僕が聴いた名演奏家たち(アルトゥーロ・ミケランジェリ)
2021 NOV 14 23:23:13 pm by 東 賢太郎
音楽を聴くという作業の本質は、人間がどういうわけか保有している極度に緻密で繊細に造られた感覚、無神経な者が傍にいるだけで壊れてしまうぐらい神秘的なその感覚を探し求める永遠の旅である。少なくとも僕にとってはそうである。
だから、旅先のほのぼのした夕餉の席や温泉のように他人と一緒にそれを楽しむのは経験的に無理と判っている。究極は自分で弾き、それを聴くしかない。著名な演奏家であっても探索には足りないことがほとんどで、だから僕はシンセサイザーによる理想の演奏の製作に没頭したのだ。そうしないと、音楽というものはアラジンの魔人のようにランプから立ち現れてはくれない。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-1995)にとってシンセサイザーは不要だった。ピアノがうまく弾けたからだ。彼は初見が遅いが何でも弾け、他人に聴かせるのはほんの一部だけだった。どう見られるかについて極度に敏感でクールな完全主義者だった点で、僕は俳優の故田村正和に近いイメージを懐いている。完璧を求める人は一種のナルシストでもあり、自分にも厳しい。田村は私生活を一切明かさず、箸を持つ手までこだわり他人の前では決して食事をせず、自らF1観戦に赴くカーマニアで、台本は完全に記憶しNGを出すのを嫌い、NGを出す役者も嫌い、「田村チェア」と呼ばれる自前のデッキチェアを常にロケ現場に持参する人だったようだ。
ミケランジェリもNG(ミスタッチ)をせぬまで弾き込んだ曲だけを披露し、演奏会場には自分のピアノを2台持ちこむ。レパートリーが少ないのは完全主義者ゆえに、完全な自分だけを外に見せるためのミニマリズムだ。カーマニアで自身がレーサーでもあり、医師、パイロットでもあったが私生活は限られたことしか明かさず、ちょっとしたプライベートについて口外されただけで気の合っていたチェリビダッケと絶交した。基本的に両人とも自己愛が強く、自己が愛するもの以外は受け入れず、浮世離れしたオーラがある人だったように思える。こうした性質はやはり完全主義者である僕も幾分かは理解できるものである。
ドイツ人は緻密、綿密というイメージがあるが、フランクフルトの新人面接で試験するとまったくそんなことはない。イタリアにも中国にもそういう人はいる事を自分の眼で確認し人種は無関係と悟った。チェリビダッケは明らかにそういう人だったが、彼ほどの人ですら、開演30分前に気温変化でピアノの調子が狂うとキャンセルしてしまうミケランジェリの緻密、綿密な感覚は誰にもわからないと述べている(BBCインタビュー)。調律は勿論メカにも及び、ある時は2台のピアノを4人の技術者で調整したがOKしなかったという。それはとりもなおさず、彼の音楽を求める基準が恐ろしく緻密、綿密だから楽器がその要求を超えていなくてはならないということだ。そうでなければ彼の完全主義が演奏を許さない。入念に準備したものを披露しないのも完全主義者には辛いが、基準に満たない演奏を聴かれることの方がもっと不完全なのだ。キャンセル魔は気まぐれのせいではないのである。
ショパン・コンクールのビデオをぼちぼちチェックしながら、さてミケランジェリはどうだったっけとOp.22を聴いてみる。ピアノというものはこういうものだと逆定義を強いられるような涼やかな音色で開始され、ポロネーズのリズムになっての速い重音パッセージは全部の音が完璧に均等かつ滑らかなレガートで弾かたと思うやスタッカートで羽毛に乗ったようにフレーズと共に歌う(!)。聞いたことのない異国の言葉で何かをダンディに訴えかけられ、アイボリー色の左手に金粉を散らす右手高音の信じ難い高速パッセージ。この「音符の多さ」が無駄な装飾に聴こえたらショパンではない。それが饒舌にならずパックの如く踊る様は、何が眼前で起きているのか思考を乱されで茫然とするしか術がない。
弾いている人間の存在はなく、書いたショパンもなく、天空から降ってきた何者かが美しく舞い、なにか切なるメッセージを残して消える。人為という人間の苦労の痕跡を感じないのだ。これを舞台でやってのけた男は、だからこの音楽とともに生まれ、練習などという人間臭い行為と無縁である。そう見える。そういう男をミケランジェリは演じて生き、ひょっとしてショパンもそうだったのではないかという残像を聴衆に残して天才と一体化するのである。非常に役者的なものを感じる。田村正和でないならマーロン・ブランド、高倉健といってもよい。
これがショパンというものか。仮にこんな男が今の世に現れたらどうか。社会でどうなるか想像すら及ばないが、ひとつ約束されそうなことは世界の知的なセレブ女性が放っておかない事だろう。そして19世紀のサロンでもまさにそういうことがおきた。ただの馬鹿なイケメンにジョルジュ・サンドのような貴族の血をひく正統なインテリ女が惹かれるとは思えない。
ショパンはポーランドの没落貴族の母を持つが父はフランスの車大工の息子である。6歳年上のサンドは恋人兼保護者であり彼がサロンでどうピアノを弾いたのかは興味深いが、ミケランジェリのようなマッチョな男ぶりではなかったろう。パリのサロンの雰囲気は知り様がないが、こんなものかと時代をワープしたような数奇な経験を一度だけしたことがある。ロンドンのウィグモアホールで、ヴラド・ペルルミュテール(1904 – 2002)のリサイタルを聴いた時だ。ミケランジェリのショパンにあの味はなく、香水と軽妙なお喋りにはいま一つそぐわない。しかし、矛盾するのだが、彼のように弾いてこそショパンは甘ったるさのない紫水晶の如き輝きを放って人を魅了すると思う。このショパンの二面性ゆえに僕はいまだ彼をつかみかねている。ポロネーズのリズムだってポーランドの田舎踊りの拍子なのだが、それがパリのサロンに出て洗練され、別格の音楽になる。そこに燦然と輝いて君臨する場を得たのがミケランジェリなのである。
彼もペルルミュテールも貴族の血筋でないが、紡ぎだした音楽は aristocratic であった。aristo- は古代ギリシャ語の best だ。しかし最高権力の座にある者(貴族)がベストの趣味を持つとは限らず、始祖は概ね武勇のみの野人だ。それが時と共に持つようになるワイン、イタリア美術等の造詣を経て緻密、繊細を愛でる精神(エスプリ)を具有するに至る。5~10代はかかる。例えば徳川家だ。家康は思慮深い野人だったが、慶喜に至って趣味も思想も貴族になった。つまり、出自は関係ない。あくまで、その人の精神が緻密、繊細を愛でるかどうか、その為には日々の生活を気にしなくて済む程度の経済の余裕や教養は必要だろうが、精神の気高さの方が余程重要である。若くしてそれがあったショパンはパリのエスプリというテロワールに磨かれ、鄙びた素材から頂点に通ずる高貴な音楽を書いたのだ。
時はロンドン赴任して1年たった1985年5月26日の日曜日。悪名高い当日のキャンセルを誰しもが心配したが大丈夫だった。ロンドンに6年、その後もドイツ、スイスに5年半いたが、結局、伝説のピアニストを聴く機会はこの一回だけだった。カラヤンの「ばらの騎士」、カルロス・クライバーのブラームス4番に並ぶ僥倖だった。バービカン・センターはシティに近く、バーンスタイン、アバド、ハイティンク、アシュケナージ、メータ、C・デービス、若杉など多数の演奏家を聴いた。座席は舞台の左袖に近い前の方、通路の後方2列目でピアニストの背中を見る位置だ。席に座るとやがて左手からミケランジェリが現れ、目の前をゆっくり歩いて行った。これが当日のプログラムだ。
