鎮 勝也著「二人のエース」について
2017 MAY 9 0:00:06 am by 東 賢太郎
本年3月21日に、SMCサイトが工事中だったため、このブログをソナー・アドバイザーズ株式会社HPの方に書いておりました。とても気に入ってる稿なのでお読みいただきたく、こちらに原文どおり再録いたします。
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「二人のエース」 広島カープ弱小時代を支えた男たち
去年は広島カープがプロ野球界を赤一色に染め、いわゆるカープ本が書店を飾りました。その手のものは読まないのですが、一冊だけよくぞ書いてくれたと買って感動し読後に涙がこぼれたものがあります。これです。
「二人のエース」 広島カープ弱小時代を支えた男たち (鎮 勝也著、講談社+α文庫)
僕のカープ愛は小学校2年、昭和38年からで、当時東京の子にカープファンなど探してもおらずいじめられました。それでもめげなかったのはカープでなくてはいけない理由があった。それは小よく大を制す真っ向勝負の美学であつて、強い巨人軍でも技術と気迫で倒される滅びの美をもそこに見ていました。
同時に心酔していた少年サンデー連載の漫画「伊賀の影丸」にそれが濃厚にあって、滅多にないカープの勝利に重ねていました。持って生まれた性根だったのでしょう。だから僕のカープ愛は地元だから応援するというのとは違い人生の投影のようなもので、カープ、影丸と共に今の自分が出来上がった。単に好きだ、ファンだというのとは一緒にされたくない思いが強くあるし、そういう性格に生まれついた人としか分かりあえないという諦めもあります。
そして、そこに現れたのが安仁屋宗八と外木場義郎というカープを背負って立つ二人のエースだったのです。彼らなくして昭和50年の初優勝はなかったことは同書を読めばよく分かります。しかし、しつこいようですが僕はそれでカープファンになったわけでも二人の功績をたたえたいと思っているのでもない。彼らの活躍があって、それを見ていたあの頃の自分がいた。その邂逅なくして今の自分はなく、もうDNAの一部のようなものだという抜き差しならぬところに僕のカープ愛は成り立っています。
正直のところ僕のアイドルは侍の威厳を持った本格派の外木場であり、安仁屋(写真)はサイドスローに近いスリークオーターで技巧派と思っており、真っ向勝負主義からはややずれた印象がありました。沖縄出身で騒がれ、風貌も色男っぽくて何となく軽く感じ、49年に阪神に移籍したものだからよりそういう印象になった。同書を読んでそれはルーツ監督との対立が原因で僕の評価は誤りだったことがわかりましたし、翌年カープは優勝して忸怩たる思いをしたことは人生経験を積んだ今、痛いほどよくわかる。アニヤ・ソトコバはやっぱりカープの神だったのです。
憧れの外木場は球場で1度しか見ませんでしたが、後楽園でONと対戦する全盛期のストレートの物凄さは激烈でした。人生で、ありとあらゆるジャンルで、誰のようになりたいかといえば迷うことなく彼です。大臣でも博士でも富豪でもなく、僕は外木場になりたかった。中学では定期入れに写真を入れ、フォームを真似たのはもちろんのこと彼の大きく曲がり落ちるカーブが投げたくて懸命に練習し、やっと似たのが投げられた。中学であんなカーブはあまりなく、似た程度でも威力はありました。硬式になってすぐ背番号1番をもらえたのはそれがあったからです。
著者の鎮 勝也氏はご本人たちにインタビューができなかったことをあとがきで断っています。それは僕はマイナスと思わない。なぜなら投手のボールの評価は打席に立った者しかできないからで、実は投げた本人だってわからないのです。「江夏の21球」を江夏がTVで語っていましたが、カーブのサインでも外角に外したという以外は特になかった。マスコミが外野席で書いたドラマであって僕はそういうヤラセには関心がありません。本書には素晴らしいことに王、長嶋をはじめ当代の大打者の打席に立った証言があります。無安打無得点を3度やった外木場が日本球界最高の投手であると信じて疑いませんが、ONの証言によると安仁屋のシュートとスライダーも同じほど凄かったそうで完全に彼を見直しました。
最高の球を投げたのは江夏だ尾崎だ山口高志だと世評は様々ありますが、僕は自分の経験からも打席で見てない評価は信じませんし、まして外野席のなど都市伝説にすぎない。例えば中日の高木守道は「外木場は速いストレートとフォークを持っていました」と言っている。カーブをフォークと思っていた!凄味がわかります。巨人の高田はそれを「まったく打てる気がしなかった」と証言した。ストレートを投げて打たれると王が「なんで高田に真っすぐを放るんだ」と言った。なんて重たい証言だろう!
