日本の女性は世界一美しい
2015 SEP 21 15:15:47 pm by 東 賢太郎
のっけから羊頭狗肉になりますが、標題を堂々と言い切る自信は実はございません。そう断じるのはいままでブログに書いた何よりもおそろしく、罪深いことのような気がいたします。なんたって60年も生きてます。西洋でも東洋でも、北でも南でも、世界中で、立ち止まるほど美しい女人はたくさん見かけたからです。
それでも着物を着ると、ということならそうかもしれないし、さらには優雅に舞うと、ということならますますそうだろうし、それが京都の地であるなら完璧にそうだ。ここまでシチュエーションが狭まってくるとというわけで、しかも先週行ったばっかりの勢いも借りて、えいやっとこの標題になったのです。
京都というのは摩訶不思議なところで、JRのそうだ 京都、行こうじゃないけども、「行く」ことだけで目的が成立してしまう、少なくとも僕にとっては世界で唯一の街です。
どこの国だの都市だの街だのに「そうだ!」という気分になったとしても、何々を見に、何々をしに、何々を食べに・・・がはいるんですね。ところが京都だけはなんにもいらない。ただぶらっと行って食ってぶらぶら歩いて帰ってくる、それでよしなんです。
歴史好きというのはあるでしょう。立ち止まって、この一角で・・・、とたたずむうちに千年の物語が渦まいてまいります。東京へ戻ると気持ちはなんとも寂寞としたもんです。江戸という土地は、日本国の歴史というタイムスパンで俯瞰するならアメリカ合衆国と五十歩百歩の歴史です。
もっといえば、北米大陸には先住民の長い歴史があるが、東京の大半は家康が左遷されて来るまではキツネやトンビぐらいはいたろうがただの野っ原か海だったわけで、僕の歴史センサーに反応するものがないのです。東京が首都であって洋風の応接間で、かたや京都は先祖伝来の骨董品の蔵であるという国のあり方は正しいんだろうかという疑問すらわいてきます。
東京が首都になるまで、我が国の時代区分は政権のある地名を冠しています。飛鳥、奈良、平安(京都)、鎌倉、室町、安土桃山、そして江戸。それが天皇が東京に移って、明治、大正、昭和、平成と元号を冠するようになった。古来の原則ではぜんぶ「東京時代」でひとくくりなんです。
それじゃあ江戸時代と区別がつかん、徳川を滅ぼした俺たちとしては気に食わん、そう考えたのは薩長が乗っ取った新政府です。古来の原則も文化もかなぐり捨て、廃仏毀釈とともに京都も捨て、あれほど尊皇攘夷を言ってた連中が西洋かぶれの鹿鳴館をシンボルに東京という洋風応接間をしつらえた。
僕はそこから日本は西洋コンプレックスの軛(くびき)に陥り、西洋にあこがれ、西洋人のように暮らしたい見られたい、名誉西洋人でいいからなりたいという倒錯したマゾヒスティックな願望の虜になったのだと考えています。織田信長にそんなものがかけらすらあったなど、とうてい思い難いのです。
司馬遼太郎の小説において大きく間違っているのは、坂の上の雲までは日本人に古来の伝統、精神や思想や文化における命脈というものが保たれていた、それが日清・日露を最後に本道を外れていったという基本観です。明治になっても保っていた人はたくさんいたが、正式に遷都もしていない東京に天皇を勝手に移してから、つまり司馬が讃える明治政府から、とっくに国としてはプライドを捨てておかしくなっているのです。
それは藩として英国と戦火をまじえ、夷狄の強さを知った薩長のプラグマティックな知恵でもあった。それが植民地化から国土を守ったことを僕は些かも否定するものではありません。ただ、洋風応接間ができて、日本国という屋敷は徐々にアイデンティティーを喪失しました。「応接は唐文様にしましょうよ」という輩が国を乗っ取ればそうなってしまいかねない、そういう時代になった。大変な危機感を覚えます。
自衛隊がふつうの軍隊であるなしの是非など、アイデンティティーも自国の歴史への誇りも愛情もある者なら自明の理であり、国家とはそういう者が自ら守らねば滅びるのも人類史の理であって、そんなことをいちいち論じなければいけない民族や国にしてしまったのは事をたどれば明治政府なのです。
戦争など誰だってもう二度と起こしたくも巻き込まれたくもない、あまりに当然のことです。アイデンティティーを正しく持つ者ほど国として守るべきものがあるのであって、戦争という無用なリスクなど頼まれてもとりたくないのです。米国との力学は時々刻々変動します。舵を取るのは外交であり、そこでもう二度と失敗は許されません。
名誉西洋人に扱ってもらえず欧米列強に背を向けた歴史。それは明治政府の敷いた路線に端を発した外交の失敗であって、ご一新、維新と偽って本来の日本国民のプライドを破棄した過ちに起因するのです。それがめぐりめぐって最後の戦争の狂気に至ってしまった。その責任問題と現状を混同してうやむやにするのは、別な動機を持つ者たちの詭弁です。
歴史を学べ?学ぼうではありませんか。他国民にそんなことを言われるまでもなく、日本古来の歴史や文化に誇りを持とうではありませんか。それはちゃんと教えない学校教育の問題であり、書かないマスコミの問題であり、明治政府が敷いた路線の根本的見直しまでひるがえって問題を掘り起こさねばなりません。
