ブルックナー交響曲第9番ニ短調
2015 JAN 19 2:02:37 am by 東 賢太郎
先日ある方とふるさとの話をしていて、自分は東京なんでそれがないんですと言いながら、たしかにお盆に帰る所はないけれどひょっとして多摩川がそうかもしれないと思いあたりました。物心ついてから中学に入るまで和泉多摩川の、川へすぐの団地に住んでましたから。
結局5年ほど前から居所は多摩川に帰っていて、週末は川辺までジョギングに出ます。四季それぞれ川は匂いが違います。道端の雑草の草いきれも浅瀬の藻の匂いも変わります。石を高く投げ込むとペカン!と音が鳴る。その瞬間に50年前に帰ります。自分の幼少時の記憶には水のある風景というものがついてまわります。
当時通っていた成城学園初等科から坂を下ったあたりに沼地のような所があって、春の晴れた日、背の高い草をかき分けながらむんむんする泥にまみれてそこに入っていくと、生ぬるい大きめの水たまりにぬるぬるのゼリーみたいな蛙の卵がうようよとありました。うわっとびっくりするぐらいたくさん。何日かしてそれがみんなおたまじゃくしになってる。水中そこいらじゅうに丸々太って黒光りしたのが数知れず泳ぎ回っています。
その時、うしろのグラウンドの方を立ちあがって見た。あったのは太陽です。まぶしくて何も見えなかったのですが、その光景というかもはや心象風景といったほうがいいですが、それはその後も夢に出てくるまでに鮮烈に僕の中に刻みこまれていて、水とおたまじゃくしに何かをもらって自分の生命が力を得たような気がする。もう一度あのあたりに行ってみたいと思っていますが・・・。
はるか時を経て、クラシック音楽というものに出会っていろいろ聞きすすむうちに、あれっと思うものに出会いました。ブルックナーの第9交響曲です。アダージョの静けさを破って天から神々しい光のシャワーが降りそそぐ部分。トランペットがこんな神のお告げのようなものを奏でます。
ここをきいたとき、ああこれがあれだったんだと思いました。理屈でなく。あの成城の沼で見た太陽。うようよと蠢くおたまじゃくし。神と肉。天界と俗界。自分もその俗の一部であって、生命を戴いている者なんだという啓示のようなものでした。
あの光の向こうには、なにかとてつもない高貴で期待に満ちたものがある気がして、今もつらいときあれを思い出してみたりします。そういうものがあの時やってきてしまった。邂逅です。この交響曲はそれを思い出させます。
それは83年、この曲をロンドンで初めて聞いた時です。ハイティンク/ ACOの演奏に眼前で接していて、急にあの成城の記憶が甦ってしまった。何の脈絡もなく。それ以来、9番は特別なものとして僕の中で君臨しており、バッハのマタイ、モーツァルトの宗教曲などと同等にめったやたらには聴かない音楽になっています。
一昨日買ったワルター組物にこれが入っており、久々に聴きました。僕がワルターに敬意を持っているのは、彼が「指揮屋」ではない、本物の音楽家だからです。往年の大家で最もピアノ演奏でも尊敬された人であり、こけおどしのショーピースには目もくれなかった。師匠であるマーラーの交響曲でさえ3,6,7,8番は振っておらず、6番は嫌いだったとどこかに書いてありました。まったく同感、我が意を得たりなのであります。
ユダヤ人でなければ米国に来る人ではなかったでしょう。ナチスを逃れ、さいはての西海岸LAという似つかわしくない地で、当地のオケ(LAPO等)のメンバーと録音した晩年のCBS盤のおかげで、19世紀から独墺で鳴っていたオーケストラ音楽の奥義がステレオ録音で残された。この歴史の偶然には感謝の念を覚えます。
亡くなる4年前の1月からハリウッドのAmerican Legion Hallで始まった録音はそれを伝える至宝です。残された時間を悟っていただろうワルターが録音したのは彼のこの世へのラスト・メッセージであり、そこに選ばれた曲というのは人生にとって意味のあるレパートリーだったでしょう。それを時系列に整理してみました(データはBRUNO WALTER DISCOGRAPHYのサイトによる)。
僕は全部一度は耳にしていますが、青字はそのうちでも愛聴しているものです。これを見ると前回のイストーミンとのシューマンPCはブラームス・セッションの真っ最中であったことがわかります。ワルターのブラームスへの愛情は底しれません。あのシューマンの異様なテンションの高さはそれと関係あるかもしれません。
ご覧のようにセッションはベートーベン、ブラームス、マーラーと固まって行われており、最後にモーツァルトがきて彼は亡くなりました。ブルックナーは3曲のみで、9番がベートーベンとブラームスの間に、4番がブラームスとマーラーの間に、そして最後に7番です。ブルックナーをまとめて録ることをせず、セッションの節目に演奏したかのようです。このあと8 番が予定されていたようで彼のブルックナーへの思いがよくわかります。
58年以降が重要です。ワルターがそこからのラスト・セッションで録音を残そうと取り上げた師匠マーラーの交響曲は1,9番の2曲、NYやウィーン・ライブの2,4,大地を入れても5曲、ブルックナーは8番を入れて4曲です。彼がこれほど思いを込めたブルックナーは、マーラー指揮者の誤ったイメージ、ドンシャリの粗悪米国プレス、原典版ブームによって切り捨てられてしまったようです。
