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カテゴリー: (=‘x‘=) ねこ。

新しい猫「フク」のデビュー

2021 SEP 12 1:01:39 am by 東 賢太郎

新顔のフク

こいつが来てから1年になった。1年だからまあ新しくはないが、成猫がそう一朝一夕になじむものでもない。僕は生前に猫だったことがあると思っていて、猫も五感でそれを感知するみたいだから初めは警戒もされる。餌をやればなつくとは思うが、そういう浅はかな付き合いを猫としたいとは思わないからやらない。昔の猫も僕とは遊び仲間であり、一度その絆ができれば強いものになるのである。

名前はフクという。福の神のフクだ。思いおこせば小学校のころに我が家に初めての猫が来てから、数えてみたらもう9番目である。フクは2番目のオスであり、4番目の黒猫ということになる。どうしてメスばっかりでクロばっかりだったのかは皆目見当がつかない。なにせ、ぜんぶ野良だったが、僕が拾ってきたわけではなく、みんな母や妹や娘がどこかでみつけてきたからである。全員が大事な家族だったし、たくさんの思い出をくれた。あの猫この猫と、思い出はいちいち細かく覚えている。遊んでもらい、気晴らししてもらい、受験勉強は猫ぬきで絶対に合格できなかったという確信に揺るぎないものがある。

フクがきて初めのうちは僕にだけやたらとシャーシャーするので、ある時に一発ぶちかましてしまった。こいつは危険だと刷り込まれたんだろう、寄って来なくなった。他の猫ともだめなので、当てがったのは居間である。まずいことに、そこで僕は毎晩めしを食い、野球をみて、夜はミステリーのビデオというのが日課だから、いやがおうにもフクとは一対一になって顔があうのである。娘だと足にまとわりついてニャーニャーと満身の力をこめて長鳴きするくせに、僕だとコソ泥みたいにささっと物陰に逃げこむ。おまえ、男のくせになさけないなと、ますます評価が下がっていたものだ。

そうこうするうち、ある事に気がついた。居間のドアを開けて入る。すると、フクは必ずこっちにちらっと視線を送るのだが、イメージ、百分の一秒ぐらいだけ目を見る。いや、見るのでなく、視線が “かする” ぐらいの電光石火の早業で目が合って、どうも、それでこっちの機嫌の具合がわかってしまうようなのだ。猫界では目を見るのはケンカを売ってることになる。その気はないよということである。本当にそうかどうかは聞いてみたいものだが、こっちが機嫌のいい時はリラックスしている風に見え、最近は寄ってくるようになった。「おまえは凄い、読心術だ」。敬意を覚えた僕は、たぶん当たりが優しめになったんだろう、だんだんいい関係になった。それで晴れてここに登場とあいなったわけだ。

年齢は不詳だがまだ若い。少なくとも2,3年は野良猫人生を歩んできたろう。危険いっぱいの野っ原で食うか食われるか命懸けの苦労をして五感が研ぎ澄まされてる。最近は仲良くなったのをいいことに至近距離を目も会わさずに悠々と通っていく。しかし僕との距離は、まるで定規で測ったように見事に、手を伸ばしても届かないぎりぎりの所をだ。先住のノイ、クロ、シロは命懸けの苦労がないからか雰囲気がちょっとちがう。オスというのもあるが、リモート生活で外気にあんまりふれない身としては野生の本能を持ちこんでくれたことが五感を刺激してありがたい。

フクの性格は顔に似合わず温厚である。だいたい黒猫はみんなそうだ、とてもやさしいので猫を飼いたい方にはおすすめだ。中世にはヨーロッパにいて、魔女狩りのとばっちりで受難の歴史があるからだと僕は思っている。人間に可愛がられる技を身に着けて生き残った先祖からの遺伝だろう。でも、いくら殺されても黒猫はいなくならなかった。たぶん闇夜の狩りには黒くて目立たない方が有利だからで、何億年ものスパンではそっちが種の保存の重大事であり、魔女狩りなんてのは一時のアクシデントでしかなかったろう。