さてだいぶ話がそれました。
今回京都で1泊したのは大学のクラスメートでSMCメンバーになってもらっている梶浦秀樹を通じてご縁ができた宮川町のお茶屋さん、しげ森さんがSMCのメンバーになられるという段取りになって、いろいろ打ち合わせをしよう、ついでに南座で獅童さんの歌舞伎も見ようとなったからでした。
ということで、しげ森のおかあさん、森田繫子(もりたしげこ)さんがメンバーリストにのりましたのでご覧ください。ちなみにメガネは僕の赤いのを舞妓たちが面白がって回しかけしてたのがどういう拍子かおかあさんに回ってそのすきに撮った写真のようで、ほんとうはかけておられませんので悪しからず。
さて、僕は京都のことなぞ皆目知らないし歌舞伎も芸事もド素人だし、元来が無粋でとんと甲斐性もなしです。娘より若い芸妓さん、舞妓さんに下心?がわいたわけでもありません。同行してくれた写真家の友人Sいわく「東さんのそれはね、日本食回帰と一緒で海外に16年も住んでた反動ですよ、ぜったいに」。とにかく日本の伝統文化に何となく関心が出てきていて、自然に京に足が向いているのです。
きっかけは梶浦という40年来の友(というかもう幼なじみかな)のヒキで2度も桜満開の京のスペシャルコースを散策できたからで、あれがなかったらこれもなかったでしょう。持つべきものは友です。今回も翌日は某お寺さんと別件の仕事でプレゼンしたりでしたが、2日間、宇治のお抹茶のように濃い時間を過ごしました。Sに予約してもらったビジネスホテルが行ってみたら偶然にもあの元本能寺の目の前であったり。信長が、たわけもの!つづきを早く書けということかと得心もしてまいりました。
しげ森の麗人たちの写真は、これから我が同胞のプロフェッショナルたちの手でSMCにて様々な形でご紹介していくことになります。彼女たちは南座の前をしゃなりしゃなり歩くだけで人だかりがしてシャッターをパシャパシャ切られるのですが、ただ見られてキレイという存在ではありません。その芸事こそが真骨頂なのです。実際に歌舞練場やお座敷でご覧になってみないとわからないかもしれませんがまさしくアートであり、アートという点こそが僕の関心との接点であります。
洋物であるクラシック音楽に半世紀没入してきて、明治政府の撒いた西洋かぶれの種そのままの人生を歩んできた僕ですが、別に何ら肩ひじ張るわけでもなくその感覚のまんまでこれにすっと接してみて、いとも不思議な親和性を感じておるところです。
彼女たちの芸事の背景に横たわる女性の美をひきたたせる技法というのは、その成立の歴史的経緯は置くとして、ミケランジェロが造形としてきわめつくした男性美、たとえばフィレンツェのアカデミア美術館のダビデ像と僕の中でなんら変わるものではありません。こちらが女性だからという邪推、邪念は一切排除してというのは、僕にとってはモーツァルトもビートルズも同一平面上で理解するのと同じことです。美しいものに貴賤などないのです。
それは獅童さんや松也さんの歌舞伎が伝統的な男世界ならば、花街は同じく女世界ということであって、どちらがどうということもなくどちらもあっていい、単にアクターとアクトレスであって、おのおの混ざることなく別個の宇宙を創るというのが伝統であるということでしょう。
お座敷で思わず口をついたことですが、日本の女性は世界一であり、このお嬢さん方に限らずですがどこの国のミス何たらよりもずっと美しいと思ったのです。決して日本人の僻目ではなく。もちろんカルメンやイゾルデもきっと魅力ある女なんでしょうが、日本の女性はこれからもっと世界の男を迷わせるでしょう(笑)。
昭和のころと様変わりの西洋の和製アニメ受容、クールジャパン。ますますそういう時代になると確信します。その美を抽象化して表現できるのが舞であり和服であって、歌舞伎の女形は女性の所作をさらに純化するので「女が見ても美しい」、ときに「女より美しい」ということになるようです。
海外ではまだゲイシャなることばと共に大きく勘違いされている。いえ、日本人だってそう思ってる人は多いのではないでしょうか。これは寿司はアボガドを巻くものだに等しい屈辱的な誤解であって正さねばなりません。そういうものを修正するというプロセスこそ、日本古来の歴史や文化に誇りを持つということだと僕は固く信じております。
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京都の南座で中村獅童・尾上松也を観る(改訂済)
2015 SEP 19 3:03:33 am by 東 賢太郎

いま京都南座で新作歌舞伎「あらしのよるに」を観てきました。思ったよりずっと楽しかった。
中村獅童、尾上松也、中村梅枝、中村萬太郎。
童話が歌舞伎になってしまう。圧倒されました。終演後にしげ森さんのおかげで楽屋に入れていただきました。獅童さん、松也さん、梅枝さん、熱演でお疲れのところでしたがお会いして話せて勉強になりました。
歌舞伎は決して古いもんじゃない、今を生きているものと思います。「あらしのよるに」もいずれ古典になっていくのでしょう。