僕の前の席にやや座高の高い男性が座っていたが、前半のショパンプログラムが終了して休憩になると立ち上がって中央の階段を後方のロビーへゆっくりと登っていき、もう戻ってこなかった。アルフレート・ブレンデルだった。
ここで聴いたピアノ演奏は、レコード録音を含めても僕の知る最も緻密、繊細なものだ。今に至るまで、これを凌ぐ経験はなない。それは鳴っている音がそうだというだけでなく、ゼロから音楽を作っていくピアニストの精神のあり様がそうであり、凡庸なスピリットを何年かけて何重に研鑽して積み重ねようと到達しそうにない高みの音楽が鳴ったからである。これに近い経験は、やはりロンドンでめぐり合ったスヴャトスラフ・リヒテルのプロコフィエフのソナタだけだ(この日も偶然すぐ後ろの席に内田光子さんがいた)。全盛期のポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、バレンボイム、ワイセンベルク、ルプー、ペライアらを、そして勿論ブレンデルも内田も聴いたが、ショパンに関する限りミケランジェリは別格だ。プログラムの4曲とも自家薬籠中のもので、既述の如き天界の完成度というよりもバラード1、スケルツォ2はライブなりの熱があったと記憶する。以下に当日の演奏順に同年のブレゲンツでのライブ録音を並べてみた(Op.22のみ1987年ヴァチカン)。バービカンにいる気持ちでお楽しみいただきたい。
後半のドビッシーは次回に、著名なグラモフォンの録音を中心に述べる。
(つづく)
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僕が聴いた名演奏家たち(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)
2021 NOV 12 17:17:23 pm by 東 賢太郎
本稿を書いていたら、ロスチャイルドの広告につられて途中からそっちに筆が向かってしまったのが前稿だ。ロストロポーヴィチの母方もユダヤ系だというのがアドの背景なのだろうか。上掲のコンサート、ロンドンの激務に翻弄される中でどうしてもこのチェリストだけは聴いておきたく半ば無理して行ったものだ。だから眠かったと思われリットンの指揮は何も記憶がないが、ロストロの音には驚き、はっきりと耳に残っている。楽器を寝かすように構え、音は信じられないほど大きい。ソロが出るとまさに千両役者のお目見えでオケが可哀想なほどに霞んでしまう。音質はというと中音部はバターのようにトロリとし、低音は深々とロイヤル・フェスティバル・ホールの奥まで圧するが如く響き渡る。驚いたのは高音部だ。まるでヴァイオリンである。
オーボエのレッスンに立ち会った時、「高音は小さな笛を吹いている感じで」と先生が言っていた(N響の池田昭子さんだ)。ロストロのハイポジションはそういう意味でヴァイオリンを弾いている感じであり、出てくる音までそうだった。こういうチェロは後にも先にも、今に至っても聴いたことがない。2曲もやってくれたのは大サービスだった。シューマンを聴いたのはこの時が初めてで、一気に引き込まれた。最晩年の危うさが刻まれているのが痛々しいが、ほぼ同時期に書かれた交響曲第3番にはそんなものは微塵もない。デュッセルドルフの人々に囲まれて一時だが心の宿痾から解き放たれたに違いない。
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僕が聴いた名演奏家たち(ベルナルト・ハイティンク)
2021 NOV 5 14:14:56 pm by 東 賢太郎
ハイティンクが亡くなった。とうとうこの日が来てしまった。最後に彼をきいたのは1998年5月10日、ロンドンのバービカンホールでロンドン響を振ったマーラー巨人だった。終楽章コーダのアッチェレランドを伴った追い込みは誰からもきいたことのない物凄いもので、彼がこんな演奏をするのかと意外だったのが忘れられない。
ベルナルト・ハイティンク(1929 – 2021)は年齢でいうと我が母の1才下で、同じ時代を生きた指揮者のうちでもっとも敬愛する巨匠のひとりである。我が家の棚に数えきれないほどあるブラームスの交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番(アラウ)、チャイコフスキーの5番、シューマンの3番のレコードで、一番好きなのは彼がアムステルダム・コンセルトヘボウとフィリップスに残した録音だ。
そ
の4枚は何度聴いても飽きることがない。これは物凄く大変なことなのだ。何も変わったことはないし、どこで何が起きるかも知り尽くしているのだが、時々、なぜか決まって欲しくなり、そのたびに裏切られることなく100%満足させてくれる。つまり僕にとって生活の必需品、いやいや人生の伴侶、であり、食事でいってみれば明太子茶漬けやスパゲッティ・ナポリタンのような存在なのである。
僕がクラシックにハマりだした1970年ごろ、彼は40代にさしかかるあたりである。評論家の目には若僧だったのだろう、「スコア通り」「平板」「無個性」の烙印が押されており、最も好意的な形容詞が「中庸」だった(なんだそれは?)。なぜかは不明だが、彼らのドグマティックな価値観は「魂のこもった」「劇的な」「深みのある」演奏に置かれていて、フルトヴェングラーやシゲティやブタペスト弦楽四重奏団などが絶賛されていた。
そういうものかと謙虚になって何度も聴いてみたが、どう妥協しようにもところどころ音が外れて下手だ。スコア通りって、それすら出来てないじゃないかと思った。しかし、そういう指摘は彼らのドグマにおいては「精神性」というメタフィジックなワードの出現によって伊賀の影丸の木の葉隠れみたいに霞の彼方に消されてしまいどこにも見当たらない。カラヤンは貶してフルトヴェングラーは讃える。政治みたいだな、おかみがカラスは白いといえば白い、大物がイカサマはやってませんといえばやってない、王様は誰が見ても裸なのにいえない。なんか日本的だなと高校生風情にして思っていた。
猫の鳴き声であれ田園交響曲であれ、音はフィジカルな現象だ。それをとらえた脳がどう反応するかというのが「精神」であるなら、精神性は彼らの脳が好ましいとしたものにだけ存在する何ものかであって、僕の脳に好ましくなければ存在しない。お化けはいるんだよと言われても、僕に見えなければいない相対的なものだ。同様に僕が好きなハイティンクが皆さんには退屈であってもしかたない。そんなことで人生変わるわけでもないから音楽は単なる一興でしかないわけで、食べ物や犬・猫の好みとおんなじ。クラシックだからかくあらねば、かく聞かねばなんてことはない。お薦めは徹底して自分の好き嫌いで判断することだ。そうすると好きなクラスター、嫌いなクラスターができる。その最大公約数を言語で他人に説明できれば、もう立派なクラシック通である。
