名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われる
2018 MAY 21 1:01:39 am by 東 賢太郎
経営とはやってみれば誰でもわかるが極めて重たい作業である。企業の存続という究極の目標が何より優先する。そのためには何であれ不要なものは捨てなくてはならないから冷たくも見えようし、あいつは人が変ったと言われることもあるだろう。
僕は一点集中型(ネコ型)なので二股はかけられない。受験では野球が、ゴルフでは主夫業が犠牲になった。今はゴルフが犠牲になり2年近く道具に触っていない。シングルになってやめる人は少ないだろうがキープするには仕事が犠牲になるからそうはいかない、とすると「なんちゃってゴルフ」になるがそれはできない性格なのだから仕方ない。
究極の目標を達成するために絶対必要なのはほかをぜんぶ捨てることである。その正しさは受験、ゴルフで証明したから変える理由はない。しかし経営はその両者のように点数の目標がない。だから何を目指しているのか不明になってぶれるリスクがある。これを日々見定めるのは大変に難しいのだ。収益をあげるのはあたりまえであるが、それだけのための企業は世に必要とされない。
若い会社というものは創業者の人格そのもので、その人の「作品」である。作品はやがて独り歩きするが、そこに至るまで自分がぶれないことが絶対必要なのである。ぶれない最良の方法は何か?自分に忠実にやることだ。日々の判断に追われるとベター(better)の選択肢がたくさん出てきてマスト(must)を忘れる。すると知らず知らずぶれてしまっているということになる。
それを避けるには常に本当の自分に徹することだ。「AかBか、Bが得です」という提案は「両方やらないよ」が正解かもしれない。本当の自分という座標軸を常に見据えて、そこからはずれたことは一見おいしそうでも手を出さないという判断をしていかなくてはならない。なぜなら、本当の自分こそ絶対不動の盤石な基準として信頼でき、それがあるから今があるのが事実だからだ。
だから、本当の自分とは何かを知っていることは大変に重要である。これだって、世につれ人につれで付和雷同に生きていると意外に知らないものだ。
幼稚園で描いた絵を見ると電車しか描いてない。自動車、船、飛行機は興味ないから一枚もない。SLもなく電車だけ。それも下半分、つまり線路、台車、床下の機械類だけ子供らしくなく異常に細かくて、上半分のボディや乗客の顔は幼児なみだ。この三つ子の魂そのままに大人になった。
ほかを犠牲にしてクラシック音楽に集中したことはないが電車の下半分に相当するものを見つけたから自分を投影する鏡にはなる。去年10月23日のブログを読み返すと、幼稚園の絵を再度見た気持ちだ。
この自分はどうしたって孤独になる。「主のない槌」をブーレーズはムーラン・ルージュの客のために書いたわけではない。僕はあのナイトクラブが嫌いではないが、あそこの客にブーレーズの曲をお薦めする事はないだろう。これはクローズド・サークルの趣味なのでありそんなニッチが先祖のどの辺から来たものかは知らないが、電車の絵を描いたころから自分の遺伝子にあったものなのだ。
しかし、ありがたいことに孤独が好きだ。群れるのは大嫌いであり、幼い頃から祖父に一匹狼だと言われていたからそれが本当の自分なのだ。音楽と知り合ったおかげで退屈とは縁がなくなった。空白の時間があればベートーベンの交響曲をどれでも頭でリプレイできるから何の心配もない。
五年前のこのブログは共感あるのみ。
以下、大哲学者の箴言を少し引用して、今の境地でコメントしたい。
「名誉にこだわる人の給料の半分は名誉で払われることになる」
なんという名言だろう。僕は「名誉(肩書)はいらないから給料を下さい」と上司に言った(名言は後で知ったのだが)。武士は食わねど高楊枝のわが国でそういう人間は誠に少ないが、いまどき武士でいるとどんないいことが起こるのか教えて欲しい。大前研一氏の著書によると日本人はひとり平均3千5百万円残して死ぬそうだ。ということは日本国は3500兆円も名誉資産がある名誉大国という事になる。それが一般国民の生活でどんな幸せになろうというのか。
人間の二大苦は困窮と退屈であり、内なる宝を持っている人にとって退屈はないから「困窮のない余暇」、孤独こそが幸福である
まさにそのとおりと思う。だから困窮はいけないのであって、給料の半分もさし出して名誉を買う余裕などない。そういう人は「最大の敵である同時代人の嫉妬に妨げられる」ときくとああヘーゲルのことかな、ショーペンハウエルはそういう思いをしたのだなあと思う。しかし名誉と一緒で、人に好かれるのに給料の半分を払ってみても孤独の幸福という見返りはないし、親父の名誉で食っていける時代でもないから子供もお金の遺産を残してくれといいそうだ。
現世的な名誉の効果は擬態的な尊敬にあり、徹頭徹尾、大衆に見せるための喜劇にすぎない
僕はお客様の男芸者になりたいとも思わないが、喜劇役者を目指してみようと考えることもない。ほとんどの男は肩書によって擬態的な尊敬を得ているが、名刺がなくなったとき、それが喜劇であったと気づくのだ。僕もそうだった。
いずれ必ず、嫉妬のない後世の知性によって良いものは良いものと評価される
そう願いたいが、僕の生き方を世間が評価してくれることはないだろう。して欲しいのは、ひとえに子孫だ。僕はブログを書いたことで子孫に何がしかを残したつもりだが、そう思ってくれる人が現れるなら生きた甲斐があるというものだ。
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