クラシック徒然草《音楽家の二刀流》
2018 MAY 6 1:01:11 am by 東 賢太郎
そもそも二刀流とはなんだろう?刀は日本人の専有物だからそんな言葉は外国にない。アメリカで何と言ってるかなと調べたら大谷は “two-way star” と書かれているが、そんなのは面白くもなんともない。勝手に決めてしまおう。「二足の草鞋」「天が二物を与える」ぐらいじゃあ二刀流までは及ばない。「ふたつの分野」で「歴史に残るほどの業績をあげること」としよう。水泳や陸上で複数の金メダル?だめだ、「ふたつの分野」でない。じゃあ同じ野球の大谷はなぜだとなるが、野球ファンの身勝手である。アメリカ人だって大騒ぎしてるじゃないか。まあその程度だ、今回は僕が独断流わがまま放題で「音楽家の二刀流判定」を行ってみたい。
まずは天下のアルバート・アインシュタイン博士である。音楽家じゃない?いやいや、脳が取り出されて世界の学者に研究されたほどの物理学者がヴァイオリン、ピアノを好んで弾いたのは有名だ。奥さんのエルザがこう語っている。 Music helps him when he is thinking about his theories. He goes to his study, comes back, strikes a few chords on the piano, jots something down, returns to his study.(音楽は彼が物理の理論を考える手助けをしました。彼は研究室に入って行き、戻ってきて、ピアノでいくつか和音をたたき、何かを書きつけて、また研究室へ戻って行くのです)。
アインシュタインは紙と鉛筆だけで食っていけたのだと尊敬したが間違いだった。ピアノも必要だったのだ。たたいた和音が何だったか興味があるが、ヒントになる発言を残している。彼はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを好んで公開の場で演奏し、それは「宇宙の創成期からそこに存在し巨匠によって発見されるのを待っていた音楽」であり、モーツァルトを「和声の最も宇宙的な本質の中から彼独自の音を見つけ出した音楽の物理学者である」と評している。案外ドミソだったのではないかな。腕前はどうだったんだろう?ここに彼がヴァイオリンを弾いたモーツァルトのK.378が聴ける。
アインシュタインよりうまい人はいくらもいよう、しかし僕はこのヴァイオリンを楽しめる。曲への真の愛情と敬意が感じられるからだ。というわけで、二刀流合格。
次も科学者だ。「だったん人の踊り」で猫にも杓子にも知られるアレクサンドル・ボロディン教授である。教授?作曲家じゃないのか?ちがう。彼はサンクトペテルブルク大学医学部首席でカルボン酸の銀塩に臭素を作用させ有機臭素化物を得る反応を発見し、それは彼の名をとって「ボロディン反応」と呼ばれることになる、まさに歴史に名を刻んだサイエンティストだ。趣味で作曲したらそっちも大ヒットして世界の音楽の教科書に載ってしまったのである。この辺は彼が貴族の落し胤だった気位の高さからなのかわからないが、本人は音楽は余技だとして「日曜作曲家」を自称した。そのむかしロッテのエースだったマサカリ投法の村田兆治は晩年に日曜日だけ先発して「サンデー兆治」となったが、それで11連勝したのを彷彿させるではないか。「音楽好きの科学者」はアインシュタインと双璧と言える。合格。
巨人ふたりの次にユリア・フィッシャーさんが来るのは贔屓(ひいき)もあるぞと言われそうだが違う。贔屓以外の何物でもない。オヤジと気軽にツーショットしてくれてブログ掲載もOKよ!なんていい子だったからだ。数学者の娘。どこかリケジョ感があった。美男美女は得だが音楽家は逆でカラヤンの不人気は男の嫉妬。死にかけのお爺ちゃんか怪物みたいなおっさんが盲目的に崇拝されてしまう奇怪な世界だ。女性はいいかといえば健康的でセックスアピールが過ぎると売れない観があり喪服が似合いそうなほうがいい我が国クラシック界は性的に屈折している。フィッシャーさん、この容貌でVn協奏曲のあとグリーグのピアノ協奏曲を弾いてしまう。ピアノはうまくないなどという人がいる。あったりまえじゃないか。僕はこのコンチェルトが素人には難しいのを知っている。5年まえそのビデオに度肝を抜かれて書いた下のブログはアクセス・ランキングのトップをずっと競ってきたから健全な人が多いという事で安心した。そこに書いた。゛日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが “。そんなことはなかった。若い才能に脱帽。もちろん合格だが今回は音楽家と美人の二刀流だ。
ちなみに音楽家と学者の二刀流はありそうなものだがそうでもない。エルネスト・アンセルメ(ソルボンヌ大学、パリ大学・数学科)、ピエール・ブーレーズ(リヨン大学・数学科)、日本人では柴田南雄(東京大学・理学部)がボロディン、アインシュタインの系譜だが、数学者として実績は聞かないから合格とは出来ない。ただ、画家や小説家や舞踏家に数学者、科学者というイメージはわかないが音楽家、とくに作曲家はそのイメージと親和性が高いように思うし、僕は無意識に彼らの音楽を好んでいる。J.S.バッハやベートーベンのスコアを見ると勉強さえすれば数学が物凄くできたと思う。一方で親が音楽では食えないと大学の法学部に入れた例は多いが、法学はどう考えても音楽と親和性は薄く、法学者や裁判官になった二刀流はいない(クラシック徒然草《音大卒は武器になるか》参照)。
よって、何の足しにもならない法学を名門ライプツィヒ大学卒業まで無駄にやりながら音楽で名を成したハンス・フォン・ビューローは合格とする。ドイツ・デンマークの貴族の家系に生まれ、リストのピアノソナタロ短調、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を初演、リストが娘を嫁にやるほどピアノがうまかったが腕達者だけの芸人ではない。初めてオペラの指揮をしたロッシーニのセヴィリアの理髪師は暗譜だった。ベートーベンのピアノソナタ全曲チクルスを初めて断行した人でもあるがこれも暗譜だった。”Always conduct with the score in your head, not your head in the score”(スコアを頭に入れて指揮しなさいよ、頭をスコアに突っ込むんじゃなくてね)と容赦ない性格であり、ローエングリンの白鳥(Schwan)の騎士のテナーを豚(Schwein)の騎士と罵ってハノーバーの指揮者を降りた。似た性格だったグスタフ・マーラーが交響曲第2番を作曲中に第1楽章を弾いて聞かせ「これが音楽なら僕は音楽をわからないという事になる」とやられたがビューローの葬式で聴いた旋律で終楽章を完成した。聴衆を啓発しなければならないという使命感を持っており、演奏前に聴衆に向かって講義するのが常だった。ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した際には、全曲をもう一度繰り返し、聴衆が途中で逃げ出せないように、会場の扉に鍵を掛けさせた(wikipedia)。これにはブラームスもブルーノ・ワルターも批判的だったらしいが、彼が個人主義的アナキズムの哲学者マックス・シュティルナーの信奉者だったことと併せ僕は支持する。
ちなみにビューローはその才能によってと同じほどリヒャルト・ワーグナーに妻を寝取られたことによっても有名だ。作曲家は女にもてないか、何らかの理由で結婚しなかったり失敗した人が多い。ベートーベン、シューベルト、ブルックナー、ショパン、ムソルグスキー、ラヴェルなどがそうで後者はハイドン、ブラームス、チャイコフスキーなどがいる。だからその逆に生涯ずっと女を追いかけたモーツァルトとワーグナーは異色であろう。モーツァルトはしかしコンスタンツェと落ち着いた(というより何か起きる前に死んでしまった)が、ミンナ(女優)、マティルデ・ヴェーゼンドンク(人妻)、コジマ(ビューローの妻)とのりかえたワーグナーの傍若無人は19世紀にそこまでやって殺されてないという点においてお見事である。よって艶福家と作曲家の二刀流で合格だ。小男だったが王様を口説き落としてパトロンにする狩猟型ビジネス能力もあった。かたや作品でも私生活でも女性による救済を求め続け、最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であったのは幼くして母親が再婚した事の深層心理的影響があるように思う。
ボレロやダフニスの精密機械の設計図のようなスコアを見れば、ストラヴィンスキーが評した通りモーリス・ラヴェルが「スイスの時計職人」であってなんら不思議ではない。その実、彼の父親はスイス人で2シリンダー型エンジンの発明者として当時著名なエンジニアであり、自動車エンジンの原型を作った発明家として米国にも呼ばれている。僕はボレロのスコアをシンセサイザーで弾いて録音したことがあるが、その実感として、ボレロは舞台上に無人の機械仕掛けのオーケストラ装置を置いて演奏されても十分に音楽作品としてワークする驚くべき人口構造物である。まさにスイスの時計、パテック・フィリップのパーペチュアルカレンダークロノを思わせる。彼自身はエンジニアでないから合格にはできないが、親父さんとペアの二刀流である。
アメリカの保険会社の重役だったチャールズ・アイヴズは交響曲も作った。しかし彼の場合は作曲が人生の糧と思っており、それでは食えないので保険会社を起業して経営者になった。作曲家がついでにできるほど保険会社経営は簡単だと思われても保険業界はクレームしないだろうが、アイヴズがテナー歌手や指揮者でなく作曲家だったことは一抹の救いだったかもしれない。誰であれ書いた楽譜を交響曲であると主張する権利はあるが、大指揮者として名を遺したブルーノ・ワルターはそれをしてマーラー先生に「君は指揮者で行きなさい」と言われてしまう(よって不合格)。その他人に辛辣なマーラーが作品に関心を持ったらしいし、会社の重役は切手にはならない。よってアイヴズは合格。