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織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー
2015 AUG 20 23:23:57 pm by 東 賢太郎
AがBを殺そうと周到に準備した殺人計画があった。計画のシナリオが進行中にAの共犯者Cが裏切ってAを殺してしまった。殺す予定だったBは事前にCから計画を聞いて共謀しており、Aはそれを知らなかった。B,Cは殺人計画も共謀の事実も闇に葬ったため、「周到な準備」が殺人現場に不可解な謎として残ったのである。
この筋書きでエラリー・クイーンなら一級品のミステリーを書いてくれそうな気がする。
今回の出張で本能寺に行ってみようと思ったのはそれに関係があることは後述する。中学の修学旅行で泊まった聖護院御殿荘という旅館名だけ何故か覚えているが、部屋で相撲をとったことと本能寺を見たことしか記憶がない。しかしその本能寺は秀吉の命で移築されたもので、あの事件の起きた場所ではないことを後で知った。僕の史跡好きは土地、地面に根差している。それが本能寺で在る無いではなく、その事件が起きた場所でないと欲求を満たすものではない。
それは何のことはない、こんな場所だった。
路標には「此附近 本能寺跡」と書いてある。「本能寺跡」ではなくて、「このへんが本能寺の跡」である。「信長はこの辺にいた」まで明らかにしたい僕としては大変に生ぬるいが仕方ない。
この道(蛸薬師通)を右に油小路通まで行くとこれがある。これが「本能寺跡」だそうだが、「このへん」と「ここ」が両立している先の路標との整合性がまったくわからない。わからんならわからんとしてくれた方が正確な情報というものだ。
織田家の嫡男で信長の後継者と目された織田信忠は、走れば5,6分の距離である妙覚寺にいた。信長と同様に、これまた無防備であり、父子ともにこの襲撃を想像だにしていなかったように見える。地図の左下黒丸が本能寺、右上が妙覚寺であり、光秀軍はこの間を疾風怒濤の如く走ったのだ。
もちろん僕はこの2点間を明智軍の気持ちになって歩いた。信忠が逃げ込んで切腹した場所は二条新御所で、この京都国際マンガミュージアムの裏手あたりだ。
なぜ天下人目前の権力者信長はまったく無防備の少数の手勢でここにおり、いとも簡単に光秀の手にかかってしまったのか?修学旅行でそう話を聞いて、その場で変だなと思って、今は亡き親友の丸山に「おい、本能寺って、変だよな」とまじめに言ったら、冗談と思った奴が「バーカ」と返した。それ以来、長年にわたって僕の中でくすぶる謎であったのだ。
その謎を快刀乱麻で解いてくれた本こそ、光秀の末裔、明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)である。信長はこの日、本能寺の茶会に堺にいる家康を招き、光秀に命じて家康を討たせる手配をしていた。家康に不信感をいだかせぬための意図した無防備だったのだ。
もういちど冒頭の太字に戻る。A=信長、B=家康、C=光秀であるというのがこの本の示す「解」だ。そうした試みは過去にいくらもあるが、この説がパワフルなのは、殺人現場に残っていた不可解な謎はもちろん、本能寺の変に関して我々が謎と思っていたこと、軽すぎる光秀の動機、速すぎる秀吉の中国大返し、話がうますぎる家康の伊賀越えなどが腑に落ちるように見事に説明できてしまうことだ。
明智氏(以下、光秀ではなく憲三郎氏)の方法論は僕がこのブログで説明した帰納法(厳密にはアブダクション)、つまり「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。
明智氏はご先祖光秀にきせられた「利己的動機による信長殺害の単独犯」という汚名を科学的な方法でそそぐことにほぼ成功されているように思う。氏が「三面記事史観」として否定しようと試みておられるものは、僕のブログの「トンデモ演繹法」のことであり、この方が論理学的には正確だ(三面記事が間違っているとは限らないので)。
ブログでは、
僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。
と書いた。氏の試みを「ほぼ成功」と書かせていただいたのは、物証か演繹がないと成功とは言えないからだ。論理的に、誰が何と言おうと、そうなのだ。しかし、秀吉、家康によって完全犯罪に仕立てられてしまったため物証は永遠に失われたものの、氏は文献を丹念にあたられて演繹に近い解釈を(まだ解釈ではあるが)提示している。僕はその文献の正誤や新解釈の適合性を判定できないので「ほぼ」がはずれることはないが、それでも、心象としてはかなりゼロに近い。
それは氏の①事実(fact)に対する謙虚な姿勢と、②それを証明するフレームワークとなる上記の論法の適切さによる。つまり、テーマに向き合うスタンスが「理系的」なのである。僕は歴史本が好きでたくさん読んでいるが、①②が弱いため科学的でなく、数学で頭を鍛えた人の論証ではなく、馬鹿らしくなって途中で捨ててしまうものが多い。要は文系的なのである。そんな程度の物証や論考でよくそこまで言ってしまいますねという体のものが多く、学術的なものでも小説や講談とかわらんという印象を持つことが多い。歴史が文系だなどとアホなことを誰が決めたのだろう。
