠然、堂々、孤高などという日本語でその威容を形容されることが多いのですが、それは彼の特色というよりもベートーベンがそういう音楽なのであって、彼の楽譜の読み方が音楽のそういう側面に目が行く傾向のものだからです。そしてそれは僕としては共感できるベートーベンです。あの楽譜をそう読みたいという欲求が僕にも強くあるからです。
フルトヴェングラーのように全体の雰囲気が先にあって、その時の感興によって流動的に音楽が生成されていくアプローチは、はまった場合のインパクトは強いのですが、僕は楽譜の読みより芸を感じてしまう。芸人ですね、一流ですが。ワルターの読みは柔和です。浪漫的ですらある。ちょっと違いますね、曲によって。トスカニーニは直線的で筋肉質ですがドライではない。クレンペラーの方がずっとドライです。
ここでドライというのは無味乾燥ということではありません。ウェットな感情による味つけが僅少だという意味です。もちろん感情が動かない曲は演奏しないでしょう。しかしそれは曲が持っている力であって、それを増幅したり恣意的に加減しない。クレンペラーの楽譜の読みにはどの曲にも共通してそういうマニアックなディシプリンが感じられます。ペトルーシュカからエロイカまで。そしてその方法論がワークしないなら、それは振らないか、楽譜を改訂してしまう。解釈論としてそれを解決はしないのです。
それをお示しする格好の題材がモーツァルトのオペラであります。彼は「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」を最晩年に録音しました。中でも圧倒的に不人気なのが「フィガロ」でありましょう。彼が神であった英国ですらそうでした。僕のお客さんのひとり、最も尊敬していたD・パターソン氏、彼はケンブリッジ大学首席の知の巨人でしたが、「あれはいかん、遅すぎる、彼は年取ってから腕の運動機能が落ちてたんだ」と残念そうにいってました。彼以外もみなさん一様に「フィガロらしくない」という。
たしかに、唖然とするほどテンポが遅く、管弦のアーティキュレーションに異常なこだわりを感じ、三重唱「Cosa sento!(なんということだ!)」のあの天才的和声がおどろおどろしく響く。こんな「怖いフィガロ」は英国ではあり得ないわけです。ひと山当てたかったモーツァルトは絶対にこんなテンポで指揮しなかったでしょう。しかしクレンペラーは交響曲なども録音していて、リンツの終楽章などはそこそこ速い。運動機能説には納得しかねるものを感じてました。
ドン・ジョバンニの地獄落ちの場面をクレンペラー以上に迫真の恐怖でもって描いた人は後にも先にもありません。これぞ真打の呼び声高い名演であり、こちらの方は一転してクレンペラーを讃える人が少なくありません。しかし、ここでも彼はフィガロと「同じ読み」をしているだけでドン・ジョバンニに歩み寄ったのではない、ドン・ジョバンニがそういうオペラなだけです。
極めてシリアスにしかし立体的に響くオーケストラの強奏はブラスが不吉にとどろき、教会でまろやかにブレンドされたような「モーツァルト的」音響ではなく、現代音楽に適したクラリティを持っています。フィガロの録音と同じ音がしています。騎士長のフランツ・クラス、タイトル・ロールのニコライ・ギャウロフの重い声が決定的に効いているのですが、彼らを選んだクレンペラーの歌手を選び抜く眼のクオリティは高く、彼の読みに適した「素材」の選別に妥協がないと感じます。
おどろおどろしい演出なんかちっともしていない!効果はモーツァルトがちゃんと譜面に書いているだろ、という「読み」の底力です。モーツァルトの譜面とだけ向き合ってこういう風に読もうとする、世間一般の通念など歯牙にもかけぬマニアックぶりはただただ嬉しくなります。フルトヴェングラーやワルターとは比べ物にならない、「ドライでクリティカル」な眼です。お聞きください。
コシ・ファン・トゥッテは4作の最後に録音され(71年)やはり音楽はやや遅いテンポでごつごつしてます。ベートーベンのように響く部分もあります。アンサンブル・オペラですから重唱が命ですが、楽器の明瞭なアーティキュレーションと歌手の明瞭な発音が素晴らしくシンクロナイズして独特の「濃い」味になっています。フィガロもそうですが、音楽をすいすい水のように流すということがなくオケは常に彫りが深く立体的で、立派そのもの。
そして女性陣がマーガレット・プライス(フィオルディリージ)、イボンヌ・ミントン(ドラべラ)、ルチア・ポップ(デスピーナ)と僕の好みの人ばかり並べられ、もう抗しがたい。素晴らしい歌が聴けますからフィガロが耐えられない方もこれは大丈夫でしょう。この曲にしては軽さがない、まじめ過ぎ、フィデリオみたいなど批判は予想されますが、僕は筋や舞台にはさっぱり興味がないので、この音楽の栄養分だけで充分です
そして、「魔笛」です。4作のうちでは一番早い64年とはいえ最晩年であったこの録音が自身の最後の魔笛であることは明白だったでしょう。オーケストラパートの彫琢はここでさらに光輝を増し、「おれは鳥刺し」の第2ヴァイオリンなど一聴して耳がくぎづけになったことを鮮明に記憶しています。
いうまでもなく魔笛はドイツ語による音楽劇(ジングシュピール)です。レチタティーヴォではなくセリフで語られるその筋書きのばかばかしさは、この音楽がなかったら1年もたずに歴史の闇の中に消え去っただろうという代物です。クレンペラーはそのセリフをばっさり省いています。そんなものはこの奇跡のような音楽のまえではどうでもいい。まったく同感であります。
クレンペラーは自身の魔笛をこの世に残すにあたって、モーツァルトの書き残した楽譜に潜む彼の天才をえぐりだすことだけしか眼中になかった。そのまま劇場で上演することも眼中になかった。モーツァルトのため、後世のために、音楽の真実を刻印しておきたかったのだと思います。この魔笛を聴いてあのフィガロのテンポがわかり、今ではあの録音を心から楽しんで聴いています。フィガロはケッヘル番号で492ですが、491はあのピアノ協奏曲第24番です。
この歴史的録音は女声の勝利ともいえます。夜の女王にルチア・ポップ、パミーナにグンドラ・ヤノヴィッツ、そして驚くべきは野球なら8番、9番バッターである第一の侍女にエリザベート・シュワルツコップ(!)、第二の侍女にクリスタ・ルートヴィッヒ(!)という録音史上空前絶後の豪華さ。めまいがします。
かたや男声はニコライ・ゲッタのタミーノは善戦してますがワルター・ベリーのパパゲーノがやや弱く、非常に重要な重唱を歌う二人の武者は勘弁してくれというレベル。それを彼はあまり重視しなかったのは僕には不満ですが、にもかかわらず女性軍の壮絶なパワーによってこの録音は永遠の輝きを放っているのです。このポップの夜の女王のアリアを凌ぐものを僕は聴いたことがないし今後もないでしょう。三人の侍女のアンサンブルの美しさは天国もかくやの神品ものです。
とにかくピッチがいいわけです。音楽の基礎の基礎、基本の基本です。でもできない人が多い。一人でもだめだとアンサンブルは台無しです。その他のああだこうだなんてこれができないなら言っても何の意味もないんです。そこに彼がこだわったからそうなったのは明白でしょう。ポップとヤノヴィッツとシュワルツコップとルートヴィッヒを選んでもってきた。できる人だけを揃えた。彼は言葉の真の意味におけるマニアなんです。その魔笛です。
モーツァルトのこの4つのオペラはまぎれもなく人類最高峰の文化遺産であり、何度観たりきいたりしたかわかりませんが、きけばきくほど心に泉の如くこんこんとわきおこるのはモーツァルトへの感謝の気持ちのみです。
おそらくそう思っておられるモーツァルトファンは数多いでしょう。大事なものであるからこそ、人口に膾炙しないクレンペラーの録音、特にフィガロは異端にされてしまったのではないでしょうか。しかし、僕はこの4つの録音をきいて、クレンペラーもモーツァルトに感謝の念を強く抱いていた人であろうと信じております。
とくにクレンペラーのファンというわけではないのですが、彼が自分にとってとても大事な音楽家だと思っている理由がひとつだけあります。きっと5時間でも10時間でも**ごっこで一緒に遊んでくれる子だったろうという気がするからです。
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モーツァルト セレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」K.388
2015 JUN 1 22:22:34 pm by 東 賢太郎
前回、ウィーンで足蹴の屈辱をうけて「丸腰の素浪人」となったモーツァルトが、自分のシンガーソングライターとしてのデビュー用に満を持して用意したピアノ協奏曲第12番作曲のいきさつを書いた(モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414)。その屈辱を忘れ、天性のプラス思考に火をともす契機となったのはコンスタンツェ・ウェーバー(右)との結婚だったことも書いた。
