新しい才能を発見(尾城杏奈さん)
2022 FEB 5 8:08:37 am by 東 賢太郎
きのう、ちょっと疲れていて、なんとなくベートーベンの27番のソナタをききたくなった。時は午前零時である。仕事部屋は3階、音楽室は地下だ。寒いだろう。youtubeでいいか・・。そんな偶然からこれを見つけた。
すぐアラウに切り替えるつもりだったが、やめた。いい。なんとも自然でしなやかにふくらんで包み込んでくれる感じがする。音楽のたたずまいに品格がある。もう一度聴いてしまった。知らない人だが、教わってできました的な生硬さが微塵もなく、これは人となりなんだろうなと思った。
なんといっても第2楽章だ。すばらしい。僕はどの大ピアニストも満足してない。シュナーベル、バックハウス、リヒテル、ポリーニ、だめだ。牛刀をもって鶏を割く観があり魂がこもってない、ルービンシュタインなど主題のくり返しが多いと文句を言ってる。そういう人にこのソナタが弾けると思わない。
関係ない世界の話で恐縮だが、一昨年のプロ野球キャンプのこと、オリックスの練習を見ていいピッチャーだなと思った新人がいた。あの感じを思い出す。2年後に19才で新人王になる宮城投手だった。剛球はないがああしたピッチングの勘は教わってもできない。現に何年もプロにいるベテランでもできてない。
こっちはさらに不思議なものがある。プロコフィエフの第8ソナタがこんなに「美しく」弾かれたのをきいた記憶がない。ギレリス、リヒテルの剛腕のイメージが強い音楽であれっという感じだ。
youtubeにユジャ・ワン、前々回のショパンコンクール以来僕が高く評価するケイト・リューの見事なライブがある(馬鹿者の着メロが鳴って気の毒)。尾城のは気迫は一歩譲るが、妙な言い方だが「頑張ってます感」がない。汗もかいてない感じだが弾かれるべきものに不足もないのだから、まだまだ破格のキャパ、伸びしろがありそうだ。第3楽章、僕の好きな所だが、短9度の下降音型のあと再現部までスクリャービンみたいな神秘的な感じになる。美しい。プロコフィエフはただばりばり弾いてうまいでしょという人が多いが、この人はそうでなく、バルトークを弾いても音楽が intellectual だ。ピアニストは指揮者と同じでそれが必須だと思う。
東大は天才がいて同じクラスだと分かる。何の苦労もなく勉強ができる人達だ。東京芸大にもそういう人がいるということだろう。youtubeにあるものは僕の好みの領域でもあり、全部聴いた。それだけでどうこう言うことはしないが、尾城杏奈さん、素晴らしい才能の持ち主だと思う。ぜひ欧州に留学し、西洋音楽を生んだ各国の文化、歴史、哲学、人間、そしていろんなアートやおいしい食べ物なんかを存分に楽しんで研鑽されれば明るい未来があると思う。
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メシアン「アーメンの幻影」(1943)
2022 FEB 4 18:18:39 pm by 東 賢太郎
メシアンが好きなのはタイのお寺と同じで理由はない。トゥーランガリラ交響曲の稿に書いたがワット・プラケーオ、ワット・ポー、アユタヤ遺跡に衝撃を受け麻薬のようにとりつかれてしまったからいけない。とにかく強烈な陽の光とお香の匂いが結びついてしまいどうしようもない。この魔力はローマの遺跡に匹敵しており、なにやら遺伝子レベルの親和性とすら想像してしまう。
バンコックは10回ぐらいは行ったろう。近辺に良いゴルフ場がたくさんあり、夏はとても暑いが初のハーフ36が出て何かと思い出深い地でもある。行けるものならいつでも行きたい。
メシアンとタイは関係ないが、日本は好きだったようだ。軽井沢でホトトギスをなど日本の鳥の声を採譜しているし「7つの俳諧」を作曲もしている。トゥーランガリラはサンスクリットで何物かインスピレーションはありそうだから広く東洋的なものと考えれば無縁ではないかもしれない。ピエール・ブーレーズは弟子だがトゥーランガリラ交響曲は嫌いだったようで、彼と東洋は縁がなさそうだ。ブーレーズがメシアンの楽曲分析の授業について語っている。題材は「マ・メール・ロワ」と「ペトルーシュカ」だったようだ。
もう一人の弟子ヤニス・クセナキスは「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか」といわれ啓示を受けた。メシアンはブラウン運動からヒントを得た「非合理時価を互い違いにかける」というアイデアを使うなど、数学、カソリック神秘主義、色彩、鳥類、東洋、エロスという脈絡のない混合に開かれた感性の人で、まさにオンリーワンだ。非常に魅かれるものがある。
「アーメンの幻影」は1943年にフランス軍占領下のパリで書かれた。その環境でこういう音楽が出てくる。捕虜の身で書いた「世の終わりのための四重奏曲」もそうだが、ショスタコーヴィチのように暗い怒りの陰画にはならない。初演は第1ピアノをイヴォンヌ・ロリオ、第2をメシアンで5月10日にシャルパンティエ画廊で行われた。
以下の7曲から成る。
1.創造のアーメン
2.星たちと環を持った惑星のアーメン
3.イエスの苦悶のアーメン
4.欲望のアーメン
5.天使たち、聖者たちと鳥たちの歌のアーメン
6.審判のアーメン
7.成就のアーメン
驚くべき色彩に満ちた音の饗宴であり1949年作曲のトゥーランガリラ交響曲のピアノ版というイメージだ。第3曲の密集和音は同曲の第6楽章を想起させ、第4曲をメシアンは「肉体的方法で表現される」(淫らな)アーメンと言ったように、宗教的なしかつめらしさとは無縁の境地に遊べばウエザー・リポートのジャズ・フュージョンの魔界とかわらない。
第4曲のこの主題は何かに似ていると長らくひっかかっていた。
いくら考えても浮かばなかったが、先日の朝、家内が紅茶をもって起しに来てくれ、アールグレーの香りを嗅いだら突然ぱっと閃いた。これだった。
モーツァルトのピアノソナタ第12番 ヘ長調 K. 332 第2楽章の副主題である。彼はパリ音楽院で「モーツァルトの22のピアノ協奏曲」と題したアナリーゼの講義を行ったようにモーツァルトを深く研究しており、偶然ではないと考える。
初演した二人のオーセンティックな演奏が聴ける。
高橋 悠治、ピーター・ゼルキン盤は独特の緊張感と熱がある一期一会の演奏が素晴らしい。side2の始めの曲が上記譜面の「4.欲望のアーメン」である。
本日67才
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ベートーベン ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2
2022 JAN 22 7:07:20 am by 東 賢太郎
