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カテゴリー: 政治に思うこと

安い女

2020 SEP 20 14:14:17 pm by 東 賢太郎

「ワタシ、そんな安い女に見える?」。どういう成り行きだったか、言われてぎょっとしたことがある。いつどこだったのかさっぱり覚えがないからひょっとして夢だったかと思うが、たぶんそうじゃない。女が酔っ払っていたのを覚えてるからだ。いくら若いころでも見知らぬ酔客を口説くなんてことは僕はない。しかし、それなら、じゃあなんだったのか、まったくわからないのである。

安い男ってのはない。男の価値はカネで測れない暗黙の了解があって、口にしたら血を見るかもしれない。もちろん女だってそうなのだが、それを自らぶち破る言葉が飛び出したものだからぎょっとしたのだ。およそ品はないが今になってなかなかハードボイルドである、アイリッシュの幻の女はきっとそんなだったろうという気がしないでもない。

なぜって、「安い」というところに有無をいわせぬインパクトがあるではないか。「兄ちゃん、わて、そんな安もんとちゃいまんねん」こう来たら笑って返すのだ。「おおこわ、高うつきそうでんな」。大阪は都構想が無くても一個の国である。商都文化の蘊蓄でできた大人の練れまくった会話が街でも漫才でも並立する。東京の人間関係は浅薄なもんだ、この会話が成り立たないのだ。

「罪と罰」で高利貸しの老婆を殺したインテリ頭のラスコーリニコフに罪を告白させ自首させるのは、他の誰でもない、売春婦のソーニャである。ロシア正教を盲目的に信じる無知な女だが、地球が太陽を回ってることを知らなくても女は男を動かせる。もしも僕が演出家でこの劇をやったら、インテリ頭は東京弁に、ソーニャは迷うことなく大阪弁にする。

東京ドームで阪神戦を観ると、あなたは7回の表と裏に2度、古関裕而の名曲を聞くことになるだろう。「六甲おろし」と「闘魂こめて」である。福島生まれの作曲家が音で描いた大阪と東京にどちらのファンも何ら違和感なく浸っているが、そんなのはかわいいもんだ、彼は国家も描ける。「東京オリンピックマーチ」である。まさにTPOを心得たモーツァルトの職人技だ、感嘆するしかない。

甲子園に鳴り響く勝利チームの校歌はあまりにつまらなくていつも早く終わらんかなと思ってる。2,3分で限られたコード進行でやれというのも無理があろうが、大方が作曲が素人くさい。安いのである。かたや、こういうのを我々は知っている。本邦音楽史上、最高傑作の一つである涅槃交響曲の作曲家、黛敏郎のNTVスポーツ行進曲だ。

たった1分。それでこのインパクトである。校歌ではないが条件は一緒だ。その昔、プロ野球は巨人、巨人は日テレだった時代、この曲を聴くと胸が高鳴った。サビの部分があって普通そこまで行かないが、このビデオのメインテーマの1分で心拍数が2,3割増え、しかも、何度聴いても飽きないのである。そういう音楽をクラシックと呼ぶのだ。要するに、高い音楽である。

この「題名のない音楽界」は今もやっているが素晴らしい番組だ。大衆は安い音楽しか知らない。高い音楽の一端をわかりやすく教えてくれ僕もとても勉強になったが、収録当時の会場にいる聴衆もこうして見るとそこそこレベルが高そうだ。紅白歌合戦とは違う。黛さんは「スポーツなんかいらない」とのたまわっている。僕はそうは思わないが、音楽家にはきっといらないだろう。というより、サッカーもやりますロックも好きです実はオモロイ人ですよなんてのは、本当にそうなら結構だが、大衆に寄せようという醜い欺瞞以外の何物でもない。

「ワタシ、そんな安い音楽家に見える?」

モーツァルトはいつもそう言いながら欲求は満たされず死んだが、その音楽は高かった。ゴッホの絵は生前は数枚しか売れなかったが、けっして安い画家でなかったことが後日わかる。

大衆に寄せようという欺瞞を盛大に執り行っているうちに、存在そのものが欺瞞な人の集団になってしまったのが今の日本国の政治だ。したがって、後日になればなるほどその安さが見えてくるだろう。

「ワタシ、そんな安い政治家に見える?」

吹けば飛ぶような安い、騒音でしかない常套文句を選挙カーから垂れ流して実は組織票だけ狙ってるアナタ。とっても安いですね。

ヘタすると、あと2,30年もすれば、日本が安い国になってしまわないだろうか?スポーツ行進曲に拍手していた年輩の聴衆の大半はもう世におられないだろう。文化が世代と共に廃退するなら危険だ。強く主張するが、政治は若い世代にまかせるべきである。爺いは退場だ。当たり前だろう、我が世を謳歌した世代が使いまくった膨大な債務を背負うのは彼らだからだ。そして、我が世代は、文化を継承するのである。コロナに負けて灯を消してはいけない。

 

菅新総理とドストエフスキー

2020 SEP 19 13:13:53 pm by 東 賢太郎

東賢太郎のブログの閲覧数(PV)が600万を超えました。御礼申し上げます。500万になったのが今年の3月ですから、年間閲覧数200万ペースになりました。対等な比較にはなりませんが雑誌の年間発行部数は週刊文春58万、女性セブン33万、週刊ダイヤモンド11万というところです(一般社団法人日本雑誌協会、2018年10月1日~2019年9月30日)。

菅新政権については意見はありますが、まずはお手並み拝見が礼儀でしょう。安倍では勝てないと踏んだ派閥の長、そして脂っこい諸々案件の火消しを握って欲しい安倍氏の利害が菅支持で合致したのでしょう。派閥政治というが、そもそも公明とくっついている自民に理を求めてもナンセンスです。

経営、スポーツといっしょで、政治家は「やってナンボ」であります。理はどうでもよろしい。僕は両方やって、どっちも体を張りたくさんの失敗をしました。学校の勉強は理でなんとかなる。そうはいかないものの方が10倍も難しいというのが感想です。政治はもっとそうでしょう。

安倍政権は外交(トランプのたらしこみ)と金融(じゃぶじゃぶ緩和で景気もちこたえ)でうまくやりました。高く評価します。結果を出したから、理は通ってませんがどうでもいいのです。結果が逆だったなら、もっとどうでもいい千の屁理屈で叩き潰されたからです。理というなら曹操の論理であります。

僕が戦国武将譚やヤクザ映画のファンなのは「やってナンボ」こそ人間が事を成すプリンシプルだからです。それがわかってないと、何も成すことはできません。勝てば官軍といいたいのではなく、能力や知力があっても、どんな小さなことであれ最後まで完遂する人でないと勝者にも官軍にもなれんということです。

ネットフリックスで松本清張の「黒革の手帳」と黒川博行の「後妻業」にはまりました。なまじの任侠物より濃い、「やってナンボ」を地で行く女の業の深さが出てますね(米倉涼子、木村佳乃)。とんでもないワルだけどこういう女はある意味で人間らしいと思います。嫌いでありません。ドストエフスキーの世界で。

こういう切り口で人を見てしまうのはカネの世界に生きてきた僕の業でもあるのですが、だからこそ、「やって」の部分でラスコーリニコフになったらいかんという人の道は大事と思うのです。菅新総理には多くの「ナンボ」を期待してますが、そこをどう生きて行かれるか、お手並み拝見というのはそのことです。

 

 

ジャイアンであるためにジャイアンな政府

2020 AUG 17 19:19:29 pm by 東 賢太郎

(1)国家の目的解釈は量子力学に似ている

国家の目的は何かという議論をひもといていくと、だんだんわからなくなってくる。ドイツの政治学者マックス・ウェーバー(1864 – 1920)は「過去に国家がしてきたことを並べてみて、そこから国家の目的は何々だと結論することはできない」という趣旨のことを書いた(「職業としての政治」)。普通、人間であれば、その行状を調べればどういう人かは凡そわかる。しかし国はそうでないというのだ。「これが国の仕事だ、だから国の目的はこうだ」が成り立たない。有名なパラドックスに「私の言うことはウソだ」がある。こう言われた瞬間にこの人が正直者なのか嘘つきなのかは言葉から判定できなくなるがそれに似ているし、光があたると(つまり、見る前と後で)電子が動くので、見る前の物体が何という物質であったか不明だという量子力学的でもある。

世界の歴史を振り返ると国家は「野獣」であり「夜警」であり「福祉提供者」であったりするが(それが「見る前」)、ではどれが正しかったのか(「見た後」)に「どれでもない」と答え、「国家は暴力行使のできる権利を持つ唯一の存在で、その独占を要求する人間共同体であり何でもできるからだ」とするのがウェーバーだ。それに対しては諸説あるが、僕は門外漢だから立ち入る資格はなく、本稿では国家の目的に対する概ねの結論は「国民に強制力のある規則を制定して維持すること」だと理解し、以下これを『国家定義』と呼び、それに従っていろいろ考えてみたい。

まず、凡その歴史を俯瞰すると、すべての国とは、その地域で「俺はジャイアン」と主張する者(元首、酋長etc.)をひとりだけ認めたことにする仕組みということだ。中世まではジャイアンが腕っぷしでやりたい放題(野獣)だが、別の野獣よりましで守ってくれるジャイアンなら何をどうやってもいいという均衡が生まれた。近世になって、やりすぎはいかん、やるなら暴力行使も含めて規則でやってくれ(立憲政治)というバランスになった。やがてジャイアンは個人でなくポスト(称号)と機能(軍)になり、腕っぷしとは関係がなくなり(文民統治)、上に立つ国家はマシーン(政治装置)のような存在となる。核の抑止力によるつかの間の平和ができると、そもそもなぜ暴力行使により何でもできる権限を認めたかが明らかでなくなってきた。そこで「ジャイアンはジャイアンであり続けるためにジャイアンである」という妙なことになっているのが21世紀の政治の現況である。世界国家に至る途上にあるのか、永遠に現状が続くのかは誰も知らない。

 

(2)真珠湾攻撃は誰が決めたのか?

