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カテゴリー: クラシック音楽

クラシック徒然草《ペトルーシュカ推薦盤》

2023 MAR 7 23:23:01 pm by 東 賢太郎

初めて買ったペトルーシュカはピエール・モントゥーのRCA盤だった。何か書いておこうと思いyoutubeを探したがない。まさかと思いamazon、タワレコを見たが廃盤のようだ。そんな馬鹿な。

ニジンスキー(1911年)

ピエール・モントゥー(1875-1964)はペトルーシュカの初演者だ。左の写真はその年にペトルーシュカを踊ったニジンスキーがストラヴィンスキーと撮った貴重なツーショットである。パリ音楽院管弦楽団を振った録音もあり、2種の記録(まさにレコード)はこの曲が産み落とされた時代のタイムカプセルといえる。ペトルーシュカの録音は数多あるが近年はストラヴィンスキーが印税目的で改定した1947年版が多い気がする。オケがスリムになり透明感、色彩、メリハリが出る利点はあるが、この曲を単なるショーピースとしてではなく文化として享受する方には原典である1911年版をまず聴いていただきたい。モントゥーの2種がそれだが、同版の真価を見たのはブーレーズのCBS盤だった。3大バレエはどれも似てない。「ブーレーズCBS」のコンセプトは春の祭典の規範を樹立することになったが、ペトルーシュカでは無類のカッコ良さを誇る。クラシックにカッコいいは似つかわしくない言葉だが、聴いていただけばわかる。この音響的快感をぜひロック、ジャズのファンに味わってほしいと願う。くりかえすがそういう要素は火の鳥、春の祭典にはあまりない。どれも似てないのである。

ペトルーシュカは第一次世界大戦直前の1911年6月26日にパリ、シャトレ座で初演された。モントゥーはベル・エポックのパリに生きた人だ。だからこういう演奏になっている。そのアロマを嗅ぎとって耳にしまい込んでおいてほしい。

四重奏団のヴィオラ奏者だったモントゥー(手前は作曲家グリーグ)

それを独欧系のベルリンPO、ウィーンPOがやるとどうなるかは意味のある比較であって、ワインでソムリエがしていることに近い。春の祭典と火の鳥はカラヤン、ケンペ、ベーム、スイトナー、イッセルシュテットなど独欧系指揮者も手を出しているが、ペトルーシュカはない。ここにこの曲の秘密が隠れている。もうひとつ面白いのは3曲ともソ連人指揮者の影が薄いことだ。3大をうまく振ったのはロジェストヴェンスキーだけでスヴェトラーノフ、テミルカーノフ、ゲルギエフあたりやってはいるが僕のセンスからするとまったくガサツでお呼びでなく、ムラヴィンスキーはアポロしか触っていない。

ここから導ける推論は、3大は多分にラテン系音楽であることだ。あの何でも振ったカラヤンでさえ、手兵BPOなら極上の演奏が苦もなくできる火の鳥、ペトルーシュカに手を出さなかった。この曲はスイスのフランス語圏クラランで着手され、ローマで完成されたが、ゲルマン人にはフィンランドのシベリウス同様に異界かもしれず、オケはメカニックに弾けはしても精神を吹き込む指揮者には難しい。これを見ると僕はドイツの孤独を感じざるを得ない。これがあってあの両大戦の不幸があったのだろうと。

もうひとつ、この曲が好きな方には是非という演奏がある。そのドイツ人で作曲家でもあるルドルフ・アルベルト(1918-1992)がチェント・ソリ管弦楽団を指揮したもので、ピアノがメシアン夫人のイヴォンヌ・ロリオという布陣だ。これを聴けばどなたもわかるが、アルベルトは卓越した指揮の腕前を持っていた。その割にいまとなっては無名なのは不可思議というしかない(まあそのうちカラヤンもベームもブーレーズもそうなるのかもしれないが)。詳しくはわからないが、録音はClub Francais du DisqueがReel-To-Reel, 7 ½ ips, ¼”, 2-Track Stereo, 7″ Cine Reel, Albumとして行い、僕が保有する写真のACCORDレーベル盤以前に米国でリールテープにこだわったOmegatapeレーベルで出た実に秀逸なもので、Mercuryの初期に匹敵する現在でも最高レベルである。演奏は部分的省略がある1911年版であり、チェント・ソリ管弦楽団は「パリ音楽院管弦楽団」や「コンセール・ラムルー管弦楽団」等々のメンバーにより臨時に構成された楽団で能力は高く、アルベルトの紡ぎ出す鮮烈かつフランスの極上の音彩、それもベル・エポックの伝統から遊離していない薫り高い芳香を素晴らしい解像度の録音で楽しめるこのCDは一級品だ。これほどハイレベルな演奏、録音が1957年に行われたという事実は驚くしかないが、アルベルトは1952年にヘンツェのバレエ「白痴」の初演、またこの録音の前年1956年にメシアンの《異国の鳥たち》の初演を指揮していることを知れば納得、ロリオ夫人が味わい深いピアノを聴かせているのも納得である。《異国の鳥たち》はドメーヌ・ミュジカルの演奏会で演奏するための曲目として創設者ピエール・ブーレーズが委嘱した作品で、アルベルトがこの団体と密接な関係があったことをうかがわせる。僕は演奏は群を抜いているが録音にやや人工臭を感じるブーレーズ盤より、パリのサレ・ワグラムの素晴らしい音響に包まれたこれをペトルーシュカのベスト盤とする。モントゥー盤ばかりかこういう逸品が廃盤になってしまうクラシック音楽市場は自ら真の聴衆を締め出しておりお先真っ暗だ。しかし市場原理、利潤動機で動く業界にそれを言ってもはじまらない。すべては聴衆の耳が決める。本稿を読まれるような皆様の動向が決めるのである。

 

 

 

 

 

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音楽と量子力学

2023 MAR 3 23:23:56 pm by 東 賢太郎

ホーキング博士は宇宙が仮想現実である可能性は50%あると言い、イーロン・マスクは我々の見ている現実がリアル世界で生み出されたとするとその確率は10億分の1と言っている。

父親のSPレコードを針が擦ると音楽が鳴るのは「溝に小さな人が入っていて演奏しているにちがいない」と思っていた。あながち赤子の思いこみと笑えないのは、量子力学の「ゼロポイントフィールド仮説」は全宇宙の生成から終末までのすべての情報がcodeで書かれているとするからだ。レコードには音楽が入っている(封じ込められている)が、そうと知らない人が音溝を目で見ても、顕微鏡で覗いても、それは俄かにはわからないだろう。針がひっかいている部分が「現在」である。SPは裏表で30分ぐらいの音楽が鳴るが、これが我々の見ている宇宙であり、ここまでの演奏時間は137億年だ。情報はゼロポイントフィールドにホログラムで書きこまれ立体画像(三次元)で現れる。全宇宙だからこれを読むあなたの全情報、つまり姓名からどんな一生を送るかもいつ死ぬかまで全部書いてある。

古代インドの超人がこれを「アガスティアの葉」に喩えたと考えてそう不穏当でないかもしれない。あらゆる宗教は超人が見たものを凡人にわかる言語と喩え話で書いていると僕は思うからだ。アガスティア・・は大きな葉っぱに宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれていると説いており、それをアカシックレコードともいう。先日、ある方からそれを実際に試した話を聞いた。ネットでインドのサイトにアクセスして被験者になったのだ。半日かけてYes/Noの英語の質問に答えるがそこに彼の個人情報を特定できるものはないという。数日待って回答を得た。度肝を抜かれたのは、彼のデータが正しいばかりか両親の名前まで(日本語話者でないので似た発音で)明かされていたことだったそうだ。

厖大なデータがcodeに凝縮されてどこかにあり、時々刻々と針がひっかいてその三次元画像が全宇宙に投影され、それを我々は観測している。レコード盤に演奏者が入ってないように、宇宙も虚像なのかもしれない。これを超人であるプラトンは「洞窟の影」といったのではないか。そういえば、僕は幼児のころから「星は本当にあるのか」と真面目に疑っていて、現在でもないかもしれないと思っている。「オリオン座のベテルギウスは550光年離れているから今はもう消えてなくなっているかもしれない」なんてのがどうも嘘くさい。量子力学では分子も電子も波+粒の性質をもち、観測された瞬間に粒になる。「観測」とは人間が知覚することだが、「僕が見た」という情報があっちに届くのは550年さきではないか、なのになぜ今リアルタイムで見えてるんだ?

いやそうではない、「量子は複数の場所に同時に存在して何光年離れても同時にふるまう」とされている。よくわからない。

このことについては「二重スリット実験」に答えがあるように思う。https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/double_slit.html

量子は見た瞬間に粒に変わるので僕は観測できている。ベテルギウスが見えるということはこのことが550年×2=1100年かけずに起ていることを示すので「量子は複数の場所に同時に存在する」という結論が導き出されるのだろう。しかしそれは、そう見えているだけではないか。実はアガスティアの葉っぱに「僕がベテルギウスを何年何月何日何時何分何秒に見る」と書いてあり、あっちの量子が550光年の距離を勘案して “シンクロ” するようあらかじめ書いてあってもその現象は成り立つ。「宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれている」とはそういうことを意味している。大学の研究室で二重スリット実験が行なわれ、観測と検証のいたちごっこが行われることも書いてある。そんな馬鹿げたことを誰がするんだと思うのだがゼロポイントフィールドのゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は人間が決めたものではない。人智で馬鹿げたと判断することが馬鹿げているのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。ということは、見てない時は「ベテルギウスはない」ということだ。とすると太陽もない。「そんな馬鹿な、恒星は一番近いのでも光速で4.3年かかるが太陽ならスペースシャトルで200日で行けるから、なんだったら行って確かめることもできる」、「現に我々は地球から丸い太陽を目視しているではないか」と思われようが、それは見ている時だけで、見ていなくても6000度の熱を放つ光源であることは間違いなさそうだが、行っても触れるわけではなく、あるように見えているが存在の確かめようがない。太陽は我々が思っている球体の恒星ではなく、ディスプレイの画像かもしれない。