モーツァルトが母とパリに求職旅行の道すがらマンハイムで知り合ったのがコントラバス奏者、写譜士のウェーバー氏だった。彼はオペラ「魔弾の射手」のカール・マリア・フォン・ウェーバーの叔父にあたる人物で、彼の一家は娘アロイジアをタレントデビューさせて生計をたてるべく、その出世とともにミュンヘン、ウィーンと家ごと引っ越した。今でも芸能界でよくある話だ。夫人がアロイジアを自分の扶養契約つきで嫁に出したのを僕は若いころ強欲婆さんのイメージで見ていたが、大黒柱のウェーバー氏は都に来てすぐに亡くなっていたのだ。寡婦が生活費のバカ高いウィーンで一家を支えるには当然の行動だったと、この年になると同情も覚える。
モーツァルトも同様に契約で縛られる。これを後世はけしからんとみてひどい母親だと思いがちだが、アロイジアと同じことだ。彼は経済的にはずっと不安定で母は不安だった。二人が「できて」しまい、コンスタンツェが家に帰らなくなったため母は警察沙汰にすると脅したようだ。彼は後見人だったヴァルトシュテッテン男爵夫人あて書簡に「もしそんなことになるなら、あすの朝にでも、できれば今日にでもコンスタンツェと結婚するのが最上の方法だと思います」と8月4日直前に書き、8月4日に結婚した。駆け落ち同然だったようだ。
見知らぬ地の孤独な境遇で戦う羽目になった彼にコンスタンツェというパートナーが現れたのは彼にとって運命だったろう。華やかではあるが冷たい大都市ウィーンでめざましい力で生き抜いたことは彼女の存在なくして考えられないと思う。悪妻の汚名をきせられてもいるが、ウィーンでのモーツァルトの絶頂期の10年、すなわち音楽史に燦然と輝く10年を支えたのは彼女であり、彼の壮絶な人生に心からの共感を覚える僕としてはそのことだけでもお礼を言いた気持ちでいっぱいだ。
歌劇「魔笛」で僕がいつも涙が出て止まらなくなるのは、最後の最後、パパゲーノの自殺の場面からパパパ・・・にいたる所だ。あのオペラの主役はきっとパパゲーノなのであり、それはきっとモーツァルト自身の投影なのであり、あのストーリーの大団円はザラストロやタミーノの念願成就ではなく、パパゲーノとパパゲーナの結婚なのだ。それはなによりも幸福だった彼自身の結婚であり、だからそれを祝福するあの部分の音楽がこの世のものとは思われないほど感動的なものになったのだと僕は信じている。
モーツァルトがコンスタンツェと結婚する直前にヴィップリンガー通り19番地にあった「赤剣館」(右)の3階に引っ越したことを書いた。1782年7月23日のことだ。警察が踏み込むかもしれなかったのはここであり、前のアパートがウェーバー家の目と鼻の先だったからやや離れたここに逃げたのかもしれない。その3日前の7月20日付けの父への手紙に「僕のオペラを管楽器用に編曲しなくてはなりません。さもないともうけを横取りされてしまいます」とある。オペラとは大当たりしたばかりの「後宮からの誘拐」のことであり、当時の宮廷ではハルモ二ームジークといって管楽器楽団をかかえ、食卓でBGMを演奏させることが流行っていた。オペラの編曲はその格好のレパートリーだったのだ。
結婚をひかえ素浪人であったモーツァルトはリヒテンシュタイン候の楽団のために管楽器の音楽を書くことが「あまりもうからないが確実な仕事」と書いており、ハードルはもっと高いが、ウィーン宮廷に雇われたいという野望もあって皇帝の側近に管楽器の手の込んだ作品をアピールもしていた。そのどちらかの目的でその頃に書かれたと思われるのが今回のセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)である。彼はこの後、例の「アイネ・クライネ」以外はこのジャンルに曲を残していない。
この曲に誰もが思うのは、食卓でないにしろ一般にセレモ二アルな場で演奏されるセレナードがハ短調というのは奇妙だということだ。多くの学者はこれをスヴィーテン男爵のサロンでバッハ、ヘンデルの楽譜を研究した影響とみる。モーツァルトがバッハの楽譜に驚愕を覚えたことは想像に難くなく、平均律を四重奏に編曲したり、多くは未完に終わったがフーガの作曲を試行している。「プレリュードとフーガハ長調」(K.394)はその完成された例だ。
自身もフーガを作曲したグレン・グールドがそれを弾いている。フーガは巧みにバッハを真似ているがどこかこなれておらず、モーツァルトらしい顔ものぞく(最後にバスのソがラ♭に上がる所はK.491を予見する感性だ)。ここでグールドはバッハのフーガに「やばい」と思ったモーツァルトに鋭く共感しており、そういうことを愚鈍に無視した世間一般ミーハーのモーツァルト像が大嫌いだったにちがいない。その一点において、僕もまったく同じ動機で本稿を綴る者であり、彼に深い共感を覚える。
この曲は82年4月20日の手紙で「まずフーガを作り、それを書き写しながらプレリュードを考えた」と書いていて、モーツァルトの尋常ではない頭脳構造を垣間見る。さらに面白いのは、「コンスタンツェはフーガに夢中になっており、僕がまだフーガを書いたことがないと言うと、すべての音楽様式の中でいちばん技巧的で美しいものを作曲したことがないなんてと手厳しく僕を責め、しきりにせがむので、彼女のために1曲書くことになりました」と書いていることだ。
この部分の解釈は諸説あるが、僕はこれをコンスタンツェが父に気に入ってもらえるように売り込むために「フーガ好き」であることに脚色してイメージアップを図ったとみている(「ハ短調ミサ」のソプラノパートを歌わせるのと同様の手口だ)。どうしても彼女との結婚を前向きに認めてもらいたかった。もしそうであるならば、フーガは「すべての音楽様式の中でいちばん技巧的で美しい」と彼自身が認めており、そのことは父との間でも了解事項になると信じていたことになろう。
それだけではない。最愛の妻を得て心の平静を取り戻した彼は未来を見る。そこで自分の音楽に対して未来志向にもなっていたと僕は思う。「バッハの楽譜に驚愕を覚えた」と書いたが、才能に天狗になっていた彼を打ちのめしたのはそれだったろう。何度も書くが、彼は作曲に関してプラグマティックな人間である。技術で誰かに負けるということは彼の辞書にはない。
いちばん技巧的で美しいものは立身出世のため彼が越えなければならないハードルとなった。ここでセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)の第3楽章がメヌエット・イン・カノーネとあり、フーガではないがカノンになっているのが注目される。オーボエが先行しファゴットが追っかけ、トリオでは反行カノン(音程を上下逆にする)になっており、交響曲第40番のメヌエット(第3楽章)を思わせる曲調の楽章だ。
つまりこの楽章はバッハの音楽のように「技巧的で美しい」ものへの接近であって、このセレナードがバッハの作曲技巧をマスターしたことの宮廷へのアピールであったとすればハ短調であることは特に奇異なことではない。スヴィーテン男爵のサロンに出入りしていた貴族の間でも、男爵自身はもちろんのこととしてバッハ、ヘンデルの価値は認識されていたはずであり、モーツァルトがその音楽様式をすばやく巧みに消化したことは好印象として加点になるという理解があって不思議でない。
我々現代人が奇異に思ってしまうのは、短調が悲しみを表現するというロマン派仕込みの既成概念があるためだ。バッハの平均律は24の長短調で書かれているが、オクターヴ12の音×長調と短調=24となっているだけで短調曲が悲しみを描いているわけではない。ベートーベンは1798年にやはりハ短調で書いた8番目のピアノソナタに自ら「悲愴」と名付けたが、短調=悲愴感という発想で書いた曲であることを広く理解してもらうには逆にタイトルが必要な時代だったからではないか。芸術に悲しみを見る19世紀的な浪漫思想の発祥はそのあたりになるのではないかと僕は考えている。
モーツァルトが短調に何も感情をこめなかったかというとそうではないだろう。だがそれはドン・ジョヴァンニが地獄落ちしたり、夜の女王が怒りの発露を見せたりという場面にも現れるのだ。後世が「走る悲しみ」とロマンチックに語ってみたり、やがてやってくる死を見すえて涙や諦観をこめたなどと比定するのは、まったくちがうと思う。彼の作品のバランスとして、平均律に短調があるほどメカニックな理由ではないにしろ、彼の感情の振幅の一方を受け止めるに必要な作曲技巧の様式としてそれは現れたと考える。
非常に興味深いことがある。第3楽章に交響曲ト短調がきこえるセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)の終楽章にベートーベンのピアノ協奏曲第3番ハ短調の終楽章のテーマが聞こえることをお気づきだろうか?この協奏曲がモーツァルトの第24番ハ短調K.491の「親類」であることは多くの人が指摘しているが、ナハト・ムジークK.388の親類でもあるとしたら意味深い。K.388のカノン楽章がこだまするト短調交響曲K.550の終楽章主題が第3楽章冒頭主題になったハ短調の運命交響曲にも系譜がつながっていくからだ。
ベートーベンのトレードマークとなった「ハ短調」がK.388とK.491を始祖とすると考えるのはエキサイティングだ。しかし「この種の作品(オペラ)を管楽器に合うように、しかも原曲の効果を損なわずに編曲するのがどんなに難しいか、あなたには想像もつかないでしょう」(1782年7月20日)と彼は父に書いている。モーツァルトは作曲に対していつも超一級の職人でありプラグマチストなのだ。それは後世の我々にも、ひょっとしてベートーベンにも想像がついていなかったかもしれない。つまり、彼のクラリネットを使った作品にハ短調、変ホ長調(いずれも♭3つ)が多いのは多分にそういう楽器法上の理由だったかも知れないということだ。あまりに皆さんのロマンを壊して申し訳ないが、僕自身がプラグマチストなのでご容赦をお願いしたい。