国家は法律の制定によってのみ権力行使できる(国家定義)。これは市民革命で王権と闘って自由を勝ち取った欧米諸国の人は絶対に譲ることができない。アメリカ人がマスクをしないのは国に命令されるより感染する方がましだからという説があるが、あながち冗談とは思えない。ドイツ国はナチ党に無制限の立法権を与える法律(全権委任法)を認めたことでヒトラーが「何でもできる」ようにしてしまったが、国家定義どおりの手続きを踏んだからドイツ国民に責任があるといって反論するドイツ人はいない。これをドイツ赴任時代にフランクフルトの金融界の人たちに述べたところ、知恵者に「ではきくが、真珠湾攻撃は誰が決めたのか」と問い返され窮地に立ったことがある。

「東京裁判で首相(東条英機)とされたが直前まで攻撃を知らなかったようだ」と述べたところ一笑に付された。真偽はともかく首相に権限がなく軍を制止できなかったとされる。スターリン、ルーズベルトの共同謀略で支那情勢が窮地となり、国家総動員法が全権委任法のようにワークしたのを誰も止められなかったのが実態だったろうが、国家定義を満たさない決定で戦争を始めたという発言は国際社会では意味不明であり、宣戦布告問題以前の国家の根源に触れる問題なのだと知った。ちなみに戦後唯一の武力を伴った戦争であるフォークランド “紛争” (実質は戦争である)で英国サッチャー首相は自らを首班とする戦時内閣を設置して意思決定を行った。ドイツは意思決定者を法律で処断した(ナチ礼賛は刑法130条違反になる)ことで国家定義に則って戦後70年をしのいでいる。事の重みをかみしめるしかない。

 

(3)需要喚起は国家の仕事ではない

国家の目的が経済活動への関与を含むかという点にも問題がある。論点は、関与を①すべきかどうか②する意味があるかどうかの2つである。①については1970年代に国対国の経済戦争をしていた時代は米国との自動車、半導体の交渉を通産省(当時)が担ったことは大いに国益上の意味があった。がん保険を大蔵省(当時)が開放して自動車交渉を有利にする等の業際バーターは民間では困難だったこともある。しかし、グローバル企業は多国籍サプライチェーンによる効率化競争の時代になり、国家が需要サイドに有意に関与する余地は減った。安倍政権の当初の戦略に第3の矢(成長戦略)があったがいつのまにか誰も口にしなくなったのは、需要なき処に成長はなく、需要は国が作れないから異次元緩和(第1の矢)と財政出動(第2の矢)でという策の延長に成長戦略はないからだ。

②については内在的な限界がある。有意なる関与は物資やサービスの「供給側」(サプライサイド)では可能かもしれないが、消費する「需要側」へは実態的にも法技術的にも困難である。馬を川に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできないからだ。例えば少額投資における税制優遇制度であるニーサ(NISA)である。「税金をおまけしますから株式・投資信託等に投資しませんか」という趣旨だが、税金の心配は「お金がもうかってから」でいい。「株や投信のパフォーマンスは大丈夫なの?」「はい、それは自分で考えてください、自己責任で」ということだ。それで川まで行く馬は、元から喉が渇いた馬だ。そうでない馬が多いから投資による資産形成が進まないという根本的原因の解決には無力というしかない。

「少子化担当大臣」にいたっては何ができるのだろう。要は、子供をたくさん産んでもらおうというのである。しかし子供を持ちたいという「需要」を法律の制定という手法で促すのは、北欧のような公務員が多い高税率、高福祉国家でないと難しい。女性の社会進出を促進しながら子供を産んでもらうのは矛盾という統計もある。子供を成人させるには相応のお金がかかるわけで、30代の男性の所得が少ないという根本的な問題を解決せず子育て支援しますと言われても、その心配は「結婚できてからでいい」のはニーサとまったく同じである。「お金が不安です」「はい、ご自分で頑張って稼いでください」「相手がいません」「ご自分で見つけてください、自己責任で」。そりゃそうだ。うるさい、ほっといてくれ、だろう。国家がどうしてそこまでやるのの一言だ。

ここまでお読みいただいた読者には「代金は税金で補填しますから旅行に行きませんか?」「コロナは大丈夫なの?」「はい、それは自分で気をつけてください、自己責任で」の、今を時めくGoToキャンペーンも実質はまったく同じであることはもう説明の必要もないことだろう。票になるから予算がついているが、コロナ下での旅行需要喚起の根本的解決にはならない点も同じである。できもしないことに税金を使うべきでないし、それとケインジアン政策を混同してはいけない。需要喚起は国家の仕事ではない。

 

(4)驚いたマーガレット・サッチャーの覚悟

冒頭に述べたように、政府は何でもできる。戦争でも売春宿の経営でも民間人大量殺戮用施設の設営でも。それも「仕事である」と主張する政府を人道的に間違っていると批判はできるが否定する理屈はないという困ったことが冒頭にややこしいことをあえて述べた意図だ。阻止するならその政治家を選挙で落とすしかない。日本国は現実に電信・電話事業、郵便事業、鉄道・航空事業の一部を独占的に “経営” していたが、雇用は創出できていても英国と同様の理由で事業経営という観点では失敗して財政赤字を増やし、すべてを株式上場し「民営化」してしまったという歴史がある。それでうまくいったと書くには程遠く、やらないよりはましだったという程度の評価ではあるが、その流れを国際的に引き起こした背景は知っておくに値すると思う。僕の経験からご説明しておきたい。

民営化の判断は日本国が考えついたのではなく、英国の第71代目首相マーガレット・サッチャー(1925 – 2013)が世界にその時流を生み出したムーヴメントに追従しただけだ。当時(1980年代)の英国は七つの海を制した大英帝国の斜陽が国民を悲観させ、活力をなくした若者が昼間からパブで飲んだくれ、犯罪、IRAのテロ等でロンドンにもすさんだ空気が流れていた。第二次大戦後に労働党政権がとった社会福祉重視、主要産業国営化の政策が財政逼迫を招き、相次ぐ労働組合のストライキを引き起こして国民生活の活力を削いで、いわゆる「英国病」を蔓延させていた。

84年にロンドンに着任してまず感じたのは、学校で習った英国の姿とはかけ離れた根の深い退廃ムードだ。失業率は12%ぐらいでしかもインフレだった(フィリップス曲線が崩壊)。シティのエリートバンカーすら国の未来は暗いと語った。逆に日本にとっては “ハイテク産業” と呼ばれた電機、自動車、半導体、電子部品産業らの大躍進で世界の寵児の地位をほしいままにした黄金の10年間だった。その結末にはバブル崩壊がきたが、世界の金融市場の要衝だったロンドンのシティで日本国のプレゼンスがうなぎ登りになる最後の数年の高揚感は強烈で忘れ難い。あの時をもって日本人は世界の一等国民の仲間に入ったのだと断言できる。

サッチャーの民営化構想の背景が「英国病」だったことは確実だが、それだけではない、よりリアリスティックな要因として日本経済の大躍進があったことは確実だ。 おりしも80年代初頭に米国でもエズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」が警鐘として話題となり、父島で日本軍に撃墜された父ブッシュが10年後に大統領に就任すると日本の金融・証券業潰しの大逆襲を仕掛けてきたが、サッチャーはそれをせず86年にロンドン証券取引所を規制緩和する “ビッグバン” で活力ある外資を積極的に取り込み、ユーロドル市場取引を急拡大させシティの歳入を大幅に増加させた。

相手を叩き潰す米国と真逆の政策はテニスになぞらえて「ウィンブルドン現象」(英国主催だが選手は外人ばかりという意味。命名者は当時ノムラ・ロンドン社長だった外村である)と揶揄もされたが、ロンドンの税収の半分をシティがあげるに至る。その外人選手のうち最大勢力だったのが日本の証券会社で、日本の話題が日々注目され、野村の現地での求人がオックスフォード、ケンブリッジ卒なのは当たり前という時代になった。80年代前半に数件しかなかったロンドンの日本食レストランが激増したのはその頃だ。最大の証券会社だった野村はサッチャー政権と良好な関係を築き、1990年にシティのチープサイドにある17世紀の郵便事業(郵政省)の古跡である巨大な “オールド・ポスト・オフィス”(写真)に移転して“ノムラ・ハウス” とする栄誉を得た。サッチャー首相が来賓でオープニング・スピーチの予定だったが前日に「代理にジョン・メージャー大蔵大臣を送るのでよろしく」と連絡があった。何事かと思ったら翌日にサッチャー辞任、メージャーの第72代目イギリス首相就任が発表された。ロンドン赴任を終えて帰国したばかりの僕は、野村本社でこの様子を社内テレビで全店放映するキャスターを務めさせてもらった。

サッチャーの強い決意を象徴するものとして、1991年に英国電力株式の日本での公募に関わらせていただいた際に出席した英国民営化省での会議で聞いたギネス大臣の言葉が忘れ難い。これだ。

「組合運動に明け暮れ能力もやる気もなくした公務員に公的事業を任せておくことは輝かしい大英帝国の没落を意味する」

当時のサッチャー首相

自身が公務員であった大臣が我々に、はっきりとそういう趣旨のことを言った。これぞ、労働党の負の遺産を一掃するコミットメントの表明だった。サッチャー政権にはガス、電力、石油、鉄道、航空、鉄鋼、水道、テレコムなど公共財・サービスの提供に関わる国家の屋台骨の産業において、国営企業のままに放置しておくと効率や技術革新で米国、日本の水準に大きく水をあけられてしまうという強烈な危機感があった。民間企業に伍するモチベーションで経営させなくては大赤字が累積して国家財政が破綻し、未来の国富を生む研究開発(R&D)も米国や日本に劣後し、国の屋台骨が朽ち果てて二等国に没落する。それには新自由主義的な競争原理を注入するしかない。その結論として、公共財・サービスの提供を行う国営企業を民営企業にして株式公開し、新たな株主の国民の厳しい目に叶う経営をさせようという荒療治が選択されたのである。

証券界の人間なら誰もが記憶しているが、90年代前半にこのムーヴメントは同様に公共セクターの非効率を抱えていた世界各国に瞬く間に波及して株式のグローバル・オファリングという引受業務の新領域を開拓することになり、我々野村の海外部門はそこで台頭してきたゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーと真正面から激突し、熾烈なマンデート取得戦争を繰り広げた。英国電力公募の日本でのマンデートは我々が取った。メキシコの国営テレコム会社、テルメックスも同じ流れで民営化するとなって国際金融部の課長だった僕は即座にメキシコシティーに飛んだが、マンデートは既にゴールドマンの戦利品だった。エキサイティングな時代だった。世界的に澱んでいた公的セクターに強烈な喝を入れた「鉄の女」サッチャーは、もとより最も自由主義的である証券界にまで電撃的なインパクトを与えたのである。

 

(5)金融市場から目撃した首相の重み

サッチャーは中間階級下層の出である。英国議会にはピューリタン革命で市民(クロムウェル)が絶対王政維持を主張する王族派と闘いチャールズ1世を処刑した血なまぐさい歴史が投影されている。王室、貴族は貴族院(参議院に相当)に封じ込め、庶民院(衆議院に相当)が実質的に国政を切り盛りするが、それでも雑貨商の娘が大英帝国の首相とは新鮮だった。中流階級、女性という政治的ハンディからだろう、自助努力をモットーとしてオックスフォードでは化学専攻ながら弁護士の資格を取り財政、税制も学び、エスタブリッシュメント(既得権益勢力)への徹底反抗が「小さな政府」への動機となっていたともいわれる。