そう。「光速で行っても・・・」というのが常に我々の実感を麻痺させるのだ。光速移動は膨大な加速を生むエネルギーが必要で、それが発する熱に人間は耐えられない。つまりアインシュタインが光速を超える移動はできないと指摘する以前にそもそも不可能なのだ。月か火星なら低速でも行けるだろうが、ロケットに乗って「行った」と思っても、それは我々が「地球」と思ってる張りぼてとは別の張りぼてに立ったにすぎない。すなわち、我々は、人体が安全に移動できる低速で、寿命が尽きる以前に到達できる範囲内しか行けない。つまり、その範囲を示す目には見えない球体である「臨界面」に包囲されていることになる。これは水槽に入っている金魚とおんなじだ。金魚にはきっと水槽のガラスは見えてないだろう、なぜなら、まさか自分がそんな物の中で飼われているなどと考えてもいないからだ。

では臨界面を生んでいる光速(c)というのは何なんだろう?物理の授業で先生に質問してみたらいい。僕はその存在自体がとても変なものだと思っている。

E = mc²

は「エネルギーは質量に光速×光速をかけたものだ」と言ってる。質量がエネルギーに変わるのは核融合反応でイメージできるが、そこに「速度」が出てきて掛け算する理由がまったくわからない。この定数は何だろう?ゼロポイントフィールド仮説によると、1立方メートルの真空に地球の海ぜんぶを瞬間に沸騰させるエネルギーが詰まっている。ならばこう考えられる。金魚の飼い主が適当にぎゅっと詰め込んでみて、計算して出てきた定数項の平方根を開いてみた。その数値を宇宙を作動させるOS(基本ソフトウェア)の作動限界値に設定して組立てたパソコンが我々に見える虚像を映し出している。このことをあばき出したのがこの式ではないかと思うのだ。「宇宙投影パソコンの処理速度に限界がある」ことを、金魚鉢の中では「光速を超えて移動できない」と言ってるのだ。

では金魚を飼っているのは誰だろう?そこで、「宇宙人に違いない。人類はまだ遭遇はしてないが、彼らは太古の昔から地球に来ている。現在だってUFOに乗って来ているしNASAはその死体を隠しているのではないか」という話になる。たしかに米国政府はUFO研究をしているようだし、映画「コンタクト」に描かれた電波発信によるSETI(地球外知的生命体の探索)を行っていることは事実だ。僕は地球外知的生命体(宇宙人)肯定派だ。肯定する確率的根拠として著名なのがドレイクの方程式だが、しかし、これを導いた根拠は間違っている。なぜか。彼は同じ金魚鉢の中に別の魚がいる確率を計算している。それはそれで正しいとするなら部分的正解にすぎない。別の鉢は想定しておらず、金魚を飼っている熱帯魚ショップの店主は計算に入ってないからである。

僕が「肯定派だ」と書いたのはこの “店主” の存在についてであり、このことを宗教と分離するのは困難だ。アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹ら科学者が物理学と仏教の親和性、補完性を説いたとされるが、自分がここでそれと同質のことを言っているとは思わない。「超人としての宗教家たち」がどこかで見てしまったもの、それが『造物主』(the Creator)の存在であり、その超人(人かどうかは置く)がモーゼに十戒を授けたヤハウェであっても、預言者ムハンマドであっても、神の子イエスであっても、「目覚めた人」ブッダ(釈迦)であっても、何ら差異なく金魚の飼い主または熱帯魚ショップの店主(またはそれを見た者)という比喩で括ってしまう数学的置換を信仰心の希薄さという罪に問われないという範囲において、本稿に述べていることを「宗教と分離するのは困難」なのである。「お前は宗教的人間か」と問われれば、正月に初詣に行って新年の良きことを祈ってお神籤を引き、冠婚葬祭を仏式で執り行うほどにはそうであるが、『造物主』の存在を信じることにおいては、何の儀式も執り行わないものの「非常に宗教的である」という回答になるだろう。

イーロン・マスクの言うように我々の宇宙は10億回トライして1個しかできないぐらいレア物であるなら「そう綿密に設計されて1回のトライでできた」か「最大(10億-1)個の失敗作(似た宇宙)」があって、我々の宇宙は我々専用の金魚鉢で他の魚はいない意図で作られている可能性もある。水はあるわ酸素はあるはエサは出るは侵略者はいないわ、こんな良い世界がひとつ存在するというなら他にも一定の確率をもって存在するはずであり、そこには別種の魚がいるだろう。ドレイク博士はそう考えたが、これが熱帯魚店の片隅に置かれた一個の水槽にすぎないならば、その辺はショップの店主が決めることになる。2種を同じ水槽に入れるとどっちかが食われるなら商売にならないから鉢を分けるだろう。その場合、「我々の宇宙には宇宙人はいない」という、ドレイクの方程式からは出てこない結論が導かれるのである。

観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。この事実は誠に含蓄が深い。我々は「色」と「音」という波を知覚しているからだ。ここでいう波は万物を組成する量子の振動としての波と同一ではないが一定の振幅をもって反復する光子、大気の分子の運動であって、電磁波、音波と表される。光子は光を粒子としてみたとき量子であるが、音波は原子や分子の動きによってエネルギーを伝達する波だ。分子は電子・中性子・陽子という量子より大きいから音波は別物と考える。

音波は音楽という芸術を構成する基本素材となる。伝達物質は大気だけではなく液体や固体もあり、耳の可聴域は20Hz~20kHzだが耳以外で域外も感知している。音楽は五感のうち視覚、触覚、味覚、嗅覚を使わず聴覚だけに訴える芸術だが、けっして聴覚のみではなく、いわば「振動覚」とでもいうべき反復運動(波)への感覚が色濃く関係している。ベートーベンの第7交響曲を聴いた多くの人は感動と共に興奮を覚えるのではなかろうか。この曲の持つ律動の特徴を捉えてワーグナーは “舞踏の聖化” と表現したが、その律動(反復運動)こそ波(振動)であり、それを感じ取る「振動覚」を通じて覚醒、興奮(多分に性的なもの)を呼び起こす。つまり、波である音楽という芸術は人間の生命の源と深く関わっている。

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東京芸大の練習室ピアノ撤去

2023 FEB 20 12:12:22 pm by 東 賢太郎

これを知ってどう反応するか。国の財政緊縮の一環と思うか、文科省の都合と思うか、保有台数に無駄があったと思うか、学生に同情するか、芸術の未来を心配するか。僕はどれでもない。報道によると芸大は「大学全体としての経費削減」「台数は十分確保されている」としている。2部屋のピアノを撤去して減る経費など微々たるもので、大学の予算削減策への抗議かもしれないと推察するが、それ自体は大した問題でもなかろう。問題はもっと大きなものだ、それを述べる。

国立大の授業料は年額53万5800円(標準額)だ。僕の代は3万6000円で、S51年入学者から9万6000円になり、10年後は7倍になり、いまは15倍だ。それでも私立よりは4割安い。学生には結構だが教職員は困る。東京芸大教授の最高年収(たぶん学長)はネットで見る限り1,359万円、東大総長は2,396万円だ。公務員とはいえ実業界なら課長、部長ぐらいの年収であり、役職の重さからしてこれはないだろう、名誉はあっても本当にそれで満足なのという気がどうしてもしてしまう。

ちなみに、大学院ではあるが、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールの年間授業料は1,100万円ぐらいで日本の15~20倍だから教授も当然それなりの人がそれなりにもらっている。芸大や東大の先生も人間だ。カネだけではないというきれいごとで自分も世間も納得という時代は昭和でとっくに終わっている。高給も名誉も得られるそのポストを熾烈に争うウォートンの先生達の講義の質・量・熱は異次元の凄さであり、あれを体験してしまうと、年収20万ドルでやってくれといって応じる先生は世界にひとりもいないと確信できる。だから生徒も全米トップクラスが集まる。あまりにわかりやすい世界なのである。先生がそうなれば日本の大学にも優秀な留学生は集まるし、世界ランキングも勝手に上がるだろう。

国立大学法人も広義の独立行政法人だから自力で稼げ、運営費交付金は減らす。というなら芸大が国立であることはハンディである。なぜなら日本の公務員の給料で集まる先生しか雇えないし、当然優秀な方ばかりであるはずだがその限りのモチベーションでいいというカルチャーになってしまうだろう。その条件でウォートンと競うビジネススクールを日本に作るなどといえばジョークのネタだ。校名のブランドがあるだろうといって、芸大も東大も海外ではブランドでも何でもない。井の中の蛙である役人と大多数の国民がそう思っているだけであり、それが世界大学ランキングの順位なのだが、あれは英米だけの評価だと主張する人に評価されるなら無理難題だ。だから学長は経営者でなくまとめ役になり、とすれば1,359万円だろうという役所的な整合性が取れてくるという寸法なのである。

たとえば日本同様にクラシックの本場でないアメリカのカーチス音楽院はバーンスタイン、チェリビダッケがふらっと来て学生オケを指揮してくれる。そういう環境があるからユジャ・ワン、ランランみたいな留学生が来て世界で活躍し、母校のブランド価値を高めてくれる。アメリカができるのだからその環境が日本にあっても全く不思議でないが、給料安いけどゲーダイですよでは世界トップの人達は動かないし生徒も世につれてだんだんそうなる。現に先のショパンコンクールで2位、4位の歴史的快挙を成し遂げた反田恭平、小林愛実は二人とも桐朋出身だ。現実を直視せずにお役所仕事につじつまを合わせざるを得ないなら、授業料に上限がありファイナンス面の足かせもある芸大の経営は誰がやっても難しいだろう。

僕は昔に入りたいと思った芸大には思いがある。だから期待している。日本トップクラスの才能である学生たちに世界に雄飛して欲しいという気持も強く持っている。練習室のピアノ2、3台ぐらいは「ショパンコンクール優勝します」プロジェクトでも立ちあげてクラウドで投資してもらえばどうにでもなる話だ。そのぐらいのコミットメントとモチベーションをもってやれば、音楽に限らず何をやっても世の中は若者を応援してくれると信じている。

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モーツァルトの謎『レジナ・チェリ K.276』

2023 FEB 17 6:06:06 am by 東 賢太郎

これを初めて聴いてびっくりしたのはいつだったか。モーツァルトの宗教曲に浸っていたのは香港勤務を終えて日本に戻ってきてからだからその頃だろう。

レジナ・チェリ (Regina coeli、『天の女王』) はカトリック教会における伝統的な聖母賛歌の一つで、4つある聖母マリアのためのアンティフォナ(交唱)の一つである。プロテスタントは用いないので、モーツァルトがカソリック信徒であり、その教会のために書いたものであるという2つのことは疑いがない。歌詞はラテン語でこのように歌っている。

Regina coeli laetare, alleluia:
quia quem meruisti portare, alleluia:
resurrexit, sicut dixit, alleluia:
ora pro nobis deum, alleluia.