フルトヴェングラーは別稿に書いたが、彼は聴衆を虜にする勘所をつかまえる一流の職人であって、持ち技がはまれば余人をもって代えがたい効果をあげる能力がある。作曲家の脳に降ってきた楽想の源にあった情動、心の微かな打ち震えのようなものを本能的に即興的に感知し、大衆に伝わるようエモーショナルな振幅をつけ、あたかもそれが楽曲のエッセンスであったかのように演じきることのできる天才である。スコア通りであることは皆無で、同じ曲でもTPOでテンポも表情も毎回変化する。その例がバイロイトの第九のコーダや48年盤のブラームス4番の第1楽章コーダでの、楽譜にない猛烈なアッチェレランドである。これにいったん心酔してしまえば、ハイティンクの如き「素材の良さ」で勝負する芸に飽き足らなさを覚えるのはもっともだろう。
それを良しとするかどうかは趣味の問題だが、同じ版画を別な色で何種類も擦って良しとするか、オリジナルの色しか許容しないかという問いに近いと僕は考えている。版画家が画家であるなら許容しないと思うし、もしするならば彼はデザイナーだと思う。「精神性」は作曲家をデザイナーに見立てる人だけが理解できるワードであり、僕とは100%人種が異なるようだ。その立場からすると、ハイティンクはフルトヴェングラーとは別世界のアーティストであり、何も足さず何も引かず、オリジナルの配色だけで作品の良さを十全に感知させてくれる。作曲家にもデザイナー型はおり、そちらではやや物足りないという評価もわからないではないが、その一人であるマーラーで冒頭のような演奏をしてのけた彼が晩年に辿り着いた境地をライブで確認できなかったのは残念だ。
最後と書いたが、実は、彼を聴いたのは二度きりしかない。あんなに長いことあちらにいたのに本拠地アムステルダムで聴けなかった事こそ最大の痛恨だ。もう一度は1983年、米国留学中の夏休み1か月を妻とヨーロッパ旅行をした時のことだ。
まずロンドンに飛び、エジンバラ観光してからホーバークラフトでアムスへ渡るが、幸いにロイヤル・アルバートホールで「プロムス」をやっていて、ハイティンク / コンセルトヘボウ管(モーツァルト交響曲第35番、ブルックナー同9番)のチケットが買えた。これが欧州での人生初めてのコンサートであり、震えるほどの感動を味わった。
アムスからベルギーの先輩の家に行って、ケルンからライン川をコブレンツまで船でさかのぼるが、そこで頭の中で聞こえていたシューマンの3番はずっとハイティンクだと思っていた。ところがよく考えると、そのCDはロンドンに赴任して買ったのだから違う。当時米国で聴いていたのはカセット(それしか売ってなかった)のセムコウ / セントルイス響だったからそれに違いないが、後の記憶ではそれがすり替わっていたのだ。それほど3番=ハイティンクという頭ができてしまった理由はわからない。その旅行で見聞したライン川のゆったりした流れや古城やローレライの印象が後にマッチしたのだと思われる。
9年後にそこに住むことになろうとは誰が想像できただろう。ケーニッヒシュタインの家でまずかけようと思ったのはハイティンクの3番だ。石造りの居間に響いたのまぎれもなく、あの音だ。
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クラシック徒然草《その後のケイト・リウ》
2021 OCT 26 14:14:16 pm by 東 賢太郎
先だってのショパン・コンクールはいま徐々に聴いている。その前に2015年の同コンクールで非常に印象に残った3位のケイト・リウからいこう。
5年前、僕は彼女のファイナルのピアノ協奏曲第1番をきいて勝手評価1位にしている。いまきき返しても評価は変わらない。
ショパン以外がききたい。シューベルト、シューマン、ブラームスなどだ。ばりばり弾き倒して鬼面人を驚かすタイプではない、あくまで深い抒情で時を支配して聴き手を自分のワールドに迎え入れ、包み込み、心の底から納得させてくれる稀有のアーティストである。
ラヴェルはどうかなと思ったら、youtubeに「道化師の朝の歌」があるではないか。
これは凄い、誰の真似でもない、14才にしてこの独自の解釈、技量・・・信じ難い才能だ。
16才の「スカルボ」だ。
決してばりばり弾けないわけではなく左手のコンチェルトも難なく弾けるであろう。しかし空虚なテクニシャンでもない。
これは2010年、ニューヨーク国際ピアノコンクール優勝時の「オンディーヌ」だ。ダフニスの夜明けの和音で ff に盛り上がるところの持っていき方など堂々たるもの。
しかしyoutubeに日本語のコメントがほとんどない。彼女は中国系シンガポーリアンで米国在住だが、どうも日本人はアジア系に関心が薄いようだ。才能に国籍なんてないのだが。
このインタビュー、修羅場をくぐった人とは思えぬほど明るくて優しそうだが、非常に知的な女性であることが分かる。
このインタビュー時のリサイタルだ(ヘンデル、ショパン、シューマン)。この5年、彼女は大きく進化している。何を僕が激賞してるか、じっくりお聴きいただければお判りいただけるかと思う。
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僕が聴いた名演奏家たち(オーレル・二コレ)
2021 OCT 24 0:00:09 am by 東 賢太郎
フルートは不思議なことに、花形楽器の割に協奏曲が少ない。モーツァルト以後ドイツ語圏のメジャーな作曲家が書いていないからだ。19世紀半ばにベーム式
ができるまでのメカニックな理由があるといわれるが、J.S.バッハは多用しているのだからそれでは理解できない。モーツァルトはフルートとトランペットを嫌いだと手紙に書いており、2曲書いたが2番はオーボエ協奏曲の転用だ。1番K.313は私見では2番より終楽章が落ちる。あんまり気乗りしてない。
オーレル・二コレを覚えたのはカール・リヒター / ミュンヘンバッハ管弦楽団のレコードである。当時リヒターのバッハはマタイ受難曲、ロ短調ミサなど宗教曲が神格化されており、気楽に聞ける「ブランデンブルグ協奏曲」、「管弦楽組曲」でもスリムで筋肉質な禁欲的なフォルムときりりと引き締まったスピード感ある愉悦感とが絶妙にバランスした名演と讃えられた。この評価は今でも通用する。二コレのフルートはアンサンブルの中でいぶし銀の艶を放っている。
バッハのソナタも素晴らしく、以来、二コレは好みのフルーティストとなり、あまりない協奏曲のジャンルでモーツァルトが大いに気になりすぐレコードを買った。ところが、これにがっかりするのである。リヒターの伴奏がまったくモーツァルト的でなくいただけない。もう2種あって、パウムガルトナー / ルツェルン祝祭管盤はオケが今一つで二コレもべストでない。ジンマン / コンセルトヘボウ管は回転数を間違えたかと思うほど速くついていけない。仕方なくフルートはベストであるリヒター盤を聴いているがエンディングはそっけない。
二コレとランパルを比較するなら、前者はシェリング、フルニエで、後者はスターン、ロストロポーヴィチである。どっちが良いということもない単なるお好みの問題である。前者派の僕ではあるが、モーツァルトはランパル / グシュルバウアー / ウィーン交響楽団盤に軍配をあげざるを得ない。指揮者の解釈やテンポはソリスト納得のものでもあろうから、ランパルの方がモーツァルトには向いていたことになる。クラシック音楽というものは人間の心の深層に発するもので、作る人は勿論、演奏する人の人間性と深くかかわっている。このことは、どちらかというと前者に属するハインツ・ホリガーのオーボエ協奏曲K. 314が、あらゆる観点から完璧ではあるがいまひとつ心にささっていないのと同様かもしれない。
