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カテゴリー: 政治に思うこと

デルタ株の水際対策はトップの大失敗だった

2021 JUL 30 13:13:26 pm by 東 賢太郎

そもそも自分の性格がディファクトでどうだったかは今や正体不明になってしまったが、わからないことはしないし興味もないというのは子供時分から一貫してきたように思う。従って言ってることがロジカルにわからない人は信じないし、育ってきた証券市場はそういう人種が多く経験的に詐欺師ばかりと思っていて、他人の言うことはまずウソだと思って聞く悪い癖がついてしまっているかもしれない。悪気があるわけではない、ビジネスで生きていくための積極的性悪説とでも呼ぶべきものだ。ウソは5秒で分かるし向き合っただけでウソつきを見抜く場合もある。つまり、仕事でなければ全く普通の人のつもりだが、ビジネスではとても嫌な奴であって、自分で自分を議論や商売をしたい相手と思わない。

ビジネスワールドは、あらゆる業界、大なり小なりが方便、ポジショントークというマイルドなウソで成り立っている。コップ半分の水を「もう」「まだ」はどっちも真実であり、どっちもウソだ。我々の用いるのは邪悪な意図によるものではなく、心理学の領域のマウントの取り合いという一種のゲーム技術である。真っ正直な「良い人」はいないことになっており、それがディファクトだからあとはワルの度合いの問題。証券界は幅が大きめだからスプレッド(利ざや)も大きいわけだ。業者同士はプロだから合法的なら何でもあり。ボクシングでいくら殴ってもいいのと同じである。やられたほうが馬鹿なので訴訟は恥だからしないし、馬鹿と思った奴のいうことを真に受けるなどあり得ない。頼れるのはファクトと数字だ。断言するが、それしかない。役に立つのは哲学と歴史と数学。それ以外の教養もあったほうがいいが必須とは思わない。

この世界で42年やって、近頃とくに面白いと思うのは政治家の言説だ。言葉が商売道具であるのは我々と全く同じだが、彼らは売るのは商品でなく自分、自説だからもっとわかりやすい。大臣、議員の演説や国会答弁を聞いているとウソにもうまい、へたがあると思う。国民、国会はウソを百も並べて騙せばいいのであって、売り込む必要など毛頭ないという態度の民主主義をはき違えた者もいる。「責任は私にあるが、責任はとればいいというものではない」。これはあらゆるウソを蒸発させる大ウソであるが、それなりの大物が堂々と言わなくては逆襲されるから弁の立たない小物が言うには向いてない。ちなみに政府の代弁者である日本のマスコミの言説を僕はのっけから信じていない。大事なことはほぼウソであり、報道しないという搦め手のウソもばらまいて世論誘導するからだ。そんなものは百害あって一利ないので知る必要すらない。真実は自分で探しだして知る。なるべく数字で。それで初めて、何十年もこの業界で所場を張って生きていける。この人が言うならと信じる人はいるにはいるが世界で10人ぐらいだ。

 

5月28日にこれを書いた。

五輪中止でも危ない日本(IOCは潰せ)

これが2か月前の我が予測だった。なお、書いたことで修正すべき点が1つだけある。「突撃一番」が「おもてなし」から「おみやげ」に変わった点である。

大変意味深いのはこの東京都感染者数の予測だ。

すでに感染者は3865人も出ており大ハズレである。しかしそれをもって東大の予測はいい加減だったと結論することはできない。何故ならこれは東京五輪の開始(7月半ば)を起点として感染者数が増え始めるという「モデル」(関数)であって、それ自体は当面の所は正しい。大ハズレの原因はデルタ株(当時インド株)の影響を含んでおらず、人流上昇を6%と甘めに見過ぎている2つの前提条件だったのである。

ちなみに、その稿に書いた僕の結論は

10月の1日の東京の新規感染者数は1601人より多い。どこまで多いかは人流とインド株の暴れかた次第である。

だった。ハズレではないが今となっては何の価値もないステートメントになってしまった。こんなに早く、こんなに高い山が来るほど暴れまくるとは思っていなかった。

東大の作成時点の前提は、①緊急事態宣言の発出はなし ②ワクチン接種は1日60回 ③来日外国人の50%がワクチン接種済、である。その後の現実は ①7月12日に再発出 ②概ね100万回 ③概ね80%と、前提より「抑制的」になった(グラフを押し下げた)にもかかわらず、グラフは跳ね上がってしまった。「8月第1週で4000人」をプロットすると勾配はほぼ垂直(指数関数的)になることはお分かりだろう。

このシミュレーションにはNHKの補足がある。人流上昇は当時から20%と都が発表していたにもかかわらず、

(東大は)当初、NHKの取材に対し、人流が10%増えた場合のシミュレーション結果を示していましたが、その後の検討でより妥当なシミュレーション結果として6%増えた場合に修正しました。

というものだ。「より妥当なシミュレーション結果」とは、「これはウソですよ」という赤裸々な告白以外の何物でもなく、何だこれはと仰天するしかない。「より妥当なシミュレーション」ならわかるが、それは関数(モデル)の設定が順当かという意味で、そう思わないならNHKは放映しなかったはずだ。そうではない。導き出す「結果」(東京都の新規感染者数)が妥当かどうかなのだ。つまり、変数(人流上昇の数字)に何を代入するかで感染者数はいかようにも変わるのであって、”お好みの結果” を出しましょうと変数を操作するなど科学者をよそおった詐欺師でしかない。こんなものを放映しておいて煙に巻けるだろうと思ってる、国民がそこまで馬鹿だと思ってるとは驚異である。

東大の学者がそこまで馬鹿なはずはない。彼らは馬鹿な人にそう思われては叶わないから「より妥当な・・」の補足をNHKに加えてもらい、「政府の圧力がかかりました。不本意ですが、人流の10%は6%に変更して低めの感染者数が出るように忖度しました」とリスクヘッジして不名誉を免れているのである。発注も忖度もNHKがして、NHKが結果が意に添わないといちゃもんを付けた可能性もある。しかしその場合も、放映して官邸からお𠮟りを受けないように忖度したわけで、科学へのリスペクトは皆無だ。こんなのが国営放送で受信料まで取っている。『政府の代弁者である日本のマスコミの言説を僕はのっけから信じていない。大事なことはほぼウソであり、報道しないという搦め手のウソもばらまいて世論誘導する。(見ても)百害あって一利ない』と書いた意味がこれでお分かりだろう。直接間接を問わず気にした相手は官邸だ。東大の箔をつけて「五輪をやっても感染者はこの程度で安全安心ですよ」と印象操作したかったのだ。そして、リスクヘッジに官邸は気がつかず、より妥当だと思った「結果」は恥ずかしいほど大ハズレであったことが、東大の名前でより箔がついてバレてしまったのである。

この「結果」は国民を騙すためであったが、もしそれ以前に、これなら総理が妥当と思うだろうという曲がった意図の「忖度の数字」であったとすると問題は非常に根深い。「10%では感染者が2千人になってしまうからきっと通らない。適当な所で6%でいこう」と、ウソの報告をすることが確信犯化してしまい、これまでの言説から判断するに科学は無知で関心もさらさらない菅総理の意思決定をコントロールすらできてしまう。そう思うのは、もうひとつ、こういうのもあるからだ。

赤恥ものの、マグニチュード10倍の豪快な大ハズレである。こんなひどいものに官邸はいくら税金を払ったのか?マスコミ公表は東大モデルは5月24日だ。三菱総研モデルは6月11日で約3週間の後だしジャンケンであったのだから、東大に比べて出来が悪いと指摘されてプロとして反論の余地はかけらもない。はっきりと「国が三菱総研に委託」とあるから、菅総理がこれをブリーフィングされたことは間違いない。彼にこのシミュレーションにあった科学的根拠の脆弱さなど理解できるはずがない(現に、脆弱だったから大ハズレしたのだ)。これを丸ごと信じてしまった可能性は大いにあり、持ってきた部下は「よくやった」と愛でられ、「よし、大丈夫だ。五輪は目をつぶってやっちまおう」となるのは無理もないことだと同情さえ覚える。曲がった忖度の産物であるなら国家の道を誤らせる重大事件であり、万事において事程左様に、忖度まみれの裸の王様への道を歩んでいるのではないかと心配する。総理に悪気はなくとも、このままでは独裁制に陥る危険を秘めていると国民に恐れられてしまう日が来るだろう。

更に、科学的に重大な問題はグラフの「山の高さ」よりも「形状」である。つまり予測と違って指数関数的に飛び跳ねたことだ。前提にないことが起きたからである。2つある大ハズレの原因となった前提条件のうち、人流上昇は「形状」に織り込まれているから原因ではない。従って、原因はデルタ株への置き換わりであった、それが大爆発を引き起こしたというロジカルな結論に至るのである。

5月12日にアップしたこれ 世の中の謎(安心安全の大会)に、

国会で蓮舫議員がインド、パキスタン、ネパールからの入国者のデータを質問したら田村厚労大臣が答えられなかった。あの姿を見てぞぞっとしてしまった。

と書いている。厚労大臣が知らない。つまり気にもかけていない。デルタ株の増殖は指数関数的というのはインド、パキスタン、ネパールのデータで、この時点で素人にさえも周知の事実であった。指数関数グラフというのはほぼ直角に「立っている」。対応が1日遅れればドンと数値が増えるのは高校ぐらいは出ているんだろうから習ったろう。それを気にかけてもおらず、いたずらに時を空費したことは田村厚労大臣の重罪であり、まだ対応できた5月時点でデルタ株の水際対策を何もしなかった官邸の大失敗だったのである。もう一度書くが、ロジカルな結論として、この失敗が今日の3865人の数字を招いている。後世に記憶されるべき事実としてここに記す。

それに加えての人流上昇だ。東大のシミュレーションは「五輪中止」のケースでも右肩上がりではある。だから五輪があってもなくても第5波は想定されている。しかし「五輪中止」より「五輪あり」のケースの方がグラフが上になる(感染者は増える)となっており、政府はこっちの方はより妥当なシミュレーション結果のために修正させていないのだから「五輪開催で人流が増える」ことは認めていたのである。よって、五輪がなくても感染拡大はあったのだ(五輪は犯人でない)という主張はあり得ない。「選手も選手村もバブルで遮断したパラレル・ワールドにあった。都民の感染とは関係ない」という組織委員会、IOCのお気楽なウソを信じる者はもはや誰もいない。米国体操チームがバブルもプレーブックも完全に無視して選手村から “脱出” し勝手に外のホテルに入っている、この事実だけでその十分な証拠である。ルールというものは一人でも破って懲罰されなければ、なかったことになるからだ。つまり、バブルはもう存在すらしない。いや、ウガンダの空港事件で発覚したとおり、最初からなかったのだ。

それでも五輪のせいでないと力説する御仁がいる。凄いものだ。デルタ株を読み間違えましたでは済まない。水際対策が大失敗だったのだから、入れてしまったウィルスをPCR検査で調べ上げ、無症状者まで徹底隔離するぐらいの緊急対策をとるべきだったのに何もやってない。何も焦っていなかったのである。それで?ワクチン接種で大丈夫ですなのだ。国民の5~6割が “2回接種” を完了しているイギリス、イスラエルで、デルタ株感染者が再増加しており、イスラエルは3回目の接種を始める。つまりワクチンは変異株には思ったほど効かないことが、ワクチン先進国による先陣を切っての人体実験でわかってきているのである。この “まぎれもない真実” を前に、どうしてワクチン打てば大丈夫なのか、学者までもがそう言い切ってしまうことにファシズムの不安すら覚える。

僕は医学の専門家ではないが誰が言おうが真実を無視するのは科学ではない。科学的理解はこうだ。「感染対策aと経済対策bのバランスの最適解を求める」ことはあらゆる国で不可避で両者はトレードオフ関係にあり、仮にa+b=100として最適解を{a,b}と書くと {100,0} 、{70,30}のようになる。問題は 0<b<100 だが、0<a<X<100 であることだ。最極端のケースは{X,0}で、即ち、経済対策をゼロにしても満点の感染対策(重症者、死者ゼロ)はない。そこで便宜的に「Xを最大にする解決」が最適とされる。例えばGoToキャンペーンを30やれば旅行業界が救えるとしよう。そこで{70,30}は無理でも{50,30}ならいいだろう、しかしそれで感染対策が手薄になって{10,30}になるなら国民が納得しないな、というふうになる。これが政治判断だ。