モーツァルトはこれに音楽を3つ書いている(ハ長調 K.108、変ロ長調 K.127、ハ長調 K.276)。教会とはザルツブルグのそれだろう。最初の2つは声楽付きのイタリア風シンフォニアに近く、K.127は宮廷一の歌手だったミハエル・ハイドン夫人のマリア・マグダレナのために作った。壮麗なコンチェルタントに仕上がったソプラノ・パートは彼女の高度な水準をうかがわせるが、後に彼は新妻コンスタンツェのためにミサ曲のソプラノ・パートを苦戦して書くことになる。

甚だ直感的な感想だが、最後の K.276と前2曲の間には大きな断層があるように思う。前者は音楽が和声も対位法も格段にリッチになり「戴冠式ミサ」に近い。 K.276は作曲年が特定できておらず、様式的類似点があるという理由で「主日のためのヴェスプレ」K.321と同じ1779年に比定されているが、同年1月19日の辞令で、モーツァルトはザルツブルクの宮廷オルガニストに採用された際に書いたので祝典的な性格になったという説もある。いずれにせよパリ旅行から帰ったザルツブルグ後期の1779年が定説だ。本当にそうだろうか?

僕がびっくりしたのは、ヘンデル「メサイア」そっくりの ハレルヤ!がほとんどそのまま登場するからだ。お聴きいただきたい。

これは偶然だと片づけられている。自筆譜が失われており、学者は証拠がないと認めないのだ。しかし、素人である僕は自由に仮説を立てたい。どう考えてもメサイアの引用にしか聞こえないし、僕は学説より自分の耳を信じているからだ。

さらに一歩進んで、ハ短調ミサK.427の「グローリア」音形(Gloria in excelsis)もハレルヤ!だ と書いたら多くの読者はそんな馬鹿なと思われるだろうか。

根拠はある。

「僕のミサ曲や – 2つのヴェスプレの総譜を – 入れてくれてもかまいません。 それらを、ただヴァン・スヴィーテン男爵に聴かせたいからです」

これはモーツァルトがウィーンから父へ1783年3月12日に書いた手紙だ。モーツァルトのメンターであるスヴィーテン男爵がバッハ、ヘンデルの楽譜のコレクターだったことはご記憶だろう。ちなみに「家のどこかにあるはず」と同じ手紙で所望しているミヒャエル・ハイドンの曲がスヴィーテンの遺品の中にあった。これはモーツァルト自身の手になる筆写譜であり、3月29日の父への手紙に「楽譜の小包、たしかに受け取りました」と書かれているのである。この小包にK.276も入っていたと考えるのは自然だろう。

もし1779年の作品なら彼はメサイアをパリ、マンハイム、ストラスブールで知ってザルツブルグに帰ったかもしれない。しかしハレルヤを引用する根拠が希薄だ。この手紙にあるようにウィーンに移ってからスヴィーテンの蔵書で知ったと考える方が自然ではないか。

毎週日曜日にお邪魔しているファン・スヴィーテン男爵が、ヘンデルとゼバスティアン・バッハの全作品を(ぼくがそれをひと通り男爵に弾いて聴かせた後で)ぼくにうちへ持って帰らせました(姉ナンネルへの手紙、1782年4月20日)。

とするとレジーナ・チェリ K.276はこれより後にウィーンで書かれたことになり、通説は否定される。しかし、素浪人の身になったモーツァルトにレジーナ・チェリの注文があったとも思えない。「スヴィーテン男爵に聴かせたい」と父に書いたのは予約演奏会を仕切って満員にしてくれる男爵の好意を得たいからだ。

ザルツブルグの原曲にハレルヤはなかったが、男爵を意識してウィーンで改訂して加えたのではないかとというのが我が説だ。コロレド大司教の楽団にはヴィオラがなく、K.276もヴィオラパートを欠いているのでザルツブルグで書かれたとする通説に疑いはないだろう。では改訂の蓋然性はあるのか?ある。ザルツブルグで書いたハフナー・セレナーデを交響曲 K. 385に仕立て直したのは周知の事実だが、その交響曲の初演は1783年3月23日である。3月29日(以前)に父から楽譜の小包が届き、入っていたK.276の改訂作業も同じように行なわれたとして何の不思議もないだろう。

そしてハ短調ミサだ。同年7月に、妻コンスタンツェを父に会わせて結婚を認めてもらおうとザルツブルグに旅立つのである。勝手な結婚で父との関係がずたずたになり、修復しようという勝負をかけた旅であった。そこで妻の歌唱力を見せて気に入ってもらおうと書いたのがハ短調ミサK.427なのである。K.276にハレルヤを挿入してスヴィーテンのご機嫌を取ろうとするのも、ウィーンでの成功を約束してもらおうという勝負の一環であった。K.427(Gloria in excelsis)の作曲が先かもしれないが、両曲は同じ思考回路で発想されハレルヤの晴れやかに高揚する祝典的な気分を借りるに至ったというのが僕の考えだ。

著作権がなかった当時は盗作という概念もなく、レクイエムK. 626にもメサイアを引用しているぐらいだからモーツァルトの頭の中には後に管弦楽を編曲することになる同作に強い敬意と愛着があったと考えて何ら不思議でない。スヴィーテンの図書館で学んだ、ザルツブルグ楽界の知らぬヘンデルの語法の薫陶を受けたことを父に見せつけ、ソプラノ・パートをコンスタンツェに歌わせて妻の株もあげようというのが、彼にありそうな魂胆だ。しかし、産後の妻の技量に合わせて大曲を仕立て上げ、レベルアップのためにボイストレーニングをしながらの作曲はさすがの彼にも荷が重かった。そこで同曲は時間切れになり、ザルツブルグ聖ペテロ教会でどう演奏したか記録がなく、曲は用済みなって未完のままになったというのが真相であろう。

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ブラームス4番とマタイ受難曲

2023 FEB 9 2:02:11 am by 東 賢太郎

音楽には「味」というものがある。「味があるね」という味ではなく、そのものずばりの「味覚」であって、舌を耳に置きかえたような感じだ。これの大半は和声(和音)というものに由来している。これを感じるのに理屈はいらない。初心者でも容易にわかるし、わかれば鑑賞が楽しくなる。

そういうものだが、本稿ではその存在を実証的に確かめるため、理屈を探求してみる。音楽という芸術はこれができる。絵画や文学にはない数学的要素があるからで、僕が深みにはまってしまった原因もそこにある。クラシックの名曲というものはそれほど精巧にできていて、まさに神は細部に宿る。ここではたしかに味の素があるのだということだけご覧いただければよく、その副産物としてブラームス交響曲第4番のご理解が少しでも深まれば幸いだ。

以前にクリストファー・ガニングの作曲した名探偵ポアロの主題曲について書いた(ポアロの主題曲はどこから来たか?)。スコアはないので耳コピだが、主題曲(ト短調)の主旋律のバスを辿っていくとg-f-es-d-c-b-a-asの最後のところでaにa/g/des/es、asにas/ges/c/dの和音が付く。各々のコードネームはE♭7(-5)、D7(-5)だ。半音平行移動だが単純化してg➡gesだけだとDsus4➡Dであり、ドミナントが確保されトニック(Gm)に戻る機能を持たせていることがわかる。

D7(-5)はD7の第5音を半音下げたものでas-dおよびges-cと増4度2つから成るほろ苦い音である。TV版のアガサ・クリスティーはほぼ見ているがこの主題曲の変奏が随所に現れ、情景や心理の描写が実にうまい。さすがプロの作曲家だと唸るしかない。g-f-es-d-c-b-a-asは何でもないバス・クリシェだがこれを歌ってくると最後の a-asであれっとずっこけ、霧の中で沼にずぶずぶっと足をとられたみたいになる。なんともミステリーの幕開けにふさわしいこの味を出してしまう和声というものの奥深さを見る。

掲題に関係ない曲の話をなぜするかというと、だいぶ昔から思っていたことだが、J.S.バッハ「マタイ受難曲」の終曲 ”Wir setzen uns mit Tranen nieder (我ら涙流しつつひざまづき)” はブラームスの4番と同じ「味」がすると思っていたことがまずある。先日、しばし両曲をピアノで弾いていて、その説明が和声でつくのではと思いあたったからだ。

主題を似せれば誰しもが引用を悟る。和声も連結(プログレッション)なら引用への認識を喚起できる(例・ハイドンの交響曲第98番とジュピター)が、単体ではよほどのインパクトがある和音でなければ気づきにくい。

では両曲のどの和音がその役割をしているのだろうか?結論を先に書いてしまうが、短2度で主音とぶつかる軋むような h (赤丸)がそれだ。マタイ受難曲の終結を告げる悲嘆と慟哭の音である。これはハ短調主和音(c-es-g)の根音cを半音下げた増三和音Cm(+7) だ(gを欠く)。

ホ短調のブラームス4番ではそれが長3度上に移調され、同じ悲嘆と慟哭をもたらすEm(+7) となっている。各所に散りばめられているが、最も象徴的なMov1の冒頭とMov4コーダのピアノ二手版を示す。赤丸内の和声がそれである。