明智氏のこの本にはそれがなく、そういう低次元のものは排すべきという氏のインテリジェンスが基本スタンスとして全書を貫いており、説得力を獲得している。僕は歴史ファン、信長好きとして楽しんだが、上質のミステリーでもあった。名探偵が「真犯人はあなたです」と真相の解明があって、なるほど!と膝を打った時のような快感を覚えたという意味で。学生さんには歴史本としてはもちろん、物事を論証し、説得力を獲得するための広く応用可能な教科書としてこれを一読されることを強くお薦めしたい。
本能寺の変ばかりか、氏の仮説は秀吉の治世以後の日本史にも強力な説明力を有するのであり、物証が葬られ、あるいは意図的に捏造までされた中で、客観的な視点からの説明力の優劣を問うならば、これは他のいかなる仮説をも凌駕するものであると思料する。仮説(しかもはるかに説明力に劣る)を真相として書いてしまっている日本史の教科書は改められるべきではないか。少なくとも僕は今後、氏の史観を座標軸として、本能寺以後の日本史観を根底から覆そうと思う。真実とは「それらしく見える」ではなく、「そうでなくては説明できない」所に存在する。それが唯一無二の科学的態度であるからである。
余談だが、当書の読後感としてジョセフィン・テイの推理小説である「時の娘」(The Daughter of Time)を思いだした。古典的名品であり、リチャード3世による幼い2人の甥殺し(ロンドン塔に幽閉したとされる)の冤罪を現代人である警部が入院しながら解いていく。前掲書とあわせてお薦めしたい。ちなみに、このタイトルはTruth is the daughter of time.(真実は時が明らかにする)からきている。本能寺の変には、いよいよその時が来たのだと目からうろこの思いである。
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安土城跡の強力な気にあたる
2015 AUG 17 1:01:00 am by 東 賢太郎
京都と近江を一人であちこち歩きました。観光ではないので一人がいいのです。というのは何かを見たい知りたいというよりも、そこに身を置いて「諸々を五感で感知する」のが目的だからです。いままで知識だけだった土地に実際に立って空気を吸って、初めてそこに関する歴史、風土、文化を頭に入れ、あれこれと思考する準備ができます。過去、ずっとそうやってものごとを理解してきた自分なりの方法論です。
特に無理なスケジュールではなかったのですが、どういうわけか心身ともに疲れ果てております。新しいものが頭にぎゅっと入っていて、その分量があまりに膨大なので消化できておりません。オーバーロードで頭の働きも鈍い。ブログを書こうにもどこからどう始めたらいいか、いちいち書いたら何十稿にもなりそうだし、そもそもその元気がありません。
わけわからないことで申し訳ないのですが、安土城跡には本当に疲れました。屋久島の山道みたいな石段を500段も登るのですが、足が疲れたからではありません、なにやらとても重いものをしょってしまった。
延々と登らされるてっぺんの天守閣跡まで重臣の屋敷が左右に配されるので、シンプルな構造ですが攻め落とすのは困難だったでしょう。猛暑でしたから汗だくでしたが、やっと着きました。
天守跡に立って琵琶湖をのぞんだ時にはっと思いました。秀吉が朝鮮攻めのために九州の松浦北端に築いた名護屋城から玄界灘をのぞんだ景色にそっくりなのです(写真・下)。
信長は安土城の天守から湖の彼方に京を見ていた、秀吉は海の彼方に朝鮮半島を見ていた。秀吉の脳裏には安土城天守からの眺望が焼きついていたに違いなく、琵琶湖の向こう側に信長が何を見ていたかも知っていた。ああ彼は信長に憧れ、信長を凌駕したかったんだなあ、天守跡に立って風に吹かれながらそんなことを空想するわけです。
教科書に書いてないし確証もないのですがそう直感します。こういう想いを歴史のロマンとでも言うのでしょうが、僕はロマンというよりも、彼らと同じものを見て彼らの目でものを考えてみたいという実証的な関心だけです。
天守跡に1時間近く居座って「信長の目線」を体感しようとしていたら、どういうわけかがっくりと疲れてしまった。比較的に健脚なのでそんな経験はいっさいないのですが、真剣に下りの帰り道は大丈夫かなと心配になりました。やおら帰路を下りはじめるとしばらくしてポツポツと来はじめ、やがて、いったい何事かというほどの土砂降りになりました。散々な思いでやっと入り口にたどり着き、まいったなどうしようと雨宿りすると、すっと雲が割れてきて晴れ間がのぞき、以後は一滴も降りませんでした。
信長という武将はとても気になる存在でしたが身近ではありませんでした。この日はなにか強力な気に当たり洗礼を受けたようで、ますます彼を知ってみようと思った次第です。帰路に立ち寄ったイエズス会のセミナリオはキリスト教を保護した信長が西洋音楽を聴いた場所として有名です。