日本人がいないのは寂しいから皇族に代表していただこう。音楽をたしなまれる方が多く、皇太子徳仁親王のヴィオラは有名だが、僕が音源を持っているのは高円宮憲仁親王(29 December 1954 – 21 November 2002)がチャイコフスキーの交響曲第5番(終楽章)を指揮したものだ。1994年7月15日にニューピアホールでオーケストラは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団である。親王は公益社団法人日本アマチュアオーケストラ連盟総裁を務め造詣が深く、指揮しては音程にとても厳しかったそうだ。お聴きのとおり、全曲聴きたかったなと思うほど立派な演奏、とても素人の指揮と思えない。僭越ながら、皇族との二刀流、合格。
米国にはインスティテューショナル・インベスターズ誌の創業者ながらマーラー2番マニアで、2番だけ振り方をショルティに習って世界中のオケを指揮しまくったギルバート・ キャプランCEO(1941 – 2016)もいる。同誌は創業51年になる世界の金融界で知らぬ者はない老舗である。彼が指揮したロンドン交響楽団との1988年の演奏(左のCD)をそのころロンドンで買った。曲はさっぱりだったがキャプランに興味があった。そういう人が多かったのか、これはマーラー作品のCDとして史上最高の売り上げを記録したらしいから凄い。ワルターよりクレンペラーよりショルティよりバーンスタインより素人が売れたというのはちょっとした事件であり、カラオケ自慢の中小企業の社長さんが日本レコード大賞を取ってしまったような、スポーツでいうなら第122回ボストンマラソンを制した公務員ランナー・川内 優輝さんにも匹敵しようかという壮挙だ。これがそれだ。
彼は私財で2番の自筆スコアを購入して新校訂「キャプラン版」まで作り、他の曲に浮気しなかった。そこまでやってしまう一途な恋は専門家の心も動かしたのだろう、後に天下のウィーン・フィル様を振ってDGから新盤まで出してしまうのである。「マーラー2番専門指揮者」なんて名刺作って「指揮者ですか?」「はい、他は振れませんが」なんてやったら乙なものだ。ちなみに彼の所有していたマーラー2番の自筆スコア(下・写真)は彼の没後2016年にロンドンで競売されたが落札価格は455万ポンド(6億4千万円)だった。財力にあかせた部分はあったろうが富豪はいくらもいる。金の使い道としては上等と思うし一途な恋はプロのオーケストラ団員をも突き動かして、上掲盤は僕が唯一聴きたいと思う2番である。合格。
かように作曲家の残したスコアは1曲で何億円だ。なんであれオンリーワンのものは強い。良かれ悪しかれその値段でも欲しい人がいるのは事実であるし、シューマン3番かブラームス4番なら僕だって。もしもマーラー全曲の自筆譜が売りに出るなら100億円はいくだろう。資本主義的に考えると、まったくの無から100億円の価値を生み出すのは起業してIPOして時価総額100億円の会社を生むのと何ら変わりない。つまり価値創造という点において作曲家は起業家なのである。
かたやその作曲家のスコアを見事に演奏した指揮者もいる。多くの人に喜びを与えチケットやCDがたくさん売れるのも価値創造、GDPに貢献するのである。ヘルベルト・フォン・カラヤンは極東の日本で「運命」のレコードだけで150万枚も売りまくったその道の歴史的指揮者である。ソニーがブランド価値を認めて厚遇しサントリーホールの広場に名前を残している。大豪邸に住み自家用ジェットも保有するほどの財を成したのだから事業家としての成功者でもあり、立派な二刀流候補者といっていいだろう。しかし没後30年のいま、生前にはショップに君臨し絶対に廉価盤に落ちなかった彼のCDは1200円で売られている。22世紀には店頭にないかもしれない。こういう存在は資本主義的に考えると起業家ではなく、人気一過性のタレントかサラリーマン社長だ。不合格。
作曲家を贔屓していると思われようがそうではない。ポップス系の人がクラシック曲を書いているが前者はポール・マッカートニー、後者は先日の光進丸火災がお気の毒だった加山雄三だ。ポールがリバプール・オラトリオをヘンデルと並ぶつもりで書いたとは思わない。加山は弾厚作という名で作ったラフマニノフ風のピアノ協奏曲があり彼の母方の高祖父は岩倉具視と公家の血も引いているんだなあとなんとなく思わせる。しかし、いずれもまともに通して聴こうという気が起きるものではない(少なくとも僕においては)。ポールのビートルズ作品は言うに及ばず、加山の「君といつまでも」
などはエヴァーグリーンの傑作と思うが、クラシックのフォーマットで曲を書くには厳格な基礎訓練がいるのだということを確信するのみ。不合格。ついでに、こういうことを知れば佐村河内というベートーベン氏がピアノも弾けないのに音が降ってきて交響曲を書いたなんてことがこの世で原理的に起こりうるはずもないことがわかるだろう。あの騒動は、記事や本を書いたマスコミの記者が交響曲が誰にどうやって書かれるか誰も知らなかったということにすぎない。
こうして俯瞰すると、音楽家の二刀流は離れ業であることがわかるが、歴史上には多彩な人物がいて面白い。ジョゼフ・サン=ジョルジュと書いてもほとんどの方はご存じないだろうが、音楽史の視点でこの人の二刀流ははずすわけにいかない。モーツァルトより11年早く生まれ8年あとに死んだフランスのヴァイオリン奏者、作曲家であり、カリブ海のグアドループ島で、プランテーションを営むフランス人の地主とウォロフ族出身の奴隷の黒人女性の間に生まれた。父は8才の彼をパリに連れて帰りフランス人として教育する。しかし人種差別の壁は厚く、やむなく13才でフェンシングの学校に入れたところメキメキ腕を上げて有名になり、17才の時にピカールという高名なフランス・チャンピオンから試合を挑まれたが彼を倒してしまう。その彼がパリの人々を驚嘆させたのはヴァイオリンと作曲でも図抜けた頭角を現したことである。日本的にいうならば、剣道の全国大会で無敵の強さで優勝したハーフの高校生が東京芸大に入ってパガニーニ・コンクールで優勝したようなものだ。こんな人が人類史のどこにいただろう。これが正真正銘の「二刀流」でなくて何であろう。宮廷に招かれ、王妃マリー・アントワネットと合奏し、貴婦人がたの人気を席巻してしまったのも当然だろう。1777年から78年にかけてモーツァルトが母と就職活動に行ったパリには彼がいたのである。だから彼が流行らせたサンフォニー・コンチェルタンテ(協奏交響曲)をモーツァルトも書いた。下の動画はBBCが制作したLe Mozart Noir(黒いモーツァルト)という番組である。ぜひご覧いただきたい。ヴァイオリン奏者が「変ホ長調K.364にサン・ジョルジュ作曲のホ長調協奏曲から引用したパッセージがある」とその部分を弾いているが、「モーツァルトに影響を与えた」というのがどれだけ凄いことか。僕は、深い関心をもって、モーツァルトの作品に本質的に影響を与えた可能性のある同時代人の音楽を、聴ける限り全部聴いた。結論として残った名前はヨゼフ・ハイドン、フランツ・クサヴァー・リヒター、そしてジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュだけである。影響を与えるとは便宜的にスタイルを真似しようという程度のことではない、その人を驚かし、負けているとおびえさせたということである。サン=ジョルジュが出自と容貌からパフォーマーとして評価され、文献が残ったのは成り行きとして当然だ。しかしそうではない、そんなことに目をとられてはいけない。驚嘆しているのは、彼の真実の能力を示す唯一の一次資料である彼の作品なのだ。僕はそれらをモーツァルトの作品と同じぐらい愛し、記憶している。これについてはいつか別稿にすることになろう。
黒い?まったく無意味な差別に過ぎない。何の取り得もない連中が肌の色や氏素性で騒ぐことによって自分が屑のような人間だと誇示する行為を差別と呼ぶ。サン=ジョルジュとモーツァルトの人生にどんな差があったというのか?彼は白人のモーツァルトがパリで奔走して命懸けで渇望して、母までなくしても得られる気配すらなかったパリ・オペラ座の支配人のポストに任命されたのだ。100人近い団員を抱える大オーケストラ、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックのコンサートマスターにも選任され、1785年から86年にかけてヨゼフ・ハイドンに作曲を依頼してその初演の指揮をとったのも彼である。それはハイドンの第82番目から第87番目の6曲のシンフォニーということになり、いま我々はそれを「パリ交響曲」と呼んで楽しんでいるのである。
ゴールデン・ウイーク・バージョンだ、長くなったが最後にこの人で楽しく本稿を締めくくることにしたい。サン=ジョルジュと同様にフランス革命が人生を変えた人だが、ジョアキーノ・ロッシーニの晩節は暗さが微塵もなくあっぱれのひとこと。オペラのヒットメーカーの名声については言うまでもない、ベートーベンが人気に嫉妬し、上掲のハンス・フォン・ビューローのオペラ指揮デビューはこの人の代表作「セヴィリアの理髪師」であったし、まだ食えなかった頃のワーグナーのあこがれの作曲家でもあった。そんな大スターの地位をあっさり捨てて転身、かねてより専心したいと願っていた料理の道に邁進し、そっちでもフランス料理に「ロッシーニ風フォアグラと牛フィレステーキとトリュフソース」の名を残してしまったスーパー二刀流である。
ウォートンのMBA仲間はみんな言っていた、「ウォール・ストリートでひと稼ぎして40才で引退して人生好きなことして楽しみたい」。そうだ、ロッシーニは37才でそれをやったんだ。ワーグナーと違って、僕は転身後のロッシーニみたいになりたい。それが何かは言えない。もはや63だが。ただし彼のような体形にだけはならないよう注意しよう。
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クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-
2015 JAN 31 18:18:44 pm by 東 賢太郎
先日、ラヴェルのマ・メール・ロワを書きながらyoutubeを見ていたら、こんな演奏にあたった。ラヴェル 「マ・メール・ロワ」 の最初の楽譜(第3曲 「パゴダの女王レドロネット」)を見ていただきたい。
とても速いテンポで始まる。それが中間部に入るや第二ピアノの女性がすごいブレーキを踏んで、完全に集中して自分のペースに持ち込んでしまう。相手はいまやピアノ界の大御所、天下のマルタ・アルゲリッチ様である。この女性は何者だ?
