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プレゼンはパフォーミング・アートである

2023 JAN 20 23:23:18 pm by 東 賢太郎

幸い健康でいまでも丸一日仕事して平気であり、視力は1.2だし5キロは走れるし年齢記載欄にはうっかり57と書きそうになる。今年はコロナもインフルも無視でどんどん外に出ており、出れば出るほどリズムが戻り、発想からプレゼンまで現役である。WBCの選抜メンバーを見ると野球選手は35才あたりで峠を越えるようだがビジネスマンは足腰立たなくなるまでプレーヤーでいられる。

性分というのは変え難く、新しい地平が見えてくると突進したくなる。知らない景色が好きなのだ。僕にとって投資は金儲けでなく新開地だ。それが次々とインスパイア(inspire、鼓舞)してくれるから老けこむ暇はない。同類の人と出会うと、それがまたインスパイアになるから大事にする。同類ではないが薪をくべてそれを助けてくれる人もいる。これまた大変に貴重なご縁なのである。

社内であれ社外であれ人を説得しないと進まないからビジネスというのはプレゼンで成り立っているといってよい。ところが論旨明解で弁が立ってもお客様が買ってくれる(お金が動く)とは限らないところが面白い。相手を動かすのは自分がインスパイアされてるからで、その熱量が成否を握る。プレゼンの技術など考えたこともないが、相手に伝わる熱があることはそんなものの百倍も大事だ。

以前に「行動を促す情報がインテリジェンスだ」と書いた。熱量は情報でないからそれではない。つまり陳腐な情報を並べ立てるなど論外だが、立派なインテリジェンスをもってしてさえも「売れる」わけではない。熱量は感性に訴える。それが共感を呼んで行動を促す。これは音楽の名演奏がスタンディング・オベーションを引き起こすのと同じで、人間は理屈だけで動くわけではないのである。

つまりプレゼンは弁論大会ではなくパフォーミング・アートの一種なのだ。これをわかってない人があまりに多い。かつてのこと、部下が100ページもある詳細な資料を作ってプレゼンに臨み、目の前に並ぶお客の顔も見ず延々と読み上げたことがある。ふと見ると数人が舟をこいでいた。きみ、それ3ページでいいんだよ、相手の目を見てアドリブでやりなさいと教えたがその後どうなったか。

僕は音楽演奏は暗譜が望ましいと思う。現に歌手は3時間ものオペラをそうして歌っているのであって、それこそプロだ。ビジネスのプロでありたいならプレゼンごときは暗記してその場の雰囲気を読みながらやれよと言うしかない。それができないなら仮にインスパイアされても熱量が伝わるはずないのであって、つまり、物が売れなかったり社内で予算が付かなかったりしてむしろ当然だ。

スティーブ・ジョブズのプレゼンは静かだが自分が造った製品への愛と感動(インスパイア)がある。まねてる日本の経営者がいるが熱がなくド真面目なサラリーマンがカラオケでサザンを歌ってる感じだ。ハーバードのサンデル教授の講義など内なる熱量でよほどジョブズに近い。米国はビジネスマンはもちろん、学者ですらパフォーミング・アートだと心得ており、だからサンデルは人気なのだ。

僕は野村時代に日本各地の大学、オランダの大学で証券市場論の90分講義をたくさんしたが、ネタは同じなのに一度として同じ話になってない。学生が理解してるかどうか肌で感じながらアドリブでしたからだ。あれでフルトヴェングラーやミュンシュのライブ録音が毎度違う理由がよく分かった。何度ボレロを振っても同じタイムだったトスカニーニすらライブのブラームスは違ったのである。

大変な秀才であった100ページの彼はクラシックを知らないか教養と思ってるだろうが、僕が知るビジネスでトップクラスの人はみなそれなりにアート好きだ。プレゼンをしなくて良い超富裕層は大概がアートのコレクターである。

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ベートーべン ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調 「春」Op.24

2023 JAN 13 23:23:31 pm by 東 賢太郎

先日、池袋のジュンク堂に立ち寄った。神山先生の帰りだ。渋谷Book1st、神保町三省堂、八重洲ブックセンターと大書店が次々に消えている昨今、本屋は僕のコックピットだからここだけは末永くお願いしたい。

しばし漢方のコーナーで嬉しいぐらいたくさんある書籍をあれこれ見ていたら、妙なるヴァイオリンの調べが不意に天から降ってきた。しばし金縛りで動けなくなってしまった。

誰が呼んだか「春」。ベートーベンの書いた最も美しいメロディーと思う。

降ってきたとき30~31才。交響曲第1番より後だ。すでに重い難聴に襲われており、自殺しようと遺書を書くのはその翌年だ。

内に住む悪魔と闘う。

シューベルト、シューマン、ブルックナー、ブラームス、みなそうであり、みなベートーベンを意識した人たちだ。僕も彼の音楽をそれぬきに聴くことはない。

それにしても最晩年のカラヤンがつくった彼の音楽、ああいう音響体をどういう言葉で描写したらよいものか。娯楽に流れると消えるもの。それは悪魔を見ないように自ら懸命に追い込んだ魂の気配だ。

モーツァルトの同作と同様まだジャンル名は「ヴァイオリンの助奏付きピアノソナタ」であったが5番は脇役のはずのヴァイオリンがいきなり楽譜の旋律を奏で、聴き手を百花繚乱の園に導きいれる点で、場違いな言葉ではあるが、僕にはショッキングである。スケルツォ入りの4楽章に初めてするなど「春」は大変な野心作だ。

