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米国放浪記あとがき-若者に贈る僕の三原則-

2014 SEP 4 0:00:20 am by 東 賢太郎

 

米国放浪記を書きながら、あの激動の23日間を再び辿れたのはなにより新鮮でエキサイティングな体験でした。まるでタイムマシンでもう一度あの旅に出かけたようで、先の結末はわかってるのにワクワクしてしまうのに驚きました。ブログを途中から読んだ人から 「アメリカに行ってたんですね」 と電話があり、いや実はということになりましたが、そういいながらまるで先週ロサンゼルスから帰ってきたみたいに興奮しているのですから妙なものです。

今回ほど日記というものの威力を思い知ったことはありません。もちろん旅の記録として写真もいいのですが、もしあそこに写真があったら電話の主もそうは思わなかったでしょうし、僕自身も文章をすべて「過去形」で書くことになっていました。それは37年も前の日記を書き写すだけの退屈な作業になり、1回のブログで終わったと思います。しかし書くうちに、不思議なことに記憶がどんどん蘇ってきて写真に頼る必要が全くなくなってしまったのです。

皆さんに37年前のグランドキャニオンや記念写真をお見せしても意味がないということもありますが、それ以上に、それを「過去形」にしてしまうのが僕の中で無理になりました。あたかも第九交響曲を、もうなん百回も聴いているのに昨日聴いて再び感動しているようなものです。そんなときに、中学時代に初めて聴いたときの感想を、それはそれで大きなものではあったのですが、書いてみようというのはかえって難しいものです。

あの旅は僕の中で第九と一緒で37年間ずっと鳴り続けてきたものだったのです。だから22歳だった僕の人格や人間としての骨格形成に関与してきたに相違なく、人生で最もインパクトのある旅行だったと思います。あれ以来、気が遠くなるほどたくさんの旅行をしましたが、あれほど毎日のことを細かく生き生きと覚えている旅はないのです。可愛い子に旅をさせてくれた両親に感謝の言葉しかありません。

ただ記憶の有無でいえば、残っているのは強烈に印象に残る情景やイヴェントが多くあったからで、そうでない部分は37年の歳月なりに記憶がきれいに消去されています。日記に書いているのに記憶がぜんぜんないというのもあります。空想は書きたくなかったのでこれはけっこう苦労しました。でも、ないものはいくら頑張っても出てこない。そこだけぽっかり空いたホラ穴みたいに忘却の暗闇に飲み込まれているのです。

そこで悟ったことは、つまり、思い出せない部分はもはや 「なかったこと」 になるということです。ブログに書けないんですから、もう存在しないんです。写真があればいい?違います。同じことです。アルバムに貼ったスナップ写真を見たって、それは撮った瞬間の景色にすぎません。そこで笑っている僕が友達と何を話し、何を考え、何が可笑しかったりやりたかったりしたのかは10年もたてば大概わかりません。写真や動画をたくさん撮って安心するのはかえってホラ穴に飲み込まれる危険があるのです。

そう気がついて僕はあの旅行、1977年の8月のことですが、その前後の7月と9月に何をしていたか考えてみました。そして何も覚えていないことを知って愕然としました。もう見事に 「なかったこと」 なのです。いや、ひょっとして22歳だったあの年の8月以外のすべてが僕にとって 「なかったこと」 なんじゃないか?いや、そうなると大学生活の4年間だって・・・。なんだか寂しい話になってきます。

だからあの旅行に行って良かったというのは、楽しかったばかりではなく、1977年の8月が僕にちゃんと 「在った」 ことを実感させてくれることでもあります。それは僕が死ぬ直前まで在ります。ありがたいことです。この歳になると、ひょっとして人生の最後にそうやって「在った日」 が多いことこそ幸せな人生なのではないかとさえ思えてきます。お金や名誉なんかよりそっちのほうが大切なんじゃないかと。

僕の救いは、それでも手帳に簡略にその日のことを書きつける習慣が若い頃からあったことです。「学食 カレー食う 図書館」、こんな程度ですがないよりましです。これは少年のころからそうで、紅白歌合戦で何時何分に誰が何を歌ったかまで克明に書き、零時の時報と同時に「いま零時」と書き込まないと年が明けた気がしない変な小学生でした。

そうやって刻一刻と年をとっていき、だんだん自分が「できないこと」や「なれないもの」が判明してくる、それにいちいちおびえて、どうしたらそれが増えないかを真剣に悩む子でした。野球選手、天文学者、医者、次々とノーが出ます。その運命のくびきに対抗するには、受け身ではだめだという結論にだんだんとなりました。自分から反撃して不意打ちしてそれをぶち壊す必要があるという風に。

結果的に、このアメリカ旅行こそがそれだったのだと思います。僕の性格からして、大企業に就職してサラリーマンなどというのは、できないもの、なれないものが出尽くして最後に残った出がらしみたいなものです。結局力及ばずそれになってしまったわけですが、なってからもそうじゃないだろうという衝動はいつもマグマみたいに心の奥にくすぶっていました。

あの旅行は、裸一貫で食っていけるという、何の根拠もないですが、でも誰にどんな根拠を示されても揺るがない強い自信をくれました。ひ弱だった僕をタフな男にしてくれたのです。それがあの異国での強烈な経験の数々なのです。異国。これです。日本一周を何回したってそうはなれません。言葉も人間も文化も習慣も違う異国でこそです。

どうしてか?アイデンティティーが皆無だからです。僕らは世間に甘やかされた東大生でしたが、そんなものは米国では微塵の価値もないことを思い知りました。そもそも二十歳やそこらで心の中に建てたプライドという家などたかが知れています。そんな家を一生後生大事にしてリフォームして生きるより、二十歳で一回ぶち壊して更地にした方がいいのです。その方が長じてもっと立派な家が建てられます。

もっと立派な家を建てる方法。それは簡単です。それこそが、僕があの米国放浪から学び取ったエッセンスなのです。

①日記をつけなさい

②自分の頭で考えなさい

③思いっきり遊びなさい

これだけ。これが若者に贈る僕の三原則です。

①日記は「書く」ではなく「つける」のです。スケジュール帳みたいにただ事実を連ねるなら写真と変わりません。事実を書き、それについてどう思ったか感じたか、喜怒哀楽の感情、感動、願望、失望、意見、不満、自己評価、そういう主観的なことを多く記すことです。それを書くというのは昼間の自分を夜の自分が第三者目線でクールに描くことです。この訓練はあなたが将来に困難に直面した時に冷静に対処する力になります。そして、その日にあなたが生きたという存在証明にもなります。

②「自分の頭で」が大事です。ノウハウ本を読むのは禁止です。そんな本に書ける程度のことで解決できるものは人生ではどうでもいいのです。哲学者ショーペンハウエルはノウハウ本どころか読書は馬鹿になるからするなと言っています。正確には、読書は他人の頭で考えてもらうことだ、自分の頭で考えろということです。書いた他人が馬鹿ならあなたはもっと馬鹿になる。読むなら人類史で優れた部類の知性を持つ他人の本にしなさいということ。要は読むなら古典を読めということです。そうすれば人生で迷った時に自分で判断できるからノウハウは不要です。書いてお金儲けをするためだけに必要になります。

③は頭がいい秀才ほど困難な課題です。遊ぶということが分かっていないからです。分かっても「思いっきり」ということが分かりません。中途半端に遊ぶのは時間の浪費なのです。何が「思いっきり」か?自分の頭で考えて下さい。遊ぶことでしか学べないことがあります。遊びの方が世の中の原理や掟をすっきりと示してくれることがあります。それをつかみとれるほど一所懸命に遊ぶということです。学校で学問から学べることは人生のほんの一部でしかないのです。

あれっ、勉強しなさいがない?勉強は当たり前のことです。そのうえでこの三つをやるのです。日々そうしてごらんなさい。あなたの人生は必ず劇的に変わります。三原則を旅に出てするのはもっといい。10倍もいいです。どうしてか?三つとも自然にやることになるからです。旅行日記はつけたくなるでしょう?明日はどこへ行こうか、何を見ようか、何を食べようか、いくら出費できるか?自分の頭で考えるでしょう?そもそも遊ぶために旅行に来ているのでしょう?