フォークランド諸島

規制緩和、民営化への伏線が、前述した82年に英国領であるフォークランド諸島をアルゼンチン軍が武力で奪取した戦争だ。同諸島はグレートブリテン島からはるか離れた、異国人にはどう見てもアルゼンチンの領土に見える海域に位置している。それもあって英国病で萎えた世論の一部は奪回に否定的であり、米国や国連が仲裁を申し出もしたが、サッチャーは「侵略者が得をすることはあってはならない」と断固として英国陸海軍による武力奪還を曲げず、アンドリュー王子ら王室、貴族も出兵した。本件は当面のところ第2次大戦後の唯一の本格的武力衝突であるが、現在の我が国が尖閣諸島で直面しかねない事態への対応として示唆に富む。これに勝利して奪還成功したことで国民は沸き、それまで不人気だった政権支持率は保守層のみならず大衆においても急上昇したのである。

サッチャー政権はたまたま僕が社会人になった1979年に始まり、米国留学した82年にフォークランド紛争があり、ロンドンに着任した84年に中国に97年の香港返還を約束し、ロンドンから帰国した90年に政権は終焉した。そして香港返還の年に僕は香港に着任したのである。これだけ節目の年が一致しているのは不思議なほどだ。11年の政権期間中にこちらは社会人としてのすべての基礎ができ、そのうちの6年は彼女の治世下のロンドンにおいて洗礼を受けていたのであり、自由化と金融ビッグバンで英国が徐々に誇りと活気を取り戻すのをまのあたりにした。格別の自覚はないが、サッチャリズムの思想的影響を受けていて不思議ではないし、尊敬する政治家を一人だけあげるなら彼女である。

 

(6)サッチャリズムとハイエク

サッチャリズムは代償に失業率を上げ万事がうまくいったわけではないが、国の急場を救った象徴的ケースとして評価されるべきだ。彼女はまず国家財政の事情から身を切る緊縮財政(社会保障費、教育費の削減)を断行して国民の大不評を買った。フォークランド戦争がなければ短命政権だったといわれるほどだ。そこで踏み切った開戦は事後の巨大かつ不測の歳出を伴い、真逆に舵を切るわけだ。それを予見したわけではないが、もし彼女がケインジアン政策の手を打ってしまっていたら財政問題が是々非々の判断の大きな足かせになっただろう。

Friedrich August von Hayek

サッチャーは「共産主義、社会主義が本質的にファシズムやナチズムと同根であり、更に悪いものであり、むしろスーパーファシズム・全体主義である」と説く経済学者フリードリヒ・ハイエク(1899 – 1992)に傾倒しており、反ケインズ的政策を採ったのは当然だ。民営化とは政府部門経済を削ぎ落して「小さな政府」とする政策であり、国民はみな勤勉に倹約して自分で健康に生きて行けということであり、政府の役割は規制緩和して外国人も入れて自由に競わせ、それを監督することだから「大きな政府」は無駄である。労働党の「ゆりかごから墓場まで」政策が財政破綻を招いていたから高福祉国家のカードは捨てざるを得なかったのであり、むしろ治癒には不可避の政策だった。その効果は僕が着任した84年に日常茶飯事たったロンドン地下鉄のストが後になくなったことでも体感された。

たまたま僕はハイエクの

「自由主義」と「保守主義」が混同されるのは両者が反共産主義だからであるが、共通点はただそれだけである。保守主義は現状維持の立場であり、進歩的思想に対する「代案」を持たず、たかだか「進歩」を遅らせることが望みである

という思想に深く賛同しており、以前に書いたように、

人間は現存の秩序をすべて破壊しまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではなく、「自然発生的秩序」が重要で、理性の傲慢さは人類に危険をもたらす

というイギリス経験論者である。サッチャリズムにそれは投影されている。ハイエクは日本でも人気だが、それを現実の政治にリアライズした希少なケース・スタディとして、マーガレット・サッチャーの業績を若者にぜひ学んでほしいと切に思う。

我が国に目を向けよう。

安倍政権に限らず自民党政治は代々程度の差こそあれ財政で景気を浮揚するケインジアンである。国会議員、公務員の人口比は低く、選良の「公」が「民」を統治する明治以来の考えが根強いため、国家が徴税して全国にバラまく政治にこそ親和性が高い。ハイエクもエリートの方が賢明と考えてはいたが、エリートの理性に頼る経済政策はうまくいかないと考えた。なぜなら「市場の参加者の情報や知識をすべて知ることは不可能」であり「参加者達が自らの利益で判断を下す市場こそが最も効率のよい経済運営の担い手である」と結論したからだ。

彼が共産主義とファシズムは同じだというのは、どちらも「理性」に至上の地位を与える合理主義だからだ。どちらも理性より市場の方が賢いとは認めない。しかし、ビル・ゲイツ、ジェフ・ベゾス、イーロン・マスクのような人材は市場におり、国家の研究所にはいない。国が総力で経営してもGAFAやテスラのような企業が生まれるわけでもない。このことこそが経験論者の学ぶべき「市場の経験」であり「自然発生的秩序」なのだと説くハイエクのしなやかな発想は実に魅力的だ。

「エリートはいつも正しい」と大本営が突っ走って戦争に負け、長老の役員が何十人もいる大企業が次々と不祥事を起こしてもまだ旧習を変えない。この頑迷ともいえる可塑性のなさこそがコロナと米中対立で不確実性が何倍にもなる今後において最大の政治リスクになる。そしてその帰趨のツケと膨大な国の借金は次世代に回る。そうであれば、長老世代は早くその世代に道を譲り、それを負うことが自己責任だと納得、理解してもらえるまで徹底した権限移譲を進めるのが彼らのため国のためである。還暦を超えた老人は全員一線から退き、過去の栄光にしがみつかず次世代のサポート役に回ることがポストコロナで日本を蘇らせる最良の政策である。

 

(7)大きな政府という誤謬

くりかえしになるが、政府は民意さえ得れば何をしてもいい。その民意を代表する国会議員が審議中にスマホをいじったり小説を読んでいても「国家の仕事は回っている」といわれれば、そもそも会社であれば「定款」がないのだから人事評価に是も非もなく、そうですかと引きさがるしかない。回っていると主張するなら彼らは自動的に不要であることを認めるべきだが、業務の定義がないのをよいことに国家、官僚組織というものは組織防衛本能からそうしたスラック(たるみ、遊び)を排除せず、もっともらしい居場所(スラック組織)を作ってしまうことで批判をかわして生き延びようとする。それが贅肉として堆積することで大きい政府が完成するのである。できもしない需要サイドへの関与は高福祉政策の美名をまとって無用の税金を投入するスラック延命策に往々にして利用される。

これぞハイエクが指摘した自由主義に巣食う保守主義である。進歩的思想は歓迎せず、聞いても思考停止し、「ジャイアンはジャイアンであり続けるためにジャイアンである」という確固たる政治信条に基づいてアホな政策が次々と具現化する。仕事を作るのが仕事だから大きい政府はますます肥大化し、気がつけば中国共産党がうらやむ疑似共産主義国家ができあがるのである。自由主義に巣食う共産主義は異様だ。国民は気味の悪さにうすうす気づいている。国会議員の人口比がどうあれスラックが不要であることに変わりはなく、しかもそれが族議員という特定業界に金を回す似非ケインジアンなら百害あって一利ない。ここでもまたまたハイエクは良い事を言っていて、イギリスの保守党が信奉する「伝統」を「既得権の別名」とし「部族社会の道徳」だと批判している。このハイエクを信奉した保守党の党首サッチャーが部族の長でなかったことを特筆したい。

僕はアベノマスクのニュースを聞いた時、エイプリルフールとは思わなかったが共産主義国の政策だとは思った。結果は不評で失敗だったことになっているがそれは政権の足を引っ張りたいだけの者の言い草で、僕はそういう観点で批判的なのではない。むしろあれが供給サイドに関与するという意味で古典的な国家による経済介入政策であることは菅長官が需要抑制効果を強調していることにもうかがえる。その点に関する限り整合的で批判を受けにくい政策であり、だからこそ実は国家のスラック組織に仕事を回すという隠された目的があって、どんなに批判されようがそれは大いに達成したのではないか、政府は満足しているのではないかと考えている。僕が批判的なのはそちらである。

最後に、マックス・ウェーバーに戻ろう。彼は国家しかできない専管事項はないといっているが、近代国家において国防と外交はそれに当たるのではないか。国にあって自治体にないのは防衛省と外務省しかない。原初的国家がジャイアンを必要としたのは他国の野獣から守ってもらうためであり、最も古典的な国家の機能と思う。安倍首相のトランプ就任時の果敢な外交努力は成功であり、7年間日米関係が安定したことを僕は金融市場対策と並んで高く評価する。ここから安倍政権が求めるべきものは五輪の花道ではなく米中の狭間に立って国防と外交の道を誤らないことだと考える。

 

「構成員がまったく同じような思想を持つ強力で人数の多いグループは、社会の最善の人々からではなく、最悪の人々からつくられる傾向がある」(ハイエク)

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観光業は瀕死だから旅行しましょうの愚

2020 AUG 11 16:16:58 pm by 東 賢太郎

(1)意図と逆効果のGoToキャンペーン

観光業は瀕死だからとGoToを最悪のタイミングで強行して、やっぱり地方の感染者が増えだしてしまった。友人が「地方でかかっちまうと大変なことになるんだよ」と教えてくれた。「たちまち噂が広まって親戚中に叩かれちまう。へたすると引っ越しを迫られる」。まさかと思ったら、きのう青森だったかお盆帰省者の家にシニアの筆跡と思える字で「早く帰れ」と張り紙がされた。まるで横溝正史の世界だ。まだそうだったのか・・・。友人はお盆の帰省は断念した。GoToは地方にお金はあまりばらまかず、恐怖心をばらまくことになってしまったようだ。あれをやらなければお盆は帰れたと嘆く同僚が多いと後輩から聞いた。

「利用者はまだ多くないし地方の数字はGoToのせいではない」とTVで擁護する人もいるが、GoToが成功しようと失敗しようと関係ない。罪深いのは、あれを強行したことで都市部の若者の気がゆるんだことだ。“旅行は行っても大丈夫” と国がお墨付きを与えたのだから、だったら飲み会やカラオケやバーベキュー程度ならOKだろう、ばんばんやろうよとなった。そして3密となり、ウィルスは効率的にばらまかれ、無症状の彼らが出歩いて東京も大阪も名古屋も福岡も感染経路不明の数字が激増した。しかも沖縄のように明らかにGoToの客が感染元という事例が発生して「都会の人は来ないでくれ」になった。

ニュージーランドは新規感染者ゼロが100日目になっており、市民はマスクをせず普通に生活している。人口は大差があるが、ロックダウンしたのは3月26日だから4月7日の日本とそう違わない。日本も5月は数字がひと桁まで落ちた。違ったのはそこからだった。政府がバックギアに入れた論拠は不明だ。「夏は沈静化」「日本人は抗体がある」など俗説を信じたか、ウィルスを甘く見たか、「こんなに我慢したんだからそろそろ」だったのか、とにかく経済を回したい一心で「神風」が吹くと信じたのだろう。