ベートーベンのピアノソナタ第14番。実は子供のころから長らくこの曲には関心がわかなかった。まず、第1楽章がとてつもなく暗い。全編通してピアノソナタにあるまじき暗さで、ショパンのあれより葬式にふさわしいぐらいだ。ところが、そんなことを言おうものなら白い目で見られそうな雰囲気がクラシック界にはある。
「これは月光です。ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のイメージなんです。ねっ、目をつぶると浮かんできますよね?」
きませんね。ぜんぜん浮かんでこない。そういうNHKっぽいのが大嫌いな態度だったから僕の音楽の通信簿は2だったんだろう。ずっと後になって、実際に僕はルツェルン湖に行ってみた。月の浮かぶ夜の湖面を眺めたけど、まったくしっくりこなかった。
ベートーベン自身が1802年初版譜につけた名称は「Sonata quasi una fantasia」(幻想曲風のソナタ)である。こう文句を言ってるんじゃないか。
月光?なんだそれは?だいたい俺はルツェルン湖なんか行っとらんぞ。俺が死んで5年もたってからそんな名前を勝手につけた奴がいるって?そういえばゲーテも嘆いとった。「ギョーテとは 俺のことかと ゲーテ言い」ってな。
僕がクラシック音楽界にそこはかとない違和感を懐くのはそういう所なのだ。赤の他人が妙なレッテルをはりたがる。ハイドンの熊やめんどりぐらいなら他愛もないが、詩心が入ると深層心理に響いてしまい迷惑極まりなしだ。「ヴェニスに死す」というホモっぽい映画、あれを観てしまって僕はマーラー嫌いになったかもしれない。これは音楽の責任ではない。
戦前の尋常小学校では、ベートーべンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く妙なる音が聞こえ、良く見てみるとそれは盲目の少女であった。それが月光の曲だということになっていた。誰が作った話かさえ不明で、ここまで嘘が堂々とまかり通ると、クラシック音楽界というのは月光仮面のおじさんも実在だぐらい言いかねない仮想現実の世界と断じるしかなくなってくる。
何の仮想か?高貴なクラシックの巨匠や名曲というものはそういうものであらまほしく、真実なんかどうあれ、それでいいし、そうでなくてはいけないのだ。Let it be. じゃなく It should be.なのである。それでまた、そういう浅はかな俗説を何も考えずに信じてる人が多い。「皇室アルバム」という番組、誠にあれに近い世界であり、申しわけないが、リアリストである僕には逆立ちしても耐えられないジャンルである。
そんなことで14番は疎遠になってしまっていたのは不幸だった。しかし改悛する日がついにやってきた。先日、ピアノの譜面台にあったベートーベン・ピアノソナタ集をぺらぺらめくると、たまたま第1楽章が開いた。これがご縁というものかな。弾いてみる。
嬰ハ短調。いきなりブルックナー7番第2楽章の響きがする。冬の夜だ。深い悲しみの霧の彼方から哀歌が聞こえてくる。しかし、わからない。運命の歯車の音が聞こえるのに、何だってこんなに青白く高貴なんだろう??背筋が伸びる。どうして?悲痛な煩悶が襲ってくるが、諦めと共にすぐ鎮まる。だんだん瞑想に入り、身体が重くなって沈みこんでいく。哀歌が低く呻くように何かを問いかけ、闇の彼方に消えてゆく・・・
最後のコードで金縛りみたいにすっかり動けなくなってる。なんでこんな素晴らしい音楽を放っておいたんだろう?
よし、すぐ本稿を書こうと文献にあたると、モーツァルト弾きとして我が尊敬するピアニスト、エドウィン・フィッシャーがこう書き記しているのを見つけた。
第1楽章はモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」で騎士長が殺された場面の “Ah Soccorso! Son Tradito”(第 1幕 ああ、助けてくれ ! 裏切られた・・・)に由来している。私はムジークフェラインのアルヒーフで、ベートーベンのスケッチ帳にそれが嬰ハ短調で書き取られているのを見つけた。この楽章はロマンチックな月光なんかではない。厳かな葬送歌なのである。
まったくその通りと思う。その部分をお聴きいただきたい(ピアノ譜に注目)。
ワーグナーの死を予感しながら7番の第2楽章を嬰ハ短調で書いたブルックナー。彼もこれを弾いてフィッシャーと同じことを思ったんじゃないか。
14番を献呈した12才年下の伯爵令嬢、ユリーちゃん(ジュリエッタ・グイチャルディ)はベートーベンのピアノの弟子で、ウィーンで評判の美女だった(左)。大好きになってしまったベートーベンは友人への書簡で「彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。結婚したいが、手が届かない高嶺の花なんだ」とつらい気持ちを吐露している。貴族である父親が許すはずがないのだ。しかし、なんでその彼女に曲を献呈したのか?しかもなんで葬送曲を?ここは想像をたくましくするしかない。
フィッシャーがドン・ジョヴァンニと指摘してくれたことに注目だ。このオペラをベートーベンは「不道徳だ」と批判していた。なぜわざわざそこから主題と右手の三連符をもってきたのだろう?オープニングの筋書きを思い出していただきたい。ドンナ・アンナはドン・オッターヴィオと婚約した身だったが、プレイボーイのドン・ジョヴァンニに口説かれて夜這いをかけられている。あわやというところで彼女の父親である騎士長に見つかってしまう。もはやこれまで。彼は決闘に持ちこみ騎士長を刺し殺してしまうのだ。
愛しのユリーと婚約したのはガレンベルク伯爵だ。ベートーベンと同じ師に学んだ作曲家である。13才年下の同業者に彼女を奪われて憤慨しない男はいないだろう。ベートーベンが彼女に14番を献呈したのは1802年。これを弾いて俺の怒りと絶望に気がついてくれ!しかしユリーは翌年にガレンベルクに嫁いでしまい、そいつはロイヤル・パワーであっさり出世して1806年にナポリ王立劇場の音楽監督になってしまう。あんな雑魚の作曲家が!悲憤いかばかりだったろう。まだ小娘の彼女がそう見越して嫁いだとは思えない。ロイヤルの父親がやったのである。実力だけでは出世できない矛盾と悲哀と怒り。ベートーベンはその一点において正統なモーツァルトの後継者だった。
男性の皆さん、血気盛んだった30才の頃を思い出していただきたい。平民が貴族にくってかかるわけにはいかない。そこで自分の化身としてドン・ジョヴァンニに復讐してもらっても不思議でないのではないか?何が貴族だ。俺をソデにした鼻持ちならないユリーの親父。あいつがいなけりゃ彼女は俺のものだったんだ。ビデオの三重唱は騎士長が “Ah Soccorso! Son Tradito”(第 1幕 ああ、助けてくれ ! 裏切られた・・・)と歌いながら死んでいく場面だが、エドウィン・フィッシャーの指摘によればまさにそこが14番の第1楽章、俗称「月光の曲」に化けたのである。