旅はすべてが経験です。世の中に出れば、頼れるのは知識ではなく経験です。旅は、体はもちろん頭も強くします。良く、ではなく、強くです。勉強では鍛えられない部分が強くなるのです。強い頭を持つこと。メンタルタフネスを持つこと。これは将来、人生や仕事で苦難、困難にぶつかった時にどんなことよりもパワーの源になります。すべて、僕の経験です。でも昔の人の経験でもあります。「かわいい子には旅をさせよ」、この言葉には千金の重みがこもっているのです。

 

 

「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション)

米国放浪記(1)

 

 

 

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米国放浪記(9)

2014 SEP 3 1:01:04 am by 東 賢太郎

 

日本食断ちの結果

8月25日、ロングビーチの朝だ。10時にさあ出発となったら車のキーがない。H と I を巻き込んで荷物をひっくりかえしての大騒動となった。10分したら僕のポケットからひょっこりでてきた。最近しょっちゅう家で同様の事件をひきおこして煙たがられているが、これはボケではない。かように天然なのだ。外でチーズバーガーを食べながら 「もうオレンジジュースが飲めなくなるよな」 と3人で合点して今日は特大(ジャンボ)にした。そうしたらそれで体が重くなって動けなくなった。ガス欠というのはあるがガス満で動けない経験はない。「かったるさ頂点」と日記にある。体ごとホームシックになっていた。

それでも午後にベトナム料理屋でカレーを食べようということになった。魚のおいしい北九州育ちの I  だけは「日本食じゃないともうだめだ」と言って一人ゼゼへ出かけて行った。ひと月近く日本食から隔絶されるという経験は戦場か宇宙ステーションでもなければそうは経験できないだろう。16年の海外生活を振り返ってもこの時以来一度もないし、これからも二度とないだろう。この日の立場にいれば99%の日本人は I と一緒にゼゼへ行ったはずだ。変わった日本人だったH と僕は、いい実験台だったかもしれない。

そうはないことだからこの時の実感を一つ記しておくと、握力が増しているという顕著な感じがあって、強い男になったという気がしたのを覚えている。毎日肉を食うときっとそうなるのだ。生まれた時からそうしていればパワーが違うし、何代にもわたってすれば体格も変わるだろう。そうすれば人間性だって同じではないだろう。気候風土もそうだが、食物も人間の気質や文化に大きな影響があるのではないかという思いはこの時にできた。僕はいろんな国に行った先々で土地の人の普段の食事をしてみるが、その習慣ができたのはこのためだ。

 

メータ指揮ロス・フィルを聴く

この日は最後の2つのイヴェントの最初の方、ハリウッドボウルでロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートであった。前日の轍(てつ)から3人とも一緒だ。指揮はズビン・メータである。この当時はメータとロス・フィルのコンビはDeccaからLPを続々とリリースしていて花形だった。期待は高かったが、席があんまり良くなかった。真っ昼間の野外音楽堂というのもしっくりこず、サンフランシスコのマーラーの感動には比べるすべもなかった。前半のプログラムは記憶がない。後半がチャイコフスキーの交響曲第3番であった。これが初めて聴く3番だったはずで、まあまあいい曲だと思った。帰りに道に迷ってしまい長い時間かけて散々な思いでモーテルに戻った。「始め良ければ終わりよし」の格言通り、初めにつまづいたので終わりもだめだった。

 

さらばアメリカ

翌26日、いよいよこれが最後の日だ。10:30にハリウッドのモーテルから最後の出発をした。ビヴァリーヒルズのクレージュへ行ってお袋と妹に頼まれたバッグを買った。ハリウッドのブロードウェイでLPレコードを買ったり土産物を探したりした。夜のフライトが何時だったのかわからないが、特大のハムサンドを食べてから3人一緒にドジャースタジアムへ行った。これが最後の最後のイヴェントだ。ところが全く信じ難いことにこの試合のことは、まるでなかったことであるかのように何も覚えていないのだ。日記も 「ドジャース 5×4 勝ち」 とそっけない。

さっきドジャースのHPを調べたらちゃんとデータが載っていて、相手はセントルイス・カージナルスだったことが分かっている。いつだって野球が好きで、いつだって河原の少年野球だって見たくてたまらない僕が人生で初めて見たメジャーリーガーのゲームだ。3ページぐらいはあってしかるべき日記にこんなに何も書いてないのを発見してしまい、ちょっとほろっとした。自分のことでお許しください。掛け値なしに、来年還暦になる僕は若者3人をよくやったねとほめてやりたいのです。H 君、I  君は卒業後、別々の大手金融機関の幹部となって大活躍することになる。この旅がこんなに楽しくて、永遠の思い出となったのは2人のおかげだ。

日記はこの日のしめくくりにぽつんと「Avis(エイヴィス)」とだけ、そして次のページに大きな字でこう書いて終わっている。

「総走行距離 3566マイル=5705.6km」

その晩のこともロス空港の様子も記述はない。もちろんスチュワーデスに水を注文したこともない。みんな忘れてしまったが、羽田空港に迎えに来た父と母のほっとした笑顔だけくっきりと覚えている。

 

 

(ご精読ありがとうございました)

 

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私の忘れられない旅(1)

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米国放浪記(8)

2014 SEP 2 7:07:20 am by 東 賢太郎

 

思い出のサンフランシスコ

大変な目にあった翌日、8月20日。シスコは今日で最後になるので南北飯店でチャーハンを食べて元気をつけ、ユニオンスクエアを歩き、ケーブルカーに乗り、そしてあまりに景色がいいのでついに金門橋を徒歩で渡ってしまった。本当に若い。3人とも時間を忘れている。髪はぼさぼさ、薄汚れたジーパン、派手なTシャツ、畳のサンダル、カウボーイハットに濃いサングラスのいでたちである。僕らがどこの誰か構う者はいない。この旅はそういう日常のいっさいがっさいをぶち壊してくれるものだった。殻を脱ぎ捨てると別なことができる。

ロサンゼルスに南下する道を僕らは海岸線に沿った1号線と決めた。かなり大回りにはなるが、景色のほうを選んだのだ。運転の僕はあまり見る間がなかったが、たしかに海沿いは抜群にきれいだった。H の歓声が上がる。豪邸が静かに並んでいる。映画のシーンみたいだ。金持ちというのは万国共通で高台か水の見える場所を選ぶ。ここはその両方がある。昼時に港町モンタレーについた。有名なゴルフ場のペブルビーチが近い。別荘地と見え不動産屋が多いのは東京でいえば川奈みたいなロケーションだからだろう。当時ゴルフに興味がない僕らはここのフィッシャーマンズワーフを見物してカキを食べた。生ものなんて久しぶりだ。これは美味だった。

撃墜王になる

景色はいくら良くてもだんだん飽きてくる。運転は荒っぽくなり、海岸線沿いのくねくね道にもかかわらず結局また例の抜きっこに興じることになった。フォードは自分の戦闘機みたいに自在に操れるようになっていて「7機撃墜」とある。曲線で30-40kmは軽く速度オーバーの抜きっこだから大変に危ない。思えばこの旅行でハイウェイパトロールは2,3回しか見ていない。つかまらなかったのは運が良かっただけだろう。時効なのでこうして白状するが、若い人は絶対にまねしないでいただきたい。暗くなってきてさすがに運転に危険を感じた。昨日の疲れが出た。H にハンドルをまかせてしばらく熟睡した。ポテトチップス、ポップコーン、オレンジジュースが散らばって後部座席はゴミの山だった。

ロスに戻る

前回やっかいになったいつでも空室がありそうな3番街のジェリーズ モーテルが満杯だった。空室アリはネオンサインで vacancy と出ている。それが No vacancy とあったのだ。仕方なく別のを探した。最初に書き忘れたが、日本からロスに着いた翌日にアナハイムのディズニーランドへ行っている。珍しくて面白くて2日も遊びほけている。この5年後の留学中に家内とフロリダのディズニーワールドも行ってやはり数日遊んでいる。東京のは行ってないがだから勝手はわかる。大人も楽しめる遊園地。すばらしい。でもやはりあの感動は子供の特権みたいなものがある。子供として本場で遊べたのは幸いだった。アメリカ体験の原型となったのはマックとディズニーランドだ。それなりに王道だった。