彼が天下を取っていたら鎖国はなかったろうし、日本はまったくちがった国家となっていたでしょう。
この前日に京都では、彼の終焉の地である本能寺跡に行きました。ここが日本国の命運を変えた場所です。いまは高校や老人ホームが建っています。明智軍はここから北へ上がり、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ちとった。そこは京都国際マンガミュージアムになっています。平和っていいもんだなと思いました。
(こちらへどうぞ)
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京都花街はグローバル化すべし
2015 AUG 14 0:00:10 am by 東 賢太郎
博多から新幹線で京都へ入りました。クラスメートでありSMCメンバーでもある梶浦とビジネスの話でした。
夜は梶浦おすすめの洋食屋さん、仕上げはお茶屋さんのしげ森さんのバーでくつろがせてもらいました。
先日の歌舞伎とまったく同じことを思うのですが、花街は京都の雅びな文化であります。難しいことをいう気はありません。だから女性のお客さんも大勢来ています。
それでも今のままだと衰退しかねない。舞妓さんのなり手がなくなれば必然的に滅びるし、旧態然のお客さんと業界の関係はもう古いでしょう。
芸妓さん、舞妓さんの芸はアートと思いますがそれは外国人のほうが評価しているようで、しげ森さんは海外から呼ばれていて近々ロサンゼルスに行くそうです。まさに親善大使という言葉がふさわしい。
なにも客は京都の旦那だけではなく、日本人だけでもなく、世界でいいのです。その価値があります。そうなれば業界が変わるし、舞妓はAKBみたいであり文化財でもある世界でユニークな存在になるでしょう。
しげ森のおかあさん、森田さんの話を聞いて感じたことなのですがおおいに賛同いたします。日本文化を世界に発信する気持ちでSMCでは森田さんをご紹介して参ろうと思います。
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美食と体重の関係について
2015 JUL 25 23:23:16 pm by 東 賢太郎
ミクロネシアの出張中は一日一食主義は忘れ、食事は皆さんとご一緒に三食楽しくいただきました。
グアムのヒルトンのシーフード・レストランです。
巨大なエビのしっぽかと思ったら、シャコでした。
ミクロネシア(チューク島)ではやっぱりこれですね。渇いたのどに最高です。
おまけに帰国してすぐ、金曜は中村兄とSMCメンバー店の「まめ多」さんで舌鼓を打ったのです。いつもおまかせ。女将さんの心のこもった料理にほっとなごみます。和食の美味に美酒。疲れを癒していただきました。
中村とは博多ツアーの打ち合わせでしたが当方の仕事の話もすこし。たまたまですが非常に面白い案件があり、そんなに難しい話でもなくてメンバーで共有できれば皆さんのメリットもあろうかということです。
さて、そうこうして今朝ですが体重計に乗ったところ、出張まえ73kgだった体重が75kgになってました。恐れていたことです。
そこで今日は二子玉川まで往復10km走りましたが、午後でしたがまだまだ陽射しは強く最高気温は33度の猛暑だったようです。多摩川べりは走る人影もなく、グラウンドもあいているしいつもの猫までが疎開してかおらず。
これをなんということもなく走れてしまう自分には結構おどろきました。走りながらやばかったら即やめようと思って気をつけてた循環器も呼吸器も足腰もぜんぜん問題なく、むしろ汗かいて爽快感すらあり、やや遅めペースですが完走しました。天と両親に感謝。
日射病とか熱射病には縁はなしです。野球部の人間からすればこんなの屁の河童なんですが、なんせ還暦の身ですからね、ちょっと自信つきました。頭は疲れてますがまだまだ体はぜんぜん若い、いけるぞと。
滝のような汗をかき、風呂を浴びて、さて体重計に再度乗ります。71.5kg。
水分と塩分が出てこれ。夕食は普通にとって、のどがすごく渇いて水をたくさん飲んでまた74kgになってしまいました。実質1kg減です。ボラティリティ―が高い。こりゃまだ本物じゃないですね。しかし、だんだん塩分がポイントだということが分かってきました。塩を減らして何十キロか走破すれば、夢の60kg代が見えてきそうです。
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赤いと思われる借景を二枚
2015 JUL 23 16:16:23 pm by 東 賢太郎
西室の朝やけ、夕やけの写真がたいへん面白いですね。それをみていていて、色覚がちがう僕のきれいと普通の人のきれいは違うんだろうなということが、もちろん今までもずっと思って生きてきているのですが、ますますそう思うのです。
この写真は今回撮ってきたミクロネシアの夕陽なんですが、撮った時点ではあることに感動があってシャッターをおしました。それが失敗で、さっきいらねえなって消そうとしていたものです。「あること」は最後に書きます。