これが問題のナハト・ムジークK.388である。
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モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414
2015 MAY 27 18:18:50 pm by 東 賢太郎
(1)音楽の墓碑
ハイドンはロンドンでモーツァルトの訃報を聞いた。1791年のことだ。そして交響曲に彼のジュピター交響曲を引用して故人をしのんだ( ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君)。ハイドンはこの頃はもう晩年だが、異国の地で寵児となりキャリアの絶頂という思いを味わっていたことだろう。
かわいそうなモーツァルトだが、その彼もまた、知人の訃報に接してまったく同じことをしたことがある。
1782年1月1日に亡くなったヨハン・クリスチャン・バッハの訃報だ。「音楽界にとってなんという損失でしょう」と4月10日付の手紙にある。この人は父に連れられてロンドンにやって来た8才の彼をかわいがり作曲を教えてくれた恩人だったからだ。墓碑としたのは歌劇「心の磁石」序曲で、ハイドンの引用は控えめだが、モーツァルトの方はほぼそのままだ。
その曲がピアノ協奏曲第12番イ長調k.414(さよならバッハ先生)である。引用は第2楽章の冒頭にある。ハイドンがこの墓碑を知っていたのか、それでモーツァルトの番になったときそうしたのか?知る由もないが、この曲を聴けばそれがわかっただろうしわかるようにモーツァルトも曲を選んだだろう。
(2)辞職の怨念
12番を作曲したとき、モーツァルトも幸せの絶頂だったと思いたい。キャリア上の成功はまだこれからで輝かしい頂点は数年後にやってくるのだが、ひとりの男としての喜びはこのころが一番だったかもしれないと。コンスタンツェ・ウェーバーと結婚したからだ。
それはコロレド大司教に辞表を叩きつけて自由の身になった翌1782年、26才の夏のことだ。その結婚は父レオポルドに無断で行い激怒された。コンスタンツェの母親(すごいやり手だ!)の計略にはまった観があることを父は数々の噂から見抜いていたし、その見立てが正しかったことを後世の我々も知っている。だから困ったわがまま息子の印象がぬぐい難いのである。
しかし重要なことを見のがしてはいけない。辞表は受理されておらず、彼はコロレドがいずれ自分を逮捕するのではという疑念を持っていた。会社を勝手に飛び出して競合他社に移籍した男が元の会社に反撃されるのではという恐怖をいだく。僕は経験者だ。当時、大司教をしばる法律なんかない。しかも父はまだ同社の幹部社員であり、立場をめちゃくちゃにしてしまった。彼は大きなストレスをひきずっていただろう。
それだけではない。上司との口論、辞表、足蹴という事件がモーツァルトの消し難いトラウマとなり、後の10年の音楽人生に良くも悪くも影響を与えたと信じる。料理人と同じテーブルで食事させられただけで憤慨するプライド高き男が罵詈雑言をあびせられ尻を蹴られた。それを父に報告しなければいけない。その屈辱を押し隠して平静を装った手紙を読むたびに、彼のずたずたになった自尊心が行間に浮かび上がる。
音楽史はフリーランスになった彼がのびのびと珠玉の名曲を生んでいったかのごとく叙述するが、僕はそれを否定する。天才とまつりあげるのでなく、もっと生身の人間として見てあげたいと思う。彼は貴族、聖職者階級に怨念を抱いたと思う。そうでもなければフィガロ事件を起こすこともなかった。辞表事件の消し難いトラウマこそ彼の深層心理に残った強い衝動であったというのが僕のモーツァルト観の根幹にある。
だからなのだ、モーツァルトがロンドンに呼ばれたかったと確信するのは。だから3大交響曲は生まれ、大傑作としての命を吹き込まれたのだ。彼は生地ザルツブルグの宗教的磁力圏を飛び出したが、それは逃れることのできないハプスブルグ帝国人事への反逆であり、半沢直樹が「銀行ではもう生きていけないな」とつぶやく性質のものだ。彼はそれをもちろん知っていた。そういう人は外資系に行くしかないことも。
(3)幸福だった結婚
やり手のウェーバー夫人。その4人娘の次女、モーツァルトがぞっこん惚れていたアロイジアは彼より母親に金を貢げる男とくっつけられていた。彼があてがわれたのは容姿、歌唱力とも劣る3女コンスタンツェだ。想像になるが、父が心配するまでもなく彼はそれを知っていて耐えた。しかし、コンスタンツェは彼にとっては魅力的な女性だった。ストレスと闘いながら、彼は結婚を必要としていた。おそらく。
だから自分の中でコンスタンツェとの縁をあたかも自分が選びとった選択肢であったかのように正当化し、その筋書きどおりに父の説得を試みる。それは手紙でわかる。そこで彼が説得に弄した懸命のレトリックは興味が尽きない。これは彼が各地の音楽趣味に合わせて聴衆を説得しようという(要は曲をたくさん売り込もうという)作曲上のレトリックを読み解く手掛かりになるとさえ僕は思っている。
彼という男は「彼女はけっして美人ではないが」と譲りつつそれを補って余りある美徳を有するのでこの結婚がベストなのだと父に売り込んでいるうちにその見事なセールストークに自分も説得されてしまい、ほんの数年前に同様の美辞麗句をアロイジアの売り込みに並べたてていたことを忘れてしまう。
そこまでいけば本物だ。彼はコンスタンツェを本気で好きになったのだ。彼女がいい女、いい女房だったかどうか論じる人が大勢いるが、僕はあんまり重要でないと思う。それよりも、そうやって自己流にいい方に解釈してロジカルに自分を納得させるプラス思考こそが彼を天才にした秘密と思う。彼は幸せな結婚をし、12番を書いた頃、それをかみしめていたと思う。
(4)モーツァルトのレトリック能力
その場の思いつきにすぐ飛びついて夢中になってしまう息子を父は手紙で厳しくたしなめている。同じような説教を親父に何度も食らっている僕はどうしても気持ちが息子側に立ってしまう。それは熱しやすく冷めやすいお調子ものの日和見性格と言われても仕方ない。しかし熱したときの彼の集中力はすばらしい。
熱と集中。これがあるから彼は人間業とは思えないことを成し遂げた。でもそれはどこまで突き詰めようと分解しようと熱と集中だ。普通の人間は熱も集中もないから人間業でなく見えるだけだろう。彼の言葉や音楽が雄弁に人を説得するのは、それが彼自身をも説き伏せてしまうレベルに至るまで作りこむ熱と集中を持って生まれてきたからで、そういう意味でいうならまぎれもない天才である。
彼を情動やインスピレーションが支配するタイプの天才と見るのは僕のイメージではない。情動を理性が完全制覇するほど理性が勝った人だと思う。どんな未知の作曲様式でもすぐマスターして音符を書く彼の並みはずれた能力。これはレトリック能力と通ずるものだ。彼の理性は自分自身すら説得する高次のセールストークを瞬時に組み立てることができる。それはバチカンで発揮された彼の音の記憶力と処理能力の産物だ。
受験数学はひらめきだと思ってる人は数学が不得意の人だ。あれは暗記科目だ。モーツァルトがひらめきの作曲家でないことは「僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました」と言っていることでわかる。ひらめきの寄与はあってもそれは記憶のストックから出る。彼の作曲能力は基本的に実務的、プラクティカルなものだと思う。
(5)12番が書かれた頃
彼は12番を 「易しすぎもせず、難しすぎもしないように、プロにしか味わえない部分があるが素人にも心地よく響くように作曲した」と手紙に書いている。まだマーケティングのターゲットが絞れていない。11~13番の楽譜を予約販売する新聞広告を出したが売れなかったようだ。
以下の写真は10年前の冬にウィーンで撮ったもの。7月16日にブルグ劇場で「後宮からの誘拐」を初演(大成功)した彼は23日にヴィップリンガー通り19番地(写真・右、建物は変わっている)にあった「赤剣館」の3階に引っ越した。そして8月4日にシュテファン聖堂で結婚し、ここで新婚の日々を過ごしたのである。交響曲第35番「ハフナー」の原曲であるセレナードはここで書かれている。
そして夫妻は3か月後の11月末に同25番地の4階に移った。写真下は「赤剣館」の前から撮影したもので、左から2番目の建物(今は銀行)がその新居である。ご覧のとおり道をまたいだ数十メートルの引っ越しだった。この距離を彼は父への手紙に「ほんの数軒離れたところです」(1783年1月22日)と書いているがほんとうにそうだ。
自由の身、オペラは大成功、新婚生活。左側の新居で彼は夕方6時から翌朝7時(!)まで20人近い客人を集めて舞踏会をして騒いだ。ハイドンセットの第1曲目となる弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387はここで12月31日に完成された。この通りをモーツァルトはどんなに有頂天で歩いたことだろう!
