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クラシック徒然草-ブルックナーを振れる指揮者は?-

2014 FEB 14 11:11:37 am by 東 賢太郎

前回ブルックナーについて書かせていただきました。後期ロマン派としてなぜかブルックナーとマーラーは対比されるのが常ですが、この2人に何か精神的な基盤となる共通項を見出すことは大変に困難です。僕にとってブルックナーは人生に不可欠ですが、マーラーはもう一生聞かせないと神様に取り上げられてもあまり悔いはございません。食わず嫌いではなく全曲を真剣に聴いてきた結果そういう結論に至っているのでご容赦いただくしかありません。マーラーファンの方は、きっとお怒りを感じると思われますので、以下はなにとぞお読みならないようお願いいたします。

また本稿が何らかの宗教的な意味合いやアンティ・セミティズムのようなものから発しているわけではなく、また他人様の趣味に意見しようというものでも毛頭ないことを最初にお断りしておきます。僕が「マーラーは嫌いです、まったく聞きません」というとたいがい「ではブルックナーも?」とくる、たぶん日本人だけが持っている大きな勘違い。それがテーマです。前稿に書きました「ちゃんとしたブルックナー」とは何か?「どの指揮者がそれを振れるのか」?という僕なりの見解を述べることです。

ですから、大変申し訳ないのですが、マーラーもブルックナーも同じだけ好きだという方が、マーラーはともかくブルックナーの方をどう聴いておられるのか僕にはちょっと想像がつきません。僕のイメージでは、ブルックナーは宗教画、風景画、静物画であるのに対し、マーラーは人物画、さらに言えば自画像、時にカリカチュアですらあります。同じ美術館の同じ時代の一画にはあっても、同じ部屋に並べられると違和感がぬぐえません。

鑑賞する方はさておきましょう。さらに申し訳ないのですが、本質的にマーラー指揮者である音楽家がブルックナーを振っていると、まがい物かレコード会社のイエスマンではないかという風に僕は見えてしまうのです。マーラーに徹していればよかったのに何の因縁か振ってしまったバーンスタイン、ショルティ。悪くないのもあるがワルター、マゼール、インバル、クーベリック、アバド、シノーポリ、ノイマン、テンシュテットもやめておいた方が評判を損ねなかったでしょう。ブーレーズにいたっては何を勘違いしたのか意味不明です。聴けるのはジュリーニ、クレンペラー、べイヌム、ハイティンク、シャイーですが後者3人はやはり ACOというオケの美質に多くを負っています。

ブルックナーの音楽は自然のアブストラクトな表現という最も核心となる一点においてマーラーとは遠くシベリウスによほど近いのであって、ブルックナーにあってシベリウスにないのは神という視点のみです。しかし、自然は神が造った万物であるというのがキリスト教ですから、そこに三位一体の中間に立つ人間という存在が介入しないのは同じことなのです。ところがマーラーというのは真逆であって、神と自然が欠落して人間のみが出てくる。しかも勘弁してほしいことにその人間は彼自身であるのです。ご異論があれば、上記の勘違い組の中でシベリウスをまともに振れる人を挙げられますか?バーンスタインはそこでも異質。唯一、若いころのマゼールが例外なだけです。

つまりブルックナー、マーラーとは完全に補集合的存在であって、たまたま近い年代のウィーンで時を過ごしただけのこの両者が「同一の精神領域」に存在すると感じること、つまり両方を演奏したり共感を持って聴いたりすることは僕にはまったく考えられません。マーラーの2、6、7など私小説かつ自画像の陳列であって、彼という人間になんの共感も持てない僕には聴くのが苦痛でしかありません。その自画像がR・シュトラウスの英雄の生涯などという見るからにチープなフレームではなく一見立派な金縁の「交響曲」というフレームに収まっている、いや確信犯的にそこに収めている手管がまた嫌なのです。チャイコフスキーも悲愴という私小説を書きましたが、それは交響曲である前に強烈な自殺メッセージであり、彼の自慢の髭面を四六時中眺めさせられる拷問ではありません。個人の好き嫌いを書いて大変申し訳ありませんが。

上記のリストに挙げなかったのがカラヤンです。誰の何のウンチクだか知りませんが、unnamed (51)カラヤンをけなすのが通だと勘違いしている人が際立って多いのがわが国音楽界の顕著な特徴です。僕は彼の57年録音(EMI)のブルックナー8番(右が買ったLP)を高く評価しています。これはおそらく彼のBPOデビュー近辺の録音で、そんな大事な1枚に当時は欧米でも通しか聴かなかった売れそうもない8番を持ってくる指揮者がどこにいたでしょう。カラヤンけなし派の方々は彼のシベリウスの4、6番という大変な名演をどう評価しているのでしょうか。2番はフィルハーモニアOへのお義理で録音だけして実演ではやらなかった彼が4、6番をじっくり研究した、そういう趣味と耳と読譜力とオケを率いる技量を持った指揮者をけなすのが通という人たちが一体何の通なのかさっぱり理解できません。そして、述べたようにシベリウスとブルックナーは遠くないのです。