遺書を書きながら野心もある。彼はすぐれて二項対立的な人で、プライベートには女性にその解決を求めたが得られず、それがすべからく音楽に向かった。この曲の「春」になる性質は女性なくして考えられないが、同時に、旧作(ピアノ協奏曲第1番)にもあった前衛的和声の意図的混迷はここでもMov1コーダ直前の両楽器の対位法的進行に現れる(大元はモーツァルトだが)。彼はアバンギャルドだった。それのほとんどは奇天烈に終わらず後世に継がれたが、いまもって不思議がたくさんあり興味が尽きない。

 

エリカ・モリーニ(Vn) / ルドルフ・フィルクシュニー(Pf)

モリー二の音は細めだが冒頭からめざましい。歌心と色香が匂いたち、一気に引き込まれてしまう。Mov1第2主題でのギアチェンジなどメリハリもある。フィルクシュニーの深い陰影のあるタッチがこれまた素晴らしく、僕は彼のモーツァルトをボストンで聴いたがそれを思い出す。何やら調律が特別に良いのではないかとすら聞こえ、Mov4の長短調の交叉はこれでこそ活きる。1961年録音。

 

アドルフ・ブッシュ / ルドルフ・ゼルキン

Mov1のテンポ。ハイフェッツ盤とこれが本来のアレグロと思う(こちらの完成度が上だ)。インテンポで遊びはないがドイツ流の王道だろう。ナチス独裁政治が確立した1933年の録音だが、90年たっても古びた感じがしない。

 

フリッツ・クライスラー / フランツ・ルップ

1935年録音。Mov1から川のように流麗。クライスラー一流のポルタメントを駆使して存分に歌う。Mov1第2主題の加速があり音楽は喜びに満ちる。リズムにエッジを欠くのでMov3の諧謔はいまひとつだがMov4には歌が戻る。機能性が売りの現代のヴァイオリンのアンチテーゼであり、19世紀のサロンで弾かれていたムードはこんなではなかったか。

 

クリスチャン・フェラス / ピエール・バルビゼ

こちらはフランスのコンビ。フェラスは華やかだが品格があるのが好み。テンポの揺れや間のとりかたは長年の息の合ったアンサンブル。Mov2のギャラントだが深みのある表情は随一と思う。

 

ジノ・フランチェスカッティ / ロベール・カサドシュ

こちらもフランス組だ。フランチェスカッティのヴィヴラートは19世紀の余韻たっぷりだが、たっぷりめのテンポにもかかわらず甘ったるい演奏とはきっぱりと一線を画している。それはカサドシュのクリアに引き締まって滋味深いニュアンスに富んだピアノあってのことだ。これが支えてこそヴァイオリンが雄弁に歌いきる。ラヴェルが結びつけたこのコンビが一世を風靡したのは異なる個性の相性の良さによる。ピアノだけ取ればこれとフィルクシュニーが双璧だろう。

 

ジョシュア・ベル / エマニュエル・アックス

youtebeにある米国人コンビのライブ。ベルはフランクフルトで聴いたシベリウスの協奏曲が衝撃の名演で今も忘れない。彼は当時25才で「末恐ろし」と思ったが、昨年55才でのこの演奏、Mov1で拍手が入ってしまうような場にもかかわらず実に素晴らしい。かかわらずというか、こうして聴衆がノッている、ビビッドに反応してくる場というものが作曲当時にはあったのだ。アックスのピアノがこれまたブラボーで、ベルと競奏したりなんら名技をひけらかすわけでもないが、安定した「大人の演奏」は最高の満足を与えてくれる。スタジオでアイコンとして残すべくする演奏も良いが、こうして音楽が生まれる場にいることも、これまた人生の贅沢である。旬であるこういう人たちのアートが「新譜」として出てこない世の中になってしまったことが実に恨めしい。Mov3、最後の1音までズレまくる(スケルツォとはこういうお遊びのことだ)、ベートーベンの聴衆は笑って湧いたに違いない!Mov4の不意の短調にも!これがポップスだった時代の情景が浮かんでくる。くそ真面目に上手に弾くだけの演奏と格が違うと言ったらいいか、そういうものも含めての “文化” なのだ。クラシックは、クラシックと呼ばれるようになって「古寺巡礼」になった。古寺だから価値があるという異質な価値観だ。そんなものは奈良、平安の時代に朱色や金色に塗られてぴかぴかの「新しい寺」だった頃にあろうはずもない。ベートーベンも草葉の陰でクラシックとなっている己にびっくりしてるだろう。その気になればこういう演奏に普段着であっさりふれることができたあのころの日々、なんて恵まれていたんだろう・・・。

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神山先生に教わった「漢方」と「気」の秘密

2023 JAN 11 1:01:56 am by 東 賢太郎

漢方の大家で20年来の友である神山道元先生。僕はブログで帰化名を書いてきたが、先生の本名は「屠 文毅(と ぶんき)」だ。中国で800年の伝統がある道家龍門気功の第19代伝人(後継者)である。池袋の診療所も改装して一新し、患者さんはひっきりなしで大変喜ばしい。

だいたいの病はなんとかしてくれる。中国鍼(はり)の効果は数え切れぬほど経験済だが、丹田や足の脛(すね)などに服やズボンの上から打ってしまう技術はそんじょそこらの達人でない。一度、待合室で隣の患者さんと雑談したら鍼灸師だった。きのうは首が悪いねと頭を左右にひねられて隣にいた娘がバキバキの音にびっくりするが、いたって気持ちがいいのだ。彼には何より「病気を治してあげることが喜びだ」という強烈なオーラがある。我が家で食事したり上海の別荘で遊んだり、箱根の温泉に旅行したりでプライベートまで知っている。20年付き合っていればお互いに大変な時期もあったが、彼のオーラに翳りを感じたことは一度もない。会えばそれだけで治してくれる気がする太陽のような人だ。