いきなり現れるこのMov1第1主題は音列 h-g-e-c-a-fis-dis-h である。これは終楽章コーダ(次の楽譜)の伴奏部(赤丸内)にそのまま現れる。

楽譜はこのビデオの38分04秒から。

この合致はシェーンベルクが十二音技法につながるセリーの萌芽と解釈し、ブラームスを新ウィーン学派の始祖に位置づけている。赤丸の音列をdisが受け止めるのに注目されたい。この音こそが主音のeと短2度で衝突し、マタイ受難曲の悲嘆と慟哭の音を生む。和声はコラール再現の直前の小節でCとEが複合しc-e-gisとなるが、これは4度上に移調した同じAm(+7)である。かように同曲は開始と終結を増三和音の「味」でリンクさせ、円環形に閉じている。

52才のブラームスは4番を最後の交響曲として書いた。そこで主題音列(h-g-e-c-a-fis-dis-h)をハンマークラヴィール・ソナタ第3楽章からもってきたこと(我が仮説)はここに述べた(ベートーベン ピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィール」 作品106)。ブラームスの最初に出版された作品はピアノソナタ第1番 ハ長調であり、20才の彼はこれをフランツ・リスト、クララ・シューマンの前で弾いた。当時、ベートーベンの難曲第29番を弾けるのは地上に2人だけとされたが、それがリストとクララである。2人は称賛し、シューマンはその才能に驚嘆して讃えた。名実ともに、彼はここで世に出た。

この冒頭主題がハンマークラヴィール・ソナタと似ていることは当時から指摘され、ブラームスは否定した。しかし彼が何と釈明しようと、我々が無関係であると主張するにはそれなりの根拠と勇気がいるだろう(僕はその両方とも持ち合わせない)。初めて交響曲を構想するのに20余年もかける慎重居士だ。はい引用ですなどと手の内を明かすはずがない。むしろ楽曲にcode(暗号)を仕掛ける側の人だった(クララ向けが著名)。彼は最初の作品で引用したハンマークラヴィール・ソナタから、最後の交響曲の主題も引っ張ることで人生の円環も閉じようと計画したと僕は考えている。それも暗号だ、この曲が最後ですよという。

しかし、Mov1冒頭主題が同ソナタMov2由来だということに人は気づくだろうか?僕は確信しているが、21世紀になってもその主張は見たことがない。暗号は伝わらないと意味がなく、ブラームスも疑念を持ったのではないか。そこでまずエロイカを範に終楽章を変奏曲とし、シャコンヌという古い革袋に仕立てた。形式、旋法、管弦楽法の擬古性は先人への敬意を示す暗号である。それをJ.S.バッハのBWV150の “一聴瞭然の引用” で補強する。これで後世は気がつくだろう。バッハがいるならべートーベンもいないはずはないと。これも暗号である。

ではバッハはBWV150で終わりだろうか?いや、それは表の引用で、実は本命が潜んでいるのだ。彼が “裏code” にしたかったのはマタイであろう。なぜ裏かというとブラームスの信教に関わるからだ。ドイツ・レクイエムにもそれは見え隠れするが、彼がユダヤ人キリスト教徒だったかもしれないという仮定を置くなら『マタイによる福音書』は特別だ。この書は、

イエスはキリスト(救い主)であり、第1章1〜17節の系図によれば、ユダヤ民族の父と呼ばれているアブラハムの末裔であり、またイスラエルの王の資格を持つダビデの末裔として示している。このようなイエス理解から、ユダヤ人キリスト教徒を対象に書かれたと考えられる(wikipedia)。

からである。若き日の作品1の方法でBWV150をカムフラージュとして使用し、マタイの引用は和声というエーテルを漂わせることに留める。その和声の正体は前述した。マタイ受難曲を知る誰しもの耳に焼きついているであろう最後の最後の和音、カラヤンがベルリン・フィルとの録音でこの世への惜別の如く長く長く引き伸ばしている増三和音Cm(+7)がそれである。マタイのアイコンであると同時に、4番のアイコンにもなったこれを聴き分けるまで鑑賞すれば4番は皆様の「命の音楽」になるかもしれない。

かように音楽の味と和声の関係は深淵だ。ポアロ主題は第5音、マタイ終曲は第1音を半音下げて、たったそれだけのことで原音にはない「苦味」と「悲しみ」を生んでいる。オクターブを12等分したからそれがあるのであり、増三和音D7(-5)とCm(+7)は固有の感情に紐づけされて音楽の神秘を形成する。12等分は12進法と同じほど人為的なのだから実に不可思議なことだ。むしろ紐づけされるように人間の方が創造されたのかもしれない。

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僕が聴いた名演奏家たち(ジャンルイジ・ジェルメッティ)

2023 FEB 2 1:01:07 am by 東 賢太郎

我が家が引っ越したフランクフルト➡チューリヒは南北に約300kmで東京~名古屋ほどの移動だった。かたや、モーツァルトのパリ就活旅行(ザルツブルグ➡パリ)は東西に約900km、東京~広島ぐらいのデコボコ道を馬車で進んだ大移動であり、さらにそれを往復となると気が遠くなる。この地図はその4都市の位置を示している。

この地図の中で我が家は5年暮らした(息子は生まれた)。モーツァルトもコンスタンツェも代々この地図中の家系だったわけで、同じ空間にいたと思うと感慨深い。アロイジア、コンスタンツェのウェーバー家はバーゼル近郊の黒い森の町が故郷だから彼女たちはほぼスイス人といってよく、そこはチューリヒから車であっという間だ。

出張は別として、フランクフルトから旅行をしたのは、ローテンブルグからミュンヘンに下るロマンティック街道、ストラスブールとその近郊のバーデン=バーデンは2度滞在し、ハイデルベルグは数回、バンベルグ、ニュルンベルグはX’masに、ザルツブルグは音楽祭など。ところが北は家族で行ったのはベルリンだけで今となると意外だ。どうしても南に足が向いてしまったが、プロイセンよりバイエルンが好きなのだということがこうしてふり返ってみると分かる。

そのひとつにシュベツィンゲンがある。マンハイムの近郊でハイデルベルグの南西10kmにある街で、プファルツ選帝侯の夏の宮殿と桜のある庭園が有名だ。「選帝侯」は神聖ローマ帝国の君主(ローマ王)に対する選挙権を有した諸侯でドイツに7人しかいない。他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有し、当然ながらリッチであった。マンハイムが音楽の都であったのは権力者がここにいたからで、シュベツィンゲンは王の別荘地だったのである。

7才のモーツァルトは1763年7月18日、父レオポルトと姉と共にシュヴェッツィゲンを訪れ、選帝侯が宮殿で開催した演奏会に登場して喝采を受けた。毎年その城内劇場(「ロココ劇場」)で行われる「シュベツィンゲン音楽祭」はクラシック音楽ファンには著名だ。ちなみにドイツ最大の美味のひとつシュパーゲル(白アスパラ)の栽培を始めたのはここであり、開催はドイツ中がアスパラに舌鼓を打つ4~6月である。

ドイツ圏の音楽祭は会場が分散する所がある。近場でやっていたラインガウ音楽祭がそうだし、ザルツブルグ音楽祭もしかりだ。ここもそうで主会場はロココ劇場だが宗教音楽はシュパイアー大聖堂で行われる。1994年はリヒテルが来ていたがそれは聞けず、5月6日に大聖堂のジャンルイジ・ジェルメッティ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるロッシーニ「小荘厳ミサ曲(Petite messe solennelle)」を聴いた。僕は教会の音響が好きでリスニングルームは石壁にしている。典礼は何度か聴いたことがあったが演奏会は恐らくこれが初めてだったと思う。印象に強く残っている。「小」ではなく70分の大作。ロッシーニ最晩年の傑作で、同曲はジュリーニでロンドンでも聴いた。

シュパイアー大聖堂の内部

ジェルメッティ(Gianluigi Gelmetti, 1945年9月11日 – 2021年8月11日)は知らない方も多いだろう。僕もこの時に聴かなければそうだったと思うが、セルジュ・チェリビダッケ、フランコ・フェラーラ、ハンス・スワロフスキーの弟子で、指揮姿は無駄がなく美しい。歌、リズム、ニュアンスとも最高。当代イタリアを代表するロッシーニ指揮者としてアバド、サンティを継げる人だったと思う。ラテン系のレパートリーは水を得た魚だがドイツ物もシューベルトのグレート、ブルックナー6番がyoutubeにあり、ヘンツェの交響曲第7番を初演するなど現代の音楽にも適性が非常にある素晴らしい指揮者だった。シドニー交響楽団のシェフを最後に76才での訃報を最近になって知った。惜しい。1度しか聞けなかったことが痛恨の極みだ。

きかなくても彼のボエームがいいのはわかる。ああ劇場で体験したかった。

ローマ歌劇場の「ヴォツェック」をUPしていただいたのは嬉しい。ここではジョコンダを聴いたことがあるがこれは貴重だ。非常にいい。ジェルメッティの半端でない守備範囲をお分かりいただけるだろう。

春の祭典。見事な演奏。指揮が運動神経抜群なので手のうちに入ったオケが確信をもって弾けている。サントリーホールでこれを体験した方がうらやましい。

最後にラヴェルを。これまた極上、本当に素晴らしい。このCDは僕の宝物だ。買うかどうか迷ったが、ドイツのオケというのが気になったからだ。まったくの杞憂であった。冒頭の地図をもう一度見ていただけばシュトゥットガルトがほぼフランス文化圏でもあることがわかる。ラテン的なクラルテで硬質な響き、たっぷりと夢見るように歌う暖色の弦、涼やかに青白いフルート、きれいなアクセントで明滅する木管、流れるようにからまる油質の横糸、決然と刻むリズムで赤く熱していくアタッカ。これだけ多彩な絵の具を弄して描いたラヴェルはそうはない、まさしくセクシーだ。

5年前に同CDから「クープランの墓」だけ切り出していた。

これを墓碑としてお見送りすることになった。素晴らしい音楽を有難うございます。ご冥福をお祈りします。

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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コンスタンツェとアロイジアの蹉跌