それほど怒りのマグマがたまっていたことは第3楽章の激情の爆発で包み隠さずエンジン全開で現れる。突き上げるような左手、アルペジオで駆け巡り分散和音をぶっ叩く右手。ピアノとスフォルツァンドの強烈な対比。これが怒りでなくてなんだ。長調の安らぎはやってこない。第二主題まで短調のままテンポも変えず、長大なコーダはいったん減七の和音が小休止を作るが第二主題の再現からまた突っ走って嵐のような短調のまま終わる。第8番のハ短調ソナタの終楽章と比べてどちらが「悲愴」に思われるだろうか。
フランツ・リストは第二楽章を「2つの深淵の間の一輪の花」と讃えた。これは2つの意味で至言と思う。まず両端楽章に深淵(casms、深くて暗い溝)を見たこと(彼も「月光」なんか歯牙にもかけていない)。そして第二楽章を可憐な花に喩えたことだ。レガートとスタッカートが交代する変ニ長調の主題が始まると、暗く重苦しい葬送の場面にぱっと光が差してスクリーンのカットが変わる。現れるのは微笑みいっぱいのユリーだ。このエレガントでコケティッシュな三拍子がユリーだったのではないかと僕は思っている。そしてアクセントをずらした重々しいトリオがベートーベン自身だ。ふたりの戯れは、しかし長く続かない。楽譜はたった1頁だ。
ベートーベンのピアノ・ソナタと協奏曲の全部にバックハウスが良い音で録音を残してくれたのは人類の福音としか考えられない。どれを聴いてもオーセンティックと感じさせられるのだから文句のつけようがなく、千疋屋のメロン、とらやの羊羹、加島屋のいくら醤油漬みたいなものである。ピアニストはこの通り弾ければそれだけで評価されるがオリジナリティはないという困ったものだ。
クラウディオ・アラウのこのライブは現代ピアノで14番の真髄を再現したものと思う。一聴するとロマンティックに傾斜したように聞こえるが、フォルテピアノを想定した作曲家の指示を体現しようとすると第一楽章はこのテンポになるのではという意味で古典的である。ベートーベンがこの機能のピアノを持っていれば許容したのではないかという表現を見事にリアライズした演奏ということでお聴きいただきたい。すべてのフレーズが脈打って呼吸し、触れればはじけるかのような繊細なピアニシモから地響きのように強靭なスフォルツァンドまで感情の機微が伝わっていない無機的な音が一音たりともない。
もうひとつ挙げておく。作曲されたころの1795年製のフォルテピアノで14番がどう響くかを体験していただきたい(演奏はエリック・ジヴィアン。ヘッドフォン推奨)。ベートーベンの意図が生々しく伝わってくる。ペダルはなくモーツァルトが弾いた時代からのヒザ操作であり、第1楽章のsenza sordiniは何の指示かわかっていないが、ここではダンパーをはずして幻想的な音響を得ている(だからSonata quasi una fantasiaなのだ)。現代のピアノではこれは不可能であり、解釈は面倒になる(見事にクリアしているのがクラウディオ・アラウである)。第2楽章のスタッカートも、どんな名人であれピアノでは絶対にこうはいかない。小股の切れ上がったこれでこそ意味が知れる(ユリーと確信だ)。そして第3楽章の音色の嵐である。凄い。尋常でないことが起きている。ピアノではスタッカート気味に弾かないと(ホロヴィッツがそうしている)音が混濁するが、それだとピアニスティックではあるが角が取れて怒りに聞こえない。フォルテピアノのこのガシャガシャした強烈な音の奔流をベートーベンが求めたのはこれを聞くと明らかではないだろうか。
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ベームのベートーベン7番を聴く
2022 JAN 10 23:23:30 pm by 東 賢太郎
僕はカール・ベームを聴いていない。1975年3月のウィーン・フィルとの来日公演は3月20日の東大合格発表前後だから気もそぞろであり、FMで聴いた気もするがあまり覚えていない。とにかく年輩ファンの熱狂がものすごいと話題になり、絶叫大ブラボーの嵐が巻き起こり、カーテンコールでベームの足にすがりつく人、手を差し伸べて高級腕時計をプレゼントする人も現れたらしい。
ベームは77年も他のオファーを蹴って来日した。招聘元はカラヤン、チェリビダッケも引っぱり出して話題になった。ビートルズが女の子を失神させた、これはわかる。しかし、いいおじさん方がドイツのお爺ちゃんにキャンディーズみたいに熱狂するなんて尋常じゃない。でもあの人たち、もしかして安保反対で旗振ってたかもしれない、日本はやっぱり敗戦国なんだなあと思ったりした。
77年ごろの自分はというと大学3年、音楽はブーレーズの “一神教” 状態で、レパートリーは近現代に偏っていた。弦チェレやル・マルト・サン・メートルやピエロ・リュネールは知っていたが田園交響曲はあくびせずに第1楽章を聞き通すのに難儀していた。同様に退屈だったショパン、マーラー、ヴェルディは今に至るまでそのままだが、バッハ、モーツァルト、ベートーベンは留学へ行ってロンドン赴任するあたりで一気に目覚めの時が来る。
モーツァルトになくベートーベンにあるのはバッハの平均律の痕跡だ。フーガを含む四声体の対位法において旋律が、次いでリズムが小節線を超える。それがベートベンのへミオラに至る。ブラームスもバッハの起源まで見通して先達のそれをより控えめに使ったが、ストラヴィンスキーは起源を断ち切って原初的に使った。僕がエロイカに聴くのはリズム変異と短2度の軋みだが、それを最も先鋭に聞き取ったのはストラヴィンスキーだった。
ベートーベンには20世紀の前衛に進化する因子があった。トスカニーニ、レイボヴィッツの演奏には因子が裸で見える。フルトヴェングラー、カラヤンは大河の流れに埋没させて丸めてしまう。ベームの演奏はどちらでもなく、かといって折衷的でもない。昔の古臭い劇場型をより堅固な合奏力でモダンにしたものだ。本来がオペラ指揮者である彼がウィーン・フィルを振るというのは自然な流れだが、歌なしの交響楽だけで観るなら愛想ない頑固寿司の親父だったのが職人技の評価で最高級店の大将になっちまったみたいなもので、握りに洗練はないが味は保守本流、間違いないねというところだ。
この交響曲第7番はバイエルン放送交響楽団と「店」がちがう。しかし握るのはいつも同じ寿司だ。Mov1序奏部、流れの良さなど歯牙にもかけぬティンパニの打ち込み、腰の重さをしかとお聴きいただきたい。職人一同を自分のスタイルに染め上げた頑固一徹!誠に素晴らしい。喜々として陽光が差し込むようなフルートの第1主題が最高。BRSOの木管はうまく表情豊かで旋律を減速し歌うべきところは歌わせる。Mov2は祈るようなppから徐々に浮かんでくる対旋律を絶妙に活かしトゥッティのピークに持っていく膨らみが劇場的だが、山の裏側で伴奏のキザミは常に冷めて克明という職人技が隠れている。Mov3は曲が個人的に好きでないが、ミュンヘンのヘルクレスザールの残響が大変美しい。Mov4は速すぎぬいいテンポ、これがアレグロだ。7番は3番のようなインヴェンションは皆無であり、ベートーベンが意識して書いた最も大衆向けの曲である。それを更にあおってミーハー向けの演奏となると安手の二乗で聞くに堪えず、僕は知らない指揮者の演奏会で7番は金輪際聞かない。まあどこがどうというということは書かないが、今どき希少な気骨ある立派な交響曲を聴いたというずっしりした手ごたえが残る。カール・ベーム79才の成せる業である。