彼はここでピアノ協奏曲第12番を書いた。
大家の都合で夫妻は83年2月にコールマルクト7番地に引っ越す。しかしユダヤ人の大家は3か月の家賃を取らず引っ越し代も出してくれた上、ここの家賃も持ってくれた。その新居が写真右の左手前の入り口から入る建物だ。100メートルほどと目と鼻の先のブルグ劇場(つきあたりにあったが今はない)で3月23日に開かれた予約演奏会はこの家で書かれたハフナーの交響曲版(第35番)などが演奏され大成功だった。これには皇帝ヨゼフ2世も臨席したから、天覧試合で本塁打を打った長嶋みたいなもの。飛ぶ鳥落とす勢いだった。
この家を彼は「みすぼらしい下宿」(父への手紙)と書いているから「僕らは住みやすい街を探してまわりました」(同)となったが、コンスタンツェが8か月の身重だったことが大きな理由だったろう。それはユーデン・プラッツというユダヤ人居留地に見つかり4月24日に引っ越した。
それがこの「ブルグ館」(左)の2階である。入り口の右に貼ってあるプレートが右下の写知だ。ここで書かれたのがハイドンセット第2曲、弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421だ。ちょうど出産(6月17日)を迎えたときにこの曲のメヌエット楽章が書かれたとコンスタンツェが証言したとされ、痛みに耐える悲鳴が音になっているという。この逸話に確証はないが、僕はこの曲想はそう信じてよいのではと思っている。
この頃モーツァルトの頭は勝手に強行した結婚を父親と姉に認めてもらうことでいっぱいだった。そのために二人の前で妻に歌わせようと書いた「ハ短調ミサ」(K.427)だが、前の家(3月)で中途で
放棄して未完に終わっている。四重奏は書いていたのだから妻の方がお産で練習どころではなかったのだろうか。産後1か月ほどの7月25日、赤ん坊(男の子ライムント)を人に預け、夫妻は父のいるザルツブルグへ向けて馬車で旅立つ。大司教と悶着を起こしたうえに親の許しもないまま(しかも快く思っていなかった)女といつの間にか式を挙げてしまった息子を父も姉も許さなかった。そうしてザルツブルグを去った10月27日、それが彼が故郷を見た最後の日になった。この旅は帰路で立ち寄ったリンツで書かれた交響曲第36番を我々に残してくれた。しかしモーツァルト夫妻は第1子であったライムントを失った。この子は8月21日に亡くなっていたからだ。
12番は名曲ぞろいのピアノ協奏曲のなかでは地味目で割をくっている観があるが、ケッヘル番号400番代でハフナーやハイドンセットと同時代の作だ、悪いはずがないということをご認識いただきたい。何より、上述のようなストーリーを背負ってもいる。ぜひじっくりと味わっていただきたい名曲である。
前にご紹介したリリー・クラウス / ピエール・モントゥー / ボストンSOをこの曲のベストとする。このマレイ・ペライア / イギリス室内Oも美しい。これは空っぽの金髪美人系であるが、あえて強い主張を盛り込んでいない12番前後ではこのイノセントさは魅力に作用する。曲の美しさをまず知っていただくのに良い演奏と思う。
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クラシック徒然草-半沢直樹とモーツァルト-
2015 MAY 26 1:01:38 am by 東 賢太郎
先日ソウルへ飛ぶ機中で「半沢直樹」を初めて見た。第1話だけだが、食わず嫌いはいけないと思って見始めたら面白くて真剣に見てしまった。組織の論理と個人の幸福。証券会社だっておんなじだ。
もう同期は全員が外に出てしまったし、上司や部下だった人たちもそれぞれの人生を歩んでおられる。皆さん、サラリーマン人生はいろいろあったし、僕もあった。
25年いた会社で経営職(部長)として突然自分から「辞めます」と言ったことは僕の中で重い。日本的には決してほめられることではないし、そういうことは元来自分のするようなことではなく、心に何もなければしなかったと思う。
今でも時々夢を見る。海外のどこかの店に異動辞令が出て赴任する。良いポストだ。それがどこかわからないまま目が覚める。あまりに生々しく現実味があって、ひょっとしてああいう店に本当にいたことがあったんじゃないかと目覚めた刹那は錯覚している。
サラリーマンはそうやって異動、昇格に一喜一憂し命を削っている。嬉しかったのも落胆したのもある。ひとつひとつの辞令を受けた時の気持ちはすべて昨日のことのように覚えている。会社を辞めます、というのはついに辞令を自分で出したということだった。
そうして良かったかどうか、良かったと思いたいがどうだろうか。失ったものも大きいだろうが後の祭りだ。ふとした時に出てくるそんな後悔や傷心を、移籍した会社はおそらくよく理解され、修復し、新人で梅田支店にいた時のような自分に戻してくださった。
いま思っていることだが、あれがなかったら僕は完全にだめになっていただろう。辞めずに残っていてもたぶんそうだった。見栄、プライド、慢心のかたまりだったからだ。しかし新しい会社では、それを粉々にしないと次はなかった。
そこからまた数々の見込み違いと失敗に失敗を重ねて、そのご恩に十分報いることもなく僕は55才でサラリーマンの経歴を断つことになった。宮仕え完全失格である。大学卒業時に親父が言った。賢ちゃんはサラリーマンは向いてないよ。それは正しかった。
辞めてしまったら半沢直樹と違う。レースは負けだから何を書いても負け犬の遠吠えにすぎない。これも数々重ねてきた自分の大失敗のひとつかもしれないとも思うが、しかし精いっぱいの負け惜しみを放つならば、負けてよかったということもある。
後で忸怩たる思いになったとき、人間は無意識に似た境遇の人を探すものだ。偉人である方がいい。自分をより正当化できるからだ。そしてそれはまったくもって容易に見つかった。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。
意に添わぬ命令(いじめ)で縛り付けるザルツブルグ大司教のコロレドとモーツァルトが決裂したのが1781年5月9日だ。コロレドの部下のアルコ伯爵に辞表を叩きつけたのは12日、そしてついに6月8日、尻にアルコの足蹴を食らってモーツァルトはザルツブルグの職を解かれるのである。
こんなに日付がわかっているのは彼が父親に手紙で事件を報告しているからだ。やむにやまれぬ決断だった。しかしまじめにサラリーマン道を歩んできた父にとって、自分の仕える社長に対して息子がした狼藉は許し難い。それを知る息子が冷静を装って書いている文章は、だから身に迫る。なぜなら僕も会社を辞めると親父に報告した時、モーツァルトと同じぐらいの冷静を繕った配慮に腐心したからだ。
そこから死ぬまでの10年半、ウィーンで自由の身となった彼は人類史に輝く大ヒット作を連発する。自由の喜びがそうさせたともいえるが、僕はそれだけでないと直感する。彼がザルツブルグにとどまっていたら?いじめや足蹴がなかったら?歴史にイフはないが、考えてしまう。半沢直樹に出てくる不遇の同僚、権力と運命に愚弄されていく可愛そうな男たちの怒りを感じる。モーツァルト君、会社辞めてよかったね、心の中でいつもつぶやく。
それがモーツァルトの起爆剤となり、最も大きな、そして危険な爆発となったのが「フィガロの結婚」だ。そこを頂点として彼の人気は落ち始め、順風満帆に見えたウィーンでの人生がどんどん翳っていく。なぜ彼が男盛り、働き盛りで急死したのか?11月20日まで指揮ができた35才の男が12月5日未明に絶命した。モーツァルト君、でも会社を辞めなければこんなことにならなかったかもしれないねとも。
彼は天才だが、映画アマデウスが描いたような「天衣無縫」の天才ではない。自分でこう書いている。
「長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
いい言葉だ。僕はモーツァルトのこういうプラグマティックなところが好きだ。「天から楽想が舞い降りてくるんです」なんて言いそうなイメージを後世が創作したが大ウソだ。彼はそんな佐村河内みたいなことは言わない。要は「僕が成績がいいのはたくさん勉強したからですよ」と言ったのだ。実にストレートで小気味がいいではないか。
こういうことすべて、モーツァルトのあれこれが何でも好きになってしまった。これは一般のファンが天衣無縫の天才作曲家を神として愛で崇めるのとは一風異なる。僕にとって彼は会社を辞めた宮仕え完全失格のだめ男で、いわば自分と似た者同士なのだ。
同じ欠点がある、こんなに近しく感じる者がほかにあろうか。僕にとって彼が大作曲家であることは二義的な話であって、彼が靴屋だろうが染物屋だろうがよかった。ところがたまたま彼は作曲家だった。そしてその作品ときたら。
誰も信じてくれないだろうが、僕は彼の一部の曲に強い霊感を覚える。聴くという行為より、共振という方が近い。こんなことはほかでは一切ない。2005年12月にウィーンへ一人で行った時は、まさに驚愕の超常体験?をするに至った。もう他人と思えないのだ。