以上のことはコロナでなくインフルでもただの風邪でも成り立つ。風邪はa=0でも構わないので{0,100}だ。インフルはワクチンとタミフルが出たおかげで{10,90}ぐらいで回せているのが現状だろう。それが世界はこの1年半、コロナに{X,20}ぐらいを強いられており、もう長くはもたない。そこで集団免疫が出てくる。例えば、完全な策ではないが満足度80%のa+b=80なら国家安泰だから{50,30}で行こうとなる。20%減は暗に重症者、死者を増やす意味だが経済の損失はそれより大きく、B=30を得るには80%の国民にワクチンを打てばよいという場合にそれは起こる。これが議論の本質であることは重要だ。ワクチンの副反応の死者数よりも重症化が防げて助かる人の数のほうが多いという議論は、集団免疫策にワクチンを用いることを正当化する “サブの議論” でしかない。血栓ができやすいとされるアストラゼネカでも確率1万分の1だから米国でも日本でも「ワクチン接種」は正当化はされよう。しかし、それを全国民にメリットがあると訴えて集団免疫を得ることを目的とした政策を執行しようとするならば、60万人死んでいる米国ならいいが1万5千の日本ではどうかというメインの議論を尽くす必要があるはずだ。それをせずに学者、医師までが接種は当然という論調に振れていくのは非常に危険と思う。

いま英国のジョンソン首相がやろうとしているのは{0,100}だ。彼は昨年から集団免疫策を信奉しており、失敗して自ら罹患している。その延長線としての第2ラウンドがこれなのだ。英国の夏は短く冬は長いという特殊事情もある。冬に季節性で次の波はまた来るが、現状の国民50%の接種率では集団免疫に至らず防げない確率が高い。であれば夏に更なる抑圧を強いて国民の怒りを買うより、感染対策を全面解除して休暇を思いっきり楽しませた方がトータルで国民の満足度は高いという判断だろう。ポピュリズムに過ぎないが為政者としては上手なことは英国に住んで夏冬ギャップを経験した者ならわかる。しかし僕は失敗すると思う。先日の朝ナマで医療ガバナンス研究所理事長・上 昌広氏がこれを参照しろという趣旨の発言をしていたが賛成できない。日本でするなら厚労省の抜本的改革が前提で、氏のような最もまともな部類の学者が集団免疫を推すと、それが科学的知見だと官邸があらぬ方向に舵を切り、非接種者の差別に至りかねない。集団免疫策を採るか否かはあくまで政治判断であって、政治家の責任と裏腹にあるべきだ。

これも凄いことだが、今年の元旦から8月22日までの約8か月で、緊急事態宣言かマンボウが「出ていない日」は30日ほどしかない。8か月中、7か月間 ”出っぱなし” なのである。マスコミがいう「宣言慣れ」なんてかわいいものではない、「そっちがむしろ平時」になっているのだからやる意味はなく、やめたときのバックファイヤーが炸裂するだけになってしまっている。怖ろしいことに、それが「常態」なのだ。それに輪をかけて、五輪開催がこんなイメージを生むメッセージになってしまっている、

緊急避難警報でスマホがピーピー鳴っているが、窓の向こうからはドンドンピ~ヒャラと楽しそうな夏祭りのお囃子が聞こえてくる

緊急事態宣言下で五輪をやる。国民の感じはそんなものだ。「お祭りやってるんだからそんなに緊急でもないんだろう」「見ろ、村長のツイートもお祭りバンザイ、おめでとうばっかりだぜ」「私はワクチン打ったし、これでもう死ぬまで安全安心よね、他人にも移さないし」「私もよ、やっと元の生活に戻れたね」「菅さんもワクチンでオッケーって言ってるしね」「そうね、総理大臣が言ってることだもんね、大丈夫だよね」。こうやって緊急避難警報はやすやすと無視され、歓声と祝杯があがり、お祭りに興味のない人も気がゆるんで外出、外食、旅行する。それで死人、ケガ人が出てもお祭り委員長であるバッハ氏は何の関係もない。雨が降ろうが槍が降ろうが「お祭り決行だ!」と命じた村長と、土地を提供した庄屋の責任であることに異を唱える国民はもうあまりいないだろう。

五輪中止派は「反日」だ。これも驚いた。君が代拒否に結びつく短絡単細胞思考はまずい。不幸なことに、この発言は、天皇陛下が宮内庁長官を通してコロナ対策へのご懸念を表明され、開会宣言の「celebrating」を「祝い」ではなく「記念する」と訳したことで「反日はお前だろう」になってしまった。女系天皇、女性宮家、KK問題への民意とからんでくるとこれも根深い。「選挙といえば自民」の30%はともかく、「とりあえず自民」だった中道保守の中高年層はどう思うだろう。僕は金メダリストはいちいち讃えているが、それは自分がガチで野球をしていた親アスリート族だからである。金メダルが何十個になろうがそれは100%アスリートの功績であって、その後ろで政治家が浅ましいピースでもしようものならバッハとおんなじ絵にしかならない。東京都で何ら実質的なコロナ有効策を打たず出たり引っ込んだりでポーズをとるだけの小池も同罪だ。この辺の民意は実にアンビバレントなのである。ただでさえ感度の低い官邸、運命のすべては言説にかかっている。当然だ、政治家なのだから。

感染者が増えても重症者、死者が増えてないから大丈夫だと言ってる者がいる。上の2つのグラフを信じて大ハズレしておいて今度は当たると思ってる御仁の相場観のなさと根拠不明の胆力には舌を巻くしかないが、それは大ウソだ。重症でなくとも、軽症、中等症でも病床は埋まり、ベッドがありませんと自宅療養で待たされている間にたくさんの家族に広がり、入院するころには重症化してしまうか亡くなってしまう人がすでに複数出ている。ところが一方で、だからまずいでしょという方向にあらぬ話が進んでロックダウン可能な法改正の話まで出ている。馬鹿も休み休みにしろ。自分がデルタ株対策に大失敗して危機を招いておいて、だから私権制限をする?それなら先にお前らが責任取って内閣総辞職してからやれという話に進んでいくだろう。火に油を注ぐだけの五輪は始めてしまった以上はもう中止という手はない。もう手の施しようがない。

僕のブログをフォローしてくださっている皆様は、昨日の記者会見での菅総理のこの発言を聞いてどうお考えになるだろう。

「(デルタ株の)水際対策っていうのはきちっとやっています。今このオリンピックというのは、まさに海外の選手の人たちが入ってくる方たちと完全にレーンを分けてますから、そこは一緒にならないようにしております。そうしたことでしっかりと対応させていただいているというふうに思ってます。私がこの感染対策を自分の責任のもとにしっかりと対応することが私の責任で私はできると思っています」(発言のママ)

五輪を中止していても危なかった日本国は、この総理大臣に全面的に運命をおまかせの事態なのだ。

 

 

 

 

 

4分間はもうバッハでいくしかないだろう

2021 JUL 21 16:16:27 pm by 東 賢太郎

①「アスリートは85%、IOC関係者はほぼ100%、メディア関係者も70~80%の高い割合でワクチン接種を終えている」(IOCバッハ会長、外務省「人の交流」より、2021/7/14)

②「国民の52.64%がワクチンを2回打ち終わり、1回打った人は68.1%に達したイギリスで新規感染者が7月16日に1日5万1870人出ている」(Our World in Dataより、比率は2021/7/19時点)

②というデータ(事実)を前にして、①だけを根拠として「大会の安全安心」を主張して正しいという結論を導くのは、少なくとも地球上においては不可能である。昨年に集団免疫作戦で大失敗しているポピュリストのジョンソン首相は規制全解除という蛮勇とも思える再チャレンジに踏み込むが、英国民の半分が危険すぎると反対している。それを日本国でやればもはや「殿ご乱心」の域だ。総理は椅子から引きずり下ろされるだろう。

バッハ氏は同じ発言の後半でこうも述べている。

③「加えて、日本の極めて厳格な感染対策により、過去に例を見ないほど万全の準備が整ってきており、安全・安心な大会開催に向けた日本の取組を高く評価する」(①に同じ)

つまり、日本の「安全安心」への取り組みを高く評価はするが、準備に加担はしない。「選手にワクチン接種を促して感染を回避させることはIOCの責務だが、強制はできないし全員が打ったところで感染しない保証はない。あとは日本(菅総理)におまかせするので頼みますよ」と述べているだけだ。

バッハ氏は緊急事態宣言下での歓迎会に批判があることに対して「我々はゲストだ」と答えたが、まさしく、客人はホストの家でパーティの最中に何が起きようと責任は問われないからその姿勢は一貫している。IOCは大会中に感染した選手に訴訟されないように免責条項付きの同意書にサインさせており、日本からも訴訟されず、国際世論からも叩かれにくい伏線をそうやって張っている。

では菅総理はというと、共産党・志位委員長の質問に対してこう述べている。

④「国民の命と安全を守るのは私の責務ですから、そうでなければ(五輪は)できないということを私は申し上げているんじゃないですか。守るのが私の責任であります。守れなくなったらやらないのは、これ当然だと思いますよ」(菅総理大臣、「党首討論」、2021/6/9)

この発言も巧妙ではある。「五輪をやったせいで国民が何人感染した」と実証するのは困難だからだ。東京の新規感染者が仮に5千人になっても「五輪前に入っていた変異株が想定を超えた猛威を振るった」と主張すれば反証は難しい。すなわち、私の責務とは「安全安心の呪文を毎日お唱えしてさしあげます」という意味にすぎないのだ。バッハが逃げ、総理が逃げ、都知事は隠れ、感染の責任は誰も取らない。東京都民はIOCに場所を貸してやるのに都税を巻き上げられ、競技は地球の裏側の人と一緒にテレビでバーチャルに見る。リアルで起きることというと、新種の混合変異ウィルスか何かが都内に漏れ出してきて、コロナはおろか他の病気で倒れても病院をたらい回しになるのではないかという不安の拡散だけだ。何が安全安心だ。五輪が憎いわけではない、いち都民としてふざけんなという怒りしかなく、やり逃げは絶対に許さんよということだ。

バッハ氏が過去に例を見ないほど万全の準備と持ち上げて見せた、安全安心の守護神である「バブル」は、ウガンダ選手団の空港検疫からして早々に穴があいていたことが発覚し、南アのサッカーで内側ですでに陽性者が2人出ている。英語ができない現場の職員に百カ国を超える何をしでかすかわからない外国人の指揮、統制、監視させるなどのっけから無理で、気の毒としか思えない。東京都民の心配をする以前に、まずバブルの中こそ危ないだろう。外部と遮断されていたという意味では選手村より完成度の高いバブルであったダイヤモンド・プリンセス号では、陽性者たった1人が2か月で712人に増えた。日本の防疫体制は完璧だろうと国民も当初は思っていたが、ふたを開けてみると、現場は必死に真剣に作業に当たりはしたもののウィルスに対して打つ手がなく、加藤厚労大臣が「万全の態勢で臨んでいる」とした政府の対策はというと「左手が清潔ルート、右側が不潔ルートです」程度の恥ずかしいものだった。

天皇陛下がご心配されたのもそのようなことかもしれないし、ご心中は拝察すらできる立場ではないが、開会式のスピーチだけお一人でされて競技観戦は皇室は一切しないというご判断は国民に寄り添われたさすがのものと思料する。日本国のあるべき正義と良識を決然と体現されたメッセージには、国を愛するいち国民として清冽な湧水で渇きを癒したかのような心からの慶びを禁じ得ない。それを感じるのがほんとうに久しぶりである。何という浅ましく汚れた世情を我々は何年も見せられてきたことなのだろう。さらには、トヨタをはじめ日本の錚々たるスポンサーが五輪CMの放映を軒並みキャンセルし、開会式すら出席しないという決定を続々と発表しているのも、理由は数多あろうがそういうことも一抹の背景にあるのではないだろうか。企業にとって世論は生命線である。当然ながらそれに対する感度は鋭い。いくら損をしようとも「強行派」の一味だと思われるよりましだという判断に至ったのは、世論の大勢は五輪にアゲインストという雄弁な証拠であろう。