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2022年は「フランス」で開幕
2022 JAN 3 2:02:35 am by 東 賢太郎
明けましておめでとうございます。
去年は三が日からロンドンとZoomでせわしない正月したが、今年はのんびり。浄真寺の初詣は猫たちがお迎えしてくれ、おみくじも大吉でオッケーでありました。皆さまにおかれても良き年であるようお祈り申し上げます。
さて、我が家ではちょっとした事があってフランスが話題です。食、ファッション、芸術は全部パリだぞ、アニメが流行ってて日本好きだぞなんて盛り上がってる。かく言う僕も、フランスは大好きなのです。ヨーロッパにいた頃、パリで会議があると嬉しくてうきうきし、とにかくあの文化の洗練度は抗いがたいものですからいつ行っても「都会に来たな」と感じました。ロンドン、フランクフルト、チューリヒだって文化も歴史もあって素敵な街なのですがやっぱりパリはパリで、その他のどの都市、ニューヨークだろうがシカゴだろうがどこへ行っても田舎に見えてしまうのですね。
ニューヨークが田舎、なに言ってんの?と思う人は多いでしょうが、文化と文明は違います。文明ならニューヨークでありますが、そこで生まれ育ったガーシュインがパリに行ってみて、「パリのアメリカ人」という自虐ネタ含みの音楽を書いてしまう。あの曲は百年前だからねで済むものでもなく、今だってアメリカ人はコンプレックスがありますからね、フランス語を喋れると一目置かれるようです。コロンボ刑事が自分のオンボロ車を「アンティークの外車ですよ、フランスでね」と自慢して見せる、それを笑って慈しんでしまう愛すべき精神はガーシュインを継いでますね。貴族がいない国の本質的なもの、共和党支持者だって持っているいわば民主党的なものだと思うのです。
では都会と田舎の感じ、つまり都鄙感覚というものがどこから来るか。これは難しい問題です。都市をその構成員である人間に還元すると、雅び(みやび)、野卑という所に発しているでしょう。ではどういう人が雅びなのか。仕事がらヨーロッパの各国で多くの貴族階級の方々にお会いましたが、全員ではないもののやはり一般人とはどこか違う。古語で「やんごとなし」といいますが、雅びな人とは典麗、高雅、瀟洒、威風、鷹揚、寛容、知性、教養、慈愛、そういうものを持った人だと思いました。ただ全部ある人は多くないので反対語をあげた方が定義が簡明です。つまり、「野卑でない人が雅び」なのであり、やんごとないのです。野卑とはひとこと、「はしたなし」で済むと思います。はしたなき人はそのクラスでは見たことがない。これは世界の常識ですね。貴族に限らず平民でも雅びな人がたくさんいて、平然と通りを闊歩している。それをマスでとらえると「都」であり、そうでない所が「鄙」なのです。
では都鄙を食事にあてはめるとどうでしょう。西洋の食文化の「都」はヴェルサイユ宮殿風料理(フランス料理の源流)であり、それが雅びとされ各国に広がりました(参考図書:「フランス料理の歴史」 ジャン=ピエール・プーラン著、角川ソフィア文庫)。フランス革命で貴族が亡命してきたエカテリーナ王室がヴェルサイユ風にかぶれ、ロシア貴族の食卓はフレンチになったわけです。学生時代に渋谷のロゴスキーでロシア料理を食べて、それはそれで素朴でおいしいのだけれど、さもありなんと思いました。ですから後にドイツで暮らしてみて、ドイツ人には申し訳ないですが、すぐ隣で2千年も暮らしていたのに食がフランス化してない、これは大変なことだと思ったものです。ローマはゲルマン人大移動で衰退したと習いましたが、それが正しいことを舌で知りました。両民族はライン川を境に今でも水と油なのですね。
さように民族の食の好みはそう簡単には変わらないとするなら、フランスとロシアは親和性があったことになります。ロシア人は元はスラブ人で、北方ゲルマン人であるノルマン人が攻め込んで混血してできた民族とされます(参考図書:「世界史の発明」タミム・アンサーリー著、河出書房新社)から矛盾するのですが、「第三のローマ」と称したギリシャ、ラテンの血のなせる業なのか、そこが純正ゲルマン国であるドイツとの舌の違いかもしれません。日本にはシルクロード等を通じて西洋の血が入っていると僕は信じます。多大な影響を受けた大陸の覇権国・唐がそうだったし、正倉院の宝物はその例証だし、そうでないと証明する方が困難でしょう。ただそれはローマ、ペルシャ系であっても当時の野卑だったノルマン、ゲルマン系だった可能性はほぼゼロで、ドイツ料理よりラテンのフランス、イタリア料理が日本人の口に合うのは理にかなっているのです。
文化というものは知識・技術で移入できる文明と違って時間をかけて都から鄙に流れ、逆流はしません。フランス宮廷はボルシチを食べないように、一方通行の片思いであります。ところがその原則の例外があって、鄙であるロシアから都のパリに流れた文化があります。それがクラシックバレエであり、その伴奏音楽として進化したバレエ音楽です。正確にはイタリアに生まれフランスで一時期栄えたバレエ(ダンス)が食文化と同じくロシアに伝播し、一方で本家のフランスでは廃れてしまった。ロシアで体系化され逆輸入されたのです。これは音楽史において特異な現象です。まずチャイコフスキーという大天才が現れ、彼は民族的素材は使用しても感覚は五人組とかけ離れて西洋的です。ここで西洋というのはゲルマンではありません、彼はドイツ的なソナタを書きそこに存在の場を求めましたが、分裂的な性格であり、一方の感性はルネッサンスを経た「雅び」につながっていたというのが私見です。
次いで現れたのがストラヴィンスキーでした。彼はゲルマンのソナタに執着せず、新ジャンルであるバレエ音楽を発射台として音楽史を根こそぎ揺るがす作品をローンチした天才です。その独創性はリズムや和声が従来の音楽に比べて特異だったことにあるとされますが、そうした前衛性というならスクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチにも見られます。僕の視点はそうではなく、彼は鄙であるロシアから都であるフランスに「文化の伝播の法則」に逆らった作品を黒船の大砲のように撃ちこんで本丸のパリを撃破して「鄙」にしてしまった。明らかな野卑である音をぶつけ、騒動はおこしたがやがてパリジェンヌまで虜とし、アールヌーボーのうわべの仮面を剝ぎ取り、人間の原始の本能をむき出しにしたことに革命性があったのです。上記の3人やロシア五人組はそういう価値基準が仮にあるなら反スターリンであろうとなかろうと「ロシア保守本流」であり、チャイコフスキーはエレガントな異端であり、ストラヴィンスキーは過激派の脱藩者でした。