昨年末に行ったおり、パニック障害は治る?ときいたら即座に「大丈夫、薬あるよ」ときた。びっくりだ。小粒の丸薬で袋に「安神」と書いてある。指示通りに毎日8粒飲んでたら最近ならなくなった。「先生、何でこれ効くの」なんて聞くだけ野暮、「治ればいいじゃない」で終わりだ。対症療法が必要な病気の場合はいち早く西洋医学に頼るべきだが、そうでない領域で漢方は強い。人間は本来の機能、免疫力が落ちると病気になり、元に戻せば健康だ。そのプロセスには「気」が関わると考えるのが東洋医学だ(だから投薬に鍼灸が加わる)。いっぽう、西洋医学はそういうものを「プラセボ効果」とみなし、ノイズとしてばっさり切り捨ててしまう。

この話を伺って、僕はある事を思い出した。音楽録音の再生におけるアナログとデジタルの関係だ。デジタルは音が鮮明になりHiFiに聞こえるが、アナログは自然で疲れないと多くの人が感じだしており、いまやCDの売上をLPがぬき返している。その原因はデジタルが「可聴域外の音」をカットしたからだとされている。聞こえない音域も実は音に影響していて、アナログにはあった「自然さ」が犠牲になっていたことに皆が気づきだしたのだ。

しかし、CDにはHiFiの他にも大きなメリットがあった。安価に大量生産でき、耐久性があって小さく軽く、大きな売上が期待できたことことは業界には魅力だった。工業製品だから合理性が問われ、聞こえない音まで再生するのはコストの無駄だとなる。そこで1枚のディスクの周波数幅は可聴域のみとなったのだが、西洋式の教育を受けた製造側の人にとっては自然な流れだったことは想像に難くない。それが普及するにつれ、HiFiとは裏腹のデジタル臭が気になるという声が消費者の間でこれも自然に現れ、アナログレコードへの回帰に火がついたというのが現状である。

このカットされてしまう「聞こえない音」から僕は「偽薬効果」(プラシボ効果)を連想したのだ。プラシボ効果とは「効き目がある」と信じることにより病気に対して精神的治癒力を発する効果のことで、デンプンを錠剤にした偽の薬でも効いてしまい、ある実験では30%の人に鎮痛効果があったとの報告もある。製薬会社が開発した新薬が万人に効く科学的効能(予見できる効き目)を測ることは厚労省の認可の過程で必須であり、そのためにはプラシボ効果は統計からカットするのが合理的ではある。しかし、臨床の場になれば患者が求めるのは科学的根拠ではなく病気が治ることだ。

アナログレコードが出す「聞こえない音」に価値があるように、「治りそうな気になった」ことで治ったならば、その「気」というものに価値を認めてもいいのではないかと思うのだ。西洋医学はプラシボのような患者ひとりひとりの主観や個性は排して、客観(物理)にだけ依存する。薬効の再現性を万人に保証するためであり、僕も仮に大病を患えば病院でそれを期待するだろう。ところが東洋医学ではひとりひとりの人の体が異なるのは必然であって、いわばテーラーメードで身体機能をあるべき所に戻してあげることが目的になる。命に係わる火急の事態で出番はないが、病気になりにくい抵抗力をつけたり、原因が特定できない病気、偏頭痛などとされてしまう慢性の痛みなどには試す価値がある。

僕は東洋医学がプラシボ依存だと言っているのではない。現に厚労相は200種以上の薬草を医薬品と認定している。ただ、外科手術がなく即効性に欠け、鍼灸、気功まで動員して健常体に戻すそのプロセスが西洋流に教育された我々には「非科学的」に見えることを指摘したいのだ。しかしよく考えよう。科学とはルネッサンスで19世紀ごろに神学から分かれて発したヨーロッパの概念であるから、非科学的という判断は漢方が発した数千年前の東洋にそれがなかったねということを言っているに過ぎない。にもかかわらず数千年も価値を認められていることの方がよほど重要だし、その科学も万能でないことは西洋人が認めている。だから「統合医療」なる両者を融合した概念が現れているのが現況で、先生は何度もドイツに呼ばれている。

そうは言っても、僕自身がとても西洋流に教育された人間だから、どうしても東洋医学を西洋的概念で理解したいという欲求が捨てきれないことは白状せねばならない。僕だけではない、漢方(中国では「中医学」というが)の発祥の地、中国ですら若年層は西洋医学にしか依存しない社会となって久しく、「そういえばお婆ちゃんが飲んでましたね」という認識になっている。そこで、僕が自分の納得のために、それを西洋の科学的概念だけで説明する疑似的な方法を編み出したのが、東洋医学は「ホメオスタシス(恒常性)」の増進だという考え方だった。僕は医師でないから間違っているかもしれないが、イメージとしてご理解いただければ充分と思う。

恒常性とは、例えば、体温を一定に保つとか、侵入した病原体をやっつける免疫が自分を攻撃しないようバランスを整えるなどのことだ。西洋医学はそれらのメカニズムを科学で解明して、個々の機能の不具合を調整する薬が日々開発されている。しかしホメオスタシスは手足を動かすように脳から指令を出してすることができない「自律的」な行為で、一ヶ所を薬で調整してもかえって体全体のバランスを崩さないかという心配が常にあるだろう。しかもその「総合バランスが取れた状態」こそが東洋医学の目ざすあるべき所なのだが、厄介なことにそれは個々人で違うのだ。