だからだろう、そういう魂の入っていないモーツァルト演奏は僕にとってはオルゴール未満の零点だ。表面だけ整っていて美音で隙なく固めたモーツァルト。dumb blonde(頭の空っぽな金髪美人)にほかならない。これはおいおい演奏を例にとってお示ししていこう。
半沢ストーリーの劣等生。そうかもしれないが、ものすごく愛すべき人間と思う。劣等だから判官びいきの僕に響く。ところが考えれば自分自身もそうなんだ。自愛にもなる。これも劣等性の広島カープもそうじゃないか。
猫も杓子ものモーツァルトや、女子と黒田で全国区のカープなんて好きじゃないかもしれない。自分もそうじゃないし。そうやってモーツァルトを愛し、彼の音楽を楽しんでる人は地球上にあんまりいないだろうなあと思いつつ本稿を閉じる。
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モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503
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ブログ閲覧数30万によせて
2015 MAY 21 18:18:01 pm by 東 賢太郎
おかげさまをもちまして総閲覧数が30万を超えました。毎日400~500のアクセスをいただいているようで大変光栄に思います。
いろいろな方からご意見ご指導をいただきますが、内容がコアすぎて(特に音楽)わからんというのが多いですね。だからコメントも入らないしと。
ただ、数を増やそうとして軽めのツイッター風にしたり、人気はあるけど関心のない曲について書くのは趣旨が変わってしまいます。
例えばマーラーですが、6番や7番も好きになろうとしたことはあるので音楽自体はよく知ってます。しかし結局努力は報われず疎遠な部類になりました。そういう曲の演奏や解釈にYESもNOもありませんから、書かないというのが良心でしょう。関心あることだけ書く。するとコアなものになってしまう。そういうことです。
ただし先日、ポリシーでなかったCD聴き比べ(ブラームス2番)を書きました。それは理由があります。所詮趣味だからと思って書いていたら、「おすすめのCD探して買いました」という方がおられることがわかったのです。
投資されるわけだからそれに満足されたかどうか気になります。だから、僕がYES、NOとしているモノサシを「開示」しておくべきだと思ったのです。ご自分がYESだった演奏を僕がNOなら、たぶん趣味が合わないので一切無視していただくほうがよろしいということです。
僕自身の経験談があります。学生の頃、「天下の名盤」という評論家の意見を読んでブルーノ・ワルターのモーツァルトを買ったのですが、いくら聴いてもつまらなくて自分はクラシックがわからないのかと悩んだ時期があります。
それはワルターのせいではなくて、レコードの録音が良くなくモーツァルトの音楽にも慣れてなかったというだけだったのですが、そのせいでストラヴィンスキーは好きなのにモーツァルトは御免なさいという時期がけっこう長くありました。
モーツァルトのようなものは「だまってこれを10回聴きなさい」と誰か先生が教えてくれたらもっと楽に入れたなとは思いますが、それがワルター盤だったらだめだった、でもそれが万人が名盤と推すものだったという困った経験があるのです。
こういうのを心理学で認知的不協和と呼ぶんでしたっけ。とにかく不快なので人間の心は自然に不協和を解消しに行くそうです。普通の場合、「ワルターの演奏は良いのだ」と思い込み、自分を騙す。そうやって長いものに巻かれるのが楽なのかなと思います。
ところが僕はそうする前にスイトナー盤に出会ってしまったのです。世評は高くもなく廉価盤だったスイトナーを耳にして、僕は一発で、目からうろこで、モーツァルトの魅力を知ることになりました。
この経験は痛快でした。以来、世評や通説はどんな権威者のものでも鵜呑みにしなくなり、自分の眼力とテーストでものを判断する自信がつきました。こと音楽以外の物事でもその姿勢が座標軸となり、その後の人生にまで影響しました。
僕は中学まで音楽の通信簿が2の劣等生です。だからこれから聞こうという方々全員に自信を持っていただきたいのですが、僕のスイトナー盤のような出会いを遂げれば難なくハードルは超えられます。
嫌いなものはどんどん捨てて構わない。世評なんかどうでもいいのです。100あって99捨てても、これだという一つに出会えばそれで人生の宝が手に入ります。誰だってできます。できないかもしれないのは、そこまで我慢することだけです。
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クラシック徒然草-三遊亭金馬とモーツァルト-
2015 MAY 20 0:00:24 am by 東 賢太郎
モーツァルトらしく弾くというのは「入ってしまえる」かどうか、それには四大元素が彼に合うかどうか、彼のユーモアを笑えるかどうかであって訓練して笑えるようになるものではないと書いた。
世に美しいモーツァルト演奏はいくらでもある。彼らは演奏のプロだから美しく弾けるのはもちろんだ。でもほとんどはモーツァルト耳にひっかからず素通りしてしまう。ぴんと来ないというか、面白くないのだ。
卑俗に例えれば、お笑い芸人がほかのお笑い芸人の物まねをしているのだが、ギャグのネタを笑えていないので形態模写だけになっている感じだ。似ているがつまらない。それをパクって彼の出し物にしても客が入らないという体のものだ。
芸というものが演じる人の持ち味とピタリと合致した興味深い例が落語にある。三代目三遊亭金馬の「居酒屋」だ。自身が酔人になって暴れた人にあらずしてこの縄のれんの酔客の味が出ようか。
酔客も小僧も声色に実に細かい神経が通って、要所で客席で聞きとれる発音、テンポに落とすなど、実は知的で心憎いコントロールが効いている。至芸と思う。
ショパンやドビッシーは素人が弾いてもショパンやドビッシーらしくなるという点で、酔っ払って暴れた経験がなくても小僧をいびれる。モーツァルトなる演目は「居酒屋」と似たものがあって、弾く者の本性にそれを演じる適性の固い芯がないとらしく響かない。
それが何故かというのも、コンピューター解析の及ばない人間精神の奥深いところでの化学反応だろう。 異質なのはモーツァルトの方であって、ほとんどの音楽は楽譜をちゃんと弾けばそれらしくなるし、ショパン、ドビッシーはその代表選手にすぎない。
僕が若い時の最高のモーツァルト体験のひとつはフィラデルフィアO.の定期演奏会に登場したラドゥ・ルプーの第17番の協奏曲だった。あのピアノを最前列の真近で聴いて、ああモーツァルトはこういう響きなんだと思った。
それまで幾枚かのレコードで知っていたピアノと似てない。そのポエティックな音の調合がどうやってできたのか、以来知ることはなかったが、このyoutubeを見て気がついたことがある。ルプーの19番である。
彼のフレージングは音価が均等でないのだ。テンポは変わらない。しかし楽譜通りの機械的な音符をなぞった部分はただのひとつもない。
例えば第1楽章でいよいよピアノの登場するところ。ターンターンタターンターンというシンプルなリズムの下線を引いたタタの音価が短くなっているのにお気づきだろうか。このフレージングがオーケストラにも伝播して独特の躍動を音楽に与える隠し味となっている。
音楽は直線的にサラサラと流れるのでなく、川の流れが水底の浅いところで遅くなるようにフレーズの自然な節目ごとに一塊のものとしてその都度に生命が吹き込まれる。音価のズレは全曲にわたって、そういう部分で現れるのだ。当時29才の若僧だった僕にそれは知る由もないが、これがあれっと思ったものの正体だったのではないかと思う。
ルプーの23番の第2楽章をじっくりお聴きいただきたい。音符の音価を守って弾くということがいかに非音楽的な行為かお分かりになると思う。単純明快に書かれたモーツァルトの譜面から生命の息吹を読み取ることがいかに重要か、そしてそれこそがモーツァルトらしい音楽を生み出すということを体で感じとっていただきたい。
音価を崩すのが目的でないのは言うまでもない。ルプーは酔人としての経験から 、縄のれんの酔客を演じるにそういう「口調」がふさわしいとしてその芸を選び取ったわけだ。それは金馬が「居酒屋」という出し物の面白さをえぐり出すために選び取った芸と変わらない。モーツァルトらしさは楽譜に書かれているのではない、達人の芸が生み出すものである。
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クラシック徒然草《クレンペラーとモーツァルトのオペラ》
クラシック徒然草-モーツァルトを聴くということ-
2015 MAY 19 1:01:24 am by 東 賢太郎
