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カテゴリー: ______シューマン

シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD

2013 MAR 23 0:00:26 am by 東 賢太郎

ライン交響曲のおすすめ盤です。

ベルナルド・ハイティンク/ アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

41pw3fRlPIL何の飾り気もなくスコアの改編も控えめです。しかし世界に冠たる名ホールであるコンセルトヘボウでそこを本拠とする名門オケが底力を発揮した筋金入りの名演。これを聴けばシューマンのスコアは優秀なオケの各パートがしっかりと「いい音」さえ出せばこれだけ鳴るのだということがわかる人にはわかるはずです。第1楽章はライン下りを経験した方にはまさにあの光景そのものと感じていただけるでしょう。指揮は盤石の安定感で音楽の流れに掉さすことは一切せず大河に身を任せ、コーダの悠然とした表現はこれ以外に考えられないほど素晴らしい千両役者の風体です。第5楽章の入りの裏で合いの手で鳴る何気ないホルンの素晴らしさ!まさに理想的でこうでなくてはシューマンの意図は生きないという絶妙なものです。マーラーのようにどうでもいい下らない部分に手を入れるような無粋なまねは一切せず、スコアの本当に大事な本質的かつ繊細な部分にきっちりと反応しているハイティンクの才能と音楽性には心から敬意を表します。これを録音したころのハイティンクは我が国では地味で堅実な中堅指揮者という低い扱いでした。しかし僕は83年にロンドンのロイヤル・アルバートホールでコンセルトヘボウO.でブルックナーの9番を聴きましたが会場を圧する一級品の出来で、欧州での評価も非常に高いものでした。日本の音楽評論家はレコードはたくさん聞いているのでしょうが、現実の欧州という文化圏の中でどれほど耳を肥やしているのかとても疑問に感じたものです。全4曲とも実に保守本流を行くオーソドックスな解釈で、ファーストチョイスに強くおすすめします。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

4000622マーラー版のスコアをベースにしたと思われ、金管にかなり手が入っています。しかしジュリーニのこの曲に対する強い愛情と思い入れがあふれる素晴らしい演奏で、何度聴いても深い感動を覚えます。オケの音もとてもロス・フィルとは思えない深々とした重厚なものでドイツ音楽として何の違和感もありません。滔々たるラインの流れそのものの第1楽章。厳粛なたたずまいがひときわ印象的な第4楽章。柔らかく開始して喜びを謳歌しつつ、決然とした結びに至って心から満足させてくれる終楽章。中間楽章でテンポを落としても緊張感が途切れる瞬間は皆無であり、指揮者がオケ全員の時間と呼吸までを完全支配することによってのみ創り上げることのできるがっしりした造形、そんなものが感知できる演奏というのは極めてまれにしか存在しませんが、この演奏は確実にその一つなのであります。全曲にわたって弦楽器のフレージングがとことん吟味しつくされていることからわかるように、曖昧でオケ任せの部分は皆無です。それがよくわかるということがこの演奏の最大の特徴と言ってもよいぐらい指揮者の個性が強く刻印された演奏なのです。シューマンの交響曲は3番しか録音しなかったという意味でもきわめて稀なカルロ・マリア・ジュリーニの入魂かつこだわりの逸品であり、必聴の名盤として強くおすすめします。

 

イェジー・セムコフ / セントルイス交響楽団

0000964893_350セムコフ(1928-)はポーランドのマエストロです。アメリカのオケから完全に東欧調の音を作り出しており、解釈も欧州のシューマン演奏の伝統にのっとった純正当な格調の高いものです。マーラー版に準拠していると思われますが不自然な強調がなく、むしろその鳴りの良さをプラスにして実に生き生きとしたラインとなっています。僕はアメリカ留学時代にオーディオセットがない生活の中で仕方なくカセットテープを買って聴いていましたが、その中で最も気に入って頻繁に聞いていたのがこのシューマン全集です。セムコフの演奏が隅々まで頭に焼きついていますが、特にこのラインは大好きで、83年のライン下りの時に脳裏で鳴っていたのはおそらくこれで、いま聴いても第5楽章の出だしのテンポと弦のフレージングはあらゆる録音でこれがベストと思います。演奏解釈として全4曲すべて満足できる出来であり、オケの技術、ホールトーン、録音とも不足は全くありません。演奏家の知名度のなさから廉価で売られていますがクオリティは高く、これでシューマンを覚えたとして何ら問題はございません。