双子姉妹のきんさん、ぎんさんも訪れた

この風景で思い出すことがある。1989年に竹下内閣がバブル経済の狂乱に乗じて挙行し、国民を驚かせたふるさと創生事業だ。国が全国の市町村に1億円を配って好きに使えという大判振る舞いの「村おこし」国家プロジェクトである。何が起きるかと思いきや、「村営パブ」の開店や「純金の除夜の鐘」を鳴らすなど想像を絶する驚愕の事態のオンパレードに至る。当時ロンドンで日々プライドを持って世界に冠たる日本経済、株式市場を英国金融街の要であるシティの顧客に語っていた僕はこの事実を説明するのをためらった。こんなみっともないことをやってる国の国民と思われるぐらいなら、ニュースを伝えなかったと文句を言われた方がましと思ったのだ。青森県某市が特産のこけしを宣伝しようと純金、純銀の特大こけしを特注した。後の財政難で市はこけしを売却し、展示品はレプリカになったが、この事例だけはずっと後になって外国人に「日本は実はそんなもんだ」という一例として説明した。「金価格の下落から2~30%の損切りだったと思われる」という部分を加えると、ばかばかしさの中にも証券マンとして何がしか語る意味を感じることもできたからである。この国史に刻まれる記念碑的政策によって、東京生まれ・東京育ちの僕は日本国の諸地域における経済や伝統文化風習の奥深さというものをまじまじと思い知らされたわけである。

しかし、今になってその村おこし政策は効能もあったことがわかる。例えば、全米ヒットチャート1位でメンバー各人の年収が10憶円を超えるといわれる韓国の超売れっ子7人組グループ「BTS」のライブ公演はどこでやっても売り切れで、招聘するのがとても大変なことで有名だ。ちなみに日本トップの人気グループだった「嵐」のyoutube再生回数はせいぜい4,5千万回だが、世界トップのBTSは新曲を出すとあっという間に5億回だ。異例のスーパーぶりがわかる。ところが、そんな韓国にとって宝のようなスターのライブ公演は自国より日本の方が回数が多いのである。国民に叩かれるのになぜそうなるかというと、韓国は大都市しか音響の良いホールがないが、日本はどんな田舎にも立派な村おこしホールがあるから縦断ツアーができ、回数が増えるのは仕方ないという事情があるのである。日本側はカネは落ちるし郷土自慢になるし、地元政治家はやってる感が出せる。是が非でも来てほしいから韓国の興行主に表で裏での「お・も・て・な・し」攻勢になるのである。

そう、それの巨大バージョンが、3兆円をばらまいた東京五輪であったのだ。

興行主であるIOC様への貴族並みのおもてなしはもちろんのこと、フランス検察が調査中の裏金も渡ったろうし、あらゆる究極の手を使って奪取した開催都市指名である。大会成功をお約束しますと思いつく限りのポジティブ思考で美辞麗句をふりまいたことだろう。バッハ、コーツ両氏が日本国民の感情を逆なでする発言をしているように見えるが、それは官邸、組織委員会がぶちあげたヨイショを鵜呑みにしてしゃべっただけだ。彼らにはお客さんである日本を貶める悪気などあるはずがない、官邸、組織委員会らのセールストークが頭に刷り込まれていただけなのだ。森友事件で佐川長官の忖度精神に満ちた「文書は隠滅しました」を信じて国会で「総理も国会議員も辞める」と啖呵を切って大炎上に追い込まれた安倍前首相とおんなじだ。「コロナ禍に至って1年延期してからも「バブルは完璧で安全安心です」「国民はちょろいもんです。反対の世論なんて池江璃花子が金メダルをとればコロッと変わりますよ」ってなもんであったろう。しかし、それを言ってる上から目線の面々が世論の機微を読む能力はほぼゼロであり、作業は下請けに丸投げで責任は取らない連中だということをIOCは来日するまでは恐らく知らなかったろう。

バッハ氏は昨日のIOC総会で「東京オリンピックの開催に実は疑念を持っていた」「開催はごり押しと見られたかもしれないが、疑念があることを外部に悟られたら五輪はバラバラになっていた」「だから選手のためにもそれは隠していた」という趣旨のことを記者の質問で語った。これは驚くべきコメントだ。普通は「不安はあったが日本の力を信じていた」ぐらいのリップサービスで済ませるところであり、現にスピーチ自体ではお世辞を並べていたのだから非常に違和感がある。つまり、ついにここで抑えに抑えていた本音が暴露されてしまったのである。不安どころか疑念があったというのは、まぎれもない、官邸の美辞麗句を「実は信じていなかった」という意味である。「私は中止でも良かったが、菅総理がどうしてもやる、安全に出来ると言い張ったのだ」「だから不安で眠れない夜もあったけれど、IOC会長として責任は尽くしたことを明言しておく」というニュアンスを感じる。

この発言が出たのは、恐らく、来日して次々と目にした “不幸な現実” が、官邸や組織委員会の楽観的な説明とあまりに乖離しており、天皇陛下までがもろ手を挙げての歓迎ではなかったからだろう。菅総理の「内奏」を聞いて陛下が懐かれたご懸念というものは、バッハ氏にとって異議があるどころかむしろその通りと思えてしまったのではないか。ちょろいと聞いていた反対世論がここまで頑強なのはバッハ氏の想定外だったろう。総会に参加しているIOCの幹部たちも、選手村のバブルがワークしていないという批判的な国際報道はもちろん、菅内閣の支持率が五輪のごり押しで暴落して29%だぐらいのことは知ってしまっているはずだ。そんな総理の言葉を信じてましたでは万一大会が失敗に終わった場合にIOC内部で反バッハ派に攻撃されるだろう。五輪の看板を毀損したとでもなれば会長続投すら危い。そこで弁護士の彼は日本側に全責任を押し付けるアリバイ作りに舵を切ったという風に僕には見える。

かたやリスクを押し付けられた総理はというと、「長いトンネルに出口が見え始めている」と彼以外の誰にも見えていない出口を幻視した気持ちにさせるという非常に成功率の低い試みからスピーチを始める。次いで、その出口はワクチンがもたらしたのだと、最も打てていない国の総理であることをものともせず「ワクチン一本足打法」への強固な自信を披露して見せる。今更そんなことはIOCもバッハ氏もどうでもいいのだが、それがどうしたんだという以前に、冒頭の②の英国やイスラエルのデータが明白になった以上、現行のワクチン接種のみでコロナに打ち勝てる可能性は高くないというのが今や世界の科学者の常識なのだ。それの一本足だって?こいつ正気か? それを開会式の3日前に言われて、IOCの人間はみな思ったろう。「ならばもっと早くワクチン打っておけよボケ。無観客はお前のせいだ」と。後手後手、行き当たりばったり、事が起きてから “慎重に” 検討する。そして、その世論からのズレを感知さえしないセンス。おい本当にあいつに騙されたのか?バッハもそこまでアホだったかと思ってるだろうし、バッハ氏もそれを察知して焦ってる。国際社会という場は言論によるガチンコで動く。忖度政治なんてものは田舎の日本でしか通用しないのである。

小山田圭吾の騒動で穴があいてしまった開会式の最初の4分。「もうバッハで行くしかないだろう」(官邸)。大賛成だ。僕のおすすめはこれしかない。

「マタイ受難曲」

受難の官邸はこの曲を誰も知らないだろうけれど、天下の名曲である終曲「われら、涙流して ひざまずき」は速めのテンポなら4分で収まるよ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

昭和的思考をぶっ壊した大谷翔平

2021 JUL 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

大谷翔平が高く高く翔んでいる。メジャーで活躍した日本人選手は何人もいるが大谷は一味違う。体格も見劣りしないし成績も破格だが、そういうフィジカルな事ではない。あそこまでメジャーリーガーにあっけらかんと同化した選手はいなかったという意味で、僕の目にはとても新しく、すがすがしく写るのだ。

英語をペラペラ操るわけでないのに愛され方が半端でない。野茂もイチローも松井も図抜けた野球選手だったが、あっ日本人が混じってやってるな、頑張ってるなという感じがあった。それが大谷にはまるでないのである。アメリカ人になりきっていて、観る方だって日本人として誇らしいという感情を超えている。

彼の性格の良さも大いにあるが、やはり二刀流だろう。渡米の年に「投手はやめた方がいい」と書いたし今でもそう思っているが、懸念は吹っ飛ばした。「エースで4番」は全ての野球少年の夢だ、否定するすべはない。最高峰まで昇りつめてそれが叶ったのは世界にベーブルースと大谷だけ。尊敬されるのは当然だ。

そんなことを考えたのも、アメリカ人のフェアな素晴らしさに何度かジーンときたことがあったせいだ。特に、たかが野球、されど野球だ。あの国で野球をやったことない男子はまずいない。昭和の日本もだったが、到底その比ではない。だから野球をすれば何国人であれ、男にも女にも認めてもらえたと思う。

ニューヨークの企業対抗野球大会。アメリカ人たちとのチームワークは一生忘れない。5番を打った。高校では6番だったから ”エースで4番” 気分を何となく味わえたのはこの時だけだ。大会45チームのMVPに選ばれたから運もあって、子孫に何で記憶して欲しいかというとこの受賞だ。我が人生のぶっちぎりNo1だ。

色々思い出がある。名捕手で名リードしてくれたドン。ただ、カーブのサインでミットを左右にビシッと構えられるのが困った。あの球はタイミングを狂わすドロップで曲がりは計算しない。そこでお願いして全部ド真ん中に構えてもらい、無視してぜんぶ彼の顔をめがけて投げたら面白いほどうまくいった。

練習でチームメートがあの球はなんだ?とカーブの握りをききにくる。5本の指で深めにベタに握って親指と人差し指の間から抜く。抜き具合はアバウト。直球もスピンのかけ具合で伸びが変わる。球種は2つでも多種になる。これで草野球レベルならぜんぜん打たれない。試合でやってみせたらみな激賞してくれた。

ああして野球少年に帰ったら日本人もへったくれもない。僕もタイムリーを打ってくれたアンディやトムをぶっ叩いてやった。こうやって初出場だったチームは準決勝まで勝ち進み、知らぬまに誇り高い日米連合軍となり、comradery(戦友)という言葉を教わった。自衛官になってもやってけたかもなあと思った。

大谷に戻る。オールスターでオリックス・仰木彬監督の「ピッチャー、イチロー」のコールに「打者(松井秀喜)に失礼だ」と代打に投手高津で応酬したノムさん。もしそうなら大谷は投手にも打者にも失礼ということになってしまう。最高峰の選手にそれこそ失礼だ。こういう思考はとっても昭和的で狭隘だと思う。

大谷に「投手はやめた方がいい」と思うのは、自分が高2で肩を壊して投手人生を断たれてしまったからだ。昭和思考ではない。高校野球の投手がプロの打者を打ち取ったら「失礼だ」なんてどう考えてもおかしいし、このエピソードはノムさんほどの知恵者でも昭和思考から抜け出せなかった、根深いぞという教訓だ。

日本の政治はお見事なほどに、セピア色の写真みたいに “昭和” 一色である。そんなことをしているうちに国はどんどん世界に遅れてしまう。敏感でなくてはいけない企業すら、もう遅れ始めている。やがて世論は鎖国に傾くだろう。そこで焦っても遅い。また御一新をめざすことになるが、その先は暗いと思う。

東京五輪。なんともいえない不毛の悲しさが漂う。僕は世間の反対派の一員ではない。でもコロナに勝つ確率ゼロという “科学” は世界の誰にも変えられない。五輪があってもなくてもゼロ。「負けでも万歳突撃だ」と昭和思考むき出しで進む光景は戦争から何も学習していない姿と写る。そう思ってなくてもそう写る。

どこか明治維新の前の「ええじゃないか」騒動に似てきた。あれは民衆だったがいまや政府が追いこまれてやってる。それ見て民衆も「ええじゃないか」と街に踊り出る。まずい。開催中の宣言発出は致命傷だと早々に飲食が犠牲になる。協力金に税金が投入され、みんな五輪のせいだと選手にまで怒りが向いかねない。

もう今回は国民の生活も気持ちも持たないだろう。金メダル幾つ取ったでどうなるものでない不幸なスパイラルが歴史に刻まれる。僕は野球で育ち、野球で子孫に覚えておいて欲しいという人間だ。スポーツが政治や金銭欲のネタになる愚行はこれでもう勘弁していただきたい。政権にもIOCにも等しくそう言いたい。

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大日本帝国「男爵・女帝」紳士録

2021 JUN 30 23:23:11 pm by 東 賢太郎

「ぼったくり男爵」、「はったり男爵」が国際的に著名であるが、本紳士録には収録されていないことをお断りする。その理由は彼らが日本で圧倒的な不人気を誇るためではなく、外国籍であるためだ。

