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パリの息吹(魅惑の「マ・メール・ロア」)

2023 SEP 17 23:23:37 pm by 東 賢太郎

ルイ・ド・フロマン(Louis de Froment、1921 – 1994)というフランスの指揮者を知る人はオールドファンだけだろうか。ルクセンブルグ放送交響楽団のシェフとして貴重な録音を残した名指揮者であり、プーランクの弟子でありプロコフィエフとも親交があったガブリエル・タッキーノとサン・サーンス及びプロコフィエフのピアノ協奏曲全集をVOXレーベルに録音している。後者は僕の愛聴盤であるし、ダリウス・ミヨーが自作自演集の一部を指揮させるほどお墨付きの指揮者でもあった。

VOXは1945年にニューヨークで出来たレーベルで、ありがたい千円台の廉価版だった。ファイン・アーツQのハイドンのカルテット、ハンガリーSQのモーツァルト(ハイドンセット)、アビー・サイモンのラヴェルやラフマニノフなど学生時代の米国旅行であれこれ買いお世話になってはいたが、いかんせん粗製乱造の工業製品という風情の米国盤は欧州盤に比べて品質が劣っていたのがデメリットで、となると、アーティストも欧州では一流でないのかと根拠のないイメージができてしまい、ブレンデルもスクロヴァチェフスキーも僕はVOXで知ったものだからそれを払拭するのにしばらく時間がかかった。ルイ・ド・フロマンもそうだ。

彼のラヴェルの管弦楽作品は88年に写真の安っぽい装丁で出た廉価CDをロンドンで見つけた。当時、暇があればCDショップをのぞくのが日課だったのだ。特に期待はなく、単に安いから買っただけだ。棚に埋もれていたのはそれなりの程度の演奏に聞こえたからだろう。ところが昨年9月、何の気もなく偶然に聴き直してみてマ・メール・ロアに瞠目した。伴奏指揮の便利屋ぐらいに思っていた不分明を恥じ、そこですぐyoutubeにアップすることになる。

多言を弄する気はない。ぜひ皆さんの耳でご体験頂きたい。

ルイ・ド・フロマンはフランス貴族の家系である。だからというわけではないが、このラヴェルは初めから終わりまで犯し難い気品のようなものが一本ぴんと貫いているように感じる。ドビッシーにそれはいらないがラヴェルには不可欠の要素であり、品格を感じない演奏はサマにならない。つまり、田舎くさいラヴェルなんてものは存在しないのである。彼自身はスイス人の父とバスク人の母をもつ市民の家系だが、精神の地平は遥か高みにあった。

僕にとってパリはどんな街かといえば、何度も往っていたころはどうということもなかったが、遠くなってしまった今は雑多な思い出がぎゅっと詰まった玉手箱のようなものだ。マ・メール・ロアはそれに似つかわしい音楽であり、これをあるべき姿で響かせるにはそれなりの人となりが要る。彼にはそれがあったということであり、いいなあと嘆息してパリという都会の息吹を思い出すしかない。昨今の音楽演奏の水準は高まり、この程度の技術での演奏はどこの楽団もできる時代だが、玉手箱から美しい宝石だけを取り出して見せてくれるこのような至福の演奏はついぞ聴かなくなった。音楽がエンタメではなく文化であると感じる瞬間であり、こういう演奏ができるアーティストがはやり歌の歌手みたいに時代とともに忘れ去られるならクラシックがクラシックたる時代も去ったというべきかもしれない。

 

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今年最後の野球観戦(やっぱりプロは凄い)

2023 SEP 15 9:09:24 am by 東 賢太郎

神宮球場の一塁側スタンドにいた。カープがヤクルトに先に負けると、甲子園の巨人・阪神の結果を待たずしてマジック1である阪神の優勝が決まる。そろそろかなと思っていたら「甲子園終わったね」と後ろの席で女性の声が聞こえた。こっちはまだ7回ぐらいだった。

神宮は久しぶりだ。表参道駅に球場用のエスカレーターができており、いつも寄っていた立ち食い蕎麦屋が消えていた。東京が再開発だらけなのか、こっちがコロナで出なかったせいなのか、日本橋、渋谷、自由が丘で昔なじみの光景が気がついたら消えており、上海料理屋では池袋西口もそうなると聞いた。神宮球場もあの五輪で危なかったがどうなるんだろう。ここはスタンドの蕎麦ひとつだって思い出が詰まっている。東京の歴史も野球もわかってない田舎政治家の一声で消えるなんてことは勘弁してほしい。

このカード、第1戦も来たが2-1で負け。第2戦は静岡に出張だったが、第3戦はカープの神宮最終戦なのでまた来たのが昨日だ。とにかく今期の阪神は強かった。先日、甲子園の直接対決をスィープされて優勝の望みは絶たれたから勝敗はもういい。仕事が一段落したし、最後の意地を見ようというところだった。

広島は第2戦も完敗して大失速の連敗中、しかもぜんぶ1得点以下という情けない記録が更新中でもあった。この日も先発・高橋奎二を打ちあぐみ7回まで5-2と敗色濃厚、僕も完全にあきらめていた。それをひっくり返したのが8回。小園(本当にこの選手はモノが違う、カープの宝)そして堂林がお膳立てした満塁に代打・磯村のセンター前で勝ち越した。左腕高橋に対して右打者を先発で使い果たし、相手は救援の左腕・山本。彼しかいなかった。第3の捕手であまり出番がないがここ一番で打てる勝負強さは折り紙つきだ。彼は2010年春の甲子園で優勝した中京大中京の正捕手で5番打者。準々決勝、準決勝の土壇場でホームランを打っており、先発投手で4番が堂林だった。第3戦はこの2人の打棒で逆転勝ちしたと言っていい。しかしそんな人が第3の捕手ってのもねえ、プロのレベルは僕らごときには想像もつかない。

やっぱり球場はいい。画面ではわからない。第1戦は三塁側ベンチ上第16列で、打者目線で観られたのがとても大きい。サイスニードはテレビ画面では大したことないと思っていたが、150km台の速球が石みたいに重い。中村のミットの音が凄まじい。外野フライがやっと。あれをベンチから見ていたら怖気づくだろうなというパワフルな球で好調だと打てる人間は日本ではなかなかいないだろう。坂倉が本塁打を打ったが家でTVを観たらスライダーだ。カープは完全に力で封じられた。ヒューストン・アストロズが出したのはきっとコントロールだろう。カープ新人益田の150km台も惚れた。いいの採ったねえ、これはエース候補だ。大道は更に一段と速くて凄みがある。高め、あれは前に飛ばないな。カープ田村がプロ入り初安打。いいものを見た。センターから山田に返球、山田はちょっと考えカープベンチにふんわり投げる。わかってるんだ、業界人としての思いやり。

プロのピッチャーの速球を久々に見て感動した。みんな速いけどサイスニード、益田、大道は図抜けて球威があり、目と耳に焼き付いた。ホンモノ。これだ。俺もプロとしてこういう仕事をしなくっちゃ。身が引き締まった。

第3戦は4番に座った堂林の第1打席のホームラン。左翼中段にやや低めの弾道、物凄い当たりであれは高校野球ではあり得ないプロのあかし。あとでTVで確認したが速球だ、素晴らしい。堂林はホームランバッターになっている。山田のホームランも焼き付いた。体の回転で引っぱった技ありの一発。そして村上が2者連続で右翼にライナーで突き刺す。後ろの席の女性たちのキャー(歓喜の叫び)で耳がつんざかれ、傘の上げ下げの大嵐に襲われる(ここはヤクルト側)。第1戦も流してレフトに入れたがこれは高い弾道。今年はWBCでおかしくなったが、やっぱり只者じゃないね。この回はヤクルト圧勝の形勢であり周囲は絶叫の嵐。傘を振ってないのは僕だけであり居づらかったがヤクルトファンは東京の人だ、寛容なものである。新人の河野が5回を2三振で抑えた。彼も150km出て村上から三振を取った、楽しみである。田村もセンターにあわやホームランの2ベースを放った。 愛工大名電高、いいのが出てきたぞ、将来クリーンナップは間違いない。逆転した8,9回は島内、栗林が3人づつで締めた。どっちも生で見たのは初めて。島内の速球はぜんぶ150km越えである。この日の席は29列目で比べられないが第1戦の3人並の剛球またはそれ以上の物凄いストレートと思われる。疲れた頃は打たれたがこの日の調子なら真ん中でも打たれないよ。栗林は手の円弧が大きいオーバースローと見えた。150越の剛球に140台、130台の変化球(なんだかは横からはわからない)とたまに120台(これはカーブ)。速いし緩急もありで打てるわけないレベル。これもテレビじゃわからない。青木、塩見、オスナをあっさり抑えて試合終了。感動あるのみ。ヤクルトが9回に投げさせた坂口も154km、いい速球で2三振。ナイスピッチ。