2023 JAN 30 2:02:42 am by 東 賢太郎

マンハイムは僕が3年住んだフランクフルト・アム・マインからアウトバーンをぶっ飛ばせば30分ぐらいの南にある。この地図のなかで21才のモーツァルトは青春の蹉跌をたっぷりと味わっている。1777年に母と一緒にパリに向かう最中のことだ。まず父の故郷であるアウグスブルグで19才の従妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルトと意気投合し火遊びにふける。これは後にベーズレ書簡と呼ばれることになる恥ずかしい一連の手紙が残っていなければ闇の中だった(現に息子は廃棄を主張した)。父レオポルドの手紙はばっさり処分したコンスタンツェがなぜそうしなかったかは謎であり、それに対する僕の見解は「戴冠ミサk.317」の稿に書いた。

父の洞察力はシャーロック・ホームズのように鋭かった。そんな所で遊んでる場合かと檄を飛ばし、息子は後ろ髪をひかれながら従妹と別れて乗り込んだのがマンハイムだ。今はいち地方都市だが当時はプファルツ選帝侯の宮廷があり羽振りが良い街だった。宮廷はヨーロッパ最高の管弦楽団を所有して「マンハイム楽派」として後世に特筆されるほどハイレベルな音楽家たちが集結していた。頭領格のシュターミッツはボヘミア出身で父子とも楽団のバイオリニストをつとめ、ここで腕を磨いてパリに出た。モーツァルトはモッツ・ハルトでチェコ系という説があり、シュターミッツを範にレオポルドは子にバイオリンも仕込み、行先はパリという点からもその出世街道をイメージしていた可能性が大いにある。

しかもマンハイムはドイツ人がドイツ語でドイツ音楽をやる原点の都市だった。ロココから古典派への橋梁を成し、楽団に管楽器を入れて交響曲を量産し、ハイドンへの基盤を作った。ここ出身でストラスブール大聖堂の典礼音楽を仕切るフランツ・クサバー・リヒターのミサは私見ではモーツァルトと同格の質の高さで、帰途に寄ってそれを聴いた彼も暗にそれを認めており、老人でアル中のリヒターは長くないかもと冗談とも本音ともつかぬ手紙を書いている。つまり、イタリアぬきでべったりドイツであるマンハイムは彼が認められて何らおかしくない土壌だった。しかし、実力者のカンナビヒ家に歓待されはしたが、なぜかそうはならないのだ。何がいけなかったのだろう?

しかしモーツァルトはそんな危機感はそっちのけで写譜師ウエーバーの娘、16才のアロイジアに一目ぼれし、うつつを抜かしてしまうのだ。同業者仲間であるレオポルドからよろしくと頼まれていても、なんだこいつはになってしまうのは今も昔も変わらない。これがまずかったのだろう。そして彼女に歌わせるためレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、私は告白しよう…どこより訪れるのか私は分からぬ」(K294)を書く。これは歌の形をしたラブレターだ。これを歌ってモーツァルトを喜ばせたアロイジアの歌唱力はそれだけのことはあったものだから、彼の中にはあらぬ妄想がむくむくとふくらんでしまう。

お父さん、彼女の歌は凄いんです、僕がアロイジアとユニットを組んでオペラを書けば王侯貴族の引く手あまたになり、巷でも大人気になります。モーツァルトはパリなど眼中になく父への手紙でそう訴え、結婚だけしたいのではない、我々にとって経済的にいいだけではない、ウェーバー家は生活に困窮しているので助けてもあげたいのだと論点をすり替え、困窮ぶりを父に印象付けるため子供は息子も入れて6人もいると嘘までついている(四姉妹で息子はいない。父はこの家族を知らなかったことがわかる)。

こういう趣旨の熱い手紙を送ってきた息子に対し、レオポルドの洞察は鋭かった。お前は夢中になると他が目に入らず、何もかもが「あばたもえくぼ」になり、世間の常識など吹っ飛ばしたとんでもないことをしでかすのだ。馬鹿なことを考えるんじゃない。そんな娘にうつつをぬかしてどうする、世の中はそう甘くないんだ。決めた通りに紹介状を持って早くパリに行け!

この父子のそれぞれの気持ちが僕はわかってしまう。小学校の頃、帰り道で毎日立ち寄っていたM君の家の広い庭。そこに地下室を作ろうと僕はひらめいたのだ。そしてM君とお母さんを説得し、2人して毎日放課後にスコップでせっせと穴を掘った。1mぐらいのところで放送作家のお父さんが心配になり、我が家に電話が入って大激震が走る。お前は馬鹿かと激怒した父が先方様に平謝りして計画は頓挫したが、僕の頭の中では地下室は内部まで完成していたのであり、いま誰にも文句をつけられない自分の家でその通り実現している。

モーツァルトが「アロイジアと結婚してユニットを組めば凄いことになる」と父に熱く書き送ったのは、だから僕には本気感満載としか見えない。「凄いこと」はおまけであって彼女が欲しいだけなのだが、とにかく大言壮語ではなく大真面目であることはアルカンドロのアリアの難しさを聞けばわかる。二人とも十分な実力はあった。でも十分に世間知らずだったのだ。こういう性格は死ななきゃ治らない。3人の親になった僕はそういう馬鹿息子を持った我が父の心配もレオポルド氏の危惧も理解できるようになってはいるが、実のところいまだにそれをしでかしかねないし、誰かがしでかしても責めることはないだろう。

結局のところマンハイムでもパリでも見合う仕事のオファーはなく、1778年2月をもって就活は失敗に終わる。フリーランスがなかった時代だ。オン・ディマンドの働き口はまだなく、ピアノや作曲の腕がいいぐらいで雇ってもらえるわけがない。貴族の家来になるのだからまず第一に「愛い奴」でないといけないのだ。しかし生意気なはね返り小僧だった彼はそもそも仕官は不適格で、だからこそザルツブルグを飛び出たわけであり、パリへ行けばいいという安易なものではなく、その後ウィーンへ行ってもやっぱりだめだった。

父が苦労して貯めた資金はパー。しかも母を旅先で亡くしてしまった衝撃は彼を苦しめ、眠れぬ夜が続いたろう。帰途で心の灯を求めマンハイムに寄るが、アロイジアは引っ越していた。心は乱れ、行き先のミュンヘンまで追いかける。彼女に会うことはできたが、パリで負け犬になった男は用なしで、すげなくふられてしまう。これだけ怒涛のように不幸に見舞われる人もそうはいない。もう俺なんか誰も見てない、誰にも愛されてないと泣いたろう。これは耳疾でそうなって遺書を書いたベートーベンのようにあからさまでないが、彼が珍しく父にそれを吐露した手紙の悲しさは胸を打つ。これだ。この時の心境がパパゲーノに投影されて、あの「1,2,3。。。」の首つりのシーンになったのだ。

アロイジア・ウェーバー

レオポルドの洞察力は後日のコンスタンツェとの結婚騒動においても発揮された。「そんなアバズレ女はやめとけ。母親は札付きのやり手婆あだ、ウィーン中で有名だぞ。みんながお前の噂をしてることを知らんのか」。この指摘は見ようによっては真実だけに父の書簡はコンスタンツェの検閲を通過することができなかったのだが、ベーズレ書簡がOKなのだからいいではないかと思うのだ。父の疑念はアロイジアの “結婚” の件に発していたと思われる。貧乏だった未亡人がなぜ大都会ウィーンの一等地で独身者向けの下宿屋オーナーの身分になれたのか?その金はどこから出たのか?松本清張の「聞かなかった場所」のような真相をコンスタンツェは隠したかったわけである。

ヨーゼフ・ランゲ

モーツァルトが初めてアロイジアに会った1777年ごろからウェーバー夫人は才能・器量とも上々のアロイジアの結婚相手を物色していたと思われる。それがウィーン宮廷俳優でバツイチ、3人の子持ちだったヨゼフ・ランゲという男だった。その妻はドイツ・オペラ劇場のプリマ・ドンナだったが病気がちで、2年後に肺炎で亡くなる。そこで3年越しの計画通りアロイジアが1780年に後妻におさまっている。劇場で前妻の後釜になれる利益もおいしかったが、ランゲが4フローリンの前払いと700ギルダーという終身年金を払ってそのころは寡婦だった母親の面倒も見る契約にサインしたことが決定打だった。

そんな上玉が現れたのだから就活旅行に失敗したモーツァルトがそでにされたのは誠にごもっともである。しかし後にウィーンにフリーランスとして出てきてヒット作を書き始めると母は態度を一変して自分の下宿屋に呼び込み、今度はアロイジアの妹(三女)コンスタンツェと巧みにくっつけることで、ランゲと同様に責任を取れ、契約書を書けと迫ったわけだ。これに烈火のごとく激怒したレオポルドは結婚を断固として認めず、シュテファン聖堂の結婚式にも現れず、ロンドンに行きたいので息子を預かってくれとのお願いも蹴り、モーツァルトも父の葬式に出なかった。この父子の円満で希望に満ちていた関係はこうして瓦解し、終焉した。その面だけを見ればたしかに悪い女に引っかかったと言えないでもないだろう。

この姉妹はその後どうなったか。アロイジアとランゲは1795年に離婚したと歴史はあっさり記しているが、これは驚くべきことだ。ウィーン生まれのランゲはバイエルン人であり、ランゲ家はモーツァルト家とも元からつきあいがあり、カソリックだろう。ウエーバー家も、コンスタンツェはモーツァルトとの婚姻はシュテファン大聖堂で挙げておりカソリックだ。なぜこの二人は離婚できたんだろう?なぜ誰も説明していないのだろう?そもそもしていたのは結婚ではなく「金銭授受権付の同棲」だったのではないだろうか。離婚ではなく「契約満了」だったとすると凄い話だが(1780~1795、ぴったり15年だ!)。

もうひとつアロイジアには不可解な謎がある。モーツァルトの庇護者だった皇帝ヨゼフ2世が彼女を嫌っており、何度か追放を試み、とうとう1788年にクビにしてウィーン宮廷歌劇場から追い出していることだ(皇帝の死後1790年に復帰)。この理由はいまだに不明とされており謎以外の何物でもないが、万が一私見の通りであり、それを神聖ローマ帝国皇帝であるヨゼフ2世が知ったとするなら、神に誓わない同棲婚しかも金が絡んでいるなど長期売春に等しく、劇場でしゃあしゃあと人前に顔など出すなということで納得がいく。アロイジアは母親の命令でランゲと関係を持ったのではなく、自分の意志でスターダムへの早道と選択したかもしれない。モーツァルトには本当に興味がなく、この二人は結ばれなくて良かったのかもしれない。