男爵は本来が貴族であり、バロン○○と称する。今の日本にも散見されるが、その者たちの身分は貴族ではなく単なる平民であり、貴族意識は本人の大きな勘違いに起因する思い込みに過ぎない。近年においては「セレブ」「上級国民」と呼びならわされ、国民から時に怨嗟の目を向けられる。

なお、女性の場合は姫が尊称となることもあるが(例・ナッツ姫、ミルク姫)、女帝の場合もあることにご留意されたい。

(1)ホラふき男爵

信念を権力で押し通してみせることが信念である男爵。敵を殲滅し驀進するため強い信念でホラを吹く。信念が正義であるか科学的であるかは委細構わず、元々がどうどうめぐりなので同じ言葉のくりかえしがやたらと多いのが特徴である。

(2)やり逃げ男爵

やり放題の末にツケを国民に回して逃げるぼったくり男爵の親類。領収書や公文書が眼前で消失する大技のマジックを得意として大向こうを唸らせたが、次々とタネが明かされ飽きられつつある。

(3)裁判長でした男爵

自分が被告人なのに、いつの間にか裁判長席に座っている仰天の変身術を十八番とする男爵。「再調査の必要はないと判断した」「あなたは調査される側でしょ」という形で変身が発覚し、見事に騙されていた国民はハッとする。

(4)丸投げ男爵

上意下達の「下達」の部分が「丸投げ」に置き換わっている男爵。投げられた現場は玉砕覚悟で働くものだと信じており、本当に玉砕してしまうと「指示は的確に行ったと認識している」「再発防止につとめたい」と逃げる。

(5)中ぬき男爵

お役所仕事の玉砕を恐れる「丸投げ男爵」が固定客である。「丸投げは安全安心💛」が売り。役所のかわりに人を低賃金で集め、役所に超高額請求してぼったくる「中ぬき」が本業だが、「男爵保険」を売っている保険屋でもある。

(6)尻なめ男爵

上司の尻なめを特技とする男爵や姫。大臣と呼ぶこともある。上司が有事と見れば出動し、一丸となって巨大なホラ貝を取り出して吹く。公文書すら改竄するのだからどうせあれもホラだろうと国民に見抜かれている。

(7)ステークホルダー姫

別な地平から国民を騙そうと「ステークホルダー」の横文字でホラを吹き、「国民よりスポンサーが命」と言ってるのに横文字なので気がついていない。一時的を一次的と改竄するなど恥の上塗りである。

(8)しょうがないかな男爵

自作自演を自ら最高評価し「いよっ、男爵!」と掛け声が飛ぶほど男爵らしい男爵。「開催することになったんだから、しょうがないかなという人が増えた。日本のプライドを世界に発信したい」。発信されたのはご懸念だった。

(9)シェーシェー男爵

お前の島は俺のものと無礼を言われてもシェーシェーしてしまう男爵。五輪のおもてなし精神に沿ってIOC男爵の傍若無人にもシェーシェーでお応えする。官房機密費を駆使した「まんじゅう作戦」が展開できずバイデンに来日を断られた。

(10)大本営男爵

憲法とは大日本帝国憲法のことであり、大本営が常に正しくて民主主義は形だけと確信する男爵。数学の答えや科学の真理は1つでなく「大本営発表」と「自主研究」の2つあるとまじめに信じている。

(11)大たぬき女帝

キャスター出身。時流を巧みに読み、カメラの微妙な角度に合わせて七変化して時にドロンと消える。節操はないが意味不明の信念の人より人気あり。達人級の爺殺し術を英語で米中露にかませるタマなら女帝に化けるかもしれない。

 

(追記)

安全安心として正しいのはどれか?

① 科学 ➡ 安全 ➡ 安心

② 非科学 ➡ 安全 ➡ 安心

③ 非科学 ➡ 大本営 ➡ 安全 ➡ 安心

答え

①:正しい

②:ウソ

③:大ウソ

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五輪の意義は勝つことでなく開催することにある

2021 JUN 22 12:12:45 pm by 東 賢太郎

のっけから開催ありき。すべてはそこからの逆算。政界にニュースソースは持っていないが、種々の報道の断片を組み立てるとこのあたりが真相に近いのではないかと思う。そうであるなら菅さんお見事、恐るべしだ。

開催すれば大会期間中は検察が動けず、最大の疑獄事件になり得る1億5千万円の広島の件、および明日に分岐点を迎えるモリカケの深層の着火をとりあえずは封印できる。首相は安倍氏を守るバーターでAAAから総裁選の支持を取り付け最大派閥と幹事長をバックに続投できる。つまり延命のために死守すべきは五輪開催に尽きる。打った手は以下である。

①開催か中止かの二択議論になると負ける。そこで、メディアを使って「開催なら有観客か無観客か」の問いを加えた三択議論にすり替える。票は自然に分散する。その数字を「中止派は減った」と報道させ、開催ありきが前提になったかのような世論に誘導した。

②外圧の利用である。開催したいのはIOCだという世論を作り、批判の矛先をすり替えた。G7で開催支持と言われたかのように報道させ(メディアは放送枠のため忖度)、医学界を黙らせるためWHOにもお墨付きをもらうようIOCと手を回している。ワクチン接種の数字作りはIOC、G7、WHO向けである。

③国民にはワクチンの効能をアピールし副作用は細かく伝えない。大会の安心安全は化けの皮が剥がれてきたので国民の安心安全にすり替え、「緊急事態宣言なら無観客も十分あり得る」と発言した。譲歩に見えるがそうではない。「中止はないよ」のダメ押しであり、緊急事態宣言はマンボウで済ますので実は出ない。

④観客数は国内スポンサー問題。NBCの放映料だけが目当てのIOCには「おもてなし」程度の話だが、政府は外圧に使いたいので「期待している」と言ってもらっている。大風呂敷を広げて開催ゲットしたのでIOCには安心安全は当然と太鼓判を押している。それなのに人数問題は「5者協議」(橋本、丸川、小池、バッハ、パーソンズ)に振るのは変だなとIOCも気づいている。

⑤「5者協議」はコロナ感染爆発の最悪シナリオでのヘッジで、バッハ、パーソンズは責任取るはずがなく、橋本、丸川は大臣解任で終わり。全責任は主催者である小池に負わせる。小池は都議選の都民ファ見殺しで立場が悪くこれは効く。党首会談での「私は主催者ではない」発言はその布石。「感染爆発と五輪開催は因果関係が確認されない」と厚労省に発表させて逃げ、自身・AAAの政敵・小池を完全に潰せる。感染のシナリオが是でも非でも負けない絶妙なポジションをとっている。

五輪を舞台とした権力闘争競技はどの種目より楽しみだ。ブックメーカーでオッズが出るかもしれない。

菅総理の堅牢な要塞の盲点は「丸投げ」だ。五輪の意義は「オリンピック休戦」と橋本大臣はいうが、世界は休戦して開催国だけ “戦時” というジョーク状態。これほど国民が祝福しない大会では現場のモチベーションも上がらない。マニュアルにない難事を丸投げされそこかしこで責任逃れの「5者協議」状態になり「ポテンヒット → ランニングホームラン」が多発する(ウガンダ選手団の濃厚接触者判定すりぬけ事件がそれ)。丸投げの監視体制はザルでバブルは内部で崩壊、選手が罹患、競技停止、バブル外で監視なしの五輪貴族、報道官関係者が週刊誌の餌食になる。こうなってしまうとその先は闇となろう。

僕はスポーツ愛好家だ。選手に迷惑をかけたくはない。しかし、日本国が法治国家であり、罪刑法定主義が遵守、貫徹される重大さに勝るものはない。

(おまけ)

2018年3月の拙稿を再録しておく。

森友決裁文書改ざん問題の真相

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若者のための政治講座(小学生向け)

2021 JUN 18 1:01:49 am by 東 賢太郎

設問1

「安全安心」の説明として正しいものを選びなさい。

① 危険がなく、心が落ち着き安んじること

② 工場や工事現場で注意をうながす標語

③ 自分の地位の安泰だけを願う念仏

 

設問2

オリンピックのオペレーターはIOCだが、ではホストはどこか。

① 東京都

② 歌舞伎町

③ 永田町

 

設問3

「男爵」の説明として正しいものを選びなさい。

① 貴族の一種

② ジャガイモの一種

③ 貴族だと勘違いしている俗物の一種

 

設問4

「人流」の説明として正しいものを選びなさい。

① ある特定の場所、時間での人の多さをあらわす数字

② 国民にリモートを、飲食に休業を強いるための数字

③ 五輪がショボいとヤバいのでそ~っと無視する数字

 

設問5

「分科会」の説明として正しいものを選びなさい。

① 科学の専門家により組織される政府諮問機関

② 忖度の専門家により組織される政府諮問機関

③ 自主的な研究の成果を発表する機関

 

設問6

「ワクチン戦略」の説明として正しいものを選びなさい。

① 感染を徹底して抑え、国民の命を守るための戦略

② 集団免疫をつくり、早期の経済回復を目指す戦略

③ 五輪向けにリスク無視で打ちまくる「安心安全ショー」

 

設問7

「まん延防止等重点措置」の説明として正しいものを選びなさい。

① 「緊急事態宣言」に準じるが私権制限と罰則を可能にする措置

②  マンボウの一種。あげマンボウとさげマンボウの二種類いる

③ 「五輪中」×「観客1万」×「緊急事態マズイ」= マンボウが出る

 

設問8

「お・も・て・な・し」の説明として正しいものを選びなさい。

① 大事なお客様に対して心をこめて歓待や接待やサービスをすること

② 女性アンバサダーが男爵を色目で誘惑するサービスの総称

③ 「国民が何人死んでも成功させます」を意味する秘密の合言葉

 

設問9

「オリンピックは勝つことでなく、〇〇することに意義がある」

は五輪の意義を述べた言葉である。〇〇にあてはまる正しいものを選びなさい。

① 参加

② 敗退

③ 開催

 

小学生の皆さんへ

皆さん、毎日勉強ごくろうさま。僕もやりましたよ食塩水の問題とか鶴亀算とかね、苦労しました。これから受験も大変ですよね。でも、日本の国会中継をごらんなさい、安心しますよ、そんなものできなくっても全然オッケーって、むしろできない方がよかったりなんてことがよくわかりますからね。

今日の設問1~9の正解はぜんぶ③です。何問できたかな?

ちなみに、全部①と答えた人。勉強家ですね、20世紀なら満点です。でも正解は時代と共に、いや、総理大臣と共に変わるんです日本では。科学だって変えられるんですよ、すごいでしょ、理科なんてもう勉強しなくてもいいんです。総理の数だけ正解があるってことなんで、そういう国は法律も都合よく解釈するんです。つまり非法治国家といいますか、ちょっとぎこちないかな、そうそう、「専制国家」がスマートな言葉ですね。

でも変なんです。専制するのは君主なんです、歴史的に。だから君主が横暴にならないように憲法って法律ができましてね、それで縛っておけば暴れないだろうからまあ地位を認めておいてやろうっていう立憲君主制になるんです。明治政府もそうでしたね。でも今の日本国に君主はいないのです。天皇は憲法に象徴って書いてますからね。なのに政府が「おかみ」って呼ばれてやりたい放題のナンチャッテ君主になってる。

皆さん、受験勉強なんかするより口八丁手八丁のほら吹き術と派閥・利権作りや威嚇、隠蔽、改竄、権謀術数の裏技を磨いてナンチャッテ君主をめざした方が得ってことです。昔は聡明な子供を見ると「末は博士か大臣か」と目を細めたもんですが、もう博士はだめです。自主的な研究なんていわれて無視されちゃいますんでね、大臣に限りますよ、懲役3年食らう卑劣な輩でも法務大臣になれたりしますからね。そして勉強できる奴は人事で脅して家来にすればいいんです、ソンタクして命がけで尽くしてくれますよ。これからの日本はそれが王道です。

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ワクチン予約はキャンセルする(再改定、6月22日)

2021 JUN 12 12:12:08 pm by 東 賢太郎

以下、僕のコロナ・ワクチン接種に対する考えを述べる。お断りするが、以下は自分のポリシーであってお薦めするものではない。

まず、現状における事実を確認する。

科学的対策  

コロナの治験データ集積は1年分ほどで、未来を有意に予見できる人間はいない。よって人類はリスクのない科学的対策を現時点では有していない。

社会的対策

地球上の全罹患者(無症状含む)を識別し、制限時間を設けずに隔離すれば社会からコロナは消える。それは様々な理由により不可能である。

結論  

よって、できることは「リスク管理」のみである。

 