 

ウォルフガング・サヴァリッシュ / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

51Mzi31faQL__SL500_AA300_こちらは指揮者もオケも一流どころで非常に世評も高い演奏です。いぶし銀のオーケストラによるがっちりとした造形のラインです。このオケの美点である木のぬくもりを感じさせるシルクのような弦、音楽性のかたまりのようなフルート、オーボエ、味わいとパンチ力のあるティンパニ、そして何よりラインそのものを感じさせる名手ペーター・ダムを擁する朗々たるホルン!  しかし悲しむべきことに、今やこのオケはこの世界文化財とも思えた極上の音響を失って久しいのです。録音で聴く限りベルリンフィルやシカゴ響とさして違わない音になっていると言いますか、少なくとも一時期そういう方向性を指向したのではないかと疑わざるを得ない現象を感じて絶句したものです。イタリア人のシノーポリが音楽監督になってDGと契約したあたりがそれだったかと推察しますが、馬鹿げた勘違いも甚だしい世界的損失であり、ただただ怒りを禁じ得ません。ベルリンの壁崩壊の直後のことで、資本主義に毒されてお金に色気が出てしまった旧東独の文化遺産廃棄は日本の廃仏毀釈を想起させる愚行でした。このEMIのシューマン全集は、ルドルフ・ケンペによるリヒャルト・シュトラウス全集とともに、その悲劇が起こる前、19世紀までのドイツ音楽文化のタイムカプセルであった東独という国の練達の職人たちが入念に練り上げた、最高級の木質の音響による貴重なアンソロジーであります。サヴァリッシュの指揮は、楽譜にほとんど手を入れていないにもかかわらず不足感を感じさせず、シューマンのオリジナルが決してオーケストレーションの稚拙さで価値を損なわれてはいないことを実証した演奏としても意義があります。生気にあふれ、彼の四角四面のイメージとは違う表現意欲の強い演奏です。全4曲とも同様の完成度で、ぜひ全曲聴かれることをおすすめします。

 

アントニ・ヴィト / ポーランド国立放送カトヴツェ交響楽団

1300359503なんと500円の格安CDです。安物の装丁で駅の売店や書店でも売っています。しかし中身はぎゅっと詰まった立派なライン交響曲ですから、安心してお昼のお弁当代と思って買ってみてください。1944年ポーランドはクラクフ生まれの指揮者ヴィトはライン交響曲の良さを知り尽くしている風であり、スコアをあまりいじらず作曲家の意図に添って実に曲のツボを押さえた演奏をしています。だからこそ垢抜けないくすんだ音響になりますがそれがまたシューマンの魅力であり、コクのある第1楽章などすべてのCDの中でもトップを争う出来です。アメリカ化(オケのマック化)したピカピカの安手の音に毒されていない、東欧の古き良き鄙びた味わいを残しているのです。ヨーロッパの手作りのものというのは何であれいいものなんです。第5楽章が少し速いかなという程度で、全曲にわたって理想的なテンポとダイナミクスで演奏されているのでファーストチョイスとして考えてもまったく問題はありません。

 

