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モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595

2014 JAN 19 22:22:13 pm by 東 賢太郎

まず「春への憧れ」へ長調K.596をお聴きいただきたい。

来て、大好きな五月よ、木々をまた緑にしてね
そしてぼくに見せて 小川のほとりに小さなスミレが咲くのを

Komm,lieber Mai,und mache die Bäume wieder grün
und lass mir an dem Bache die kleinen Veilchen blühn!

ピアノ協奏曲第27番K.595の第3楽章のテーマはこの歌からとられたというのが通説である。作品目録によるとK.595が1791年1月5日、K.596は1月14日となっている。この歌は魔笛の台本を書いたアルベルティが刊行した「子供と子供好きな人のためのクラヴィーア伴奏歌曲集」という家庭用の易しい曲集のために書かれた。それは今でいえば「母と子の楽しいお歌の絵本」みたいなものだ。K.596~8は他人の作品も含む「春の部」全30曲のうちの3曲となったが、後続は冬の部だけで終わってしまった。目録では3曲の作曲日は全部1月14日となっており「3曲まとめてお届け」の軽いお仕事であったことは明白である。そのために書いた旋律を、最も大事なピアノ協奏曲に転用?普通の人の感覚からすれば、話は逆なのではないだろうか?

では、今度はこっちをお聴きいただきたい。

恋はかわいい泥棒。(イヴを誘惑した)蛇みたいなものよ。心を満たしたと思ったらすぐ奪ってしまう。目から心へもし恋が忍び込んできたら、あとは任せるしかないの・・・・

これはオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」第2幕でドラベッラが歌うアリア「恋はかわいい泥棒」(E amor un ladroncello)変ロ長調である。もうすっかり新しい男の誘惑に心が陥落してしまっている 妹が「ねえ、お姉ちゃん、堅いこといわないでいいじゃない、ねえねえ」と姉をそそのかす歌だ。この次のアリアでついにお姉ちゃんも落ちてしまう、非常にポイントとなっているアリアである。

清純派の「春への憧れ」とは何というコントラストだろう!

しかし、同じ変ロ長調で書かれたこのアリアとピアノ協奏曲27番は同じパッセージを共有しており明白な近似性があると僕は思う。音楽学者アラン・タイソンのエックス線分析によると27番は1788年に使用していた五線紙に書かれており、「コシ」(完成は1790年1月)の作曲中に作られていた可能性がある。僕は27番のテーマはドラベッラから来たものであり、たまたま演奏しようと27番を仕上げて清書した91年1月に、ちょうど舞い込んだ一日仕事である子供の歌に調をかえてちょいと転用したのだと思っている。

アルフレート・アインシュタインが「最後の春を自覚したモーツァルトの締念の明朗さ」「幼くして亡くなった子どもたちが、天国で遊んでいるかのよう」と評した27番の第3楽章。これを「浮気のおススメ」のお歌でしたなんて言おうものなら「なんと不謹慎な!」とお咎めが飛んできそうだ。でも1791年も元気いっぱいだったモーツァルトは1月時点で「最後の春」だなんてかけらも思っていないし、なにも諦めてもいないのだ。ぜんぜん事実を見ていない。どうしてこういう人が出てきてしまうのだろう?

僕の説を言おう。世界のモーツァルティアンはサユリストである。あの吉永小百合サマがトイレなんて行くわけないだろうと本気で思っていそうな人たちだ。恋は盲目という。1791年が死の年と知ってしまった彼らは彼にウワキストの音楽なんて書いて欲しくない。ましてそんな不浄なものを子供のお歌に使う不届きものでいて欲しくないのである。だからあのメロディは5月のスミレの歌なのだ。天国の子どもへの捧げものなのだ。

彼らは恋人が人気凋落で困窮の生活にあえいでいたと主張しながら、だからこそ普通の人ならそうするであろう、「必死の金もうけ」の努力は絶対に認めない。恋人は普通の人ではない。お金なんて不浄なもののために彼はいたんじゃない。神の使いなのだから。ということはモーツァルトは社会主義国に生まれていたらきっと幸せになったろう。そして、このスタンスは元来が社会主義的である日本国において強く共感されている。生活苦に耐えぬくから「おしん」は美しいのであって、彼女がある日株を買って儲けたりしたらそれこそ人気凋落だろう。