そのことはロシアの芸術家はよく心得ていて、ストラヴィンスキーの三大バレエは版権の問題もありますがロシアの楽団はあまり取り上げませんでした。需要の問題もあったでしょうがより音楽上の理由もあり、スヴェトラーノフが60年代に春の祭典を録音しましたが西欧の演奏を聞きなれた我々の耳には猛烈にダサく、申しわけないが「はしたなし」に聞こえてしまう。テミルカーノフも野卑丸出し。作曲者本人の演奏からも、そういうブラスの鳴らし方は意図してなかったことは明白で、ムラヴィンスキーは振らなかったし、ロシア人で良かったのは読響を振ったロジェストヴェンスキーぐらいでした。ストラヴィンスキーは同曲をスイスのフランス語圏(クララン)で隣人だったアンセルメの意見も参考にしながら書き、スイス・ロマンド管かどうかはともかくシャンゼリゼ劇場のオケのようなフランス的な音響をイメージしていたに違いありません。ロシア産ではあっても消費地はパリ。フランス料理「ボルシチ風」なのです。
だから三大バレエはフランス人がフランスのオケでやるのが望ましいのですが、これまた難点があって仏国はどういうわけかオケがあんまりうまくない。ライブもCDも何度も聴きましたが満足したのはひとつもなし。あのブーレーズが振ってもどことなくガサツなんですね。そこで僕の要望を満たしてくれるフランス風の春の祭典はというと、ひとつだけ存在します。これひとつです。そう思ってyoutubeにあげたのですが、すぐ消されてしまった。ところが、昨日調べたら公開OKになって復活しておりました。33才の小澤征爾がシカゴ響を振ったRCA盤です。小澤は後にパリ管と火の鳥も録音していますが、若い頃の彼の感性はフランス(ラテン)ものにぴったりでトロント響を振ったメシアン「トゥーランガリラ交響曲」も色香が最高に良いのです。
この祭典はブーレーズCBS盤を横綱とすると、M・TトーマスDG盤と並んで大関であります。何年の版なのか一部ティンパ二に耳慣れぬ音はあるが、鈍重でダサい所はかけらもなく、ぐいぐい進むラテン的な軽さは魅力たっぷり。もぎたてのレモンのようにフレッシュでロックのように垢ぬけて痛快。シカゴ響のうまさは言わずもがなで、このオケはこの頃の小澤と同年輩だったジェームズ・レヴァインとも素晴らしいブラームスを録音しており、何国人であれ若者の才能を見抜いて自発性の高い渾身の演奏をする真のプロフェッショナルと思います。生贄の踊りのティンパニ4連打のキマリかたなど今もってあらゆる録音で最高のカッコ良さです。何度きいてもまた聴きたくなる興奮の極致。フィルアップの「花火」の飛び散る色彩もめちゃくちゃ魅力あり。写真のCDで手に入るようなので強力にお薦めします。
もうひとつ、今度は生粋のフランス音楽を。こちらもyoutubeで消されていて復活してくれました。パリジェンヌであるモニーク・アースの弾くドビッシー「前奏曲第1番」、1962年7月録音のDG盤です。何をいまさらの世界文化遺産級の録音ですが、皆様と共有したいと思います。同曲はミケランジェリDG盤も光るものがありますが、いま聴き返してみてアース盤の魅力に参りました。
何がいいか?例えば第5曲「アナカプリの丘」があるカプリ島はドビッシーが何度も訪れたお気に入りの島ですが、僕も大好きであります。そりゃローマ皇帝ティベリウスが住んだぐらいだからいいに決まってる。地中海クルーズで寄った青の洞窟、丘のうえで食事しながら眼下に眺めた深いブルーのティレニア海(写真)の空気が漂うような演奏が欲しいわけです。
アース盤にはどの曲にも、ふさわしい空気感があります。香りまで湛えている。ドビッシーが得た霊感が彼女に乗り移って、そうでなければ出てこないような極上のニュアンスが何の作為もなく指先から流れ出ているようなこの自然さは恐らく楽譜を理性で読み解いたのではなく、生まれながらでないとできないフランス語の発音のようなもので、指の技術だけでは届かないでしょう。使用ピアノは何なのか微妙に燻んだ音色がいいですね、ドビッシーはベヒシュタイン、ブリュートナーを愛したそうで、スタインウェイかもしれないが近い味があります。
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春の祭典フリーク
2021 DEC 27 12:12:54 pm by 東 賢太郎
全身が凝っていてマッサージが欠かせない。「こんどジーちょうやるんです移動ドで」。「ト長調のこと?調弦は?」「レとラです」Hさんの二胡、上達中のようだ。何事もチャレンジする人は偉い、応援したくなる。ぼた餅、口開けて待ってるだけなら人間終わってる。
移動ドってのは読みやすいが無調になると意味ない。僕は音程派だ。ブロックで和声まで覚えると楽だ。春の祭典のピアノ譜で音を読むにはそうするしかない。面白いのをyoutubeで見つけた。打楽器アンサンブル版だ。原曲、ピアノ版より複調の和声構造が見えるのでおすすめである(要ヘッドフォン。第2部は譜めくりが合ってないから画像は無視)。倍音まで聞こえるとドビッシーの延長とわかるがそれでも新奇で妖しく美しい。クラランのアンセルメの隣りの家でストラヴィンスキーの脳内に響いたすっぴんの音を聞くようだ。
何よりの革命はリズムだ。生贄の踊りのティンパニ!これを完璧に諳んじて両手で打てるようにすることが祭典フリークの基礎(12分~)。
ちなみにこれは猫好き祭典フリークの傑作だ。
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プロコフィエフ 交響曲第5番変ロ長調 作品100
2021 DEC 25 14:14:46 pm by 東 賢太郎
この曲をとりあげようと思ったのは前々稿を書きながらローマのパンテオンの画像を眺めていたら、それをほめていた建築家コルビュジエを思い出し、彼の技法がキュビズム的だと思っていたからだ。さらに言うなら、コロナ禍2年目だった年を「今年の漢字」みたいに音楽で選ぶなら、僕の1年はこれがふさわしい。良くも悪くも、それらがごちゃごちゃに同期していっぺんに来たみたいな掴みどころのない年だったからだ。
ピカソの『アヴィニョンの娘たち』(左)は皆さま御存じの妙ちくりんな絵だ。多視点(三次元)の画像を二次元に描きこんでいるからだが、実は理にかなっている。知人と向かい合って話す時、我々はその人の横顔も(見えてはいないが)知っていて、その記憶の三次元画像全部を二次元に還元して会話している。それをバラして一つの顔として描き込んだのがこれだ。この手法はセザンヌが開祖で、ピカソの本作で著名になり、両者に影響を受けたジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 – 1963)が現れてキュビズムと呼ばれるようになる。キューブ(cube、立方体)が素材ということだが、直方体、球、円錐、円筒、三角錐etc.も要素としてありえる。