関東の女性の方からボレロについてメールをいただいたと書いたが、そこに「グルジア人でKhatia Buniatishviliという現在27才の大変美しいピアニストがいます」とあった。まったくの偶然だが、タイトルを見てみるとこの第二ピアノの女性こそがまさにそのカティア・ブニアティシヴィリだった。
さっそく他の演奏を聴いてみる。このブラームスの第2協奏曲には仰天した。見事に曲想をつかんで弾けている。しかし第2楽章で同じミスタッチを何度もする。圧巻は終楽章のコーダに移る部分。完全な記憶違いで音楽が止まってしまい会場が凍りつく。本人も驚いてすぐ弾きはじめるが、大事な経過句をぶっとばしたかなり先だ。オケがついていけずしばし独奏状態となるが、やがて事なきを得て終わる。
なんともおてんば娘だが、それでも満場の喝采をうけ、オケも祝福している。これは彼女21歳のルビンシュタイン国際コンクールの映像で、第3位に入賞している。いや、その年でこの曲を弾けているだけでも普通じゃない。そして大チョンボをしでかしても周囲を応援団にしてしまう。この子はものすごいオーラを持って生まれている。
このシューマン、かなり恣意的だが説き伏せられる。終楽章のテンポなど僕は容認できないが、頭はそう思っても最後は拍手している。そしてアンコールのリストを聴いてほしい。指揮者もオーケストラ団員も一人残らず彼女の世界に引きずりこまれ、息をひそめて彼女の「聴衆」になってしまっている。こんな光景はなかなかない。
このグリーグは参った、降参。これは男には描けない究極のフェミニンな世界だ。それにこんな風に視線を送られたら指揮者も彼女に指揮されてしまうしかない。ちなみにこの指揮者はここで絶賛したトゥガン・ソヒエフだ( N響 トゥガン・ソヒエフを聴く)。彼も彼女もグルジア人。スターリンを出した地ではあるが、才能の宝庫でもあり、一度行ってみたくなるばかりだ。
終楽章のコーダは傑作である。ピアノが猛スピードで突っ走って指揮者がえっという表情を浮かべ、オケのトゥッティでいったんテンポを引き戻す。しかし火がついてしまっている彼女は駆け登るアルペジオでオケより先に頂上に行きついてしまい、最後を2度くりかえして帳尻を合わせる。最後の和音連打はもう早くしてよと催促し、最後のイ音を思いっきり連打して溜飲を下げて終わる。こんなのは普通ありえないが、彼女のヴィジュアルを含めた総体が発する強烈なオーラがそれを正当化してしまい、ご愛嬌になってしまう。これはこれでひとつの芸だ。
スタジオで録音されるためのミスのない、きれいに整えることを目的としたような演奏はほんとうにつまらない。スーパーに並ぶF1のパック野菜のようだ。カティアの産地直送とりたて丸かじりはそれに対する新鮮で野性味あふれるアンチテーゼだ。少々トマトの形が不ぞろいでもいいじゃないかということで、彼女のたくさんあるミスタッチは勢いに飲みこまれている。このままだと、彼女が有名になればなるほど賛否両論が出てくるだろう。
ベートーベンにピアノを教わったチェルニーは「たとえミスタッチが無くても、義務的な気のない弾き方をすると怒られた」と書いている。逆に自発的で気の入った生徒のミスには寛容だったそうだ。そういうことだろう。上記ブラームスも、彼女は曲を良くつかみ、共感し、曲に「入ってしまっている」ことは争えない。2番を女性が苦労して弾いている危うさが全然ないのであって、じゃああのミスは何かといえば、第2楽章も第4楽章も技術不足ではなく記憶違いだ。つまりスコア・リーディングの問題である。
この破竹の勢いでモーツァルトやベートーベンを弾いて今すぐ世界を納得させられるかというと疑問だが、スコア・リーディングは学習と共に人間の内面の成熟にも関わることで、時間が解決するのではないか。それよりも、彼女の持っている天真爛漫さ、集中力、聴くものを金縛りにする吸引力といった、訓練によっても時間をかけても獲得できるとは限らない天性のほうを買いたい。1987年生まれの27歳、恐るべし。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草-モーツァルトのピアノソナタ K330はオペラである-
ブニアティシヴィリを初めて聴く(2月18日、N響B定期、サントリーホール)
東京一と思ってる世田谷の鮨屋でのこと。ユーモアのセンス抜群の脳外科医の先生が、ちょっとほろ酔い加減で、「知ってます?大きな声じゃいえませんがね、ここのスシはね、親父がこっそり麻薬いれてるんですよ。だからときどき食いたくなって困るんです。」とわりあい大きな声でおっしゃって、親父も客も爆笑。たしかに、また来たくなる味なのだ。
今日初めて実物を見た彼女、それを思いだした。曲はシューマンのコンチェルト。ビデオで見た通りの美貌だ。たまたま同曲の画像を本稿に貼ったがひょっとしてドレスは同じものか?(すいません、女性の服はあまり見分けがつかないので)。しかし「麻薬」はそれじゃない。
満場を金縛りにするピアニッシモの威力のほうだ。
オケの一撃に続き、脱兎のごとく下るピアノの和音。クララ主題は触れればこわれるほどひっそりとデリケートに奏でる。このピアニッシモが電気みたいに痺れる。くせになる。この人、静かになるとおそくなり、大きくなるとはやくなる。その静かなところの吸引力たるや、ブラックホールみたいだ。
と思うと、最後に急にアッチェレランド(加速)してそのまんまポーンとオケにぶん投げる。オケはあらぬ速さで受け取ってしまい、早送りの画面みたいにあくせく弾く。それを楽しんでる風情だ。カデンツァもゆっくり弾きこむと思いきや、中途でいきなりトップギアが入る。テンポは常に生き物みたいに流動。こういうのは男性ピアニストがやろうものなら、お前、今日ちょっと大丈夫?っていう性質のものだ。これは僕がかつて聴いた、ボラティリティ(振幅)最大のシューマンである。
男はこういうイロジカルな情動はあんまりないし、ついてもいけない。指揮者(同じパーヴォ・ヤルヴィだ)はじっくり彼女とアイコンタクトして合わせてしまうからフレキシブルなこと称賛に値する。圧巻は第3楽章だ。ビデオも快速だがこんなのかわいいもんだ、今日のは驚天動地としか言いようもない。僕の人生で、いやもしかして人類最速のシューマンだ。仮にだが僕が指揮者だったら?ごめんなさいと棒を置いて家に帰るだろう。ピアニストが男だったら?なんじゃ、おい、それはラヴェルか、ええ加減にせいと棒を投げつけるだろう。
腕前はフォルテのタッチが荒っぽく、緩徐楽章に一音だけ変なのがあったが、まあうまい。しかしこの人をクラウディオ・アラウやユージン・イストーミンと比較はできない、女性の子宮感覚みたいなものかもしれないし、女性であってもマイラ・ヘスやアニー・フィッシャーと比べてもナンセンスだろう。伝統とか様式とか思考という言葉や概念を超越した、感性のピアノだ。
その演奏スタイルが彼女なりにビデオより格段に自由自在に操れるようになっており、手の内に入っている。なりふりかまわぬ我が路線で、現在進行形で進化しているようだからやはり恐るべしだ。しかし、魅力的なところもたくさんあったのだが、暴れ馬に結局ふり落されたまんま終わってしまった感じが残る。残念ながら不完全燃焼だった。 会場もブラボーは飛んだが僕と同じ思いの方も多かったのではないか。
そしてそおっとひそやかに始まったアンコールのドビッシー「月の光」。
したたかな女性はちゃんと自分のチャームポイントを心得ているのだ。緩急自在、伸縮自在のピアニッシモの嵐!もうシューマンは忘れ、忘我の境地に入っている自分を発見する。やっぱり麻薬にやられてしまった。
(その前後の演目、R・シュトラウスの変容とツァラトゥストラについて。後者は並みのオケだと音がだんごになって濁りがちな部分があるが、まったくなし。23パートのソロ・アンサンブルである前者は言うに及ばず、この日は良いピッチで透明感のある弦がまことに効いており、その純度が管にも伝播しているようだった。何度もしつこく書いてきたことだが、この日はコンセルトヘボウ管弦楽団のコンマスであるヴェスコ・エシュケナージがそこに座ったのだ。ヴァイオリンのみならず、弦の質感が違う。ネロ・サンティもそうだったがヤルヴィも、おそらく、そう感じているのであり、ワールドクラスの音を作ろうという強固な気構え、コミットメントが見える。本当に良い指揮者を迎えたと思う。このツァラトゥストラはかつて聴いた最高の名演であり、世界に問うてN響の名誉になるクオリティの演奏だった)