僕は1791年は彼がオペラプロダクションで失地奪回して一旗揚げようとした元気いっぱいの年だったと確信している。世をはかなみ、あきらめの境地で白鳥の歌を書いたなどという文学青年が描いた星目の少女漫画みたいなのはどう考えても違う。これについては「モーツァルトの死の真相」なる稿にする。モーツァルトは非常に「資本主義的」な男であり、金儲けと贅沢と女が大好きなエピキュリアン、ビッグスペンダーだ。いま生きていたらミュージカルやポップスのプロダクションオーナーでマンハッタンにビルの一本も持っていたかもしれない。なぜそこまで言うか、少しご説明を加えさせていただきたい。

僕はけっして読者の美しいモーツァルト像をこなごなにして不愉快な思いをさせようと目論んでいるわけではない。これは彼の手紙と自筆譜と音楽というファースト・ハンド・インフォメーションを40年間じっと見聴きし観察してきた僕の直感が出した結論であり、映画や俗説に影響されたものではない。それと全く同じ意味で、世界の音楽学者、文学者、知識人らお歴々が200年にわたって作り上げてきた通説というものも、僕にとっては単なるセカンド・ハンド・インフォメーションという括りでしかないことをお断り申し上げたい。なにより、サユリストにはご不快に聞こえることを承知で書くが、僕は彼という人間にえも言えぬ共感がある。ケミストリーが合うひとだと直感する。だから人間としての彼がものすごく好きなのだ。恋人ではなく友達のような感じで。

ついでに書くと、手紙で見る彼の父レオポルドはびっくりするぐらい僕の親父と似た性格だ。いやらしく干渉して箸の上げ下げまで細かくて万事うるさくてケチで金にシビアで勉強しろ偉くなれしか言わない。でもその強烈な縛りがあってぎりぎり一人前になった。そうでないとエピキュリアンは道を外れてグレてしまうからだ。しかし長ずると耐えきれなくなってその支配の手から逃げ、嘘をつき、ついにわがまま放題して独立してしまう。息子の心の経緯や手管は手紙で現在進行形のようにリアルにわかる。

それがあまりに似ていて僕の琴線にびんびん伝わってくる。もう僕はそれが自分の秘事の暴露で赤面するような気持ちで読んでしまっている。そんな風に一体化して共感できる人は過去にも現在にも、僕には世の中に一人もいない、つまり、音楽家か天才か魔笛が名曲かどうかなどを問う前に、彼は僕にとって気になる人間であり、どこか特別の人なのである。それは僕のクラシック音楽好きとも何の関係もない。そういう特別の人がたまたま有名な作曲家でもあり、だからあんな手紙が残っていたというだけだ。

こういうフシダラでなおかつ米国人なみに資本主義的な人間である僕が、清純派にだけ操を尽くすような真面目で勤勉実直な、ご本人たちは思っていないだろうが僕の眼には社会主義者である官庁や銀行に就職するようなタイプの方々に未だかつてちゃんと理解されたというためしはない(ちなみに親父はその銀行員だ)。だからモーツァルトが僕の思うような奴だったとすればだが、宮仕えがうまくてつまんない会議で真面目に発言していい子にならないともらえない頭取賞みたいなものをたくさん貰っているに近い音楽界での景色を見るにつけ、違うでしょ、それだけはという気がしてしまうのだ。

そういう人が書いてしまった27番。しかし、サユリストをそうしてしまう尋常でない何かがある。モーツァルトにとって特別な変ホ長調で書かれた第2楽章。これはどこから降って来たのだろう?天国?そうかもしれないと僕もそう思う。これを見てほしい。

モーツァルト27番

これは第2ヴァイオリンが奏する何の変哲もない音階練習のようなフレーズである。ところが、どういうわけか、これを聴くと僕は心の底から悲しさが湧き出てきて体が凍りつき、金縛りのようになる。もっといえばこの楽章全体がどこか浮世離れしていて、薄暮の森の中を魂だけがふらふらと浮遊しているような不思議なものである。僕でもピアニストがつとまってしまうぐらい簡略な音符だけで書かれているのに!これはおそらくクラリネット協奏曲のそれと並んでモーツァルトが書いた緩徐楽章で最美のものだ。