キュビズムは単なる戯れ事と思い長らく無視していたが、音楽にあって絵画にない「時間」という概念を考えていて急に意味が分かった。絵画に時間を取り入れる思想なのだ。貸借対照表(balance sheet)と損益計算書(income statement)の関係だ。前者は時間概念のない断面図で、後者はそれがある。印象派は目に映るままの画像を遠近法と陰影で描写するがキュビズムは脳内の原像(記憶蓄積)を明らかにしている。前者は時々刻々の陽光の当たり具合で表情を変える寺院を描くが、一枚一枚はリアルタイム、その瞬間の像である。一方、後者は過去の様々な記憶を一枚に盛り込み、「時間」を圧縮、内包してしまっているからいわば現在形、過去形の混在で、より宇宙の実相に近い。実際に僕は人でも物事でも風景でも、そう脳裏に記憶したイメージ(原像)を自覚している。それをいったん分解し、文章という形に組み立て直し(すべからく「作文」とはそういう行為だ)時制を解いた「キュビズム文体」の方がよりうまく伝えられる場合がある。
キュビズム的音楽というものもあるとされる。例としてストラヴィンスキーがよく挙がるのは作曲文法がブロック積み上げ型である(春の祭典に顕著)からだろうが、的外れな指摘とまではいわぬものの形式論的なアナロジーに過ぎず、仮にそう認めても何の思考の進展もない。時間概念に注目する僕の解釈だと、音楽のキュビズムは同じ楽想が特定人物やその心理を暗示するワグナーのライトモティーフに近い。幻想交響曲を聴き終えたときの「イデー・フィクス」(idée fixe)がもっと近い。しかし、暗示ではなく変化が主役そのものであるところが決定的に違うのだ。私見では、より近い作曲家はプロコフィエフだ。彼の音楽はストラヴィンスキーほどスコアの外見はそう見えないが、リズムも和声も構造も、要素要素が有機的に結びつくよりもくっきりと対比して混在し、時に異形の要素が不意に混入もする。バレエ音楽、オペラではそれは自然で目立たないが、ソナタ形式の音楽でもその傾向がある。特にそう思うのは交響曲第5番である。
第1楽章はFl、Fgの平和でのどかな主題で開始する。いきなり現れるこの主題が変奏というよりくっきりと原形をとどめつつ次々と変拍子と転調を重ね、横顔、斜めの顔と相貌を変えて折り重なる様はまさしくキュビズム的だ。
クロマティックな第2主題がFl、Obに現れこれもやはり和声と管弦楽法を変転して角度の異なる相貌を重ねてゆく。
そしてその結尾にシニカルな増四度を含むスタッカートの主題が異界のようにぽつんと現れる。
展開はせず、くっきりと苦悶の残像だけ残して消え、提示部を締めくくる。
続く展開部は低弦で第1主題がそのまま表れ3つの主題が複合をあまりせずやはり自己主張しつつ混在し、ゆえに再現部のようだ。本物の再現部はトランペットが第1主題を強奏する部分からと思われるが曖昧だ。つまりこの楽章は3主題があたかも3人の人物の様々な表情があちこちの角度から一枚の絵に描き込まれたような構造をしており(参考『アヴィニョンの娘たち』)ソナタの形をしたキュビズムに思える。
第2楽章は一度聴いたら忘れないニ長調のトリオを挟んで奇矯なスケルツォ主題(増四度主題の苦みをひく)が次々と転調されて走り回り、同様の思想。第3楽章アダージョもロマン的を装うが無機的で冷たい主題が延々と衣装を変えてゆく。人物の原型は伴奏だけに現れるなど技法は変奏されるが思想は一貫している。終楽章は第1楽章冒頭を回帰させる序奏に続いて新たな牧歌的主題にからんで増四度主題がくっきりと現れ、弦に現れチューバが伴奏する主題は第1楽章第1主題であり、ここで聴き手は全楽章が「同じ人物」を描いた絵であることを確信するのである。僕はこの曲にブラックの後期のイメージを見ている。
プロコフィエフは1941年にヒトラー率いるドイツ第三帝国軍が独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に攻め入る現実を見て、かつてない祖国愛に目覚めたという。こう言っている。「わたしの第5交響曲は自由で幸せな人間、その強大な力、その純粋で高貴な魂への讃美歌の意味を持っている」。高貴、祖国愛、裏切り、苦悶を直方体、球、円錐、円筒、三角錐にして多視点の時間を封じ込めた音楽。傑作だ。
以上のように主題の性格付けが明確(人物なら「濃い」)、楽器法は原色的であり、スコアはプロコフィエフの思想を余すことなく緻密に厳密に設計されており、オーケストラの性能は問うがあまり指揮者の解釈に依存しない(常識より速め目にテンポ設定するぐらいか)楽曲に見える。それでありながらライブで聴くと毎回違って変幻自在。ダイヤモンドがカットで色を変える如き類のない不思議な音楽である。個人的にはロンドンで聴いたアシュケナージ / チェコ・フィル、東京のソフィエフ / N響が印象深い。
よってどれがベストということもなく演奏の数だけ魅力がある。
ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルはプロコフィエフ交響曲というと5,6番しか知らない(たぶんない)。作曲家の脳裏にあったであろうロシアの管の「えぐみ」が全開ながら下品にならずひたすら正調に聞こえてしまう彼の指揮は68年のライブでじっくり味わえる。全曲が怜悧なまま徐々に内部から熱して鳥肌物のコーダで終わる。こういう演奏は絶滅種でもうどこでも聴けない。
僕の棚にある音源からジョージ・セル / クリーブランド管の1967年ライブだ。微妙な傷はあるがオケの性能が凄く、ムラヴィンスキーとは違った完成度がある。どちらも完璧なのだが違う。キュビズムと解釈した意味をお分かりいただけるだろうか。
こちらも僕の棚から。普通のオーケストラ(ミラノ放送交響楽団)を振る若き日のチェリビダッケだ。上の2つではピリピリの緊張感で意識がいかなかったが、これで聴くと第2楽章がバーンスタインのウエストサイド物語に影響したかななんてことに気づく。それにしてもチェリビダッケ、まったく負けてない。恐るべしだ、ぜひ全曲を。
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ルロイ・アンダーソン「シンコペイテッド・クロック」
2021 DEC 16 0:00:10 am by 東 賢太郎
ルロイ・アンダーソンの曲は本当にいつどこで覚えたかわからない。家にレコードはなかったように思うが、すごく幼少の頃だという感じはある。クリスマスの銀座かデパートで家族でカレーでも食べてるBGMか何かだったというなら納得できる。
気がついたら知っていたというのはある意味不気味でもある。道で見かけた女性、どこかで会った気がするけど思い出せない。もと同級生?同僚?まさか彼女?、いやいや知らない。でもそんなはずないよ、だって知ってるんだから。ああわけわかんねえ。