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エラリー・クイーン「シャム双生児の謎」

2023 SEP 12 12:12:45 pm by 東 賢太郎

やっとこさというか、とうとう読んだ。エラリー・クイーンの著名作がこの歳まで未読だったなんて贅沢なことではないか。推理小説の名品はできれば記憶を消してもういちどびっくりしたいが、昨今は犯人はおろかあらすじを見てもさっぱり思いだせないのが結構ある。なんのことはない、望まなくてもその域に近づいている。字が小さいのもつらい。神山先生の診療の帰りにジュンク堂で買ったのは創元社でなく角川のほうだが、なぜなら字がデカいからだ。まあとにかくこれが残っていたのは嬉しい。ちなみに創元社の題は「シャム双生児の謎」で、角川は写真のとおりだ。どっちでもいいが、本稿の標題は昔なじみの前者にしておいた。

何度も書いたが僕の読書歴の端緒は少年サンデーだ。小5でぷつんとやめてしまったのは、ぞっこんだった「伊賀の影丸」の連載が1966年に終わり他には未練がなかったからだ。そこで何を読もうか迷い、しばし図書館に入りびたったことはまだ書いてない。さっきこの頃のことを考えていたら記憶の沼の底からぽっかり浮かんできたのだ。そう、そこで好みの小説を探しまくり、行き当たったのがシャーロック・ホームズ物とアルセーヌ・ルパン物だった。子供の本だから絵本みたいな挿絵があって、それで怪盗ルパンのイメージができた。当時は意外にもルパン派であり、『8・1・3の謎』なんて題名からしてストライクであり、中身は忘れたがわくわくで日夜読みふけったのが懐かしい。しかしそれも束の間だ、全部読んでしまい喜びはすぐ尽きた。

教科書に載るような文学は自分に無縁なことは読まなくてもわかっていた。幼かったせいではない。長じてからだって純文学的人間ドラマのような小説にはさっぱり興味がわかないのである。何か性格的におかしいのでないかと思ったかというとそれもなく、いまふりかえって変な子だったとは思うが、思ってるのは長じた変な子だからそれもあんまりあてにならないだろう。勉強はもっと興味がないし、塾に行かそうという親でもなかった。退屈は嫌だから、読書家の女子に「他にああいうのあるかな」ときくと「『紅はこべ』がいいんじゃない?」ときた。なるほど!妖しそうな題名ではっきり記憶にあるからインパクトがあったのだろう。すぐに質問した。「殺人おきる?」。だめだ。お呼びでない。がっくりきてそれっきり。冒険色と幻想味のある影丸からルパンは筋だろう。そこから紅はこべという彼女の選択はいま思うと図星であって、お見事な推薦である。でも僕の本筋は冒険ではなく殺人だったのだ。

クイーンに漂着したのがいつかはつまびらかでない。中学は片道1時間半と遠かったので帰りに各駅停車に乗って本を片っ端から読んだ。成城に書店はなかったが一橋中学は神保町交差点のすぐ奥で、三省堂、東京堂、書泉など大型書店が並んでいる壮観は夢のようだ。創元推理文庫にそこで出あったことは疑いなく、クイーンは知るべくして知ったと思う。そっちにかまけて授業の予習復習は無視というルーティーンが定着し、成績はいつも低空飛行だったから当時の同級生で僕が東大に入るなどと思った人はひとりもいないだろう。ちなみに秋葉原も徒歩圏内であった。そこに膨大な量を誇るクラシックレコード店がこれまた知の殿堂みたいにそびえ立ち、後に通いつめることになる。僕の読書と音楽鑑賞は一橋中に大きく依存していたわけだが、そこで習ったことではなくロケーションにだったから入れた親父のファインプレーだった。

やっぱり片道1時間半かかった高校では野球の部活に音楽という新たな趣味が出てきてそんなには読めなかったろう。ところが浪人して暇になり、ここから没入してしまって真似ごとの自作まで執筆するに至ったのが理詰め派のクイーンだった。クリスティがそうでもなかったのはロジックが甘いと感じたからである。なんたってクイーンは「読者への挑戦状」をたたきつけるきっぷがいい。探偵と犯人が対決する小説なのに探偵が挑んでいるのは実は読者なのだという構成だ。実はあんまりロジカルでなかったりもするのだが、数学マニアだった僕は「解けるもんなら解いてみな」という風情の短文の設問がお気に入りであり、クイーンは姿勢がそれに似ていると感じたものだ。だから作品というよりも作者がそうした風情(ごっこ)を好む人だなという親近感を愛していたのであって、これは遊びたい猫が遊ばせ方の上級者に寄ってくるのとまったく相似形のことなのである。

エラリー・クイーン「災厄の町」

挑戦状があるのは国名シリーズ(9つ)で、バーナビー・ロス名義の「X/Y/Z/最後」(4つ)はない。探偵であるエラリーの趣味は「野球観戦からクラシック音楽の鑑賞、ミステリ初版本の蒐集まで多彩」(wikipedia)とあり、このことをもって僕は国名シリーズはベートーベンの交響曲(9つ)、「X/Y/Z/最後」はワーグナーの「ニーベンルングの指輪」(4つ)にひっかけたに違いないと解釈している。遊ばせ方の達人なのだ。推理小説とクラシック音楽に親和性があるという人もないという人もいる。僕は前者であり、エラリー・クイーンという人物をそう造形したフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーも、少なくともどっちかはそうだっただろうと思う。メディアである文字と音符をある意図に向けて周到に並べ、レトリックを弄して受信者を説得したり、納得させたりする技法の集大成である点においては両者はほぼ同じだ。恋人の名前を縫い込んだりアナグラムにしたり数字で意味を暗示したり例は枚挙にいとまないが、両者が似ているというよりクラシックの作曲に推理小説と似た側面があるというべきだろう。僕が楽譜を解析したくなる習性があるのは両方とも熱愛するからである。

そこで「シャム双生児の謎」だ。本作は国名シリーズで唯一「挑戦状」がない。それだけが理由ではないが、あらすじや評価にやたらと「異色作」とあったため直球勝負主義の僕は食指が動かず、だから「やっとこさというか、とうとう読んだ」という羽目になったのだ。旅行先のクィーン父子が山火事にあう。雨が多い日本ではあまり聞かないが空気が乾いたアメリカでは日常茶飯事とはいわないまでもそんなに驚かない。カリフォルニアでしょっちゅうニュースを聞いたし、読みはじめたらハワイの惨事がおきた。本作冒頭の凄まじい猛火の描写は秀逸だ。読者の意識を山奥の屋敷にリアルに閉じ込めて「クローズドサークル」を設定するわけだが筆者が意識したかどうか、この冒頭部分はとても「音楽的」であって僕は天地創造や田園交響曲のエコーを聴いている。やがてお待ちかねの殺人がおき、カードを使ったダイイングメッセージがあり、名探偵によるその解釈で読みが二転三転するのは予想通り。11人のうち2人死ぬが、クリスティは本作(1933年)から「そして誰もいなくなった」(1939年)の着想を得たかと想像させる展開である。逆に、上掲の中にあるクイーンの代表作は彼女の「ゴルフ場殺人事件」(1923年)にヒントを得たと僕は考えている。

シャム双子は実在する。題材にしたから成功しているとも思えないが、非日常的なシチュエーション故に生まれた密室をさらなる非現実ワールドにする効果を生んでいる。だから、そこでおきる殺人事件なんてのも本当はぜんぜん日常的でないし、そもそもダイイングメッセージなんて撃たれて仰天して死にかけてる被害者にそんな余裕あるわけないだろというものなのだ。それなのにその描写に至ると「ああやっと普通のミステリーになったな」とどこかほっとするのであって、それがあまりに特異だから「異色作」という評になっていると納得する。この作品は何年たっても忘れることはないだろう。2度だましの犯人指摘がありその都度納得させられるが、これは音楽ならマーラー「巨人」の第4楽章に1度だけある疑似終止を思わせる(こういうのが先述の「レトリック」だ)。ついに飛行機が屋敷を見つけるが救いようがないというメッセージと食料を落として去っていき、万策尽きて屋敷は火に包まれる。強烈なサスペンスが支配する中でエラリーが展開する謎解きはクイーンのお家芸であり、唯一無二の「解答」がコーダとして開示される。この感動と余韻に向けてアレグロで突っ走るのが同作の眼目だから「読者への挑戦状」は出る幕がなかった。そういうことなのだ。