太平洋戦争も「神国」で戦って「科学技術」に負けた。それでも科学や教養を軽視する反知性主義のセンセイがたが跋扈するのが日本の政治風土だ。彼らは興味も理解力もないから、そういう難しいことはセンモンカにふる。いまは分科会という。しかし、何度も書くが、データ集積のないコロナの専門家は世界にもいない。一寸先は闇だから誰もリスクを取らず、日々起きていることを見ながら用心深く発言する。業界から早く何とかしろと突き上げられる族議員のセンセイがたにそれが煮え切らなく見え、「ならばやってしまおう」とGoGoになる。そんなところだろう。バックギアで大迷惑なのはまじめに我慢してきた国民なのだ。

 

(2)贔屓(ひいき)の引き倒し

こうなってしまうと、そういう場所に都会から行くのは心のハードルになる。とくに高齢者は単価もリピート率も高く観光業にとって大事な客だが、時間も金もあるので行きたい時に行きたい場所へ行く人達だ。歓迎されない所でも安いから行こうというインセンティブはあまりない。むしろ若者が押しかけると怖いから避ける。カラオケやバーベキューをばんばんやろうよという人達は申込書類を見てもわからない。もとからあんまり “ソーシャル” でない人にソーシャル・ディスタンスを期待するのはインテリの勝手な思い込みだ。

初めて米国のグランドキャニオン国立公園へ行ったとき、高さ1kmの直角に切り立った崖下を流れるコロラド川を見おろして目まいがした。柵(さく)があるから安全なのだがこわい。考えてみよう。もし政府が公園の安全性を “監督” しているなら(つまり両者が対立関係にあるなら)僕は柵を信用する。しかし、もし公園が大赤字の経営危機で、政府が経営を援助すると宣言して「GoToグランドキャニオン・キャンペーン」をやっていたらどうだろう?

「柵は安全ですか?」

「はい、転落防止対策の実施状況について十分な調査を行い、実施が不十分な項目については、現場等を確認した上で、助言を行うとともに相談に応じています」

なんてことだったらどうだろう?

監督者でなく庇護者である政府は「柵の安全も大事だが、公園の売上げも大事だ」(コロナ対策に全力をあげながら経済を回す)といっている。国民はすでにそれは無理とわかっているし、身内の審査や監督は甘くなるのが世の中ということも知っている。まして、様々な “お友達優遇政策” を疑われた政府が「安全です」を言ってもなんのこっちゃで、ホテルや旅館はGoTo登録の手続きすらわけがわからない。かくして旅行先での柵(=旅館・ホテルによるコロナ対策)の安心感など吹っ飛んでしまい、感染者増のニュースで「やっぱりね」「アベノマスクが今ごろ届くんだものね」となり、「旅行は危ないからやめとこう」になり、なんのこっちゃで観光業界にツケが回るのである。こういうのを、贔屓(ひいき)の引き倒しと呼ぶ。

 

(3)国家が「需要創造」に加担するのは間違い

つまり、観光業の票田と献金が目当てなのではなく本当に経営を守りたいなら、国は監督者の立場に徹して「旅行先の安全性」のアピールだけしたほうがいい、というより、本質的な観光業救済策はそれしかない。観光需要は政府が余計なことをしなくても誰もが今すぐにでも旅行やお墓参りに行きたいように、ある。爆発的に、厳然とある。だからコロナ”不安”が収まれば勝手に戻る。不安はしばらくは消えないが、国民は学びつつある。どうやったら危なくなく外出できるかを。国民が学ばない限り、科学無視の政府が何度「大丈夫です」を繰り返してもかえって不安を煽り、せっかくの巡回転を逆行させるだけだ。あまりに馬鹿でみっともないを通り越して迷惑だからやめた方がいい。

厚労省、国交省は、見事にお役所仕事の域ではあるが、GoToに関わる感染防止対策はやっているように見える。問題は、そこに首相官邸が乗っかって「GoTo!」と “営業活動” をしてしまっていることだ。これは生牛肉料理「ユッケ」は禁止しますと政府が「食の安全」をうたいながら「焼肉キャンペーン」をぶちあげるようなものだ。いつぞや話題になり、族議員の利権と批判されて消えた「お肉券」「お魚券」というものがあったが、GoToは限りなくそれと同族の利権のにおいがする。そもそも国家がいち業界を応援し、セールスマンまでしてくれるなんてことが正常なんだろうか?非常事態だから?それは全ての業界にとってそうだ。

 

(4)国の仕事とは何か

国家の目的(仕事)は何かというと政治学の話になりマックス・ウェーバーなんかが出てきてややこしくなってしまうが、結論だけにするなら「国民に強制力のある規則の制定と維持」というところである。要するに、法律を作って、それを作った種々の目的が達成、維持されるべく行動する機関、過程の総称が政府(Government=統治すること)であって、国家は政府が運転するマシーンのようなものである(ああ、十分ややこしくなってしまった・・)。いいたいのは、「規則(法律)を作って」という部分である。規則とは基本的に「ああせい、こうせい」「ああするな、こうするな」と “行為” を強制、指示するものである。

もし国家が経済に関与したいなら対象は供給サイド、需要サイドの2つある。供給者は限られており指示して計画も調整もできる。一方、需要は国民・法人の数だけ意思がありそれは難しい。つまり法律の制定・維持が仕事である国家は、法律になじむ供給サイドに関与はできても、なじまない需要サイドは技術的に困難なのである。例えば、「郵便の業務は日本郵便株式会社が行う」(郵便法第二条)と事業者を限定して供給をコントロールすることはできるが、需要者(国民全員)に「お正月は年賀状を10枚出しなさい」という法律を作ることは私権(財産権)侵害であり法の目的になじまない。

さらには、物理的暴力行使ができる権限を持つ国家が需要を創造しようとする行為は本質的に危険をはらんでおり、一見そうは見えなくとも、市場にひずみや誤作動を起こしてしまう問題がある。例えば大阪の吉村知事のうがい薬発言である。それが意図ではなかったにせよ、買い占めという誤作動が起き、安易な使用による副作用のリスク、本当に必要な患者に不足するなど混乱を与え、わずか41人の事例で本気かよと知事の科学リテラシーへの疑念まで持たれてしまった。製造会社からのリベート(利権)を疑われてもおかしくない。かように、国家(政治家)の需要サイドへの関与は結果が読めず、政治家個人のレピュテーションリスクも高い。再度書くが、やめたほうがいい。

GoToは吉村発言と比較にならない規模の、政府による堂々たる需要創造行為である。(1)(2)のバックファイアーで観光業のためにもならないのみならず、現在の政治がかかえている問題を露呈して見せた。これは次稿とする。

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これから日本で起きかねない最も怖いこと

2020 JUL 26 16:16:43 pm by 東 賢太郎

米国がヒューストンの中国総領事館の閉鎖。これは決定打だ。トランプ政権はすでに留学生締め出し、中国企業のナスダック上場規制などスーパーマンを演じる標的をコロナではなく中国に定めた。コロナはエイリアンである。スーパーマンをも食い殺す。この事実に反逆しても無駄だ。立ち向かってウソの強がりをばらまいても勝てないから、その怪物をはびこらせた責めを中国に負わせて叩くしかないと舵を切った。この作戦なら国民受けのいいスーパーマンを演じ続けられるし、中国融和策をとってきた民主党が同じ主張をしても勝てる。もう大統領選まで時間はないのだ。

いくら中国を叩いても怪物は消えない。そこで共和党は1兆ドルの追加対策をまとめた。超金融緩和はゼロ金利にとどまらず、やがてコロナで潰れる運命にある会社の債券まで大判振る舞いで買ってあげる。だから投資家は安心して株価は下がらず、それを見た有権者は経済は大丈夫だとだまされ、トランプはぎりぎりセーフでまだスーパーマンに見えている。それで選挙がどうなるかはわからないが、どっちが勝っても、歳入は減り、追加救済の財政支出たれ流しは続き、FRBにはクズ債券の巨大な山が残る。

それでなぜドルは暴落しないのか?簡単だ。世界中の政府も中央銀行も同じことをしているからである。みんな下がれば、お互いの交換レートは変わらない。だから通貨でないゴールド(金)は上がっている。いや上がっているのではない、全通貨が下がっているのである。トランプは反知性主義者だ。演説会場が3分の1しか埋まらなかったと選挙対策委員長を切ったノリでウィルスの世界的権威ファウチ教授を切り、経済驀進のアクセルをふかしたらエイリアンの大逆襲を食って支持率が暴落してしまった。そればかりでなくドルの本当の価値も下げているのだ。

それでもなぜドルはもつのか?簡単だ。基軸通貨だからである。多くの巨額の物品やサービスがドル払いでないと買えませんよとなればまずドルを買うしかない。浮力がつくのだ。基軸通貨論については思い出がある。野村インターナショナル香港の社長の時、98年ごろだが、前大蔵省財務官で「ミスター円」こと榊原英資氏が来社され議論をした。氏は円が世界の基軸通貨にはなり得ないがアジア域内なら可能ではないか、中国のオフショアの位置づけで香港で円、人民元を含む複数のアジア通貨をバスケットにして資本市場ができないかと尋ねられた。

僕は香港はドルリンクのHKドル市場でオフショア発行市場としては機能していない、国外の円での資本取引は全てユーロ円でアジアでもできる、「ドルぬき」の国際金融は本邦企業のスイスフラン起債市場ぐらいで極めて限定的であると申し上げた。氏は中国浮上を予見しておられ(ご明察だった)、財務長官サマーズに潰された円の国際化を東京ではなく香港で元とパッケージで行う策を講じていたと思料する。あれから20余年たってGDP世界2位となった中国が元を国際化(多国間決済通貨化)する試みを米国は悉く根絶やしにしている事実を見れば、強行しても100%失敗した。断念されてよかった。

習近平は自由取引市場としての香港を自ら潰してしまったが、金融取引の観点からはロスが多大だ。機能は深圳、マカオ、海南島に分散すると言ってるが金融に関してはまったく無理である。米ドル本位制で市中銀行が発券するHKドルの信認すら危うい。米国に香港を潰す利点はないが対中制裁で必要ならばでき、中国の国際取引は打撃を受けるだろう。究極の自由経済主義と低税率で海外から誘引した資本と人材は逃げるが、香港の頭脳も逃げる。コロナの人・人感染を12月に政府が知って隠蔽したという証言をして身の危険を感じ、4月に米国に亡命した女性科学者がyoutubeでそれを堂々と語っている。秘密も漏れるのだ。