僕は血統書付きの希少種みたいなお高くとまったのは、猫に限らずまったく興味がない。むしろ嫌いである。だんぜん野良がいい。ペットショップもいかんが、掛け合わせて変な種を作る操作も実におぞましくいかがわしい。宇宙は神の意志、ジャイアント・インパクト説で動いていると信じるので、人間の浅知恵でしかないあらゆる「人為的なるもの」は僕の目には奇形にしか見えないのだ。その場その時の成り行きで自然にできたものが宇宙の道理にかなっており、人間はそういうものを「美しい」と感じるようにできている。だから野良猫は美しいのである。フクの面構えもだんだん自信がついてドスがきいてきた、とってもいい。

 

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ショパン バラード第2番ヘ長調 作品38

2021 JUL 6 1:01:03 am by 東 賢太郎

僕は寝付くのに苦労したことがない。電車だろうがオフィスだろうがバタンキュー、猫より早い。自分で分からないがたぶん3分あればOKだ。周囲は気にならないし、そういえば頭痛、胃痛を知らない。部屋の寒暖もだいたい人に言われて気がつくという塩梅であって、すなわち、かなり鈍感なのだろう。

睡眠は不思議なもので、8時間寝てもすっきりしない日があれば3時間で充分という日もある。学生時代にこたつでラジカセをループにしたまま寝付いてしまったことが何度かある。最近は音楽でなくyoutube番組でそれがある。ずっと音楽や言葉が聞こえているわけで、2~3時間で夜中に目が覚めてしまったりするのだが、どういうわけか普通に7時間眠った時よりもすっきり感があるのだ。

ネットに「前半3時間の間にノンレム睡眠(深い眠り)に達することが出来れば、脳も身体も休めることができ、ぐっすり眠れた満足感を得ることが出来ます」とある。これだったかなとは思うが、音楽や言葉を脳がどう処理していたんだろう?いちいち理解していたら眠れないので左脳はオフになり、虫の声や電車のレール音のように右脳が雑音と同様に扱っていたかもしれない。

面白い体験が先日あった。うちの猫が横たわって寝ている夢を見たのだが、気がつくと体が冷たくなっていて動かない。のいが死んでしまった!僕は大慌てになって、抱きかかえて毛布でくるむと、幸いに電気毛布である。スイッチを入れて懸命に温めると、むっくりと起き上がってくれた。そこで目が覚める。ああ夢か、よかったなあ。少し肌寒かったようだ。そのあたりで、ふと頭の中で流れているピアノに気がついた。つけっ放しのyoutubeなどではない、例の脳内自動演奏である。そういえば、そう、これは夢の間ずっと聞こえていたぞ・・・。

その曲は、全く不可解なことだが、ショパンのバラード2番だった。

なぜ不可解かというと、僕はショパンは苦手でほとんど聞かない。バラード2番はきれいだなと思ってゆっくりの所だけ弾いてみたことはあるが、それは大昔のことで、昨日今日はおろか、それ以来まともに聞いた記憶もない。どうして倉庫の奥の奥から無意識がそんなのを拾い出してきたんだろう??

聞こえていたのはそのきれいな所だ。ゆっくりと、ぽつりぽつりと。

フランソワのを引っ張り出して、なかなかいいなあと思う。といって、がちゃがちゃ鳴る部分じゃない、両端のきれいな所だけだ。コルトーのも聞いたが、がちゃがちゃで崩壊してるし、フランソワだってけっこう危ない(きっと難しいんだ)。ショパンがだめなのは、あんないいメロディーにこれはないだろうと思ってしまうのがある。いやそれがポエムなんだ、彼はピアノの詩人なんだよとショパン好きに諭されたことがあるが、確かに、これから交響曲は書けそうにない。

しかし「ポエム」というのはどうも違う気がする。このメロディーは何か意味を含んだりほのめかしたりする詩ではない。なんというか、絵にも文字にもならない気品、例えば「高貴」というものを煮詰めて結晶にしてみたらチンチロリンとああいう音がするだろうという感じのものに思える。メロディーだけでそうなってしまうのだからソナタ形式みたいな面倒なものは不要だし、長調が短調で終わってもちっとも構わない。そういう理屈っぽさからフリーな音楽という意味でポエムであるというなら賛同はできるが、それは「人生は旅だ」の如きメタファーに過ぎないから語ってもあんまり意味はない。