ああこれだ、これが味わいたくて次々に買って読んだっけと涙ぐむほど懐かしい。事実を徹底的に調べあげ、仮説と検証を突き詰め、数学の答案のようにロジカルに犯人を指摘する痛快さ。これを中学高校とクィーンでたくさん楽しんだので、文学的資質はなかったけれど僕はあるべき思考回路に行き着いて今に至っている。だからだろう、現実の世界でケネディ暗殺事件のように、事実を調べず、仮説を検証もせず、その答えじゃなくてもいいでしょみたいな結論を出して「解決しました」ってのは数学の答案なら零点であって僕は性格的にきわめて気持ちが悪く、「その答案でごまかせる」と思われていることが不愉快極まりない。ケネディ事件はドス黒い裏があったなと疑うのが多数派になりつつもあって、仮にそんな探偵小説があったとしても犬も食わないさと高をくくっていた。ところが驚くべきことに食う犬もいるのであって、むしろそっちの方が多いと思い知ったのが2020年の米国大統領選挙だ。

クイーンを生んだ国だ、クイーンがいないはずがない。「こっちの答案を発表したら満点をあげられるんだがね」なんてことでもないとそんな結末にはなりようがないというのが満点の解答だ。我が国にはいるんだろうか?警察にはたくさんいるはずだ。アメリカは腐ったが日本は大丈夫だ。これを日本人であることの誇りにしたい。本国でエラリー・クイーンは半ば忘れかけられているが日本の人気は根強い。そこに希望を持ちたい。

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エッフェル塔の花嫁花婿(フランス五人組)

2023 SEP 10 9:09:16 am by 東 賢太郎

自分でもおかしいと思うが、僕は知らない土地でなんとなく「気」に呼ばれてると感じたことがある。二日酔いだったのではない。心のどこかに潜む深層心理に訴えがあったように思えるがそれは姿でも音でもなく、声や言葉でもない。あくまでふわっとした「感じ」だからこうして文字にするなり雪の結晶みたいに消え、ホントだったかどうか自信がなくなる。

理性でそいつを追っかけると出てくるのはフロイトで、ありきたりの夢の話で片づけられそうになる。妙な夢を見る。起きてすぐ机に向かって日記に書きなぐっているが、それでも数日で忘れてる。深層心理はあってなきものに思える。それをありのままに詩やら文学やら絵やらにするアートが超現実主義(シュルレアリスム)ということになったのが両大戦間あたりだ。でも僕が安土、佐賀、横浜そしてパリ、ローマで白昼に感じたのは夢ではない。

ルネ・マグリット「個人的価値観」1952年

神秘体験と書くと大袈裟だが、そう思ってるのは僕の理性だからそこを無色にしようと提唱者のアンドレ・ブルトンは自動記述式(オートマティスム)を言いだしたかもしれない。彼は音楽をシュルレアリスムのディメンションにはないと排斥したが、そんなことをしなくても音楽には現実という次元がないから「超」えるものがない。あえて認めるなら「複」だろう。

スウェーデン・バレエ団からパリ公演の新しい催し物を依頼された作家のジャン・コクトーがフランス6人組に協力を求めて1921年に作曲が開始されたのがエッフェル塔の花嫁花婿(Les Mariés de la Tour Eiffel)である。デュレが不在のため下記5人の合作となりシャンゼリゼ劇場で初演された。

ジョルジュ・オーリック

ダリウス・ミヨー

フランシス・プーランク

アルテュール・オネゲル

ジェルメーヌ・タイユフェール

台本は誠に荒唐無稽。劇は舞台の両脇にいる狂言回し(ひとりがコクトー)のセリフと音楽で進む。エッフェル塔の一階のテラスの結婚式。将軍が尊大にゼスチャーだけのスピーチを始める。写真屋が「皆さん、カメラから小鳥が出ますよ」と言うたびに次々とダチョウ、自転車乗り、水着の女性、子供、旅客、ライオン、電信オペレーター(エッフェル塔の恰好の女性)が登場する。ライオンが机の下に隠れた将軍を襲って食べてしまい舞台はドタバタになり、参列者は町の雑踏の中に消えていく。wikipediaを訳してはみたがよくわからない。コクトーのコメントによると古典悲劇に現代のダンス・歌・時事風刺を交えた軽喜劇のようなものを意図したようだ。僕が思い出すのはビートルズの「マジカル・ミステリーツアー」なのだが。

「エッフェル塔の花嫁花婿」の舞台

想像だが、コクトーはシュールな劇の筋書き(悲劇に荒唐無稽のドタバタを重ねる)に曲を付帯させることで、アンドレ・ブルトンが否定したシュルレアリスムへの音楽の浸食を画策したのではないだろうか。これがその音楽である。

1.Ouverture (Georges Auric) 00:00

2.Marche Nuptiale (Darius Milhaud) 02:28 

3.Discours du Général (Francis Poulenc) 04:25

4.La Baigneuse de Trouville (Francis Poulenc)05:11

5.Fugue du Massacre (Darius Milhaud) 07:14

6.Valse des Dépêches (Germaine Tailleferre) 09:00

7.Marche Funèbre (Arthur Honegger) 11:34

8.Quadrille (Germaine Tailleferre) 15:20

9.Ritournelles (Georges Auric) 18:24

10.Sortie de la Noce (Darius Milhaud) 20:26

第2,5曲でミヨーが示す複調は相いれない調性が並行して進行するが、これが古典悲劇と現代軽喜劇が並行する物語を象徴する統合されたコンセプトと見ていいだろう。ミヨーの複調はこの曲のためばかりではなく彼のトレードマークではあるが、オーリックの第1,9曲タイユフェールの第6,8曲にも現れ、プーランクとオネゲルは他の3人ほど明確ではないが複調とも取れる部分があるからである。

複調(bitonal)と多調(polytonal)は紛らわしいが、前者はbiが2つで後者はpolyが複数(2以上)というだけだ(ミヨーはどちらもある)。不協和音を発生させるので聞きなれないと苦しいが、各々の調で和声または旋法の力学が働く音楽であり、縦に不協和だが横には12音技法の各音の平等性はない。ミヨーの室内交響曲第2番をお聴きいただきたい。

この音楽を僕が美しいと思うのはペトルーシュカのハ長調と嬰ハ長調の複調から耳をじっくり作ってきたからだ。「クラシックは誰でもわかりますよ」といえば簡単に優しい人にはなれるが害もある。そう思わなければ「誰でも」の一員でないですよと、実は酷なことを言ってもいるからだ。関東人が鮒ずしを、関西人が納豆をおいしいと感じるには一応の経験がいる、それに似ている。僕は子供のころトロとカボチャがだめで、それはなんとか克服したがいまだにハモとゴーヤは苦手だ。そういうものは、それこそ誰にもある。

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甲子園のおみやげ

2023 SEP 8 12:12:29 pm by 東 賢太郎

「2回も記事にしていただいたので」と、友人の柏崎さんが甲子園のおみやげをくださった。争奪戦で貴重品のようだ。東京から応援に3回も往復されたそうで、母校が出場しただけでもうれしいだろうが優勝という人はざらにはなく、OBがそろってそこまで熱中できるものがあることが羨ましい。

個人的にも、うれしかった。まず、まっさらな硬式球は何十年ぶりか。なにせ高校時代、毎日これを握って寝ていたのだ。慶応はまったくの他人でもなく、祖父と娘がお世話になってる。特に祖父は大学の野球部でアメリカに遠征まで行ったらしいから喜んでいるだろう。

柏崎さんとのきっかけはブログを見て会社まで会いに来てくださったこと。たしか6年ほど前だったか、金融のキャリアでネコ好き野球好きというのもあるが、拙文をよく読んで下さっているのに頭がさがったこともある。ご縁というのは摩訶不思議なもので、今の我が身をふりかえると自分の意志や努力だけでこうなったというものは2割ぐらいしかない。8割は誰か何かのご縁から延々と発したものの結末で、要するに「あの偶然の出会いや思いつきがなければこれはない」というものだ。

ありがとうございます。母の仏壇に置かせてもらいます。

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「今だけ金だけ自分だけ」の議員は落とせ

2023 SEP 2 13:13:52 pm by 東 賢太郎

読響のコンサートには地下鉄で行った。マスクの人は2,3割でずいぶん減ったものだ。サントリーホールは中高年が多いが、それでもマスクなしの方が多い。ここ1,2か月で東京はコロナを忘れてしまった観がある。

僕が最初にこの疫病に関する情報をもらったのは2020年の2月。米国からだ。ウイルスは人工物で、ワクチンが出るが絶対に打つなというものだった。ソースは書けない。信じるしかない先であり、それで疫病の恐ろしさは知ったのでその旨をブログにし、万一に備えトランプが服用した薬をもらいイベルメクチンも購入した。これも書いたと記憶するので注意深く読まれた方はご存じと思う。

目下、WHOは変異ウイルスEG.5につき警告している。WHO(世界保健機関)が言ってるというともっともらしい。しかし、これはいくら強調してもしきれないが、今はもっともらしい人が言ってることこそ注意が必要という困った世なのである。ニュースはテレビと新聞だけという方々は、非常に高い確率で、もっともらしく見える人々の言説ですでに洗脳されているとお考えになった方がいい。