アロイジアは1829年7月、ザルツブルグで英国人ノヴェロ夫妻の訪問を受け、「モーツァルトの愛を拒んだことを悔やんでいる」と語ったという。そのころモーツァルトはすでにレジェンドだから、関わった女性は一人残らずそう言うだろう。上がった株を上がる前に買うべきだったと悔やむ人が99%を占めているのが世の中というものだ。買ったコンスタンツェは “持ってる女” だったというしかない。ランゲはその後に、おそらく契約金の要らなかった女中と再婚して1831年まで生きたが、彼は歴史に名をとどめている。アロイジアと結婚したことではない、画家でもあった彼の描いたモーツァルトの肖像画を知らないクラシックファンはいないだろうという意味でだ。コンスタンツェはこれを「彼の最高の肖像画」であると述べているが、ここで嘘をつく理由はないからそうなのだろう。

コンスタンツェは旦那の葬式にいなかった。これがひどい女だ、悪妻だとされる根拠の一つだが、いられない理由があったというのがモーツァルトの死の真相のヒントだ。葬式を無視するほど関係が冷えていたならその後にザルツブルグに住まなかっただろうし、故人の地元も歓迎しなかったろう。しかもその地で彼女は結婚に大反対され、その手紙を片っ端から廃棄した父レオポルドと同じ聖セバスチャン教会墓地に眠っており、墓碑の父の下はモーツァルトの母方の母、左上は姉ナンネルの子供、その下はコンスタンツェの叔母で「魔弾の射手」の作曲家ウエーバーの母だ。しかしこれではレオポルドを従えているようで、どうも僕は腑に落ちない。

ゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセン

デンマークの外交官でコンスタンツェが再婚したニッセンが最上位にあり、政治的なにおいがする。モーツァルトのメンター役で葬儀の一切を取り仕切ったスヴィーテン男爵もオランダの外交官であり1803年に亡くなっているが、ニッセンは在ウィーン臨時代理大使だった1797年にコンスタンツェと会い、翌年から同棲を始め、1809年に結婚している。その頃コンスタンツェは亡夫の楽譜や版権を使って出版社や国王から収入を得ており、借金は完済し終わったどころかひと財産を築いていた。彼女は悪妻で頭も悪いという人もいるが、これを見る限りやり手である。外国との交渉には外交官はうってつけでオンディマンドな男だったのである。スヴィーテンは年をとって役目は終わっていたし、もうウィーンに用はなくなった。夫妻がザルツブルグに定住したのは1820年で、3年後から伝記の執筆を始める。これがその後のすべての伝記のネタ本になるわけだ。

これはちょうどベートーベンが第九を構想していた頃であり、そのころにはモーツァルトはすでに押しも押されぬレジェンドだ。死因も墓地も不明のまま、すなわちウィーン宮廷の名誉は守られたまますべての秘密は闇に葬られた。伝記の執筆に当たってニッセンはナンネルからモーツァルトが記した400通に及ぶ手紙を預かったが、前述したが、コンスタンツェは自分を最後まで認めなかったレオポルドの書簡を大量に破棄した。それを「なかったこと」にした嘘の伝記を書いても異を唱える者はもう生きていないと踏んだのだろう、モーツァルテウムの設立に関わるなど天才の神格化を始める。おかしなことだ。天才はザルツブルグを見限って出ていったのだ。彼は不遇のパリ就活に出ていった時からこの街を捨てていた。帰って来るのに辟易していたから辞表を叩きつけてウィーンに逃亡したのであり、それを幇助したのが下宿屋のウェーバー家だったのである。

以上を俯瞰してわかったことは、コンスタンツェに悪意はなかったろうが、結果としてはウェーバー家がモーツァルト家を乗っ取った観があり、それを不快に思って別な墓所に入ったといわれるナンネルに共感する自分がいるということだ。ザルツブルグを愛していたであろうナンネルがそこにおらず、今日のいまだって天国で結婚を認めていないだろうレオポルドが、先に亡くなったことでまるで承服したかのようなあんな墓に入れられている。そしてコンスタンツェ-ニッセンの計略に糊塗された伝記と墓石に洗脳されたモーツァルティアンたちが長年にわたって築き上げた異を唱えるべからずの砦はポリコレの如しだ。僕がモーツァルトの伝記はおろか、事実とされていることも実は都市伝説だと信用していないことはこれまで縷々述べてきたとおりで、どこまでも真相を追いかけるつもりだ。

コンスタンツェ

コンスタンツェが浅はかで浪費家の悪妻だったという説は支持できない。モーツァルトは妻を手紙であまりほめておらず、そのことも「売れ残りを押しつけられたんだね気の毒に」と悪妻のイメージに寄与しているが、彼は同情されなくても十分にモテる男だった。そうではない、良くも悪くも賢い面を父に見せたくなかったのだ。「それ見ろ、世情に疎いお前はずる賢いウェーバー家にいいように騙されてるんだ」と火に油を注ぐのは目に見えていたからだ。僕はなんとなくだが彼はコンスタンツェを本当に愛していた気がする。ウィーンではアロイジアはもう昔の女で友達であって眼中にないのだ。浮名はたくさん流したが、それはそれこれはこれというのが彼の頭の中だ。だから姉妹もみんな好きで、長女のヨーゼファは最初の「夜の女王」を歌わせてあげているし、一番下のゾフィーは死の床にまでそばにいてくれている。本当にいい奴だったのだ、モーツァルトは。

コンスタンツェはスヴィーテンの庇護を得て(というより事の成り行きからうまく利用して)財を成し、彼のおかわりに同系統の能力を持つニッセンをつかまえた。ファンは外国に広がりつつあった(英国人が訪ねてくるほど)から通訳も必要で、執筆には筆力も要求された。充分な貢献をしたニッセンを貴族に列するよう計らってやったのは、自分に協力した功労者をスヴィーテン男爵と同列にしてねぎらったのだろうが、貴族を墓石のトップに置いて箔もつけたかった。これでモーツァルト家が下に来るのは仕方ないわねということになる。悪妻ではないが良妻でもなく、したたかなマネージャーの妻であったというのが僕の評価だ。モーツァルトにはそれがぴったりだった。彼女は音楽の才能はなかったが、母親のビジネスの才はしっかり受け継いでいたからである。

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ハイドン 「戦時のミサ ハ長調」Hob.XXII:9

2023 JAN 22 16:16:30 pm by 東 賢太郎

フランツ・ヨゼフ・ハイドンへの興味は尽きない。音符も読めない車大工と料理女がつくった息子が音楽家になることはあろうが、その息子が死後に骨相学の信奉者によって頭蓋骨が盗まれるほど遺体に関心がもたれた天才だったなると、そんな人間は他には脳のスライスが科学者に研究対象として共有されたアインシュタインしか知らないのだから尋常な心持ちではおれない。その才能はどこから来たのだろう?なぜ埋もれていたのだろう?いや、それ以前に、才能とは一体何なんだろう?モーツァルトもベートーベンも、遺体が掘り返されて不思議でない天才ではある。しかし、彼らは、もっと言えばワーグナーもショパンもシューマンもブラームスもブルックナーもチャイコフスキーもだが、伝記を読む限り人としては普通でなかった。まあ天才だから。ところがハイドンはというと、僕が感知する限り、普通の「いい人」なのだ。

彼のアウトプットは、質×量を数値化すればあらゆるジャンルの天才の最大値に近いだろう。それでいて「いい人」で上司や同僚にお追従のひとつも言えなければ勤まらないサラリーマン人生を30余年も平穏に送って出世をし、お暇が出てロンドンで一旗揚げて富裕になっても「また帰って来てくれ」と雇用者が懇願し、そこで作った曲は慕われて国歌になってしまう。それなのに、彼には「頑張ってます感」があっけないほど漂っていないのだ。こんな人は見たことも聞いたこともない。ベートーベンやショパンやムソルグスキーの肖像画を思い浮かべていただきたい。天才は近寄りがたい圧があり、苦悩に満ち、人生に病み、あるいは浮き世は我関せずの目線を放っていたりするのが常なのだ。

Franz Joseph Haydn(1732 – 1809)

かたや、このハイドンさん、実はロココ調のレストランでソムリエのバイトしてておかしくない。「ワイン・リストはこちらでございます」「そうね、ブルゴーニュの明るめのこんな感じで予算こんなで3つ」なんて言うと気の利いたお薦めがすぐ出てきて、「年がねえ」なんて独り言に「お待ちください」とワインセラーにとんで行って「お客様、1本だけございました」なんて持ってくる。ハイドンさん、そんなひと世の中に絶対にいないんで、これ最大の賛辞なんで。でもこの感じじゃないと交響曲第96番は書けない、これも絶対に。じゃあいったい何なんだ?あなたは何者だったんだ?これぞ “Miracle” でなくてなんだろう。

1795年、2度目のロンドン滞在の最後の年に交響曲第102~104番の作曲を終えてウィーンに帰ったハイドンはもう交響曲の筆を折っていた。63才からの最後の時間を傾注したのはミサ曲とオラトリオの作曲である。

ニコラウス・エステルハージ侯爵

旅行中に新しく位についたエステルハージ侯爵ニコラウス2世の要請でエステルハージ家の楽長に再び就任し、妃の命名日に毎年ミサを書くことになる。それが後期六大ミサと呼ばれる6曲、《戦時のミサ》(1796),《ハイリゲミサ》 (1796),《ネルソン・ミサ》(1798),《テレジア・ミサ》 (1799),《天地創造ミサ》(1801),《ハルモニー・ミサ》 (1802)である。そして誰からの注文でもなく自主的に書かれたのが2つのオラトリオ、《天地創造》(1798),《四季》(1801)である。今の僕はテレジア・ミサを書いた頃の年齢で、ハイドンのこの豊穣の中にまだいることは一抹の安堵を与えてくれる。