中国は元を基軸通貨にできなければ米国に勝てないだろう。通貨は貿易決済、資本取引で国家の命運を握る。トランプが再選しなくても米国はその主権だけは絶対に手放さない。何故なら、コロナが2,3年も続けばどの国も国家財政が破綻する。米国も未曽有のドル大増刷を続けいずれ破綻するだろうが、基軸通貨国であればそれは最後になる。先に破綻して通貨が暴落した他国の富を搾取すれば米国民だけはノアの箱舟に乗れるのだ。

日本はどうだろう?経済を回すのは結構だ。日本株は米国の余勢をかって同じまやかしの手口で高止まりしている。明らかにフェイクの株価だが裏の原理を知っている政治家はいないから御用学者を養成して国民を欺いてバラまき目的のゴーゴー・キャンペーンをやろうとしている。トランプはそれでよかった。なぜなら、マスクはせず、自らが先頭に立って体を張って怪物に立ち向かうスーパーマンだからだ。安倍首相は列の一番後ろで小さめのアベノマスクをしっかりして「体は最後に張ります」というイメージしかない。感染したらご愁傷さまでしたぐらいは言ってくれる(笑)。トラベルであれイートであれ、その人にゴーゴーを言われてもねということにしかならない。

唯一の救いの道は外交、国防だ。これは中共寄りの野党が何を言っても国民は信じない。しかし、では、安倍首相がトランプのポチとして中国叩きに加勢できるか?無理だろう。東京オリンピックを自身の花道と選挙の目玉として死守したいという制約で王手飛車取りとなっている。習近平とこじれて不参加を表明されれば開催が危うい。親中派の二階氏とこじれれば四選も岸田後任も危うい。とすると、習サマにソンタク姿勢となって外交、国防カードは消える。対症療法のバラまきでは消費は戻らず、倒産・失業が看過できぬ水準になり、さらなるバラマキで原資が尽きる。御用学者は逃げ、感染阻止失敗の責任を問われる。

つまり、将棋は詰みである。首相が誰でもべつに構わないから、国民にとってどうでもいい政治家の就職活動で国家の運命を過たないようにしてほしい。望むのはそれだけだ。怖いのは、日銀のバランスシートは世界一のぶよぶよの「メタボ」状態であることだ。それでも円が大丈夫なのは長年の日本国への信用の賜物だが、信用は築くのは大変だが失うのは一瞬だ。ここで官邸が暴走老人みたいに無謀に経済アクセルをふかしてしまうと臨界点を超えてしまい、やがて円が暴落し、米中資本の格好の餌食になって取り返しのつかないことになる。だから僕は資産の半分は米ドルにしている。

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東京トラブル・キャンペーンに思う

2020 JUL 18 11:11:25 am by 東 賢太郎

株式投資で我々は未来を予見しようとする。できるわけではないが、「いま起きていること」で投資をすると失敗する手痛い経験を積んでのことだ。「良いニュースだ、でも不確実なところがある。それを調べよう」。慎重で手堅くていいことだ。そして、調査が終わったときは、株価は大体がピークである。

では、良いニュースに闇雲に飛びつけばいいか?もっと危険だ。なぜか?ニュースはマスコミが選ぶ。捏造もする。そんなものは意思決定の材料にしてはいけない。ニュースは知るべきだが、価値はnew(新しさ)にあるのではない。価値があるかどうかの判断は、自分の頭がするのだ。

そこに40年もいると、目線はいつも「2~3か月さき」だ。来年のことはわからないけれども、2~3か月さきのことは考えてみるに値するものだ。当たるかどうかは勘と経験だ。必ず当たることはないが、「当てたい」と思って生きていれば、そこそこの確率で当たるようにはなる可能性がある。

確率と書いたのは、野球のバッターが練習でうまくなるのと似ているからだ。打率はヒットを打つ確率である。練習なしに3割は打てない。「打ちたい」と思わなければ練習もしないだろう。僕は投資というビジネスに携わって、当てることを職業にしたからいつも「当てたい」と思い、そうして40年生きているうちにそれで飯が食えるぐらいには当たるようになった感じがする。現にそれで会社を作って食っている。

何度も書いたが、それは学校で習ったわけではない。東大で教えることは百年たってもなさそうだし、ウォートンスクールで企業の財務や株価の分析はがっちり習ったが、それらは当てるための万能の方法ではないことをむしろ学んだ。「当てたい」という欲望からしか育たないものがあって、ひと言で書けば「直感」という陳腐な言葉になってしまう。小学校からミステリー好きだったことの方がMBAの勉強よりずっと役に立った気がする。

サラリーマンの時はそうはいかなかったが、いまは当たれば自社の収益になる。つまり趣味の犯人当てで報酬がもらえる。ますます「当てたい」と思うようになる。これが僕の毎日だ。ステイホームだろうが猫と遊んでいようが、頭の中の活動だから何の関係もない。特別な情報はいらない。情報は今やネットで何でも手に入る。誰だって。でも、その使い方を知らないと、当たらない。

未来を「予見」するというのはおこがましい。因果関係のない未来は当たらない。だから、当たるとすれば、因果関係の範囲内だけである。これが投資のリスクというものだ。因果は読み解くことが必要だが、40年もやれば自転車に乗るぐらい意識せずにできてしまう。ただ、因果の「因」の方が大事だ。それを冷静に見ないと、「果」の予見は、高い確率ではずれてしまうからだ。

日本国の政治を見ていると「今はまだその時ではない」「慎重に検討して対応したい」など「エビデンスが揃ってから決断」のパターンばかりだ。これは役所や学者はそうでないと仕事にならないからであり、政治家はそれに乗っていることの象徴だ。株式市場で役所型の人が成功を収めたという話はきいたことがない。申し訳ないがカモになる人間の代表的な思考方法だからだ。

政治家に株なんて関係ないと思われるだろうが株の話をしているのではない。エビデンスが出る前に因果関係から予見できる程度のことは先に手を打つ。これは役所や学者にはできないからこそ政治家に必須のことなのだ。いつ?有事だ。平時は役所のルーティーンで充分。それが機能しない災害や疫病の有事にどう立ち回るか。政治家はその時のためにいると言って過言ではない。

つまり、福島原発の時を思い出していただきたいが、有事であたふたして珍妙なパフォーマンスをくり返し、役所の言うことをきいて後手後手になり(それは役人の責任ではない)、株が上がりきってから満を持して高値づかみして大損してしまうが如しの結末を迎えることになった。僕は、職業人の本能として、そういう「カモ」になる愚にもつかないみっともない行動をとる人が、よりによって自分たちのリーダーの地位にあること、その事実を許し難い。

では現況のコロナではどうか?役所の評判が悪くなったので専門家会議が出てきたが、役所に乗ってパフォーマンスを繰り返してるだけなのは福島での民主党と変わらない。緊急事態宣言がなかなか出なかった。あれがそう。有事の宣言を平時のスタンスでやった。おそらく理由は2つあり、①ぴったり1か月でGW連休が明ける4月7日まで待つ②同日に第1次補正予算を発出する、である。見事に役所的だ。発出時に「感染拡大の状況等から措置を実施する必要がなくなったと認められる時は、すみやかに、緊急事態を解除する」としているが解除は5月25日だった。

18日遅れたのはエビデンスで感染者が減っているのを確認したのだろう。見事に役所的だ。満を持しての解除後に追加の経済対策を盛り込む第2次補正予算案が6月12日に成立した。ここで、政府に「攻めのモード」が盛り上がり、夏休みの旅行を当て込んで4月7日の補正に入れてあったGoToキャンペーンが「目玉事業」として期待されたと思われる。これがそのペーパーである。国交省の事業と思われているが、

下のペーパーにあるように「国内に向けた観光需要喚起策」として4月に経済産業省に計上された国費1兆6,794億円を国交省において執行するものである。

役所の序列もあるが、経産官僚が仕切る首相官邸の息がかかった事業であることが伺える。国交省の赤羽一嘉大臣は公明党であり、全国旅行業協会(ANTA)会長は自民党の二階俊博幹事長である。

この計画と予算自体には別に異を唱えるものではないが、GW連休明けから5月25日までのエビデンス確認で、役人的感覚で「自信を持って」もうだいじょうぶだと踏み切ってしまったのがまずかった。これを以下『モード変換』と呼ぶことにする。株式相場もコロナウィルスも「未来が読めない不確実性の塊」であることに何ら変わりはない。そういうものを相手にした時、エビデンスは役に立たない。エビデンスが常に正しければいいが、不確実性がある(危機対応事態である)とは過去のエビデンスが明日も有効である保証はない事態の事を言うのである。役に立たないものを信じて、モード変換して自信を持って邁進してしまうほど危険なことはない。

何故そんなことが起きたのだろう?ポイントは、このペーパーは第1次補正(4月7日)のものであり、GoToは「コロナ収束後」を前提としていたことだ。国交省の「令和2年度国土交通省関係補正予算の概要」を読むと「全国的に落ち込む観光需要の回復に向けた反転攻勢」「地域の観光資源・観光イベントの磨き上げ」「海外に向けた大規模プロモーション」と、昭和50年代のイケイケだった証券会社の営業キャンペーンの文句かと目を疑う勇壮かつ泥臭いスローガン(進軍ラッパ)が並んでいる。明らかに「収束後」の目線なのだ。

緊急事態宣言解除が18日遅れたのは、解除が収束を意味するものではないからだ。宣言解除 ⇒ 第2次補正(=経済対策)⇒ 第1次予算執行となる政治シナリオができていた。収束したかのようなイメージを国民に与えないとGoサインは出せない。感染ゼロになるはずはない。官僚としては少なくとも減ったというエビデンスが集積しなければ無理だということだったのではないか。専門家会議が国民を欺くような決定に進むことに危機感を覚えたのは科学者なら当然で、反論が出たことは想像に難くない。

なぜ「想像」かというと議事録が作成されていないからだ。作成しないのはおかしいじゃないかという声が専門家から出ていたことは、尾身茂副座長が5月29日の記者会見で、同日の専門家会議でメンバーから「(発言者を明らかにした議事録の作成を)国の方としてもちゃんと検討してください」と求める声があったことを紹介した(朝日新聞)から間違いない。

専門家会議が御用会議なら議事録は平然と公表されたろう。そうではなかったから内容、発言者名を隠した。官邸は「専門家がOKと言った」と政策の正当化に使いたいのに事態は逆だった。ここから両者に溝ができはじめたと思われる。

http://新型コロナ対策専門家会議 政府側の求めで文言の削除や修

 

政府は5月25日から水面下で一丸となって、早く経済を回さねば!の方向に『モード変換』を行っていた。専門家会議の正論は隠して国民に「もう大丈夫」のイメージを植え付けるためだ。それは政治判断だと言えないことはないが、非常に問題であるのは「ウソをついていた」ということだ。官邸は専門家会議が決めたように「偽装」しようとしたが失敗し、首相と加藤厚労相は傷つかない所に逃げ、西村氏を人身御供に立ててモード変換を仕切らせた。西村氏は自身に忖度せずリスクを取らない専門家会議を法令に即した分科会に鞍替えし、万一の時は役所的稟議制で失敗した時の責任を曖昧にできる体制にした。これが専門家会議廃止の真相ではないか。これが何を意味するかは、賢明な国民はみな見抜いている。科学的知見の無視であり、因果関係の「因」を政治ニーズに求めてしまったわけだ。出てくる「果」は予定調和的に科学的に危険なことになる。あまりに当たり前で説明の必要もない。それが現況の感染者数急増であり、それに吹っ飛ばされかけているGoToキャンペーンなのである。