この曲「シンコペーティッド・クロック」もそんな感じがする。でも、いい曲なんだ。サビの所が好きですね僕は。すごいですよ、なんせ子供のオーケストラでもサマになっちまうんだからさ。何ごとも、小難しくて効果が薄いというのが一番みっともないね。
チクタクいう時計やメトロノームを音楽にした人はいる。ハイドン、ベートーベンだ。でもタイプライターからサンドペーパーから馬のヒヒ~ンまでネタにしちまうアンダーソン先生ならおっしゃるだろう、「おい真似じゃないぜ、俺が曲にできないもんはないっちゅうことよ、まあ聞いてくれ」。ご本家の演奏だ。
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我がチャレンジ「エロイカを全曲弾く」
2021 DEC 7 12:12:12 pm by 東 賢太郎
野球を見ていると、ときどきファウルチップしたバットのにおいを嗅いでる打者がいる。外人に多い。きくところによると摩擦でボールの牛皮が焦げたいい匂いがするらしい。といって別に衆人環視の打席で嗅がなくてもよさそうなものだが、この匂いはバットとボールが150キロの高速で擦り合わないと出ないから僕の野球のレベルの選手は知らないし、プロ選手でも普段は嗅げない希少性がある。もし戦闘モードにある男をさらに猛々しく燃えさせる何かがあるのだとすれば、とても動物的本能に近い行動だろう。そういえば悪童だった頃、僕は電車の線路に侵入して、火花となって溶けて飛び散ったブレーキの鉄片を拾って匂いを嗅いでいた。危ないという気持も多少はあったが、それを振り払って余りある魅力だったのだ。それを嗅ぎたい衝動も本能だったと思うしかないから生物学的に何か意味があるんだろう。牛は太古の昔から食物でありわかる気もするが、鉄は食えないし、なんだって僕の遺伝子は「溶かさないと常温では嗅げない鉄の匂い」なんてめんどうくさいものをわざわざ好ましく感じさせようとしているんだろう?ひょっとして遠い遠い先祖が鉄の生産に関わっていて、もっと嗅ぎたいから働こうというインセンティブのある者がダーウィンの法則で勝ち残ってきたかもしれないなどと想像する。
きのうベートーベンのエロイカを聴いているうち、ふとその事を思い出した。この曲のある部分は、僕にとって、あの鉄片と同じいい匂いがするのだ。その「いい」という感じは文字にはしにくい。でも、あの溶けた鉄の匂いがまた嗅ぎたくなって僕は線路に入っていた(やばい話だ)。エロイカもおんなじだ、また聴きたくなる「常習性」があるのだ。これは僕だけだろうか。ベートーベンが脳内でいい匂いの音を見つけ、それを書き留めてふくらませていったらこうなった。人類の本能に訴えるから常習的に魅かれてしまう人が時代を超えてたくさん出てきて、それが積もり積もってこの曲は「クラシック」になったのだという説明は、シャネルの5番はそうやって香水の女王になったのだという現実のケース・スタディも伴っていて、ベートーベンが天才だとかナポレオンがどうしたなんて文学的な説明よりずっと説得力がある。
「エロイカの常習性」を唯物論的に探究する試みは、これまた魅力的だ。シャネルの5番には「ジャコウネコの肛門から取れる分泌物」が使われているが、音楽もそうやって組成を分解していくと非常にユニークな発見があって面白いのである。分解するとスカスカで何も見るべきもののない音楽は言うまでもなく安物である。よくできたもので、人々はそこまで見てないが、結果として安物は市場から淘汰され記憶からも消える。逆にエロイカはあらゆるクラシック音楽の中でも異例なほど新奇な成分が絶妙に配合され、人々はそこまで見てないが、結果として人類が滅びるまで地球に永遠に残るのである。シャネル5番は年間で250億円も売れるほど人間に常習性を植えつけることに成功したが、エロイカだってもしベートーベンに著作権があればお城が買えるぐらいは売れただろう。
その「新奇な成分が絶妙に配合された」一例をお示しする。下のピアノ・スコア(Edition Peters, Otto SingerⅡ版)でいうと右ページの2段目の終わりの小節から始まる弦のスリリングな下降が上昇に切りかわる4段目の最初の2小節だ。
ソソーソラレ|シシーシラファという単純なメロディ。実に何でもない2小節だ。その直前の6小節は、突然背後から敵軍に斬り込まれ、剣を振り上げて応戦する英雄のピンチである。ところが、半音階上昇するバスが加わって和声が Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7と息もつかせぬ早業で突き進むこの2小節で(たった2,3秒だ)、駿馬にまたがる英雄は一気に形勢を逆転し、怒涛の勢いで突進して敵をなぎ倒すのである。う~ん、カッコいい。この和声連結は、連結法としては古典的でジャコウネコの分泌物ほど新奇ではないが、バスの半ば強引な(つまり旋律ではない)対位法によって機関銃の如く転調して人間の保守的な和声感覚を破壊してしまう凄まじい効果は、やってる中身に何もインテリジェンスはないが人智を超えた1秒に数百万回の高速売買という一点によって株式市場を根底から変えたアルゴリズム取引さながらである。こんな例はハイドンにもモーツァルトにもなく、ベートーベンの大発明である。彼は「和声感覚、リズム感覚の破壊」という新奇な成分を香水に配合したのだ。
冒頭、2発の号砲とともにチェロで現れる英雄のテーマは何とも生ぬるい。音量も力ない p (ピアノ)で、まるで寝起きであくびしてるみたいだ。それが減七の和音でいっそうのくぐもりを見せ、「ああ仕事したくねえなあ」という感じになるから最悪の出だしである。「どこが英雄だ」と初めて聴いた時に拍子抜けしたのをはっきり覚えているが、それこそベートーベンの周到な戦略だ。テーマをもう一度、木管とホルンが出しつつ変ロ長調に転調するとだんだん目が覚めてくる。そこで楽譜の左ページの4段目だ、3拍子なのに2拍子でガン、ガンと土俵に上がる力士が紅潮した顔を叩くみたいなぶちかまし(スフォルツァンドの衝撃、これぞリズム感覚の破壊だ)が入り、英雄はしかと目覚め、フル・オーケストラでテーマが堂々たる本来の威容を現すのである。
周到だ。この寝起きの人間くさいプロセスを見せるから、カッコいい2小節が俄然輝きを増すのである。いきなり冒頭からスーパーマンが現れて英雄だ!とやってもマンガである。リアリティがない。ではハイドン流に「序奏」をつけるか?いやいや、古臭いね。そこでこうなる。英雄主題はいわばライト・モチーフで、不意に幕が開いて準備中の主役にスポットライトが当たってしまう「現代劇」なのだ。これはほぼ同時期(前年)に書いたピアノソナタ第18番で使った手であることを指摘しておく(どちらも変ホ長調だ)。