カラヤンはマーラーを4、5、6、9、大地と振っていますが4、9、大地の3つは音響プロデューサーではなく芸術家としての彼の資質をよく表わした選曲と思います。ブルックナーは全曲録音した彼が1~3、7、8をやらなかったのはそもそも作曲家に共感がなかったからでしょう。DGに進出して自分の縄張りであるベートーベン、ブラームスに侵食してきたバーンスタインを彼は意識していたそうで、その逆襲ぐらいのものだったのではないでしょうか。バーンスタインの手垢がついたショスタコーヴィチ5番を振らなかったのも意識があったのだと思います。

unnamed (52)僕のブルックナーのレコードはそのカラヤンの8番をはじめ、コンヴィチュニーの7番、クナッパーツブッシュの5番(右)、ワルターの4番、マタチッチの9番、ヨッフムの6番が大学時代に買ったものです。このクナの5番はシャルク版というひどいカットがあるものなのでもう聴いていませんが、演奏は非常に良くていい入門になりました。

5番は最も好きで、前回書いたヨッフム盤に加えて、カール・シューリヒトが1963年2月24日にウィーン・フィルを振った楽友協会ライブ、ルドルフ・ケンぺがミュンヘン・フィルハーモニーを振ったもの、ギュンター・ヴァントがケルン放送交響楽団を振っunnamed (53)たもの、エドゥアルド・ファン・べイヌムがコンセルトヘボウを振ったものが好きでよく取り出して聴いています。LPで非常に感心したのがハンス・ロスバウドが南西ドイツ放送交響楽団を振った7番(右)です。この物々しくなさ、軽さ、速さはユニークでこんなにどろどろしない7番も珍しい。しかし見事にツボをおさえていてちゃんとこの曲を聴いた満足感を与えてくれる、これぞ通好みの演奏でしょう。

これまた日本の「通」がほぼ無視しているのがバレンボイムです。彼はシカゴとベルリンで2度も全集を入れていますが僕は評価しています。フィラデルフィアで彼が僕の嫌いなリストのソナタを弾くのを聴いたことがあって、これが一生の記憶に残る名演でした。テクニックのひけらかしは皆無でテンポの遅い部分が語りかける。曲のイメージが一新しました。バッハの平均律(CD)も表面の美観ではなくあの時のリストに似た深い沈静感が彼の美質なのだとわかります。それはブルックナーに適合した美質でもあります。彼はユダヤ人ですが、ユダヤ人が振るマーラーをステレオタイプ思考で誉める傾向にあるお国もの好きの日本の評論家からすると、その彼が振るブルックナーというのは収まりどころがないのかなと見えます。そういう御仁たちのつまらないウンチクなどお忘れになった方がいい。ちなみにバレンボイムは日本人にはブルックナーはわからないという意味の発言をしたそうですが、これはメニューインの田園交響曲発言と同じで、そうかもしれないと思ってしまいます。

こうして書き出すときりがありません。日本で神格化され「ブルックナー大権現」と化しているクナやシューリヒトや朝比奈を今さら論じるのも時間の無駄ですから、ここでは評価していない指揮者、評価されてもいい指揮者だけにしました。僕が「ちゃんとしたブルックナー」として聴いているものがどういうものか片鱗だけでもご理解いただければ幸いです。各曲ごとの「各論」はいずれ書いて行こうと思います。

最後にブルックナーの版の問題について一言。これは曲によりますが非常に差が大きく、原典版の場合別の曲というほど違うこともざらにあります。しかし僕は前回書きましたが、作曲者自身がそれに寛容だった背景と思想から、ベートーベンのベーレンライター版の是非論とは全く反対にあまり版にはこだわらず聴くことをお薦めします。せっかく良い雰囲気を体感させてくれている指揮者に対して、シンバルの一打ちがあったかなかったかのような些末なことで評価を変えてしまうようなことはブルックナー鑑賞の本筋を大きくはずれています。別に「正しい版」があるわけではないのです。そういうウンチク好きのマニア向けマーケットはクラシックでは大事ですが、古楽器演奏がはやったのと同じ商業的動機を強く感じてしまいます。どの版を選んだかとか、誰も演奏したことのない版を探してきてやってみせるみたいなことよりも、「ちゃんとした演奏をできるかどうか」の一点の方がよほど大事で、ブルックナー演奏の本質探究はそこだけでよろしいかと僕は思います。

 

(追記、2月3日)

その問題はオリジナル楽器で春の祭典をやりましたのようなものにまで波及していて、いくつかそういう「祭典」を買って聴きましたが実に本質を外れたつまらない演奏であって、原節子や吉永小百合の「そっくりさん」が往時の彼女らの映画の役を演じたリメイク画像のようなもん。アホらしくてすぐ捨ててしまった。音楽の王道ど真ん中のブーレーズ盤に正面から対抗できないことを自ら告白するようなものだ。アーチストとして二流ですね。

(追記、2月24日)

