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ベートーベン/ピアノ協奏曲第3番の悦楽

2026 JUL 6 0:00:26 am by 東 賢太郎

最近3番をよく聴きます。ひょっとすると5曲のうちこれがいちばん好きなのかもしれない。作曲はハイリゲンシュタットの遺書を書いた時期に重なりますが、唯一の短調作品であることとそれがオーバーラップしているかどうかは軽々に論じられない。なぜなら同じ境遇下で作曲され同じ日に初演された交響曲第2番がニ長調、続く3番、4番も長調だからで、主調の長短で作品を類型化するのはあんまりインテリジェンスを感じません。また、誰が言い出したのかモーツァルト24番との類似が必ずといっていいほど指摘されますが、ベートーベンがそれを演奏したという記録は存在せず、両者に同名調である以外は構造的にもハーモニックにもポリフォニックにも特筆するほどの関連性、共通点はないように思います。

1つあるとすれば、どちらもいきなり主題が出てくる点で、24番冒頭の第1主題に、旋律をなしてはいませんが十二音が出てきます。

これとの類似性というなら、第1楽章提示部に楽器は分散するがやはり十二音が織り込まれているハイドン交響曲第95番ハ短調を挙げるべきで、3番におけるベートーベンに同等の先進性への関心や執着を見出すことは困難であります。作曲順は24番(1786)、95番(1791)、3番(1803)であり、人生の命運をかけたフィガロ作曲に没頭しながらおよそ性格の異なる24番を着想していたという凡人には想像もつかぬ構造の頭脳に17年たってもベートーベンが到達できていないというコンテクストでモーツァルトの先進性が語られるなら一理ありましょう。

和声的には24番は最初の3音c、e♭、a♭が変イ長調を成しますから出だしはハ短調に聞こえない。3番のc、e♭、g、f、e♭、d、cのくっきりとハ短調である音列に近いのはむしろ変ロ長調のこれ、ピアノ協奏曲第27番第一楽章第一主題(楽譜)を短調(変ロ短調)に転調したものです。第184小節でこの主題はピアノによって短調で出てきます。

モーツァルトにおける特徴的な長調短調の変転がビジュアルにも分かりやすいのはパパゲーノの自殺の場面です。ベートーベンはこのオペラを愛好し「魔笛の主題による変奏曲」を作曲しています。

逆に3番主題は何度もハ長調に変容して登場しますが、その音列は運命交響曲第4楽章主題c、e、g、f、e、d、c、d、cになります。そして、3番第1楽章コーダ(カデンツァ直後)でピアノと低弦が運命動機のリズムを交差させます。

この音列c、a♭、f、gは僕が名づけた「アマデウス・コード」の短調版(Cm、A♭、Fm、G7)のバスに他なりません。

モーツァルト「魔笛」断章(アマデウスお気に入りコード進行の解題)

以上の意味するところは、3番は初期作品から運命交響曲に至るブリッジに位置する大作エロイカの手前の、しかし同等の危機的土壌から絞り出された作品であり、生んだ触媒はというと3番は憧れの星モーツァルトであり、エロイカは期待の星ナポレオンであった。だから3番の主題はモーツァルト主題とアマデウス・コードの悦楽から成り、運命交響曲終楽章の凱旋の主題に連なる。その勝利を脳裏に浮かべることで彼は精神崩壊の危機を乗り越えたのだと思います。内面におけるその第1歩の踏み出しはモーツァルトにこそあったのであり、外面に向けては、魔笛を思わせる長短調の交替とアマデウス・コード(これも露骨にそのままでなく短調バージョンにして)高らかに歌いあげて自分が後継者だと宣言し、ウィーンの聴衆はそのメッセージを理解したのだと思われます。

