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メンデルスゾーン 交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」

2020 SEP 29 1:01:55 am by 東 賢太郎

秋になるとききたくなる名品のひとつがメンデルスゾーンのスコットランド交響曲です。我が国では彼というと真夏の夜の夢、フィンガルの洞窟、2つの交響曲(イタリア、スコットランド)が浮かび、絵まで画くものだから音の風景画家のように見られます。絶対音楽の方が上等だと信じていた僕も長らくそうでした。しかし、コロナ禍で外出に不自由し、遅く始まった夏があっけなく秋になっていた今年になって、彼の交響曲第3番がえらく心にしみるのです。秋にふさわしい曲だなあとは思ってましたが、なんだか今年は特別だ。ずっと頭の中で鳴りつづけ、異例の年のストレスを食ってくれてる感じがします。こういうものが単なる風景画であろうはずはない。それが本稿になっています。

マル島のベン・モア山(by メンデルスゾーン)

自作を指揮するためにロンドンを訪れた彼がエジンバラへ足をのばしたのはバッハのマタイ受難曲をライプツィヒで蘇演して評判を得た年(1829年)のことでした。デビュー公演は大成功でした。ヘンデル、ハイドンとドイツで実績のある音楽家は市民に人気があるためザロモンのような興行師に需要があり、フィルハーモニック協会の委嘱で第9交響曲を書いたベートーベンが2年前に亡くなったばかりであることを考えるとロンドンの音楽界が弱冠20才で前途洋々の青年にそそいだ視線は熱いものがあったでしょう。彼もその英国を愛して人生に計10回の訪英をすることにはなりますが、この時、友人の外交官カール・クリンゲマンといっしょに息ぬきのスコットランドに観光旅行に行ってしまったようにあんまり熱は感じないのです。

ウイリアム・シェークスピア(1564 – 1616)

それはカントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫であり、富豪の銀行家の息子という超セレブだったから他の作曲家と違う、金にも名誉にも欲が薄かったのだと説明されてしまうのが普通なのですが、それだけでしょうか。彼のスコットランド観光はそれなりの目的があったのではないでしょうか。僕は彼が若くして文学に造詣が深く、10代でシェークスピアの「真夏の夜の夢」を題材に作曲していたことに鍵があるのではないかと見ます。ユダヤ人であり最も忌み嫌われた金貸しの息子であるという人生は、現代のセレブのボンボンとは比較にならない重たい十字架を背負ったものではなかったかという推察に至るのです。

まさにこの旅の直前、ライプツィヒでバッハのマタイ受難曲を編曲、蘇演した折に「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評され、対して彼は「キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね」と答えたことに逆説的なヒントを見ます。一家はプロテスタントに改宗しており彼はルーテル教会で洗礼を受け敬虔なキリスト教徒として育ちましたが、ユダヤ教からキリスト教に改宗した意味合いがある「バルトルディ」という名前を嫌いました。マタイ蘇演という大貢献をしてもキリスト教徒に認められない失望、自身がユダヤ人という誇りを持っていたというアンビバレントな深層心理が十字架だったのではないでしょうか

エリザベス1世(1533- 1603)

「ユダヤ人の金貸し」。誰もが思い浮かべる名はシャイロックでしょう。シェークスピアはヘンリー8世の次女エリザベス1世の時代に活躍しました。侍医だったユダヤ系ポルトガル人のロデリゴ・ロペスが1594年に女王の毒殺を図ったかどで処刑された「ロペス事件」は『ヴェニスの商人』に投影され、シャイロックのモデルはロペスと言われています。国家統一事業の完成を目指すスペインは「カトリックによる宗教統一」を成就させるためにユダヤ人追放に乗り出し、キリスト教に改宗した「隠れユダヤ人狩り」が始まります。彼らはポルトガルに逃れ、カトリック、スペインと敵対するヘンリー8世が隠れユダヤ人を「王室の奉仕者」として積極的に雇用したのに乗じて英国に流れます。その出世頭がロペスだったのです。

メンデルスゾーンはユダヤの出自を公言しましたが、ファミリーは隠れユダヤ人として生きることを志向していました。彼は女王エリザベス1世のイングランドにどんな感情を持っていたでしょう。ロペス事件は実は濡れ衣で、スペインに対する英国民の敵愾心を煽り立てるために宮廷内の主戦派によって捏造され、そこに古来より英国にあったユダヤ人排斥思想がスパイスとして乗せられた。だからロペスだったのだという説は真偽不明のようですが、『ヴェニスの商人』はシェークスピアがその不条理に反駁しユダヤ人の思いを代弁するために書いたという別の説の方は、事件の2年後に書かれたのだから可能性はあるのではないでしょうか。メンデルスゾーンが少年時代からシェークスピアにシンパシーを持ち「真夏の世の夢」を書いてもおかしくないと思うのです。

メアリー・ステュアート(1542 – 1587)

さて、そのエリザベス1世が処刑したのがスコットランド女王のメアリー・ステュアートです。1587年でした。前者はヘンリー8世の娘、後者はヘンリー8世の姉の孫という血を血で洗う権力闘争です。発端はメアリーが秘書ダヴィド・リッチオを間男にし、怒った王が彼を宮殿内で惨殺したことです。ところがその後に王も不審死を遂げ、メアリーは殺害の首謀者と噂された男と結婚したために国民から不人気となりイングランドに亡命しますが、イングランドの王位継承権を口にする。それがまずかったのです。ところで、文学素人の素朴な疑問ですが、こんなに刺激的な事件をどうしてシェークスピアは戯曲にしなかったのだろう。書けなかったのでしょうか、事が大きすぎて。その7年後にロペス事件が起こります。