いま一つ実像がつかめずにいた二コレを聴く機会が来た。フランクフルト2年目の1993年3月8日(月)、イェジー・マクシミウク / BBCスコットランド響とのニールセンの協奏曲である。場所はヤールフンダートハレ(写真)。このホール、巨大な無機的空間でまるで市民体育館だ。音響もひどく、多目的ホールのようだ。なぜこんなのを作るのか理解に苦しんだが、時がたつにつれだんだんわかってきた。このホールはフランクフルト郊外にあるがその場所の地名はヘキストだ。ホーホ(Hoch、高い)の最上級だから最も高い所という意味で、英語ならむしろ洒落てヒルトップにでもなろう。ここで創業したのがドイツ三大化学会社の一つヘキスト(Höchst AG)であり、同社は今は吸収合併されて消えたが当時はまだ工場もあった。この質実剛健なホールは同社が創立百周年式典のために建てた会場で4,800席もある。それは結構だが何もクラシックをそんな所でやることもないだろうと幻滅した。とても我が美感とは相いれないものだがこれもドイツというものなのである。
ヴィースバーデンのクアハウスは貴族仕様、こちらは市民仕様なのだ。聴衆に着飾った人など皆無でありフォワイエぐらいはあったのだろうが覚えてもいないからそれなりのものだったのだろう。クラシック音楽が市民様のお楽しみにもなって分化した歴史をこれほど如実に体感させてくれる場所はなかった。このホールと我がNHKホールというものはある一面で似たものがあるが、ここでは書かないようにしよう。ヨーロッパに住んでみてフランス革命というものの実相を知った場面は数々あるが、ここほど分かりやすかった処はない。ベートーベンをやるならそう違和感もないが、モーツァルトは毛頭その気分になれないのである。ところで当日のプログラムはショスタコーヴィチ、ニールセン、シベリウスである。これをわかる人は音楽通というより相当なインテリであるが、ポーランド人のマクシミウクによる見事な選曲だ。
さて本題の二コレのニールセンだ。同曲はイベールと並んでフルート協奏曲への渇望を満たす魅力的な作品である。2楽章でシンプルに室内楽的なオーケストラ伴奏で書かれ、モーツァルトが嫌ったフルートとトランペットをオケに参加させていないところに作曲者の知性を感じる。初演は1926年10月21日にパリのメゾン・ガヴォーで、ラヴェルとオネゲルが出席した。ニールセンが親しかったコペンハーゲン管楽五重奏団の奏者全員に協奏曲をという動機で書かれ、フルートだけに霊感を得てというわけではないようだ(結局フルートとクラリネットのみ完成して死去)。どうもよくわからない。コンチェルトというものの起
源は、伝統的に管弦楽伴奏で歌手がアリアを歌う代わりに、弦や管のソロ楽器を舞台の前面にフィーチャーして歌わせるというものだ。コロラトゥーラを置き換えるならまずこれでなくてはという楽器だし、高音が通るので音量で負けることもないと思うのだ。
この日初めて聴いた二コレのフルートは中低音が肉厚で伸びて一種の木質感があり、オーケストラから過度に浮き出てこないイメージだったが、高音は朗々と鳴って地味という感じはなかった。おおむねレコードで聞き知ったあの音であった。楽器が違うと言えばそれまでだが、ロンドンで聴いたランパルとは別物である。ニールセンはマズア / ゲヴァントハウス管と録音(1984年)を残していて自家薬籠中というもの。前後のショスタコーヴィチ、シベリウスも楽しんだが二コレを聴けた喜びが格別だった。
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僕が聴いた名演奏家たち(ジャン=ピエール・ランパル)
2021 OCT 21 19:19:20 pm by 東 賢太郎
ロンドン、フランクフルトでいかに仕事が大変であろうと足しげく演奏会に通ったのは体力があったからだ。夜は遅くまで会議か顧客ディナーか部下とカジノにくり出して午前様で土日はゴルフ。睡眠時間はおそらく4,5時間だった。そっちのことはみんな忘れてしまったが、音楽会の大半はそこそこ記憶があるから行ってよかったと思う。
それが良い音楽会だったからという理由からではない。当時の僕の年齢の皆さんに伝えたいのは、とにかく何でもいいから記憶に残ることを毎日しなさいということだ。それでも2,3年もすれば忘れるし、30年すればほぼ全部忘れる。例えば35才の1年間で何があったか?と問われて僕は幾つ思い出せるだろう。10個ぐらいの大きなイベントはすぐ出てくるが、そんなもの。いずれ皆さんもそうなるのだ。
ということはそれ以外の355日は生きてはいたがもう人生からデリートされて、あってもなくても一緒だ。これは悲しい。ところが音楽会はというと、自分の好みと意思でチケットを買ってイベントを作っているからプログラムを見て思い出せるのが多い。日々のルーティーンや受け身の行動でなく、能動的に決断して過ごした時間は覚えているものだということがわかる。これは幸せだなと思う。まあ明日死んでも構わないかなと思えるのは音楽がストックを増やしてくれたからだ。
たとえば1988年9月29日木曜日、ロイヤル・フィルハーモニーにフルートのジャン・ピエール・ランパル(1922 – 2000)が出てきて演目がモーツァルトのK.314となると、自分の好みと性格からして万難を排してロイヤル・フェスティバル・ホールに駆けつけたことは間違いない。しかしその前後のことは何一つ覚えていないのだから、もしこのチケットを買っていなければこの日はもう「なかったことに」となっていた。
ランパルはレコードでしか知らない雲の上の人だった。ただ当時の僕の中でフルートというとフルトヴェングラー時代のベルリン・フィル首席でありカール・リ
ヒターのブランデンブルグ協奏曲など一連のバッハ録音で吹いているオーレル・二コレが格上であった。ランパルはジュネーブ国際コンクールで優勝してパリ・オペラ座管弦楽団の首席奏者を経てソリストとなるが、どうしてもフランス風のギャラントが持ち味という印象だった。
当日のK.314で覚えているのは、席はやや後ろだったがシンプルに音が大きいことだ。フルートの音がこんなに「通る」ものかと思った。ああ、ランパルだ、レコードで耳タコのリリー・ラスキーヌ、パイヤール室内管との「フルートとハープのための協奏曲K.299」で聴きなれたなつかしい音だと聞きほれていたらあっという間に終わってしまった。
ギャラントがいけないというのではない。その路線で今もって最高の座を譲らないのはプーランクのソナタ(ロベール・ヴェイロン=ラクロワ伴奏のエラート盤)だ。同曲にはプーランク本人とのビデオもある。
こういうものを見ると、ユージン・オーマンディーやレナード・バーンスタインと楽屋で話したこともそうだが、まるで世界史の教科書で覚えた人に会ってきたみたいなふわふわした幻視感を覚える。そんなことがあってよかったのか、誰か他の人の話しじゃないかと。
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ヴォーン・ウイリアムズ 交響曲第5番ニ長調
2021 OCT 15 13:13:24 pm by 東 賢太郎