以上は世界の誰からも反論はないと思料する。では我々はリスク管理として何ができるかを述べる。「我々」が国家でも個人でも結論は同じである。

 

リスク管理

 

①「三密」回避。ステイホーム。外で人、物に触れない。うがい、手洗い。

②ワクチン接種

個人的には、これまでの1年3か月は①だけで罹患しなかった。そこで、加えて②を行うかどうか、是非を検討してみることにする。

 

ワクチン接種のリスク・リターン分析

(A)リターン(長所)

発症予防効果でアストラゼネカはファイザー、モデルナより劣る。ファイザーの95%の効果は客観的に高いと評価するが、その持続は半年程度とされ、下に記述があるように南アフリカ変異株への効果はやや低下することから、今後確実に出現する多種多様な変異株への効果は、その都度まったく不明と思われる。

 

(B)リスク(短所)

接種後に30分待機して現れるのが副反応のすべてではない。ファイザー、モデルナは「m-RNAワクチン」であり、このタイプは今回が人類への初投与になる。通常5年かかる治験が行われておらず、従って「人体内で何がおきるか」は5年たたないと誰もわからない(現在打っているのが治験=人体実験である)。しかも一度打ってしまうと死ぬまで体内に影響が残る可能性がある。動物の死亡例から危険と判断した米国は2012年以降はm-RNAワクチンを認可していなかったが、今回のコロナの死者数の多さから短時間で認可した。

 

国家の判断は(A)>(B)

「パンデミックによる死者数 > 治験不足による死者数」”だろう” ということである。どっちも死者が出る前提であることに変わりはなく、国民の命の犠牲を払って集団免疫を作る策である。

僕個人の判断は(A)<(B)

リスクの中身がまったく不明であり、しかも、効果は半年、変異株への効果は不明ということでは、打つリスクの方が今後の人生においてずっと大きい。「m-RNAワクチン」独特の過免疫反応は米SNS・メディアでは規制され、複数の専門家がフェークニュース扱いで処分され、ファイザーの副社長もその理由で解任された可能性があると苫米地博士のビデオ(添付)が言及している。何かが隠蔽されている “かもしれない” リスクは絶対に取らないのは僕の世界では常識だ。

 

僕の結論

日本はワクチンなしの1年でも死者数は多くなく、焦って打つ必要はない。逆に、接種開始が大幅に遅れておきながら唐突に1日100万人接種大作戦が発出されるのが実に不可思議であり、国民の知らない「何らかの事情」が官邸に発生しているとしか理解できない。

副反応による未知のリスクがあるワクチン接種より、死亡者を増やす五輪を中止するのが国民の命を守るために合理性ある選択であるが、その合理性をかなぐり捨ててまでワクチン・キャンペーンを全力で推進するのは、「何らかの事情」=「五輪開催を必要とする自民党内の政局事情」である可能性が高い。そんなものは国民には100%どうでもいい。したがって、キャンペーンにほいほい乗せられて命のリスクを冒す必要など1000%ない。

治療薬ができればコロナはインフルエンザと同程度の死亡リスクの病気になるだろう。世界中の製薬会社が治療薬開発を急ピッチで進めており、人類初投与の未知のワクチンを体内に注入するよりそれを待つほうがずっと “安心安全” である。よって僕はワクチンは打たず、打ちたい人に回せるので世田谷区にキャンセルを申し込む。父親の予約もキャンセルをお願いした。

 

(追記)

ファイザー社は自社のワクチンを「安心安全」とは言ってない(添付のyoutubeにあるようにリスクを明言)。60万人死者が出た米国はそのリスクを取った。そのペースで死者が出続けるより副反応の死者の方が少ないだろうという判断だ。では死者1万5千人と40分の1である日本はどうすべきなのだろう?

菅総理は「安心安全かどうか不明のワクチンを打てば安心安全だ」と言っている。言ってるそばから壮絶な論理矛盾なのを気づいているんだろうか?この判断に科学者が責任を持ったとは思えない。副反応のデータ集積がないのにリスクを取るアホな学者はいない。ワクチン接種の選択肢はあっても結構だが、ファイザー自身による副反応リスクの翻訳も公表すべきだ。それを政府も医療機関もマスコミも行わず、河野大臣が「腫れ、痛み、頭痛、発熱、アナフィラキシーはあるが重いものは極めてまれだ」ですましている。

問題はその「重いもの」の方であり、まれかどうかは数年の臨床試験をしないと作ったファイザーすらわからない。これが事実である。それを科学者でもない大臣が無視して丸めて「安全だ」と国民に発表することはまともな政府のすることなのだろうか?

したがって、打つ人は「リスク」を正確に知っておくためにファイザーの英文レポートを読むべきだ。仮にワクチンを打って数年後に何人死んでも、薬害エイズやヒ素ミルクのような裁判や対処は行われない。保険すら出ない可能性のある巧妙なヘッジが政府、地公体、保険会社によって周到に打ってあるとは驚くべきで、請求(=死亡)を前提としているわけである。

きのう本稿に添付した「自然療法士 ルイ」の「臨床試験情報第2弾」はファイザー社による副反応リスク情報の主に妊娠、妊娠に対する部分を翻訳したものだったが、一晩たったら消されていた。「ワクチン接種した人の体内で作られる人工的なウイルスが呼気、体液を通じて新たな感染現になるかもしれない」との指摘があったと記憶しており、それはファイザーの見解ではなかったとも考えられるが理由は不明、不気味なことだ。

一方で苫米地博士は上掲ビデオで「ワクチン接種は発症は防ぐが感染そのものを抑えるわけではなく、接種者が自覚なしに他者に感染させるリスクがあるため、集団免疫上は逆効果になる可能性がある」と指摘している。もしそうであるならその逆効果によって第5波は増幅されるが、政府は感染爆発しても「五輪開催との因果関係は確認されていない」(もし五輪を中止していてもこうなった)と主張するだろう。「GoToで感染が増加したエビデンスはない」と同じ手だ。「私は責任者ではない」という人が「玉砕してくれ」と言っている狂気の沙汰だ。結果は東京裁判にかけ、ケツまくりは絶対に許してはいけない。

 

(追記、6月22日)

「自然療法士 ルイ」の「臨床試験情報第2弾」はやはり何者かによって消されていた。

 

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五輪中止でも危ない日本(IOCは潰せ)

2021 MAY 28 1:01:38 am by 東 賢太郎

(序章)コント

天の声

「私たちの力を結集すれば、必ずウイルスに勝つことができます」(令和3年5月28日、菅内閣総理大臣記者会見)

民の声

「ねえねえ、私たちって誰のこと?」「うん、内閣支持率からするとね、まあ国民の3割ぐらいという意味だね」「でも、10割で戦っても勝てない怖いウィルスなんでしょ、たった3割で勝てるの?」「坊や、ええ質問するなあ。末は博士か大臣や。そやな、コスパ良すぎやな、あんさん、それって総理はどないな魔法使いまんねん?」「だよね、あたしも知りたいよ魔法、教えて教えて!」「えっ、知らないの?そりゃ魔法ったらアレしかないでしょ?」「アレ?」「亀甲占いさ、亀の甲羅を焼いてやる奈良時代の」「なるほど、気がつかなかったわ~」「確かに。でもあれは皇室でやってる権威ある占いだから効果ありそうだな」「そやそや、やり方よう知らんけど」「ワシ知っとるで、甲羅のヒビが右やったら開催、左やったら中止や」「そうなんだ、で、どっちだったの?」「右や」「なるほど、それで何が何でも五輪開催なんですね、おかげで合点がいきました」「えっ、ちがう?そうじゃないんですか?」「はっ?カメじゃなくてゴマ?護摩行ですか?」「ゴマギョウ?知らないわ、何かしらそれ?」「きみたち困るね。燃え上がる炎の前で全身全霊願いを込めて煩悩を焼き尽くすおまじないだよ」「なるほど、総理のスピーチで『力を結集すれば』って部分はそれのことだったんですね」「うーん、いつもながら総理の言葉は深いね」「ですね」「しかもこっちは平安時代だ。新式ということになるぞ」「心強いぞ、ありがたや」「それってたしかインドから来たご祈祷でしたね」「イエスサー」「ということはインド変異株にも効くんだ!!」「そうか、それでミッシングリンクがつながったぞ。だからオリンピックは大事なんですね?それで総理は開催にこだわっておられるんですね?」「そう。君はなかなか学があるね。コロナ対策なんだよ、実は。オリンピックは聖火台ってのがあるだろ、最終走者が点火するとパーって燃え上がってね、照明が消えて真っ暗になって、それが護摩業の炎って見立てになるんだ。世界はビックリさ。そこで会場の床下からドドッと修験僧が300人出てきてね、ホラ貝吹きながらね、世界に誇るドラえもんの『俺はジャイアン』をバックに東京五輪大会公認の呪文である「アンシンアンゼン、アンシンアンゼン・・・」を100回となえるんだ。最後の10回は「会場の皆さんご起立で」と手拍子とって唱和させる。そして「ウィルスに勝ったぞー、おー」ってハリウッド流の『山伏ダンス』を踊って盛り上げるわけよ。どう?豪快でしょ、世界へ元気の発信だ、開会式の目玉だよ、楽しみにしてくれたまえ」「すごぉぉぉ~い、スペクタクルですね~♡♡」「火渡りショーもやるよ。プロデュースは護摩行のプロ、元広島カープの新井貴浩さんだ」「感激ですぅ😿」「そうか、そのためなんだ、悲しいほどショボい聖火リレーやってたのは!」「そうだったのね、ワタシ馬鹿にしててごめんなさい(涙涙)」「ははー、俺も畏れ多いです、頭が下がりますぅ」「そう。オリンピックで国中が盛り上がればウィルスは恐れをなして自分から退散してくれるってわけです。科学など不要なのです」「万能の総理ばんざい!」「ばんざ~い!」

 

(第1章)100人が73万人に

こういう騒動の裏側で、サラリーマン時代に使っていた銀座、赤坂、西麻布のレストランや料亭15件が心配になって調べた。9件がひっそりと廃業していた。些かのショックであり、懇意だったお店に同情もある。どうしてあの名店がというものばかりだからだ。この1年、会社はテレワークを励行したし、個人的にも政府、東京都の指示にそって従順に行動したつもりだ。どうしても必要な会食だけは店を厳重に選んで対応したが、わかったことは、安全かどうかはすべからく店次第ということだ。しかし、そうであるのに、感染対策の自助努力がぜんぜん評価、反映されない。それならお店の恭順姿勢も限界で、もはやこれまでだろう。お客のほうはとっくに限界を超えている。ということは、ここで発出された緊急事態の延長はマンネリと反抗で「平常事態宣言」になってしまい、感染の火の手が上がる危険性がある。そこに油を注ぐように、首相は「オリンピックやります。安心安全です」と矛盾することを同時に言ってるのである

もう兆候は出ている。TVを見ていたら東京都の担当者が「ここ1,2週間で繁華街の人流が2割増えており感染者数はリバウンドしかねない」と発表していた。また感染者は1%以下だったインド変異株が6.7%に増えたという。その感染力は英国株の1.5倍、従来株の2倍というデータが出た。従来株はアジア人に広まらなかったが、インド株は抗体をすり抜ける変異を遂げその限りでないという。ダイヤモンド・プリンセス号で騒いでいたころ市中感染者は100人もいなかったのが1年で73万人になった。インド株感染者は現在189人見つかっている。感染力2倍だからこれが年末に73万人になっておかしくない計算だ。感染者が73万人出ると12,819人が死亡している(5月29日時点、厚生労働省HP)。ということは、年末までにさらにそれだけ死者が出る可能性がある。仮説とはいえ、これを知ってぞっとしない方は相当に平和ボケしている可能性がある。

 

(第2章)ほんとに打てるの?