ショパンが自作に標題を付けなかったのは、詩人じゃないからだ。文学の視点で「音楽新報」に評論を書いて讃えてくれたシューマンを無視した。狂乱の響きを孕んだ「クライスレリアーナ」を献呈されて、お返しに送ったのがバラード2番だったが、シューマンはこれをあまり評価しなかった。彼こそ詩人なのだ。ショパンはおそらくワーグナーやリストも自分と同類の音楽家とは見なかっただろう。彼らはあんないいメロディーを書きたくても書けなかったから文学や小理屈や、実にくだらない標題に走ったのだと僕は思う。ショパンをなぞらえるなら、宗教臭くないJ.S.バッハしかいない。雨だれやら子犬やら、そんな曲をバッハが書くか?ショパンがそんな風に弾かれることを意図していようか?どうも違う。だから僕はそう弾かれるショパンも、ショパン好きの人も苦手なのだ。

しかし、あの夢は何だったんだ?

のい

のいだ。もう来て5年になるか。あとから3匹も増えて、どれとも気が合わない。いろいろ事情があって、元の居場所を取られてしまった。この猫は僕を正しく認知している。賢い。人間の1日は猫には1週間だ。遊んでやらなくちゃ。何となく、バラード2番のメロディが似合う。そういうのがひょこっと出てくるんだ、夢は。フロイトには詳しくないが、やっぱり睡眠は不思議なものだと思う。

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猫のケンカと野球の深い関係

2021 MAR 8 0:00:30 am by 東 賢太郎

猫を見ていると、知らない相手にいきなりケンカを売ったり尻尾を巻いて逃げたりはしない。じっと距離をとって目線を合わさないように相手の気配をうかがい、「おぬしできるな」となると無用な争いはせず、離れていく。ここまでけっこう時間がかかるがとても面白い。

野球をやっていて、それだなと感じたのは試合開始前の整列だ。日本のアマ野球にしかない儀式である。両軍がホームベース前に整列し、審判が「それでは九段高校対**高校の・・試合を始めます」なんて宣言する。

これ、チームのみんなはどう思ってたか知らないが、ピッチャーは相手の全員と一対一の対決をするから、ずらっと並ぶ相手の顔と図体を眺めてデカいなとかチョロそうだなとか、ケンカ前の値踏みをしていたのを思い出す。

そのときの心境はというと、こういう感じだ。

試合前はこういう感じ

これを何度もやってるから、ぱっと見で相手を計る力はとてもついたように思う。負けるケンカはしないに限るから良いことだ。しかし、猫はヤバいと思えば去ればいいが、野球はそうはいかない。怖いと思う時もあった。

後攻めだと列からそのままマウンドに登る。そこでゆっくりと足場をならして5,6球のウォームアップをする。うん、行ってるぞ。いい球を投げてるという自信と幸福感に包まれた自分がいる。これでOK。アドレナリンが出てしまうともう自分の世界だ、いつの間にか怖さは消えている。不思議なことだった。

なぜなら怖いのは相手だけではない、投手と打者は18メートルちょっとの距離だ。ヘルメットも防具もつけずそんな近くから硬球を思いっきりノックされたら殺されかねない。ところがアドレナリンが出てしまうと、俺の球が打たれるわけないさと根拠のない買いかぶりで平気になってしまうのだ。

もともと小心者なのに、やってるうちにそうなった。ただ試合が始まるといろいろある。マウンドでは誰も助けてくれないからすごく孤独だ。ピンチになると野手が集まってきて「守ってやるからな、打たしてけよ」なんて励ましてくれる。あのね、打たれてるからこうなってるわけよ・・・と孤独感は倍になる。

投手は練習も野手とは別メニューである。捕手と皇居一周してダッシュして柔軟して黙々と投げ込みだ。帰りがけに同期で飯田橋の甘味屋であんみつを食べる。野手どもは「Yさん(先輩)よぉ、走りながらぷっぷって屁こくんだぜ」でガハハと盛り上がる。僕はカーブの落ちが悪いなぁ、なぜかなあと一人考えてる。

こうして毎日の「おひとり様」生活を2年もしてると性格もそうなってくる。チームを背負ってる責任感はなかった。そんなので勝てるほど野球は甘くない。そのかわりカーブの握りは研究した。今でいうナックル・カーブという奴だったようだがあんまり打たれず、アメリカではこれのおかげでトロフィーをもらった。

