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『黒猫フクの人生観』 (第十六話)

2026 JUL 26 0:00:21 am by 東 賢太郎

僕はじっと見てるんだ。主人はいま、証券関係じゃないビジネスを進めてるよ。これはね、僕が毎晩主人といっしょに居間でビデオのミステリーを見ていた去年の3月ごろにふってわいたような話でね、業務知識もなければ得意なジャンルの仕事でもないんだ、だからその頃はあんまり真面目に取り合ってない感じもあったんだ。

確かに投資のビジネスは神経使うしものすごいエネルギーがいるんだ。心構えがポジティブじゃなきゃいけないし、うまくいかない時の心のメンテナンスも難しいし、若かったからできたってところがあるんだね。もう子供も面倒見ないしこんな難儀なビジネスやってる必要あるんだっけっていう気持ちになるのもわかるよ。「フク、俺もいい歳だ、あと何年できるかな」なんて柄にもなく弱気を吐いたくらいだから、ちょっとは別な系統の事もやろうっていうふうになって不思議じゃないね。多摩川の崖から落ちたのと、ついには神保町の何でもない歩道でケッつまずいて転んでケガしたのは元高校球児を心の支えに生きてきた主人にはこたえたみたいだね。

天国にはその人の一生のビデオがあるんだ。だから僕は主人のを見てぜんぶ知ってるんだ。その大もとは宇宙のどっかに字で書いてあるらしい、何語か知らないけどね、宇宙は3次元に見えてるけど2次元の字のホログラフィーだって先週にホーキング博士が教えてくれたんだよ。天国に来てよかった、思ってた通りだったって喜んでたよ。主人がブログで書いてたけど、小学校に通ってた駅前の道路を歩いてたらその頃の半ズボンで帽子かぶったちっちゃい自分が見えたような気がしたって、それって気がしただけじゃなくて本当のことなんだけどなあ。時間ってものはなくて過去も現在も未来もみんなその場所に一緒にあるんだ。レコードをかけると音楽が流れて時間がある気がするけど、あるのは2次元の溝で音はそこから3次元世界に立ちのぼってるだけでね、いつだって昔だって未来だってそこにあるでしょ。そういうことだよ。

そんなこんなでね、新しいビジネスには従妹の旦那にひと肌脱いでもらおうって魂胆もあって食事奮発したんだ。「神山先生の日でそっちへ行くんだ、和洋中なんでもおまかせだよ」ってメールしたら、近場の鰻屋とってくれて大喜びさ。「ケンちゃん、だって日曜が土用のウナギでしょ、人気店だし大変だったのよ予約。10時開店だけどお年寄りの店だから早いかなと思って10時40分に電話したのがラッキーだったの。ドンピシャで一席だけ空いてたのよ」。主人も土用のウナギぐらいは知ってるけど、なん日かなんておよそ知らない。そういうのは疎くて正月とクリスマスぐらいしか知らない。よくそれでサラリーマンがつとまったもんだよね。「ありがたい、俺ちょうど食いたかったんだ」。飢えてたみたい。食い物ごときであんなに喜ぶのも珍しいね。

そこは江戸一って雑司ヶ谷の老舗だったよ。従妹はちょっと多すぎって主人にご飯をあげてさ、今どき上うな重にキモ焼きとヒレ焼きと酒でイチナナはお値打ちじゃないかな。「今日ね、神山先生にくぎ刺されちゃったんだよ、オナカ引っ込めないと膵臓が腫れてくるよって」「そりゃまずいな、糖尿コースだ」。医療器具メーカーで親戚も友達も医者だらけの旦那がうなづいた。「うん、この腹なのに体重変わってないから筋肉が落ちてる。努力はしたいんだけどさ、参ったよ、だって明日から朝と晩にキュウリ一本ずつで二日過ごせっていうんだからさ」「絶食ってこと?」「絶食はダメらしい」。従妹は意味が分からない。「じゃマヨネーズたっぷりかけないとね」「それもダメなんだ。塩ふってもダメって。キュウリの皮に成分があってそれが消えちゃうらしい」。僕も良くわからないけど、焼酎片手にこんな話してるんだから平和なもんだ。