つまり、人体をパソコンに喩えるなら、西洋医学は故障したハードの修理は得意だがそれを稼働させるOS(基本ソフト)がまだ読めていない。東洋医学は、OSは読む必要はなく正常に作動させさえすればハードもうまく動くように “OS自体が書かれている” (ホメオスタシス)ということだ。正常に作動させる方法論が、植物アルカロイドの薬効と鍼灸、気功などの血流への効能を統合した経験的哲学として数千年以上も前に確立している。徳川家康はそれ(本草学といった)を学者顔負けに書物を読んで研究し、自ら調剤した漢方薬を病気の家臣に与え、自身も服用して当時としては長命の73才まで生きたことは有名だ。

「哲学」とあえて書いたが、それが効能ある「医学」になる過程で『気』という概念が用いられた。僕は血液、リンパ液、ホルモンなどの流体が体内をめぐることだというイメージで理解しているが、そこまで完全に即物的なものではなさそうであって、目に見えないし、科学的な計測もできない。だから西洋人は「可聴域外の音」といっしょで取り合わない。日本人だって一般には目で見えないものは信じないし、教養人とて西洋医学が認めていないものは眉唾だとなるのが普通だろう。しかし、困ったことに、僕は神山先生の施術と薬で病気があっという間に治った経験が何度かあるのだ。プラシボ効果も一部はあったかもしれないが、それも含めて医療であり、治せば名医であって文句をいう人は世界のどこにもいない。しかし、「なぜ治ったんだろう?」という疑問が残るのが西洋流教育の名残なのだ。「存在しないものが治した」というマジックを信じない僕は、「何か」が存在したのだと説明しないと気がすまない。そこでやむなく仮置きするのが『気』なのだというのが結論だ。これはおそらく間違っているが、先生のご著書を僕はそう推理して読んでついに腑におちるに至った。

すなわち、神山先生の手によってホメオスタシスが正常に作動したから僕は治してもらえたのであり、そのためには、彼の施術の中に目に見えないし計測もできないが「在るべきもの」があって、それが『気』であったのだという推理をするしかない。とてもおこがましいが、その考え方は、アインシュタインが理論と現実のギャップに困って、その場しのぎの項で相殺した「宇宙定数」のようなものかもしれない。そっちを理解してないのだからただの比喩未満の言い草にすぎないが、先生から発し、電流のように流れる何物かが存在するという感じをご想像いただければ幸いだ。

以上、先生との20年の会話から得た僕のつたない理解が各所に入っていることをお断りするが、生来の合理主義者である僕のような人間がどうやって先生の東洋医学に心服するようになったかを、圧倒的多数である西洋式教育信奉者の皆様方に少しでもお判りいただければという純粋な思いから書いた。大家だが敷居は高くない方なので、下記へ連絡され「東賢太郎のブログを見た」といわれれば快く看て下さるはずだ。本稿は宣伝ではないし、治癒を保証するものでもない。下記研究所と僕およびソナーは何らの資本関係、金銭的関係を持っていない。あるのは患者の一人として家族までいつも健康にしてくれる先生へのささやかな恩返しの気持ちだけである。

〒171-0022
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謎の岸田総理と黒田総裁

2023 JAN 9 0:00:41 am by 東 賢太郎

最近電車によく乗る。ホームの駅看板(線路ぞいの広告)がやけに白っぽいなと思ったら18枚のボードのうち7枚しか広告が出てない。それも医者ばかりで商売人はセイジョー石井だけ。カウント癖があるので何でもすぐ数えるが、14年使っているこの駅でこんなことはかつてなかった。

僕は国が出す景況感指数よりも、かような「巷の景気」のほうを見ている。趣味ではない、その方が株式市場がよく見えるという実益からだ。インフレに乗じて値上げできる大企業はいいが、国民のフトコロ具合に近い「ちまた」はそうはいかない。駅にいる消費者に宣伝しても元が取れないと広告主は思ってる。これが巷の景況感。そして日本のGDPの5割超は個人消費なのだ。ここが冷えたままでは経済は上向かない。

65才を超えると定職に就いて働く人は激減する。すると定期収入が途絶え、年金は雀の涙だ。人間は生きているだけで毎日の出費がある。しかし毎日の収入はないのが現実となる。だから退職金など手持ちの預金を食いつぶして生き、残高は減る一方。となると、本来喜ぶべき長寿すら不安材料だ。これで総貯蓄の8割を持っている50代以上に気前よくカネを使えと言っても無理だろう。巷の広告主が減るのは道理なのだ。

となると普通はデフレ、需給ギャップと呼ばれる現象がおこる。ところが日本も世界もインフレであって、金利を上げなくちゃと騒いでるのだ。これをおかしいと思わない人が経済や為替や株価をネットで語っているからますます訳のわからないことになっている。では矛盾の原因は何か?コロナで経済が窒息死するのを防ごうと世界の国が借金して突発的に厖大な額のカネをばらまいた。ところが想定外の戦争が勃発して突発的に各所で盛大にモノ不足になった。この「突発✖突発」が見かけのインフレを生んでいるわけだ。それなかりせば、日本が患ったデフレ病は世界にまん延して米中欧をも蝕んでいたろう。駅の広告数は日本が実はその病から回復してないことを示しているのである。

したがって、ここで景況感指数が2期連続で上向いたとか、見かけのインフレに乗じて次々と商品値上げがおきている現状(嘘のインフレ)を示して景気回復の予兆だとうそぶいて増税に走るのはとても愚かしい。前述のとおり、国民はみな不安。ますます財布のひもがきつくなって消費は停滞し、GDPは伸びない。その不安は君らのせいだと企業に賃上げを迫っても、消費が減れば売上も減って株価も下がる経営者は株主総会でモノ言う株主に首を切られかねない。だから口では上げますと言ってるが容易にそうできるとは思えない。とすると行く末はデフレの再現、増税はそれを単に加速してやがて減る税収を早めに減らす効果こそあるだろう。