翌21日はハリウッドへ行きプールで泳いだりした。映画などそっちのけでゼゼという日本メシ屋に行った。久々の納豆に感激したのは日本食原理主義の I だ。もちろん僕も H もうれしかったが、値段の割にあんまりうまいという味ではなかった。うまいと懐かしいとはぜんぜん違う。これならA1のステーキの方がいいなと僕はすっかりアメリカンになっていた。東海岸に留学したり海外に16年も住むことになろうとはその時点では夢にも思わなかったが、アメリカに住んでも平気だなと思ったのは覚えている。食いものだけの話だが。

ロスはたった一度来ただけなのに家に帰ってきたという感覚になるのは妙なものだ。急に安心してしまったが、ここでもコンサートと野球に懲りずにこだわった。チケットを買いたいがどこで買うかわからない。結局、翌22日にハリウッドボウルとドジャースタジアムへそれぞれ行って買えた。まだそれまで日にちがある。それなら最後にサンディエゴへ行ってこようということになる。ロスからはさらに南下だ。どうしてということもないが米国海軍第7艦隊基地、パロマ山天文台を見てサファリパークへ行ってみようということになった。その2日をまたディズニーランドでとならなかったのはちょっとオトナだ。

南国サンディエゴ

サンディエゴはロスの南方200km弱にあり、30kmも行けばメキシコとの国境である。ここは文化的にはほぼメキシコだ。素晴らしいビーチがあり青い海がまぶしい。しかし、僕が書けるのは23日にミッションベイパークで泳いだことと、白い砂浜でビーチボールでサッカーをして I が名技を見せたことぐらいだ。艦隊を見た記憶はうっすらとしかない。というのは疲れていて日記の記述がぐっと減っているからだ。こうなると37年の歳月の壁が立ちはだかる。22日には「モーテルもレストランもない」とあり「正装して49ドルのディナーをした」とある。3人まとめて20ドルの宿泊をしていた僕らには痛かった。食べたかったわけではない。それしか選択肢がなかったということのようだ。水色のスーツが最後の役目を果たした。「飲んだワインはピノット・ノイア」とある。ピノ・ノワールのことだろう。ワイン名を書いたつもりだがこれが品種名だということなどもちろん知らない。ワイン名は書いたがホテル名はない。

24日はメキシコ風の朝食を食べエスコンディドからパロマ山へ登り標高1700mの有名なパロマ山天文台まで行った。 当時は世界最大である口径5m反射望遠鏡 を有していた。天文少年には大感激だったはずだが、どうしたことかそれほど記憶がない。疲れていたのだろうか。記述がないと何も書けない。悲しいことだ。山からの復路で ライオン サファリ パークへ寄った。ここはライオン好きゆえにそこそこ覚えている。車でそのまま入る。シマウマ模様のジープがたくさんいる。馬が交尾を始めてしまい I が自慢のビデオカメラで撮った。帰国後の上映会でフィルムの半分はそれだったことが判明した。ロング ビーチのインペリアル400モーテルに宿をとり、パンナムにフライト・リコンファームの電話を入れた。

いよいよこの時が来た。長いようであっという間だった旅がそろそろ終わりに近づいていた。

 

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米国放浪記(9)

 

 

 

 

 

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米国放浪記(7)

2014 SEP 1 13:13:06 pm by 東 賢太郎

サンフランシスコと文化

8月19日、目覚めると外は雨だった。サンフランシスコは真夏というのに本当に寒いが、雨だとさらに寒い。灼熱の砂漠から都会に戻って5日目、すっかりこの気候に慣れていた僕は前の日にLPレコードを4枚買い込んで音楽モードになっていた。経験してみるとわかる。デスバレーでモーツァルトを聴きたくなる人はきっと稀だろう。和辻哲郎の名著 『風土』によれば砂漠気候は生命を殺す。人間とは対立関係にある。暑さで死ぬかもしれない日々の中でのんびり音楽を作ったり聴いたりという文化は育たない。アメリカという国は芸術が育つところとそうでないところが一日でドライブできる距離で隣にある。

もうひとつある。芸術というのは作ったりやったりする方はともかく、享受する方は基本はヒマ人である。音楽や絵など愛でても一銭の飯の種にもならない。カネの心配がなく、明日誰かに命を狙われることもなくのうのうと生きていける精神的な余裕でもなければとうてい無縁なものだろう。それゆえに、逆説的に、そんな無駄なものを愛好できるというのはカネに困ってないセレブだというステータスシンボルになると考える人たちが出てくる。僕は2週間アメリカ人を観察して、この人たちが多少成功してカネを持ったところでそういうスノッブになるだけだろうと思っていた。

アメリカと戦争して負けた当時の日本の知識人は大なり小なりそう思う、いや思いたい傾向があった。物量に負けたんだ。人間は程度が低い。良くて成金のスノッブだ。そんな連中でも使える近代兵器戦に負けたのだと。こんな国と戦争してはいけなかった、そう述懐する人の言葉には、こんな高貴な精神と文化を持つ我が国がという優越感を無理にでも確認したい心が隠れている。しかしそうではないのだ。安ホテルをハシゴする僕らのような旅行者が接するところに本当のヒマ人はいない。文化や哲学や科学を創造する精神は見えない奥の院に隠れている。いいものは自分から売り込みになど来ないのだ。

人生で初めて海外の交響楽団を聴きに行って、僕はアメリカという国家の目に見えない「階級」というものを肌で感じ取った。それは身なりやふるまいではない。そこに集まった人々の気や雰囲気とでもいうしかない何かが発している強靭なパワーだ。街で働いている人たちが小金を持ったところでとうていブレークできないような。そんな街をはいずりまわって喜んでいる僕などがとうていブレークできそうもないような。そう思って怯(ひる)んだ。その時は。サンフランシスコには全米トップ10にランクされるオーケストラがあり、オペラハウスがある。オークランドに野球の球団はあってもそれはない。あのスタンドの中国人の売り込みは正しかった。ここはやっぱりシティなのだ。

いちばん命が危なかったとき

この日、H と I はアスレチックス対インディアンスの試合を見に球場に、僕だけはサンフランシスコ交響楽団の演奏会に行くことになっていた。ベイブリッジを超えてもと来た24号線を戻り、ウォルナット クリークからイグナチオ ロードを通って野外音楽堂である演奏会場のコンコード・パヴィリオンに僕を降ろすと、二人は去った。この場所は街中のコンサートホールと違い、車でなければ来ないような人里はなれた丘の上である。この時、僕が彼らを球場に送って車をキープしていればよかった。球場は街中だから待たされても待つ場所はいくらもあるし彼らも野球をゆっくり見られた。そうしなかったのはコンサートが午後8時からで、終演は10時とみたからだ。まさかこの日に限って試合が延長戦になって12時を回ってもやるとは想定がなかった。

ここで僕が楽しんだコンサートはこのブログに書いた。そしてその顛末も。

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

あんまり思い出したくないことだが記録としてもう少し詳しく書こう。終演と同時に聴衆はあっという間に車で消えていく。まだ二人は来ていない。あんなに大勢いた人はついに僕だけになった。遠くの街灯ひとつを残して電気が消えてあたりは真っ暗になった。この電気を消された瞬間の不安を、まだはっきりと脳裏にうかべることができる。ホールからは追い出され、雨上がりでことさら寒かったその晩に僕はぽつんと丘の上でひたすら二人の迎えを待つはめになった。服装はこの旅行のために買ってもらった水色のスーツだが風があってあまりに寒く、落ちていた新聞紙を背中に入れて体温を失わないようにした。一時間たってもまだ迎えは現れる気配もない。

そうこうするうち、丘の下の方から大型の野犬とおぼしき群れがこちらに音もなくやってくるのが目に入った。背筋が凍った。犬種は知らないが屈強の5-6頭だった。俊敏な足どりが何か絶望感をかきたてる。工事中のむき出しの土管があった。あわてて中に身をひそめた。すると目が光っている先頭の犬が近づいてきて僕のいる土管を向こう側から覗き込んだ。吠えもうなりもしない。じっと僕を見ている感じだった。何か考える余裕などない、ただただ体が凍りついて動けなかった。この時だけは人生万事休すと思った。何が起きたのかはわからない。不意に犬たちは一斉に僕を無視し、散り散りに足音もなく闇の中へ去っていった。

