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モーツァルト セレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」K.388

2015 JUN 1 22:22:34 pm by 東 賢太郎

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前回、ウィーンで足蹴の屈辱をうけて「丸腰の素浪人」となったモーツァルトが、自分のシンガーソングライターとしてのデビュー用に満を持して用意したピアノ協奏曲第12番作曲のいきさつを書いたモーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414)。その屈辱を忘れ、天性のプラス思考に火をともす契機となったのはコンスタンツェ・ウェーバー(右)との結婚だったことも書いた。

モーツァルトが母とパリに求職旅行の道すがらマンハイムで知り合ったのがコントラバス奏者、写譜士のウェーバー氏だった。彼はオペラ「魔弾の射手」のカール・マリア・フォン・ウェーバーの叔父にあたる人物で、彼の一家は娘アロイジアをタレントデビューさせて生計をたてるべく、その出世とともにミュンヘン、ウィーンと家ごと引っ越した。今でも芸能界でよくある話だ。夫人がアロイジアを自分の扶養契約つきで嫁に出したのを僕は若いころ強欲婆さんのイメージで見ていたが、大黒柱のウェーバー氏は都に来てすぐに亡くなっていたのだ。寡婦が生活費のバカ高いウィーンで一家を支えるには当然の行動だったと、この年になると同情も覚える。

モーツァルトも同様に契約で縛られる。これを後世はけしからんとみてひどい母親だと思いがちだが、アロイジアと同じことだ。彼は経済的にはずっと不安定で母は不安だった。二人が「できて」しまい、コンスタンツェが家に帰らなくなったため母は警察沙汰にすると脅したようだ。彼は後見人だったヴァルトシュテッテン男爵夫人あて書簡に「もしそんなことになるなら、あすの朝にでも、できれば今日にでもコンスタンツェと結婚するのが最上の方法だと思います」と8月4日直前に書き、8月4日に結婚した。駆け落ち同然だったようだ。

見知らぬ地の孤独な境遇で戦う羽目になった彼にコンスタンツェというパートナーが現れたのは彼にとって運命だったろう。華やかではあるが冷たい大都市ウィーンでめざましい力で生き抜いたことは彼女の存在なくして考えられないと思う。悪妻の汚名をきせられてもいるが、ウィーンでのモーツァルトの絶頂期の10年、すなわち音楽史に燦然と輝く10年を支えたのは彼女であり、彼の壮絶な人生に心からの共感を覚える僕としてはそのことだけでもお礼を言いた気持ちでいっぱいだ。

歌劇「魔笛」で僕がいつも涙が出て止まらなくなるのは、最後の最後、パパゲーノの自殺の場面からパパパ・・・にいたる所だ。あのオペラの主役はきっとパパゲーノなのであり、それはきっとモーツァルト自身の投影なのであり、あのストーリーの大団円はザラストロやタミーノの念願成就ではなく、パパゲーノとパパゲーナの結婚なのだ。それはなによりも幸福だった彼自身の結婚であり、だからそれを祝福するあの部分の音楽がこの世のものとは思われないほど感動的なものになったのだと僕は信じている。

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モーツァルトがコンスタンツェと結婚する直前にヴィップリンガー通り19番地にあった「赤剣館」(右)の3階に引っ越したことを書いた。1782年7月23日のことだ。警察が踏み込むかもしれなかったのはここであり、前のアパートがウェーバー家の目と鼻の先だったからやや離れたここに逃げたのかもしれない。その3日前の7月20日付けの父への手紙に「僕のオペラを管楽器用に編曲しなくてはなりません。さもないともうけを横取りされてしまいます」とある。オペラとは大当たりしたばかりの「後宮からの誘拐」のことであり、当時の宮廷ではハルモ二ームジークといって管楽器楽団をかかえ、食卓でBGMを演奏させることが流行っていた。オペラの編曲はその格好のレパートリーだったのだ。

結婚をひかえ素浪人であったモーツァルトはリヒテンシュタイン候の楽団のために管楽器の音楽を書くことが「あまりもうからないが確実な仕事」と書いており、ハードルはもっと高いが、ウィーン宮廷に雇われたいという野望もあって皇帝の側近に管楽器の手の込んだ作品をアピールもしていた。そのどちらかの目的でその頃に書かれたと思われるのが今回のセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)である。彼はこの後、例の「アイネ・クライネ」以外はこのジャンルに曲を残していない。

この曲に誰もが思うのは、食卓でないにしろ一般にセレモ二アルな場で演奏されるセレナードがハ短調というのは奇妙だということだ。多くの学者はこれをスヴィーテン男爵のサロンでバッハ、ヘンデルの楽譜を研究した影響とみる。モーツァルトがバッハの楽譜に驚愕を覚えたことは想像に難くなく、平均律を四重奏に編曲したり、多くは未完に終わったがフーガの作曲を試行している。「プレリュードとフーガハ長調」(K.394)はその完成された例だ。

自身もフーガを作曲したグレン・グールドがそれを弾いている。フーガは巧みにバッハを真似ているがどこかこなれておらず、モーツァルトらしい顔ものぞく(最後にバスのソがラ♭に上がる所はK.491を予見する感性だ)。ここでグールドはバッハのフーガに「やばい」と思ったモーツァルトに鋭く共感しており、そういうことを愚鈍に無視した世間一般ミーハーのモーツァルト像が大嫌いだったにちがいない。その一点において、僕もまったく同じ動機で本稿を綴る者であり、彼に深い共感を覚える。