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
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モーツァルト交響曲第40番ト短調 K.550
2014 JUN 1 18:18:17 pm by 東 賢太郎
交響曲第40番の冒頭のテーマは、モーツァルトの作品の中でも最も有名なものの一つでしょう。まずいきなり、この曲の録音のうちでも非常に有名なブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏を聴いていただきます。
このインパクトの強い曲が「ト短調(G moll、♭が2つ)」で書かれたせいかどうか、その後の音楽史でこの調の有名曲というのは意外に少ないのです。当のモーツァルトも交響曲第25番、弦楽五重奏曲第4番、ピアノ四重奏曲第1番ぐらいです。以下、思いつくものを挙げてみると、
ハイドン
交響曲39番、83番、弦楽四重奏曲33、74番
ベートーベン
ヴァイオリンソナタ2番、ピアノソナタ19番
シューベルト
弦楽四重奏9番、ソナチネ3番
メンデルスゾーン
ピアノ協奏曲1番
シューマン
ピアノソナタ2番
ブルッフ
ヴァイオリン協奏曲第1番
ショパン
バラード1番、ポロネーズ11番、夜想曲11番、チェロソナタ
ブラームス
ハンガリー舞曲1,5番、ピアノ四重奏曲第1番、ラプソディ2番
チャイコフスキー
交響曲第1番
ドヴォルザーク
ピアノ協奏曲、ピアノ三重奏曲2番
サンサーンス
ピアノ協奏曲2番
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲4番、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲1番
ドビッシー
弦楽四重奏曲 、ヴァイオリンソナタ
プロコフィエフ
ヴァイオリン協奏曲2番
フォーレ
ピアノ四重奏曲2番、チェロソナタ2番
グリーグ
弦楽四重奏曲
ショスタコーヴィチ
交響曲11、14番、ピアノ五重奏曲、チェロ協奏曲2番
ニールセン
交響曲1番
大体こんなものでしょう。ト短調といえばまず誰もがモーツァルトと来るのは他が少ないせいもあるかもしれませんね。
しかしここに挙げたどの曲よりも、やはり「モーツァルトの40番の魔力」は群を抜いているように思います。それがどこからくるか。楽譜の引用だらけになってしまうのは避けたいと思っていたら、レナード・バーンスタインがピアノを弾いて解説しているビデオを見つけました。英語もとてもわかりやすいですのでお聞き下さい。
説明もピアノもうまいですね。ただちょっと専門用語がわかりにくいので補足しましょう。chromaticism(クロマティシズム)と彼が言っているのは半音階的な作曲技法のことです。普通我々が巷で耳にする音楽は一部のジャズを除くとほぼすべて全音階的(diatonic)に書かれています。大雑把にいえばピアノの白鍵だけでほぼ弾ける音楽ということで、半音階的(chromatic)というのは黒鍵もたくさん使わないと弾けない音楽ということです。
バーンスタインはこの曲をa work of utmost passion uttely controled and free chromoticism elegantly containedと形容していますが、これは見事に40番の美質を言い当てています。「(情熱はただでさえ制御しにくいものなのに)とてつもない情熱がここでは完全に制御されており、自由な半音階的作曲技法がエレガントに用いられている」という意味です。
第1楽章の第2主題は主音(トニック)のgからc→f→b♭と5度圏(circle of fifth)を下がって変ロ長調です。そこからです。彼が左手で弾いている5度圏のドミナント→トニックのバスはモーツァルトの発明ではなく音楽の本質(理論、神様の発明)であり全音階的です。そこに右手でモーツァルトの発明である半音階的なメロディーが乗っかってd、g、c、f、b♭、e♭と下ります。すると、彼はこういいます。「何だこれは?全く新しい(ト短調にも変ロ長調にも全然関係のない)変イ長調になっちゃうぞ(What’s this? Whole new key of A♭major!)」。この「神様の全音階のルールに乗って規則的に進むと、あらぬ景色に至ってしまう」という転調の一例が、僕が41番のブログで楽譜を載せた信じられないほど美しい第2楽章のあの部分でもあるのです。
ト短調の曲なのに第1楽章展開部が半音下の嬰へ短調(F#m)で始まる部分をバーンスタインはimpossible(あり得ない)!と驚いています。いや、展開部だから何があってもいい、しかし、それを自然にオリジナル・キーのト短調に戻さなくてはいけない。それをモーツァルトがどうやったか?全音階的神様ルールにいわば数学的に従ってドミナント→トニック→それをドミナントに読み替え→新しいトニック・・・と旅を続けます。f#、b、e、a、dと来て故郷のgに無事に帰還します。バーンスタインはビデオでこれをbeauty and ambiguityと呼んでいます。神のルールは全音階的で盤石なbeauty(美)であり、モーツァルトのメロディーは半音階的でambiguous(多義的、曖昧模糊)ということです。
モーツァルトの音楽の美の本質がこの説明に見て取れます。人間+神。弱さ+強さ。どこか人間的な迷いや憂いを含んだ「曖昧さ」が絶対無比で盤石な「美の摂理」に乗っている。弱い人間である我々聴衆はその曖昧さに魅きよせられ、しかし実は根底でそれを裏打ちしている本質と宇宙の原理という絶対的な美によって有無を言わせず感動させられる。だからモーツァルトの音楽は200年余にわたって世界中の人々のハートをぐっとつかんでしまったのです。
しかし、この驚くべき40番では、バーンスタインが感極まって2度もピアノを弾いているあの部分、終楽章の展開部の入りのユニゾンですが、そこに至ってモーツァルトはそのbeauty and ambiguityの掟を自ら破っています。五度圏ルール(神)は消えて人間の情熱(passion)というambiguityが勝ってしまっているのです。これは字義通りロマン派音楽の領域に見えますが、どうしてどうして「基音のg以外のオクターヴのすべての音 (11音)」が使われるという別の「ルール」がその部分だけは支配しています。そのルールが五度圏ルールのように本質的な神のルールかどうか。12音技法音楽はそれを試行したものだと考えることもできるでしょう。
本稿をお読みの皆様は間違いなく音楽を心から愛し、音楽をもっと良く、深く知りたいという関心をお持ちの方でしょう。僕もその一人にすぎません。僕自身がそういう本やブログを読みたいと願っている者ですが、それが探してもなかなかないのです。だから自分なりに勉強するしかなく、そこで発見したこと(そういうことはネット検索しても絶対に出てこない)をこうして書きとめています。他の誰より自分が読みたいようなブログを自分で書いているということです。
その僕にとって、このレナード・バーンスタインの講義は福音のようです。こういうことをブログで皆さんと共有したいのです。彼は音楽学校の生徒をイメージして話していると思いますが、「fresh phonological earsで音楽を聴くように」というメッセージを繰り返していることにご注目ください。phonologyとは「ある言語の音の体系およびその音の音素の分析と分類の研究」のことです。我々としては、英語を学ぶときの文法(グラマー)と思えばいいでしょう。そんなの知らなくてもアメリカの子は英語を話すじゃないか?それは母国語だからです。文法は非母国語民にこそ必要なのです。文法をちゃんとやった人とそうでない人で英語の読解力に大差があるのはどうしようもないことですし、もっといえば、日本語だって文法(知識ではなく規則性に対する感覚)へのリスペクトなくしてきちっとした読み書きはできないと思います。