あそこで襲われていたらひとたまりもなかった。助けも来ようがなかった。僕についている先祖の霊か何かが犬を追っ払ったのだろうか?そうとでも考えるしかないほどキツネにつままれたような犬たちの退散だった。あいつらが気が変わって戻ってきたらまずい。とにかくここにとどまるのは危険と判断し、車道を延々と歩いて下った。二人は事故でも起こしたかと思った。であればもう来ないかもしれない。ヒッチハイクでモーテルまで帰るしかない。それでもしばらくは歩いている僕に連中が気がつくように運転者から顔が見える側を歩いた。そうしたらクラクションをブーブー鳴らされ、わざわざ窓を開けて「バカヤロー」と片言の日本語で罵声を浴びせていった奴らがいる。この野郎と思ったがどうしようもない。

しばらくして二人が路上を遭難者みたいに歩く僕を見つけた時はもう夜中の12時を回っていた。H も I も僕がこういう事態になっているとは想像もできなかった。それでも心配になり延長線を途中で切り上げてきてくれたのだ。もう言葉も出ず、寒さと空腹をいやすためサンボズというチェーン店にはいった。何を食べたか記憶もない。ケータイのある今ならこんなひどい目にあうことはない。いい時代になった。日記には 「死ぬ思いをする」 とだけある。この放浪で3度目の、それも最もシリアスな死にかけだった。

 

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米国放浪記(8)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

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米国放浪記(6)

2014 AUG 31 18:18:54 pm by 東 賢太郎

 

憧れは現実が凌駕することを知る

8月16日、オークランドのモーテルを午前10:45に出発するとすぐにスタンドに寄って憧れのサンフランシスコへの道を聞いた。今度は近すぎてあきれられた。ガスを入れ、車のコンディションにナーバスになっていた H がオイル点検をたのむと中国人風の店員が「換えた方がいい。でも都会のは汚いよ(It’s dirty in the city)」とシスコに行く前にここで換えろと暗に脅す。すごいセールストークがあるもんだ。そんなのに騙されるほどジーンズにTシャツにタタミのサンダル履きの僕らは馬鹿者に見えていたらしい。オークランドはシティじゃないというのは学習だった。だからジャイアンツじゃなくてアスレティックスがあるんだ。

75セント払ってベイブリッジを渡るとすぐサンフランシスコである。良い天気だが橋は混んでいた。右手のフィッシャーマンズ・ワーフへ進むと、鼻にペンキを塗ったアニキのパーキングに駐車して意気揚々と歩き回る。海風にそよぐ舟、ヨット、ボートの白さがまぶしい。大道芸人やヘリコプターの発着が珍しく、しばらく立って見た。腹がへってきたのでガイドブックを見るとここの名物はカニだと書いてある。食い物に一家言ある I が「カニ?日本人だよ、俺たち。そんなのどうせうまくないよ、もっと安パイで行こう」と言う。そこまでの経験から説得力があった。あちこち探し回って、ちょっと値の張るスパゲッティ―にした。舌鼓を打つとはいかなかった。久々にうどんを食ったと思えばいいよな。全員が打ったのは相槌だった。

 

安いものは安物であることを学ぶ

そこの主人が安いモーテルを教えてくれた。オアシス・モーテルだ。探しまわる僕らの前に立ちはだかったのは急な坂だ。さすがのフォードも登らないんじゃないかとビビった。「ものすごい あぜん!!」と日記に大書している。国分寺崖線を喜多見から成城学園にあがる不動坂というのがある。あれが僕の急坂だったが、ここは街中が不動坂みたいなもんだと思った。モーテルは坂の途中にあった。26ドル、たしかに安い。あの店、味はひどいが情報はさすがだと喜んだ。ところが入ってみると何もかもがすさまじいオンボロだ。ロビーにシャンデリアのつもりらしい物体がぶら下がっているのを見て、スパゲッティと似たもの同士だったことを合点した。エレベーターは階段なら3往復できるぐらいの速度を実直に保った。「これは江戸時代のだね」、部屋の電話を珍しそうになでながら H が言った。

夕食をとろうと外へ出て、H は「涼しいね」と言った。僕は「寒い」と、I は「こごえる」と言った。同じものでも人間の反応は違う。天安門ガスステーションで給油していたら「日本人に道をきかれた」と書いてある。面白かったのだろう。将来ソウルの路上で韓国人に道をきかれることになることを僕はまだ知らない。昼のスパゲッティの仇討ぐらいの勢いで僕らは一路、チャイナタウンを目ざしていた。うまいラーメンが食えるならもう何を捨ててもいい。いちばん良さげに見えた湖南楼に入り、まずクアーズを飲んだ。ビールというとそれになっていた。うまかった。そして待ちに待ったポーク・ヌードルが来た。東洋の味に飢えたオオカミみたいだった僕らは、「うどんを食ったと思えばいいよな」、と二度目の相槌を打った。

ここで日記は 「半分すぎた 気持ちをひきしめる」と書く。

翌16日。市営パーキングの地下4階に車を停めるとHが三菱バンクで金をおろした。370ドルの後遺症は大きかったのかそれでV8を飲み感激していた。想定外に寒いということで、デパートのメイシーズで服を買おうということになった。靴や帽子のでっかさとセンスの悪さには笑いをこらえるのに苦労した。やっとカッコいいジャンバーをみつけ140ドルで買った。このデパートで意見が割れた。HとIは大リーグの試合が見たいといいだした。僕はそれに心が動いたが、サンフランシスコ交響楽団も聴きたかった。夜はチャイナタウンに再度挑戦となる。麺はだめだということでご飯ものにした。牛メシの出来そこないみたいのが来た。餃子が主食になった。やけくそでウィスキーのオールド・クロウを買って酒盛りをした。これがまた不味かった。浪人したHと僕はなぜか駿台の話でもりあがった。

 

後悔は37年も先には立たず

翌17日はゴールデンゲートブリッジを渡った。市電にのってあちこち行ったはずだが日記には何も書いてない。18日もたいしたことを書いていない。食い物ばっかりで恥ずかしいがよっぽどスパゲッティに飢えていたのがカン詰を買ってまた大ハズレしている。良かったのはメキシカンステーキとビールのドサキスだけだ。記憶は消え去っているから何をしていたかわからない。都会は刺激に満ちている。しかしそれはみんな所詮が人工物だ。作った者の計略通りカネ目当ての刹那の刺激をもらうだけなのだ。自然は打算がない。退屈に思えてもこうして37年たってもずっしりと残る何物かを与えてくれる。後に僕はこの街に仕事で何度も来る。海外のいろんな都市でいやというほどの時間を過ごすことにもなる。ヨセミテに一週間でもいればよかったのだ。

気持ちをひきしめた僕は一人でオーケストラを聴くことに決めた。二人はアスレティックスとインディアンズのチケットを買った。これが大変なことを巻き起こすことになるとも知らず。

 

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米国放浪記(7)

 

 

 

 

 

 

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米国放浪記(5)

2014 AUG 30 19:19:03 pm by 東 賢太郎

 

グーグルマップで推理する

日記というのは登場人物は自分なのだし、確実に自分のしたことを書いている。それでも40年近く前のこととなれば細かいことはほぼ忘れているし、文字も解読不能だったり意味不明だったり、まるで古文書だ。

そこで本稿を書くにはグーグルマップで記憶をたどるという方法が有力ということがわかってきた。これはエキサイティングな作業だ。どのルートを行ったかどこに泊まったかはその刹那はあまりに自明なことだったのだろう、ほとんど書いていないので推理するしかない。マップを丹念に見ると意外なことに、ところどころに見覚えのある地名がある。見て初めて思い出す程度のかすかな記憶だが、それでも「記憶がある」ということだけははっきりと自信を持てる記憶だ。それがあればその道を通ったということであり、それをつないでいくとルートがわかるという寸法だ。

デスバレーで泊まったモーテルだが、2日間のバクチで疲れていて行き当たりばったりに飛び込んだだけで、これがわからない。ところがマップを見るうち、ファーニス・クリーク・インという単語が、日記には書いてないが、天のどこからかひらひらと降ってきた。こういうのは奇跡みたいに感じる。ひょっとしてと思い検索すると、同名のモーテルが出てくる。テニスコートもある。その場所から南下するとバッドウォーターまで20kmほどでイメージに合う。眼球が熱いほどだったことからもあれは国立公園内のモーテルで、そこまで190号線を来ていた可能性が浮上してきた。翌日もその道を西へ行っているのは別な根拠から確実なので、断定はできないがその可能性が高い。昨日「たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうが」と書いたのは訂正となりそうだ。