同じことを国民の側から見てみるなら、多くの人に「がんばってステイホームに耐えた」という実感があるだろう。これぞ、政府は何も成功してないのに結果はオーライという日本のコロナ対策の謎を生んだ一因だ。気温も心も寒い日々だった。著名人が亡くなった。オリ・パラは延期になりも甲子園はなくなった。でもいよいよ春が来た。緊急事態宣言が解除された。感染者も死者も減っている。プロ野球もいよいよ開幕だ。それで心も春になるのは不思議でない。僕も嬉しくてブログを書いた。しかし、同時に、どうも間違った空気が世の中に流れ出てきたなと直感で思った。野球場でファンが「やっとここまで来ました」といったのがそれだ。

コロナを抑え込んだのは医療関係者の頑張りのお陰でもあるが、それ以前に、国民の頑張りがあった。恐れたのは、それが政府のキャンペーンモードで一気に解けてしまい、「三密」が多発してしまうことだ。だからこういうものを書いた(半年で知った「三密こそ安全のキーワード」)。僕は個人的に4月時点で無症状感染者はすでに東京に数十万人はいたと思っている。医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏は百万人いてもおかしくないとTVで述べていた。限られた人だけに絞って行ったPCR検査で陽性だった人は、何十万人のほんの一部だった可能性がある。

とすると、そんなに感染リスクがあったのになぜ4月にピークアウトしたんだろう?緊急事態宣言も心理的に効いただろうし、西浦先生の「42万人死ぬ」もそうかもしれない。いずれにせよ国民の「コロナ・リテラシー」(正しく恐れる)を高める効果があったからだろう。政府はその過程で専門家会議による無症状感染者の存在や短期に収束する可能性の低さの指摘を公表せず、「国民に不安を与えるな」という動きを取った。国民を無知に止めおこうという涙ぐましい努力だが、正しく恐れれば不安はむしろ減るのだ。問題は、リテラシーの低いのは政治家の方だったことだ。西浦氏は「42万人の発表は政治家にわからせるためだった」と真相を語っている。

政策は未来に向けて打つから「策」なのであって、行く末を予見する努力をしなくてはいけないのは当たり前のことである。繰り返しになるが、そこで因果関係の「因」を見間違うと「果」も予定調和的に間違うのである。だから、首相官邸から世の中を騒然とさせたトンチンカンな政策が目白押しに出てきたのだ。取り巻きはペーパー作りはうまいが予見が不得手な役人であり、役所の論理で連休明けまで1か月とか、エビデンスが出そろったとか、因果の「因」を何の科学的裏付けもないものに求めている。失敗失敗なのは必然の理だ。一番ヘタクソな相場観で決めてるのだから。

嫌な予感はまず夜の街で当たってしまった。そういう場所がいかんとは思わない。若い頃は後輩と歌舞伎町のゴールデン街で泥酔するまで大酒を飲んで、気がついたら金が足りず、「いいわよ」とオカマのママの家に泊めてもらったこともある。だからあそこで生活してるいい人がいることも、生きていく大変さも知っている。禁じればセックス関連産業は地下に潜るだけで、種々の社会的危険はコントロール不能になるから返って危険なのだ。しかも三密やめろは無理だ、それが売り物なんだから。であれば初めから補助してあげて休業要請するしかないではないか。

そういえば大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶ事件という著名な不祥事があった。僕は野村で担当部署ではなかったから関わらなかったが、関与した連中は大変な目にあった。大蔵省イコール東大法学部だが、僕みたいなのは皆無である。彼らは遊びなしのド真面目勉強人生で来てるからああいう世界はある意味コンプレックスであり憧れでもあって、そこに付け込んで接待して「おぬしもワルよのう」をやる。まあ歌舞伎町というのは、高級官僚までをも巻き込んでしまう所だった。いまやホストクラブが200件もあるらしい。客が女性なんてすごい、時は流れたんだなと感無量である。

この業界の人たちもお客も、経済活性化のゴーサインを持ち焦がれていたはずだ。つまり、結果的にではあるが、『モード変換』を積極的に行うことでそこに薪をくべて火をつけた犯人は官邸であり政府なのである。国民を無用に怖がらせるなと情報を隠し、感染しても構わないからお金を地方にばら撒いてもらおうという政策を強行した。東京都知事は宣言解除後の6月2日~11日に「東京アラート」を実施しているのであり、明らかに『モード変換』に加担していない。それを棚に上げて「東京問題だ」とはよく言ったもんだ。東京都はそこで検査を一日4千やり、ほぼ平均的な6%程度の感染者が洗い出されてきている。もし4月に4千やってれば、何十万はいた無症状者が同じほどひっかっかっていただろうと推察する。大爆発しなかったのは、国民がリテラシーを持ってよく耐えて頑張ったからだ。

そうこうして今に至って、GoToはいよいよ東京外しである。可哀そうなのは東京の旅行業者と、すでに申し込んでしまっていたお客だ。新婚旅行をGoToで予約してキャンセル料を3万円取られた20代がTVで嘆いていた。彼はその上に他県の人の補助金のために税金まで巻き上げられているわけだ。人生の記念すべき日に泥棒に追い銭となったのであり、気の毒を通り越して怒りを覚える。

官邸は東京人を敵に回したいのだろうか。小池百合子が嫌いなのは結構だが、まがりなりにも彼女を選んだのは都民だ。東京問題だから知らんというなら都政に干渉するなだ。万一このままコロナが非常事態になれば、小池は堂々と東京をロックダウンしたらいい。ただ、賭けてもいいが、政治としてのコロナ戦争にアクセルのふかし勝ちはまずない。ふかさせるsnookerがいい。都知事は、どうころんでも有利だ。アラブで苦労してもまれたタフな彼女にとって、この戦況はお手の物だろう。

国が有事は取り仕切ります。結構。しかし、ヘタな指揮者が棒を振ればオーケストラはぐしゃぐしゃになる。実に見苦しい。早くもGoToは東京トラブル・キャンペーンに変容してしまった。国は「全国一律」のしばりがある。それが有事には邪魔になることがある。カラオケで皆さん経験あると思う。「加山雄三しばり」「松田聖子しばり」(古いか)。1曲でも知らないと歌えない。いま官邸は「全国コロナしばり」は俺しか歌えないと威を示しつつ「”東京音頭” の部分だけ歌いたくない」になっている。だったら別な歌にするしかないだろう。

これは行政府としての国と地公体の棲み分け問題につながる。国だけができるのは外交と防衛だ。地公体に外交官と軍隊はない。それ以外は、国の裁量で、臨機応変に首長に権限を渡すことがあってもいい。権力争いでなく、どちらが国民の為になるかで。そんな度量を総理たる者は持ってほしいし、それで結果がオーライなら総理が評価されるべきだ。権限を渡せば首長が評価されてしまうと恐れるなら、実はすでにアンダードッグ(負け犬)である。じゃあ強い首長の方を総理にしたら?国民は自然にそう思うだけだ。別にどっちでも構わないのだから。

GoToを業界のためにやりたいならやればいいし、それが経済活性化になるなら結構と思う。それなら各首長に、東京も入れて旅人を受け入れるかどうか判断を一任し、受け入れて感染者が出たら地公体の責任で対応し、一方で、行く旅人の方も、検査して陽性者は禁止し、感染させない作法を守り感染したら強制隔離に従うことを署名させて補助金を出す。自己責任の後ろ盾として、受け入れを拒んだ県を含めて、国は地方交付税を一律に47都道府県に交付する。あとは首長に全権と全責任を委譲する。それで東京トラブルにはならなかったのではないか。

それをやるということは、「指揮者は不要」だったということだ。オーケストラの指揮台に立って「この曲に私は不要です」と宣言する。良い音楽を作ることでなく指揮者になりたいだけの人には百年たってもできないだろう。平時の世の中は役所で回る。有事こそ政治家の出番である。ということは、有事に指揮もできない政治家は辞めてくれという結論に自動的になる。まして、なんで713人も国会議員がいて、コロナの有事に一人も役にたたず逮捕者だけは出しておいて、どういう理屈で満額で300万円もボーナスがもらえるんだろう?野党の選挙対策は、無為無策で結託しても確実に外交と防衛で負ける。「国会議員を半分にします」「参議院は廃止します」ぐらい公約したら凄く支持されると思う。

 

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コロナは「君子」を炙(あぶ)りだす

2020 JUL 13 23:23:45 pm by 東 賢太郎

国内で確認された新型コロナウイルス感染者は、13日午前10時現在で2万2713人に上り、前週より2171人増えた。たった1週間で1割近く増えた。3~4月ごろなら蜂の巣をつついたような騒ぎになり「厚労省は何をしてるんだ!」と怒号が飛んだろう。

ところが今はどうだ。この数字を見ても首相はおろか責任者の厚労大臣すら影も形もなく、「東京の問題だ」とする。この人たちは自分が国民に責められ被告人状態になっても、気がついたら裁判長の席に座っている「忍術」の使い手だ。コロナ問題もそれになりつつある。第1波の失敗は専門家会議の責任。第2波は西村と小池をバトルさせて負けたほうの責任だ。裁判長は裁かれることはない。

東京は問題だ(都知事の失政で危ない)と言いながら「どんどん旅行に行きましょう!」である。経済対策は東京の中でやったほうが乗数効果がある。旅行である必要がどこにあろう?ココロは「東京のみなさん地方にお金おとしてね」だろう。とすると形を変えた「お肉券」「お魚券」である。それを「ウィルス拡散は大目に見ます」と税金で支援までする。もしも東京人が期待できなかったら?とても嫌な予感がする。外国人を入れてしまうのではないかと。すると羽田、成田からウィルスが東京に入る。かんべんしてほしい。

海外にはマスクをしない大統領が二人いた。トランプは「感染しても99 パーセントは無害」として1日で6万人(日本の150倍!)の感染者を出し世界一、死者数も世界一。もうひとりのブラジル大統領は「風邪みたいなもの」「みんなかかって抗体を持つべき」として、自分が率先垂範して罹患してしまい、国を感染者、死者で世界二位に導いた。まことに勇壮な両雄である。トップはマッチョを地で行く国々なんだろう、それが馬鹿と言われず選挙で許されてしまうお国柄もあろう。