昭和50年初優勝の立役者だった外木場が阪急との日本シリーズで延長13回を投げぬき燃え尽きた。2分け4敗。負けなかったのは外木場だけだった。その無理がたたって肩とひじを故障し、池谷がロッカーで裸の外木場の後姿を見て右肩より左肩が大きいので呆然とする。痛み止め注射で右の筋肉が減っていた。肩とひじ。自分もそれで高2で野球人生を終えましたが「あっちこっちの治療院に行ってたんだと思います」という池谷の言葉はずっしり心に痛いです。彼が通年で1イニングしか投げずに引退したのは昭和54年。野村に入社の年でした。思えば大学合格の歓喜の年に優勝の美酒をくれ、就職の年に散られた。僕にとって桜のようなかたです。
本書282ページの「ハチの最後」。なんて伊賀の影丸のにおいがするタイトルだろう!これって昭和のにおいでもある。一気に好きになると同時に、泣けてきました。ハチは安仁屋の愛称です。彼は古巣の広島に呼び戻されて思いが叶い、昭和56年、1イニングだけ投げて引退を迎えるのです。思えば昨年の優勝を呼び込んだ新井、黒田の復帰、その道は安仁屋によって用意されていたと思いたい。
本書はデータも丹念に調べて書きこまれており説得力がある。外野席の人間がひいき目の情緒だけで書いた同種の本とは一線を画しています。よくぞ書いてくださった。久々に本を読んで感動しました。
PS
神であり年上であるお二人に「さん」づけなく書くのは抵抗がありました。敬称略をお許しください。
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きのう出社したらどなたかから小包が届いていて、開けてみると上掲書の著者、鎮 勝也氏からの直筆の礼状と御著書「君は山口高志を見たか」(伝説の剛速球投手)でした。
「私はこれからも執筆の世界で生きていくつもりです、その道を進むにあたり、このブログから大きな力をいただきました」
と書かれてありました。連休で遊びほけて仕事をためてしまっており、かなり気が立っておりましたが、おかげさまで吹っ飛びました。こちらも、こんな嬉しい知らせはありません。
感動を与えてくれたのは氏の著書であり、拙稿は書評のようなつもりは微塵もない単なる読書感想文で、これを僕に書かせたのは氏の「二人のエース」への深い敬意と関心なのです。まぎれもなくそのふたつを僕も共有すると感じたので、たしか読後に一気に書いたのだったと記憶しております。
山口高志はカープが日本シリーズでこてんぱんにやられた仇敵なのですが、はっきり覚えてるのは顔の高さのボール球を空振り三振した山本浩二のバットの10センチぐらい上をボールが通過したことで、あれを見て唖然としてこれは誰も打てないと思った。きっと選手もそう思っただろうしあの負けは仕方ない、あまりにあっぱれな投手だったのです。
そういえば熱烈な阪急ファンだった故・中村順一が、東京ドームにカープ戦をいっしょに見に行った折、黒田の投球を見ながらああだこうだ言った僕に「では山口高志をどう思うか」とふっかけてきて、「球史に残る投手だが外木場の方が上だ」と答えたのです。彼はいいところを見ていたなと思う。そうでなければその一言で5秒で終わるのが、帰り道でずっとその話になったのだから。
ゆっくりと読ませていただこうと思います。
(こちらへどうぞ)
Categories:読書録
中島 龍之
5/10/2017 | 4:45 PM Permalink
安仁屋、外木場、思い出します。広島の二本柱でした。安仁屋が移籍後の優勝だったとは運命ですね。阪急の山口高は、凄い投手と言われてましたが、記録に残るものが少なかったのでしょうか。私もあまり場面を覚えていません。
西室 建
5/11/2017 | 4:27 PM Permalink
山口高志は日本シリーズの巨人戦で投げたのを見たけれど、もうケタ違いの速さに見えましたね。大谷のボールくらいだったのでは。
引退後、新宿の飲み屋でバッタリ会ったことがあるけどあんまり大きな人じゃなかったなぁ。
人当たりのいい気さくな人でした。
東 賢太郎
5/11/2017 | 6:19 PM Permalink
完全試合1回(大洋、セリーグ最多16奪三振)+ノーヒットノーラン2回(阪神から1、V9時代の巨人から1)の外木場を凌駕する者はなし。間違いなく日本プロ野球史上最高の投手。大洋戦は27アウトのうちバットに当たったのは11人(確か外野に飛んだのが1,2本だった)、それが直球とカーブだけでというのは想像を絶するあり得なさ。
速いだけとか高速スライダーとかお化けフォークとか、別に何を繰り出してもらっても結構だが、それで「短期間だけ凄かった」という人はいくらでもいる。調子がいいと27人が連続して何もやらせてもらえない、これを3回やるほど長期にわたってパフォーマンスが高位安定していた、ということです。