その性格が私生活でプラスにもマイナスにもなったことはないが、ゴルフでは活きた。ゴルフがうまいと思ったことは一度もないが、ベット(賭け)の強さは自他ともに認める。スコアは負けてもそっちは勝つのがモットーである。野村ではあいつと握るのはカネをどぶに捨てるようなもんだといわれた。

理由は簡単だ。ゴルフも「おひとり様競技」だからピッチャーとよく似てる。マウンドと同じ境地なら負けるはずない、ここぞの寄せやパットが決まってベットは勝つという道理だ。プロはそれで食っているんだろう、だからナイッショーなんて言わないし、ラウンド中は笑顔もなければまったく口もきかない。

マウンドでおしゃべりする奴はいないから僕においてもラウンド中の無言は当然だった。すると変な奴だと噂される。もとより本性は飲み会を絶対断る男であり、そっちは妥協したがゴルフではしなかっただけだ。ベットをするモチベーションがなくなってゴルフはやめた。麻雀の代わりにやってたということだ。

 

 

思えば猫もすぐれておひとり様の動物だ。子供の時からずっと猫が家にいて一緒に遊んで育ってる。祖父が手相を見て一匹狼だといったからポテンシャルはあり、猫に同化したのだろうと思われる。それにしても猫のケンカは深い。

 

 

 

 

 

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かわいい子は谷に落とせ

2020 OCT 24 18:18:18 pm by 東 賢太郎

先日のソナー10周年昼食会は赤坂のLyla(ライラ)さんのお世話になった。和の素材と伝統の創意あふれるアンサンブルのフレンチは皆が絶賛であり、コロナ対応も万全だった。いい店だ。忘れられない昼食会になり感謝したい。

家では家族が祝ってくれた。10年無事に来られたのも家庭の支えあってこそである。家事はしないし愛想もないしでおよそ良い亭主、父親とはいえないから家族の眼にどんな風に映っているかは知らない。

それがこういうことだった。この日のために10年の歩みをまとめて作ってくれたアルバムの表紙だ。

アルバム

こいつみたいに強いと持ちあげてくれたが、ほんとうは、テレビでライオンの番組ばかり見ているせいだろう。

ところで、

獅子は我が子を千尋の谷に落とす

というがほんとうだろうか。這い上がってきたのだけ育てるというが、獅子とは中国の空想上の動物らしく、アフリカのライオンは実は子煩悩のようだ。本当に谷に落ちた我が子を母ライオンが助けてる写真がネットにある。

この故事は父に教わった気がする。這いあがるかどうかテスト中の子に明かすのも変だしそういうポリシーだったかどうかは疑わしくもあるが、たしかに子どものころ父には勉強を教わったことはおろか、ほとんどほめられた記憶がない。それどころか教えを乞うてもいつも「自分の頭で考えろ」であり「おまえの頭は何のためについているんだ」と説教まで食らうありさまだった。

あれはライオン式だったんだろうと思っていたが実はそうでもなく、高校になって野球や受験がうまくいくと父はほめてくれた。つまり、中学まではほめたくてもほめようがないほど僕が情けない息子だったのだ。小学校では虚弱でずっとクラスで背が前から2番目のチビであり、喧嘩はもちろん腕相撲は女の子より弱く、普通そういう子は勉強ぐらいはできて居場所があるのだがそれもなかった。要するに何をしても偏差値30代の最下層民であったから、どう見てもほめてやるものがなかったにちがいない。体格は仕方ないので勉強しか打つ手はなく、だから「おまえの頭は・・」になったのだ。それをしても中学受験に失敗した息子は谷底から這い上がって来ない子ライオンだった。

そこで傷をなめて救いの手を出さなかった父のお陰で今の僕はある。勉強にも生活態度にも徹底してうるさく、一切の愚痴も手加減も認めてくれなかったが、おまえはやればできるという一点にだけは揺るぎのない信用を感じていた。それを裏切ったらいかんと、最後は気迫でやるっきゃないと思わせる強いものがあった。あれは教育方針という紋切り型の理念のようなものではなく、子煩悩の本能的愛情でもなく、無産階級の子はそうしてやらないと幸せにならないという実戦訓から来たに相違ない。なぜなら17才で戦争となり大学に進めず、成績優秀で銀行には入ったが学歴の厚い壁があった。だから息子にはと、ああなるのは必然の親心だった。あとになって思うことだが、当時の父を誰かに喩えるなら、この人しかいない。まさしく書簡集に見るモーツァルトの父そっくりだ。