英国の陶器メーカー「ウェッジウッド」の創業者の孫は「進化論」のダーウィンである。そしてダーウィンのお姉さんの孫が作曲家ヴォーン・ウイリアムズである。3人は配偶者側の係累ではなく、血がつながっている。人は天から降ったのではないから必ず先祖に源がある。自分の長所短所がどこから来たか系図でたぐるのは楽しいが、しかしあまり実利はないだろう。環境変化への耐性を高めるため有性生殖
によって偶然性を加えるのが遺伝子の生存戦略だという学説に立てば、自分のDNAの「素材」は系図でわかっても、その「ブレンド」は偶然の産物だからリバースエンジニアリング(分解して組成を逆に辿ること)をしても有意な結論を導かない(アインシュタインが解けなかった量子力学のジレンマと同じだ)。血中のFe(鉄)がどの超新星爆発でできたか知っても何も良いことは起きないように、先祖に偉人がいても出世に有利な能力が約束されているわけではない。親子の金メダリストやノーベル賞受賞者はおろかプロ野球選手すらあまりいないことでもそれはわかる。
とはいえ、それでは味気ない、先祖を敬う気持も薄れてしまうではないかと僕は思う。世襲ができず、個人の才能のみに出世が依存するジャンルにおいては同世代の「歴史的人物」が出る確率は
「世界人口分の1」と考えていいだろう。当時の世界人口を30億人として、4世代で3人輩出したウェッジウッド家では凡そ “30億分の1の3乗” ぐらいの確率の現象が起きたことになる。もちろん、限りなくゼロに近い確率であっても偶然の範疇だと考えることはできるが、特別な遺伝的形質によってそうなったとする仮説だって主張できるだろう。それを証明するのは困難だが、否定する証明も困難だからだ。遺伝を主張する人にとって音楽におけるバッハ家は有力な事例ではあるが、環境や教育というバッハ家由来の外的な共通因子があったのだという反論はあり得る。しかし陶芸家、生物学者、作曲家という関連のない3ジャンルでとなるとそれは想定し難い。どちらの証明もあきらめるしかないだろう。
レイフ・ヴォーン・ウイリアムズ(1872 – 1958、以下VWと略す)に陶芸家、生物学者の才能が遺伝していなかったとしても、彼が作曲家として英国のみならず音楽史に特別の位置を占める存在であったことは誰も否定できない。現在でもコンサート・レパートリーに入る9曲の交響曲を残したシンフォニストであり、管弦楽、協奏曲、宗教曲もしかりであるからだ。中でも、最近になって僕は交響曲第5番二長調に深い愛情を感じるようになっている。理由はわからないが、きけばきくほど、日々の生活でささくれだった精神を癒してくれるこれほどの音楽はないと思うようになった。コロナでどこか隙間ができてしまった心が求める究極のスピリチュアル・ワールドのような音楽だからだろうか。
以下、全曲を俯瞰してみたい。
第1楽章(Preludio)
幕開けだ。チェロとコントラバスの低音(ハ)にニ長調のホルン信号が乗る。不安定な7thコードでの交響曲の開始は極めてユニークで耳に残る。

僕には暮れかかる荘厳な夕陽がうかんでくる。
ご覧のとおり、これはラヴェル「ダフニスとクロエ」冒頭のホルンパートの引用である(VWはラヴェルに学んだ)。
この印象的な幕開けシーンは楽章を通して影のようにつきまとい、そして全曲のコーダで回想される。
ヴァイオリンがイ短調の主題をひっそりと奏でる。
これは素朴な第1主題を導く萌芽だが、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」の第3曲「歌」のしめくくりでクラリネットが吹く旋律そっくりだ。
民謡風の旋律は五音音階的でどこか東洋的でもあり日本人に親しみを感じさせるが、そこに4度と7度が多用されることで調性感覚が揺らぐという不思議感が全曲を覆っている。主題はあまり展開せず延々と川のように流れていき、ハ短調を経て不意にホ長調に転調する。どきっとするほどマジカルな瞬間である。やがて弦の無窮動風なパッセージに乗って木管、金管が交唱する部分のスコアリングはシベリウス的だ。それが終息すると冒頭の景色が静かに戻ってくるが音楽は変ロ長調に転じて再度高潮し、コーダではホルン信号が回帰して弦のヘ短調との複調になり(調性は曖昧である)、二長調とオーボエのファ♮音の不安な交差が第4楽章のD⇒Dmの転調を予言する。夕陽は仄かに滲む陰影の中に消えていく。絵画のようでありながら深く聴く者の心のひだに入りこみ、光の細密なグラデーションを伴いながら情動に寄り添ってくる。感知できる耳だけのために書かれた、まさしく最高級の音楽である。
第2楽章(Scherzo)
軽妙な筆致で、ホルスト「惑星」のスケルツォである「水星」を強く想起させる。民謡風の主題が現れるがこれもホルストに共通する趣味に思える。ちなみに両人はロンドン王立音楽大学の学友で(VWが2才年長)生涯にわたる親友であった。お互いの作品を語り批評し合う関係であり、教師より生徒のお互いから学ぶものがあったと述べている(VWはその後ケンブリッジ大学に進む)。
第3楽章(Romanza)
エルガー、ウォルトンのそれと共に英国で書かれた最高の緩徐楽章のひとつだ。5番は両大戦の狭間である1938~43年に書かれた。第1次大戦で友人、知人を多く失い、自身も戦場の銃声で耳が遠くなり晩年は聴覚に支障も出たVWは3番「田園交響曲」から一転して戦争を投影した破壊的な4番を書いた。その彼が英国の第2次大戦参戦の年に5番に着手し、バニヤンの『天路歴程』(プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書で「天の都」にたどり着くまでの旅の寓話)を音化しようとしたのにはそうした深い個人的な背景がある。人々に平和と安寧の心を届けようとした交響曲のこの楽章は全曲の核心となるもので、聞く者に深いスピリチュアルな瞑想と沈潜をもたらすのである。
弱音器つきの弦5部による静かな序奏(C-A-Gm)に続きイングリッシュ・ホルンの旋律が現れる。チャイコフスキー5番、ラフマニノフPC2、3番の緩徐楽章のスタイルである。
するとヴィオラに新しい主題が現れ、弦5部による素晴らしい対位法的展開をとげる。
この主題は第1楽章のイ短調主題を素材としていることがオーボエ、ホルンに受け継がれるにつれて次第に明らかになり、イングリッシュ・ホルンの主題とC-A-Gmの和声とが交叉し一体となりながら最後はイ長調で深々とした余韻を残して消える。
第4楽章(Passacaglia)
パッサカリア主題が冒頭のチェロに現れ、前楽章の気分を引き継いで次々と展開する。徐々に気分は高揚し、ここまでの音楽と様相の異なる金管によるファンファーレで熱を帯び祝典的になる。ここまでは主調のニ長調、3拍子が支配するが、それが突然にニ短調、4拍子に一変する場面は大変印象的だ。ここの木管の素晴らしい交叉には聞きほれるしかないが、そのパッサカリア主題が徐々に第1楽章に由来する形になってくる。この曲の1,3,4楽章が緊密な素材の連関で成り立っているという巨大な建築物の全容が荘厳に立ち現れてくる相貌はシベリウスの5番を思わせる。やがて全金管によるホルン信号の強奏でニ長調に回帰しモルダウ(スメタナ)を思わせる音型をくり返しながら再度ニ短調に落ち着く。やがて第1楽章幕開けの雰囲気となり、ハーリ・ヤーノシュ主題が静かに明確に出て荘厳な夕陽の光景がまた立ち昇ってくる。するとイ長調、ニ長調の曖昧でマジカルな転調をしながら祈りのような主題が重なりあい、ラヴェルのマ・メール・ロワの妖精の園(Le jardin féerique)の淡い光があたりを支配し始める。そして、全パートを2部に分けた透明な弦楽合奏の天使のような響きに導かれ、聞き手の心は静かに瞑想しながら天国に昇るのである。あらゆるクラシック音楽のうちでも最もメタフィジカルな領域に連れて行かれ、真に優れた音楽を聴いたという感動だけが残り恍惚とさせられる奇跡的なエンディングだと僕は思う。