音楽の文法も同じことで、音楽を母国語(専門)としない人こそ知るべきだと僕は思っています。音大の指揮科や作曲科の人にはいわずもがなのことですが、多くの素晴らしい音楽を彼らの占有物にしておく必要はありません。だからバーンスタインの言葉そのままをお借りします。ちょっとした努力をしてfresh phonological earsを作ることで世界が、音楽人生が変わります。それにはどうしたらいいか?簡単です。彼がビデオで解説しているようなポイント(音楽の文法的なこと)に日ごろから関心を払うことです。この曲にはどういう文法があてはまるのかなと自分の頭で考えるわけです。音楽の文法とは旋律、和声、リズム、形式など。そういう基礎知識はwikiや本にいくらでも書いてあります。
考えるというのは左脳の仕事です。右脳で聞いている音楽を、ちょっと左脳も使って聴いてみる。別に難しいことではありません。考えるためには言葉が必要ですが、ある音楽を聴いたイメージという目に見えないものを言葉にしてみるだけで左脳は活躍してくれます。そういえばワインのソムリエにうかがうと、ワインの個性は「感じ」では覚えられないので「言葉」で覚えるそうです。それも「味」というのは4種類しかなくラベルとしては足りないので、微妙にたくさんを分類できる「香り」でいくそうです。「ライムのような香り」「チョコレートのビターな香り」「猫のおしっこ(!)」などなるべく具体的に。音楽の文法も、ドミナント→トニックは「朝礼のお辞儀」、トニック→サブドミナントは「デートの朝」なんてのはいかがでしょう。
左脳が文法を覚えるとどういうことが起きるか?例えばさきほど、バーンスタインがimpossible(あり得ない)!と驚いているF#mのことを書きました。phonological earsとは、これが「あり得ない!」と聞こえるような耳のことです。僕もこれはそう聴こえます。イ短調のトルコ行進曲の中間部がF#mになるのも「あり得ない!」と思って聴いています。そういう風にきこえるようになります。freshという形容詞をつけているのは「君たちはおそらく漫然と聞いていてそうは聞こえていないと思う。だから新しい耳が必要なんだよ」という啓示です。謙虚にききたいです。モーツァルトはその耳の持ち主に向けて40番を書いています。そうすると彼の神がかった音楽が、もっともっと味わえるようになるのです。クラシックだけではありません。ビートルズがどう聴こえるかを書いたのがブログ Abbey Road (アビイ・ロードB面の解題)でした。
新しい耳を作ってください。お薦めするだけでは無責任なので僕が非常に勉強になった参考書(あんちょこ)をご紹介します。バーンスタインが若い頃のTV番組 Young People’s Concerts のDVD(右)です。効果は非常にあります。amazonで13,108円で売ってます。 子供向けですからわかりやすく、しかし内容は本質的、本格的で子供レベルに落とさないところがアメリカ的です。欧州人のカラヤンやショルティがこういうことをやったという話は聞いたことがなく、貴重な知識を惜しげもなく無料で開放するのもアメリカの美質であり実に良い。実際にお会いしたバーンスタインさんの精神を愛し、爪の垢ぐらいでいいから煎じて飲みたいと思っております。
さて最後にCDですが、40番の演奏を選ぶというと僕はとても迷います。何回きいたか想像もつきませんし楽譜もじっくり眺めて良く知っています。しかし、39,41番には定見といいますか、演奏はかくあるべしという自分なりの趣味ができているのが、40番にはまだそれがありません。どうしてかはわかりませんが、まずオケの編成を見ますと35番「ハフナー」以降の交響曲でトラペット、ティンパニの入っていないのは40番だけです。だからどこか室内楽的なのですが、改訂版ではクラリネットが2本入る。そうすると音色に「魔笛」的性格が出るのですが、魔笛というオペラのどこにも、他のオペラにも、40番のような音楽は出てこないのです。
僕にはJ.S.バッハの音楽に対する時も似た傾向があって、マタイ受難曲はやっぱり誰々の指揮がいいとかオーケストラはどこがいいとか、そんな上っ面な事よりも音楽そのものを味わえるかどうかの方が何倍も大事だと考えております。キリスト教徒でない自分が純音楽的にどう理解できるかという勝負を聴くたびに挑んでいるということです。そこで落っこちてしまったら演奏の良し悪し程度で救われるものでもありません。バッハがそういう音楽だから僕はグレン・グールドの演奏が許容できるのだと思います。モーツァルトのト短調交響曲はなぜか僕にそういう挑みかけをしてくるモーツァルトの作品の中でも稀有な音楽であり、正直のところまだそれを乗り越えたという実感がないのです。
ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団
冒頭でお聴きのとおりこのテンポ、第1楽章はmolto allegro(とっても速く)だから遅すぎます。楽譜を見ているといろいろな点で「どうも・・・」となりながらも最後は感動している、そういう演奏です。最晩年のワルター、老境の達人の語り口を刻み込もうと入念なリハーサルが行われたのは管弦の細かいフレージングの合い方を聴けばわかります。ちょっとした間や強弱まで完璧にやっている。それを奏者が納得して決然と弾き、だからインパクトの強い演奏になっているのですが、ワルターの解釈自体に非常に説得力があるため耳には不自然さが微塵もありません。結局モーツァルトはこう望んでいたんだろうなと思わせてくれる。ワルターの40番というとウィーン・フィルを振った有名なライブ盤もありますが、弦のポルタメントが過剰で感傷に走った解釈であり、僕はあれが非常に苦手です。ところがこのコロンビア盤は、例えば第3楽章に他の演奏で感じたことのない堅固な造形美があるなど女々しさ、感傷、軟弱とは無縁なのです。演奏終楽章展開部の各パートの立体感など神技の域で、一度テンポを緩めてから突入するコーダの見事さは他の演奏の比ではありません。トータルに見て言い切るほどの自信はありませんが、まずはこの演奏で聴き覚えておけばよろしいのではないかと思う次第です。
(補遺、24 Aug 17)
イシュトヴァン・ケルテス / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ワルターの暗さ、情念、独特の語り口が嫌な方もおられると思う。VPOは40番をバーンスタインやレヴァインとDGに録音していて、音はそちらがいいし演奏はどちらもそれなりのレヴェルである。しかし僕はこのハンガリーの若人がうるさいオケを乗せて納得させたこのDeccaによるケルテス盤の一聴をお薦めしたい。40番がこれほどすいすいと流麗に柔和に流れていいのかと思っていたが、ロマン主義の洗礼がないモーツァルトの現代オケ版は案外これでいいのかなと最近考えるようになった。それでも第2楽章のVPOでなければ出ないヴァイオリンの魅力やトゥッティでのオケのボディと丸みのある質量感は美しいとしかいいようがない。両端楽章のテンポ、モルト・アレグロとアレグロ・アッサイはまぎれもなくこれであろう。
(こちらもどうぞ)
モーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543
モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君)
クラシック徒然草 -日曜日の朝の音楽-
2014 JAN 19 11:11:47 am by 東 賢太郎
カーテンの隙間から柔らかい朝日がさしこむ冬の日曜日の朝。何をするでもなくくつろいでコーヒーを飲みながら・・・・
そんな朝に居間で小さめの音で流そうというクラシックはなんですか?