先日のこと、焼肉屋で他愛のない話をしていると、娘たちがあることを知らないのに気がついた。帰国子女だからときにそういう事もあると大目に見てきたが、今回はそういうレベルのもんじゃない。「いいか、おまえたち、それね、”くろ” は知らなくても “のい” は微妙だよ。”しろ” なら知ってるよあいつは確実に、そのぐらいのことだぞ」。

しろ先生

散々あれでもないこれでもないとやって、ヒントを2つ3つ出してやっと正解が出た。な~んだ、それなら知ってたよとなる。知ってたじゃないんだ。出てこなきゃ知らないんだ。

「これから呼び捨てはいかん。しろ先生と呼びなさい」

こうして僕は谷に落とす。

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犬のだっこはいたしません

2020 JAN 7 22:22:13 pm by 東 賢太郎

新年会で屋久島から西表島の山猫に話が飛んでしまい、さらに飛んで猫派、犬派の話題になった。日本人はレッテルが好きだ。血液型がいい例で、それで性格がわかる根拠はないらしく、たしかに外国では聞いたことがない。むしろ「レッテル貼りが好きかどうか」で判断した方が性格は当たると思うが、日本人はほぼみんな好きだからあんまり意味はなさそうだ。

僕はむろん、堂々たる盤石の猫派である。そういうと「自分もです」という人も大勢いるが、僕における猫派というのは子猫がかわいいとか、犬も飼ってますけどねとかいう生半可なものではない。犬はかわいがりません、ごめんねという意味である。「どう?ウチのチャッピーちゃん、かわいいでしょ、ねえねえだっこして!」なんてのが長い人生において何度かあったが、ぜんぶ「いたしません」であった。

ところが日本ではチャッピーちゃんはかわいくて当然なのである。かわいくないなんて言おうものならあんた血液C型?みたいな目で睨まれてしまう。僕が幼時に伊豆でスピッツにかまれて犬が怖いなんてことはかけらも斟酌される余地がない。それでは当方の本流であるところの猫の話ならば世間様と平穏にコミュニケーションが図られるかというと、これがまたそうでもないから大変に困る。ブランド種、長毛、短足の猫はあまり好きでなく、子猫はすべからく嫌いとまではいわないができれば関わりたくない。キャー、この子かわいい!なんて素人筋の感性とは隔絶したところに僕の猫好きは存立しているのである。

こんなふうに、ひとえに、何の変哲もない、そこらへんの路地裏を歩いているデカくてふてぶてしい日本猫、これぞ保守本流の猫だ。

うちのシロ

「どう?ウチのシロちゃん、かわいいでしょ、ねえねえだっこして!」。ひっかかれて大変なことになるからしないほうがいいが、これが「かわいい」と共感していただける本格派の方はあんまりいない。この写真でいっしょに笑ってくれる人はもっといない。僕はこれで癒されるので待ち受けにしようと思ってる。

(こちらをどうぞ)

「個の時代」と「自由人」(訪問者200万人に寄せて)

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今年は映画を作る

2020 JAN 1 9:09:48 am by 東 賢太郎

屋久島は二度目である。仕事だが、11月に奥出雲に行ったのと関係がある。

奥出雲風土記(2度目訪問の背景)

そこに書いた「僕にとって人生をかけることになるであろう某プロジェクト」とは、映画を作ることだ。映画館に掛かる、90分の青春ドラマだ。

理由はない。映画はテレビと同じぐらい見ないし興味もない。なんとなく成り行きでそういうことになり、やっているうちに不思議と道具立てが揃い、これは俺がやるべきことだろうという気がしてきた。それだけだ。

屋久島はミクロネシアとそっくりだ。そんなことを言おうものなら絶句されて会話が途切れるだけだから誰にも言わない。奥出雲もおんなじ。といって、もののけ姫ぐらいしか通じないだろう。おおいにスピリチュアルなことだ。

年末の屋久島はおすすめだよゴーンさん。自然はいいなあ、くだらないウソつかないし金にまみれてないし、ここに住んでもいい。白谷雲水峡で撮った2枚の写真は60才になる前と65才になる前だ。