アントニオ・ペドロッティ/ チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

794881351626ペドロッティ(1901-75)はイタリアの名指揮者で、ローマで学びレスピーギに作曲を師事しています。チェコでの活躍が長く、録音はあまり知られていませんが、やはりチェコフィルを振ったブラームスの4番は知る人ぞ知る名盤であり、師匠のローマの松と噴水も聴くことができます。このラインは1971年1月14日にプラハはルドルフィヌム内のドヴォルザーク・ホール(右下)でのライブです。このホールは1896年にドヴォルザークの指揮で幕を開けた名ホールで、僕はここでドヴォルザークの弦楽セレナーデを聴いたことがありますが、ムジークフェラインやコンセルトヘボウとはまた違った忘れられない見事な音響でした。このラインの録音はこの名ホールの残響も含めて非常に音楽的にセンスの良いものです。ペドロッティもジュリーニと同じくシューマンの交響曲録音は3番しかないのではないでしょうか。ティンパニを生かした骨太の活気ある筆致220px-Rudolfinum_concert_hallが両端楽章に最適であるうえ暗い部分では陰影に実に深みがあるという稀有な演奏です。第4楽章のあの最後の和音からアタッカ(切れ目なく)で突入する第5楽章!まさにこれだと快哉を叫びたくなります。リズムのタメの造り方も絶妙でチェコフィルがその持てる限りの美質を惜しげもなくつぎ込んで指揮者の解釈に奉仕するというレコードではめったに聴くことのない理想形がここにあります。このCDはたしかスイスで買ったもので初めて聴いたときから衝撃を受けました。ハルモニア・ムンディのフランス盤で、スメタチェック/プラハ放送響の1番がカップリングされています(こっちは凡演)。残念ながら廃盤になっているようでamazonで見ると18,000円という法外な値段になっていました。

ーリッヒ・ベールケ /  ライン州立フィルハーモニー

schumann1このLPは1983年8月1日にウォートンスクールの夏休みを利用して初めて欧州旅行をしたとき、まさにブログに書いたあのライン下りを経てザルツブルグへ行った折にそこのレコード屋をあさっていて偶然発見したものです。その時の狂喜を今でも懐かしく思い出します。Rheinische Philharmonieはラインラント・プファルツ州のコブレンツ市立劇場のオーケストラです。指揮者のErich Bōhlkeschumann2(1985-1979)はフンパーディンク、シェーンベルグ、トスカニーニに師事した作曲家、ピアニスト兼指揮者です。コブレンツ! この交響曲を演奏するのにこれほど地の利のあるオケもないでしょう。またR・シュトラウスやプフィッナーと親しかったというベールケの指揮はこの曲の解釈史を今に伝える貴重な文献的価値もあるでしょう。といっても特別なことは何もない演奏で、今でもドイツの田舎都市では地元のローカルオケが千円ぐらいで聴けるこんな演奏会を毎日やり、地元の(残念ながら主にじいちゃん、ばあちゃんが)散歩の帰りに普段着でぶらっと寄って楽しんでいる、そんな感じの演奏です(右下写真の一緒に買ったロベルト・シューマン・カルテットのシューマン3番とコダーイの2番も掘り出し物でした)。これを聴くにつけ、こschumann3の交響曲はウィーンフィルやベルリンフィルやシカゴ響がバリバリ弾けばいいというものではないという思いがますます強まります。クラシック音楽には伝統芸能という側面と純粋な芸術的価値という側面があります。ドイツ音楽はドイツ人しか演奏できないのであればとても間口の狭いものになってしまい今のようなグローバルな人気は得られなかったでしょう。僕は断然後者の立場に立ちますし、日本人や米国人の演奏するバッハやシューマンも同様に楽しんでいます。仮に英国人が歌舞伎を演じたとしても偏見を持つことはない人間です。しかし、そうはいってもそこには勘三郎の言った「型を破ることと形無しはちがう」という厳然としたルールが底流として横たわっている、そういう定義のもとに伝統芸能のグローバル化というものは初めて正しい文脈に則って価値を持ち得るのです。このベールケ盤がCD化されて広く世に出ることはまずないでしょう。演奏としては明らかにオケの音が一流でなく、一般受けする商品にはなり得ないからです。しかしこれとカラヤンやバーンスタインの立派な演奏と比べると僕はお寿司の海外での珍妙にして独自の進化?を思い出さずにいられません。昔は驚いたカリフォルニア・ロールなど今やかわいいもので最近はマヨネーズかけやマンゴー、イチゴまで具として登場しているそうです。売れればいいという商業化です。そうしてどんどん寿司の味のわからない人が増え、文化が消えます。文化は消費する側が作るのです。