あまりに素晴らしい音楽ゆえ微細に描写してしまったが、ここまで好きな曲がそうたくさんあるわけでもないからご容赦いただきたい。VWはこの曲をシベリウスに献呈したが、わかる気がする。事前の了解はなかったが快く受け入れたられたという。僕はこれをシベリウスの6番と並ぶ名品と讃えたい。
録音は良いものがたくさんある。以下の2種をレファレンスとして聴きこんだ上で好きなものをみつけるのも人生の楽しみと思う。
エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
写真の値札は10マルクで、フランクフルトに着任してすぐの9月に買ったCD。ロンドンにいた6年はモーツァルト、ベートーベン、ブラームスを自分なりに「発見」した時期で、英国音楽を熱心に聴いてはいなかった。ところがドイツに行ってから徐々にそっちにも思いが向かった。耳が肥えてきたということか。ボールトはLPOと2種録音した(53、69年)がこれは古い方である。VWが初演してから10年後の演奏でコンセプトは自演に近く輪郭が明瞭で、他の演奏ではピンと来なかった5番の良さを一発でわからせてくれた僕にとっては記念碑的演奏だ。録音はモノラルだが細部のニュアンスまで拾っており鑑賞に全く問題はない。69年盤はステレオ録音という新メディアに価値があったのだろうが解釈に大きな違いはなく、ボールト64才での旧盤が秘める熱量と一筆書きのように自在な筆致は魅力的だ。
ジョン・バルビローリ/ フィルハーモニア管弦楽団
ボールト盤とは好き好きだが一点だけ指摘しておくと、第3楽章は曲想に添って抑揚とめりはりが大きく、弦のポルタメントに感情移入もあってロマン的なアプローチである。エルガーならこれで良いがこの楽章の標題は「ロマンス」ではあってもテーマであるバニヤンの信仰心と恋愛は関係なく、僕は違和感がある。難しいことをいわず純音楽的に楽しみたい人には、オケの技量が高くサウンドが骨太であるバルビローリはお薦めだ。
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バックス 交響曲第4番
2021 OCT 5 20:20:20 pm by 東 賢太郎
音楽をきいて昔の情景を思い出す事はあるが、その逆もある。ロンドンの家について書いていて、いま、そういうことが僕の中でおきている。英国の正式名称はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandでイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから成るのは周知だが、この4つのカントリーは風土も文化も気質もアクセントも違う。ことにアイルランドは人種もケルト人であり、歴史も言語もアングロサクソン人ときわめて違う。ストレートに言うなら後者によって征服された地であり、車で走ると道路標識には英語とケルト語で地名が併記されているが両者はまったく似ていない。米国の「マンハッタン」や「ミシシッピ」はインディアン語だし、「札幌」や「長万部」はアイヌ語で音韻は保持されている。それに気づいた車中で、同地の複雑な歴史とルサンチマンを垣間見た思いが走った。
日本人に有名なアイルランド系に人だけを列挙しても綺羅星のようだ。J.F.ケネディ、ロナルド・レーガン、ビル・クリントン、ジョー・バイデン、バラク・オバマ(母方)の米国大統領5人、ウォルト・ディズニー、コナン・ドイル、レイモンド・チャンドラー、クリント・イーストウッド、トム・クルーズ、グレース・ケリー、マーロン・ブランド、グレゴリー・ペック、バーナード・ショー、オスカー・ワイルド、ジェームズ・ゴールウェイ、 ジョン・マッケンロー、チェ・ゲバラ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)あたりはご存じだろう。
この地に立ったのは数回。出張はたしか1、2度で、あとは遊び(もちろんゴルフ)である。ロイヤル・ダブリン、ポート・マーノック、キラニー、バリーブニオンなどの素晴ら
しくタフなコースが忘れ難い。ゴルフは国技のようなもので皆が愛しており、パスポート・コントロールで来た目的を聞かれたら「ゴルフ」と答えれば笑顔で一発で通してくれる。キラニーのホテルにパスポートを忘れてタクシーに乗ってしまい、1時間走ったあたりでそれに気がついたことがある。機転を利かしてタクシーを呼んでコーク空港まで届けてくれたホテルのお姉さんのおかげでフライトにぎりぎり飛び乗った。美人で賢くて本当にやさしい女性だった。ダブリンのギネス(パブのドラフト)は他国で飲むものとは別物で、これを樽ごと持って帰れないかなと思案したほどうまい。せめて近いものというなら缶は避けてビンにしたほうがいい。ウイスキーは3回醸造で独特のまったり感がある。僕はブッシュミルズ専門で「ブラックブッシュ」はお薦めだ(日本でも2500円ぐらいでお値打ち)。食事というと、コークの南方の海沿いにある町キンセールのフレンチの安さとクオリティは驚きだった。南部はフランスの影響が強いのである。そして下のブログのエピソードは長らくゴルフをやってきていちばん破格。大好きで心に残る。この時に偶然に内田光子がダブリンにやってきていて、素晴らしいシューベルトを堪能させてくれた。アイルランドには良い思い出しかない。
アーノルド・バックスは生まれも育ちもロンドンで、王立音楽院(Royal Academy of Music)卒の英国の作曲家とされるが血筋はケルト系であり、結婚後にダブリン近郊に移住している。彼自身それを自覚して独自のイディオムによる作品を書いており、アイルランドの巨匠、とりわけ7曲の交響曲を書いたシンフォニストという評価が適当と思われる(彼が没した地は上掲地図の最南端、僕がパスポート事件を起こしたコークだ)。物心ついたらピアノが弾けていたという神童で難解な現代曲のスコアを読み解く能力が群を抜いていたが、恋多き男でミューズが複数おり、詩心もあり、小説、戯曲などものしてもいる。資産家に生まれ、若いころはロシア、ドイツに出かけ、英国の批評家によるとワーグナー、R.シュトラウス、ドビッシーの影響を受けたとされるが僕には痕跡は明白ではない。
彼は生活のために作曲をする必要がなかった数少ない音楽家の一人である。その交響曲、交響詩、室内楽などは他人の眼を気にせず彼の内部から湧きおこった心の声であり、誰にも似ない真にオンリーワンの作品になっている。英国の交響曲というとエルガーでありV・ウィリアムズ、ウォルトンでありというのが我が国における相場で、バックスを挙げる(知る)人は極めて少数派であろう。しかし彼の作品をほとんど聴いている僕においては、”アイルランド” を取り去ってもこの7曲は秀逸な絶対音楽として味聴に足る素晴らしい作品であり、写真の全集(ブライデン・トンプソン指揮ロンドン・フィルハーモニック及びアルスター管弦楽団)は宝物になっている。