EG.5について今のところ僕に情報はないが、

とパソコンでYahooかGoogleに打ち込むと興味深いビデオ(ニコニコ動画)が出てくる。高齢者はユーチューブやニコ動などのネット動画をご覧にならない方が多いと思うが、視野を広めるためにもご自身の命を守るためにも聞かれたらいい。ちなみにネット動画は玉石混交だ。及川氏は政治家であり、いかなる政治家もポジショントークをしているのだから僕はその言説を頭から信じることは一切ない。ただ、彼がそう説くには根拠が必要で、そこで嘘をついたら説得は成り立たない。時代は権力があれば説得できてしまう歪んだ方向に傾きつつあり、権力のない少数派やフリージャーナリストは真実を根拠に語らなくてはより無力になる時代でもある。賢明な皆様はそこに真実の手がかりを見つけ、自分で考えてWHOお薦めのEG.5ワクチンを打つかどうかを決められたらいい。それで何かあっても国は面倒を見てくれない、そういうことだ。

2020年にこの疫病が流行り出してから世界は「おそろしく妙なこと」になっている。医学や薬は素人だが株式市場でびんびんそれを感じる。極めて異常な状態が3年も続いており、そのこと自体が異常なのだ。しかし皮肉なものだ、その原因を知ったので僕はむしろ安心して投資ポジションが組めて株も為替も順調だ。だから「ごっつぁんです」で終わってもいい。しかし、性格は変えられない。自分が儲からなくてもいいから日本が平穏であって欲しいと切に思うのだ。以下に述べることは誰かにもらった情報ではない。僕の仮説だ。仮説は矛盾が出るまでは真実かもしれないし、そうでないと分かれば訂正するがいまのところ矛盾はないように思う。立場を明らかにするなら、僕は自民党を支持したこともしなかったこともある日本国の有権者だ。

グローバリスト、ネオコン、ディープステート。こう聞くと「陰謀論だ!」と条件反射を示す人が日本には多い。それは結構だが、ひとつだけ確実なのは、それを言った瞬間に思考停止になることだ。だからそういうことを日常からしていると必然的にその先は何も考えられない人になるわけで、望んでそうなりたい人はなればいい。僕は多くの若者にそう説いてきたが、それでいながら自己嫌悪に陥っていることから本稿を書きはじめねばならない。なぜなら米国のウォールストリートや英国のシティはグローバリスト、ネオコン、ディープステートのど真ん中の地であり、そこで長年仕事をしてグローバル証券界にずっぽりとはまって育った僕はそれのまたど真ん中の人間だ。そのキャリアで生きているのに、その連中が世界を妙なことにしていて、日本があまりに無力、無抵抗にその波に飲みこまれつつある。これでは子孫はどうなるのか、一抹の罪悪感を覚えるのだ。

グローバリスト、ネオコン、ディープステートは世界の国に巣食っている。米国の民主党はその巣窟だ。米国という国家自体がそうなのでなく寄生されている。宿主の脳に棲みついて操り、自らに都合のよい行動を取らせる寄生虫に似ている。2020年。大統領選があった。トランプ有利の予想だった。まず疫病で世界が騒然となって郵便投票の利用が大幅に増えた。それで得票を伸ばしたバイデンの勝利に不正が疑われ、トランプが訴追した。しかし、驚くべきことにCIAもFBIも警察も裁判所もテレビも新聞もツィッターも全部が結託してトランプの声を封殺し、逆に逮捕し、不正はなかったことになった。

これ、どこかの国で去年の7月から起きていることと似てないだろうか?

変異ウイルスEG.5はWHOがワクチンパスポートを加盟各国に求めるといわれる。打てということだ。来年11月にまた米国大統領選がある。民主党はバイデンは見限りオバマ夫人を出すという説がある。いずれにせよトランプ相手でどう見ても劣勢だが、どんなことをしても絶対に勝たなくてはいけない。次回もまた壮絶な不正が堂々と行われ、もみ消されるのだろうか。寄生虫が国家にどう入り込むか、増殖するかは一様でないが、権力と出世とカネが餌と考えて凡そは括れるだろう。そこに暴力(戦争、暗殺)による脅迫、恐喝が加わるほど事態は悪化している。国家に一元的に委託された暴力装置(軍、警察)にまで権力と出世とカネで寄生が進むほど病 膏肓に至っているならイカサマ選挙など如何ほどのものだろう。仮に国民にばれてしまっても、全マスコミが沈黙し、後に、そのような証拠は確認されなかったとグルになって報道すれば「なかったこと」にできてしまう。そういう現実を去年から日本のそこかしこで目の当たりにしていることをアンテナの高い人は納得されるだろう。テレビと新聞しか見ない方々はもっともらしく見える人々に洗脳されて気がついておられないかもしれない。

アクイリノ米インド太平洋軍司令官と岸田総理

日本は昭和26年に独立国になったことになっているが、国連憲章の敵国条項は改正されておらず、防衛は安保条約で米国に依存し、米軍は日米地位協定に基づき基地を置くことができる。だから18県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な空域の航空管制は横田基地で行われており、日本に制空権はない。恥ずかしながらこれを30才ぐらいまで僕は知らず、どうしてロンドンから帰国すると成田空港に海を迂回して着陸するのかと不思議に思っていた。

日本の交渉相手は米軍であり、両者による日米合同委員会だ。『日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている』(「知ってはいけない」矢部宏冶著より)。この構造からすると、日本国総理大臣の同格の相手(カウンターパート)は米国大統領ではなくインド太平洋軍司令官(マッカーサーに相当)か国務長官(キッシンジャー等)というところだ。ちなみにサンフランシスコ講和条約の署名者は日本では内閣総理大臣の吉田茂だが米側はトルーマン大統領ではなくアチソンら全権団であった。

バイデン大統領は、歴史的にも構造的にも岸田総理は日米合同委員会を通じて差配できる存在と考えているふしがある。現にG7では横田基地から通関なく入国し、政治資金キャンペーンで有権者に向けて「私がキシダに軍事予算を増額させ、ウクライナ復興支援金の拠出を確約させた」「韓国と和平の手打ちをさせた」と演説している。「させた」である。彼はキシダをpresident(大統領)と呼び間違えるぐらいの認識しかない。日本は昭和26年の条約調印をもって国際法上は独立国であるが、安保条約に基づく日米地位協定をたてに総理は米インド太平洋軍司令官と同格なのだから忠実なしもべであれと米国にふるまわれれば、それとこれとは違うと日本側が主張しても法的根拠のないパワーゲームになるだけだ。正規軍も核もない国がそれに勝つ見込みはない。愛国心や大和心で勝てるわけでもないのは江戸末期の尊王攘夷運動を見ればわかる。その決着がどうだったか。薩長が英国に靡いて武器援助を得て幕府を倒し革命政権を樹立した。それを我々は明治維新という美名で習っているが、英国の末裔であるグローバリスト、ネオコン、ディープステートは今もそれと同じことを朝鮮半島、ベトナム、アフガン、イラク、アラブ諸国など非白人国で行い、スラブ系のウクライナもまさにそうであり、すべてのケースで多くの民間人が命を落としている。

よほどの力量の総理でなければ押し返すことは困難と思われ、従わない者と判を押されれば田中角栄のようになる。国民の人気など関係ない。総理がしもべなら官僚も警察官僚も自衛隊もであり、そのしもべであるメディアも当然そうである。安倍元総理亡きあと明確なしもべ路線に徹した岸田総理は米国のためにいい仕事をすればするほど日本国民のためにはならず、したがって、事の必然として政権支持率が下がる。しかし、グルであるメディアはヨイショ記事を書くし、野党はビジネス野党に徹すれば安泰に生存できるのでお得意の舌鋒もなく、政権をうかがえる現実的な野合の動きすらない。よって、国民に何を言われようとバイデンからの評価は上がるのだから岸田政権は安泰だ。極論すれば支持率0%になっても選挙まではもつから、総理が再選を諦めれば怖いものはない。あと1年であらん限りの利権を固めれば人生の帳尻は十分すぎるほど合うだろう。岸田おろしをあからさまに仕掛ければその者は米国の意図に逆らったとして消されるから絶対権力に守られている。だからどんなスキャンダラスなニュースが出ようと野党は沈黙し、メディアは政権に都合の悪いことは一行も書かないのである。