重箱の隅をつつくようだが、そんなことにこだわっているのは理由がある。そうすることでさらに頭の奥底に埋もれていた別の記憶がおまけで降ってくる(蘇ってくる)のを知ったからだ。眼球が熱いなんてあれ以来一度もないのにその感じをちゃんと思い出した。するとその時のほかのことを体が思い出した。こんな経験は初めてだ。人間の記憶メカニズムは面白いと思う。なにか脳が若がえった気がして元気まで出てきた。それからもうひとつ理由がある。これを読んで同じ行程を行っていただく積極的な意味やメリットは何もないが、こと僕の子孫であればそれも一興かもしれないと思った。だからちゃんと辿れるようにしてあげたいのだ。

さらばデスバレー

starlight-motelバッド ウォーターを後にして、僕らは190号線でデスバレー国立公園を横切り、395号線を北上してビッグ パインという街のスターライト・モーテルに宿をとる。これは日記に名前があるから確実だ。これも現存するようなのでネットの写真を貼っておく。モーテルというのはおおよそこういう感じのものだ。ここで虹を見た。「魔女みたいなばあちゃん」のレストランで食事し、シャーベットを食べ、バーへ行ってビリヤードに興じている。ハシゴを試みたがそっちの店では21歳未満と思われて断られた。日本人はだいたい子供に見られるのだ。

翌8月14日、9時に起きると395号線をさらに北上。ビショップ(書いてないがこの名も記憶にある)を通過して約150kmさきのリー ヴァイニングの家族経営の店でフレンチトーストを食べた。この町はネットで見ると海抜2067 mとあるから富士山でいうと四合目あたりまで、マイナス85mから一気に登ってきたことになる。リー ヴァイニングはヨセミテ国立公園の東の玄関口だ。左折するところをわからずにモノ湖まで行ってしまい、引き返して120号線をひたすら西に進んだ。

ブレーキのジョーと死闘

ここまで走ると僕は運転に死ぬほど飽き飽きし、いらいらしていた。ペーパードライバーの H にやらせるのは不安だし、I は免許を持っていない。仕方ない。山道なのに前の車を追い回してこずきまわして抜くことだけ楽しみにした。だいたいみんな怖がって路肩に逃げた。運転は男勝りにうまい母親の血を引いてうまかったが、いま思えばただの暴走族だ。ところが僕に対抗してくるダッツンが目の前に現れた。いまだ!っとアクセルに足をかけるといいタイミングでブレーキを踏んで牽制してくる。神経戦だ。「こいつはてごわい。ブレーキのジョーだ」。よくわからないがH がそう命名した。

ヨセミテ・ヴィレッジは広大な公園のへそに当たる。徐行運転に入ったところで熊が目の前を横切ってびっくりした。車を停めると「ジョー」が降りて近づいてきた。ものすごい髯もじゃで熊よりも熊みたいなにいちゃんだった。僕に向って何かひとこと言った。文句やケンカを売るという感じではない。日記にその言葉は Life is a but dream. と殴り書きしてあるが、文法が変だ。Life is a bad dream か Life is but a dream. のどっちかと思われる。後者かもしれない。「坊や、人生はうたかただ、気をつけな」。ジョーは熊どころか哲人だったと思うことにしている。

車は元気、僕らはガス欠

ここからは歩くしかない。370ドル落とした H はカネがない。写真を撮るまねだけ。数十メートルもある巨岩やら水無しの滝やらを見物したが、なにぶんこの2日で火星と金星を見た直後だ。たいしたインパクトはなかった。覚えているのはトップレスのおねえさんだけだ。ここで完全にバテて体調を崩していた僕は、初めてHに車のキーを渡すことになった。隣で教習所みたいに指導しながらも始めは危なっかしくてどこかに一度ぶつけた。なんとか120号線を西へ無事に走り、僕らはシェラネバダ山脈を横断して平地に降りてきた。オークデール、マンテカを通って580号線に入る。「とにかく海まで行け。そこがシスコだぞ。」ちょっと熱がでてきていた僕のナビは大変アバウトになっていた。

ああ勘違い

その海が見えてきた。意外に早い。砂漠の死の谷から生還だ。サンフランシスコだ、もうだいじょうぶだ!こんなにたくさんの信号を見るのは久々でプッシーキャットなんてキャバレーもある。人里恋しかった僕らは喜びいさんで黒人のお姉さんのいる店で特大のステーキを注文した。場所は7番街。モーテルに飛び込んで値段に驚いた。16ドル?シスコは高いよといわれてたのにこれは掘り出し物だ。ホテル代の相場カンがついていた僕は即決で三泊契約の「大人買い」をした。何か変だとは感じていたが、それは部屋で地図を広げてすぐ判明した。「H、I、悪い。ここはサンフランシスコじゃない、オークランドだ」。

受付でけげんな顔をされながら僕らは契約を一泊に変更し、コーラを買おうと思って外へ出た。もう真っ暗である。探すが店がどこにもない。黒人ばっかりのディスコがあったので、そこでビールとスクリュードライバーを飲むことにした。発熱などおかまいなしだ。あたりはどうやら駅の操車場だった。中に侵入したくなり無断で入った。列車がたくさん停まっていて、暗いのをいいことに並んで立ちションをしていたらまずいことに駅員だか警官だかが歩いてきた。3人で列車の下に隠れてやり過ごした。これはスリル満点だったが、へたをすると撃たれていたかもしれない。Life is  but a dream だ。

 

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米国放浪記(6)

 

 

 

 

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米国放浪記(4)

2014 AUG 29 23:23:15 pm by 東 賢太郎

 

子供は反省しない

グランド・キャニオンでの野宿の寒さを昨日のように思い出しながら僕はいまぞっとしているが、日記の中の僕らはちっとも怖気づいていない。のんきにノース・リムを見物して、何のことか今やわからないが「甘いメシ」を食い、砂漠で遊ぶために「インディアンハット」を買いこんでから「豪雨の中100キロで飛ばし」、昨晩に苦労して南下したくねくね道をジェイコブ・レイクまで北上している。これがまた至極危険だ。先日もサンディエゴで日本の大学生が運転を誤って事故死した悲しいニュースがあった。赤いプリマスがエンコしてくれて神に感謝するのみだ。

モーテルというのは車がないと成り立たない米国社会で、通りすがりのトラベラーが泊まるいわば東海道の宿場の木賃宿みたいなものだ。こういう自然の要衝のような奥まった景勝地を通りすがる者などないからそんなものがあるはずない。いま大人の僕はそう思うが、この時はタコ糸の切れた無知な子供だ。この旅程でも日記を寝る前に毎日つけていたが、書いてあることといえば、初めてみる物珍しさから面白かった米国人の風貌や他愛ない出来事の無邪気な顛末ばかりだ。砂漠の日没や星空やオレンジ色の大峡谷を見た感動の言葉はない。その景色をありありと思い出して感動しているのは今の僕なのだ。

ラスベガスへ

「フランケンにいちゃんのところでガス」を入れ、「ロッジで***な(書けない用語)ねえちゃんのところでハンバーガー」を食べ、僕らは一路89号線をラスベガスへ向かった。「170km出した」上に途中で「砂漠のインディアン・シリーズ」をして遊んでいる。シリーズというからには何度もやっていたのだろう、昨夜の大失敗の反省のかけらも感じられない。そこからは道のせいなのか交通事情のせいなのか「平均時速110km」とある。170kmからは大幅減速ではあるが、それでも制限時速55マイルを20キロオーバーなのだ・・・。そして日が暮れた。

予想外のことで驚く

ラスベガスを飛行機で訪れるとたぶんこの感動はわからないから一度はお薦めしたい。フロントガラスの向こうに無限に続く漆黒の闇のなか、一直線のハイウエイが少しづつ星空に向かって登っていく。丘のてっぺんを超えると、行く手の眼下にそれまで見たこともないまばゆい光源が忽然(こつぜん)と現れる。百万個の宝石をちりばめた巨大なシャンデリア。ラスベガスの全景だった。うわーっと驚きの一声を発した僕らは黙りこくるしかなかった。スピルバーグの映画だってこんなものは絶対に出来ない。暗闇の底からぽっかり浮かび上がる不夜城。これほど驚異的なシーンは以来一度も経験することなく還暦を迎えようとしている。