これはまちがってシャッターおしちゃったかなと思って捨てかけてました。
この2枚が登場することになったのは赤いかもしれないと思ったから。西室が赤い、胸騒ぎがすると書いたのが僕にはそうでもなくてますます自信がなくなってしまった、それは僕の方が西室よりもより一般からとおい、要は色弱度が重いということなんだろう、そんなおれが判断しちゃ写真がうかばれないと思ったのです。
こちらをご覧ください。これがミクロネシアの朝6時すぎです。上の2枚と同じ西の海を見ています。
これはなんかモヤっていて、やっぱり捨てようとしていた。空のブルーですね、これに反応して撮ったにちがいない。いま見ていると日本の6倍ある紫外線がじりじりきて首すじが痛くなってきそうだなあという感覚がおそってきます。
「(芥川龍之介が)思わず筆をとって文章を書きつけるまでに彼の感性が発酵していなかったため、意識に残らなかったのではないか」
西室の文章ですが、なるほど、感性が発酵するという表現がいい。色を見て感性が発酵して文学になる。そういうことかもしれない。
ぜんぜん発酵せずに写真を捨てかけていた僕のきれいと普通の人のきれい。文学的才能の欠如はさておき、やっぱり両者は違うのだろうとますます思います。色のないものはないですからね、そこが違っている僕のきれいは、視覚に関するかぎり万事で違っていて不思議なしです。
酔って人の顔が赤いとか青いとかきくと豆まきの赤鬼・青鬼を連想。桜吹雪は白い。お絵かきで木は幹も緑に塗ってました。三毛猫は描けない。地下鉄の路線図はごちゃごちゃ。女性の化粧は白っぽくなるだけで究極は舞子。真っ赤はよくわかるのでマリリン・モンローは歩くクチビル。
ということで、最初の写真の「あること」に戻ります。これを撮った唯一の理由は「太陽が丸く見えたから」です。映るかなと思ったら映ってなかった、だから捨てようと。
丸いもの、球体に弱いのです。色より形が大事なんです。それはもの心ついた時からで、東大教養学部時代に哲学の井上忠先生が「パルメニデスの有」なるものを授業でやって、それが何かはついに最初から最後までわからなかったのですが、「完全なものは球体をしている」というフレーズだけは天啓のようにスッとわかったのです。
丸いものというと子供のころ山手線、中央線、総武線の屋根の上に並んでた通気口のまあるいの、なぜかあれがよく飲まされてたエビオスの色と質感に見えて気になって仕方なく、国電を見下ろすポジションに電車が来ると毎度そわそわして窓に張りついて、どうしても触ってみたい、できれば盗んででもひとつ欲しいという小学生でした。
地球が球体である。僕は飛行機で窓から毎回欠かさずにそれを視認します。高所恐怖症なので必ずアイル席ですが、窓側席の人の怪訝な視線を顧みずします。月や金星や木星もそう見える。しかし太陽は影がないからそう見えないのです。だから僕には太陽が球体というのは仮説に過ぎない。本当にそうなんだろうか、そうならぞくぞくします。触ってみたい、それは電車のまあるいのを見たときと同じ欲求です。
太陽というのは宇宙で唯ひとつ、肉眼で視直径が確認できる恒星であります。それだけで観音様みたいにありがたく、ひれふして拝むに値する。日没で太陽の輪郭の丸さが肉眼で見えると、その触った質感を想像してしばし恍惚とする。そういう小学生であり、パルメニデスの「完全なものは球体をしている」は、当たり前だろそんなのというふてぶてしい納得感、既視感で満たされたのです。
それをミクロネシアの日没で見つけた。それが最初の写真であり、ところがぜんぜんそう映ってなかった。そういうお粗末な顛末でありました。
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大和、武蔵、五十六、慰安婦、そして戦争という愚
2015 JUL 21 18:18:57 pm by 東 賢太郎
「夏島」(トノワス島またはデュブロン島)は戦時中つけられた和名であり、前回は時間がなく上陸できませんでした。このブログに書いた春島の「ザビエル高等学校の高台から眺めた」写真の島です。
この島こそが、このブログで「お気の弱い方はご覧にならないことをおすすめします」と書いたビデオにある、米軍による真珠湾攻撃の報復とされる大空襲の標的となった夏島です。
1944年2月17、18日、戦死傷者は1万5千人、環礁内に沈められた日本軍船舶は100隻近く、撃墜された航空機(2百数十機)に至ってはその実数は不明のままです。連合艦隊は敵の無線を傍受してパラオに移動しており被害にあったのは基地と輸送船でした。
戦艦大和と武蔵が並んだ写真はこれ1枚しかないそうです(右が武蔵とみられる。「戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦〈2〉、朝雲新聞社)。1943年5月とあるので山本五十六長官の戦死直後の姿と思われます。
これはそのあたりと思われる船上から後方の春島を撮ったもの。島の形はそのままです。
船の前方に見えるのが武蔵を係留していたブイです(後方は春島、ここまで流された)。