バイデンからすれば日本の政局など猿山のボス争い以上にどうでもいい。木原氏の問題もそうだ。米国にとって彼は英語を意のままに操れ、聡明で話が早く、財務省に顔が利く有能な工作員である。総理だけでは日本国の財布のひもは緩められないことを知っているバイデン、エマニュエルから彼が評価される限り、しもべだけでは政権がもたないことを知る総理は彼を切れないだろうし、もし財務省を動かして国会で予算案を通せないなら彼は用済みになるだろう。先日の訪米はだから彼を随行させたのであり、本題は福島の処理水問題はアメリカがお墨をつけてやるからうまくやれ、韓国とは米国の兵器を使って仲良くやれ、そして両国でウクライナに大金を出せ、というものだったのではないか。功労者ゼレンスキーはもう着地体制でイスラエルに10億円の豪邸を建てているらしい。しもべの役得これにありで、だから魂を売っても耐える者が続出するのであり、こうして各国の内部に寄生は拡大するのであり、そうとは知らぬ乗っ取られた国の民は悲惨なことになる。日本でそんなことが起きる未来など想像もしたくない。

キメラ

野党が万一政権を取ったところで猿山の話である。日米地位協定に基づいて新たなしもべになるだけで国の劣勢は何ら変わらない。小物がせめぎ合ってる安倍派が森元総理の顔色をはかってキメラの如き奇怪な五頭体制になった。三頭でも結託は難しいから三権分立という仕組みがあるのだ、そんな組織が一体としてワークした話は古今東西きいたことがなく、それなら森派にしろよと国民の失笑を買っていることに気がつかないのだからエッフェル姉さんと大同小異である。維新、公明の勢力争いなど猿山はにぎわっているが、どうでもいいことで飯を食ってるこの先生たち、どうしたらバイデン大統領のしもべ、エマニュエルさんのポチになれるのかが出世のポイントなのだ。だから与党も野党もない。日本文化などかなぐり捨ててLGBT法を通すのである。寄生虫はこうやって日本に入り込み、増殖する。この風景を眺めて「陰謀論」で片づけるのが思考停止であることはお分かりと思うし、そう吹聴するのは国民に思考させたくない意図があるからだ。

もう一度書く。米国の民主党はグローバリスト、ネオコン、ディープステートの巣窟である。その先兵であるエマニュエルさんのポチになりたい議員が「保守」(ナショナリスト)を自称するなど論理矛盾だぐらい今時の小学生でもわかる。ほとんどの議員がLGBT法に反対しなかった自民党はもはや極左政党に他ならないが、そんな批判をしたところで米国民主党の圧力を別の総理ならかわせたかという問いになるだけであり、人材がないなら自民が右だろうが左だろうが事は解決しない。ということは既存の政党はもはや本来の使命を達成できる存在でなくなっているということであり、常識と力量のある個人が超党派でそれを立ち上げるしかないだろう。立憲ではあるが極めて稀な発言をしている原口議員はポチ狙いの連中を「今だけ、カネだけ、自分だけ」と評している。金儲けしたいなら自力で稼げばいいのであって、その能力もなく税金にたかるだけの人物を国会議員にしてはいけない。誰が総理になっても今のままでは日本の未来を救うことはできそうにないが、そんな連中をしてしまったら権力・出世・カネと引き換えに日本国の末期の到来は加速されるだろう。国会議員定数を半分にできないなら、半分は二世三世の勘違いした人物でなく、国のために命をかけてくれるまともな人に入れ替えるべく有権者が投票所に行くしか手はない。

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

日本人に砒素のように効くLGBT法

キッシー息子くんの楽しい忘年会

大統領選挙のための日本ポチ化計画

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上岡敏之のブルックナー8番を聴く

2023 SEP 1 17:17:08 pm by 東 賢太郎

指揮=上岡敏之

ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調

(サントリーホール)

この日はローター・ツァグロゼクが振る予定だった。この人、4年前に読響に来て7番を振って、何の期待もなく聴き、こんなことは滅多にないが「かつてライヴで聴いた7番でベスト」と書くことになったのである。

ツァグロゼクのブルックナー7番(読響定期)を聴く

「録音していたならぜひCDにしてほしい」とまで書いた(なったようだ・左)。最後の3つでいいから彼が振るのであればそれだけのためにドイツに行ってもいいと思ったから、読響のプログラムを見てよくぞ呼んでくれた!とすぐに「名曲シリーズ」を申し込んだ。

そうしたら先日、ツァグロゼク体調不良の知らせが届いてがっくりきたのだ。こういうことは過去もあった、朝比奈隆、イングリット・ヘブラー、メナヘム・プレスラーがそうだった。仕方ない、氏のご健康を祈ろう。僕のようなブルックナー・ファンの方は多かったのではないか。だから、代役でこの演奏会のために来日した上岡敏之は大役だった。

ブルックナーはまず弦である。質量感のある弦5部がどっしりと広がってその上にピラミッド状に管が定位するサウンドがないといけない。金管ばかり目立ってもだめなのだ。ドイツでたくさん聴いたせいかどうも日本の楽団はそこが物足りない。もっと言うと、弦のアインザッツが律儀に揃っていてざざっとならない(これが必要なことはフルトヴェングラーがどこかで言っていた)。モーツァルトは揃わないといけないが、森を歩いて枝が風に揺れて葉っぱがざわざわする感じというのは欲しい(ブルックナー開始もその一種だ)。シカゴ響などアメリカの楽団もうまいがざわざわがなくて透明感がある。他の作曲家なら長所なのだが、僕はブルックナーではそれが物足りない。

上岡の意図かどうか、昨日の読響の弦は適度にざわめきがあり、低弦に抜群の質量感があり、内声(第2Vn、Va)が充実し、実に素晴らしいブルックナーサウンドの基底を作っていた。ホルン、ワグナーチューバもやや暗め、重めで粘り気ある音はふさわしく、総じて管弦のドイツ的なバランスが抜群であり、日本の指揮者、オーケストラでこういう音はあまり記憶がない。8番という曲はどうしても録音が難しいようで、それは弦の質量が風圧となって迫ってくる感じがマイクに入らないからであり、楽想が霊感に満ちていてピアニッシモのニュアンスも不可欠だが、これもマイクに入らないのである。版にこだわって細部を楽しむ人もいて、その場合は録音でも楽しめようが、僕はハース版で正攻法が好みでありどうしてもライブでないといけない。

上岡敏之は初めてだったが、結論として、素晴らしい8番だった。

 

ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(2)

2023 AUG 29 22:22:31 pm by 東 賢太郎

第2楽章について述べる。僕はこの楽章全部を母の葬儀で流した。何故かは音楽が語ってくれるだろう。メメント・モリという言葉がある。「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」というラテン語で、「避けることのできない死があればこそ今を大切に生きられる」という意味だ。スティーブ・ジョブズはこう言った。「自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安、これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです」。

音楽は静寂で温和なニ長調で始まる(楽譜1)。煉獄の炎のようなニ短調で閉じられた前の楽章の、その同じ二音のうえで、天国を浮遊するような甘美な空間にぽんと放りこまれた感じは何度きいても都度に美しく新しい(楽譜1)。弦と2本のファゴットだけで奏されるアダージョの柔らかな音楽は心からの安堵にいざなってくれる。短2度の軋みが所々やってくるのだが、それが成就せぬ恋の痛みへの密やかなスパイスともなっている。

(楽譜1)楽章の冒頭

ピアノがひっそりと入ってくる(楽譜2)。ホルンが合奏に加わると音楽は徐々に感情の熱を帯び、短調で激するとまたとなき気高き頂点に昇りつめる。そこまで至って一切の世俗に交わりも陥りもしない音楽というものを僕はほかにひとつも知らない。ここを弾くことは僕にとって人生の桃源郷であり、あの世との境目もこんなならばその日も聞いていたいと願うのだ。

(楽譜2)二台ピアノ版(第1がピアノ)

ベートーベンが楽章間(アレグロから緩徐楽章へ)で緩急だけでなく調性のコントラスト(3度関係)を導入したことは多くの本に書かれている。交響曲では第1、2、4、6、8番は古典的な4,5度の近親関係だが、エロイカは短3度下の長・短(並行調)であり運命と第九は長3度下の短・長である。長3度上の短・長であるピアノ協奏曲第3番、長3度下の長・長である皇帝は現代の聴感でもインパクトがある(第九の第2楽章は調号としてはニ長調で終わるので外形的には皇帝型である)。ここで運命にはもう一度言及が必要で、第3楽章へは長3度上の長・短であり、終楽章へは同名調(0度)の短・長(例なし)である。運命はここにおいても革命的であり、一般に「闇から光へ」と形容されるハ短調からハ長調に一直線に進む様は理屈で語るならばそういうことだ。

ちなみに同じことをした交響曲がもうひとつだけある。第7番だ。同名調(0度)の長・短と逆向きを行っていることが第2楽章の冒頭和声(イ短調)で宣言されるが、なんと印象的なことだろう。第3楽章は主調と関係ないがイ短調とはある(長3度下)ヘ長調で、その和音 Fで終わって終楽章イ長調のドミナントであるホ長調 E(半音下)が鳴る舞台転換の味は同曲のハイライトと思う。