このことを一言も記していない我が日記をいま読んで、これまた大変驚いている。ふと思い出したものがある。モーツァルトが子供のころ、イタリア楽旅でナポリからポンペイに観光に行った時に書いた手紙だ。ベスビオ火山の噴火で瞬時に街ごと埋もれた悲劇は当時から知られていたのだ。遺跡が今ほど発掘されていなかったのは割り引くとして、彼がそこから母親に送った手紙にその風景描写やそこから受けた感動のようなものをぜんぜん記していないのをずっと不思議に思っていた。天才と比較など不遜は承知だが、ああ子供は万国共通でこういうものなのかと思った。当時の僕よりモーツァルトの方がずっと子供ではあったが。

バクチの戦果

ネオンがまぶしい夜のラスベガス!カジノを渡り歩いて夢中で遊んだ。当時クレジットカードはまだない時代で僕らの持っていたのは現金とトラベラーズチェックだ。それが全財産ですったら終わりだから無謀なことはしなかった。時計がない。閉店がない。これが最高だった。時間なんか関係なく遊びたい人、金を手に入れたい人がいる。それを認める国家的なメンタリティーがある。これが自由主義、資本主義の根っこなんだと思ったかどうかは覚えてないが、ラスベガスで嗅いだあの空気は後の価値観に影響したと感じる。ホテルに帰ったのは朝の5時だった。

翌朝、とても昼までにチェックアウトはできず「誰が(延泊をフロントに)言いに行くかジャンケン」してまた寝ている。起きたのはついに午後4時である。日記は恥ずかしくも「ウルトラマンを見る!!2次元怪獣ガバドン」を大書している。米国のTVでやったのが珍しかったのだろう。「きのうのところで化け物的ステーキ」を食べ、もう一晩勝負にくりだしルーレットで結局「12ドル勝った」。丸2日ぶっ通しで遊んでこれは我ながら評価できる。これが嵩じて後にアトランティックシティやロンドンやアムステルダムでカジノに入りびたることになる。泊まったフレモント・ホテルをネットで調べたら部屋代は33ドルだ。当時と大差ない。カネがなかったくせに「チップ」を置いて出ているからサービスが良かったのだろう。

やけどをする

翌日10時、「ハムのハンバーガーとミルクシェーク」の朝食をとって出発しサンフランシスコを目ざすことになった。「郵便局」とあるので家に絵葉書を送ったようだ。「ジェットコースターのような道」をまた他の車を抜きっこしながらデス・バレーの近くまで行って28ドルのモーテルに泊まった。まだ日暮れ前だ。場所は書いていない。たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうがラスベガスからは200kmも走っていないところで、ずいぶん控えめな移動だ。カジノ疲れと腹痛で無理するのをやめたからだ。つまりデスバレー行きは予定したわけではなかった。ガイドブックには「冬行く場所、夏は危険」のようなことが書いてあったからだ。

たしかに、モーテルのあたりですら凄まじい暑さで、乾いた風が顔に当たると「目ん玉が熱い」!眼球に神経があるなど知らず、これでひと騒ぎになった。僕は部屋のキーをどこかに落とし、H は370ドルをどこかに落とした。いかにカジノ遊びと炎熱地獄でへろへろになっていたかわかる。ところが7時ごろに「少し涼しくなったぞ、やるか」とフロントでラケットを借りてテニスを始めてしまう。サンダルは脱いで素足でやった。部屋に戻ってじゅうたんを歩くと、どうも足の裏が変だ。見て驚いた。ヤケドで水ぶくれになっていた。テニスコートの表面がちょっと熱かったが、外気があまりに熱いので気にならなかったのだ。食事の後、バーでフェニックスから来たおじさんとスクリュードライバーを酌み交わし、「星を見て」「天文の話」をして寝た。若さというのはすごいものだ。

死の谷に立つ

翌日、僕らはガイドブックがお薦めしないデスバレーなる、これまた地球ばなれした場所に勇気を出して行った。盛夏の8月13日、よりによって真っ昼間の炎天下にそこへ行くのがいかに命知らずなことか、それは何時間も走って対向車が1,2台しかなかったことが雄弁に物語っている。昨日のやけどは無理もない。デスバレーは調べると地表温度は93.89度Cを記録したことがあるそうで1年間雨が降らなかった年もある灼熱の谷だった。観測史上最高気温は56.6度Cで、この日、気温は50度Cぐらいは優にあったのではないか。というのは、車を停めて一歩踏み出した瞬間に熱気で頭がふらっときたことを最後に、そこからの記憶があいまいになるからだ。

一言でいえば、ここは金星だ。ザブリスキー・ポイントを南下する。巨大な塩水湖が干上がった、見渡す限り、地平線の彼方まで真っ白な塩の海である。恐る恐るそこに足をふみ入れると、塩はザラメ雪みたいにザクザクしていて靴が埋まる。やや水分がある。水たまりもあって、目を凝らすと、得体のしれない虫がうようよ泳いでいた。そこの地名はバッド ウォーター(飲めない水)といい、ゴールドラッシュ時代、のどをからした西部開拓者の落胆と怒りをうかがわせる名だ。この地点は西半球最低点の海抜マイナス85mであり、岩山の崖の上の方に海面の印がある。ここから米国最高点である標高4418mのホイットニー山のあるシエラネバダ山脈までたった200kmしかないという異常値の塊のような所だ。

デヴィルズ・ゴルフコースという場所もある。悪魔でなければここでゴルフはできないという意味だ。開拓者たちはどこでもゴルフ場を造るあのイギリス人だったんだろうが、悪魔だって夏はここではやりたくないだろう。とにかく、そこにどのぐらいの時間いてそれ以上何をしたか何の会話をしたか、記憶も記録もプッツンと途切れている。車に戻ってエンジンをかける瞬間だけよく覚えている。電撃のような恐怖を感じたからだ。もし初日のあの時みたいにかからなかったら・・・・、僕らは確実に死んで半日も発見されなかったろう。それほど人っ子一人いなかったのだ。老プリマスじゃなくて命拾いと何度も書くが、アメリカ西部はそういう所だ。昨日は凍死しかけたと思ったら今日はあわや激暑で昇天だ。いったいなんてところだ!

フォードLTDⅡは力強いエンジンの爆音をとどろかせた。ゴーッというクーラーの冷気にあたって、僕らはノアの方舟に乗せてもらった気分だった。

 

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米国放浪記(5)

 

 

 

 

 

 

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米国放浪記(3)

2014 AUG 28 20:20:06 pm by 東 賢太郎

2つの失敗

ロスを出たのは日記によると午後2時だ。別な現地の方にお会いして話をきき、サングラスやサンダルを買ったりしていた。ラスベガスへ向かう前に寄りたいところがあった。その約250km真東に位置するグランド・キャニオンだ。とするとロスからバーストウ、ニードルス、フラッグスタッフに通ずる40号線(ルート40)ということになる。後で思うと、大きな失敗が2つあった。ロスでモーテル宿泊作戦がつつがなくいっていたため、その日もその延長で考えていたこと。そしてアメリカ地図の縮尺で眺めると、ラスベガスとグランド・キャニオンはすぐ隣に見えたことだ。

この計画が大甘だった。スタンドで笑われてもアメリカの馬鹿でかさをわかっていない。しかも、グランド・キャニオン観光なんて箱根の大涌谷を見るぐらいに考えていた。百聞は一見にしかずを身をもって味わうこととなった。

砂漠にはいる

40号線はアリゾナ州の砂漠を東西に突っ切っている。バーストウをこえてだんだん景色がそれっぽくなってくると、なにかボートで大海に船出してしまったようで不安にもなる。砂漠なんてものは日本で生きていれば一生見ることがない代物だ。鳥取砂丘も行ったことのなかった僕にとって、360度見渡す限りサボテンしかはえてない砂の海は強烈だった。途中で降りてみようとなって外へ出ると猛烈な夏の陽ざしに肌が焦げた。コヨーテやサソリがいると脅されてはいたが、2mもありそうなサボテンに触ってみたかった。 H がそれに隠れた。 I が保安官役で狙撃する。二十歳のいい大学生が西部劇ごっこをやっても様になる風景であった。