まずはお決まりのこれでしょう。グリーグのペールギュント組曲から「朝の気分」。まさにぴったりですね。
僕の定番はこれです。モーツァルトのフルート四重奏曲第1番ニ長調K.285より第1楽章アレグロです。
このYoutubeはフランスの名フルーティスト、ミシェル・デボストとフランス弦楽三重奏団の名演です。華があり高雅でさわやか!当曲最高の名演のひとつです。モーツァルトでのお目覚め、いかがですか。第2楽章の悲しげな旋律が止まって不意に第3楽章に 入った瞬間、ぱっと世界が眩い光に輝いて見える魔法のような音楽をじっくり味わって下さい。こんな芸当、ほかの誰ができるでしょう。CDは右のものです。
これも朝にいいですよ。ドビッシーの映像第1集から「水に映る影」です。実はこれ、なんということか鳥取の一泊6千円のなんてことないビジネスホテルで朝飯の時に流れていて、何というハイセンス!!と驚嘆したわけです。朝用のCDにたまたま入っていたんでしょうが・・・。Youtubeで見つけたこのユージン・イストミンの演奏、いやあ、いいですねえ。CDなさそうですが、これ欲しいです。
最後にこれです。フランスはプロヴァンス生まれのダリウス・ミヨーの交響曲第1番の第1楽章パストラルです。フランス6人組のひとりミヨーに作曲を習ったのが「雨にぬれても」や「アルフィー」の作曲で有名なバート・バカラックですね。
僕の場合 この曲で起こしていただけると嬉しいです。
クラシック徒然草-愛器アウグスト・フェァシュター社ピアノを調律してもらう-
2013 SEP 8 0:00:14 am by 東 賢太郎
今日は1時からピアノの調律をお願いしました。ご近所にお住いの本邦調律界の大御所U先生にうかがったところ、ウチのアップライト(右)は旧東独のAugust Förster社製のものなのですが、日本にはあまりないとのこと。ぜひ見てみたいと初回は大御所本人が来てくださいました。その時に「将来を嘱望する若手のポープなので勉強させてやって下さい」と同伴されたのが白田先生でした。
今日は先生の2回目でした。これともう一台ヤマハのグランドをお願いし、いろいろうるさい僕のわがままを聞いていただいて終わったのは6時すぎでした。このアップライトは確か85年にロンドンのマークソン・ピアノで購入したものです。何台か弾いてみて、ひと目惚れで即決したのがこれでした。長女がロンドンで生まれたのが87年だからはるか先輩格に当たりますね。別に高級品ではないのですが、それ以来、我が家と一緒にロンドン→東京→フランクフルト→チューリッヒ→香港→東京と長旅を共にした家族としての絆を強く感じています。
調律は時間とともに少しづつ狂ってきます。それが耐えられなくて僕は調律用のハンマーをスイスで買って、自分で微調整などしてきました。しかし調律はピッチだけの問題でないのです。それが最近わかってきました。そこで今日は先生が「どんな風にしますか?」と聞くので「ラヴェルの音でお願いします!」とわけのわからんことを依頼しました。まるで床屋の会話です。「うーん、ラヴェルですか、クープランの墓?そうですね・・・・」だいぶお悩みの様子。「やってみましょう、でもこのアウグストのせっかくの音をいじるのはやりたくないですね。ヤマハの方でやりましょう」ということになりました。
そこから休みなしで3時間半。隣の部屋のヤマハは見事にベーゼンドルファー寄りの音に生まれ変わりました。それに感動し、先生に感謝の意をこめてこのブログを書くことになったのです。クープランの墓の一部、ショパンのワルツ、グリーグのコンチェルトのさわりなどを弾いて聴いてもらい、ほぼ音は問題なしとなって残り時間でアウグストを仕上げてもらいました。そっちではシェラザードの第1楽章を全曲、ダフニスとクロエの夜明けのところ、ドヴォルザークの8番などを。ミスタッチだらけでとても人様に聴いていただく水準には遠いのだけど本人だけは指揮者気分で満足。これがあるから僕は生きていけるのです。
先生から「ピアニストのどこで演奏を評価してますか?」というご質問。「指の回りではなく①フレージング②和音のバランスです」と答えました。「意外に好きな人が少ない。アラウだけ別格です。ミケランジェリはいいですがポリーニもアルゲリッチもリヒテルも今は聞く気がしない」とも。「ラヴェルはフランソワはどうですか?」ときたのですが、「録音がひどい。EMIの音にボディがない」ということで意見が一致しました。先生のイメージではラヴェルはベーゼン。楽器の音色のイメージをきくと「カワイは円筒、ヤマハはその円筒の中に円錐が入っていて2重、スタインウェイはさらにその円錐が2重になっているイメージを持っているんです。だからベーゼン。」と素人にはまったく理解不能の答えが返ってきました。「チッコリーニがファッツィオーリでベートーベンを弾いたのがなかなか良かった」という感想で、かなりお好みのイメージがわかってきましたとのことでした。
最後に先生に、「だんだんこういう音にして欲しい」と言って、ラヴェルを2つ、①アンヌ・ケフェレックの「水の戯れ」と②イヴォンヌ・ルフェビュールのト長調協奏曲の第2,3楽章をリスニングルーム(右)で僕の装置でじっくりと聴いていただきました。両者の音色の比較をああだこうだとプロの視点から詳しく教えていただき、大変勉強になりました。それなのに、「これはたぶんベーゼンだろうなあ・・・・ただ調律が特別ですね・・・・こういう音が出せるんですね。勉強になりました」と謙虚に語ってお帰りになりました。いやピアノひとつとっても音楽は奥が深いものです。この装置は1人で聴いていてももったいないし、先生のような方にお役にたてるのであればうれしい限りと思いました。楽器の方もヘタの横好きにばかり弾かれていてもかわいそうです。プロをお招きしてミニコンサートをやっていただくこともSMCで考えようと思っています。
クラシック徒然草-3枚のLP音盤-
2013 JUN 3 20:20:33 pm by 東 賢太郎
中古レコードを買いました。1枚目はチェコのスプラフォン盤でモーツァルト(ピアノ協奏曲第9番とハ短調ソナタ)、オケはカレル・アンチェル指揮チェコフィルハーモニー、1960年ごろの最初期のLPレコードです。
チェコ人にとってモーツァルトは特別のようです。交響曲第38番は「プラハ」だし、オペラもドン・ジョバンニや皇帝ティトの慈悲もプラハ初演。フィガロの結婚が最も愛されたのもプラハです。このジャケット、モルダウ川の冬ですが、実にいいですね。これを買ったのはピアニスト、ヒューゴ・シュトイレルとパヴェル・シュテパンが聴きたかったからです。最高でした。この頃のチェコの演奏、チェコフィルもスメタナ弦楽四重奏団もそうですが、音に暖かみがあり、きりりとひき締まったもぎたてのレモンのような切れ味があるのですが、この二人のピアノもまさにその路線です。こんなモーツァルトを今どき誰が弾いてくれるだろう。スプラフォンという当時国営のレーベルの録音もそれを活かす独特の色合いがあります。LPの時代はソ連のメロディア、ハンガリーのフンガロトンなど共産圏レーベルごとにお国ものの味があり面白かったのです。
2枚目です。これはにぎやかですね。ドイツ・グラモフォンのフランス盤で、これも1960年前後のものでしょう。「ロシアのこだま」とでもいったアルバム名でしょうか。A面はドレスデン・シュターツカペッレをクルト・ザンデルリンクが指揮したボロディン交響曲第2番。B面はルイ・フレモー指揮モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団によるグリンカの「カマリンスカヤ」、イーゴル・マルケヴィッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団のボロディン「中央アジアの草原にて」、グリンカ「ルスランとルドミュラ序曲」、リヤードフ「交響詩ヨハネの黙示録より」です。フランス人のジャポニズム(日本好き)は昔から有名で、浮世絵にはじまって今はパリの日本アニメ博覧会に200万人も押しかけるというから半端ではありません。また彼らは大のロシア好きでもあって、だからこそバレエ・ルッス(ロシアバレエ団)がパリで人気があり、あのストラヴィンスキーの3大バレエが生まれたのです(この原色的なジャケットを見ているとペトルーシュカを書く彼の心象風景のようなものが浮かんできます)。フランス人はエキゾチックなもの好きなんですね。しかしエキゾチック過ぎたのでしょうか、よく見るとスペルが間違っていて「カマリンスカヤ」が「カラミンスカヤ」になっています。細かいことは気にしないラテン気質、微笑ましいです。
そして3枚目。ノルウエーの作曲家、ヨハン・スヴェンセンの交響曲第1番ニ長調です。オランダのフィリップス盤で、1960年代のLPと思われます。2枚目のジャケットと比べると何と地味なことか。フランスと北欧の違い、ラテンとゲルマンの気質の違いがわかりますね。オド・グリューナー・ヘッゲ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団のお国もの演奏です。グリーグが初演を聴いて激賞したというこのシンフォニーは25歳の若書きとは思えない立派な作品で、オスロ・フィルがまるでブラームスをやるウィーン・フィルのような思い入れで全身全霊をこめて演奏しているのがわかります。音響の面でも、この頃のフリップス録音のオケの音が僕は大好きで、ことにLPで聴く弦の温かみとぬくもりは滋味あふれるものがあります。これぞヨーロッパの手作りの名品の味わいであり、たぶんあまり売れなかったろうと思いますが極めて素晴らしいレコードです。中古レコード屋はこういう掘り出し物との出会いがあるのでたまりません。以上、心から堪能しましたが、お値段は3枚で1,500円でした。
ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流
