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クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-

2013 JAN 22 1:01:52 am by 東 賢太郎

マリア続きですいません。このエピソードは僕でなく友人の話なのですが。

彼がアムステルダム・コンセルトヘボウでジュリーニを聴き、終演後に近くのホテルの薄暗いバーで一人飲んでいると、そのジュリーニがふらっと入ってきたそうです。客はその二人しかいなかったそうで、おそるおそる自己紹介し、サインをもらおうと自分の名刺を出しました。ジュリーニは彼の名刺の日本語と英語の両面を何度も裏返しながら、しばらく何かじっと考えていたそうです。いったいどうしたのかと思っていると、ポツリとひとこと、

Which side do you want ?

と英語で静かに尋ねられたそうです。僕はいかにもジュリーニらしいこのエピソードが大好きです。

僕自身、ロンドンで彼のバッハ(ロ短調ミサ)やベートーベン、ロッシーニを、アムステルダムでフランク、ラヴェルなどを聴きました。もっとも「貴族的」な雰囲気を持った指揮者は?と言われれば僕はジュリーニを挙げます。むかしノムラロンドンの特別顧問にサー・ダグラス・ワスという方がおられました。元大蔵次官で、英国の貴族を絵にかいたような気品と教養とアクセントのある方で、いろんなことを教えてもらいました。第2次大戦では暗号解読部隊にいらした話まで。

ジュリーニのイメージはサー・ダグラスにダブります。クラシック音楽はもともと貴族の楽しみでした。それをそういう風に演奏するということがいかに難しいかということは、昨今そういう演奏についぞ触れることがなくなってしまったことでわかります。もちろん聴衆が多様化するのはいいことなのですが、ビジネス原理が入り過ぎて真に高貴な要素まで永遠に失ってしまうとすれば大変に残念です。

                                                                                 昨日たまたまですが、久しぶりに彼のブラームス4番を聴いてつくづくそう思いました。テンポは遅めで、興奮したりロマンに耽溺したりすることはありません。第1楽章コーダで何かが乗り移ったかのように激するフルトヴェングラーとは対極的に、音楽の骨格を崩すことは一切ありません。その遅さでこそ見える、ブラームスが書き込んだ熟達の抑制の美こそ彼が描きたいものだからです。ウイーンフィルの弦が内声部まで鳴りきり、歌いきっていて、全曲が終わって残るのは、ただ  「いい音楽を聴いた」  というずっしりした手ごたえだけです。クラシック音楽でしか味わえない最高の喜びがここにあります。1点集中型で熱い興奮を誘うアプローチのフルトヴェングラーはこの曲と1番では大成功しており、それはそれで感動的なのですが、僕はそれはポピュリズムたり得る要素ではあっても真に高貴なものとは感じません。例えば彼は3番では終楽章の主部で全開したエネルギーが空転して行き場がないまま終わってしまいますが、ジュリーニは3番も、4番と全く同じアプローチで感動的な演奏になっています。ブラームスの交響曲には、あざとくは目だたないけれども真に高貴な精神の高揚がほのかなロマン性に包まれてひっそりと提示されるようなものが内在しており、ジュリーニのアプローチが自然にそれを拾い出して次々と味あわせてくれる醍醐味は汲めども尽きぬものです。

このシューマンの第3交響曲、通称「ライン交響曲」も大河のごとき悠然としたテンポで開始します。彼がこの3番しか振らなかったどうかわかりませんが、僕はこれ以外知りません。3番は大変な傑作なのですが、演奏効果の面からか実演であまりお目にかからず、大指揮者も振ってない人が多いのです。振ってもうまくまとめるのは至難と思われ、トスカニーニやバーンスタインでさえ駄演に終わっています。ジュリーニが、なぜ彼がやらないのかむしろ不思議な1,4番ではなく、そういう難曲の3番だけをあえて取り上げたのかとても興味深いところです。本来こういう曲かと問われればやや違うアプローチなのですが、その風格、品格と音楽性で誰もを深く納得させる演奏に仕上がっています。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団というアメリカンなイメージの強いオケから何とヨーロッパ調の音を引き出していることか。ブラームス同様、やはりこのテンポでしか見えない細部や内声部の味わいがゆるぎない堂々たる骨格の中でつぶさに吟味されている様は、クラシックがどんなに大衆化しても忘れてはならない里程標を後世の我々に残してくれているとさえ思える名演奏です。

ジュリーニの残した名盤はまだまだありますが、彼はブラームスを例外として、「全集」を作る人ではありませんでした。自分の気に入った曲しか振らない贅沢が許された、その意味でも貴族的な指揮者でした。

ロス・フィル時代にアシスタントを務め、ジュリーニを師と仰いで敬愛する韓国の巨匠チョン・ミュンフンはこう言っています、

音楽家としてマエストロは、音楽に奉仕するため、そして音楽を通して人類に奉仕するための「聖職者」のイメージに限りなく近い人物であると私はいつも思っていた。

僕は音楽をエゴの道具とする演奏家は聴きません。こちらも時間を費やし、人生をかけて聴く意味を何ら感じないからです。そういう演奏家はおそらく亡くなると忘れられます。しかしこの「聖職者」たる演奏家は、その世代の演奏家しか知りえない、その作品の演奏のエッセンスにかかわる秘技を後世に残します。だから永遠に聴き続けられます。そういうスクールに属する、今や絶滅危惧種とも思われる貴重な演奏家の一人として、このチョン・ミュンフンを僕は非常に注目しています。彼が2008年に振ったN響Aプロのブルックナー7番は忘れがたい名演で、NHKホールでこのオケの弦があれ以上美しく聞こえたことはありません。いま、曲目を問わず聴いてみたい指揮者5人に入ります。こういう素晴らしい後継者を残すのも、やはり 「聖職者」 なのだと思います。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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