わが国はどうか。マッチョよりマスクが大事であり、そこは二人と違って合格だ。むしろマスク文化を世界に広げたようだ。しかし「まだ病院のベッドは空きがある」とGo To Travel作戦を決行するのは、彼らと同じほど勇壮だ。ベッドが埋まってから作戦停止しても遅いのだから、重症者が出てきたら誰が責任取るんだろう(いま書いて気持ちが悪かったが、どうでもいいことだが、Go To Travelは英語として変じゃないか、go to Kyotoなら正しいが、それを言いたいのならGo travelだろう)。

冒頭の「1割増えた」だが、これは小池知事の言うように検査数が増えたからでもあるような気がする(原データがないから確たることは言えない)。4月のピーク時は症状がある人だけ検査したから無症状者は入ってない。今回は濃厚接触者である無症状者も検査している。そのサンプリング・メソッドの差が出つつあるのではないか。当時は発症したら検査だった(なかなかしてもらえなかった)からほぼ世の中の感染者の伸び率を反映したが、今は無症状既感染者も検査しに行って新たに確保した人数だから厳密には伸び率ではないかもしれない。

つまり、4月にも検査網にかかっていない無症状者はたくさん市中にいただろうし、今は毎日の伸び率が「発生数」でなく「捕捉数」でもあるからあんまり毎日一喜一憂する必要はないかもしれない。まあそんなことを乏しいデータで憶測するより、23区内の都民全員の検査を強行すべきだろう。それで陽性と出たら全員を病院、ホテルに隔離する。それさえしてくれたら僕は毎日満員電車で通勤するし、飢えているので毎日外食するし、銀座や赤坂にも心置きなく足を向けてカネを使う。皆さんも安心してそうされるだろう。「営業自粛要請はしません」という政策は、表向きはいかにもお店のために見えるが、その政策故にもっと感染が広がると思う客は来ない。お店に限らず、すべての経済活動をむしばんでしまう本当の地獄はそっちだろう。

国民は安心が欲しい。「桜の開花宣言」みたいな「お上のお墨付きご判断」はいらない。ここに至ってそんなもの誰も信用してないからだ。最低限の信用できる情報、データの開示だけでいい。例えば、新宿、池袋、東京、品川、渋谷の駅の乗降客数や、特に混みあうスポットの歩行者数や入場者数をリアルタイムでスマホ配信するぐらい簡単にできるはずだ。行った店で「感染者出ました」なんて何時間もたってから教えてもらっても、もう感染してるかもしれないのに何の意味があろう。行く前からリスクを自分で判断して行動する。それが大人の市民じゃないの。「君子危うきに近寄らず」という。時に豹変もするが、まずは無用なリスクを取らないのが第一歩、それが君子(立派な人徳やすぐれた知識・教養を身につけた理想的な人物)だと古典は諭しているのである。

べつに立派な君子になろうと勧めるわけではない。若者には息をするぐらい簡単なことだ。スマホの現在の数字見て「うわっ、渋谷の交差点増えてきた、いま行くとやばいな」、「池袋は減ってる、穴場だぞ」「東横線、意外に混んでないな」となればひとりひとりが自主的に行動変容するきっかけになるだろう。その変容ぶりを測定すれば有意なビッグデータができ、さらに有効な感染防止策ができるだろう。どうしてそういうことをしないんだろう。国や都がやらないなら民間でできるだろう。東京アラート?何がどうなって、誰が、何の根拠で、いつ判断して橋が赤くなったのかさっぱりわからん、そんなものを都民は信用しない。そんなショーに金かけるんじゃなく、判断材料となる「原データ」をぜんぶ、あっさりと、わかりやすく開示する。それを国民は見て、因果関係を学び、自分で判断して決めるように進化していくだろう。国の運命を左右するのは政治家でも役人でもない、国民なのだ。国民の進化こそがポスト・コロナでの国の在り方を決め、国を進化させ、日本が優位に立っていく道を切り開くだろう。

おそらく、政治家は、自分たちが選良であり賢くて優れていて国民は馬鹿なのだという図式を絶対にくずしたくない。政治家が政策決定するという「お仕事ぶり」を有権者に常に見せておきたい。だから、実は見れば子供でもわかる情報、データを囲い込んで開示せず、「慎重に検討しました」ともったいつけて発表する。これは国会議員が700人も存在するレゾンデトルを作るための有効なパフォーマンスであり、与野党は関係なく地位保全のための “互助会” としてそれをやることが暗黙の了解なのだろう。それで一定数の「他人に決めてもらいたい人々」(フォロワー)を作り、囲い込み、選挙でその人たちが確実に自分に投票してくれれば当選という安定したメカニズムをたくさん作った政党が「与党」になるのである。選挙のお金はそのためにばらまかれるのである。こんな馬鹿な事をやっていたら、予言しておくが、確実に、日本は沈没していく。我々世代はもう繁栄を充分に謳歌させていただいたが、若い皆さんにもそうあって欲しい、だから自分の未来の幸福のために選挙に行った方がいい。そして、その中からこれをぶち壊す若い候補者が出てきたらと切に思う。日本の政治革命をしてくれる選良が現れたら、僕は徹底的に応援する。

スマホを持てばどこの誰でも「発信者」になれ、小学生でも中学生でも、放送局にも芸能人にもニュースレポーターにもなれる時代が加速している。いっぽう、受信者としては、世界から好きなデータを好きな時間に無料でゲットして瞬時に判断に利用できるようになった。スマートになったのは道具だけではない、ユーザーもどんどん賢くなっているのだ。かたや、ファックスという言葉すら死語になった時代にいまだにそれを使って手書きで送り、見られてはいけない賄賂の記録がサーバー復元でバレてしまうことを、隠した者が知らないというお粗末以上に驚くべき日本の政治家、役所の「進化のなさ」は中世の如しである。役所の人たちは東大を出ているが、そんなものは進化の前には無力だ。ハンコは個人的には古典文化として好きだが、といってそのためにテレワークなのに満員電車で出社させられたり、IT大臣がPC使えませんというのはもはや笑えない。世代だから仕方ないというなら60才以上は議員も役人も全員無条件で引退してくれというぐらい国家の存亡のかかるリテラシーだ。

選良の作るはずの政策がお粗末なのは、選良でないからだ。お友達が選良と思ってる人が選良であるはずがない。個人がどうであれ、組織としてそうなればいいのにそれすらできない。知らないからだ。台湾のIT大臣はすばらしい政策を練り、難なく実行した。あれこそ国民の命を守る政治家の姿であり、選良であり、閣僚として圧倒的に若い彼を見つけ出して任命した蔡英文首相こそ僕は選良の上に立つ「君子」だと思う。女性であり、コーネル大学修士、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス法学博士であるが、それが君子の要件ではない。政治家として優秀だからの一言に尽きる。彼女を選んだ台湾国民も見事だが、候補者にこういう人がいたということがまず幸福だった。日本にもきっと、若い世代には、君子の候補がいると信じる。派閥の力学とか当選回数とか、国民の幸せにはまったく関係のない世界でトップが決まる。まず、その力学の構造を壊す人が出てこないかなあと渇望している。

 

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「Go To トラブル」キャンペーンは乗らない

2020 JUL 12 0:00:38 am by 東 賢太郎

プロ野球に観客が戻った。少し不安に思ったのは、席はまばらに売ったのだろうが、場所によって三密になっているように見えたことだ。インタビューを受けたファンがこう言っていた。「やっとここまできました、嬉しいですね」。気持ちはよくわかる。しかし、政府が手綱をユルくしたから「もう大丈夫」なんてことはまるでない。人間はしばらく我慢してやった気になっているが、それはウィルスには関係ないことだ。

本稿を読まれると、僕は経済再生政策よりも感染抑止政策に寄っていると思われるかもしれない。その2つは車の両輪でどっちが大事というものではない。僕の仕事は株式市場が好調な方が有難いのは火を見るより明らかだ。したがって強力な経済再生政策が望ましい。ところが、それを不用意にやると市中感染者が増えてコロナにかかるリスクが増える。僕が倒れると会社はお終いだ。株の不調でそれはない。だからまずしっかりした感染抑止政策を望むのである。

東京の「1日200人台」は検査数が増えたからで、同じ検査をしていれば4月の数字はもっと多かったはずだから大したことないと堂々と言われている。これはおかしい。あの頃は「37.5度の熱がある人」だけ検査した。今はその縛りはやめて夜の街クラスターつぶしだ。つまり、サンプル(検査ターゲット)に別々の偏りがあるから数字を比べる意味などどこにもない。ワイドショーの茶飲み話に右往左往するのは見苦しい。

アメリカではアンソニー・ファウチ所長が6月30日、人々の行動が変わらなければ、米国内の新型コロナの新規感染者数は1日当たり10万人に増加する可能性があると上院の委員会で証言した。案の定、7月10日に6万3900人と過去最高の新規感染者が出た。数字を独占していたニューヨークはやや落ち着いたが、フロリダ、テキサス、ジョージア、カリフォルニア等が数字を激増させている。トランプが科学完全無視の俺様経済政策に舵を切り、ニューヨーク現象だったのが中西部に飛び火を始めた。

トランプは責任逃れで「ファウチは間違った」「99%の人にウィルスは悪さをしない」と驚くべき発言をくり返し、大統領選の主戦場となるサンベルト地帯で自ら首を絞めている。彼のコロナ政策を支持する国民は33%しかいない。この数字は「太陽が地球を回っている」と発言しても支持してくれる岩盤層の比率と合致する。それでもトランプ陣営が勝てるとふんでいるのは有権者の40%がバイデンは認知症かもしれないと疑っているからだ。80近い爺さんの一騎打ちだ。これがアメリカとは信じ難い。

日本も似た者同士だろう。新規感染者が増えてくると「専門家会議が間違った」と廃止する。「ウィルスはそんなに悪さをしない」とばかりに「Go To Travel キャンペーン」だ。「数字が増えたのは東京問題だ」と官房長官が逃げ、兵庫県知事も「東京が諸悪の根源」とまで言ってくれる。ほっともっとフィールド神戸で巨人が主催したヤクルト戦、東京のファンが数千人も応援に行ってるがTVを見るとけっこうスタンドは「密」だった。感染者が出たら今度は悪の枢軸に格上げしてくれるんだろうか。

コロナの空気感染をめぐっては、世界各国の研究者239人が連名で新型コロナウイルスが空気感染するとの書簡を専門誌上に発表し、あれほどパンデミックを認めるのが後手後手だったWHOがついにこう認めた。

 

「主に屋内で、混雑し換気が不十分な場所で新型コロナウイルスが空気感染することは無視できない」(WHOガイドライン、7月9日)

 

僕も冒頭に書いた野球ファンと同じでそろそろ箱根の温泉でも行ってみようかなと甘く考えていたことを白状しなくてはならない。もちろんやめる。空気感染というのは、咳、くしゃみでうつる飛沫感染と違う。近くにいる陽性者が息をするだけで感染する。いただけで、しばらくは空気中にウィルスが浮遊する。マスクは飛沫はブロックしてもウィルスは入りも出もダダ洩れだ。