ひたすらまっすぐの道だ。アップダウンも信号も交差点もめったにない。まっすぐなハイウエイだからハンドル操作もブレーキを踏むこともほぼ皆無だ。アクセルを同じ角度に保って走り続けるのは運転というより磔(はりつけ)の拷問みたいだ。だからオートクルーズができたんだと腑に落ちた。行けども行けども同じ景色なので走っている感覚がなくなる。最大の敵は眠気だった。だからグレイハウンドバスと競争した。抜くと向こうも突進してくる。彼も眠いのかもしれない。「一度も抜かれず、時速140km」と日記にあるがアメ車で初の遠出なのに今思うとぞっとする。途中で日が暮れた。鮮烈なサンセットだった。見渡す限り何もないオレンジ色に染まった大砂漠のまん中で、それは太陽と地球との荘厳な儀式に見えた。地球にいるのは僕らだけだった。

星を見る

やがて真っ暗になった。また車を止めてちょっと冷んやりし始めた砂の上に横たわって見上げたアリゾナの星空は、いかなる想像をも打ち砕く絶世の美しさだった。その後の人生で見たオーストラリアのポートダグラスの夜空、そしてハワイ島の標高4千mから見た夜空も息をのむ素晴らしさだったが、これにはかなわない。星空はいくらきれいでも彼方にある無縁のものだ。ここでは星たちがたわわに実ったぶどうみたいにぐいぐいと自己主張してきて、手を伸ばすと取れる気がした。流星がいくつも飛び、一点をぼーっと見つめていたら見えるか見えないかのかすかな光点が遠い星の間をゆっくりと動いて消えた。日記にはUFOと書いてある。あれはいったい何だったんだろう?

グランド・キャニオンに驚く

ウイリアムズというグランド・キャニオン(G.C.)の100km南にある小さな町までなんとか行きついてモーテルに泊まるというところまでは、相当に体力の限界ではあったが計画通りだった。着いたのは午前零時だ。ロスからG.C.までは7-800kmは走るだろう。東京から四国へ行くぐらいだから、この一日で岡山あたりまで10時間で走ったことになる。モーテルを見つけて「24ドルを23ドルにねぎる」、と日記にある。それでも元気だ。体当たり英語は少し上達していた。3人とも死んだように眠った。

なんのことはない。せっかく頑張って近くまで来たのに出発したのは午前11時だ。前日の疲れもあったが、箱根のふもと小田原まで来たんだからと甘く見ていたのもある。64号線を真北に進んでいよいよグランド・キャニオンに到達した。そこには僕らが二十年の人生で知っている地球のあらゆるイメージを根底からくつがえす奇観があった。コロラド川を眼下にのぞむ大峡谷。眼下といっても100mやそこらじゃない。真下に直角に1kmだ。ここまでいくと僕の高所恐怖症も正常にはワークせず、大パノラマを前に3人無言で立ち尽くした。絶景という言葉はあまりに無力。「これは火星だ」、言葉使いの天才である H もたしかそんな言葉しか出なかった。

最悪の想定外

64号線を真東に進むとキャメロンという街から89号線を北上する。東西に横たわるG.C.をぐるっと回って北側のノース・リムでモーテルに泊まろうという作戦だ。途中、コロラド川を超える大きな橋がある。マーブル・キャニオンだ。橋を渡りながら凄いものを見た。あの夕日が大峡谷の岩肌をオレンジに照らした荘厳な光景は一生忘れない。かなり標高は上がっている。「おい、雪があるよ」、慎重な I がちょっと不安げな声を出した。「うそだろ、真夏だぜ」、いったん笑ったH もじっと目を凝らしてから「確かにあるな」と言った。日がとっぷりと暮れた。人里離れた道を100kmほど南下すること約2時間、目的地のノース・リムにへとへとになってたどり着いた。その先は大地が裂けたような大峡谷だ。そこで初めて僕らはモーテルというものが存在しない場所があるということを知った。

これには参った。キャメロンからは人気もまばらな田舎道で、ここで道は行き止まりなのだから戻るしか手はない。しかしキャメロンまで街灯もない夜道を4、5時間もかけて戻るぐらいなら徹夜で大阪から東京まで運転しろといわれた方がまだましだった。アメリカの巨大さをこれほど思い知った瞬間はない。決死の野宿が決定した。車の中とはいえ、周りはまばらに根雪が積もっている。最低気温は氷点下だろう。これはまずい、こんなとこで凍死するわけにはいかない。エンジンをかけて寝るのは一酸化炭素中毒が危険だ。トランクからありったけの缶ビールを取出し「ガソリンを入れて寝ろ」となった。

朝5時に寒くて目が覚めた。全員生きていた。

 

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米国放浪記(4)

 

 

 

 

 

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米国放浪記(2)

2014 AUG 27 13:13:44 pm by 東 賢太郎

ついに車が現る

新しい車を持ってきたエイヴィスのおにいちゃんたちは親切で丁重だった。カウンターでキーを投げたおばはんに比べてこの2人はなんていい人なんだ、嬉しさと安堵と語彙の乏しさから僕らはサンキューを百回ぐらい言った。砂漠の遭難者だってレスキュー隊にあんなに礼はしない、きっと。帰り道で「あのバカどもなんであんなヤバいとこ行ったんだ?」と笑ってたろう。とんでもない車を押しつけられて大事なアポがパーになった、料金はいくら引いてくれるの?ぐらいは覚悟で来ている。いま思うと連中のご丁重は当然だった。

クルマはずっと新しくて輝いて見えた。3人乗ってもありあまるぐらいでっかい。こりゃあ部屋だね!H がうまいことをいう。アクセルを踏むとその部屋がスーッと油の上を滑るように進む。家のファミリア、あれはなんだったんだ?これがアメ車だ、ハリウッドの豪邸にあるみたいなやつだよな!僕はそう叫びながら、運転できるだけで胸が躍った。モーテルはすぐ見つかった。というより、ちょっと郊外に出るといくらでもネオンサインが出ている。ベッドはたいがい2つあって、くっつけて3人川の字で寝た。じゃんけんで負けた者が真ん中の谷間になる。これを H がvalley man と名付けた。オレは運転するんだからぐっすり寝たいという主張は通らず、ときどきヴァリーマンをやった。

食い物の感動

その日に何を食べたかわからないが、食事はほとんどマックかその辺のステーキハウスだ。それで5ドルもしない。マックはサラダとケチャップがタダなのに感動してたらふく食べた。ステーキはわらじの様にでっかい。4-500gぐらいで最初は食べきれない。肉というのはライスがいらないぐらい大量に食べるものなのだと知った。それを白髪のおばあちゃんがペロリと平らげているのを目撃し、僕は山本五十六と同じことを想った。こんな国と戦争しちゃあいかん。

さらに感動したのがオレンジジュースのうまさだ。カリフォルニアだから当然もぎたてのようにフレッシュである。空気が乾いていて喉が渇くので1リットル平気で飲めてしまう自分に驚く。このジュースをこの勢いで日本で飲んだらいくら取られるだろう?貧乏性なことが頭に浮かんだ。そういう浅はかなことだけで日本に住むのは人生バカらしいなと思ってしまうのが若者だ。今でもビッグマック、A1をかけたステーキ、オレンジジュースは光り輝く3種の神器に感じる。

支店長のお家に憧れる

翌日、予定通り親父の同僚の方の家におじゃました。奥様と大歓迎して下さり、いろいろご指導や注意もいただき、昨日ひどい目にあった不安がすっかり消えた。お家のさまは当時の銀行の支店長だから今とは大違いだろう。プールがあるだけで憧れた。すごいなあ、海外駐在だとこんなとこに住めるのかとまぶしかった。結局、長じて自分も海外の長として駐在の身になったが、この時の憧れが根強く残っていてああなりたいあんなところに住みたいとずっと考えていたからそうなったかもしれない。若者は願え、願わばかなう。

第2の事件おこる

ロスのダウンタウンを見物しようと愛車を人と車でごった返す裏通りの路上に停めた。あちこち見て歩いていざ出発となった。停めたあたりに戻ってみると、車がないではないか。あれ、この辺じゃなかったか?いや、もうちょっとあっちだっただろ?物珍しさに興奮していて3人とも場所など覚えていなかったのだ。お前が覚えてると思ったのに・・・いわゆるポテンヒットである。この通りじゃないんだろう、もう一本向こうの筋だ。そうかもな・・・通りの感じも似ていて歩けば歩くほどますますわからなくなる。1時間以上3人が手分けして必死に探して、へとへとになった。すべての悪いことを考えたのは道理だ。