60才になる前

65才になる前

自然もずいぶん変わってるなあ。

1才のノイ

5才のノイ

そしてノイは変わらず上をむいてる。すばらしい。いい猫だね。

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のい様は猫である

2019 DEC 21 22:22:34 pm by 東 賢太郎

ワタシは音楽なるものがきらいということもない。初めのころは騒音と思ってはいたが、なかなか落ち着けるものということに気づいてきた今日この頃である。人間は猫などにわかるまいと思いあがるが甚だ不遜なことであって、こうして主人の部屋で流れる音楽を聴くわけだが、おかげでこの頃は近現代音楽まで解する領域に至っているのだから、そんじょそこいらの雑魚の人間よりはちったあましと思ってる。

のい様はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を鑑賞する

この時期になると主人はルロイ・アンダーソンの「そりすべり」を喜々として弾くが、どうやら独奏版が不満らしく今年は連弾版楽譜を入手している。娘に第2を弾かせる魂胆のようだ。主人はピアノがうまいと思っているらしいが、その実へたくそであるから悲愴ソナタなどをやられると苦痛以外の何物でもなく迷惑千万である。猫界にソンタクという概念は本来存在しないが、しかし私クラスに賢明な猫になるとまったくないということもないわけだ。もちろん、尻尾を風がおきるほど振り振りして舌出してはあはあやる犬どものように下衆でみっとないことはしない。じっと我慢して聴いてやる。それだけで主人は弾き終わるとワタシを抱き上げて「のい、お前はすごい猫だなあ、ベートーベンがわかるのか」となる。ちょろいもんだ。

のい様はアルテュール・オネゲルの劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』を鑑賞する

 

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丸選手 緒方カープに引導渡す

2019 AUG 31 2:02:04 am by 東 賢太郎

広島・巨人3連戦。巨人についにマジックが点灯し、我がカープには最後の生き残りをかける天王山となった。この3試合は万難を排し、東京ドームにて観戦した。そして終戦を目撃することとなった。

今年初めの丸佳浩選手の巨人FA移籍発表はカープファンに衝撃だった。長野選手の人的補償によるリベンジ感でそれは少々緩和はされたが、長丁場の勝負の世界というのは確率が支配するのであって、このブログの予言が無念ながらほぼ現実になっている。

OPSで見る今年のセリーグ予想

3月27日にこれを書いた2日後、マツダスタジアムでの開幕戦は広島・大瀬良、巨人・菅野の両エースの激突、そして巨人のユニフォームを着た丸が「敵地」広島に乗り込んでの決戦という意味で全国の野球ファンの注目を浴びた。そして、結果は、

広島5-0巨人

開幕戦で力投する大瀬良

というカープの完勝で終わり、先発の大瀬良は8回を11奪三振で完封したのである。全国のカープファンが溜飲を下げたことは言うまでもないが、とりわけ、アンチ金満主義の他チームファンまでが感涙にむせんだのは、大瀬良が丸を4打席連続三振と完膚なきまでに封じ込んでくれたことである。「4打席連続三振」。我が世代は見てはいないが伝説として記憶している「金田正一、新人・長嶋茂雄にプロの洗礼」がそれだ。「3打席じゃダメなんですか?」「ダメだね、大違いだね」、大人にこう教わって僕は「三振」はただのワン・アウトではないと悟った。この日の大瀬良の雄姿は、わが世代には金田のみならず、きっとあの力道山にも重なったことだろう。

カープの4連覇を阻んだ主役はその丸選手であったが、この時点でそれはまだ誰も知らない。というより、世の中で一番見たくないのはそれだというものだった。カープ・オペラの勇壮な、まるでマイスタージンガーみたいな前奏曲は文字通りこの開幕戦の大瀬良による丸・4打席連続三振であった。そして、それからちょうど5か月がたった8月29日ちょうど、その大瀬良が先発した第3戦がまるでカルメンかボエームのように、一番見たくない悲しいエンディングになったのである。

第1戦(広2-0巨)

非常に見ごたえがあった。ジョンソン・石原が丸を4の0(2三振)で見事に抑えたからだ。第4打席の全球スライダー、全球空振りの三振は石原のプロの技だ。丸、打つな、カープ燃えるから、のサインでも出てるかと思うほど打てる気配がなかった。