ワクチンがあるから大丈夫だ、首相はこれぞ切り札だという。そうかもしれないが、国民全員に打ち終わるのはどう考えても来年だろう。「6月末までに1億回分が供給され、9月までには更に1億回を上回るワクチンが確保できる」というが、それが解決ではない。何百億回分のワクチンを輸入できようと、問題は単に「打てるかどうか」だけなのである。60万人も亡くなった米国では国民に切迫感があり迅速に2億人に打つことができたが、それでもオハイオ州は1億円の宝くじを付けて接種を促す必要があった。はっぱをかけても打ちたくない人がいるからだ。大手町会場を整備してどうぞとなっても進まない。でも強制はできない。死者1万2千人の日本に米国の切迫感はなく、これがあだとなって日本には打ちたくない人が多いと予測する。ちなみに東京都の高齢者である僕はそのひとりである。臨床試験もしてないものを打ちたくない。政府の都合で急ぐ気もない。ところが家族が僕の意向を無視して早々に世田谷区に申し込んでしまい、接種終了は8月半ばになったそうである。このとおり、高齢者の接種完了「7月末」は嘘っぱちである。これがコロナ対策の現実だ。インド株の「2倍の増殖速度」が少なくとも半年は野放しになること確定だろう。つまり、オリンピックをやろうがやるまいが、日本はすでに、非常に危ないのである。

 

(第3章)科学無視の高いツケ

どう危ないのか?日々の新規感染者数など一喜一憂しても意味がない。誰がどう考えたって、最も心配すべき数字は死者数に決まっているだろう。そのデータがある。人口100万人当たりの死者数だ。なぜか(ひょっとして国民に知らしめたくないのか)、日本は国際比較グラフのようなものを公表していないが個人の方が作られたこのサイトで確認できる。ぜひご覧いただきたい。

http://人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【世界・

アジア主要国と比較したものがこちらだ。

ご覧のとおり、日本は死者が少ないから安全だなどというのは嘘っぱちである。日本の人口当たり死亡率はインド、フィリピンに次いでアジア第3位であり、しかも、昨年11月から今年4月にかけて約20名が70名に急増している。この増加は「第3波」にシンクロしている。死者が増えたということは大阪のように医療キャパが飽和した(崩壊に近づいた)という証左であり、救えないコロナ患者が増えたばかりでない、その他の病気の緊急の患者さんにも病床不足のしわ寄せがあったということで分科会、医師会の鳴らす警鐘が正しいことを裏付けるデータである。最悪の場合、高齢者はコロナに限らず別の病気でも病床が与えられずトリアージ(命の選択)の憂き目にあうかもしれない。東京都民がオリンピックなど勘弁してくれと訴えるのは充分な「科学的根拠」があるという意味であり、だから菅内閣の支持率が16.1%という金メダル級の低さであるのはまったくもって当然のこととしか言いようもない(東京新聞・東京MXテレビ・JX通信社が、5月22、23日に合同で行った「都民意識調査」による)。GoToは「トラブル」になると昨年にブログにしたが、この1年、日本国政府のコロナ対策における科学的知見は江戸時代並みであり、ツケは非常に高かった。

しかし忘れてはいけない。大事なことは、まだインド株は189人しかいないそれでいてこれなのである。そして、いま危機的であることとオリンピックは何の関係もない。決行しようが中止しようが、すでに十分危ないのである。

 

(第4章)IOCは疑似ロイヤル・サロン

個人的にはオリンピックは当初はとても期待していた。人生2度見られるのは幸運だと。しかしバッハ会長殿が突然のごり押しで小池都知事の訴えを退けてマラソン会場を札幌にした時点で、あっけないほど気持ちが冷めてしまった。あれは我ながら不思議なことだった。大会をつかさどるIOCが選手の健康を心配するのは当然だ。しかし東京の夏が2020年だけ暑いわけではない、それならなぜ東京を選んだのかと思うのも当然である。変更の理由はいまだにわからないが、何か背後に蠢く嫌なものを僕のセンサーは感知してしまった。なにやらとんでもない力が働いている、カネか政治か権力闘争か示威か、そのどれであれ、ともかく国民にとっては薄汚い、うざったいものだ。周囲にも同じ意見の人がたくさんいた。テレビで見るんなら東京五輪でなくていいよと。しかしそのテレビも新聞も都合悪いことは申し合わせたように報道しないのだ。IOCについてがそうだ。当然だろう、メディアとして中立であるべき新聞社はみな五輪のスポンサーだというコントにもならないカネの事情が裏にあるのである。

そのIOCという組織は、消滅の危機に瀕していた五輪を1984年のロス大会で救ったファン・アントニオ・サマランチが巧妙に事業化し、さらには政治の道具に仕立てた『疑似ロイヤル・サロン』に他ならない。「私はオーケストラの指揮者だ」と語った彼が有能なビジネスマンだったことは否定しない。しかし、そういう人間にとってアスリートは一介の楽団員にすぎず、聴衆を呼び込んでくるマスコミはチケットの販売員である。「金儲けには販売員がいちばん大事」は特権階級サロンが甘い蜜を吸うための必然の経営ポリシーである。大物創業者サマランチは老獪に本音を隠して世界を煙に巻いたが、超小物の俗物バッハは馬脚を露呈しまくり、貴族気取りの勘違い放言をたれ流し、サーカスの座長のほうがよほど比喩にふさわしい。つまり五輪は「移動サーカス」だったのである。アスリート・ファーストと口では綺麗ごとを並べるが、実態はこれほどアスリートを見世物か競走馬の如く無料で走らせてうわまえをはねるシステムもない。

その証拠に、『東京でコロナにかかって死んでもIOCは責任を取りません』という「参加同意書」に署名しろと選手に強制している。「安心安全は嘘っぱちのセールストークです。したがって、我々は安心も安全も保証いたしません。だからコロナになっても我々を訴訟しないと署名しなさい。参加したければ自己責任でどうぞ」という意味である。これが「安心安全」の正体だ。そして開催中止の損害についても賠償責任は開催国にあると恫喝する。サーカスのオーナーは何のリスクも取らず、高邁な五輪の理念とアスリートの競争心に巣食って永遠に開催国から「ぼったくる」構造なのである。こんな組織は世界の有識者が存在の定義矛盾を突いて解散に追い込むべき時期に来ていると考える。アスリート・ファーストを堅守すべきであるが、その点はクーベルタン男爵の精神がご立派なようだから、この東京大会の大反対を契機にそれに回帰して永遠に祖地ギリシャでやることを提案したい。

 

(第5章)日本国を侮辱したIOC

今や東京都民にとってサーカスはぜんぶが「テレビで見るもの」になった。ただの場所貸し屋である。それならば賃料を取るべきだが、お前たちには断る権利はないと恫喝されて税金を差し出すのである。マフィアの興行師でも、もう少しは紳士的だろう。しかもである。緊急事態のさなかに200もの国から外国人が7万人も入国して20日も滞在する。世界の感染症学者にとっては垂涎の生体実験場だろうが、カネを払って検体になりたい都民は一人もいない。政府はやめると経済損失が出ると言ってるがこれも嘘っぱちだ。野村総研の試算によると、中止すると1兆8千億円損するが、やっちまった尻ぬぐいで緊急事態宣言を1度出すだけで6兆円も損するのである。したがって、オリンピック用に感染者数の見栄えを良くしようと緊急事態宣言を延長するなど国益を損なうばかりか、飲食業に意味もなく損害と心労を与える天下の愚策というしかない。そもそも「菅総理が中止と言ってもやるのだ」とほざいたあのIOCのわけのわからんおっさんには二の句が継げぬ。国家が無視すれば民間団体のIOCごときとの契約も違約金もへったくれもない。こいつらに主権無視の横暴を許し、名指しされた総理は反論もしない。なんだこのザマは?お・も・て・な・しとはこういう連中にへこへこ頭を下げて媚びへつらい、虎の威を借りて国内で自分たちの「ロイヤル・サロン」を形成し盤石にする作戦なのだ。こういう卑屈な人間はそもそも国際社会で完璧に馬鹿にされる。国であっても同じだ。いつから日本はそんなみっともない国になり下がったのか怒りしかない。

 

(第6章)日本の『疑似ロイヤル・サロン

第3波は無理すじのGoToが感染の山を高くしたことはすでに定説だ。そこで死亡率が増えたことは回帰分析をすれば高い関連性が証明されるだろう。そして、次は五輪がそれになる可能性が非常に高い。なぜならGoToは所詮は国内イベントだ。五輪は違う。元からザルの実績がある空港検疫を多種多様な外国人が通過してウィルスが一個も持ちこまれないと信じるのは、選手村に16万個も用意されたUTAMARO(歌麿)デザイン付きもあるコンドームが1個も使用されないで大会が終わると信じる人を探しだすより難しいだろう。選手はワクチンを接種するとIOCは言っているが、重ね重ね誠に疑わしい。百分の一秒という紙一重を競う競技者たちだ、大谷選手のような肉体への未知の影響を考えて拒否する人もいるだろう。エリアから外に出ないバブル方式だから安心安全というが、外国人にそんな人権無視を強制できる勇気がある管理者など日本の役所にはいない。そもそも我々にとって危ないのは選手だけではない。ワクチン接種義務もなく、都心のホテルに好きなだけ滞在し、自由に都内を歩き回れてまったく監視もされないマスコミだ。そして、何の用事があるのか全く不可解な、それも3000人も来るという意味不明のIOC関係者である。

しかしである、五輪問題のリスク中のリスクはそんな所にはない。そうではないのだ。総理、五輪担当大臣、JOC幹部がどんな大号令を気合もろとも発出しようが、所詮、彼らは自分ではなんにもやらない。なぜか?『日本国疑似ロイヤル・サロンのメンバーだからである。ロイヤルは手を汚さない。下々(しもじも)にやらせ、忖度させるのである。国民は言うまでもなく下々であり、世界の民主国家で日本は唯一いまだに国を「おかみ」と呼ぶ国だ。この騒動は、おかみにとって大誤算だった。こんなはずではなかった、コロナさえなければ・・・。しかし、コロナに限らず有事はいつでもあり得るのであって、それ一発でこんな世論形成になってしまうのはロイヤル・サロンのほうがもはや存立しにくい世の中になりつつある証左なのである。それを誘発したのはネットだ。ロイヤル社会はそれに疎すぎる。ネットがなくても革命は起きたが、いまや、サロンで何が画策されようとSNS匿名投稿であっさりバレてしまう。革命は内部からも起きるのだ。

五輪のリスクの本質は、右往左往のロイヤル族をまのあたりにしてモチベーションが低下した五輪下々部隊に大会執行実務のすべてが「丸投げ」されることである。その結果がどうなるかは想像に難くない。皆さんご記憶だろう。アベノマスクだ。国会議員すら誰も付けてないマスクだ。国民の大批判のなか現場はモチベーションを喪失し、配布に半年もかかり、しかもなぜか在庫が余りまくり、最後は困って施設に寄付したらいりませんと断られたあの顛末を。五輪においてそれが起きるとすれば危機的だ。IOCはマスク製造業者に過ぎない。日本国から発注がありました、だから作りましたでおしまい。最後は日本国がかぶり、ロイヤル族はケツをまくって逃げ、大放蕩の請求書は下々の国民に年貢として回ってくるのである。細かいことは役所と現場に丸投げで競技の設営事務は何の熱量もなく道路工事のように淡々と進み、大本営の同調圧力がふくれあがる。

しかし五輪下々部隊にとってコロナ対策は専門外のエキストラ・ワークである。何かチョンボあっても俺達はしらない、だって仕方がないよね専門家じゃないし、専門家だってワクチンの冷やし忘れや打ち間違えも起きてるぐらいだし、女子選手は気の毒だからパンツ買いに行かせてあげようって市長も出てるし、バブルに封じ込めなんかどう考えても無理だよね、でも封じ込めたらかえってバブルの中の方が危ないよ、だって退屈でしょ、そうでなくても『選手村はナンパ天国「75%が性行為」』(米タイム誌)っていうし、へたこくとウィルスの交換会になって新種が出てきて選手が持ち帰って、世界中から損害賠償請求の嵐になるね。でも、何がおきても最後は上が首かけて責任取るんでしょとなる。こういう瑕疵は後々に内部告発が週刊誌に出るだろうし、出なくてもネットがばらまく。

何の熱量もなく。ボランティアが減ると負荷が増えてますます危険になる。そしてたくさん失敗する。ロイヤル族は「指示は適切に出したと聞いている」「下々の責任だが任命責任は私にある」と “責任取らない呪文” を吐いて逃げる。マスコミも忖度して報じず、「何か」はうやむやにされ闇に葬られるというのが従来のパターンだが、今回は初めてそれを打ち破る歴史的ケーススタディになるかもしれない。

 

(第7章)突撃一番!