盗まれた?違反で持っていかれた?おい、あのエイヴィスのおばちゃんになんて言うんだ?そうしたら、ついにいつも冷静沈着な秀才である I の最後の審判がおごそかに下った。「仕方ないからお巡りさんに届けようよ・・・」。それで観念した。僕らは今度はお巡りさんを探して足を棒にして歩き回ることになった。お巡りさんというのはなるべく関わりたくはないが、こちらが必要になって探しだすといないものだという真理を僕らは学び取ったことになる。なぜならお巡りさんを見つける前に愛車を見つけたからだ。それは何事もなかったかのように探し始めた場所にあった。

スタンドのおっさんに馬鹿にされる

ロスはどうせ最後に帰ってくる。まずはラスベガスに行こうぜということになった。よし、それじゃあ給油だ。たった2日のうちに車がらみで2度も冷や汗をかいているので3人とも用心深くなっている。アリゾナの砂漠の真ん中でガス欠はやめようぜとなったのだ。飛び込んだスタンドのおっさんに代金を渡しながらキャン ユー ショウ ミー ザ ウエイ トゥー ラスベガス?ときいた。エクスキューズ ミー?ときた。もう一回くり返すと ハァ?ラース ヴェーイガス? と豪快に笑って、アホかこいつという感じで道のない方向をあっちだと指さした。東京の千代田区のスタンドで北海道はどっちですかとでもきけばこういうスリルを味わうことができるだろう。

そんな道案内は不要だった。すでにマップの見方を完全攻略していた H のナビが完璧だったから。いよいよ愛車はスピードを増した。55マイル?そんなの平気だろ、65で行こう。向かうはラスベガス!なにやら怪しい響きだ。そして間に広がるはアリゾナの大砂漠である。地平線の彼方までまっすぐなハイウエイ。ハンドルなんかいらないねと I が後ろからつぶやいた。ほんとだ、それを見て荒井由美の歌が聞こえた気がした。

中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場
この道は まるで滑走路

 

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米国放浪記(3)

 

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米国放浪記(1)

 

 

 

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米国放浪記(1)

2014 AUG 26 0:00:12 am by 東 賢太郎

あれは大学3年の夏。どういう風の吹き回しか麻雀仲間で法学部のI君、経済学部のH君とアメリカへ行こうということになった。本郷の東大正門前の葵(あおい)という雀荘で、打ちながらこの話はまとまった。とにかく時間が無限にあった。世の中には知らないものが無限にあるような気がしていた。

当時、バイトは時給3千円ぐらいの家庭教師と塾講師をしたが、もらうそばから使ってしまい渡米費用はとてもない。親父に頼むしかなかった。親父はアメリカ映画が好きでクラシックやらシャンソンやらロシア民謡やらのレコードをもっていて、これからの世の中は英語だと口酸っぱく言っていた。定年後にインドネシア国立銀行、トーマス・クックにも勤めたから英語は少しはできたというのがあったろうが、どうやって親父を説得したかとんと記憶にない。とにかく快く資金を出してくれ、この滅茶苦茶で無計画な米国放浪を許してくれたから僕の今がある。この放浪はそれほどのインパクトがあった。旅は若者を成長させるのだ。

行くんならそりゃあロスだとなったのは親父の三井の同僚が現地支店長でおられたからだった。彼に指南を仰ぐんだぞということになってOKが出た。立派な知り合いがいるから大丈夫ということでIもHも安心した。その実、その方のお家にはご挨拶して後は好き勝手に好きなところへ行きまくろうという魂胆だったが。「予約なんかレンタカーだけでいい、ホテルはモーテルがいくらでもある。それを渡り歩けば大丈夫」。幼なじみで野球を教えてくれたお兄ちゃんが石油プラント会社にいて、ご指南はすでにそっちに仰いでいた。

英語など3人とも当然できない。飛行機すら人生初めてだ。羽田を離陸するとすぐ、肩ならしのつもりで白人のスチュワーデスにウォーター プリーズといった。通じない。なぜかカフィ?ときたのでアー オーケー コーヒー プリーズといったらまた通じない。けげんな顔でワゴンを押して行ってしまった。そうか、水はウォーターじゃないんだ。「ワラ」が飲めたのはずっと後だ。小倉高校のIと前橋高校のHは、東京のシティボーイは少しはしゃべれると思っていたろうが、ぜんぜんシティボーイでないのがこれでばれた。

ロス空港のタラップを降りながら深呼吸し、アメリカにも同じ空気があるんだと妙なことを感心した。エイヴィス・レンタカーの契約はワラの注文以上の大苦戦を強いられた。1時間ぐらいああだこうだしてやっと無愛想なおばさんがキーをカウンターに放り投げるようにくれた。ガレージに行ってみるとでっかくて年期のはいった赤いプリマスである。「おい、こんなボロ、エンジンかかるか?」が第一声だった。

そんな心配はご無用のようだった。おごそかに、しずしずと動き出した老プリマスは予想外にしっかりとした足取りでダウンタウンまで我々を難なく運んだ。ロスの街はでっかい。人も車も多い。運転の僕はというと右側通行だぞと自分に言いきかせてハンドルにかじりつくのがやっと。ナビ役のHはというと地図の読み方すらまだわかっていない。夕方だし、とにかく今晩泊まるモーテルなるものを探そうということになった。米国のモーテルはその名のとおりモーター・ホテルで、妙なものではない。

街の中心部にそんなものはないから少しはずれまで行ったあたりで道に迷った。というよりHのナビはとうの昔にギブアップになっていて、なんとなくあてもなく走っただけだ。裏路地に入りこんでしまってわけがわからなくなり、仕方ない、誰か歩行者に道を聞こうとなったが、そういう時に限ってさびれたところで人も歩いてないのだ。そして、僕らがそうやって困り果てるのを待ちかまえていたかのように、老プリマスがプスプスいいだした。わざわざその辺でいちばん人がいなさそうなあたりでエンストすると、永遠と思われる休眠状態にはいってしまった。

やっと見つけた公衆電話から僕がしゃべった言語を理解したエイヴィスの社員はカンがいい。質問を何度もしてくる。しかしワラを初めて覚えたんだからわかるはずがない。5回目ぐらいについに聞きとれた。ゆっくりとひと単語ずつ、「ウェア アー ユー ナウ?」 おおそうか、おいH、ここどこだったっけ。誰もわからない。HとIが近くの町工場みたいなところに必死で飛び込み、身振り手振りでここどこだっけ?をやってる。ああ、こりゃだめだ。エイヴィスの電話が切れた。黒人の工場長がやっと事態を察して電話してくれ、ここで待ってろとだけいって消えた。有難かったが、ここからまた長かった。

路上で3人ぼけっと待った。通りがかりの黒人が笑いながらおめーら何やってんだ?という感じで寄ってきた。僕らを指さしてユー、ミー、タメダーシ、OK?、タメダーシとほざく。おいあいつ、タメダシってなんだよ?知るかよ、そんな具合で無気味であった。ここでホールドアップされたら・・・もちろんアウトだ。ひょっとしてトモダチのつもりじゃないか?Iが気がついた。どうもそのようだった。よかった。初日から先が思いやられる事態になったが、愚痴は誰もなかった。なにせ帰りの航空券は1か月先だ。泣いても笑ってもそれまでアメリカにいなくちゃいけない。参ったね、そうだよここはアメリカなんだ。

工場長が何か勘違いしたかと思うほど長い時間が経過した。すでに暗かったと思う。今度はちょっとはましな車が到着した。ロールスロイスでも来たかのようにうれしかった。それがそこから我々の足になってくれたフォードだ。このエンスト騒動でずいぶん英語をしゃべらされた。水も注文できなかったくせに、もうブロークンでもいけるぞと自信がついていた。後で思うと、老プリマスがここで臨終になってくれて良かったのだ。そのままあれで出発していたら3人とも命がなかったかもとぞっとする。初日のカウンターパンチは強烈だったが、人生、何が幸いするかわからない。

放浪はこうして始まった。

 

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米国放浪記(2)

 

 

 

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