写真下は夏島の水上艇飛行場です。ここから第27代連合艦隊司令長官・山本五十六(右)はラバウルに向けてトラックからの最後の離陸をし、ゼロ戦滑走路だった写真対岸の竹島からゼロ戦数機が護衛についた。そしてラバウルから前線視察のため向かった1943年4月18日にブーゲンビル島上空で撃墜され戦死しました。山本五十六の視察飛行は戦艦武蔵からの無防備な暗号電文が米軍に傍受され狙い撃ちにあった。海軍派遣でハーバード大学に留学しナショナルジオグラフィックまで定期購読していた山本五十六ですが、配下の軍はそのレベルになかった。敵将である太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは山本を殺せばもっと優れた司令長官が現れるのではないかと暗殺命令を下すことを逡巡したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」との回答を得て命令書を作成したそうです。敵ながらあっぱれの諜報力であり、傍受にとどまらずそこまでつかんでこそインテリジェンスを成すのです。そしてそれほどの将が戦死すれば日本の士気、モチベーションが大きく低下することを見越した狙い撃ちだった。これまで僕はブログでインテリジェンスとモチベーションの重要さを何度も指摘してきましたが、それをご理解いただけると思う。あの戦争は物量で負けたことになっているが僕はそうは思わない。智恵がなかったから負けたのです。「東さん、知ってるかい、今の子はやまもとごじゅうろくって読むんだよ」、そういう危機感から東映に役所 広司主演の映画制作を働きかけた僕のお客さんが言ってました。名前を覚えるのも大事だが彼の戦死から敵軍の意思決定の要諦を学ぶことが弔いになるのではないかと思うのです。
山本五十六ら司令長官公邸があり帝国海軍司令本部を置く要塞と化していた夏島には2万人の日本人が住み、港の周辺に商店街、学校、病院、百貨店、映画館、野球場、芝居小屋、料亭、遊郭までありました。遊郭は女性が900人おり軍の職位で格式が決まっていたそうです。料亭、商店等と同様に経営側からはビジネスでもあり客側からは慰安婦と言わば言えぬこともない。
下の写真は商店街跡です。この道の両側に商店がびっしりと立ち並び、雨が降っても店先の軒を伝って濡れることがなかったそうです。今はただ灼熱のジャングルをぬう一本道であり、往時をしのぶものはかけらもありません。2万人の居留がうたかたの夢の如し、秀吉が朝鮮出兵の根城とした佐賀・松浦半島の名護屋城跡の光景を思い出しました。
狩り出され何か月も故国、家族と隔絶された幾万の男たちが明日死ぬかもしれないという環境におかれて管理される事態というのは南洋のジャングルのど真ん中に百貨店が出現するほど異常なことです。そういう状況において慰安がいいことだ悪いことだと言ってみても仕方なく、女性がかわいそうでもあるが意に反して徴兵され戦火で殺されていった男たちもかわいそうなのです。男女平等に全員が戦争遂行責任者である国に補償、賠償を求めたらいいのだろうが、戦争という行為においてそんな議論が出た国は聞いたことがありません。人間はそんなによくできた理性的な動物でもないしそうだからこそ戦争をした。まずどうしたら戦争が起きなくなるか、智恵を磨いて考えるべきではないでしょうか。
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オローラ島での瞑想
2015 JUL 21 0:00:33 am by 東 賢太郎
今回はもうひとつ、一昨年にミクロネシアに設立した会社の定例の株主総会、取締役会も行いました。間に入っているMRA(Micronesia Registration Advisors, Inc.)は米国人経営の政府エージェントであり、ミクロネシアへの補助金援助を打ち切る予定になっている米国が後ろ盾になって海外企業家を誘致し、財政的な独立を援助するスキームとなっています。
そのパワー・バランスの変化に目をつけているのが中国であり、4島の一つヤップ島では大規模なゴルフ場付リゾートホテル開発を進めようとして住民と対立しています。ミサイル戦の時代に入り、グアム以南の太平洋諸島は米国にとって戦略的重要度を失って米軍は退却の方向であるため中国が進出を虎視眈々と狙っていると思われます。太平洋の反対側でニカラグアに運河まで作ろうかという国です。沖縄、尖閣、台湾、フィリピンを超えた外洋に彼らの戦略的視点は移っています。
L社社長とはそういう観点からの問題意識の共有をさせていただいており、お金儲けや節税ということではなく日本のゆかりの地に日本人の手で何ができるかということを常に考えております。電力をはじめとするインフラ整備はその可能性の一つであり、インフラなくして産業はなく、産業なくして雇用も税収もないわけです。満足な教育もなくそれを推進する人材も育ちません。