ブルックナー交響曲第8番について

8番を書かずに終わってしまったのでやや悔いがあり、演奏のことだけでも書いておきたい。8番はフィラデルフィア管弦楽団定期演奏会でスクロヴァチェフスキー指揮の強烈な洗礼を受け(1983年10月28日だった)、まったく特別な曲となった。ずっとのちに東京でMr.S指揮/読響(02年)も聴いたがあれと比べてしまうので感銘は大したことはなく、これより尾高忠明/N響(07年)が良かった。フランクフルトのアルテオーパーで聴いたギュンター・ヴァント/NDR響も印象に残っている。曲を知ったのは大学時代に買った上記カラヤン盤。CDで感銘を受けた筆頭はシューリヒト/VPO盤だが、この語り尽くされた名演に僕が加えることは何もないだろう。90年にニューヨークで買ったクナッパーツブッシュ盤はよくきいたが録音に深みがなくもったいない。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー /  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(49年3月15日、ベルリン、ティタニア・パラストでのライブ)

51Mo460HXgL__SL160_僕はフルトヴェングラーのブルックナーは好きでない。この演奏もコーダのアッチェレランド、ティンパニの不可解な爆発、ハース版とあるが一概にいいきれないなど認容しがたいもの続出なのだが、それでも彼が聴衆の心をわしづかみにしたのはこういうことだと示す好例がこのライブなのだ。この前日(14日)に放送用録音がありEMIから出ているが、圧倒的にこれだ。僕は彼がピアニストだったらといつも思う。ハンマークラヴィールソナタやさすらい人幻想曲や交響的練習曲などぜひ聴いてみたいし、そう思わせる指揮者は他に浮かばない。彼の視座は常にマクロにあって帰納的で、ミクロから演繹する人と対極にあるのが最大の特徴であり、それが彼を今に至るまでオンリーワンにしている。凄いことだ。大発明は帰納法的に発想され演繹的に証明されるのだ。この終楽章の加速は何だ?といぶかるのはミクロの次元の話で、8番の鳥瞰図ではそれでピタリとはまるのかもしれないと思わされてしまう。スコアを広げてそれを眼から俯瞰できるのは天賦の才であって凡人は知ってから気づく。現にこれを知ってしまった凡人の僕にはスコアの方が違うとみえてしまう(そんな筈ないだろ・・・)。ブラームス1番と並んでそうなってしまった罪作りな演奏であり、嫌いだと言っているそばから自分も信者なのではと不安になってくる。写真のSACDも買ってみたが、もともとフルトヴェングラーのライブではトップクラスの良い録音であり僕の装置ではそうご利益も感じない、好き好きだろう。

カルロ・マリア・ジュリーニ /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ジュリーニの残した数々の名盤の中でも1,2を争うものと思う。ノヴァーク版はあまり好きでないし、第1楽章の金管は音程がずれたりVPOならではのアバウトさがあるが、この極上・究極の管弦のブレンドとジュリーニの打ち立てる盤石のフォルムの前にはどうでもよくなってしまう。押しても引いてもびくともしないとはこのことだ。ホルンとチェロの合奏の綾など音楽演奏の媚薬とすら感じる。ワインでいうならペトリュスの82年がこうだった。美味だけでない、美に梃子でも動かぬフォルムがあるのだ。ムジークフェラインで正月に聴いた実物のVPOもここまででなかったのだから録音の美なのか?それを用いて一切あわてず騒がずのテンポとバランスで建築していくのだが、こんなに綺麗でいいのということにならないのがジュリーニなのだ。何度も書く「フォルム」、構造でもカタチでも形式でもない、うまい日本語がないこの言葉、彼の指揮芸術の根幹をなすそれをお感じになって欲しい。こんな指揮者もいなくなってしまった。

(補遺、3月14日)

エドゥアルド・ファン・べイヌム / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

622こういう8番を好まない人は多いかもしれない。長大な8番というとやたらと意味深げに構えて、偉大なるスピリチュアル・イベントでございといった雰囲気の演奏が横行するが、そういう皮相な解釈をあざ笑うかのようにこれはスコア(ハース版と思われる)を直截的に音楽的に鳴らすだけの直球勝負だ。実に小気味よい。スケルツォはきっぷの良い江戸っ子の啖呵のようで豪快、全体にさっぱり系でメリハリあるリズムと推進力に圧倒され、アダージョは辛気臭さが皆無で純音楽美をひたすら追求。僕の最も好きな演奏の一つ。

 ヨゼフ/カイルベルト / ケルン放送交響楽団

400 1966年11月4日、カイルベルトが最後に振った8番の記録。彼ほど音楽を巨視的視点からとらえ、聴き手を納得させられた人は少ない。それはブラームス2番の稿に書いたことだ。20世紀初頭のオーケストラはこう響いていたのかという音。フルトヴェングラーのように異形を演じることなく自然な造りでそれを成し遂げるのは伝統という言葉の真の意味を開陳する。8番としてはずいぶんあっさり聞こえるが、要所を知り尽くし、十分なクラリティのステレオ録音で内声まで浮き彫りにするそれは、ドイツ人のブルックナーの良識と感じる。

ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

クレンペラーのブルックナー8番について

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ブルックナー交響曲第7番ホ長調

 

(こちらもどうぞ)

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

 ブルックナー交響曲第9番ニ短調

 

 

 

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