経済は需給で動く。ディマンドとサプライだ。銀行系証券に転籍して驚いたのはアンダーライト(引受)した株が「売れるかどうか」という視点がまったく存在しないことだった。「こんな株が700円で売れるわけないだろ」と会議で言うと満座がシーンとなってしまう(証券マンにはイロハのイ)。つまり銀行は経済の「サプライサイド」(供給側)であり、ディマンドサイド(需要側)の読みに甚だ疎い(というか、わからないから触れたがらない)。だからゼロ金利にすれば企業は借りるのが当然と思っていて、借り手がない現実を前に思考停止してしまう。僕らは需要側(消費者、企業)が病気だと結論する(それを冒頭に書いた)。だから政治のやるべきは病気を治すこととなるのだ。

ところが、黒田日銀総裁はこの期に及んで謎の金利引き上げをした。僕は金利差要因の為替モデルを自分で作っているが、現在のところ効くのは米の利上げ幅(=金利差拡大幅)より速度である。簡単に言うなら接線の傾きだ。FRB決定が0.75上げなら大きい、0.25なら小さい。この基準で統計を取ると12月のFRB決定後は132~135円が目安。昨年9月27日のブログ時点(Invest in Kishida(岸田に投資を)で円安に)では「150円ぐらいはあるかもしれない。落ち着きが良いのは僕のモデルでは135円、というのは変わってないのですが」と書いた。まさにいまその辺にあるが、利上げなどしなくても多分ここに収まった(僕はモデルを信じている)。ところがどういう理由なのか知らないがやっちまった(総裁は利上げでないというが、相場は結果がすべてというのが掟で問答無用)。すると変動金利はもちろん国民生活に深く関わる住宅ローンなど新規の固定金利は軒並み上昇するに決まってる。

これが国民の出費を増やし不安を増幅し、需要(消費)を冷やして病気の追い打ちになることは自明。供給側が需要側を殺してしまう本末転倒。この結果、GDPを下げ、国債の利払いも増え、銀行や日銀保有の国債に含み損が発生し、株は上がらない。それなのに岸田政権は「資産所得倍増プラン」「資産運用収入そのものの倍増も見据え」である。ノーベル賞級の運用モデルでもあみだしたのだろうか。「NISAで節税」?損したら税金は元からゼロだ。米国民の株式保有率が高いのは長期に株が上がってド素人でも儲かっているからなのだ。「株をやる」「投機筋」なんて石器時代の言葉を吐く人達が不得手の需要側で何をやろうが、賭けてもいいがうまくいかない。そんな些末なことより、需要側の病気を治して消費を促進し、企業が成長し、株が順当に長期的に上がる王道の政策をとれば株式投資は勝手に増える。まあ票にならないこんな分野は政権の数ある「やってる感」作りのひとつだろうが。

自民党に漂う「オワコン感」の真因を解く

 

岸田総理の英語力を判定する

 

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僕の愛聴盤(4)ナージャのフランクVnソナタ

2023 JAN 6 23:23:43 pm by 東 賢太郎

飯より好きな曲なのに気がつくとずいぶんご無沙汰ということがある。友達なら会えばすぐ戻る。ところが音楽の場合は、情熱が冷めたわけではないのに、いざ聴いてみるとまるで疲労して肩こりになったように心が固くなっていて、いまひとつその曲に入り込めずあっさり通り過ぎてしまうことがある。去年12月に東京芸術劇場で聴いたエリアフ・インバル / 都響のフランク交響曲ニ短調がそれだったらどうしようと思っていた。幸い徐々に心にしみ、じわりと漢方薬みたいに効いて感動した。

以来、とても深いフランクの世界をあれこれ渉猟することになって、youtubeには気に入っているペルルミュテールとパレナン四重奏団によるピアノ五重奏曲をアップさせてもらったりした。そして、そうこうしているうち、やっぱりここに帰ってきてしまうのだ。ヴァイオリン・ソナタイ長調である。ブラームス4番を我が命の音楽と書いたが、このソナタは魂に彫り込まれている。これに感動しなくなったら人間をやめてもいいぐらいだ。

レコード、CD はたくさんある。グリュミオー / セボック盤が圧倒的に素晴らしいが、もうひとつ、どうしてこれに気づかなかったのか不分明を恥じるほど揺さぶられた演奏がある。ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ / セシル・リカド盤(EMI)である。

ローマ生まれのナージャは父親をなくし8才で母親と米国に移住した。それなりに富裕だったのだろうが、とはいえ母と幼い娘が気楽に安全に入って行けるほど米国社会は甘くない。カーティス音楽院でイヴァン・ガラミアン、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイという著名な教師に付いて学んでいる。才能がないのにコネだけでできるほど甘くないのも米国社会だ。彼女は奔放なスタイルの人で、教育の枠に収まりきれなかったという趣旨のことがバイオに書かれているが、そうだろうか。教師と生徒、感性の違いはあってもヴァイオリンを自在に弾きこなすハイレベルな訓練なくしてこのCDのような演奏ができるはずはなく、むしろ名教師直伝の技術という素材を自分流に使いこなすところまで個性を発揮した、それを教師は喜ばなかったかもしれないが、そこまで飛翔してしまえた彼女の才能を評価すべきだと僕は思う。