そのような眼でこの国を観察しますと、国家の基盤やその発展というものが何を必要条件として進むのかが肌で分かります。明治時代の日本国も規模こそ違え同様のプロセスを経て近代国家を形成したのですが現代の日本国のぬるま湯につかってそれを体感するのは困難です。ミクロネシアに3度来てそれを知ったことは僕にとっては事業を超えたモチベーションになりつつあります。
問題は現在のミクロネシアの年配の人々に豊かになろうという意欲が希薄なことで、こればかりは社会システム、教育、労働に対する価値観などに起因した難しい底流です。自給自足で満足な生活を無理に変えることが善ではありません。だからそれをアメリカンなもの、物質文明、消費社会という方向ではなく、日本的なやわらかな共存共栄社会、金銭を仲介しない助け合う社会という方向でより生活の満足度を上げられるというのがいいのではないかと考えます。
そういう考えがふと出てきたのは、今回連れて行ったいただいたオローラ島でしばし休憩しているときのことでした。オローラ島は帝国海軍司令本部があり連合艦隊停泊地であった夏島の東方沖に位置するサンゴ礁の小島であります。
我々が今回宿泊したブルー・ラグーンから小舟で30、40分でこんな色の海になります。
これがオローラ島です。
ごく少人数の宿泊もできますし無人島ではないですが、一周歩いても5分もかからない小島です。電気もガスもWiFiもなし。南洋の孤島というのはいっさいの日常的思考を断ち切る力があります。
ミクロネシアは自然環境からいえばゴルフ場とビーチこそないが一級のリゾートになり得るでしょう。ただ我々日本人には他の国の人とは違った思いがある。なにせ目の前の海には何十隻という日本の艦船やゼロ戦が沈んでいるのです。
南国の潮風で緊張は弛緩するのですが、こんな気候風土の地に巨大な基地を建造した海軍の知恵と努力というものは戦争の是非とはべつなところで日本人の有能さと勤勉さについて強く語りかけるものでした。昭和16年に無謀な戦争に思慮なく突入した責任は問われるべきものですが、思慮なく戦争反対を唱えれば何も起きない平和な国が保てるというものでもないというのはこの地に来て戦争の歴史をみればわかる。
戦争はくり返したくないと叫ぶのは同感なのですが、何も学ばずにそれをくり返すのも甚だいけない。おばあちゃんがこういったと涙を流す女性原理で大国間の国際政治という非情なインテリジェンスの戦いは動かない。怜悧で貪欲な連中のパワー・バランスの中で、軍隊もなしに大国でいられる国が百年後に果たしてあるのだろうかと真剣に思います。カルタゴの運命をたどらないためにも、日本国には徹底した非情なインテリジェンスとそれを形成する情報が必須です。ただのハンタイは無智なのです、無智は国際政治に何の影響力もなく、無力です。
戦争を本当にしたくないなら、誰であれ智恵の形成に向けてパブリックにものを言い、歴史観とコモンセンスをもって参画し、自民党はそれに聞く耳を持つべきであろう。
そういうことを考えるに、この島はとてもいい場なのではないか、そう思いました。
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ミクロネシア電力案件
2015 JUL 20 21:21:03 pm by 東 賢太郎
先週よりミクロネシアに出張中のため、ブログは中断いたしました。
同国訪問はこれで3回目です。同国にて可能性のある事業はいくつかありますが、そのひとつとして発電があります。日本の電気料金は個人向けで23-30円/KWH(京電力)ですがミクロネシアはディーゼル主体(一部は太陽光)で50-60円ほどです。停電が多いという事情もあります。
今回はチューク州、ポンペイ州の電気事業部門幹部および民間事業者にホテルにご参集いただき、小型水力発電のシステムなどいくつかの提案を含めたプレゼンテーションを行ったものです。結果は相応のご関心をいただく形となり、今後の進展が期待されます。
本件は単なる営利目的だけの案件とは一線を画し、現地国民の生活と福祉の向上に連なるという使命感をもって行っており、技術供与する会社様はもとより顧問を務めさせていただいているL社様との共同プロジェクトとして関わらせていただいているものです。
事業プランとしては当然ながら採算性の精査が必要ですが、水力(マイクロ・ハイドロ・プラント)ですと設営初期費用が24時間稼働で約2年で回収可能であるなど現実的であります。商社等を経由することなく政府と直接に折衝したわけですが、むしろ当方の趣旨がストレートに伝わったと思われます。
このような事業を前提にL社様および弊社ソナー・アドバイザーズ株式会社が一定額の資本金をもってミクロネシア連邦にリスクをとって起業しているわけであり、そのコミットメントが先方政府関係者との間の信用を築いているということが確認できた会議ともなりました。
今回もグアム経由で去年と同様にチューク島に一泊しました。昨年と様子は変わっておらず、例のがたがた道がほんの一部舗装された程度でありました。前回行かなかった帝国海軍司令本部のあった「夏島」に行くことができましたが、終戦から70年ということもあり感ずるところがありました。
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