良いモーツァルトいうのは難しい。世にこれだけ演奏があるのに心して耳を傾けようとなるものはそうあるわけではない。僕の場合「モーツァルト耳」があって、ぱっと聞いてそれにひっかかるかどうかだけが判断基準で、そうでなければ無用になる。
モーツァルト耳にちっとも理屈はないから文章にならない。40余年聴き続けているうちに勝手にできたもので、ハイドンやベートーベンがうまい人のモーツァルトがさっぱりというのは日常茶飯事。どうもモーツァルトは他とレシピが違うらしい。
CD20~30枚買って1つ当たればラッキーという程度で不経済だ。モーツァルトはだめという大家、大御所がいると思えば無名の学生さんが当たりだったりもするから予断を許さない。いわばハマりの役者でないとつとまらないハムレットみたいなところがある。
役者さんの評価はシェークスピアがハムレットをどうしたかったか、まず演出家のその解釈があって、そういう演技をしたかどうかで決まるだろう。同様にモーツァルトの音楽は彼がどうやりたかったかを演奏者が感じ取れるかがすべてと思う。そのことは、彼が「シンガーソングライター」であったピアノ曲では特に意味を持つだろう。
例えば、ピアノソナタ第12番K.332の第2楽章のピアノパートはベーシックなもの(A)と装飾的なもの(B)の二通りがある。これは示唆に富む事例だ。Aのように書いておくがBのように弾くのもいいよと言っている。誰がって?ほかならぬモーツァルトがだ。
この事実は何人をもってしても次の仮説を否定することを困難にするだろう。つまり、彼のピアノ譜というのは大胆にいってしまえばコード進行や大枠の対位法を記した備忘録か見取り図のようなもので、その上でインプロヴァイズ(即興演奏)することを暗黙の了解としたものだということを。
これをハムレットに当てはめよう。彼は「筋書きは変えないように、でもセリフの言い回しはお好きなように」といっているのだ。これを彼は実践している。オペラ魔笛の舞台でパパゲーノ役だったシカネーダーの歌をチェンバロで伴奏しながらいたずらを仕掛けているのだ。一言一句台本のまま正確にやれなんて程遠い、お遊び精神ありありなのだ。
つまり楽譜情報を正確に美しく音にリアライズしましたっていうのはモーツァルトではない。遊び盛りのいたずら猫と木彫りの猫の置物ぐらい違う。
僕が「モーツァルト耳」と書いたのは、本物の猫の方に反応する耳ということだ。これを言葉で表すとなると、致し方なく「モーツァルトらしいかどうか」ということになってしまう。なんだそれは?それを知りたいのにそれらしいかどうかと言われてもわからん、ということになるだろう。
それはこういうことだ。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」というものがある。これはたくさん聴けば誰でもわかるが偽作を聴くと特によくわかる。そこにはこれは彼じゃない、彼はこうは書かないぞとピンとくる部分があるからだ。
「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」という有名な偽作がある(k.297b)。この第3楽章は僕にとって明らかに他人のものという旋律で開始する。これが偽作に聞こえたらかなりの「モーツァルト耳」をお持ちだ。
それを裏返しに見ればいい。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」を感知できる感性こそがモーツアルトらしい演奏をする能力だ。問題はこれが勉強やコーチングで身につくかどうかだ。音大の先生には申し訳ないが、僕はそれに疑問を持っている。
簡単だ。「モーツァルトらしい旋律」をコンピューターで作れるか?そのぐらいは626曲のパターン類型化でできるかもしれない。しかしではピアノ協奏曲第28番が作れるか?それができる時代は来るかもしれないが、それはきっと人工知能が人間を支配するようなSF小説の描く時代で、僕らはもう生きてないだろう。
コンピューター言語に書けない。ということは人間の説明言語にもならない。どうやってモーツァルトらしい弾き方を教えるんだろう?長嶋のバッティング指導みたいにバーンと行く感じみたな擬態語になるのが関の山だろう。
モーツァルト弾きなるピアニストは「習った」のではなく、「自分でできた」のだと僕は思う。それはある種のユーモアを笑う人と笑わない人がいるようなものだ。「ねっ、このジョーク、こうこう、こういう理由で面白いんだよ」と他人が分からせれば腹から笑うようになるというものではないように。
ということで理屈は歯が立たないので説明はお手上げ。いきなりオカルトっぽくなるが「人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つでできている」(ヒポクラテス)から、その4元素の比率が似た人は相性が合うとでも逃げるしかない。モーツァルトと友達になれそうか?そんな感じだ。
もちろん男、女は問わないが、主観で言わせていただくと女性の方が「入ってしまっている」ケースが多いように思うのはなぜか。特にソナタがそうだ。内田光子、リリー・クラウス、クララ・ハスキル、イングリット・ヘブラー、マリア・ジョアオ・ピリスなど、僕が好きなのは女性が多い。だめな人が少ない。しかし向いていそうなアルゲリッチが手を出さない。う~ん、やっぱり四大元素のせいなのか。
男性軍はエッシェンバッハ、バレンボイム、シフなど、グルダでさえも、どうも入りきれてない何かを感じる。頭で考えた感じとでもいおうか、なにか楽しめない。ホロヴィッツやリヒテルは、申し訳ないが違うと思う。
この内田光子のソナタk.309を聴いていただきたい。このリズムのはずみの愉悦感。タッチが嬉しがっていて、本能的にモーツァルトの領域に踏み入っている。解釈、テクニック云々の話ではない、モーツァルトをつき動かしてこの曲を書かせた喜びが内田さんの喜びに響いて同化している。彼が乗りうつってしまったみたいだ。
これはリリー・クラウスのピアノ協奏曲第12番。これもそう。入ってしまっている。モーツァルトのピアノはこうだったんだろうと感じる。バックのピエール・モントゥーもクラウスに引っ張られて同じりズムのはじけ方で追っかけている。それほど磁力のあるピアノだ。12番についてはこちらをどうぞ。モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414
ディヌ・リパッティの最後のリサイタル。ピアノソナタ第8番イ短調k.310は遊んでないモーツァルトだ。それがリパッティのテンペラメントに素晴らしく合っているかけがえのない演奏だが、それはモーツァルトという人にはそういう側面があったということを示すようにも思う。
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ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君)
2015 APR 27 1:01:39 am by 東 賢太郎
ハイドンの交響曲第98番変ロ長調ときいてすぐテーマが歌える人は相当なクラシック通でしょう。
そんな曲をどうしてとりあげるか?答えは簡単です、これがハイドンの作品中でも屈指の名曲だからです。彼らしいユーモアが横溢する第1楽章が展開部に来ると主題変奏の奥義による大交響曲の偉容を示す様は圧巻であり、第2楽章の主題が展開する痛切な響きもハイドンには異例なもので一度聴いたら忘れないでしょう。ベートーベンの同じ調性の交響曲第4番への影響を感じ、後世の交響楽の世界の扉を開いたといって過言でないと考えている重要な作品です。
ニックネームがないじゃないか?そうですね、でも、驚愕や奇跡などよりもずっと意味深い「モーツァルト」というニックネームが付けられるべき曲なのです。今からここにご説明することを知れば、ブルックナーの3番が「ワーグナー」と呼ばれるなら98番が「モーツァルト」と呼ばれていないことが不思議と思われるでしょう。そして、どうして呼ばれなかったのかという理由もご理解されることになるでしょう。
ヨゼフ・ハイドン(1732-1809)は61年から30年間エステルハージ公に仕えましたが90年に公が他界すると楽団は解散されウィーンに出てきました。それを知ったロンドンの音楽興行師ザロモンがハイドンを2度ロンドンへ招き、彼はその間に「ロンドン・セット」または「ザロモン・セット」と呼ばれることになる12曲の交響曲(93~104番)を書いて演奏し大人気を博したのです。98番はそのひとつで、第1回訪英で書かれた6曲の最後の曲です。
ここでなぜモーツァルトに声がかからなかったか?これは現代人には謎ですね。ロンドンの興行師はたくさんいて、ハイドンの足を引っぱろうと弟子のプレイエルを引っぱりだしてぶつけてみたりした者もいたのですが、ハイドン人気は盤石で失敗でした。それならどうしてモーツァルトを招聘して対抗馬にしようという者がいなかったんだろう?