《天地創造》作曲にはザロモンとスヴィーテンが深く関わっているが、ハイドンの内面に芽ばえた契機として考えられるのは、ウエストミンスター寺院でのヘンデル記念祭で《メサイア》を鑑賞し、エステルハージの小編成でなく大編成の楽団とコーラスで宗教音楽を書きたと思い立ったことだろう。僕もロンドンでメサイアを聴き圧倒的な感銘を受けたがモーツァルトもハイドンも受けたのだ。これを書いた5年前よりマタイ受難曲にはずっと目覚めているが、宗教的コンテクストと関係なくロックとして宗教音楽をきける我がスタンスは健在だ。

ヘンデル「メサイア」(Messiah)HWV.56

《戦時のミサ》はイタリア語でMissa in Tempore Belliで、ハイドンがスコアに記した曲名はこれだが、アニュス・デイでティンパニが活躍するため『太鼓ミサ』(Paukenmesse)とも呼ばれる。なぜ戦時かというと、ハプスブルク家がフランス革命戦争(イタリア戦役)で第一次対仏大同盟の一員としてナポレオン・ボナパルト率いるフランスと交戦し、大苦戦していたからだ。ウィーンに攻め込まれ敵軍の大砲が鳴り響いたのを模したのがそのティンパニであった。

ピアリスト教会の内部

初演は1796年12月26日にハイドンの指揮でウィーンのピアリスト教会にて行われた。ハイドンは完成したすべての楽譜の最後に「神に賛美を」という言葉を加えたほど信仰心が篤くTempore Belli(戦時下)の終息を神に祈るミサを書いたと考えるのが自然だが、ハンガリー国よりハプスブルグ家に忠誠を誓うエステルハージ家の家来としての立ち位置からの忖度がなかったとも言い切れないだろう。写真を見るに大きな教会ではなく管弦楽、合唱ともおそらく小編成で、現代の編成できくよりも相対的にティンパニの音量が大きく、Paukenmesse のニックネームがつくに至ったのではないか。

興味深いことに、ベートーベンはミサ・ソレムニスのアニュス・デイで、トランペットに軍楽隊のパッセージを吹かせ、フランス軍の太鼓であるティンパニを轟かせるというハイドンとまったく同様のことをしており、さらにはトロンボーンに誰もが出所のわかるパッセージを吹かせている。

ルドルフ大公

言うまでもなくこれはヘンデルのメサイア(ハレルヤ)であり、引用どころか堂々たるパクリのレベルだ。ハレルヤのこの旋律の歌詞は「そして彼は永遠に君臨する」(And he shall reign for ever and ever)である。献呈はオロモウツ大司教として即位したルドルフ大公だ。この人はしたがって聖職者になったわけだが、キャリアの当初、ベートーベンに弟子入りしたころまでは軍人だった。それを斟酌したパトロンへの精一杯の忖度だったのである。

メサイア全曲のフランス初演は1873年であり、モーツァルトが管弦楽に手を入れたとはいえ演奏はスヴィーテンのサークル内だけで、ミサ・ソレムニスが書かれた1823年当時のドイツの一般聴衆がこの引用に気づいたとは思えない。ピアノ・作曲の弟子でもあったルドルフ大公は、自身に献呈された皇帝協奏曲の試演で独奏者をつとめた程のスーパー・アマチュアであり、この「本歌取り」が通じたから忖度になったと推理する。

このことはベートーベンが先生であったハイドンの《戦時のミサ》のアニュス・デイを研究した痕跡であり、これまた興味深いことに、そこではトランペットでこれがフォルテでくっきりと鳴るのだ。

普通の耳しか持たない僕でさえ記憶に焼きついているこれが、第5交響曲を作曲前のベートーベンの脳裏にあったとして何ら不思議でないだろう。

ハイドンの《戦時のミサ》はそれよりもずっとリアルな「戦時」に書かれたから祈りがあると考えるが、この曲は自作を含む数々の影響から成り立っている。グロリアの冒頭は自作の交響曲第96番「奇跡」のMov1冒頭であり、クレドの開始部分は前出のハレルヤ「そして彼は永遠に君臨する」であり、さらに顕著なモーツァルトの影響というと、グロリアの「Qui tollis」は魔笛の「おおイシスとオシリスの神よ」、クレドの「Et incarnatus est」(ハ短調)はザラストロとパミーナの掛け合い、「et vitam」は「ザラストロ万歳」だ(ライオンが出てくるところ。両者ともハ長調であり、やはり同調のリンツ交響曲と同じリズムで終わる)。そしてベネディクトゥスの出だしはドン・ジョヴァンニである。

ハイドンがパクリだと書きたいのではない。彼は63年生きていろんな音楽が頭にあって、そのスープからいろんな味を引き出すことが作曲だったのだ。僕も60年クラシックを聴いていろんな音楽が頭にあって、そのいちいちが耳に入るものと共振するのを楽しむのが鑑賞になっている。《戦時のミサ》は104曲も歴史に残る交響曲を書いて、いや交響曲なるものを地球上に送り出した、その天才が教会音楽というフォーマットで産み落とした傑作だということを書きたい。

この曲は反戦を訴えたバーンスタインが得意としており、再録のバイエルン放送響との演奏が有名だが、僕は1973年に録音されたニューヨーク・フィルとのCBS盤の方を愛好している。この演奏が発散する熱量と気迫は尋常でないからで、何万とあろうスタジオ録音なるものでもこんなのはざらにない。録音がベトナム反戦運動のさなかであったことと決して無関係ではなかろうが(同年3月までにアメリカ軍はベトナムから撤退している)、スタジオではそういうものを出さないのが普通のプロだろう。彼はプロだが普通の人ではなかったのだ。

前から不思議に思っていたが彼は60年代の駆け出しのころからハイドンをやけにたくさん振っていた。派手好きなイメージを持っていたので違和感があった。いや、彼はハイドンが好きだったのだ。ハイドンは会ったことないがバーンスタインはある。そうか、彼も「いい人」だったっけ。

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ベートーべン ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調 「春」Op.24

2023 JAN 13 23:23:31 pm by 東 賢太郎

先日、池袋のジュンク堂に立ち寄った。神山先生の帰りだ。渋谷Book1st、神保町三省堂、八重洲ブックセンターと大書店が次々に消えている昨今、本屋は僕のコックピットだからここだけは末永くお願いしたい。

しばし漢方のコーナーで嬉しいぐらいたくさんある書籍をあれこれ見ていたら、妙なるヴァイオリンの調べが不意に天から降ってきた。しばし金縛りで動けなくなってしまった。

誰が呼んだか「春」。ベートーベンの書いた最も美しいメロディーと思う。

降ってきたとき30~31才。交響曲第1番より後だ。すでに重い難聴に襲われており、自殺しようと遺書を書くのはその翌年だ。

内に住む悪魔と闘う。

シューベルト、シューマン、ブルックナー、ブラームス、みなそうであり、みなベートーベンを意識した人たちだ。僕も彼の音楽をそれぬきに聴くことはない。

それにしても最晩年のカラヤンがつくった彼の音楽、ああいう音響体をどういう言葉で描写したらよいものか。娯楽に流れると消えるもの。それは悪魔を見ないように自ら懸命に追い込んだ魂の気配だ。

モーツァルトの同作と同様まだジャンル名は「ヴァイオリンの助奏付きピアノソナタ」であったが5番は脇役のはずのヴァイオリンがいきなり楽譜の旋律を奏で、聴き手を百花繚乱の園に導きいれる点で、場違いな言葉ではあるが、僕にはショッキングである。スケルツォ入りの4楽章に初めてするなど「春」は大変な野心作だ。

遺書を書きながら野心もある。彼はすぐれて二項対立的な人で、プライベートには女性にその解決を求めたが得られず、それがすべからく音楽に向かった。この曲の「春」になる性質は女性なくして考えられないが、同時に、旧作(ピアノ協奏曲第1番)にもあった前衛的和声の意図的混迷はここでもMov1コーダ直前の両楽器の対位法的進行に現れる(大元はモーツァルトだが)。彼はアバンギャルドだった。それのほとんどは奇天烈に終わらず後世に継がれたが、いまもって不思議がたくさんあり興味が尽きない。

 

エリカ・モリーニ(Vn) / ルドルフ・フィルクシュニー(Pf)

モリー二の音は細めだが冒頭からめざましい。歌心と色香が匂いたち、一気に引き込まれてしまう。Mov1第2主題でのギアチェンジなどメリハリもある。フィルクシュニーの深い陰影のあるタッチがこれまた素晴らしく、僕は彼のモーツァルトをボストンで聴いたがそれを思い出す。何やら調律が特別に良いのではないかとすら聞こえ、Mov4の長短調の交叉はこれでこそ活きる。1961年録音。

 

アドルフ・ブッシュ / ルドルフ・ゼルキン

Mov1のテンポ。ハイフェッツ盤とこれが本来のアレグロと思う(こちらの完成度が上だ)。インテンポで遊びはないがドイツ流の王道だろう。ナチス独裁政治が確立した1933年の録音だが、90年たっても古びた感じがしない。

 

フリッツ・クライスラー / フランツ・ルップ

1935年録音。Mov1から川のように流麗。クライスラー一流のポルタメントを駆使して存分に歌う。Mov1第2主題の加速があり音楽は喜びに満ちる。リズムにエッジを欠くのでMov3の諧謔はいまひとつだがMov4には歌が戻る。機能性が売りの現代のヴァイオリンのアンチテーゼであり、19世紀のサロンで弾かれていたムードはこんなではなかったか。

 

クリスチャン・フェラス / ピエール・バルビゼ

こちらはフランスのコンビ。フェラスは華やかだが品格があるのが好み。テンポの揺れや間のとりかたは長年の息の合ったアンサンブル。Mov2のギャラントだが深みのある表情は随一と思う。

 