このCDを池袋にあったWaveで買った理由は記憶がない。ひょっとして日本で聴いたのだろうかレコ芸の評が良かったのか、それも覚えてない。CDはそのまま棚に埋もれていたのだから印象が薄かったのだろう。しかし、先ほど何十年ぶりかに取り出して、完全に虜になったのだ。いや、こんなフランクは知らない。グリュミオーの典雅としか言いようのない節度と気品とは違う。そういうものをこの人は求めておらず、そのかわり満ち溢れるような音楽への愛と歌がある。それが打ち震えるヴィヴラートに乗ってぐいぐい迫って来る。楽器はグァルネリの”Miss Beatrice Luytens, ex Cte de Sasserno” とwikiに書かれているが、その音だろうか弾き方だろうか、E線の高音部でもG線のハイポジションのような肉厚の音色である。フランコ・ベルギー派の特徴ともいえ、彼女が意識してそうしたかどうかはともかくフランクにはそぐわしい。

何度この録音をききかえしただろう。Mov1の冒頭主題の慈しみからして尋常でない。いきなりロマンの深い灰色の霧に放りこまれるが、旋律がオクターブ上がると予想もしない妖艶な色香がのってきて熱さが徐々に見えてくる。フレーズの感情の変転につれテンポが大きく揺らぎ、これが見事にツボにはまって心に入りこんでくる。すすり泣くような弱音から激情の嵐へのクレッシェンドで一気に高みに持っていかれると、もういけない。こんなヴァイオリンをいったい誰が弾いただろう。最高音でピッチがほんのわずかだけはずれるが、我関せず肉厚の美音で歌を朗々と歌い、まるで霊に口寄せする巫女のように世界に “入って” しまっている 感じだ。普段はそれで白けてしまう僕だが、なぜだか気にもならない。

ショパンを想起させる激情のMov2も音楽はいったん止まりかけ、Mov3のコーダに近づくや聞こえるか聞こえないかの命懸けのppになる。極限までテンポも落ちる。息をひそめた二人の入魂ぶりは凄まじい。だからMov4の主題が聞こえると、まるでシューマンのライン交響曲の終楽章の出だしみたいにほっとする。あまりに深かった幻想の闇から救い出されたように、慰撫するようにこの主題をpで弾いてくれる。やがて激するとテンポが上がり、最高音に渾身のヴィヴラートがかかり、コーダに向けてぐんぐん加速して曲を閉じる。僕はここのアッチェレランドには否定的で、おそらく初めてきいてそれが気に入らなかったと思う。しかし、これが年の功なのか、二人の20代の女性のパッションに打ちのめされてなのか、ここでは少しも嫌でない。

グリュミオーの禁欲性や翳りがなく、こんなに歌っていいのかと思うほど情熱とロマンにまかせてアクセルをふかしているように聞こえるかもしれないこの演奏を評価しない人も多いだろう。下に貼ったyoutubeのCDジャケットをご覧になれば、自由奔放ぶりにフォーカスして “じゃじゃ馬” と日本で評された路線でEMIも売り出そうとしていた風情が伺えよう(日本の保守的なクラシックファンに売れない写真だ)。しかし、演奏とは楽譜から奏者が汲みとった感情のプレゼンテーションであって、ことその一点に限っていうなら強い主張がないと何のためにそれをやっているのか自体が問われてしまうビジネスのそれとちっとも変わらない。正統派の解釈ではなくとも、奏者の人間性に打たれて納得する。ということはその音楽が秘めていて気がつかなかった大事なものを再発見させてもらったことになる。

この演奏、まるでライブのように彼女たちが一期一会で感じたものの発露であるように聞こえるし、それが魅力であることに異論もない。しかし、実は見事に計算された、いや、計算という言葉が無機的に響くなら、二人の奏者の琴線にふれるという所に達するまで入念に吟味し、試行し、よく考えぬかれたものだろう。そうでなければ達しない深い印象が、つまり偶然の産物なら2度目は得られないそれが何度聞いてもあるのは、この音楽の「歌」という本質に根ざすところまで熟考されているからに相違ない。じゃじゃ馬が気の向くままに好タイムを出したようにきこえるが、造りこまれた完成品である。同曲の前年に発表されたブラームスの第2ソナタをフィルアップしているのも偶然とは思えないように。

更に弁護しておこう。フランクはベルギー(ワロン)人でフランスに帰化しているからこの曲をフランス音楽と類型化するのは誤りだ。彼の父はドイツ系、母は生粋のドイツ人で母国語はドイツ語。没頭していたのはワーグナーのトリスタンなのだ(このソナタにも痕跡がある)。秘めているドイツロマン派源流の精神はフランクには根強いのだ。ナージャは思うにそれに共振するテンペラメントの持ち主で、このフランクは数多ある名演奏のうちでも最も「トリスタン寄り」のひとつであり、トリスタン好きの僕が共鳴してしかるべきものだった。ナージャと同い年のセシル・リカドはフィリピン出身だ。米国でラフマニノフをきいたが、ロマン的な音楽への資質は逸品(そうでなければルドルフ・ゼルキンの唯一の弟子にはなれなかったろう)。繊細、強靭を織り交ぜたタッチでナージャに心をぴたりと同期させ、しかもこの音楽に不可欠な格調と知性を加えている。それがあってこそヴァイオリンは自由にファンタジーを羽ばたかせ、静謐な部分では清楚とさえ感じる絶妙の音程に昇華を見せている。

このおふたり、この10年ほど名をきかない。お元気ならいいが。大御所ばかり呼びたがる日本だが、僕としてはこういう魅力ある天才肌のアーティストをぜひ生で聴きたい。

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徒然なる正月の日々

2023 JAN 4 18:18:42 pm by 東 賢太郎

家事は何もしない。とくに正月は家族に申しわけないと思うが、できないからいても邪魔なだけ。指揮者は家内だ。お節は心斎橋「鶴林 よしだ」である。もう10年以上になるかな、毎年おんなじ品が並ぶが飽きようがない。酒屋の親父に「今年は辛口」といって出てきた「うまから まんさく」も合う。元旦は快晴。富士山もいい肴だ。完全に酔っ払い、おかげで憂さが吹っ飛んで年が明けた。