ブラームスP協1番第2楽章はその同名調転調(0度)の短・長の方(7番型でなく運命型)なのだ。ただ、これがブラームスの発明かというと先人が存在する。シューマンだ。

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

ラインは1851年初演であり、P協1番の改訂過程で第2楽章が加えられたのは6年後の1857年である。その楽章はクララへの愛情の直截的な吐露であり、その前年の1856年に亡くなったシューマンへの哀悼でもあるというのが私見だが、その可能性は高いと考えている。前項では第1楽章冒頭のティンパニに言及したが、第九の第2楽章のファの調律は第3音であり(トレモロではないが)、闇から光への運命型の同名調転調も先人の成果の継承であり、シューマンを父としベートーベン(さらにはJ.Sバッハ)を父祖と仰ぐブラームスの姿勢は20代の初めから終生変わらなかったことが伺える。

この変わらないことをバーンスタインは orthodoxと形容したが、何百年も人々が愛好し守ってきたものが一朝一夕に変わることはない。昨今は古き良きものより新奇で刺激的なものを求める価値観が幅を利かせているように思えるが、ブラームスの音楽こそ orthodoxの意味を教えてくれるだろう。彼の同名調転調がどれほど新奇であったかは当時のパラダイムを知らずに即断はできないが、それから166年の時を経ても何ら古くなっていないことは、こうして現代人の僕が感動していることで一端を証明していると思う。そういうものをオーソドックスと呼ぶのである。芸術を受容する社会というものは英国の哲学者ハーバート・スペンサーいわゆる社会進化論によれば、個々人の自由意志と欲求の集合的動態の末に変容する。したがって好まれる芸術もそれにつれて変容はするだろう。しかし、芸術に技法の進化はあっても古いものが古い故に価値を失うことはない。ブラームスの楽曲に速度指示がないからといって、時代が忙しくなったからテンポを上げて演奏しようという理由はないように。

シューマンへの哀歌はこれだ。

左手は8分音符12個、右手は3連符18個で2:3の音価になる。この3を2つに割るリズムは第1楽章コーダの運命楽句で高速で行われ興奮の高まりを演出するが、ここではおぼつかぬ足取りでぽつりぽつりとびっこをひくように歩く灰色の異界である。dolceとあるが甘さはない謎めいた時間がしばし流れる。3連符という3つの音のくくりは絶えず運命リズムに縛られている。

するとクラリネットに3度と6度の運命リズムによる悲痛な調べが現れる。

木管全部がfの運命リズムで呼応する。訥々と独白していたピアノはついに堪えきれず感情を迸らせ、哀調を帯びる。クラリネット主題がオーボエで再来し、繰り返すとロ長調に転じ、やがて冒頭のクララ主題が再現する。

すると木管とホルンにト長調の主題がffで現れる(楽譜は1番フルート)。

シューマン主題が再現し、ピアノがベートーベンのP協4番を思わせる重音トリルを奏でると、冒頭主題によって音楽は静寂の中に消えてゆく。

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15

2023 AUG 25 0:00:25 am by 東 賢太郎

この半年、仕事がタフで疲れているが何かしていないとボケるのが怖いということもある。晴耕雨読では危ないので仕事の負荷ぐらいが丁度いいが、体はともかく精神的に疲れて限界となるのが早くなってきた感じがする。こうなると心の漢方薬が欲しくなる。まず旅に出て温泉につかりたい。感染の恐れで3年も封じられたから飢えもある。そしてもうひとつ、いつでもどこでもコロナでも、そこに在ってくれたのが音楽だ。こんなに頼もしい薬がどこにあろう。

薬といえば3才の頃からエビオスが好きであったことは書いた。最近また食べているが、そう、飲むのでなくポリポリ食う。妙な話だがこれ、ブラームスの味だなぁと思わないでもない。ビール酵母がいい塩梅にほろ苦く、ミネラルやアミノ酸もあるらしく、体が滋養になると判断するのかなんとも旨く感じるのである。

ブラームスの音楽もほろ苦くて滋養の旨みがある。ただし、そっちに気がつくのは30代になってからで遅かった。好きになると僕は習性で旨み成分が何なのか楽譜を調べたくなる。彼は周到に音をcompose(構築)する人である。一般に、技術で作ったものはリバースエンジニアリングが可能といわれるが、どう突き詰めても滋養成分の痕跡が見つからないから不思議な人だ。新ウィーン学派もブラームスがした音組成方法の発展的踏襲を試みたがだめだったように、彼の音楽はイメージとは違いエンジニアでなくアートの領域に重きがあるのかもしれない。音符ではあるが音符にならないもの、とするとオカルトめくが「霊感」とでも呼ぶしかないものではないかという身もふたもない結論になる。

20才のブラームス

彼が24才で完成したピアノ協奏曲第1番Op.15について書きたくなったのは先だって行った3泊4日の出張旅行の間、常に頭で鳴っていたのがこれだったからだ。直前にワイセンベルクのCDでこれを聴いたせいだろう。まぎれもなく霊感に満ち満ちた曲だ。こういう曲は彼自身二度と書けなかったが、それはシューマンの死、そして未亡人クララへの恋情という特別なものを源泉としているからとされている。ただ、そう解釈すれば文学的に美化はされるのだが、彼は終生、音楽をそういうものとして世に問うたことはないと考えている。逆に深堀りして難渋な要素に個性を見る人もいるし、後期ロマン派なりの前衛性を論じる人もいる。そうだろうか。彼はロマンに浸れる耳障りの良い音楽を書こうと思ったこともないが、重箱の隅まで調べないとわからない音楽をめざしたこともないだろう。私見ではとてもロマンティックな人であり、見目からも女性の注目を浴びただろうが、生い立ちや家庭環境から素直にそれをあらわし享受することが能わなかった。屈折と言って良い。クララは14才も年上だったからよかったが、親交のあった何人かの同年配の女性ではだめだった。

若いブラームスには自己顕示欲、功名心の如き俗な欲望がたっぷりとあった。あったから世に出ている。僕はピアノ協奏曲第1番ニ短調Op.15ほどそれをあからさまにし、クララへの抑えがたい野心も、それを自制しようと内面で蠢く戒めと諦めもがあちこちでぶつかりまくった音楽はないと考えている。特に第1楽章だ。破天荒にそれが丸裸になり、8つも主題が提示され、その各々が自分だけで展開を始めてしまったり、素材が剥がれ落ちて別主題になったり、ほかのそれとねんごろに絡まり合ったり別々な楽器で闘争になったりもする。自分が弾く想定だからピアノの超絶技巧を誇示もするが、メカニックなものはカデンツァが不要なぐらいに内製化され、そう聞こえないよう縫合されている。ソナタの定式で2つの対照的な主題がしていたことを8つの組合せの展開をもって、これでどうだという極限まで情熱を語りきり、彼女以外の人にも度肝を抜くインパクトは与えられただろうという充足を示して第1楽章を閉じる。そのコーダは音楽が内奥から赤々と熱し、短調のまま重たいコードをその重みのままに、楽譜にはないドイツ音楽特有の生理的なリタルダンドをして停止させる。その様は交響曲第4番第1楽章のコーダを予見している。

そこまで満を持し、ヨアヒムやクララの意見も入れたにもかかわらず初演は不評で、自身がピアニストをつとめたライプツィヒの演奏会は俄かには信じ難いが拍手をおくった聴衆はわずか3人だったという言い伝えもある。その後も理解されるまでに時間を要し、初めて相応の評価を得たのは3年後にクララが独奏をつとめた演奏会においてだった。僕自身、2番は好きだがこれはどうもという長い期間があった。第2、第3楽章もそれはそれで見事な創意にあふれてはいるが、初聴で否定されたり理解に時間を要する性質の音楽ではない。問題は第1楽章にあっただろう。僕が目から鱗が落ちるようにその楽章を “理解” し、一生離れられなくなったのはロンドンでスティーブン・ビショップ・コヴァセヴィッチがアンタール・ドラティ指揮ロイヤル・フィルと弾いた演奏会だった。彼のピアノが登場しニ短調のモノローグを訥々と紡ぎ出した瞬間に、電流が流れたようにこれがブラームスだと全身の細胞が納得した。ある曲を好きになった場面がこれほど明確な例は他になく、1986年11月23日のロイヤル・フェスティバル・ホールの座席からの景色も空気も今なお脳裏にある。

ではなぜ長年聴いていたのにその日までそれに気づかなかったのだろう。第1楽章のどこに問題があったのだろう。これはブラームスではなく僕の問題かもしれず、自分を知る意味でチャレンジングな試みだ。問題はどこか1か所でも数か所でもない。全体だ。全部を耳にしてそう印象が残る風に有無を言わさず書かれてしまっていて、そうした混沌を残してでも削りたくなかった音符の堆積によって混沌ができているという始末だ。それを彼が認容したという事実しか我々は知りようがない。ブラームスが凡庸な作曲家ならこんな時間は割かないが、何者かを僕は知っており、24才でも彼は彼だと確信しているからこうして書いておかなくてはと抜き差しならなくなっている。