ジノ・フランチェスカッティ / ロベール・カサドシュ

こちらもフランス組だ。フランチェスカッティのヴィヴラートは19世紀の余韻たっぷりだが、たっぷりめのテンポにもかかわらず甘ったるい演奏とはきっぱりと一線を画している。それはカサドシュのクリアに引き締まって滋味深いニュアンスに富んだピアノあってのことだ。これが支えてこそヴァイオリンが雄弁に歌いきる。ラヴェルが結びつけたこのコンビが一世を風靡したのは異なる個性の相性の良さによる。ピアノだけ取ればこれとフィルクシュニーが双璧だろう。

 

ジョシュア・ベル / エマニュエル・アックス

youtebeにある米国人コンビのライブ。ベルはフランクフルトで聴いたシベリウスの協奏曲が衝撃の名演で今も忘れない。彼は当時25才で「末恐ろし」と思ったが、昨年55才でのこの演奏、Mov1で拍手が入ってしまうような場にもかかわらず実に素晴らしい。かかわらずというか、こうして聴衆がノッている、ビビッドに反応してくる場というものが作曲当時にはあったのだ。アックスのピアノがこれまたブラボーで、ベルと競奏したりなんら名技をひけらかすわけでもないが、安定した「大人の演奏」は最高の満足を与えてくれる。スタジオでアイコンとして残すべくする演奏も良いが、こうして音楽が生まれる場にいることも、これまた人生の贅沢である。旬であるこういう人たちのアートが「新譜」として出てこない世の中になってしまったことが実に恨めしい。Mov3、最後の1音までズレまくる(スケルツォとはこういうお遊びのことだ)、ベートーベンの聴衆は笑って湧いたに違いない!Mov4の不意の短調にも!これがポップスだった時代の情景が浮かんでくる。くそ真面目に上手に弾くだけの演奏と格が違うと言ったらいいか、そういうものも含めての “文化” なのだ。クラシックは、クラシックと呼ばれるようになって「古寺巡礼」になった。古寺だから価値があるという異質な価値観だ。そんなものは奈良、平安の時代に朱色や金色に塗られてぴかぴかの「新しい寺」だった頃にあろうはずもない。ベートーベンも草葉の陰でクラシックとなっている己にびっくりしてるだろう。その気になればこういう演奏に普段着であっさりふれることができたあのころの日々、なんて恵まれていたんだろう・・・。

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僕の愛聴盤(4)ナージャのフランクVnソナタ

2023 JAN 6 23:23:43 pm by 東 賢太郎

飯より好きな曲なのに気がつくとずいぶんご無沙汰ということがある。友達なら会えばすぐ戻る。ところが音楽の場合は、情熱が冷めたわけではないのに、いざ聴いてみるとまるで疲労して肩こりになったように心が固くなっていて、いまひとつその曲に入り込めずあっさり通り過ぎてしまうことがある。去年12月に東京芸術劇場で聴いたエリアフ・インバル / 都響のフランク交響曲ニ短調がそれだったらどうしようと思っていた。幸い徐々に心にしみ、じわりと漢方薬みたいに効いて感動した。

以来、とても深いフランクの世界をあれこれ渉猟することになって、youtubeには気に入っているペルルミュテールとパレナン四重奏団によるピアノ五重奏曲をアップさせてもらったりした。そして、そうこうしているうち、やっぱりここに帰ってきてしまうのだ。ヴァイオリン・ソナタイ長調である。ブラームス4番を我が命の音楽と書いたが、このソナタは魂に彫り込まれている。これに感動しなくなったら人間をやめてもいいぐらいだ。

レコード、CD はたくさんある。グリュミオー / セボック盤が圧倒的に素晴らしいが、もうひとつ、どうしてこれに気づかなかったのか不分明を恥じるほど揺さぶられた演奏がある。ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ / セシル・リカド盤(EMI)である。

ローマ生まれのナージャは父親をなくし8才で母親と米国に移住した。それなりに富裕だったのだろうが、とはいえ母と幼い娘が気楽に安全に入って行けるほど米国社会は甘くない。カーティス音楽院でイヴァン・ガラミアン、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイという著名な教師に付いて学んでいる。才能がないのにコネだけでできるほど甘くないのも米国社会だ。彼女は奔放なスタイルの人で、教育の枠に収まりきれなかったという趣旨のことがバイオに書かれているが、そうだろうか。教師と生徒、感性の違いはあってもヴァイオリンを自在に弾きこなすハイレベルな訓練なくしてこのCDのような演奏ができるはずはなく、むしろ名教師直伝の技術という素材を自分流に使いこなすところまで個性を発揮した、それを教師は喜ばなかったかもしれないが、そこまで飛翔してしまえた彼女の才能を評価すべきだと僕は思う。

このCDを池袋にあったWaveで買った理由は記憶がない。ひょっとして日本で聴いたのだろうかレコ芸の評が良かったのか、それも覚えてない。CDはそのまま棚に埋もれていたのだから印象が薄かったのだろう。しかし、先ほど何十年ぶりかに取り出して、完全に虜になったのだ。いや、こんなフランクは知らない。グリュミオーの典雅としか言いようのない節度と気品とは違う。そういうものをこの人は求めておらず、そのかわり満ち溢れるような音楽への愛と歌がある。それが打ち震えるヴィヴラートに乗ってぐいぐい迫って来る。楽器はグァルネリの”Miss Beatrice Luytens, ex Cte de Sasserno” とwikiに書かれているが、その音だろうか弾き方だろうか、E線の高音部でもG線のハイポジションのような肉厚の音色である。フランコ・ベルギー派の特徴ともいえ、彼女が意識してそうしたかどうかはともかくフランクにはそぐわしい。

何度この録音をききかえしただろう。Mov1の冒頭主題の慈しみからして尋常でない。いきなりロマンの深い灰色の霧に放りこまれるが、旋律がオクターブ上がると予想もしない妖艶な色香がのってきて熱さが徐々に見えてくる。フレーズの感情の変転につれテンポが大きく揺らぎ、これが見事にツボにはまって心に入りこんでくる。すすり泣くような弱音から激情の嵐へのクレッシェンドで一気に高みに持っていかれると、もういけない。こんなヴァイオリンをいったい誰が弾いただろう。最高音でピッチがほんのわずかだけはずれるが、我関せず肉厚の美音で歌を朗々と歌い、まるで霊に口寄せする巫女のように世界に “入って” しまっている 感じだ。普段はそれで白けてしまう僕だが、なぜだか気にもならない。

ショパンを想起させる激情のMov2も音楽はいったん止まりかけ、Mov3のコーダに近づくや聞こえるか聞こえないかの命懸けのppになる。極限までテンポも落ちる。息をひそめた二人の入魂ぶりは凄まじい。だからMov4の主題が聞こえると、まるでシューマンのライン交響曲の終楽章の出だしみたいにほっとする。あまりに深かった幻想の闇から救い出されたように、慰撫するようにこの主題をpで弾いてくれる。やがて激するとテンポが上がり、最高音に渾身のヴィヴラートがかかり、コーダに向けてぐんぐん加速して曲を閉じる。僕はここのアッチェレランドには否定的で、おそらく初めてきいてそれが気に入らなかったと思う。しかし、これが年の功なのか、二人の20代の女性のパッションに打ちのめされてなのか、ここでは少しも嫌でない。

グリュミオーの禁欲性や翳りがなく、こんなに歌っていいのかと思うほど情熱とロマンにまかせてアクセルをふかしているように聞こえるかもしれないこの演奏を評価しない人も多いだろう。下に貼ったyoutubeのCDジャケットをご覧になれば、自由奔放ぶりにフォーカスして “じゃじゃ馬” と日本で評された路線でEMIも売り出そうとしていた風情が伺えよう(日本の保守的なクラシックファンに売れない写真だ)。しかし、演奏とは楽譜から奏者が汲みとった感情のプレゼンテーションであって、ことその一点に限っていうなら強い主張がないと何のためにそれをやっているのか自体が問われてしまうビジネスのそれとちっとも変わらない。正統派の解釈ではなくとも、奏者の人間性に打たれて納得する。ということはその音楽が秘めていて気がつかなかった大事なものを再発見させてもらったことになる。

この演奏、まるでライブのように彼女たちが一期一会で感じたものの発露であるように聞こえるし、それが魅力であることに異論もない。しかし、実は見事に計算された、いや、計算という言葉が無機的に響くなら、二人の奏者の琴線にふれるという所に達するまで入念に吟味し、試行し、よく考えぬかれたものだろう。そうでなければ達しない深い印象が、つまり偶然の産物なら2度目は得られないそれが何度聞いてもあるのは、この音楽の「歌」という本質に根ざすところまで熟考されているからに相違ない。じゃじゃ馬が気の向くままに好タイムを出したようにきこえるが、造りこまれた完成品である。同曲の前年に発表されたブラームスの第2ソナタをフィルアップしているのも偶然とは思えないように。

更に弁護しておこう。フランクはベルギー(ワロン)人でフランスに帰化しているからこの曲をフランス音楽と類型化するのは誤りだ。彼の父はドイツ系、母は生粋のドイツ人で母国語はドイツ語。没頭していたのはワーグナーのトリスタンなのだ(このソナタにも痕跡がある)。秘めているドイツロマン派源流の精神はフランクには根強いのだ。ナージャは思うにそれに共振するテンペラメントの持ち主で、このフランクは数多ある名演奏のうちでも最も「トリスタン寄り」のひとつであり、トリスタン好きの僕が共鳴してしかるべきものだった。ナージャと同い年のセシル・リカドはフィリピン出身だ。米国でラフマニノフをきいたが、ロマン的な音楽への資質は逸品(そうでなければルドルフ・ゼルキンの唯一の弟子にはなれなかったろう)。繊細、強靭を織り交ぜたタッチでナージャに心をぴたりと同期させ、しかもこの音楽に不可欠な格調と知性を加えている。それがあってこそヴァイオリンは自由にファンタジーを羽ばたかせ、静謐な部分では清楚とさえ感じる絶妙の音程に昇華を見せている。

このおふたり、この10年ほど名をきかない。お元気ならいいが。大御所ばかり呼びたがる日本だが、僕としてはこういう魅力ある天才肌のアーティストをぜひ生で聴きたい。

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