メルセデスはドミニカンだが剛球で押すタイプではない。田口を速くしたような投手でコントロールが絶妙だ。ジョンソンが8四死球も与えながら7回を零封し逃げ切ったという試合だった。特にフランスアが陽を空振り三振に取った157キロには完全復活の光明を見て、大いに気分よく帰路についた。

この試合、もうひとつ記憶に残ったシーンがある。9回に出てきたマシソンに対し、サンタナに代えて野間が打席に立つ。そりゃないだろと思ったら快音が響きライトにライナー性のフライが飛んだ。捕られたが「おお、野間、どうしたんだ?」と叫んだいい当たりだった。

第2戦(広2ー6巨)

スコアボードの先発メンバーに「7番レフト野間」を発見したとき、あのライトフライがフラッシュバックした。この試合、相手は気迫充分の菅野である。4つ申告アウトだなと思ったが、まあ守備もあるしなまさか4つはないよなと受けとめた。案の定、バットを振りきれもせず当てるのがやっとの弱々しい内野ゴロ。しかも4つだ。しかも、ひょっとして松山なら捕ったかという守備の恥ずかしいミスまで出た。これで怒らないのはおかしい。

菅野には左が打率がいいというデータがあったらしい。そんな猿でもわかるのはデータといわんのだよキミ、トラックマンも入れない球団が言うなよ。

野間は今季2割5分、2本塁打。めったに打たない巨人・小林 誠司も2割6分、2本塁打だが打順は8番だ。しかも小林はバットを振りきれるぐらいのスイングはもっている。先発・野村が突如くずれて4失点した直後の5回表、二死一二塁。打順は7番野間である。スタンドが盛り上がったのは、まさか野間に4打席はさすがの緒方も考えてないだろう、ここは勝負どころなんで代打メヒアか長野だろうとみんな思ったからだ。ところがなんと野間がそのまま打席。そして外角シュートをわざわざ引っ張って、しかもちょこんと当てただけで、ごっつぁんの真正面のセカンドゴロだ。スタンドの盛り下がり感は半端でなく、怒りの声も轟いた。

広島の先発野村はよく投げたほうだと思う。今ひとつ球が来てないしフォークが引っかかって3度も1メートル手前でワンバウンドしてる菅野ともども序盤の最速は147、8キロだったが野村の方が球威はあった。あのスターティング・オーダーを見れば「今日は打てないな」と思うのは人間として自然だ。したがって、慎重なコーナーワークで球数と四球は多かったのも当然だ。4回までは零封したがすでに疲れてる5回に坂本に看板直撃の大ホームラン、岡本にもマン振りのバックスクリーンを献上してしまうが、丸の餌食にはならなかった(2四球、1三振でOPSには貢献したが)。第4打席も左腕・塹江(ほりえ)が見のがし三振にとっている。丸はまだ眠っていたのだ。

第3戦(広4ー12巨)

放送席の通路に人だかりしている。誰かと思ったら松井秀喜と高橋由伸だった。原監督も発奮したろうし、鞭が入った巨人打線の振りはひときわ鋭かった。長いこと野球を観ているが、1イニング10点というのも初めてだが、3回を終わって12-1のスコアというのも初めて目撃した。5回終了で12-2だったから高校野球の地方予選ならコールドゲームだった。こう完膚なきまでやられるとすがすがしささえ感じる。

大瀬良が先発である。この試合を落とせば「終戦」という瀬戸際。すべてはエースの右腕にかかっていた。初回。三番・丸を大瀬良が三振に仕留める。ここまではよかった。ところが2回、6番の阿部慎之介のデッドボールで雲行きが変わる。デッドボールで思い出すのは阪神・藤波がカープ黒田の顔面にあわやというのを投げて恫喝され、それからずっと、いまに至るまでおかしくなってしまった。その藤波がやはりカープの大瀬良に同じようなのを投げたが、倒れこんだ大瀬良は笑顔で藤波に気にすんなと励ました。