2013 APR 28 23:23:28 pm by 東 賢太郎
目下、僕が気になっているヴァイオリニストが3人います。ユリア・フィッシャー(Julia Fischer、ドイツ)、イザべル・ファウスト( Isabelle Faust,、ドイツ)、ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn、アメリカ)です。何故かぜんぶ女性です。ハーンはエルガーのコンチェルト(CD)で、ファウストは去年N響で聴いたプロコフィエフの1番でノックアウトされました。
今日は3人のひとり、ユリア・フィッシャーを聴いていただきたいと思います。この人はどうしてもライブを聴いてみたい。まず、メンデルスゾーンです。
彼女が「大好きな曲を弾いて幸せ!」と言わんばかりにオケにアイコンタクトしているのにお気づきでしょうか。オケ(特に木管奏者)が それを受けて、音楽する(Musizieren)喜びを音にして投げ返す。奏者の間を音と一緒に飛び交う「幸せ!」こそ、作曲家への最大の敬意でなくしてなんでしょう。楽譜から感じ取ったスピリットを皆が共有、交感しあっています。室内楽ならまだしも、大勢でやるコンチェルトでこういうのはあまりない。彼女の精神的影響力は尋常でなく、この人はあまり類のないすぐれたミュージシャンであると思います。
しかし、それだけかというとそうではない。そこに僕は感心しています。彼女はたぶんすばらしく理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろうと思います。それはプロなんだから当然と思われるかもしれませんが、僕の聴く限り、普通の演奏家はさっと流してしまうとか、厳密に意識がそこに集中していないとか、少なくともそう感じる部分がどこかあるのです。経過的なパッセージでそういうことがおきても、聴く方もあまり気には留めません。
普通の演奏家どころかオイストラフやスターンだってライブだとそれが結構あります。人間のやることですから、常にパーフェクトということははないのですが、しかし商品化して繰り返して聴かれる録音の場合は問題です。そこでいざ録音となると今度は安全運転に意識が行ってしまい、演奏にパッションがなくなる人が、これも多いのです。ハイフェッツなみの技術があれば弾きとばしてもほつれは見えないかもしれませんが、そういう場合、弦楽器というのは特に音程が僕にはとても気になることが多いのです。先日某CDショップへ行くと自分のCDのプロモーションで男性ヴァイオリニストがパガニーニを弾いていました。曲芸のような曲であるのはまあいいとして、音程の悪いのには閉口して鳥肌が立ち、なかなか終わってくれないので諦めてその日は家に帰りました。
それは極端な経験でしたが、大まかに言いますと、世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多いのです。上記の名手ヒラリー・ハーンもメンデルスゾーンのライブがyou tubeで聴けます。比べてください。良い演奏ですが、僕の基準ではパッションが勝って音程が少しだけ甘い。技術的に下手なのではありません。彼女のメンタリティーというか、どこに重きを置くかということです。こういうことを一般に演奏の「解釈」と言いますが、それはハーンの解釈なのであって、優劣ではありません。それを聴き手のひとりとして、僕が自分に合う、自分のメンタリティーからして好ましいと思うかどうかということです。
結論として、僕のメンタリティーは、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトという題材においては、ハーンよりもユリア・フィッシャーに近いものがあるということなのです。僕はなにも演奏は完璧でなくてはならないと言っているわけではありません。そうではなく、そういう微細な部分に演奏家の性格、心のあり方、音楽観などが見えるわけです。「身なりは靴で見られる」とよく言いますが、ちょっとした経過的パッセージは弾きとばしておいて朗々とした歌で勝負するというようなメンタリティーの演奏家は、すべてのジャンルで僕はあまり好きでありません。
ユリア・フィッシャーを「まず自分に厳しい人だろう」と僕が想像している根拠はまず音程です。彼女は音程の甘さをヴィヴラートでごまかそうというアバウトな弾き方を拒絶しています。音程というのは、要はドレミファ・・・です。ピアノにこの問題は存在しませんが、それ以外の楽器には、ミの取り方という大問題があります。ハ長調のミはホ長調ならドです。ピアノでは同じ鍵盤でも、純正調で和音が変化していくと微妙に違う音に弾かなくてはなりません。ヴァイオリンが主役となる音楽。協奏曲なら、チャイコフスキー冒頭、メンデルスゾーン第2楽章、ブラームス第3楽章はぜんぶ出だしの音がミです。タイスの瞑想曲もそうです。ミをきれいに取ることがヴァイオリン音楽の華であり、命だということがおわかりでしょうか。
ユリアの音程への厳しさは自然に他の奏者たちに伝播して、オーケストラまで素晴らしい音程で鳴っています。耳のいい人たち、音楽が大好きな人たちの集団ですから、いいものが聴こえてくればいい音で返す。そういう音楽家の本能が掻き立てられているように感じます。こういうことは僕は室内楽の演奏、たとえばスメタナ四重奏団のモーツァルトやジュリアード四重奏団のバルトークなどで経験したことはあっても、ずっと大きな合奏体であるコンチェルトという場では、実に珍しいことだと感じるのです。
次はチャイコフスキーです。今日初めて聴き、驚きました。すばらしい技巧とデリカシー!ここでも彼女は作曲家の言いたいことに敏感に反応し、それがオケに伝播している様を感じ取ることができます。指揮のクライツベルグがそれに充分に共感し、コクのある音響でオケをユリアと同じ方向に導いています。録音も良く、これは同曲トップを争う名演CDといえるのではないでしょうか。
ユリアは現在30歳。21世紀前半、世界を代表するヴァイオリニストになることはまず間違いないでしょう。彼女の室内楽というのはすごく関心があります。カルテットをつくれば最右翼級になる資質という意味でも同世代のヴァイオリニストで群を抜いているし、その気になれば指揮者だってあり得るでしょう。
さて、ここまで書いてyou tubeを見ていると、さらにびっくりするものを見つけました。これです。
なんとユリアさん、ヴァイオリンを置いてグリーグのピアノ協奏曲を弾いちゃってます!これも立派なものです。ちょっとのミスはご愛嬌。彼女がこの曲を愛していることがハートでわかります。僕も愛してますから。そう、これはヴァイオリンじゃあ弾けないよね。ただ、クリティカルに見れば、指揮者がだめなせいが大きいですが、彼女は欲求不満がたまったかもしれません。
日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが、彼女のは堂々と世界に通用してしまいそうです。おそるべき才能に脱帽!
(追記)
彼女のインタビューをきいて、最も尊敬するヴァイオリニストはダビッド・オイストラフであるということを知りました。僕にとって彼は音程が圧倒的に素晴らししい人であり、やはり最も好きなヴァイオリニストの一人であることはこれでお分かりいただけるでしょう。
また、このブログでたまたま二人のCDをトップに並べておりますが偶然ではなかったかもしれません。
やはりインタビューでユリアのお父さんが数学者と知りました。読みかえすと僕はこの3年前のブログに「理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろう」と書いてますが、やはり後で知ったことですがアンセルメ、ブーレーズと僕がひとめぼれして影響を受けた演奏家が数学に関係ある人というのは何かあるのかと感じます。
(追記、3月14日)
バッハの音楽というのは楽曲解釈という次元において好き嫌いが生じにくいと思う。少なくとも、僕には生じない。ソロの曲はもちろんだが、管弦楽組曲のような音楽において、オーケストラ曲なのだから楽器のバランスとか強弱のコントラストとか、ベートーベンやブラームスだったら気になる物事が演奏の是非のファクターとして認識されていないことに自分で気づく。
それは楽曲の方が宇宙の調和の如くに、あまりに完璧に書かれていて、もちろんベートーベンがそうではないということではないが、誰にも真似られないバッハ的な完成度という意味において、演奏家がエモーションや個性というもので色付けを行う余地が随分と限られているからのように思う。
バッハの時代、調律は現代と違った。違ったから平均律(ほんとうはwell tempered、程よい具合に調律されたという意味)という名前の音楽ができた。バッハがヴァイオリンやチェロの単旋律で宇宙の広がりのような音楽を発想し書き留めたのは、調律(音律)そのものに宇宙の調和の原理を見届けていたからだ、とそれを聴いていつも僕は感じる。
「ユリアの音程への厳しさ」について散々書いたが、バッハの小宇宙を描ききるのにこれほど必要とされるものはない。楽曲解釈ではない、彼の楽譜にはその手がかりとなるものは何も書かれておらず、何が正解かを知る者もいない。厳密に正確な音階と、調性に応じたピッチの取り方と、我々の時代が伝統的と感じる明確なフレージングと、それ以外に音楽の生死を決する要素の何があげられるだろうか。
これは耳を研ぎ澄ませて味わうことできる演奏だ。
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グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16
2013 MAR 24 17:17:53 pm by 東 賢太郎
日本では明治維新が起きていた1868年のことです。24歳のノルウェーの若者がピアノ協奏曲を書きました。そしてそれは音楽史に永遠に刻まれる傑作となりました。