モーツァルトは誘いを断ったという説もありますが証拠はなく、まずありえないと思います。彼は「子役」で大当たりして大人になって出番が減った俳優みたいなもので、人気に飢えていたはずです。親父のポリシーも階級に縛られる故郷を捨ててウィーン、ミュンヘン、ミラノ、パリなど大都市で実力勝負をするというもの。現にロンドンは候補に入っていて8才の神童として売り込みに訪れております。子役で大いに当たった思い出の場所なのです。
90年にはロンドンにフィガロの初演でスザンナを歌った大好きなナンシー・ストーラス(左)もいました。こちらも大好きだったお金だって報酬の相場が高いことはナンシーから情報を得ていたでしょう。ロンドンに永住して大金持ちになったヘンデルというドイツの先輩もいました。ハイドンだってもちろんそれを知っていて、ちなみに彼が計3年のロンドン出稼ぎで得た収入はそれまでの30年分より多かったのです。
その事情の推理はここに書きました クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-
ハイドンは90年の暮れに出発してドーバー海峡を渡り、新年1月2日にロンドンに着きました。出発の数か月前にモーツァルトが初めて海を渡る老ハイドンの体を気づかって涙の別れをしたという有名な逸話があります。「もう二度と会えない気がします」と大泣きした24歳年下のほうがあっけなく翌年に死んでしまうという想定外の結末をむかえることで、その予感は現実となってしまいました。
この「あっけなさ」がどうも不可解であって、腑に落ちない。58歳であったハイドンは当時の医学水準からしていつどうなっても不思議でない老人だったでしょうが、35歳だったモーツァルトが男盛りなことは18世紀でも変わりないと思うのです。90年の時点で彼が余命1年の病気だったという兆候もなく、死後すぐに毒殺説が出てきてしまったのもむしろ彼がいかに元気でぴんぴんしていたかの裏返しでしょう。
先日、満開の桜を楽しみながら、モーツァルトが日本で人気があるのはこれだなあと思い至った次第。ぱっと咲いて、すぐにあっけなく散ってしまう。彼の咲きっぷりと散りざまは、どこか古くより人々の関心と同情を集めた源義経と重なるものがあります。僕は義経が大好きであり、だから判官贔屓であって小2にして広島カープまでファンになり、そしてモーツァルトの死の真相にも多大の関心をよせるようになった。このことは「骨の髄」からくるもので、関心の深さは半端なものではありません。
しかしモーツァルトにまつわる悲劇談は後世のファンが泣けるように尾ひれがついているものがたくさんあります。「勧進帳」や「千本桜」みたいなものがたくさんあるのです。ハイドンが弟子でもなかったモーツァルトを特に可愛がったという話はないし、弟子だったベートーベンにしても、ロンドンのプロモーターに推薦してやったり一緒に連れて行こうということはなかったのです。
モーツァルトの手紙を読めば読むほど、彼の人生は勧進帳ではなく半沢直樹スタイルでドライにハードボイルドに読み解く必要があると思っています。僕は史実が知りたいのであって泣きたいわけではない。現実とはどういうものかということを人生経験で知ったからです。有能な若手ほど上司にとって怖いものはありません。モーツァルトが死んだのは36歳ですが、ハイドンはその年齢ではまだ主要作品は一曲も書いていない遅咲きの苦労人で、宮廷楽長ポストを30年もやっていたサラリーマンです。
かたや神童としてバッキンガム宮殿に出入りしたモーツァルト。ロンドンは勝手知ったる場所であり英語だってしゃべれる。複雑な思いがあったでしょう、なんで俺じゃないのって。カネと名誉がかかれば人間どこも同じと僕は思うのです。天才や偉人だけは別な人だったとこじつけるより、何であれ歴史というものは人間の本性、本質に従って素直に解釈したほうが現実的ではないでしょうか。
初めて海外旅行に出るハイドンの身の安全を心配するほど元気だったモーツァルトが突然に他界したのは1791年12月5日のことです。98番はその3か月後の92年3月2日にロンドンで初演されていますからハイドンにはこれの作曲中にそのニュースを知ったと思われます。なぜならハイドンはそのことを98番のスコアに音符で刻印しているからです。
それは今の僕らがモーツァルトの作品を知っているからわかるのですが、当時の聴衆はそれを知りませんし、知らないということをハイドンは知っていました。だから、誰もわからないだろう、しかし彼は以下のようなことをしたのです。いずれも僕の聴感上のものですので事実かどうかはわかりませんが、書いてみましょう。
第1楽章の序奏にはリンツ交響曲の序奏の弦の和声が同じリズム、和音で出てきます(リンツは終楽章の提示部にも出てきますがどこかわかりますか?)。冒頭はピアノ協奏曲第24番の冒頭で、そこはド・ミ♭・ソですが後にド・ミ♭・ラ♭でそのまま出てきます。第1主題ド・ミ・ソ~は交響曲第39番の主題ではないでしょうか。トランペットのパンパカパッパはジュピター・リズムであり、コーダの入りにはフルートとオーボエでジュピター音型と同じ4つの全音の音列(音程は違う)が鳴り響きます。
第2楽章は、冒頭に英国国歌が出ますがそれはハイドン一流のサービスでどうでもいい。問題はそれについている和声がC-Am-F-Gというモーツァルトのトレードマーク・コードであることです。そして、これこそは問答無用の証拠といって誰も反論はないと思います。この部分です(第1Vnのパートでお示しします)。
この譜面のLからは同じヘ長調のジュピター交響曲の第2楽章、このブログ モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551 の「スペクタクル」の前の部分であることは疑いようがありません。赤い四角で囲ったオーボエ、弦の伴奏音型、和声(G-A7-D7-G7-C7-F)どれもそのものであり驚くべきことです。
さて、ということになると疑問が出てきます。ハイドンはどこでジュピターを知ったのでしょう?88年に作曲された3大交響曲の初演記録はなく、40番はサリエリが指揮した可能性を指摘されていますが確実ではなく、ハイドン研究家のH.C.ロビンズ・ランドンは「生前に演奏されていなかったということは考えられない」としていますがシューベルト研究家O.E.ドイッチェはそれを否定しています。
記録によるとパート譜の初版の年は39番が1797年,40番が94年、ジュピターが93年(出典:ベーレンライター、自筆譜ファクシミリ解説)とあり、従って92年の始めにハイドンが持っていたのは出版譜より前のものであることは確実です。つまり自筆譜からの写譜スコアであった可能性が高い。
「3大」は交響曲のハイドンセットであるという僕の説が正しければ、3大はロンドンへの売り込みのために書かれました。渡英することになった先輩に2年間眠っていたスコアを写譜して託し、「こんなものが書ける奴がいるよ」とアピールをお願いするというのは、弦楽四重奏曲の6曲(ハイドン・セット)でやった先例があるのであり、不自然とは言えないのではないでしょうか。それは先の90年の涙の別れの際に手渡されたのではないでしょうか?
すなわち、ハイドンは3大交響曲の(少なくともジュピターの)スコアをロンドンに携えて行っていたのです。91年に作曲された95番ハ短調の終楽章がジュピターをモデルとしたと言われるハ長調のフーガをコーダに持っていることは、そうでなくては説明がつきません。95番は同年12月5日のモーツァルトの死よりは前に書かれたと思われるためこれを98番と同列に論ずるわけにいかないのですが、ハイドンがジュピターに多大な関心(ひょっとしてライバル心?)を抱いていたことは想像がつきます。
ハイドンのロンドン交響曲はフルート2本で書かれていますが、なぜか95番と98番だけが1本なのは注目に値します。なぜならジュピターはフルートが1本なのです(3大交響曲は全部1本です)。不要だったといえばそれまでですが、音楽的要求だけといいきれないものがある気がします。何かモーツァルトを暗示する符牒のようなものです。こういう作曲の「メカ」の部分までこだわっているとすると、あくまで傍証にすぎませんが、僕はハイドンが机の上にジュピターのスコアを広げていたのだろうと想像してしまいます。
さらに95番でハイドンはフーガで締めくくるというアイデアの盗作をしてるのじゃないか?初めそう思ったのですが、そうでないことがわかりました。上記のランドン著 「モーツァルト」 によると「ハイドンの交響曲第70番がなければ、『ジュピター』は生まれなかったといってさし支えなさそうだし、少なくともそのフィナーレは別の形になっていたであろう。」とのこと。それは元々はハイドンのアイデアだったのです。
そのようにモーツァルトがハイドンの本歌取りをしている事例は多くあります。ハイドンの交響曲第39番と同25番K.183は有名ですが、歌劇「アルミーダ」を聴いたら出だしが魔笛のHm! hm! hm! hm!と同じでびっくりします。モーツァルトは確かに天才ですが、彼がいかに多くをハイドンに負っていたか!いや彼のみならずベートーベンだってそこかしこから聞こえてくるのです。ハイドンがいかにハイレベルの作曲家かわかります。
モーツァルトは死の年の91年、ロンドンからの吉報を待っていたのかもしれません。ハイドンが紹介の尽力をしてくれたかどうかはわかりませんが、少なくとも訃報をきいて98番にジュピターを「縫い込もう」と新たに思いたったことは事実です。しかし、我々と違ってその時点のロンドンの聴衆は誰もジュピターを聴いたことはおろか存在すら知らないのですから、それは演奏会で聴衆と共に哀悼の意を表するためではありません。
ハイドンがどういう気持ちでそれをしたかは知りようがありませんが、誰も理解できないのだからその動機はきわめてプライベートなものであることに間違いないのです。後世の聴衆が(現に僕がしているように)その隠されたメッセージを解読すると思ったかもしれません。いずれにせよ、彼はそれをした。それもブルックナーが第7交響曲に自分の音楽で書き込んだワーグナーの死とは違った方法で、つまり「引用」という形でそれをしたのです。