この曲は82年4月20日の手紙で「まずフーガを作り、それを書き写しながらプレリュードを考えた」と書いていて、モーツァルトの尋常ではない頭脳構造を垣間見る。さらに面白いのは、「コンスタンツェはフーガに夢中になっており、僕がまだフーガを書いたことがないと言うと、すべての音楽様式の中でいちばん技巧的で美しいものを作曲したことがないなんてと手厳しく僕を責め、しきりにせがむので、彼女のために1曲書くことになりました」と書いていることだ。

この部分の解釈は諸説あるが、僕はこれをコンスタンツェが父に気に入ってもらえるように売り込むために「フーガ好き」であることに脚色してイメージアップを図ったとみている(「ハ短調ミサ」のソプラノパートを歌わせるのと同様の手口だ)。どうしても彼女との結婚を前向きに認めてもらいたかった。もしそうであるならば、フーガは「すべての音楽様式の中でいちばん技巧的で美しい」と彼自身が認めており、そのことは父との間でも了解事項になると信じていたことになろう。

それだけではない。最愛の妻を得て心の平静を取り戻した彼は未来を見る。そこで自分の音楽に対して未来志向にもなっていたと僕は思う。「バッハの楽譜に驚愕を覚えた」と書いたが、才能に天狗になっていた彼を打ちのめしたのはそれだったろう。何度も書くが、彼は作曲に関してプラグマティックな人間である。技術で誰かに負けるということは彼の辞書にはない。

いちばん技巧的で美しいものは立身出世のため彼が越えなければならないハードルとなった。ここでセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)の第3楽章がメヌエット・イン・カノーネとあり、フーガではないがカノンになっているのが注目される。オーボエが先行しファゴットが追っかけ、トリオでは反行カノン(音程を上下逆にする)になっており、交響曲第40番のメヌエット(第3楽章)を思わせる曲調の楽章だ。

つまりこの楽章はバッハの音楽のように「技巧的で美しい」ものへの接近であって、このセレナードがバッハの作曲技巧をマスターしたことの宮廷へのアピールであったとすればハ短調であることは特に奇異なことではない。スヴィーテン男爵のサロンに出入りしていた貴族の間でも、男爵自身はもちろんのこととしてバッハ、ヘンデルの価値は認識されていたはずであり、モーツァルトがその音楽様式をすばやく巧みに消化したことは好印象として加点になるという理解があって不思議でない。

我々現代人が奇異に思ってしまうのは、短調が悲しみを表現するというロマン派仕込みの既成概念があるためだ。バッハの平均律は24の長短調で書かれているが、オクターヴ12の音×長調と短調=24となっているだけで短調曲が悲しみを描いているわけではない。ベートーベンは1798年にやはりハ短調で書いた8番目のピアノソナタに自ら「悲愴」と名付けたが、短調=悲愴感という発想で書いた曲であることを広く理解してもらうには逆にタイトルが必要な時代だったからではないか。芸術に悲しみを見る19世紀的な浪漫思想の発祥はそのあたりになるのではないかと僕は考えている。

モーツァルトが短調に何も感情をこめなかったかというとそうではないだろう。だがそれはドン・ジョヴァンニが地獄落ちしたり、夜の女王が怒りの発露を見せたりという場面にも現れるのだ。後世が「走る悲しみ」とロマンチックに語ってみたり、やがてやってくる死を見すえて涙や諦観をこめたなどと比定するのは、まったくちがうと思う。彼の作品のバランスとして、平均律に短調があるほどメカニックな理由ではないにしろ、彼の感情の振幅の一方を受け止めるに必要な作曲技巧の様式としてそれは現れたと考える。

非常に興味深いことがある。第3楽章に交響曲ト短調がきこえるセレナード第12番ハ短調「ナハト・ムジーク」(K.388)の終楽章にベートーベンのピアノ協奏曲第3番ハ短調の終楽章のテーマが聞こえることをお気づきだろうか?この協奏曲がモーツァルトの第24番ハ短調K.491の「親類」であることは多くの人が指摘しているが、ナハト・ムジークK.388の親類でもあるとしたら意味深い。K.388のカノン楽章がこだまするト短調交響曲K.550の終楽章主題が第3楽章冒頭主題になったハ短調の運命交響曲にも系譜がつながっていくからだ。

ベートーベンのトレードマークとなった「ハ短調」がK.388とK.491を始祖とすると考えるのはエキサイティングだ。しかし「この種の作品(オペラ)を管楽器に合うように、しかも原曲の効果を損なわずに編曲するのがどんなに難しいか、あなたには想像もつかないでしょう」(1782年7月20日)と彼は父に書いている。モーツァルトは作曲に対していつも超一級の職人でありプラグマチストなのだ。それは後世の我々にも、ひょっとしてベートーベンにも想像がついていなかったかもしれない。つまり、彼のクラリネットを使った作品にハ短調、変ホ長調(いずれも♭3つ)が多いのは多分にそういう楽器法上の理由だったかも知れないということだ。あまりに皆さんのロマンを壊して申し訳ないが、僕自身がプラグマチストなのでご容赦をお願いしたい。

これが問題のナハト・ムジークK.388である。

 

 

 
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