吉田秀和氏だったか(間違っていたらごめんなさい)、 3番と24番の冒頭を比べて両者の才能の差だとしている評論を読んだことがあります。ベートーベンが24番を意識して3番を書いたことを大前提としていますが、既述の通りその保証はありません。ベートーベンにとって主題は素材ですからそこにプライマリーな芸術性を求めているわけではなく、むしろアイコン性、可塑性、分解可能性が重要であることはエロイカや運命を挙げるまでもなく一生の作品を通して一貫しています。だから仮に24番を研究し模範としていたと仮定しても、目指していない点で比べて才能を論じるのは実証性に欠けます。 3番の主題は21世紀の感性からすれば洗練とは程遠いものですが、この作品で意図している独自の和声語法、たとえばトニックc、ドミナントgの半音上下へバスの拡張と転調などには十全の適性を発揮しています。結果として得られている迷宮のような和声の効果はそれまでのいかなる作品でも見られない魅惑的なもので、その着想はフランスのエラール社から贈られた新しい構造により重厚な⾳が出るピアノによる重量感を与える筆致が生んだものでしょう。緩徐楽章のホ長調は主調ハ短調と一音(b)しか重ならない遠隔調で、第2楽章が始まった冒頭の印象はそれだけでもロマン派への息吹を感じ、これぞハイドン、モーツァルトには無いものです。

というわけで3番は好きなものですからレコードとCDを36種類持ってます。このCDのPilzというレーベルは1991年に創業者が野村證券に出資の売り込みにやってきて僕が応対しました。お断りした顛末はここに書いてあります。  ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

結局彼は放送局などから安く買った録音を偽名で売ったことで有名になり、コピーライトは所有して法的に問題はなくてもアートにおいて購入者を欺く行為は道義的には問題でした。このPC3番に何の思い入れもなく買った場所も覚えてないのは間違いなく二束三文の値段だったからです。ところが、くっきりと覚えていることが1つだけあります。「このピアノうまいな」と思ったことです。そのギャップがずっと喉に刺さった小骨のように気にかかっていたのです。なにげなくCD棚でこれを見つけ、いよいよ聴いてみて感服した。それが先日のアントン・ナヌートの稿につながったのです。

ピアニストはDubravka Tomšič(ドゥブラフカ・トムシッチ)。初耳です。なのに調べなかった。それどころか、女性名なのに「若い男だろう」と何の根拠もなくつい先日まで思い込んでた。どうせ廉価盤の人だ。いかにも安手で深みはまるで感じさせないCDジャケットのイメージも加担してとんでもない過ちを犯していたのです。

この演奏、何度聴いても良いです。曲頭いきなりスタッカート気味に小股の切れ上がったフレージングにナヌートのリズムとテンポへの厳しい目線を感じ、フォルテで重ねるホルンに身が引き締まります。オーケストラは弦など決して上質ではありませんが、第3楽章のメリハリ、クレッシェンド、楔を打ち込むティンパニの熱量などこれが本物だと説得されてしまうオーセンティシティに満ちています。トムシッチピアノは、現代の演奏に散見される、音楽の本質には無用である安全運転に徹する完璧さへの執着は微塵もありません。角を取って優雅に傾くこともなく武骨でさえあり、足すものも引くものもなくただただベートーべンの音楽に奉仕。そこに保たれる古木による民芸品のような味わいはこの曲の愛好者として飽くことがありません。来日したワルシャワ国立歌劇場によるドン・ジョバンニを思い出します。こういう商業主義と無縁の芸術家たちはスターダムに登ることも2千人の大ホールでブラボーの嵐を呼び起こすこともないでしょうが、そういうものは真の芸術性とは何の関係もありません。こういう隠れた名品を探し出すことに喜びを覚えます。

この録音と並行したと思われるライブがあります。ミスタッチを意にも介していないトムシッチには圧倒されるばかりで、ベートーベンの弟子カール・ツェルニーの言葉を思い出します。

「パッセージを弾きそこなったり、際立たせたい音符や跳躍をミスタッチしても、ベートーべンはほとんど何もいわなかった。しかしクレッシェンドなどの表現や作品の性格づけに関して足りないところがあると、彼は激怒した。前者はただの事故だが、後者は知識や感性、注意深さを怠っているからこそ起きる––そう彼は言った」(カール・ツェルニー著 岡田暁生訳『ピアノ演奏の基礎』春秋社より)

Categories:______ハイドン, ______ベートーベン, ______モーツァルト

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