ブルックナーに限らずこれらハリウッド録音のLPは音がハイ上がりでひどく、当初から誤った評価をされています。僕自身、ここに書いたように彼のモーツァルトやベートーベンは良い思い出がなく、大きな誤解をしていたことがだんだんわかってきました。ワルターのモーツァルトはLPで
わが国では老ワルターなどと呼んでよいよいのおじいちゃんが昔を回顧した録音のように思われていて、それだから人間味があって良いなどと大幅に見当違いな評論がなされていたものです。リハーサル風景の録音も残っていてそれをきけばまったくの誤りと分かります。上記ブログにも書きましたが、シャープな頭脳とてきぱきしたプロフェッショナルな指示と進行はウォートン・スクールのばりばりのやり手教授を思い出します。
そういう最晩年のワルターを記録しようという米CBS製造側の高い志が、販売側の売らんかなの低い志によって台無しにされてしまったようです。CDも日本でリマスターをはやして売り出されたものの音は絶句するひどさでした。音を原音に近づける編集は大変結構だが、音楽のわかる人にやってもらわないと。
さて9番ですが、こっちはブルックナーのほうが完成せずに亡くなってしまった。第4楽章の補筆完成版もありますが僕にはホルストの惑星の冥王星みたいにしか思えない。天国にのぼるようなヴァイオリンのシ、ファ#、ソ#、シ・・・一体あれに何が続くというのでしょう?もしするなら遺言どおりテ・デウムであるべきです。
第1楽章冒頭、二音のオルゲルプンクトの荘重な開始。9番でニ短調ゆえにベートーベンの9番を思わせるとこじつける人が多くwikipediaに「空虚5度の開始」とまで書いてある(二音のユニゾンであり誤りである)。第2楽章がスケルツォである以外に第九を想起するものは何もありません。これが変ホ長調を経て変ハ長調に行ってしまう和声の崩壊感は天界から俗界への転換を思わせます。コーダは再度二音のオルゲルプンクトにナポリ6度のE♭が何度も乗り、解脱を試みるが二音に引き戻される。非常に印象的なコーダであります。
この部分、僕はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番の終楽章コーダ、暗い死の予感があるハ短調からひととき明るいナポリ6度の変ニ長調に何度も何度も行こうともがいて、最後は力尽きてハ短調の悲劇で終わる、あのつらい終結を想起します。金管とティンパニのsfで勇壮な響きに聞こえますが、内包するものはそうではないでしょう。
第2楽章、暗い森のなかに落ちる雨粒のようなピッチカート。神の審判が稲妻のように下る主部。ブルックナーは9番をDem lieben Gottと神に捧げていますが、終楽章をテ・デウムで代替する示唆をしているようにこれは教会のような音響がふさわしいように感じます。寒くて暗い空間の残響に審判がこだまする、神へのおののきを喚起する音です。
僕は2005年のクリスマスにウィーンのシュテファン教会の礼拝でブルックナーのホ短調ミサが使われているのを聴きました。彼が神に捧げている音楽はああいう音響を求めています。9番は特にそうです。これを残響の足りない東京のホールで聴くというのは非常に限界を感じます。そういう音響に近づけたいため僕は自助努力で部屋は石壁にしました。ワルターの録音もそういう音で鳴ることを意図したと思います。
終楽章は短9度の跳躍といういきなり和声感を失わせる開始に驚きます。Sehr ruhigの前、オーボエのド#、レ#の長2度で天使の吹く笛の信号のような意味深長なものが響き、音楽は止まってしまう。この楽章の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、ここで無力な筆は置きます。ブルックナーはこの楽章を人生への告別と呼びました。それがすべてを物語っているように思うのです。しかし、僕のおたまじゃくしの部分、あれはいったい何なんだろう?
(補遺、3月21日)
ロヴロ・フォン・マタチッチ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
これをロンドンでLPで買って何度も聴き、カラヤン盤(66年、BPO)を聴き、なんとも9番がわからなくなったのが懐かしい。トルソは自己流の完結が難しい。後者がとことん美しく、まるで予定調和のような終結をむかえるのに対しこれは儚い。何か諦めきれない感情を包み込んで浮遊するように消える。カラヤンの方が音楽として完成しているが、記憶にささっていたのはこのマタチッチ盤だった。彼は8番も秀逸で、大きな音楽をした人だ。きれいな音を作るよりそちらを大事にした人だった。
ウォルフガング・サヴァリッシュ / バイエルン国立歌劇場管弦楽団
シューリヒトやヴァントを差し置いてこれを挙げる人は極めて少ないだろう。これを聴くのは無上の喜びである。名門オケを振りながらこんなに大仰な粘りやタメとは無縁で、自分のコンセプトを純化して音にするだけの指揮もそうはなく、僕は5,7,8番とちがって9番のスコアにそれを求めたい。鳴っている音は極上だ。このオケはドイツの良いホールで実演を聴かないとわからない金色の絹のような質感があるが、このOrfeo録音は遠目の音像ながらいっさい混濁がなくそれを髣髴させる。こういう演奏にどっぷりつかることのできたドイツ時代が懐かしい。ヨーロッパの良識を伝統の器に盛り、最上級の音で再現する、これをさしおいて何か奇矯を求める鑑賞態度は僕とは無縁だ。
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