東京大学大学院経済学研究科の仲田泰祐准教授と藤井大輔特任講師のグループが今月16日までのデータをもとに行ったシミュレーションをNHKが報道した。入国者よりも「人出の抑制がカギ」という。結論から言うと僕はそう思わない。それが本稿の論旨だ。当面の「人出の抑制」でなんとかなるのは10月ごろまでの話であり、この調査はそれを見せることを目的としていると思料する。

これは興味深い。まずこういう仮定を置いている。

①緊急事態宣言が6月中旬まで延長され、国内のワクチンの接種は1日に60万本のペースで進む

②大会期間中、海外から選手や関係者など10万5000人が入国し、このうち半数がワクチンの接種を終えている

①②は妥当な所と認めよう。では五輪に突撃する政府にとって、このシミュレーションはプラスだろうか?

答えはイエスだ。つまり、総選挙も総裁選も9月にけりがついている。まだ金メダルの余韻も残っているから勢いに乗じて乗り切れる。10月からどれだけ感染者が増えようと人が死のうと五輪の「宴の後」だ。責任追及はのらりくらりと逃げ切ればいい。だから五輪は「やり得」なのだ。

目論見はおそらくそんなところ、その程度の頭しかないだろう

危険な賭けだ。勝てば政府の丸もうけ。負けたら国民の命で払います。人流6%シナリオのグラフを見ると、9月の選挙の頃に東京の新規感染者数は約1500人になっている。人流が10%以上増えたら、2000人を超えていたら?選挙には影響が出るだろう。

NHKの発表には気になる補足がある。

(東大は)当初、NHKの取材に対し、人流が10%増えた場合のシミュレーション結果を示していましたが、その後の検討でより妥当なシミュレーション結果として6%増えた場合に修正しました。

というのだ。シミュレーションというものは仮定(入力条件)が妥当かどうかをその後に検討するならそもそもやる意味がない。仮定はアバウトでいいのにどこから6%なんて意味もなく半端な数字が出てきたんだ?東大の学者が識者に変だと見抜かれないと思ったはずはなく、むしろ「みっともない」と思ったはずであり、この補足はNHKが東大の名誉を担保したものだと思われる。10%でも控えめだろうと出した所が圧力がかかり忖度したのではないか。

しかも現実に東京都職員は繁華街の人流は現在20%増えていると発表しており、大会中はPV(パブリックビューイング)をやろうというのだから「その後の検討でより妥当」である妥当性すら疑わしい。有観客なら日本中から人が東京にやってきて宿泊し、飲み食いし、ウィルスを地元に持ち帰る可能性がある。プロ野球はほぼ地元の観客しか来ないからぜんぜん別な話だ。全国イベントの五輪は無用な人流を引き起こし、なんのことないGoToキャンペーンの再開になる。

さらに、当シミュレーションはもうひとつ重要な仮定を置いている。

③インド株の影響は含んでいない

10月時点におけるインド株の影響は現段階のデータでは予測可能性が低いという理由でそうしたと思われるが、最大の変数になる可能性があるものを除去してはシミュレーションの意味がなく東大の学者が看過したはずがない。このことからも、このリサーチの真の目的はあくまで10月時点の予測にあったと思う(自民党向けだろう)。

従って、私見ではこう結論する。

10月の1日の東京の新規感染者数は1601人より多い。どこまで多いかは人流とインド株の暴れかた次第である。

政権は目論見を首尾よく達成するために大会期間中の人流を2%増まで抑えることにやっきになるはずだ(それなら選挙前の新規感染者は800人ぐらいでおそらく問題ない)。しかし、冒頭に書いたように緊急事態の延長はマンネリと反抗で「平常事態宣言」になってしまい、2%増に抑え込むのは無理だろう。万一10%以上となり新規感染者が2000人を超えれば世論は「それ見たことか」「すべてオリンピックの責任だ」となるが、選挙は終わっており、もはや「宴の後」だ。9月の選挙時点でそれを予見するか看過するか、そして10月になって逃げ切られてしまうのかは日本の民主主義の今後100年に関わる大きな関門だ。しかし、「やり得」を国民は絶対に許さないだろう。はっきりいって全責任は開催強行した菅内閣に帰する。

付記しておくと、政府の五輪突撃精神の裏には何やらそれだけの「甚大なはかりごと」があると説く興味深い番組がYouTubeで流れている。ご覧になるのも一興だろう(「一月万冊」と打ち込めば出てくる)。林検察は日本がれっきとした法治国家であることを厳然と国際社会に示すべきである。国民は信頼している。やるタイミングなど何の関係もない、相手が誰であろうと。

 

(終章)フィナーレ

ご存じない方が多いだろうから前章のタイトル「突撃一番」について記しておこう。これを知ったのは5年ほど前にミクロネシア連邦のチューク島(旧・トラック島)を訪れ、ガイドの方に歴史を教わった折のことである。同島は日本の「委任統治領南洋諸島」として南洋庁管轄下にあり、太平洋戦争では海軍基地が置かれて山本五十六大将が駐留した、いわば  “日本の真珠湾” であった。兵隊は常時5千人の規模であり、南洋の孤島では絶対の必需品というアレがあった。現地の住民を蹂躙せず兵隊の士気も保つ絶妙の組織的気配り、その名称が突撃一番だったのである。そしてこの島から兵士たちは突撃し、山本五十六は ブーゲンビル島に飛び立って、散った。

 

「突撃一番」https://mag.japaaan.com/archives/77927

 

 

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「国民の7割が反対」の重大な意味

2021 MAY 21 19:19:15 pm by 東 賢太郎

いま日本には「国民の7割が反対」とされる「大きな案件」が2つある。7割とは国の根幹である憲法さえ改正できる “絶対多数” だ。それを無視して「大きな力」が働くなら、国会は民意を代表する議員によって占められていない。したがって、そのズレは次回の選挙で補正されるだろう。

こういう状況を恐れて、僕は下のブログを書いた。というより、書いた去年の8月は安倍政権末期であり次期総裁決定の1か月前だったが、へたするとこういうことになるだろうという虫の知らせで書いた。

ジャイアンであるためにジャイアンな政府

「ジャイアンであるためにジャイアンである」とは、どういうことか?権力者になる目的のためだけに権力を行使することだ。衆目の一致するリーダーでない者が権力を奪取する際に往々にしてみられる。敵を腕力でねじ伏せるわけだが、そのこと自体は闘争の本質であり、是も非もない。ただそこで効果的な方法がある。僕はその手法をサラリーマン時代に身近に体験した。まず要職にあって反逆する邪魔者を「見せしめ左遷」する。それだけでも効果はあるが、ここからが重要だ。後任に “あえて”「衆目の一致する無能な者」を任命するのである。無能であればあるほど良い。パワーを誇示できるし、内部を知らない者には大抜擢に見えるし、内部者にはそいつが「よいしょ」「ソンタク」野郎だった以外に何の理由もないことが明々白々である。かくして「いいか俺に逆らうなよ」というメッセージが目に焼きつくのである。

ブログにあるとおり、中流階級、女性という政治的ハンディをはねのけたマーガレット・サッチャーは歴史に名を刻んだが、当初は政権支持率がボロボロで「短命だろう」とプレスに悪口を書きまくられた。しかし、「あること」をやって起死回生の大逆転をしたのである。それをお読みいただきたい。菅政権は官邸主導で小さな政府を志向する政治ができるポテンシャルありと期待したが、いまやブルドーザーで無為に民意を踏み潰すイメージになってしまったのは政権にとっても国民にとっても残念であり不幸なことでしかない。首相といえども既得権益集団を打ち砕くのが絶望的に難しいのだということを見せてくれたという思いでもある。サッチャーが偉かったのは2つあって、まず身を挺してそれをやり遂げたという結果を国民に見せたこと、そしてもうひとつは、「ジャイアンであるためにジャイアンである」をしなかったことだ。

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シュレーカー 舞踏音楽「皇女の誕生日」

2021 MAY 18 13:13:38 pm by 東 賢太郎

フランツ・シュレーカー

フランツ・シュレーカー(1878 – 1934)の「皇女の誕生日」(Der Geburtstag der Infantin)をご存じの方は多くはないだろう。舞踏(パントマイム)の付帯音楽で、難解な現代曲ではなくチャーミングな和声音楽でありわかりやすい。しかも文化史、音楽史においても非常に興味深い背景がある作品であり、ぜひ広く知られてほしい。シュレーカーはイーゴル・ストラヴィンスキー(1882 – 1971)の同時代人である。出世作になった同曲の初演は1908年6月27日だ。この年はやはり出世作だった「火の鳥」の2年前、ドビッシーでいうなら「子供の領分」発表の年だ。シュレーカーは1900年ウイーン音楽院を卒業してまず合唱団の指揮者となりシェーンベルクの「グレの歌」の初演者にもなった。それだけで運も実力もあったことが覗えるが、彼はそこで満足せず、作曲家として独り立ちを志していた。しかしウィーンという激戦区はそう甘くはない。自作の演奏機会はほとんど与えられず、作曲にとりかかったオペラ《はるかなる響き(Der ferne Klang)》も中々完成に至らなかった。そこに画家グスタフ・クリムトのサークルが主催した総合芸術展(Kunstschau Wien 1908)の杮落とし演目として、同曲の作曲委嘱が来たのは僥倖だった。彼は「持ってる男」だったのであり、自身も人生の分岐点だったと後に述懐している。それもそのはず、Kunstschau Wien 1908はフランツ・ヨーゼフ1世の治世60周年の国家的な記念式典で、クリムトもあの有名な「接吻」をそこで発表したイベントだったからだ。

「皇女の誕生日」はパントマイム(無言劇)である。その原本はイギリスの作家オスカー・ワイルド(1854-1900)がこの絵画から着想した童話であった。

Las Meninas(1656年)

どなたもご覧になったことがあるだろう、ベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」(Las Meninas、女官たち)である。「女官たち」というタイトルからしてお付きの女官、侍女、目付役、2人のこびとと1匹の犬が主題、主役なのだ。なぜかということをこれから述べるが、それは本稿の主題、主役でもある。そして、それを見抜いて後世に告げたベラスケスの慧眼と勇気に心からの敬意を表する僕の気持でもある。

マドリッドのプラド美術館でこの巨大な絵の前に立った時のことを覚えている。まことに不思議な絵だ。主役たちは画家目線の絵であるかのように位置取りをしてポーズをとって描かれている。この5人だけなら普通の絵だ。ところがよく見ると画家は鑑賞者に正対してこちらを眺めており、さらに奥には壁に掛かっている鏡があって、鑑賞者自身が映るはずの位置にあるのにフェリペ4世とマリアナ王妃が映っている。心理的シュルレアリズムとでも呼びたい幻視感覚にとらわれる傑作と思う。原寸大(約2×3m)でのそのインパクトはリアルだ。モナリザの実物をみたほうがいいですよという気はないが、これはその価値がある。光を浴びる前列の主役たちが本来の絵であり、画家と喪服の王女と目付け役が光の当たらない中列に意味ありげにたたずみ、謎めいた後列にまた採光があるという3層構造になっているわけだが、ストーリー性を感じさせる。非常にわけアリの、何か、言ってはいけないことを伝えたげな絵なのである。

皇女は中央で着飾るフェリペ4世の5才の娘、マルガリータ王女(1651 – 1673)である。右側には2人のこびとと犬がいる。犬を踏んでいるのは階級の象徴だろう。この描写にある、いわばあっけらかんとした残酷さは絶対王政のパラダイムの範疇として我々は理解、看過しているわけで、モーツァルトの歌劇に出てくる黒人、ムーア人の扱いもまたしかりである。それをBLM(ブラック・ライブズ・マター)が標的にしないのは、近代に至る禊(みそぎ)としてフランス革命があって、そこで貴族、宗教権力の横暴は殲滅され、自由、平等、博愛の時代になった、だからそれは差別なる概念が存在しない昔の話で今や文化の一部なのだという世界共通の認識が底流にあるからだろう。

Oscar Wilde(1854 – 1900)