初詣は毎度の浄真寺と宇佐神社。何年前だったか猫もお祓いしたことがあるが、今は4匹になってるので人だけ。僕はこう見えてけっこう信心深い。良くなかった去年とは行くルートを変えて臨んだ。浄真寺は長蛇の列。今日4日は会社で恒例の日枝神社に。どっちも参拝までに30分以上も並んでコロナはもう風邪なのかなと思う。

駅伝は中央と競った駒大が勝った。中央も強くなった。昨年史上最高タイムを叩き出した青学は5区の人が体調不良で総合3位に終わったがよく追い上げた。皆さん正月からご苦労さんである。お~、ヴィンセントのゴボウ抜き凄い、山の妖精がんばれ、あ~襷がとぎれたかわいそうに。「お茶の間」はただの野次馬だ。火事と喧嘩は江戸の華なんてお気楽なポジション。これが僕には最高だ。

年賀をいただくと悠々自適ですという人が増えた。いいなあと思う。そういう境地に入れることが本当にうらやましい。僕は競走馬みたいに走りどおしできて、まだ止まれない。いいトシこいて「まだ頑張ってます」なんて実にみっともないと思ってる。だからブログにはジジイは引退しろと書いてる。その自分ができてないというのは最高にカッコ悪いことなのだ。

今日も秘書たちとイタ飯してだんだん仕事モードに戻ってきたが、これが僕にとっては安心モードなんだと思うことにした。残念ながら悠々自適は当分できそうにない。

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ソナーの経営方針を転換する

2023 JAN 3 0:00:36 am by 東 賢太郎

皆様、あけましておめでとうございます。

年が明けて心機一転と行きたいところですが、世の中の情勢はなかなか変わりそうにありません。日本だけの問題ではなく世界中の政治経済が変調をきたし、疫病・戦争・インフレのおなじみの三点セットで複雑骨折しているからです。だから疫病が収まろうと戦争が終ろうと、その単体だけの効果で骨折が治癒することは期待できないでしょう。円ドルは150円をつけたころのブログに132~5が僕のモデルの均衡点と書きましたが今も変わりません。株は期待できません。株が上がらないような政権運営をあえてしているからで、それで株を買いましょうと言ってる岸田政権は頭が複雑骨折してます。

といって我々はそうしたマクロ環境には無力ですから3年はそれが続くという最悪の前提をたてるしかありません。僕は同年代の世間並には愛国者ですが、3年以上もそれが続くなら日本はno hopeで海外移住する覚悟があります。岸田政権の背負ったものは大きいですが、それに耐えうるか否かはまだ未知数で、それも行く先のリスクファクターとして、大したことない期待値から割り引く必要があるのです。ともあれ喫緊の課題として、ソナーの経営方針を転換する端境期に来たと結論するに至りました。我々は市場に先駆けて動かねばなりません。

年末のことですが、ちょっとしたきっかけで会社時代の仲間に会って、あの時ああだったこうだったと昔話をしました。芋づる式に記憶がよみがえり、ランチだったはずが気がつくと外は真っ暗。これだけ夢中になれるというのも稀で、大変収穫がありました。学校の同級生の皆さんもコロナで同窓会がなく、ああだったこうだったをやりたいものです。あんまりお話したことがなかった方から「あの時こうだったでしょ」なんて意外な話題が出て楽しかったりします。そうか、もう20年も前か。普通こう書くと卒業してから20年なんですが、それはいまから20年前の同窓会の思い出を言ってます。そんなに生きてしまったわけですから、転換といってもそう簡単な話ではないですね。

ふり返ると、良くも悪くもゴーイングマイウエイで生きてきました。周囲の意見はほぼきかない。勤め人時代から我が渡世のスタイルで、それでまだやる自信もあるのです。しかしいずれ限界は来ます。このまま走って環境が変わってしまってはもう遅い。だから周囲の意見をよく聞いて決めるやり方に今年から変えていこう、その元年にしようと決めました。それができなかったのはひとえに頑固である我が性格が元凶なんです。それを変えるということですから生半可な決心では無理で、周囲の皆さんも、今日から物分かりの良いおじさんになりますと宣言したって誰も信じてくれないでしょう。

ということは昔から僕のダメっぷりを心得ている方々のアドバイスを聞くしかありません。多くの既知の方に会う。これを今年は心がけます。転換点なので自分をじっくりとふりかえりたい。それには僕をよく知っている方と虚心坦懐に話してこそ教わることが多いと考えるのです。good will はお得意様の意味にもなりますがもとの意味は文字通り「好意」です。それがあればお客様になってもいただけますが仲間にもなっていただけます。好意には好意をお返しすることが人間関係の基本で、ひいては社会的信用にもなっていく。このポリシーだけは不変ですし、それにはこの転換は適っていると思うのです。さてどうなるか。

長らくお付き合い下さった読者の皆さまにおかれましても、今年が幸せに満ちた一年になることを願っております。

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地球上に邪気が満ちていたような年でした

2022 DEC 31 23:23:09 pm by 東 賢太郎

今年は父が他界し、辛い年でした。何事も結果が思ったように出ず耐えるしかなかったです。世情も悪いです。著名な方々がなくなり、昔からセットの疫病と戦争とインフレが世界をかき乱し、今年は地球上に邪気が満ちていたような気がします。