リッチオの殺害

メンデルスゾーンは初めてのエジンバラで「何もかもいかめしく頑健で、街は半ば薄煙か霧の中のようだ」、「(バグパイプの音楽は)悪名高い野卑で調子はずれのクズである」と書いています。あんまり気に入っていない。私見では、そんな彼が目的を持って訪問し、インスパイアされたのはスコットランド女王メアリー・ステュアートが居城としたホリールード宮殿であり、彼女の凄惨な運命であり、死刑を執行したエリザベス1世であり、自ら十字架を背負う隠れユダヤ人の問題だったロペス事件であり、それをオブラートに包んで世に問うた『ヴェニスの商人』、つまり、シェークスピアだったのだと思います。彼はホリールード宮殿で、秘書ダヴィド・リッチオが57か所のめった刺しで惨殺された部屋を訪れています。

リッチオが殺されたメアリーの寝室

そして、彼はホリールード宮殿の隣りにある寺院の廃墟にたたずみます。「すべてが壊れ、崩れかかり、明るい空が光っている。今日この古い寺院で私はスコットランド交響曲の冒頭を思いついていた」と、後に交響曲の出だしのテーマとなる10小節を書き留めた。

その場所がここでありました。

この交響曲を着想した翌年に彼はイタリアを訪れて作曲を続けますが、「スコットランドの霧がかかった雰囲気を想起するのが難しい」と中断し、完成に13年を要しました。その間に書いたのが第4番のイタリア交響曲ですが、これも改定を重ね、特に終楽章は気に入らず書き直す計画のまま亡くなりました。それが現行版です。想像になりますが、長調で始まり同主短調で終わるのがどうかという問題提起が心にあったのではないでしょうか。

一方、完成させた最後の交響曲である3番のスコットランドも、曲想のまま進めば終楽章はイ短調で終わるのが自然に思うのです。ところが、彼は最後を締めくくる部分にまったく新しい素材としてイ長調のエピソードをコーダとして入れています。若い頃に初めて聴いた時から、僕はこの終結がどうにもしっくりきませんでした。

後に歴史を勉強し直して、本稿に縷々書いてきたことを学び、最後は彼の心の十字架に思い当たりました。その彼ならば、このハッピーエンドはあり得ないと思うのです。

つまり、僕の心の矛盾を解くにはこう考えるしかない。20才の迷える心を持った青年だった彼は短調で終わらせたろうが、33才になってライプツィヒ音楽院まで創設しようという大御所になった、ユダヤ人であることなどものともせずに生きて行けるようになった彼は聴衆を喜ばせることを考えたということです。メンデルスゾーンは7度目のイギリス訪問を果たした1842年にロンドンで初演し、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王に謁見した際にこの曲を女王に献呈する許可を得ました。献辞付きの楽譜が翌1843年に出版されています。イ長調部分は英国王室への敬意を表す「エンブレム」だったと僕は考えるのです。

だいぶ後になって、恐らく同じことを考えた指揮者がいることを知りました。やはりユダヤ人のオットー・クレンペラーです。彼がフィルハーモニア管を振った幻想味と重量感のあるEMI盤を僕はずっと愛聴していますが、イ長調部分の聞きなれない遅さはmaestosoではあってもallegro assaiではありません。このテンポは、僕と同じことを感じている彼が苦渋の解決策として採ったものと思います。

さらに後になって、驚いたことに、クレンペラーは別な演奏で、問題のイ長調部分をばっさり切り捨ててイ短調で静かに終わらせていることを知りました。これを皆さんはどう考えるでしょうか?

僕は基本的に演奏家によるスコア改変には否定的です。改変どころか切ってしまうというのはもはや編曲であります。しかし、僕はこのことを知ってクレンペラーに心からの深い敬意を感じるのです。彼はスコアを、表面づらの音符だけでなく、作曲者の心の背景を奥底まで読み取っていると思います。イ長調をクレンペラー並みに遅めのテンポを取ったのはコンヴィチュニーです。これも慧眼と思う演奏です。しかし、ほとんどの指揮者はいよいよコーダだとばかりにそれより3割も速いテンポで疾走し、ひどいのになるとミュンシュのように最後にアッチェレランドまでする。

困るのは、これを挿入した作曲家の意図からすればカラヤンやミュンシュを一刀両断にはできないことです。だからクレンペラーは切ってしまった。作曲家が書いたわけではないが、彼のイマジネーションで20才の「初版」を作ったのです。まあやりすぎです。でも気持ちは100%わかる。涙が出るほど感動してます。もちろん付け焼刃の思い付きではありません、メンデルスゾーンに対する深い愛情です。ユダヤ人の十字架を知る者の。彼亡き後、こんなことができる指揮者がどこにいるでしょう?

その演奏、バイエルン放送交響楽団を1969年に振ったものです。

もうひとつ、僕が好きなのはペーター・マークです。彼がロンドン響を振ったDecca盤は長らく人気を保っていますが、若い頃で少し熱がありすぎる。ややクールに暗い部分にも意を用いたマドリッド交響楽団との演奏は中々です。コーダのイ長調も、ぎりぎり速くないテンポで抑えており指揮者の良識が感じられますね。ヘンリー8世、エリザベス1世に敵対したスペインのオーケストラの人たちが3番をどういう気持で演奏したのか?音楽はヨーロッパの歴史の一断面です。面白いものだと思います。

 

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