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僕が聴いた名演奏家たち(ルチアーノ・パヴァロッティ)

2019 OCT 12 15:15:56 pm by 東 賢太郎

精神科医のK先生と食事していたら歌手の指導でボイストレーニングをしておられるという。なぜかというと患者さんに言う事をきいてもらうのが精神科では肝要であり、そのためにはまず「良い声」が大事なのだそうだ。

ビジネスでも良い声は得だ。説得(プレゼンテーション)の成功率はポスチャー(posture、ポーズ、立ち居振る舞い)への依存度が高いとビジネススクールでは教えるが、声もその一部と考えていいだろう。女性を口説く天才(でなくてはならない)ドン・ジョバンニの役をモーツァルトはテノールでもバスでもなく、「バリトン」で書いた。このことの重みは書いても文字にならない。良いドン・ジョバンニの歌い手がその低域で口を丸めて伸びやかな、しかしやや凄みをこめて歌う場面に接するだびに、僕はなるほど!と説得され、モーツァルトのプレゼンテーションの天才ぶりに圧倒されるのだ。

それを受け継いだのがカルメンを夢中にさせる設定の闘牛士エスカミーリョである。ビゼーは全曲のピアノ・バージョン(左)を作ったほどドン・ジョバンニに傾倒しているわけだが、色男=バリトンの図式に気づいたのはさすがだ。しかも彼は生々しい殺人現場で幕を閉じるという点で革命的だったこのオペラのヒロインを異例のメゾソプラノで書いた。モーツァルトもズボン役ケルビーノをメゾで書いたが、ズボン役とは中世的な非現実、仮想の容認である。20世紀になってまだそれを書いていたR・シュトラウスに対し、ビゼーは中世を全否定する地点で1875年にカルメンを書いている。ドイツ、フランスを隔てるライン川近郊に住んだことのある僕はこのことをゲルマン、ラテンの対比に見立てたくなる衝動に駆られるが、その適否はともかくとして、それがカルメンを「元祖ヴェリズモ・オペラ」として音楽史に位置付けた一因だと書いてもそれほどはずれてはいないだろう。役柄によって何が「良い声」かは決まるのだが、それがはまった時のインパクトは強いということだ。

Italian opera singer Luciano Pavarotti as the character Nemorino in ‘L’Elisir d’Amore’, 1981.

K先生とは「声のインパクトという事ならパヴァロッティがすごかったですね」と会話が進んだ。この不世出のテノールを聴いたのは一度だけ、1990年、ロンドンのコヴェント・ガーデンでの「愛の妙薬」のネモリーノ役であった。しかし驚いたのは強くて輝かしいフォルテではない。席は後ろの方だったが、pp (ピアニッシモ)にもかかわらず彼のささやくように軽やかな高音がとろけるクリームのような滑らかさを伴ってくっきりと耳元に届いてきたのに仰天したのである。僕の中で、パヴァロッティはレコードで聴くロドルフォの「キング・オブ・ハイC」ではなく、あのリリコ・レッジェーロの唯一無二の質感で痛烈に記憶されている。あれに匹敵する pp の体験というと、やはりロンドンできいたこの世のものと思えないロストロポーヴィチのチェロの高音しかない。どちらも文字では説明し難いが「リッチなピアニッシモ」「音の栄養価が高い」とでも無理やり書くか、やった人しかわからないから比喩の意味が薄いが「野球の投手の軽く投げて速くもないのに手元で伸びて打たれない球」が近いとでも申し上げるしか手がない。

パン職人の倅であったパヴァロッティはイタリア、モンテカルロ、ニューヨークに約500億円の不動産、そして各所に約16億円の負債を残して2007年にすい臓がんで亡くなった。すぐに前妻と3人の娘、そして新妻とその娘という6人の女性による相続で血みどろの裁判になったのは彼が2通の矛盾した遺言状を書いたからだ。巨大なバランスシートの持ち主であったが、それに見劣りしない威風堂々たる巨躯の持ち主でもあった。K先生曰く声はボディに共鳴して倍音を伴って響くそうで、あの、他の誰からも聴いたことの無い pp はその恩恵によるものかもしれない。ただ、体躯が立派であることはプラスだが、共鳴体としては楽器と同じ原理で筋肉質で固めが良く、脂肪太りのでぶは逆にだめだそうだ。パヴァロッティは晩年は体重と戦っていた。

そういえばその昔、マリア・カラスがサナダムシを飲んで40キロ痩せたとニュースになった。真偽のほどは疑わしいという説もありそこは何とも言えないが、我々が見知っている天下の歌姫カラスといえばダイエット後なのだから、その決断はビジュアルには大きなプラスとなったが声にはマイナスではなかったと思われる。女性だから筋肉太りだったはずはないのであって、むしろ脂肪が落ちて声も良くなったという理屈になろう。写真の二人の女性が同一人物とは頭で知っていてもやっぱりウソでしょと疑ってしまう、ライザップもびっくりの使用前・使用後である。「サナダムシは宿主のヒトに悪さはしません、ただ腸に流れる栄養をかすめ取るだけです。なんと結節のヒダヒダまで人間の腸とそっくりの姿、形に進化してるんですよ」(K先生)とは不気味な話だが、女性も魔物だと思わないでもないのである。

 

ロイヤル・オペラでの配役(指揮・ジェフリー・テイト)

 

 

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