第1、3楽章での転調はこれみよがしなものはいささかもないが、達人が草書体の自在さで深みのある彩りをそえるという風であり、それまでのすべてのピアノ協奏曲とちがう。楽想もおだやかで平和に満ち、才気や挑発というものを感じない。それでいてこの曲が醸し出す幽玄な魅力というものがどのように舞い降りてくるのか、僕にはまだわかっていない。まだ勉強も経験も足りず、どうしても歯が立っていないという感じがするのである。

当面の理解で、僕がいいと思っている演奏をご紹介する。この曲はトランペット、ティンパニを欠きフルートも1本だけで、弦楽器の扱いがデリケートである。この意味あいはこの異例のコンチェルトの演奏において非常に大きい。だから神経の通わない音を許容するような演奏は言語道断なのだ。ところが第1楽章の入り、変ロ長調の第1ヴァイオリンのpのフレーズ(楽譜)から、どうもいいものが少ない。

 

モーツァルト27

こんな簡単なフレーズがどうしてうまくいかないんだろう?世評が高いバックハウス盤のウィーン・フィルもだめだ。後は推して知るべしになる。奏者たちがどうもベームの棒に感じ切っていない。ベートーベン、ブラームス弾きであるバックハウスが老境で録音したこの演奏はそれなりのものではあるが彼のモーツァルト観はやや違うと思う。

 

クリフォード・カーゾン / ベンジャミン・ブリテン / イギリス室内管弦楽団

カーゾン作曲家ブリテンの指揮がすばらしい。カーゾンのデリカシーに満ち満ちた珠玉のようなタッチのピアノをあたたかく包み込み、冒頭から神経の通わないお座なりのフレージングは皆無である。両者とも音楽性の塊でありこの音楽に敬意と愛情を注いで音を紡いでいるという風情は感動的だ。第2楽章は遅く、ピアノはモノローグをぽつりぽつりと弾くことになるが、心の揺れを伴って微妙に動くテンポは音楽の息吹そのものであり、ブリテンがそこに添えられなくてならないものをそっと当てがう様は至福の瞬間だ。

 

マリア・ティーポ / アルミン・ジョルダン / パリ室内管弦楽団

ティーポ宝石のように硬質に輝くタッチで奏でられるピアノの高貴さは格別である。自在なテンポで生き物のように紡ぎだされるデリケートな粒立ちが本当に美しい。ナポリ生まれで女ホロヴィッツとよばれた腕前であったが彼女が技巧だけの人ではないことはこの演奏で証明されただろう。第2楽章は幽玄さよりもラテン的な透明感があり、フランスの木管と絡み合うさまは夢のよう。第3楽章のピアノの粒立ちとしゃれたリズムの立たせ方もため息ものだ。ジョルダンのオケは木管が際立つが弦の微妙なピッチにも細かい神経が通っている風で上等である。

 

エミール・ギレリス /  カール・ベーム /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ギレリス モーツァルトここのウィーン・フィルは悪くない。ギレリスのモーツァルトというと録音当初はやや違和感を覚えたが杞憂であったのを思い出す。たっぷりしたテンポで愛情をこめて弾くピアノはあたたかい音色に芯があって美しく、現代ピアノで聴くモーツァルト演奏の喜びだ。遊びはなく禁欲的で第2楽章には感じ切った深い情感がこもる。大人の演奏だ。ベームもここでは比較的良い。第3楽章ではギレリスの技術のすごみ、指の回りが各所で看破できるが、それが音楽の本質にだけ寄与しているというのは演奏家として最高の境地ではないか。

 

フリードリヒ・グルダ / クラウディオ・アバド /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

グルダ意味深い遅めのテンポで始まる第1楽章でグルダのピアノは自在のアクセントとメリハリをつけるが、それでいて古典的な均整感も感じさせるという非常に次元の高い演奏を達成している。アバドの棒は何をしたいのかよくわからず、並録されている25番など第1楽章のあまりの遅さに閉口して聴くのをすぐ辞めてしまったが、ここでは謙虚にグルダのサポートにまわっている。ただ第2楽章の楽譜を挙げた第2ヴァイオリン、ヴィオラの波打つようなせせらぎの意味を指揮者が分かっているとはとうてい聞こえず、単なる伴奏カラオケの域を出ない。グルダの名演を味わうCDということである。

 

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