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デュカ  舞踊詩「ラ・ペリ」

2019 JUL 27 23:23:12 pm by 東 賢太郎

Paul Abraham Dukas

舞踊詩「ラ・ペリ」はメシアンの先生であるポール・デュカ(Paul Abraham Dukas [pɔl abʁaam dyka(s)]、 1865 – 1935)の最高傑作である。出生の経緯と時期はまことに輝かしい。バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を率いるディアギレフがデュカに、レオン・バクストの衣裳と舞台装置によるバレエ《ラ・ペリ》のためにダンス音楽を作曲するように依嘱した1911年はストラヴィンスキー「火の鳥」初演の翌年、「ペトルーシュカ」初演の年ということになる。初演はラヴェル「ダフニスとクロエ」と同じく1912年4月22日(パリ、シャトレ座)であり、スキャンダルの起きた「春の祭典」初演の前年である。つまりバレエ・リュス初期の黄金時代の作品リストにあるはずなのだが、実は載っていない。ディアギレフがプリマである妖精ペリ役のナターリヤ・トゥルハノヴァがへたくそでイスカンダール王のニジンスキーと釣り合わないとケチをつけ演奏会を一方的にキャンセルしてしまったからだ。

ナターシャ・トゥルハノヴァ

トゥルハノヴァがデュカの愛人、ニジンスキーがディアギレフの(同性の)愛人と複雑であったが背景はわからない。それでもデュカは作曲を完成し、シャトレ座での初演はトゥルハノヴァのタイトル・ロール、作曲者がコンセール・ラムルー管弦楽団を指揮して行われた。なお同じ演奏会でダンディの「イスタール」、フローラン・ シュミットの「サロメの悲劇」、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」の管弦楽版(バレエ『アデライード、または花言葉』初演)がそれぞれの作曲者の指揮で演奏されている。”poème dansé”(舞踏詩)とされたラ・ペリだが、出版後に金管による輝かしい「ペリのファンファーレ」が追加されたのは、静寂な舞踏詩の導入までに騒がしい聴衆を黙らせるためであった。

ラ・ペリ初演のナターシャ・トゥルハノヴァ(1912)

ドビッシーの3才下であるデュカの名はディズニーが『魔法使いの弟子』を使用したため音楽史の表舞台に残った観があるが、アニメという印象に引きずられ映画音楽作曲家のような位置づけにもなりかねない。正反対だ。彼は非常にセルフ・クリティカルな完全主義者であって、遅筆であるうえに作品を多く破棄したため完成作は20ほどしか残っていない(もうひとつ重要な作品はオペラ『アリアーヌと青ひげ』である)。ラ・ペリも廃棄されかけ、友人の懇願で残されたとされる。

初演時のペリの衣装

ゾロアスター教のペルシャが舞台でイスカンダール王とはインドまで東方遠征をしたアレキサンダー大王に他ならないが、デュカの音楽に東洋色は薄い。ドビッシーの “印象派” 和声語法とラヴェル級の精緻な管弦楽法とテクスチャーによる生粋のフランス近代音楽を書いたのであって、安直にオリエンタルな壁画に仕立てなかった所に僕はデュカの作曲家としての硬派を見る。R・コルサコフのシェヘラザードにおける東洋が原色ならラヴェルのそれは中間色で、デュカは淡彩色なのだ。それでいてこんなに神秘的でなまめかしい音楽が書けるのは不思議なばかりで、愛人に踊らせようとイマジネーションがふくらんでそうなったのならもっと愛人をつくってもらいたかった。

ペリの上演キャンセルはディアギレフがニジンスキーが踊る「牧神」(ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」のバレエ版)の上演日数を増やしたかったからという説もあるからドロドロしている。ペリの舞踏詩は独奏フルートの妖しい半音階フレーズで始まるが、デュカもどこか牧神を意識していなかっただろうか。

この曲の管弦楽スコアはダフニスとクロエ並みの精密さだ。本稿のために取り出して見ていたら日付が書き込んであり「at Foyles, London、男の子誕生の日」とある。そうだった。フランクフルト勤務だったその日、外村社長から欧州全体会議のため緊急のロンドン招集がかかった。出産予定日が近かったが当時はだから行かないという選択肢はない。そこで「日帰りします」という窮余の一策で朝早くの便で飛んだ。約半日の「空白」「リスクテーク」である、大丈夫だろうと思っていたら会議中に「妻の陣痛が始まった」と一報が入る。ヒースローは遠いためシティ・エアポートから急ぎ帰国したがタッチの差で出産に間に合わなかった。

日帰りだったのは間違いない。いま、このスコアを手にして、にわかに不可解な疑問に襲われている。いつソーホーのFoylesに行ったのか?である。謎だ。わからない。手慣れたロンドンだ、タクシーでヒースローからの出社途中にさっと寄ったかもしれない。そんな時にと不評を買いそうだが、それが僕にとっての音楽というものだ。Durandはフランクフルトで手に入らず、ロンドンにあることを知っており、この出張はそっちにおいては好機であったに違いない。たぶん、気に入っているペリをシンセで録音するためだ。でも、そこまでしながら結果として着手すらしてない今がある。それも2つ目の謎である。長男ができてそれどころでなくなったのだろう、たぶん。

 

ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

ブーレーズのこの曲唯一の録音。カセットを米国で買って聴きこんだ。震撼もの。彼のCBSとのストラヴィンスキー3大バレエの完成度に匹敵する録音はこれだ。1975年11月29日、マンハッタンセンターで収録しており、同年に同じ場所で1月に火の鳥、3月にダフニスを収録。プロデューサーは3つともアンドリュー・カズディンで、彼はCBSの元プロデューサーで、グレン・グールドが演奏会をやめた翌年の65年から死の3年前の79年までの15年間、彼のレコードの大半(40枚以上)を制作した人である。春の祭典のトーマス・シェパードとは傾向が違い、広い音場の残響と立体感、それでいて抜群に高い解像度、弦楽器の細部までの極度の繊細さ、管楽器のリッチな倍音とつややかさ、みずみずしさに比類なき個性があり、ブーレーズの音作りとは誠に相性が良かった。ペリのスコアにひっそり佇む深遠な美をこの演奏ほどに陽光のもとに典雅に描き出すのはもはや不可能だろう。ブーレーズの凄みは幾つか挙げられるが、テンポが伸縮しても音色が変わらないことがその一つだ。通常、オーケストラがフォルテで加速すると音圧が増してバランスも変化して何がしか音色に出るのだ。音のクオリアが動くと言ってもよい。ブーレーズのこの頃の録音には不思議なほどそれがない。もちろんニューヨークフィルという名器あってのことなのだが、速くなっても加熱せず、演奏のストレスによる「一所懸命感」がなく、管弦楽全部が名人の一筆書きみたいに摩擦を伴わずに驀進する。猫科の動物の静かな疾走。アジリティ(敏捷性)が抜群に高いのだ。ブーレーズの演奏に緻密さと分析力を見る人が多いが、僕は彼の個性はそのけた外れの知性に抜群の運動神経が付随している点にあると思っている。僕がシンセでのリアライゼーションをしなかったのはこの演奏のあまりの完成度が近寄り難かったからだったかもしれない。このペリの録音のクオリアが明らかに近いのは「火の鳥」と「マ・メール・ロア」である。どれも録音芸術の人類最高峰の文化財であり、その価値は永遠に讃えられるだろう。

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