僕はハイドンは深く悲しみ、6曲のシンフォニーの最後の1曲に「若き天才ここに眠る」と墓碑銘を刻むことで友人の死を悼んだのではないかと思うのです。そして、ハイドンが銘に選んだのがジュピター音型と共に第2楽章の例の部分(G-A7-D7-G7-C7-F)だったことは、その部分の震えあがるほどの物凄さに感動してブログにした僕としては我が意を得たりと感じ入るしかありません。
これが僕が所有するモーツァルト自筆譜ファクシミリの「その部分」です。これをハイドンが活写した。感無量です。
モーツァルトの交響曲の管弦楽編成ですが31番「パリ」、35番「ハフナー」にクラリネット2、トランペット2、ティンパニを使っています。この3つの楽器は当時の編成ではフルート、オーボエ、ファゴット、ホルンがほぼ常備であるのに対し比較的「オプショナル」なものです。特に新参者だったクラリネットはそうで、演奏するオケに奏者がいなければ書きたくても書けなかったわけです。
「3大」のうち演奏されたという説の多い40番のオリジナルはクラリネットなしですが改訂版があってそちらは2本加わっています。あるなら使いたいという作曲者の意図だったのでしょう。僕はジュピターの様な祝典的な音楽にクラリネットがないのを不自然に思っていましたが、簡単に考えればいいのではないか、つまり演奏させようと意図していたオケに奏者がいなかったのではないかと思うようになりました。
そこで調べてみると面白いことが分かりました。ジュピターの管弦楽編成は「トランペット2、ティンパニがあってクラリネットなし」なのですが、この組み合わせはハイドンの渡英第1回目の6曲のものと同じであることから、作曲時点の88年にはロンドンのオケにはクラリネットがなかったと思われます(入ったのは渡英2回目の93年作曲の第99番からで、102番を除く5曲に使用されている)。
また、「トランペット2本とティンパニ」はハイドンの104ある交響曲では「ペア」であり、ほぼ例外なく両方とも入るか両方とも入らないかのどちらかです(61番のみ例外)。ロンドンセット以前では「なし」が圧倒的に多く、比較的大きめのオケのために注文された82番~92番(パリ、トスト、ドーニの各セット)11曲でも、オリジナル版で「あり」は86番と88番の2曲だけです。人件費がかかるので贅沢品であったのです。
ところがロンドンセット12曲は全部「あり」で書かれている。それだけも贅沢なことで、ザロモンのオーケストラはお金持ちだったことがわかりますが、しかしクラリネットはまだなかった。独仏に起源をもつこの楽器は90年前後はまだドーバー海峡を渡っていなかったということではないでしょうか。
ではモーツァルトの交響曲はどうか。31番「パリ」以降の10曲のうち(37番は除く)「あり」は8曲もありました。しかもそのうち3曲がクラリネット2本入りという当時の「フル・オーケストラ」だったのです。これはモーツァルトが交響曲(シンフォニア)というジャンルにいだいていた「リッチな音」「祝典的な音」のイメージを物語ると思います。ハフナー家の結婚式の祝典音楽がハフナー交響曲に化けてしまった背景はそこにあると思います。
だからこそ、彼の書いた曲でも最も祝典的な雰囲気を持つジュピターにクラリネットがないのが僕にはひっかかるのです。
ザロモンのオケがトランペット2+ティンパニを常備していた。ということはロンドンの聴衆の好みは祝典的、グランドマナーの音楽である。モーツァルトがそう思って不思議ではありません。彼は31番のパリ交響曲を「パリ好みの流儀で書いた」と父に手紙で告げているからです。そして彼はクラリネットがないことも知っていた。ジュピターは彼なりの「ロンドン流儀の曲」であり、ロンドンで演奏してもらうために、ロンドンのオーケストラの身の丈に合わせてクラリネットなしで書かれたのではないか?
それは推測でしかないのですが、1800年以降でロンドンで最も人気がでた彼の曲がジュピターであったという事実は、まさにモーツァルトが直感で見抜き、たしかにそれが正しかったという結果ではないでしょうか。
この推論は「3大交響曲ハイドンセット説」と矛盾しないばかりか、むしろ補強するものと考えます。98番に墓碑銘として入ったのがジュピターだったのは、その作曲の意図がハイドンに伝わっていて、かなわなかったモーツァルトの夢、ジュピターをロンドンに響かせるという夢を音にして実現するものだったかもしれません。
さらに興味深いことがあります。英国の楽譜出版商ノヴェロ夫妻がモーツァルトの死後1829年にザルツブルクやウィーンを旅行して妻コンスタンツェ、姉ナンネル、義姉アロイジア、息子フランツ・クサヴァーに会った旅行記『モーツァルト巡礼』がありますが、8月7日にコンスタンツェと面会した際に息子が「父のハ長調交響曲に『ジュピター』というあだ名をつけたのはザロモンだ」と語ったとあるのです。
ザロモンはどうやってジュピターを知ったのでしょう?
ハイドンが携えて行ったスコアを見たと考えるのが自然ではないでしょうか。ハイドンが約束通りに後輩を紹介してそれを見せたかもしれませんし、訃報を知ってからそうしたかもしれません。いずれにせよ、ザロモンはそれを見て、このうえなく音楽にふさわしいニックネームをつけたのです。
そして、ハイドンが後輩への万感の思いを込めて書き上げた交響曲第98番変ロ長調はニックネームがつきませんでした。なぜなら、つけるとすれば「モーツァルト」しかないのですが、98番を聴いたロンドンの聴衆はモーツァルトを知らなかったからです。
この交響曲は妙なことがひとつあって、終楽章の終わりに独奏ヴァイオリンとチェンバロによる静かなデュオがあります。ひときわ快活、ユーモラスな8分の6拍子でプレストの主題が一気にコーダになだれこむと思いきや、全休符をはさんでffのトゥッテイの号令一下で急停止。やおらその対話が弦のピッチカートを伴ってpで始まるのです。
初めてこの曲を聴いたときはびっくりしました。
しかし、この予想外の意趣は、あの「びっくり交響曲」のように聴き手を驚かすためのハイドン流ユーモアという感じはしない、唐突ではあるが効果のゆるい、いわば意味不明で不成功の仕掛けと受け取りました。その当時はこの曲にそんな深い物語があるとは知りませんから、せっかくの興奮を断ち切る下手な芝居と思ってしまい、98番は長いこと僕のなかでは二級の作品というイメージが固まっていたのです。
初演ではヴァイオリンをザロモンが、チェンバロはハイドン自身が弾きました。ジュピターでは全管弦楽を動員した壮麗なフーガが来た第4楽章の最後に、二人だけのひっそりとした対話が入る。このコントラストは印象的です。これがコーダの興奮を削ぐ蛇足であることはプロであるハイドンが一番わかっていたことでしょうが、95番と98番を対比したかったのではないでしょうか。
何の根拠もありませんが、僕はこの終楽章と、70番のメヌエットによく似た第3楽章はモーツァルトの訃報が届いたときにはすでに出来ていたのではないかと考えています。
それを知ってから第1,2楽章を書いた。だから、その2つの楽章、特に展開部は後半の2つに比べて不釣り合いなほど、まるでベートーベンの作品であるかの如く重くて充実したものになったのではないか。形式におけるバランス感覚の天才であったハイドンにして、このアンバランスは非常にふさわしくなく、皮肉なことに、だからこそこの曲は交響曲として完成度に欠ける印象があって名曲という栄誉をもらいそこねているのです。
原案ではプレストで快活に終わる予定だった終楽章のコーダに、あえて蛇足であるデュエットを入れた。ハイドンはウィーンのフィガロハウスでモーツァルト父子とカルテットを弾いています。これはヴァイオリンをモーツァルトに見立てて最後のお別れのデュエットをしたのではないか。
交響曲第45番「告別」が音楽による謎かけだったように、これは「さよならモーツァルト君」という謎かけだったのかといつも空想しながら聴いています。
ハイドン・セット、ジュピター、3大交響曲、ハイドン、ロンドン、ザロモン、ロンドン・セット・・・・皆さんの頭の中で点が線となってつながってきませんか?
録音ですが、僕が好きなのはこのブリュッヘン盤、
その他、ジェフリー・テート / イギリス室内管弦楽団、トーマス・ビーチャム / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団などです。それぞれ違った味があり楽しめると思います。
(追記。3月16日) 交響曲第99番変ホ長調
98番の次、99番変ホ長調は上記のとおり「初めてクラリネットが入った曲」です。書かれたのは98番初演の翌03年で、初演は翌94年2月10日(もちろんロンドン)。これの冒頭、トゥッティのEs主和音を聴いてびっくりするのは僕だけでしょうか?
モーツァルトの39番が始まった!
いや、そうではない。魔笛を聴きすぎたせいなのか、僕は変ホ長調だけは絶対音感があるのです。
そして次の第1ヴァイオリンでまたびっくり。あれっ、ベートーベンの2番か?
めんどうくさいから聞いてください。
あくまで僕の耳の直感ですが、ハイドン-モーツァルト-ベートーベンの近親関係は強い。一般論としてじゃなく、こういう細かい証拠に僕はものすごいこだわりがあります。ロンドンで、ハイドンはジュピターだけじゃなく、39番も意識してたし、なにより、「知ってた」んじゃないか??この仮説は我ながら実に魅力を感じます。
(追記)
98番ですが終楽章の第1主題にもリンツ交響曲の第1楽章、コシ・ファン・トゥッテの第1幕冒頭のフェルランドのアリアが僕には聞こえます。
その前提で、ぜひこちらをご訪問ください
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