「最近俺ね、なんだか歩幅が狭くなってきて速く歩けなくってさ、ズボンはく時ふらついたりもするし」「そりゃ片足立ちはみんな問題だって」。同期の旦那はこともなげにおばちゃんにビールお代わりしてる。そこで主人が新しいビジネスの展開の話題を切り出すと二人とも身を乗り出した。といっても旦那は理系の技術者だからノリはそこそこで、同じ血を引いてる従妹のほうが興味しんしんだ。要件は簡単に伝わった。「ということで頼んだよ」。さすがに猫界でこういうことはないなあ、ウナギ屋で酔っぱらって社長が任命されちゃうなんてさ。

「寄ってってよ」ってことでお宅にお邪魔すると毎度のワンちゃんの熱烈なお出迎えだ。プードル×チワワのメスだ。「知らない人にこんなに行かないのよ、モテすぎじゃない」ってぐらい、飛びつかれるわ顔はナメられるわ大騒ぎだ。コーヒーを入れてもらったのにだんだん話についていけなくなって寝ちまってる。いくら弱いったって中ジョッキと焼酎1杯なのに、こりゃ相当疲れてるぞ。株が上がってるのは結構だけど7月はいろいろ難所もあったからストレスがやばい。それで従妹たちとご飯食べたかったんだね。もろにお金が絡む仕事ってのはね、そういう意味で普通の堅気の仕事じゃない。滑った転んだでものすごく切実な部類のやつは人生に何回かはあって家になんかとても持ち帰れないんだ。心配させるだけだからね。そこでなじみの飲み屋で聞いてもらうんだよ。業界の人しかわかんないだろうけど周りの管理職みんなそうだよ。女性たちはそんな事は見事にどうでもいいからお安い御用でね、口は固くてふんふん大変ねって阿吽の呼吸で聞いてくれるだけで深入りしない。だからいいんだ。そんなのでちょっとは気が軽くなるってもんさ。主人の先祖の田中平八さんにはお倉さんがいた。それでもってたからああいう大それたことができたんだね。

酔いが覚めてなかったけど主人は大丈夫だと強がって10時ぐらいに地下鉄で帰宅したんだ。けれどヘロヘロだ。さすがに途中で降りてタクシー乗り場に行ったらなんと20人ぐらい並んでてね、仕方ねぇってんで歩いたんだけど、ほんと、亀みたいにのろのろなんだ。最後の力を振りしぼって手すりにつかまって家の階段を上るのがやっとだよ。もうそのまんま布団に入ってバタンキュー。若い頃はしょっちゅうだったけど、この歳でそれはやばいよね。

心配なんで翌朝も見てたんだ。そしたら何のことはない、しゃきっと起き上がって顔を洗うと冷蔵庫からやおらキュウリを取り出してペロッと食っちまった。パンやらご飯には見向きもしないでね。人の言うことはとってもきかない困った人だけど、神山先生だけは絶対なんだってよくわかったよ。だってシノホノいわず言われた通りやってたら本当に20年も病気しなかったって事実は絶対だ。その前では理屈もヘチマもないさ。そうやって信用したらとことんする、なくしたらとことんしないって主人は分かりやすくってね、相手がどこの誰だろうとどんなに地位の高い人だろうと例外なしってのは痛快なぐらいさ。僕は最初のうちはシャーシャーしちゃったんでしっくりいってなかったけど、毎日ビデオ見てるうちに男同士ってのもあって気心が知れてきたんだ。そこからはもうベタベタさ。

何のことない、階段昇るのもひょいひょいって、昨日の亀歩きは何だったんだってくらいめちゃくちゃ元気になってる。そうかあれは栄養失調気味でガス欠だったんだ、ウナギが効いて一気に戻ったんだ、めでたしめでたし。

 

Categories:黒猫フクの人生観

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