旋律は過度にクロマティックでなく民謡風のものもあり、しかも1921~1939年に書かれたにもかかわらず調性音楽なのだが、一聴して耳に心地よく響くものはない。これをブラックコーヒー、濃い目のストレートのアールグレー・ティーと書けばご理解いただけるかもしれない。ブルー・スティルトンをあえるか、アフタヌーンティーでスコーンと一緒か、当時僕はパイプも葉巻もやっていたが、ハイティーのスコッチの前にでもよかろうというイメージだ。バックスのほろ苦さは慣れるとだんだんそういう大人の楽しみに進化していく性質のものだ。シベリウスとも似てはいないが、愛好家には馴染んでいただけそうな気もする。
全7曲をお薦めしたいが、まずどれかひとつというなら最も外向的で順当な所ということで4番を標題曲にした。オーケストレーションも熟達した巨匠の技であり、北アイルランドのアルスター管弦楽団の演奏は録音も良好だからそれなりの装置で再生すれば非常に音楽的なサウンドが得られる。それに浸るだけでも僕には尽きぬ喜びだ。入念にスコアリングされた音楽の細部まで血肉とし、弦や木管の経過句のアジリティまで心から納得のゆく音化を実現した演奏という意味で、ウィーン・フィルのベートーベン、ドレスデンSKのR・シュトラウスに匹敵すると考える。
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ウォルトン 「チェロ協奏曲」(1957)
2021 SEP 30 11:11:06 am by 東 賢太郎
はっきり覚えている。「これ買っていいかな?」ときいた。CDをふくめ1万枚以上のコレクションのうちで、妻の許可を求めた唯一のレコードだ。幸いOKが出たのは新しい職場で必死に戦っているお駄賃の意味があったのだろうか、同時にモーツァルトのソプラノ・コンサートアリア全集も買わせてもらった。時はロンドン着任直後の1984~85年、場所は初めて行ったコヴェント・ガーデン歌劇場のレコードショップである。残念ながらオペラを聴いたわけではない。留学を終えても当初は一番下っ端でそんな高いチケットを買う余裕はなく、レコードがせいぜいだがそれも思い切ってというぐらい貧乏だった。この日は恐らくそれから至近距離のソーホーにあるチェン・チェン・ク(よく行った中華料理屋)あたりでエコノミーな夕食を済ませたと思われる。
チェリストのヨーヨーマは、どこだったか古澤巌とブラームスのドッペルを都響でやって親しみがあり、当時売出し中だった彼の演奏で愛好していたエルガーのコンチェルトを聴いてみたくなったのだ。デュプレ盤はやや音が古い。新しい録音を買ったばかりのタンノイのスピーカーで鳴らしたいという誘惑に負けたのもあった。とにかく家の棚にあるLP、CDのほとんどは、こうやって買った場面のストーリーを覚えているから中古屋に売るなんて僕にはできないのだ。
ヨーヨーマのエルガーも悪くないが、感心したのはウォルトンのチェロ協奏曲だ。同曲はカセットで持っていたが、ちゃんと聴いたのはこのLPだ。ウォルトンは弦楽器のための協奏曲としてはすでにヴィオラ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲を作曲していたがこれは最後の作品だ。1956年の完成で、もう僕が生まれているからクラシック音楽としては新しい部類だ。チェロ協奏曲というフォーマットの曲は数多あるが演奏頻度が高いのはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、ラロ、サンサーンス、ショスタコーヴィチあたりで、モーツァルトやドイツ三大Bというメインストリームが書いていないのでヴァイオリンに比べてやや影が薄いのは否定できないだろう。
ところが英国となるとエルガー、デリアス、ブリス、スタンフォード、サリヴァン、ブリテン、ブリッジ、バックス、モーラン、ロイド、アーノルド、シンプソンとやけに豊穣である。シンフォニストがあまりおらず、ソナタ形式の作品に強みがあるわけでないのにこの現象は目を引く。英国人の感性に低音域のこの楽器が合ったのかもしれないが、独仏伊露のカバレッジの穴で英国の作曲家が存在感を出せるマーケティング的事情もあったかもしれないと思っている。各々それなりに面白い作品だがエルガーが英国製であることを問わずドヴォルザークに匹敵する傑作であることは誰も否定しないだろう。では英国作品の次点を挙げるとなると、僕はウォルトンに白羽の矢を立てることになる。
ウォルトンはヴァイオリン協奏曲をハイフェッツに献呈しており、ヴィオラ協奏曲の献呈は別人だが初演の独奏は作曲家パウル・ヒンデミットがしている。チェロ協奏曲を委嘱し献呈されたのは名チェリストのピアティゴルスキーだ。彼は当時として破格の3000ドルのコミッションを払ったから重鎮で売れっ子作曲家だったことがわかるが、ウォルトンは「私はプロの作曲家だから頼まれれば誰にどんな曲でも書く、だがもし米ドルで支払ってくれたらずっといい作品に仕上がるけどね」と語っている(wikipediaより)。サーの称号を戴く貴族にしてこのユーモアだ、英国のジェントルマンは懐が深い。
初演はピアティゴルスキーの独奏で1957年1月25日にシャルル・ミュンシュの指揮BSOでボストン・シンフォニーホールで行われ、英国初演も同年2月13日にマルコム・サージェント指揮BBC SOでロイヤル・フェスティバルホールで行っている。このビデオはその日または直後の録画と思われる。
あれこれ理屈はいらない、まず虚心坦懐に音に耳を傾けていただきたい。これがコヴェントガーデンで買ったLPからの転写だ。
この曲を作曲したころ、功成り名をあげたウォルトンは悠々自適の幸せな生活だった。というのも、かようなストーリーがあるからだ。
46才の頃、22才年上だった妻に先立たれ憔悴したウォルトンは出版社の気遣いで気晴らしの会合に出席するためアルゼンチンのブエノスアイレスに出向く。そこで知り合った24才年下の女性を見初めて再婚し、イタリアのナポリ湾の西部に浮かぶイスキア島で半年を過ごす。そして、ついには54才でロンドンの家を売り払って妻とその島に永住してしまうのである。そこで書いた作品は多くないがそのひとつがチェロ協奏曲だったのは幸福なことだ。チェレスタ、ヴィブラフォーン、シロフォン、ハープの醸し出す神秘的なサウンドは非常に魅力的だが初演を聴いた評論家には時代遅れと評されもした。しかしそれから65年たった今、当時の耳に古く聴こえたかどうかなど何の関係もない、良い曲がどうかだけが問題でありこれは後世にそのひとつとして伝わるクオリティの作品である。
サー・ウイリアム・ウォルトンは1983年にイスキア島に妻レディ・スザンナ・ウォルトンが造った著名なガーデンで亡くなり島に埋葬されたが、英国はその功績を讃えウエストミンスター寺院にエルガー、ヴォーンウィリアムズ、ブリテンと共に記念碑を設けている。享年80才だった。個人的には、イスキア島のような場所を見つけられたのがとてもうらやましい。
