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音楽人生に「足るを知る」

2014 JUL 1 11:11:48 am by 東 賢太郎

クラシック音楽とつきあって半世紀。ブログに書いているのは僕のそのつきあいの総集編みたいなものだ。音楽についてだけは僕は人生のまとめに入っている、と最近思うようになってきた。深い思い出があるのは100曲ぐらいのものだろうか。ちょっとつき合ったぐらいまで入れると200ぐらいか。あの時知り合って、あそこでああしてこうしてと、いずれそう遠くない将来にはすっかり忘れてしまっているに違いないことごとを、とにかく書いて記録しておきたい。

どうして「まとめ」と思うかというと、どうも最近新しい曲を覚えられなくなってきたからだ。新しい曲を知ろうという冒険心もちょっと薄れたような気がするが、覚えないのではなく覚えられない。昔は3回もレコードを聴けば1時間の曲がだいたいは頭に入った。音程が良く聞きとれない歌(オペラなど)は苦手だったが器楽曲は真綿にしみこませるがごとく、片っ端からものにした。そのかわり、最近は、もうこれで財産は充分、逆に、最高の音楽人生を歩ませていただいたという満足感にどっぷりと浸ることができるようになった。足るを知るとは、こういうことなのかなあと。

今なら、ベートーベン、シューマン、ブラームスの全交響曲、協奏曲の演奏間違い探しクイズをしたら僕はスコアを見ずにほぼ満点を取る自信がある。出題範囲にモーツァルトの主要オペラ、協奏曲、交響曲、室内楽を加えたっていい。それを覚える分、多くの時間を費やし、脳みそはきっと他のものをはじき出してきただろうから、単に生きていくということでいえば僕はずいぶんと無駄をしてきたものだ。そう、クラシック音楽を趣味とすることは、実は多大な犠牲を要するのだ。

そうやって僕がブラームスの第4交響曲をどんなに愛するようになり、どんなに身近に知っていても、それは他の人には関係がない。世の中に何の貢献も迷惑もない。では演奏したらどうだろうと考える。そうやって僕はシンセサイザーを買って勉強しピアノを練習し、自分で演奏した。しかし同じことだ。聴き手がいないからではない。仮に千人が褒めてくれたって、それはそれ。4番が僕のものになったという気持ちにはきっとならないだろう。音楽はつまり幻(まぼろし)か蜃気楼のようなものであって、近づけば近づくほど消えるか遠ざかるものなのだ。

音楽を聴いている脳で何が起きているのかは興味深い所だ。途中のある部分で鳴るハ長調の主和音は、それだけ切り取って鳴らせばただのドミソだ。曲の流れの中で鳴るからなにか意味があるのであって、どういうことかというと、その音楽の生々流転の脈絡の中でだけ湧き起る「ある感情」をもたらすから意味があるのだ。4番を聴くという事は、その部分部分で出会うある特定の感情、それを曲の進む順番に丁寧に陳列した展覧会に赴くようなものであって、曲が終わった瞬間に、胸に堆積していたそれの集大成がどっと押し寄せてくる。そういう顕著な効果をもたらすものだけを我々は名曲と認知していて、その効果のことを「感動」と呼んでいる。良かった演奏会で夢中で拍手している時、心を占めているのはそれだ。

それは映画や芝居を観た感動と似て非なるものだ。音楽には物語がない。映画館でみな一様に笑ったりため息をついたり、そういう、誰でもそう反応するだろうというものが明らかでない。ブラームスの第2交響曲で、第1楽章のあの平安とカタルシスに満ちた第2主題が鳴っている至福の時、隣の席の人がどう感じているのか知るすべはどこにもない。映画でデートはまず失敗がないが、クラシックコンサートはおすすめしかねる。いくら自分は感動していても、肝心の相手はさっぱりということがありえるからだ。

だからその感情の集大成とは、とてもプライベートなものだ。言葉や文字で伝えられるものではない。平安とカタルシスに満ちた、と形容を試みているそばから、ああやめとけやめとけという声がする。それでも勇気を出してブログにそれを打ちこんでみて、そして多くの方が読んでくださるのだということを知って、僕はなによりも安心していることを知る。そのために、僕は人生でそれが貴重な時間であろうことをうすうす知りながら、それを書いている。そういう行為が必要なほど、僕にとってブラームスの2番や4番の交響曲は人生で重たいものになっているのである。

4番において記憶にのこる演奏、フルトヴェングラーやクーベリックやジュリーニやヴァントの素晴らしい演奏は、最高の名画をそろえた展覧会のようなものである。それを1番目からお終いまでじっくり眺めれば望みうる、おそらくベストの4番体験が味わえる。僕はそれを知ってしまっているので、時間とコストの割にあまり確率の良くない、演奏会場で一期一会の名画にめぐり会おうという冒険を進んでしようと思わなくなっている。それよりもその4人の名演を、少々カネをかけてでもオーディオで理想的に再生した方がいいと思う。幸いクルマにとんと関心のない性分だから、そういうことで車1台分ぐらいはそっちに投資してしまっている。

フルトヴェングラーにしても、何度か録音した4番はどれもちがう。テンポも表情も。それは同じ人が同じコースを回っても同じゴルフにはならないのと同じだ。聴く方だってそうだ。その日その日で同じCDなのに聴こえ方が違うという事を経験している。こっちの脳みその状態は自分が思う以上に実は日々様々であって、それによって名画1枚1枚の喚起する感情は微妙に異なっているから最後の感動もちがってくる。年齢とともにそういうことがだんだんわかってくる。録音された音楽といえども、実は一期一会なのだ。おまけにこれから記憶力が減退を始めてくれる。いずれ僕の7千枚のCDは全部お初、おニューと等しくなる。老後に退屈する心配はなさそうだ。

音楽で新規開拓に関心がなくなってきたのは、だから、たぶんその他のことにもそうなってきていることへの穏やかな警鐘かもしれない。仕事はもう自分の事業を始めてしまっているから、これは出資していただいている株主のためにやめることはない。ぼける前の日までやるしかないしそれが本望だから始めたのだが、そういうことよりも、僕は信頼して下さった方を裏切ることが嫌なのだ。それは、社会正義に反することをした人間を断罪したいという、僕がたぶん人一倍強く持って生まれた心の動きと同じかもしれない。裏切り者の自分というものは蛇蝎のように嫌いだ。還暦とは節目としてちゃんとうまいタイミングに来るものだなあと感心する。仕事を採るならばその分ほかにしわ寄せがいくという事なのだ。

そうなれば音楽とのつき合いは現状維持がせいぜいだ。ということは自分にとって大事な曲と録音をもっと大事にしていくということだ。そこにはヨーロッパ生活での11年半の思い出以上の素晴らしいメモリーがある。それ以上にはもう望まないし、それを望まない方が今の僕には重要だ。第2の人生、まだ若い、もっと前進するぞというと威勢はいいのだが、虚勢でもあるように思う。そういう人生は歩みたくない。若いことと前進するかどうかは別だ。「足るを知る」ということばは含蓄が深い。お金でもなんでも、物的なものは結局は幸福をもたらさないのだろう。増やそうという欲は捨てて、在るものを大事にする。これだと思う。

 

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