ほんとうにそうだろうか。革命から200年たった現代になってもさような人間の卑しさというものは些かも消えておらず、陰湿な差別やいじめが横行しているではないか。そのことは中間地点だった100年前のオスカー・ワイルドの時代においてももちろん同じであって、彼の次男は父親の伝記の中で「この絵の小王女の顔の意地の悪い冷たい表情に、父は鋭い衝撃を受けた」と書き記している。フランス革命は絶対王政こそ打倒したが、ここが重要だが、打倒した側の人間まで含めて、人間の心の闇にまで光を照らして浄化することはできなかったし、永遠にできないのかもしれない。それに気づいたことで、ワイルドは童話として「皇女の誕生日」を書いたと僕は理解している。

小王女の顔に意地の悪い冷たさを見て取る作家の感性はナイフのように鋭利だ。顔は雄弁だ。思い出すことがある。名古屋出入国在留管理局の施設で収容中に体調を崩し、医師の指摘があったのに点滴も打ってもらえず放置されて亡くなったスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんの写真を見て、なぜかはまったくわからないが、この人は本当にやさしい人にちがいないと感じた。そういうことは滅多にない。入管法改正の是非とは全く違う、法の執行と管理の問題であり人道上の問題で、なぜこの人が命を落とさなければならなかったかを法律が弁明することはない。公表されなければ承知しようがないが、人道的にアウシュヴィッツ並みだろうと怒りを覚えるしかない。これこそがフランス革命でも何ら変わらなかった人間の本質であり、この事件こそが僕にこのブログを書かせている。

ベラスケスの小王女の顔は僕も好かない。美醜のことではない。5才にして人として勘違いした萌芽がすでにあるからだ。銀のスプーンをくわえてこうなったなら被害者だという寛大な見方もあろうが、そうした勘違いが130余年塵と積もると、加害者であろうが被害者であろうが有無を言わさずコンコルド広場に首がころがってしまう。王室にとってもお姫様にとっても、勘違いの放置は得策ではなかった。それが歴史であり、歴史は人間の本質の鏡である。斬首した方に絶対の正義があったかというとそう言いきれないものも相当あるが、理屈に関わらずやってしまうのが人間という生き物ということだ。勘違いには勘違いが、残酷には残酷が口をあけて待ちかまえている。小王女マルガリータはその後15才でオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世と結婚し、ウィーンに輿入れする。同様の駒だったマリー・アントワネットが刑死するのはその123年後だ。

以上を踏まえたうえでお読みいただきたいが、ワイルドの童話「皇女の誕生日」の粗筋はこういうものだ。

せむしのこびとが野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女の12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりにスペイン宮廷に連れて行かれる。こびとは姫君にきれいな衣裳を着せられ、得意になって踊って見せるが、森の中で育ったこびとは鏡を見たことがなく、かなしいかな、周りが自分の不恰好さを嗤っていることに気付かない。そのうち自分が姫君に愛されているとすら信じ込む始末である。だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、初めて鏡というもの見る。そしてそれが自分の醜い姿を映し出しているという現実を悟るや、そのまま心臓発作で悶死してしまう。それを見て王女はこう吐き捨てる。「これからさき、あたしのところへ遊びにくるものは、心臓のないものにしてね」。

「鏡」が「ラス・メニーナス」との重要な接点になっていることにお気づきだろう。こびとが見た己の姿は、絵の前に立った鑑賞者の目に映ったフェリペ4世とマリアナ王妃の姿である。王女は何事もなかったかのように舞台を去る。こびとは単なる遊び道具だ。これがベラスケスの絵の前列の実相である。いたいけない皇女は「女官たち」に世話され支えられているが、それは憎悪や死と隣り合わせの薄っぺらな安全であり、後列の父親、母親の権威によって庇護されているにすぎない。その権威がなくなれば娘の運命など藻屑である。中列右に立つ王女マルセラ・デ・ウリョーアが喪服を着ていることがその暗示で、暗闇から画家はそれをナイフのように鋭利な眼で描いているという構図だ。立場の弱い人間を見下して軽蔑する人間は、そのことで自分の心も蝕ばまれていく。宮廷ではそのように育つしかなく、「心」が発達しない。つまり、ワイルドが絵に読み取ったのはこびとの悲劇を触媒として浮き彫りにされた皇女の悲劇であり、そのことは差別の概念すらなかった(こびとは犬よりは上だで万人が収まってしまった)17世紀の鑑賞者は理解できない。しかしベラスケスだけは見抜いており、いずれ理解するであろう後世の人間に向けて発信したのではないか。それは18世紀のフランスで革命となって的中し、19世紀のワイルドは気づいた。21世紀の我々のうちの何人がそれに気づくのだろう。

Grete Wiesenthal

この童話につけられたシュレーカーの「皇女の誕生日」は、音楽、絵画、文学、ダンスが “真の意味で” 融合した一例である。1908年6月27日の初演の舞台装置とコスチュームはベラスケス風で、ダンサーは当世ウィーンで一世を風靡していたグレーテ・ヴィーゼンタール(Grete Wiesenthal、1885 – 1970)と姉のエルザである。グレーテはウィーン王立歌劇場のバレエ団に数年間在籍し、指揮者だったグスタフ・マーラーによってオーベールの歌劇「ポルティチの唖娘」の主役フェネッラ(聾啞の設定なのでバレリーナが演じる)に抜擢されるまで出世をしたが、心のこもらぬ旧習だらけのバレエ界に嫌気がさして飛び出してしまう。そこで自ら創案したのがウィーンっ子の心であるシューベルト、ベートーベン、ランナー、J・シュトラウスのワルツに「ソロ」で踊る新機軸だ。髪を括らず、波打つドレスを着て、野性味ある俊敏性、優美で妖艶なエクスタシーを盛り込んだ独自のダンスは「キャバレー・フリーダーマウス(こうもり)」で披露されると瞬く間にブレークした。そしてクリムトが気に入ったのだ。彼の趣味からも納得できる。その様はこのようであった(ベルタを加えた3姉妹)。

Elsa, Grete und Berta Wiesenthal, 1907

この写真、ジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」みたいだ。グレーテのスタイルはベルリン、アメリカでも好評を得たが特に独墺のバレエに影響を与えたそうで、クラシックより大衆に近いミュージカルに現れているのかもしれない。舞台ばかりでなく野外でも演じたのは、聴衆との垣根を取り払い、音楽はもちろん周囲の自然にまで感応したダンスをグレーテが求めたからだ。そのエネルギッシュな斬新さは大衆のみならず作家フーゴ・フォン・ホフマンスタールの創作にも刺激を与え、その代表作「ナクソス島のアリアドネ」(1912)初演で創作ダンスを踊り(音楽は言うまでもなくR・シュトラウス)、翌年春にはディアギレフのロシアバレエ団と契約している。その年、1913年の5月29日に初演されたのが「春の祭典」だった。彼女が起用された形跡はないが、リブレットをホフマンスタールが書き、ニジンスキー、グレーテ・ヴィーゼンタール、そしてイダ・ルービンシュタイン(1885-1960、ラヴェルにボレロを委嘱)が踊る案が検討されたという。

「皇女の誕生日」を僕が初めて耳にしたのは大学時代、レコードは高価で見知らぬ作品に投資する余力は皆目なく、上野の図書館で近現代音楽を渉猟していた時だ。冒頭部「輪舞」のにぎにぎしさに即座に思い浮かべた音楽はペトルーシュカだった。「皇女」にもパペットが出てくるし、主人公が女にふられて死ぬストーリーもエコーを感じた。「皇女」はヴィーゼンタール姉妹がキャバレーで踊るワルツでなく、既述のように総合芸術展(Kunstschau Wien 1908)という公的な色彩の場で新曲を委嘱して踊るデビュー公演であり、同様のプランをパリでと画策してたディアギレフはここで彼女に目をつけたと思われる。スコアは翌年ウィーンのUniversal Editionから出版されたから、1910年の8月から主にスイスでペトルーシュカを作曲していたストラヴィンスキーがその脈絡で知っていても不思議ではない。思えば彼の3大バレエは「魔王カッチェイの死」、「ペトルーシュカの死」、「選ばれし生贄の乙女の死」と死が連鎖しており、皇女における「こびとの死」にもつながる。

「皇女の誕生日」はロマン主義の上品な残り香のある美しい歌、息つく間もなく七変化する万華鏡の如き和声(拡張された調性)、宝石箱をひっくり返したように七色に光り輝くオーケストレーションを特色とするまぎれもなく最高の資質の作曲家による最上質の音楽である。和声については14才年長のR・シュトラウスとの関係が興味深い。マーラー9番第3楽章に似た部分があり、シベリウス6番そっくりの弦楽合奏部分は心の奥深くまで浸透してくる(両曲とも作曲はあと)。古典音楽+バレエという演目が新作の音楽を求めていく流れは、ロシアバレエ団の演目がチャイコフスキー、R・コルサコフやショパン(レ・シルフィード)などからパリにたむろす若手作曲家の新作に移行していくのと同様で、それがハプスブルグ王朝のウィーンとブルボン王朝のパリでシンクロして起こり、パリではストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャが、そしてウィーンではシュレーカーが掲題作を書いたのである。

「彼は何かに憑りつかれたように市電のなかでも人混みをかきわけながらも創作に没頭し、曲が次々と出来上がるたびに姉妹を訪れては弾いて聴かせ、彼女らが即座にダンスで応答することでインスピレーションをもらい、わずか10日でスコアを仕上げてしまった」。これはエルザ・ヴィーゼンタールの夫君の述懐だが、音楽と舞踊の結婚がうまくいった一例だ。この作品を起点にシュレーカーはオペラで成功をおさめ、ドイツで「リヒャルト・シュトラウスに次ぐオペラ作曲家」という評判を手に入れることになる。「持っていた」彼がナチスにより「退廃音楽」の烙印を押されて存在を抹消されかけたのはユダヤ系だったからである。命は奪われなかったが、芸術家としてはアウシュビッツに送られた。あまりの馬鹿気た理不尽に言葉もない。しかし、王女様の斬首事件と同様、理屈に関わらず残酷なことをやってしまうのが人間という生き物なのだ。幸い彼の音楽は復権しており、価値のわかる聴き手にとって大切な存在になっている。しかし実演においても録音においても価値に見合う取り組みがされているわけではない。それはむしろ聴き手の問題なのだ。

シュレーカーの本領はオペラである。はるかなる響き」Der ferne Klang)、「烙印を押された人々」Die Gezeichneten)が代表作で書くべきことはたくさんあるが、ご存じない方にとっては親しみやすい「皇女の誕生日」から入るのは大変おすすめだ。モーツァルトの交響曲ほどの長さで充足感を与えてくれる。オスカー・ワイルドのストーリーが示唆する暗さや陰湿さはあまりない。作曲が踊りのイメージとタイアップして進んだことをうかがわせる点で興味深いものの、舞踊音楽としては中途半端な印象だ。場面を追いながら聴くのも一興だが、30才の天才のデビュー作として楽しめばよいと思う。ちなみに、曲想という意味ではないが、僕がこれを聴きたくなるのは、アーロン・コープランドの「アパラチアの春」でもいいかなと思う時だ。

当面のところ最高の演奏はローター・ツァグロセク(Lothar Zagrosek)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮したものだ。あらゆるフレーズや転調に心が寄っていて血が通い、錯綜してきこえる部分が混濁せず細部に至るまでのニュアンスに神経が通っているのがわかる。裏でppで鳴るトランペットの品格高い明滅など、並みの指揮者と格が違う。

アルトゥール・グリューバー指揮ハンブルグ交響楽団のVOX盤は演奏も録音も良い。ドイツのローカルオケのいい味が出ており、葦笛のようなオーボエ・ソロの旨味など聞きもの。曲のエッセンスをつかんだプロフェッショナルな指揮と思う。

このトロント大学交響楽団の演奏を僕はとても楽しみ、3回もくり返し聴かせてもらった。これを演目に選んだ指揮者のロレンツォ・グッケンハイム氏の慧眼と曲への愛情に深く敬意を表し、それに応えて見事な演奏をしているオーケストラに心からブラヴォーを送りたい。収録は2019年11月とコロナ前であるが客席も拍手もまばらで心が痛む。人間の最高の叡智のやりとりが芸術であって、僕は真の芸術は絶対王政のもとで育ったと考えるし、いまなら共産主義の方が育つかもしれないと、けっこう真面目に考えている。本稿の趣旨に反するように聞こえるかもしれないが微妙な論点だ。反していないことをご理解いただければ書いた甲斐があるが、共産主義ではグレーテ・ヴィーゼンタールは出てこないだろう。

 

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