以下、第1楽章をスコアを前にリフレーンし、順ぐりに感じることを言葉にしてパソコンに打ち込んでいった。時間の関係でピアノを使ってないので誤りがあったらご容赦をお願いしたい。この楽章の20数分を「走っている列車の車窓から眺める風景」と見立てるなら僕の目に映るのはこんなものだということを残すのが本稿の目的であり、これは評論でも解説でもなく自分史であることをお断りしたい。

まず、第1楽章にはいきなり謎が立ちはだかることから書こう。冒頭の標語はマエスト―ソ(Maestoso、荘厳に、威風堂々と)しかなく、速度が書いてないことだ。A tempo Maestosoとあればアンダンテとモデラートの中間のテンポ(およそ80~90)になるがそうは書いてない。演奏家にとって難儀だろうと思うのは、同曲はピアノと管弦楽が拮抗してどちらもが主役であるからだ。冒頭主題(楽譜1)は曲中に何度も現れ、それが毎回違うテンポということはあり得ないので最初の速度設定が全曲を支配してしまい、8つもある主題の各々に一家言あるピアニストにとって受け入れがたい場面が発生するという困った事態があり得る。ブラームスに一家言あったカラヤンがこの曲に手を出さなかったのはそれだろうかと想像するし、グールドと共演したバーンスタインは舞台に現れると聴衆に「私はグールド氏の解釈に同意はしない」とスピーチしてから演奏を始めた。俺は伴奏屋でないと宣言したわけだが、では指揮者に服従してくれるピアニストがいいかというとそれでは肝心のソロパートが物足りないというジレンマをこの曲は内包しているのである。それがアーティストにとって甚大な問題であることを示すバーンスタインのウィットに富んだスピーチをお聴きいただきたい。

まだピアニストが登場していないことは「皆さんご心配なく。グールド氏は(キャンセルではなく)追って登場されます」の皮肉に富んだ口上でわかる。彼はまず unorthodox(一般的でない)とグールドの解釈が自分には受け入れ難いという核心をストレートに表明し、聴衆のみならずニューヨーク・フィルの団員に対して自分の芸術家としての譲れぬ立場と威厳を守る。これがスピーチの本当の目的である。巷ではバーンスタインはグールドのテンポが「遅すぎる」と言ったことになってるが、お聞きの通りそれは誤りだ。やんわりと批判しているのは remarkably broad tempi(著しく幅のあるテンポ)及びブラームスの強弱指示からの乖離の2点である。tempi(複数形)だから「遅さ」でなく「振幅」だと論点をずらしている。普通の聴衆が驚くのはテンポだろう(日本でその通りになっている)から大事な点であるが「ブラームスの速度指定はない」とグールドに反論されれば分が悪いからその論点は避け、ブラームスの強弱指示からの乖離の方は問答無用で罪深く、受け入れられないと絶対に勝てる批判を巧妙に展開しているのである。とはいえグールド氏は思慮深い演奏家でその解釈は新鮮で啓示を受けると持ち上げて大人の寛容さを見せることも忘れないと思えば、ミトロプーロス(バーンスタインの師匠だ)によれば音楽にはスポーツ的な快感もありますしと気づかれぬように貶めてもいる。演奏にご不満があっても私の責任ではありませんよと批判の火の粉が自分に及ぶリスクをつぶしているわけだが、「まあこういう場合、一般にはソリストを変更するかアシスタントに指揮をまかせるのですがね」と人事権は自分にあった、つまり私がボスなのだが任命責任はないとほのめかしつつ、「ただし、そういえば以前に一度だけ気が合わないピアニストの解釈におつき合いして難儀したことはあるのですが」と述べ、それは前回(昨日)のグールド氏との演奏だったと笑いを取って決定的なマウントを決めている。バーンスタインが恐ろしく頭の切れるエンターテイナーで弁護士かビジネスマンにしても一流だったことをうかがわせる意味でも面白いスピーチだが、ブラームスの指示なしの罪深さも大きいことがよくわかる。グールドは指定なしを真摯に解釈して自己主張を試みたのかもしれないが、ピアノパートに全体とは調和はしないが自分なりの美を見つけていて、orthodox なテンポでは聴衆に気づかれずに通過してしまうのが耐えられなかったのかもしれない。

この曲、出だしについてもうひとつ述べる。初見参の血気あふれる強烈なユニゾンの一撃で始まる。音名はホルン(Hr)、ティンパニ(Tim)、ビオラ(Va)、コントラバス(Cb)による二音(レ)である。交響曲の初見参であった第1番ハ短調Op.68も全楽器がfで強奏するハ音(ド)のユニゾンの一撃で開始するから同じことをしているように見えるが、決定的な違いがある。交響曲のハ音は主調(ハ短調)の三和音の第1音(ドミソのド)だが、協奏曲の二音は冒頭主題(楽譜1)の和声(変ロ長調)の第3音(ドミソのミ)だ。ピアノ曲で第3音をバスにして強打することはあっても、管弦楽で Tim が延々とトレモロでそれを強打する曲は知らない。第3音と異質な第1,5音の完全五度が際立ってしまい空疎に響く荒削りなスコアリングと聴こえる。

(楽譜1)

主和音の分散である単調なテーマゆえ転調しないともたない。エロイカの冒頭主題もそうだが、そこでベートーベンが見せた技の冴えはない。用意している Tim は古典派同様の2つ(二とイ)だけだ。トレモロが途切れると音響的におかしくなるので、二とイの制約内で音を出し続けるしかない。そこでバスをC#に半音げてイ長調に持ち込めばTimは安定した第1音であるイ音(ラ)を叩けるわけだが、変ロ長調➡イ長調という無理な転調はコンチェルトの曲頭に異質でいかにも不安定だ。さらに主題はバスが半音ずつ下げてCdim, Bdim, B♭dimと減七和声ごと無理くりな並行移動を見せる。Tim が和声的整合性は何ら感じさせないものの一応は不協和ではないという最低の必要条件を満たすイ音、二音のトレモロで、力業で正当化してしまい、ニ短調に落ち着くのである。ブラームスに不遜とは思うが、以上の印象は良くない。ならばTimを加えるか使わないかで別な解決があったのではないかと思ってしまう。おそらくこれがこの曲を敬遠していた大きな理由だろう。

先を聴いていこう。チェロの分散和音に乗って、それから派生した切々と訴えるような旋律を第2クラリネット(Cl)と第1ヴァイオリン(Vn)が歌う。

(楽譜2)(B管クラリネット)

これはいったんニ短調からイ短調に転調し、Cl は Va に交代する。旋律は天使のように高く高く飛翔してゆき、Vnの最高域で中空に留まったままになる。減七の和音を駆使した経過句を経て、まだ始まったばかり(たったの44小節)なのに音楽は消えてしまう。切々とした訴えを諦めてしまったかのようだ。

その沈黙の中を、地底からの啓示のように低弦(Vc、Cb)が f – a – c – e – f(ファ、ラ、ド、ミ、ファ)という5音上昇音列を静かなレガートで奏でる。バッハのマタイの短2度を含むこれは非常に印象的で、宗教的な沈静と共にさらに上に登る期待をも含む。

恋情は復活する。5音に続いて哀愁と憂いをたっぷり含んだ新しい主題(楽譜3)が管とVn に現れる。調性は直前のイ短調の半音上である変ロ短調(これも並行移動)である。弦は三連符で心がさざ波だっている。この主題は楽譜2から派生しており、楽章の各所にそれとなく現れて憧憬と悲恋の哀感を漂わせる。このメランコリックな旋律は素晴らしく、最晩年のクラリネット五重奏曲に通じるものがある。

(楽譜3)(B管クラリネット)

次いでこの主題がVnの分散和音になってぼかされると、2本のフルートがオクターブで5音上昇音列をくっきりと歌い上げいったん音楽を鎮静させる。

静寂も束の間、冒頭に帰って楽譜1が強奏され、新しいト短調の行進曲風の主題(楽譜4)が弦と管でリズミックに奏される。言うまでもなく運命交響曲のリズムだ。ちなみにこれの変奏形がコーダを主導する(後述)。

(楽譜4)

これに続いてVnと木管に現れるニ長調の主題(楽譜5)は後に Hr で登場し、アルペンホルンを連想させる。交響曲第1番終楽章にも同様の有名なホルンソロがあるが、クララへの贈りものというのが定説だ。

(楽譜5)

ひとしきり神秘感ある和声の展開を見せて静まるといよいよピアノが登場する(楽譜6)。冒頭に書いたコヴァセヴィッチのこれが僕の目を開かせた。3度と6度による典型的なブラームス調の音楽で諦観に満ちたモノローグの観があるが、楽譜4と楽譜6の最初の小節のリズムは同じであり、最初の4音符にベートーベンの「運命リズム」が仕込まれている(楽譜2,3も同様である)。