このことはあまり注目されていないのですが、24歳で書いた作品がその人の生涯の代表作となり、しかも世のそのジャンルの代表作として永く生き続けているケースというのはありそうであまりありません。
天才たちの24歳。
ベートーベンは作品1のピアノ三重奏、モーツァルトはイドメネオk.366、ベルリオーズはローマ賞に挑戦、シューマンは作品2の「蝶々」、ワーグナーはまだリエンツィも書いていません、ヴェルディもまだ作品なし、ビゼーは真珠とり、ドビッシーはローマ留学中、ラヴェルは「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」、チャイコフスキーは交響曲1番作曲の2年前、ドヴォルザークは作品3の交響曲第1番、マーラーは巨人作曲の4年前、ショスタコーヴィチは「黄金時代」、プロコフィエフは「スキタイ組曲」、プッチーニは「妖精ヴィリー」、バルトークはピアノコンクールで2位入賞、という具合です。24歳というのは侍ジャパンのエース、広島カープのマエケンの歳なんです。
未完成(25歳)のシューベルト、バラード1番(25歳)のショパン、イタリア交響曲のメンデルスゾーン、ピアノ協奏曲1番のブラームスは早熟ですね。しかし後にさらに大作を書いています。もし一人だけ似た人を探すなら、28~30歳で3大バレエ(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)を書いたストラヴィンスキーだけかもしれません。
グリーグもストラヴィンスキー(右の写真)も、音楽的には田舎であるノルウェー、ロシアの生まれ。イタリア、ドイツの伝統的な作曲法を学びつつも、自分の故郷の土の匂いのする語法をそこに盛りこんだという意味では意外に共通項があります。その語法が画期的だった上に、後世誰も模倣できない個性的なものだったから彼らの作品はそのジャンルの代表作となって生き延びているのです。
グリーグはピアノ協奏曲第2番を構想しましたがついに果たせませんでした。この曲があまりに存在感があり人気もあったからでしょう。ちなみにエジソンが録音機を発明して初めて録音されたピアノ協奏曲はこの曲でした(1909年にバックハウスのピアノで、たった6分に短縮されたそうです)。グリーグは愛するこの若書きのコンチェルトを生涯にわたって改訂し続け、300か所に及ぶ変更の最後の一つが書き込まれたのは彼が64歳で亡くなるわずか数週間前のことだったそうです。動機はともかくやはり作曲家の晩年まで何度も改訂されたストラヴィンスキーの3大バレエと似ています。
冒頭のティンパニ(!)に導かれたピアノによる4オクターヴ・ユニゾンの滝のような下降音型(楽譜・右)はあまりに有名で、クラシックに縁がなくてもこれを聴いたことのない人は少ないでしょう。グリーグは15歳の時にクララ・シューマンの弾く夫シューマンのピアノ協奏曲イ短調をライプツィヒで1858年(59年説もあり)に聴いて影響を受け、このコンチェルトを書いたという説があります。僕もそれを支持します。共に生涯1曲のものであり調性も同じで、この下降音型もシューマンをモデルにしたものではないでしょうか。
作曲して2年後の1870年にローマでグリーグはこの曲の自筆楽譜を携えてヨーロッパ音楽界に君臨していた59歳のフランツ・リスト(右の写真)のもとを訪ねます。リストはそれを初見でオケのパート部分も含めて全曲弾き、聴いていた音楽家たちを仰天させましたが、グリーグは第1楽章が速すぎると控えめに指摘したそうです。そして第3楽章コーダでリストは手を止め、「gだ、gだ、gだ、gisじゃないんだ!素晴らしい!」と叫び、そして弾き終えると作曲の才能を褒め称えてくれたとグリーグは両親に手紙を書いています。それは下の譜面(最終ページ)の4小節目、ナチュラルがついている「g(ソ)」のことなのです。
まさしく、この「ソ」にナチュラルがついていなかったら、この曲は凡庸なもので音楽史に名をとどめることもなかったでしょう。これを書いたグリーグの感性も素晴らしいですし、初見でそれを見抜いてしまうリストの眼力にはただただ驚嘆するしかありません。
このコンチェルトに封じ込められた旋律、リズム、和声の創意の才は尋常ではなく、僕は何度聴いても飽きるということを知りません。シンプルなのにおいしい、例えばカレーやラーメンみたいなもので、いくら食べてもまた食べたい日が来るという食べ物に似ているところがあります。いや、飽きるどころか自分で弾きたいという欲求に駆り立てられており、最近はピアノに向かうととにかく第1楽章を少しづつ練習するのがルーティーンになっております。また、予想外の変ニ長調で始まる第2楽章アダージョのオケパートを弾くのも至福の時であり 、第17,19小節に出てくる「ため息」としか思えない(低い方から)e♭、b♭、c、g♭の和音や、ピアノが出る直前のホルンにそっと寄り添うデリケートな和音など、グリーグ以外に書いた人は誰もいなかったし後世にも出て来なかった奇跡のような瞬間を自分の指先で味わうと、ああ生きててよかったと思うのです。フルートがうち震えるように吹く第3楽章第2主題は高原の風のように涼やかで、それを受け取ったピアノが奏でて展開していく部分の最高にポエティックでロマンティックでエロティックな和声は誰のものともまったく違い、グリーグ自身もこんな神品は二度と書けていません。書けばきりがないほどマジカルな音に満ちているのがこの曲なのです。憑りつかれたら一生聴き続けるしかありませんからご注意あれ。
ディヌ・リパッティ (pf)/ アルチェオ・ガリエラ(cond.) / フィルハーモニア管弦楽団
古い録音ですが今でもこれをベストにあげる人が多いのではないでしょうか。異論なしです。リパッティのタッチの美しさは尋常でなく、技術的にも難所を軽々とクリアしていく様は空駆ける天馬のごとし。詩情、リズムの切れ味、力感どれをとっても満点でしょう。第3楽章第2主題の神々しく清楚でクールなこと!これを知ってしまうと他がちっとも清楚に見えなくなるというのも困ったものなのですが・・・(僕はいまだにそうです)。泣く子も黙る名盤中の名盤です。
フランス・クリダ(pf) / ズデニェック・マカル(cond.) / フィルハーモニア管弦楽団
昨年他界したリスト演奏の大家、マダム・クリダのタッチは硬質なクリスタルを思わせます。大概のピアニストが曖昧に弾きとばす部分も明晰に響かせるラテン的な感覚によるグリーグは魅力に富みます。第1楽章第1主題の付点リズムとスタッカートをこれだけ生かした演奏もなかなかないのですが、ここは自分で弾いてみてこのような跳ねるようなリズムが最もグリーグのピアノ作品、例えば抒情小曲集などと比べてしっくりくるのです。マカル指揮のオケも好演でクリダの透明感あるタッチによくフィットした音でサポートしています。
ラドゥ・ルプー(pf) / アンドレ・プレヴィン(cond.)/ ロンドン交響楽団
一言で、美演です。うっとりするほどただただ美しい。シューベルトの即興曲でも紹介しましたがこのルプーというピアニスト、天性の詩人です。フィラデルフィアでモーツァルトの17番の協奏曲を聴きましたが生でもその音の印象は変わりません。その資質はむしろシューマンの見事な第1楽章カデンツァに発揮されていますが、グリーグでも第3楽章第2主題はリパッティを除けばこれがベストです。プレヴィンのサポートも素晴らしく、第2楽章導入部のオケは今もってこれ以上の演奏を聴いたことはありません。触れれば壊れるほどの最高のデリカシーで吹かれるホルン!映画音楽みたいになるぎりぎりの所まで行っていますが下品に陥らないのはさすがプレヴィンです。
ハリーナ・ツェルニー・シュテファンスカ(pf) / ヤン・クレンツ (cond.) / ポーランド放送交響楽団
シュテファンスカは練習曲で有名なツェルニーの血筋で、ショパンコンクール審査員も務めるショパンの大家です。どこといって派手な所はなく正攻法のグリーグですが音楽の持つ魅力を何度も味わうにはこういう演奏の方がいいのです。リヒテルやルービンシュタインの演奏もあり、言うまでもなくそれぞれ技術的に見事なピアノなのですが、この曲のヴィルトゥオーゾ的な面が勝った印象があります。「うまい」というだけで、それがリパッティのように詩的な側面の印象に資するという感じがしません。この曲の場合そうなると詩情が消えてしまうのです。このシュテファンスカ盤はそれがいいバランスで達成されていて、名匠クレンツのオケも過不足ないサポートをしています。
追加しましょう(16年1月11日~)
アール・ワイルド / ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
アール・ワイルド(1915-2010)ほど日本では等閑視された大ピアニストも少ないでしょう。このグリーグも評判になった記憶はまったくなく、米国のヴィルトゥオーゾ・ピアニストは彼にせよアビー・サイモンにせよ我が国の評論家に完全に無視され、その分、ホロヴィッツひとりが神格化されました。実に馬鹿げきった話であり何か商売の裏事情でもあったかと疑念を持つほどである。これは最高の名演であり深々したタッチのキレはもちろんのこと、緩徐部の詩情もリパッティ級に素晴らしい。もしラフマニノフがこれを弾いたらかくやという渇望を満たす水準のピアノです。12音音楽の泰斗レイボヴィッツの名前も正当な評価にバイアスとなったかと推察されますが最上質の抒情に何の不足もなく、そうだとしたら節穴の耳としか考えようもない。録音も良好であり、ワイルド、レイボヴィッツの名誉のためにもぜひ広く聴かれて欲しいと思います。amazonでearl wild griegと打ち込めばたった900円で入手できます。
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