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ブリス 「色彩交響曲」(1921/1932)F. 106
2021 SEP 29 13:13:34 pm by 東 賢太郎
ロンドンのことを書いていたらこの交響曲のことが頭に浮かんだ。
まずは英国音楽について述べてみよう。ドイツ音楽やイタリアオペラに比べると日本ではあまり人気がない。誰でも知ってるメロディーとなるとエルガーの「愛の挨拶」や「威風堂々」、ホルスト「惑星」のジュピターぐらいだろう。ところがロックとなると景色がガラッと変わる。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーン、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、ディープ・パープルなど門外漢の僕すら聞いたことがある名前がずらりと並ぶ保守本流の国なのだ。
その理由を探るとひとつの文化論になろう。英国ロックの席巻は、植民地の米国が繁栄して英語が世界言語になったことと無縁でないと思う。第九や蝶々夫人を好きな人がみなドイツ語、イタリア語を理解しているわけではないが、イエスタデイやウイ・ウイル・ロック・ユーを英語で歌える人は多いだろう。音楽はやはり原初的には言葉と一体なのだと思う。そしてもうひとつはビートルズ、ストーンズという巨星が現れたことだ。それが英語という言語の伝播と相乗してロックのディファクトを形成したと思う。
英国のクラシックにもオペラはある。いやむしろ声楽はメインの存在であって、合唱曲、オラトリオ、歌曲に良い曲がたくさんある。だから明治政府の「お雇い外国人」の約5割は英国人であったのになぜ西洋音楽輸入はドイツ中心の器楽曲重視になったかは不思議ではある。想像だがクラシックでは英国にはドイツ3大Bに匹敵する人がなく、各界の「いいとこ取り」ができた政府が選ばなかったのだろう。英国自身もヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンら「外タレ作曲家」を輸入してきた歴史もあるから訴求力がなかった、これは仕方がないことともいえる。
しかし英国のクラッシックには独特な魅力があるのだ。私見だがそれはこの国の気候風土と密接な関係があって、シベリウスの音楽がフィンランドのそれにとても親和性を感じさせるのと似たことだと思う。ではその気候風土はどんなものか?英国に住むと良い事もたくさんあるが、たいていの日本人はあの暗くて長い冬に参ってしまう、これぞその特色だ。雪が降るほど寒くはないがじとじと小雨が続き、陽の光を見るのは週に何度かというイメージで、僕も毎年9月ごろになるとああまたあの季節が来るのかと憂鬱になった。慣れるまではけっこうメンタルにくるので鬱病の人が増えるともきいたがよくわかる。
ちなみに推理小説はこういう所で出来るというのが持論だ。暗いから細工の効いた犯罪ができ、細工をリバースエンジニアリングすると犯人が特定できるという知的プロットの小説が書けるのだ。コナン・ドイルの出身地はエジンバラ、クロフツはダブリン、クリスティーはデヴォン、チェスタートンはロンドン、エドガー・アラン・ポーはボストンからロンドン。みんな緯度は樺太の中央よりも北の都市で冬が暗い。陽光がさんさんと降り注ぐイタリアやスペインにだって知能犯はいるだろうが、虫眼鏡とピンセットでその悪党を追い詰めて捕らえるシャーロック・ホームズよりも、痴情のもつれで恋人をブスッとやっちまったドン・ホセを逮捕はせずむしろ感情移入する方が南の国では受け、だからそれはオペラになる。ホームズはならないし、今後も多分ならないだろうと思うのだ。
英国音楽を聴いていると、やっぱりこういう難渋な旋律や和音はあそこに住まないと出てこないだろう、南国の人には書けないなと強く思わせるものがある。感情表現も回りくどい。オーソレミオなんて言わない。そういうメンタリティーを英語で reserved というが、慎み深く無口で誇大な表現を避けるのを良しとする文化だからだろう。それって日本人に近いといえないこともないから親しみやすいかというとそうではない。いいなと心から思うようになるには、英国で越冬しろとはいわないが行って肌で気候を感じてみて欲しい。できればレストランでハギスやブラック・プディングやキドニーパイを注文してみて欲しい。意外にいけるじゃないとなれるぐらいならもうその域にあることうけあいだ。
A Colour Symphony、色彩交響曲、何だそれは?と思ったが、そういうものの存在は日本にいる時から知っていた。実際に聴いたのはロンドンに行ってシャンドスのCDを買ってのことだ。作曲家アーサー・ブリス(1891 – 1975)の代表作だが彼の名さえ知っている日本人はごく少ないだろうし、本国でもこれを演奏会できくことはなかったからそう一般に知られているとも思えない。僕が関心を持ったのも、まずその第1~4楽章が順番に紫色、赤色、青色、緑色という標題だったからである。色が音楽になるのか?と思いきや、色そのものを描き出そうとしたのでなく、紋章学で色には象徴的な意味があることに着想したものだから、グスタフ・ホルストの「惑星」が星の物理や情景には関係なく神話から得たインスピレーションから書かれているのと同じだ。僕としてはちょっと物足りない。火星が戦争の星だなんて与太話はどうでもいい。できれば木星や海王星など、宇宙船でそこに行った驚くべき情景をイメージして誰か音楽にしてもらいたい。ベテルギウス、ベガ、プロキオン、スピカなんて恒星ならもっといい、ぞくぞくするなあ、絶対にCD買うけどなあ。でも色はどうなんだ、赤、紺、オレンジ、金、銀を眺めたイメージ。宇宙旅行ほど難しくない、作曲科の学生さん僕だったらやるよ、面白いと思うんだけど。
しかしだ、それはともかく、人間臭さや古典的感性での自然賛美から自立した星やら色やら抽象的、即物的な視点で大曲を書いてみようという精神が僕は好きだ。曲がりなりにもそこにはルネッサンス、啓蒙思想の香りを作曲に投影してみようという実験精神が感じられるのであり、さすが科学、哲学、民主主義の先進国だという心のあり様を見るのである。思えば倒幕を画策し薩長に最新兵器を提供してそれを成さしめた英国が「お雇い外国人」を5割も送りこんだのは自明であり、明治政府がそれに学んで日英同盟に進んだのは良かったし、しかし全面依存でなくドイツ、フランスの知恵も導入してバランスさせたのは賢明だった。洋学の輸入にもその痕跡を見る気がしている。
ブリスは1942~1944年のBBCのミュージック・ディレクターだった。サラリーマンだったわけではなく、前任のエドリアン・ボールトのリプレースだ。僕もよく聴いていたBBC Radio 3の前身の番組を作ったらしい。交響曲は本作だけで、オペラ、バレエ、室内楽、映画、舞台、ミリタリー、ファンファーレと手広い。本作も英国音楽の難渋さからは逃れていて(彼は英米のハーフだ)非常にわかりやすい、耳になじむ音楽と思う。特にオーケストレーションがカラフルであり、それで色彩交響曲でもいいぐらい。僕はむずかしい音楽がちょっとしんどいなという時にヴァーノン・ハンドリー指揮のアルスター管弦楽団のCDを聴いているが、この音響はなかなかゴージャスである。
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