エロイカ第1楽章の提示部をピアノで弾くことは僕にとって人生最大の喜びの一つである。たびたびブログでいろいろな曲の楽譜をお示ししているのはそういう「部分」であって、なぜそうするかというと、そこに「匂いの秘密」が封じ込められているという確信があるからだ。音楽は物理現象である。だから採譜できる。それを分解すれば秘密は解き明かせるはずだという強い思いが僕にはある。このモチベーションは、恐らく、天文学者が137億光年かなたの星雲のスペクトルを解析したり、物理学者が素粒子をさらに分解したら何が出てくるだろうと全周26.7 kmの陽子ビームの加速器を作ってしまう好奇心に近いかと自分では思っている。
しかし、ソソーソラレ|シシーシラファという音列と、Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7 の和声連結は単に「そうである」という以上のものをもたらさない。何か数学に置き換えられる原理や規則性はない。とすると、なぜそれが「いい匂い」を発するのかの答えは受容する人間の脳の側にある(しかない)ことになる。こういう「ある」は哲学における「存在する」に他ならず、明日から地球が猿の惑星になればエロイカはこの世から消える。楽譜は残っても存在はしない。「明日から人間だけの惑星になればこの色は消えるよね」と小鳥たちは森でささやき合っているだろう。人間は色に見えないから「紫外線」と呼んでいるその色は鳥には「存在」している。
つまり、音楽は採譜はできてもメタ・フィジカルな「存在」なのだ。だから、音楽を演奏し聴くという行為は、「発色させた人間」(作曲家)と、それを受容する人間(聴き手)の脳の交信に他ならない。味覚は「甘味は食べろ、酸味、苦みは危険だから食べるな」のようにセンサーの意味があるが、音列、和声連結で子供が育ったり、腹をくだしたりすることはない。ならばなぜ「いい匂い」と感じさせられているのか?それはまさに「鉄の匂い」に僕が引き寄せられていたのと同じ謎なのだ。仮にそれが「甘味」だとすれば、ベートーベンは人間が甘味に感じる音の組み合わせを発見したことになる。エロイカに限らず人気作品にそれは散りばめられているが、それをそういうものだと「わかる」人が多くないのでまとめて「**味」のように呼ぶ言葉がないということだ。
音楽に限らない話だが、人が何かを「わかる」というのはどういうことかという点について含蓄ある論考がある。哲学者・國分功一郎氏の興味深い著書『暇と退屈の倫理学』に「人は何かをわかった時、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する」とあるのがそれだ。哲学者スピノザの言葉だが、まさにそれだと思う。同書はこうも言う。「数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数値を当てはめればいいと思っていたら、その人はその公式の奴隷である。そうなると『わかった』という感覚をいつまでたっても獲得できない」。そういう人は間違いなく数学ができない。よってこの論考は正しいと実感できる。何事につけ、「わかる」ための自分なりの方法を見つけることはより良く生きるための実習である。
僕の場合、「ある音楽をわかる」ということは、それが発する匂いを嗅ぎ、その匂いは作曲家も好んで音楽に封じ込めたものだと実感(=交信)することだ。理屈でなく、それこそ嗅覚や味覚のような「本能」の次元の結びつきだから強固であり、その状態をもって「エロイカがわかった」と宣言してもまったくおかしくない。僕はその瞬間にその作品は自分のものになったという感じがする。レパートリーというものは演奏家だけでなく聴き手にもある。それを得るには自分で弾くに限るというのが僕の方法だ。僕の腕で人前で演奏できるわけではない。つっかえても止まっても、自分の眼と指で音を解きほぐし、匂いの元を探り当てる。弾くというより解明する。万人にお薦めはしないが、ピアノを習ってない僕ができることは誰でもできるだろうし、ポップスでビートルズのコピーバンドをやるのは全く同じことだ。どんな苦労をしても「あの音を出してみたい」という情熱、衝動、要はそれがあるかないかだ。エロイカを全曲弾く。これは僕にとってはアイガー北壁を登覇するぐらいの壮大なチャレンジだが、挑んでみたい。
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クラシック徒然草《ハイティンクのベートーベン交響曲全集》
2021 DEC 6 8:08:12 am by 東 賢太郎
前稿のタワレコで買ったCDのひとつ(韓国盤もあるが、これは「タワーレコード限定盤」である)。3種類あるハイティンクのベートーベン交響曲全集の最初のセットである。大学の頃に出たのは知っていたが、コンセルトヘボウでなくロンドン・フィルというのがひっかかって買わなかった。レコ芸の批評も記憶になく、すぐ忘れられたように思う。
番号順に一気に第九まで聴いてしまった。
結論。おすすめしたい。
お断りしておくと、僕はベートーベン交響曲全集についてピリオドは好まない。べーレンライターも、それが真実かもしれないが好まない。慣れ親しんだピリオド演奏出現前のスタイルで必要十分で、一言一句それで記憶してしまっているので無用の違和感に惑わされずに堪能したい。
9曲通して、6番のオーボエの1か所(これは要録り直し)、7番の第3楽章のテンポ(僕の趣味からして)、9番のソロ・カルテット部分のソプラノの3つしかあれっという処はなく(稀なことだ)、満足度は極めて高い(ソプラノは2回目全集でルチア・ポップにしている。彼の趣味からして納得のキャストだ)。
LPOはたぎる様なモチベーションがあり、弦がなみなみとしたボリュームでうねり、木管はピッチが良くあでやか、金管(特にホルン)は要所で見事な効果をあげ、ティンパニは雄弁だが品格を保つ。誠に素晴らしい。どこをどうつっついても文句なし、正攻法の立派なベートーベンとしか評しようがない。
さらに、録音だ。大音量で聴いたが、アナログをLPでベストの再生をしたに近く、これはひょっとしてかつて僕の部屋で鳴った最高のオーケストラ音響ではないか。
近ごろは時間が惜しいので読書しながらきくが、無意識に一緒にバスを歌い、Vnとフルートは口笛でなぞって「オケの一員」になっている。頭は本に没頭しているが耳は完全に音楽に入って合奏しており、こう書いても信じていただけないから目撃してもらうしかない(これができないから最近ライブは敬遠というのもある)。この録音は声も口笛もリッチな倍音に埋まってきこえない(こういうのは滅多にない)。口笛は他人が吹いてるように聞こえるが、このCDでなぜかかなりうまくなっているのに気がついた。ぴったり合わないとと思わせる見事な音でオケが鳴ってるからだろうが、点滴のNMNが効いたかと思うぐらい自分で驚いた。
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