大瀬良、いい奴なんだ。

だからかどうかはわからないが、藤波のようなメンタルだったなら阿部慎之介、しかもホントに当てちゃって(藤波は当たってない)ドスンとスタンドまで音が聞こえたのは重たかったろう。そこまで何らおかしくなかったのに、歯車が狂ったように次のゲレーロにストライクが入らず四球、続く大城に快心のライト線二塁打で2点を失う。そして3回。亀井にストレートの四球、坂本に1・2塁間を抜かれ、ついに、眠っていた3番・丸にタイムリーを打たせてしまう。

すると、ここから堰を切ったようなつるべ打ちである。4番・岡本にスリーラン、続く阿部、ゲレーロ、大城に連続2塁打。緊張感の切れた外野手による早朝オジサン野球並みの落球、後逸も続出し、打者一巡でかつてのヒーロー大瀬良はKO。そして、総仕上げとして、救援の塹江が、ついに、丸にバックスクリーンへ屈辱の満塁ホームランを食らって丸ポーズされてしまうのである(写真)。

カープファンの皆さん。実に悔しいが、現実を直視しよう。丸の一発がカープの終戦を告げた。丸の巨人移籍は戦艦大和の沈没ではなく、大和が米軍第7艦隊に旗艦として加わったに等しかったのである。

どうして2位じゃダメなんですか?(レンホー)

という暖かいファンがマツダスタジアムのチケットを争って買っているうちはこの悲劇は永遠に続くだろう。ちなみに戦時中の国民は「戦艦大和」の名前はおろか、存在も知らなかったのである。

 

 

 

 

丸は昨日も阪神戦で決勝ホームランをバックスクリーンにたたきこんだ。練習のたまものだが、なんといってもこの「お尻」と「太もも」がすばらしい。

 

 

 

 

 

うちの愛猫シロのあだ名は「マル」である。球場で打席に丸が入ると思わず「シロだね」とつぶやくし、僕はやっぱり丸のファンなのだ。

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僕の五感強化法

2019 JUL 30 0:00:04 am by 東 賢太郎

雨あがりの朝に今年初めてのセミが鳴いた。先週の火曜日、7月23日のことだ。その瞬間、あっ梅雨が明けたぞと思った。気象庁は台風を気にしてか梅雨明け宣言しなかったようだが、セミはハズレて批判されるリスクは気にしない。

僕は永いことネコと暮らしてきたせいだろうか、人間のなまじっかの理性より動物の本能を信じるところがある。我々は嗅覚、聴覚、視覚も運動能力も圧倒的にネコに劣っている。理性だけは少しは上回っているようだが、だからネコより偉いと断定はできない。ヒト一人とネコ一匹が人里から完全隔離された原野に裸で放置されたら一週間後に生きてるのはネコの方だろう。

我々は理性の代償にだんだんと五感を失ってしまった。でもバランスの良い生活を送るには動物としての感覚はないがしろにはできないと考えているので、僕はいつも五感を自覚しようとしている。できればもっと鋭敏にしたいとも思っている。先の週末に海が見たくなった。こういう時は欲求にさからわない方がいいというのが生き方だ。どこか近場でということで、三浦半島は油壷にでかけてしばし海辺の岩場でぼーっとした。我々に残っている五感は儚い。ひらひら飛ぶ蝶々みたいなものだ。海を見ているとほっとするのは、太古の昔は魚だったからだろうという気がしてくる。そういうとりとめのない「気」というものは、どこからともなく泡のように心にぽっかりと浮かんでくる。それをしっかりつかまえてみる。それが僕の五感強化法だ。そうやっているうちに、日々積もりに積もった心の澱を足元のさざ波が洗い流してくれる。わが身は逆巻く水にのまれてくるくると水底をころがる子蟹みたいである。そう思うと、泳ぎたいなという「気」が降ってきた。

見たことのない木だ

僕にとってロンドンや香港は仕事をする場所であった。東京だけはそうじゃない、故郷だと思っていたが、どうも近頃はそっちになってきた。仕事も五感が大事だ。鈍ると判断を間違える。我々は言語というものを駆使できるし、それが理性を産んだ。しかし、便利ではあるが言語は時に自分をも縛って自らを欺いてくれたりもする。そこから不安やら疑いやら怒りやら、あんまり健康によろしくない感情というものが生じてもしまう。だから時には一切の言語と理性を絶って、自然の一部になったほうがいい。

横堀海岸にて

 

 

(続き)

僕の第六感強化法

すべての悩める人への万能薬

 

 

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