ということは、「三密」をますます厳守ということだ。それしか身の安全を守る方法はない。200人出たら緊急事態宣言になるのかどうか?ついに第2波がやってきたのかどうか?そういうことを井戸端会議で論じるのは一興だろうし、それを仕事にされている方もおられるだろうが、「梅雨入り宣言」「桜の開花宣言」と同じほど僕にとってはまったくどうでもいい事である。やるべきことは変わらないからだ。

ちなみに、誤解してる人が多いが、三密とは密閉、密集、密接の3つだが、「全部同時にやると危険(=3アウトチェンジ)」ではなくて、「どれか1つでも危険(=ワンアウトチェンジ)」だ。それを徹底して避けて、うがい、手洗い、鼻洗浄を励行すれば大丈夫と思っていたが、空気感染という話が出てくるとソーシャル・ディスタンスは2mでは済まないのだろう。

小池都知事が不要不急の他県への移動を自粛するよう都民に呼びかけた。都民だから言うことをきこう。旅行に出ても東京人は諸悪の根源だから迷惑だし、冷たい目で見られてるんだろうなんて気にしながら温泉入ってもくつろげないし、東京問題などといってる政府のキャンペーンなんか乗っかったら「Go To トラブル」になるだけだ。

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小池氏の圧勝に感じる微妙な不安

2020 JUL 7 1:01:02 am by 東 賢太郎

小池氏が得票率59.7%。その他はぜんぶ足しても負けというのはやる前から戦いになってない。つい高校時代、甲子園の予選で同じブロックに強豪の日大一高の名前を見た時のことを思い出してしまった。いとも簡単に優勝されてしまったが甲子園で16三振も取ってドラ2でプロ入りする投手との差は致し方なかった。

では小池さん、その投手と同じぐらい図抜けてるの?どこが?という問いに答えられる人はいるんだろうか。前回の公約はほぼ未達だし、対戦相手が弱すぎ以外にないんじゃないか?会社で議決権6割なら独裁であって社長が経営に失敗して倒産すれば社員は路頭に迷うしかない。しかし政治はそうはいかない。

国政もそうだ。安倍首相の自民がいとも簡単に選挙に勝ってしまい、取り巻きが独裁でやりたい放題になった。それで良かったことも悪かったこともあるが、良かった方を美点凝視してOKというわけにはいかないのが現在の困った状況だ。醜点凝視する気もないが、案件ごとにダメなものはダメだ。

僕はリベラリストだ。個人主義、資本主義、自由主義、国際主義、人種・性別・信教の平等主義を尊重したいし、税金はたくさん払うから権力は干渉してくれるな好きにやらせてくれという市民だ。たまさか、それらは西洋人が血を流して勝ち取った「市民革命」の賜物であって、日本でそれは一度も起こっていない。

ではなぜあるかというと、憲法のおかげだ。列挙した**主義どれひとつ江戸時代までない。全部借りものだ。日本国憲法が市民革命なき国を変えた功績は大であり、GHQの押しつけ憲法というが、70年もたっていまだにそんなことを言ってる幼稚な国民はもう70年たってもアメリカから自立などできないだろう。

借りものは身に染みついたものではない。自民党に丸腰で委ねて大丈夫かという疑念は常にある。憲法9条改正は賛成だが本当にそれだけかと。国会を飛ばして法を勝手解釈するのを目の当たりにし、ますますそう思った。まして僕の払った税金がご贔屓候補のマンジュウになってるなら気持ちの修復は不能である。

じゃあリベラルを支持すればいい。それが道理だ。しかし、最大のネックは、この人たちは本当に日本国を体を張って守り隣接諸国と好適な距離をとる人たちなんだろうか?という素朴な疑念を感じることだ。もちろん守ると言うだろう。でもそれは僕の望む生活を守ってくれる日本国なんだろうか。

英国の “影の内閣” がない。任せてみた民主党、悪夢の3年というがコロナ対応のひどさは安倍政権も変わらない。でも野党は敵失があっても浮上できない。リベラルは左を意味してしまうからだ。これぞ日本にとって悪夢なのである。僕のような者が安心して市民生活を送れる政党が欠落しているのかもしれない。

 

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専門家会議と反知性主義

2020 JUN 29 19:19:47 pm by 東 賢太郎

西浦教授が4月中旬に、専門家会議としてではなく個人の見解として公表した42万人が死亡するとの推計には、過大でないかとの批判があった(東洋経済、6月27日)。

数学の解答に過大はない。こういう記事を書く人がいるから過大になるだけで、そうではないとわかりやすく解説するのは政治家とマスコミの仕事だ。それができなかったから「専門家会議が機能しなかった」という意味不明の話に持ち込んで責任逃れする羽目になる。メンバーでない西浦氏の暴走を止められなかったから専門家会議はもう不要だという説まで現れ、では会議を招集し西浦説を採用したのは誰だったんだと、ここまでくると誰を守りたいのか貶めたいのかわけがわからない惨状である。

西浦教授は「(集団免疫政策を採って)何もしなければ」という条件で最大値を計算し、疫病の最大の被害規模を想定して示した。学者として当然のことだ。思い出していただきたい、福島第一原発の津波対策を巡って「事故の3年前に10メートル前後の大津波が襲う可能性を示す試算がありながら東電は十分な対策を取っていなかった」と猛烈に批判が出た。「まさか14メートルのが来るとは思っていなかった」との弁解は許されず、原子力安全・保安院長の「私、文系なので」は迷言として記憶された。いま西浦教授を批判している者たちは彼らを許さなくてはいけない。

危機管理において最大限の被害を想定するのは世界の常識である。最大限のことを言っているわけだから常識を外れて聞こえるのは当然だ。「何もしないなんてことはないのだから」と、人が仮説を立てている傍から仮説を否定してかかるような粗野な頭脳の人は論理思考がまったくできず議論にすらならないことを暴露している。国民を無用にパニックに陥れると批判するのは危機管理する気のない人であり、結果を見てからそうならなかったじゃないかと後出しジャンケンをする人はただのアジテーターである。いずれにしても政治家にしてはいけない人であり、「知性だけで物事は決まらないよ」とそういう人たちの存在をあえて正当化して許してしまう考え方を反知性主義と言う。

下のグラフをご覧いただきたい。結果を見てから語っても良いなら、日本国の感染者数は西浦教授が42万人死ぬと警鐘を鳴らした4月15日(下の黒い矢印)から今に至るまでずっと減ったままで、国が緊急事態宣言を解除しても増えていない。「西浦教授の警鐘が国民の行動変容をもたらしたからだ」と評価できない理由がどこにあろう?教授は危機管理の要諦として、可能性のある最大の数値(福島原発なら10メートル超の堤防の必要性指摘に相当)を指し示し、コロナの場合それは国民個々人のウィルスの恐ろしさの正しい認識と危機意識に依拠していることを危機感を与えることで知らしめ、一定の成果を挙げたということではないか。

このグラフは東京だけのグラフとほぼ相似形である。

つまり、コロナ対策とはほぼ東京対策であると言って過言でない。全国区(平等に日本国全体に)というお題目でしか施策を打てない官邸としては困ったことで、東京に有効な対策があったとしてもそれを感染者ゼロの岩手県にもしなくてはいけない。それでも東京がうまくいけばいいが、その場合は小池知事のお手柄で、失敗すれば安倍政権の責任というまったく割の合わないゲームになっていた。この「全国区しばり」の制約こそが、ひと家族2枚だけというアベノマスクの究極のショボさに「何もやらないよりまし」という免罪符を与え、やらない方が良かったねという不幸な評価を固めてしまったことは想像に難くない。

東京都民としては、夜の街のクラスターなどよりも都に管轄権がない羽田、成田経由の外人によるウィルス大量持ち込みが最も怖い。「専門家会議は法的根拠がないから解散」などと政権が言いだすと、官僚っぽいその理屈で立法権のない東京都を篭絡して経済対策のために米中の入国禁止を解除し、「国がインバウンドによる景気対策やってます」のパフォーマンスに持ち込まれる危惧を覚える。コロナのリスクを最も抱えている都民を犠牲に「国民のためにがんばってますキャンペーン」はやめてほしい。それと戦える人に都知事をやってもらうしかないだろう。

ポピュリズムに徹する今の政権にとって反知性主義はやりたい放題の温床となるありがたい考え方だ。学者や専門家は自分の都合の良いことを正当化してくれればいいだけの存在で所詮はお飾りである。賞味期限が過ぎれば他の飾りに変え、お色直ししてイメチェンだ。中身はもちろん、いつも同じだ。首相がかわって院政を敷いても同じだ。馬子にも衣装とはこのことで、その手法はというと、「これはプロの味ですね」とプロの料理人に褒めさせておいて「あくまで個人の見解です」と画面の端っこに断り書きを入れてさえおけば、誰が見ても明々白々のヤラセなのに「合法的でしょ」とできる昨今のテレビCMと同じだ。「法律に基づいて適正に処理している」という国会答弁が、まさにそれである。

専門家会議が法律に基づいたものかどうかなど国民はどうでもいい。専門家の意見を聞いて判断するのは政治家だからだ。政治家に結果責任を問うという国民の眼からは逃げようがないのがSNS網が張り巡らされた現代の政治環境である。専門家会議の先生方は政策決定の外見作りに利用されていることにどこかで気づいたと思う。当初、尾身先生は専門的知見と経済政策を混同されているように見えた(恐らくそういうミッションと解していた)。拙ブログに「解のない連立方程式」と書き、次第にそういう世論になって行き、最後は「経済対策は政治のご判断」と言い切ったのはあっぱれだ。それは最初から自明のことではあったが、西村大臣の新たな会議が招集されたところで、数学で「解なし」の解が有識者で会議を開けば見つかるわけではない。

ここで「いや、世の中は数学や疫学で動いてるわけではない!」と演説すれば「そうだ!」と人気がとれるだろう。それが反知性主義によるポピュリズムだ。無知だが純真なピープルを守ってあげようという主義ではないことをピープルは気がつかないところにのみ成立する政治技法であるのは、その権化であるトランプ大統領を見れば歴然としている。「知性で政治はできません、国は良くできません、私はそれをやる力がある、だから私に任せなさい」という、資金力や閨閥や票田はあるが知性がない政治家に都合のよい主義であり、知性はあるが知的売春をいとわない宦官たちによって支えられる。選挙は街宣車やウグイス嬢など世界に類のない滑稽かつ膨大な無駄にカネがかかるシステムをあえて作り新規参入を阻止する。晴れて国会議員になれば逮捕されたって高額のボーナスが出る。そんな仕組みの挙句の果てに、政党が税金で票を買うところまで行ってしまえば「それをやっちゃあお終いよ」の審判が下るのは世の道理なのだろう。法律より尊い人間の生き様という法があることを気づかせてくれる。

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