ロバート・チャールズ・ウィルスンの「時間封鎖」。ある夜、突然星々と月が空から消え、翌朝に現れた太陽も贋物であったというこのSF小説を僕は思い出しています。地球が一瞬にして暗黒の界面に包まれ、界面を作った存在を人類は仮定体(仮定上の知性体)と名づけたが、不気味なことに正体は知れないのです。安倍さんの事件。何が起きたんだと日本中が震撼しましたが、ふと気がつくとそれはあらぬ宗教騒動に置き換わっていて、誰もがその変わり身の不思議さに気づかないように淡々と粛々とふるまっている不思議に僕はさらに震撼を覚え、贋物の太陽を仰ぎ見ているのです。

健康には自信があってここまで来ました。でも数値を見ると糖尿予備軍だし、目は疲れると二重に見えるし、耳鳴りはもう10年、鼻はスプレーしないとつまるし、歯はちょっとだけ歯周病、肩はばりばり、おしっこは出にくいし、パニックが怖い。こうなると、かかっている医師は5人で薬はわんさか出てます。そういえばお袋がこうだったなあと嘆くと、もういいトシなんだからと笑いとばしてくれる家内の言葉が一番の薬だったりします。

2022年もあと1時間をきりました。5月に親父が逝ってから書いたブログは5月ゼロ、6月1本で、万事ここに現れてます。疫病と戦争とインフレの第1次大戦を、いま生きてる人類は経験してません。僕は両親が天に昇ってしまった自分というものも、経験がありません。まあ、それもあと少しでおしまい。くる年はきっと変わると期待しましょう。

皆様よいお年をお迎えください。

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来年は野球がサッカーのあだ討ちだ

2022 DEC 31 0:00:05 am by 東 賢太郎

今年、いちばん感動したのがサッカーW杯だったのは意外でした。なにせサッカーはやったことないしルールだって危ない程度で、これまでもW杯はまあ期待せずに見ようかぐらいのイベントだったのです。とくに今年の日本国は何やらおかしかった。悪鬼が跋扈し、得もいえぬ邪気に覆われてました。そんな日本をほんとうに明るくしてくれ、国民がひとつになったことに感謝しかありません。

おかげで日本が負けてからもほとんど観戦してしまい、個人的にはクロアチアとモロッコを応援してました。クロアチアは日本の分まで頑張ってほしい。モロッコはランキングが日本と同じぐらいだということで。その2国が準決勝まで行って3位をかけて対決というのも熱くなりました。野球だけど僕も準決勝で負けて3位決定戦をやったことがあり、特に思い入れが盛り上がってしまいました。

どれか1ゲームというと準々決勝のオランダ・アルゼンチンですね。強烈でした。ラフプレー続出で煽り合い。まるで喧嘩でメッシがブチギレ、18枚もイエローカードを出した審判にまで制裁という凄まじさ。野球じゃそんなことはあり得ませんから、サッカーが見せてくれるスポーツのドロドロの真剣勝負の凄み、体当たりの醍醐味には圧倒されまくりましたね。

そんな野蛮な試合はいかんという声もあるようで、いかにも当世風、ポリコレ風です。僕はそんなものは糞くらえだ。スポーツはフェアであるべきだけどキレイごとで決着なんかつかない。国を代表して戦ってるんでね、ゴミ拾いだけ誉められても仕方ないんです。オランダもアルゼンチンも「国威」をかけて死力を尽くしました。男として見事です。

このゲーム、アルゼンチンがPK戦で4-3で勝ちましたが、凄いと思ったのはオランダのほうです。1点ビハインドの終了3分前、もうラストプレーかの瀬戸際の中で得たゴール正面のFK。直接行くと見せてゴロのパスで壁をぬいて世界を震撼させる同点ゴールを決めた。修羅場であれができる。日本にこのメンタルを持って欲しい。喧嘩はいかんですが、仮にそうなっても全員なぎ倒すぜぐらいのメンタルをです。

W杯が刺激になったんでしょうか、来年3月のWBCにダルビッシュ、大谷、セイヤが参加。メッシ、ネイマール、エムバぺがいる気分です。しかしアメリカも気運が高まってメジャーのトップクラスが来る。野球は7~8割がピッチャーで決まりますんで、いいのが出てきたらどんな打線でも打てません。逆に、絶対のエースを出しても人間だから投げてみないとわからない。

怖いのはダル、大谷、山本あたり、名前で出した先発がたった1球の失投をポカーンとホームランされ、アメリカは7,8,9回の投手が強力だから打線に焦りが出て、先発に打てそうで打てないのが来て凡打の山となり、1対0で負ける。これですね。今日はダメと見たらダルビッシュでも1回で替えないといけませんね。このメンバーでその采配は大変だけど、栗山監督ならやってくれるでしょう。楽しみです。

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今年の演奏会ベスト5

2022 DEC 28 23:23:43 pm by 東 賢太郎

コンサートというと2020年1月に行ったきりで3年もロスしましたが、今年は思い切って行きました。10月からのランキングにすぎませんが書いておきます。

 

1位 マケラ指揮パリ管(ドビッシー「海」)

2位 パスカル・ロジェのリサイタル(フォーレ、ラヴェル、ドビッシー)

3位 ティーレマン指揮ベルリン国立歌劇場管(ブラ1~4)

4位 インバル指揮都響(フランク交響曲ニ短調)

5位 インバル指揮都響(ブルックナー4番・第1稿)

(番外)マルティン・ヘルムヒェンのアンコール(シューマン「予言の鳥」)

 

パリ管ではたまたま隣席だった医師の先生と名演がきっかけで話しがはずみ、ロジェではイマジンの西村さんと久しぶりの音楽談話に花を咲かせました。そういうこともない3年だったのでとても楽しみました。

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