(楽譜6)

ちなみにこれを第1主題と見るなら、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章と構造上近似している(序奏部に豪壮な主題aと哀調ある主題bが内装されており、楽章の第1主題はピアノだけで呈示)。同曲も当初は不評で、その原因が長大な序奏部にあったことを考えると、それより20年早く世に出たブラームス1番の不評の原因もそこにあったと考えるのは筋が通るだろう。

次いで楽譜1が再現して展開を見せ、ピアノが楽譜2を再現して展開し、天使の飛翔、5音音列を経てピアノが分散和音で楽譜3を出す。転調を重ねながら静まるとピアノが2度目の独奏主題(楽譜7)をヘ長調で出す。

(楽譜7)

楽譜7に続く後半のdolceからの音型は楽譜5のホルン信号に由来する。ピアノが消えて木管だけになる8小節は天国のように美しい。楽譜7が弦5部に移り、音楽が加熱すると伴奏に楽譜5が現れ、やがてHr がそれを受け取って楽譜3との対位法になりピアノの名技的なカデンツァ風の独奏が続く。最後にVnとHrがひっそりと寄り添う部分の陶酔するような牧歌的な美しさは楽章の白眉といっていい。そこからHrとピアノの二重奏になり、ObとVnの楽譜3に5音音列が加わって曲は静まる。ここを聴くと僕は花咲く山道を歩きながら乳牛が斜面のあちこちで草を食んでいるスイスアルプスの風景を思い出す。

すると突然にピアノが楽譜5の音型をffで打ちこみ楽譜1が再現し、冒頭と異なりピアノと弦の交互の掛け合いというピアニストの見せ場がくる。次いで楽譜2が今度は低弦(Vc、Cb)に現れて展開し、5音音列を合図にピアノが楽譜3による高度にピア二スティックな変奏を見せ、leggiero(軽く、優美に)のロ長調からの喜遊曲風の楽句に入ると和声はB-F#-F#m-E-Em-G7-C-G-Gm-Fなる素晴らしい陰影の明滅を見せる。Ob、ClをVcのピチカートが伴奏する夕暮れのような情景は僕が最も愛する部分だ。

そこからクレッシェンドしながらピアノとオーケストラが5音音列に由来する上昇パッセージを交互に盛り上げ、興奮を頂点まで持っていって運命動機の連打になだれこみ、(楽譜にはないが)力をためた減速から冒頭の楽譜1を噴出させる。ここでもトゥッティで鳴らすのは二音だが、そこにピアノが乗せる和音は意外感のあるホ長調主和音(ミ・ソ#・シ)でホ長調の7の和音になる。ピアノはカデンツ風となり、弦が楽譜6で応答するとピアノは幻想的な挿入句で答え、楽譜6を嬰へ短調で再現する。木管に楽譜2が出て、ピアノが楽譜7をニ長調で再現し、提示部と同じ進行を経て、楽譜6主題の要素を絡ませた展開が続くとピアノの技巧的な展開がある。ピアノの楽譜2の変奏がpで始まり、Vnの楽譜1の変奏と交わってだんだん音楽は激していよいよコーダに入る。そこで楽章を締めくくる重要な役割はまったく新しい主題(楽譜8)に担わされている。

(楽譜8)

不自然に聞こえないのは楽譜4を直接の父祖とするからであり、楽譜2,3,6に密かに仕込まれ、ゆっくりのテンポで気づかないが楽譜7も頭からそうである「運命リズム」のリフレーンになっているからだ。ブラームスのベートーベンに対する終生の敬意が弱冠24才にして明確になっていることは注目したい。現代のようにいくらでも録音が聴ける時代ではない。運命が頻繁に演奏されたわけでもない。彼は楽譜を研究し、読み取ったものでここまで先人に傾倒できる。重みを感じる。

以上、書きながら発見もあった。例えば espr.(感情をこめて)と書かれたppの楽譜2だ。低音域の Cl の暗めな音色を求めているがオクターヴ上を弾く Vn の音量はpである。低音域は楽器の構造から音量が出てしまうリスクがあるからpが1つ多いが指揮者はわかったことだ。ここまで細心の指示をする(信用してない)ブラームスが最も重要である速度はおまかせ。やっぱり不可解だ。グールドがそれをどう解釈したのか、彼のスピーチも聞きたかった。

楽譜2(イ短調)から楽譜3(変ロ短調)に転調して不自然に聞こえないのもマジカルだ。ボロディンに短2度下への転調がある事を書いたがこれは短2度上だ。両者をつなぐブリッジ部分に秘密がある。その正体はA、Am、E♭dim、F7、Cm7(♭5)、E♭dimという和声の旅路であり、E♭dimがFのドミナントの代理コードだから5音音列(F)に安定的に着地してE♭mを経てB♭mに至るという理屈になる。イ短調に位置した我々の調性感覚は減七の和音(dim)でぼかされ、B♭m(変ロ短調)という遠い小島に流れつく。旅路を思いついたから島に至ったのか、至るために旅路を思いついたのかは不可知だ。

原曲がクララと弾くための二台のピアノのためのソナタであり、それを交響曲にしようと試みてうまくいかず協奏曲に落ち着けた出自から発した人為性(無理くり)があるのかもしれないが、なんだかんだいってもとにかく後に冒頭の二音のユニゾンから楽譜1の再現ができてちゃんと起承転結はついているという塩梅だ。つまり、ロジカルとは程遠い経緯に満ちた曲なのだが不思議とそれが魅力になっている。何も8つも動機をごった煮かチャンポンみたいに使わなくてもいいだろうが、クララを想うがゆえにラブレターが饒舌になってしまうのは僕も若かりし頃の覚えがあるし、冒頭の元気はいいが空疎で荒っぽいオーケストレーションも24才だしねと微笑ましい。

以上、延々と綴ったが、何も解明できなかったという不毛の稿になったことはここまでおつき合い頂いたブラームスファンにはお詫び申し上げたい。解明できたのはただひとつ、自分がこの楽章をいかに好きかということだけであり、本稿は長いラブレターであり愛情が目に見える形で残せたという満足感は少しだけもらった。第2,3楽章はいま書く気力がないが、必ずそうしようと思う。

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慶応高校の甲子園優勝おめでとう

2023 AUG 24 0:00:23 am by 東 賢太郎

驚いた。試合終了後、興奮冷めやらぬ中のインタビューで主将から「この優勝で高校野球の楽しさを広く知ってもらえたら嬉しいです」という言葉が出てくる。大舞台のキメの一言だ、高校生がこれって大変なことじゃないか。日本中がエンジョイ・ベースボールは口先だけでないことを知って、野球に限らず新しいスピリットが世の中を変えていくんじゃないか。古き良きものは守っても、古いだけにしがみつくものは淘汰されていくんじゃないか、そんな気がしてならない。提唱した監督も立派だし、それを甲子園で身をもって行い、結果を出した選手たち、ほんとうにカッコいい。

仙台育英は強かった。今日先発の10番の彼、好投手だ、準決勝を見ていてこりゃ打てないなと思った。打線の圧も群を抜いていた。慶応は先制したが3回あたりから押されてる感じがあった。ヒットで出た走者を走らせて刺されたあたりでちょっと焦りがあるかなと見た。ひとつ歯車が狂えば逆の展開もあったが、そこで圧に負けなかった慶応は胆力が鍛えられていた。エンジョイ・ベースボールで猛練習の成果が自然に出せたのかどうか、グラウンドで歯を見せるなと言われて育った世代には屈託ない笑顔がまぶしかった。

エンジョイ(楽しめ)というのは命令されてできるものではない。できる状態になって初めてできる。その状態をどう作るか。それは心の持ちようだから練習しながら自分で考えろということではないか。孔子様も説く。何人もこれを楽しむ者に如かず。だからそうなれば最強なのだが、楽しんでますと独りよがりで思うだけなら誰でもできるから、その上に「有言実行」がなくては意味ないだろう。これは僕のスナイパー主義と通じるものがある。この大会、なにくれとなく慶応を応援してきたのはそういう気もしていたからだ。

有言実行。これは人の道だ。動物は話さないからそれはない。人は話すからある。だからそれは両者を仕分けするシンボルである。昨今の政治を見よ、有言不実行、無言実行、無言不実行の嵐である。嘘八百、強行採決、都合悪いと報道せず。みなさん、この連中はどっちに仕分けすべきなんだろうか?大変申しわけないが、連中はガチでスポーツやったことがあるんだろうか?疑わしいように思えてならない。

慶応高校のみなさん、清々しいものを見せていただきました。人にしかできないスポーツという素晴らしい文化を通じて、日本国が末永く人の道を堂々と歩んでいけることを願ってやみません。

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