最後に、個々にはあげませんでしたが、交響曲第3番「ライン」において比較的良い演奏をしている指揮者としてギュンター・ヴァント(NDR交響楽団)、ネヴィル・マリナー(シュトゥットガルト放送交響楽団)、ラファエル・クーベリック(ベルリンフィル)、朝比奈隆(新日本フィル)の名前を挙げておきましょう。この曲の好きな方は一聴をおすすめいたします。

 

(補遺、3月9日)

ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団

91SkMWJFOHL__SL1430_まことにラインにふさわしいテンポで始まる。オーケストラの深い森のような弦もぴったりだ。この堂々たる第1楽章はハイティンク/ACO盤と双璧である。第2楽章はやや速めだがこれでよい。第3,4楽章はオケの精度とアンサンブルがACOより落ちる。第5楽章は僕としてはほんの心もち速すぎるが、心のひだが暗くなる部分でわずかにテンポを落すのは見事だ。金管がうるさくならない扱いも適切であり3番を振る大人の常識をふまえた演奏と思う。

 

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シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

2013 MAR 9 23:23:53 pm by 東 賢太郎

バスガイド風に申しましょう。

「いよいよ楽しかったライン下りの舟旅も終わりにさしかかり、最後の楽章に参りました。回りをご覧ください。みなさんは厳粛な雰囲気だったケルン大聖堂の暗がりを出て、明るい陽だまりのなか、カーニヴァルにざわめく民衆に囲まれております。」398d3ce9c1ef2d4f7bd738c284d93344_thumb_600x600

この回り舞台のような場面転換の効果は最高にすばらしく、このシンフォニーが聴き手を幸福感で一杯にしてくれる瞬間です。このかけがえのない喜びへの返礼と、大作曲家ロベルト・シューマンへの心よりのトリビュートとして、僕はこの交響曲の稿を書いております。

第4楽章が「最もスローテンポ」であり、「場違いにキリスト教的」で、しかも「変ホ短調でなくてはならない」と僕は強調してきました。それらは全部、この魔法のような瞬間を味わわせてくれるための準備だったのです。この「喜び」は、同じミ♭を根音とする、いわゆる同名調である変ホ短調(E♭m)から変ホ長調(E♭)への転換、すなわち、ハ短調(Cm)の第3楽章がハ長調(C)に転じるベートーベンの交響曲第5番「運命」の第4楽章の歓喜の爆発とまったく同じ転換を下敷きにしています。

第4楽章はこの終楽章の序奏部であってライン交響曲は古典的4楽章からなっていると説く学者が多くいますが、僕はその説には反対です。そうではなく、第1楽章をエロイカ交響曲風のへミオラで開始し、終楽章を前楽章(短調)の同名長調で始めるという運命交響曲のスタイルを踏襲し、全体を5楽章の田園交響曲と対比することでシューマンはこれをベートーベンへのトリビュートとしていると考えています。楽章間の調性関係も、第1、5楽章は主調の変ホ長調、第3楽章は4度上の変イ長調(サブドミナント)、第2楽章はベートーベンが好んだ3度下のハ長調です。交響曲における彼は古典にこだわりはなく、むしろそれを破壊し新しい革袋を作ったベートーベンに回帰しているのだと思います。

新しい酒を古い革袋に入れるな(マタイによる福音書第9章17節)

田園交響曲という5楽章の新しい革袋に自然という新しい酒を入れたのはベートーベンです。5楽章制はすでにベルリオーズの幻想交響曲も存在しており、シューマンの当時にはもはや新しい革袋ではありません。ですから、

ベートーベン以後の作曲家の義務は新しい形式で新しい交響曲の理想形をつくることである(ロベルト・シューマン)

とまで言っている彼がもっと古い4楽章制にこだわったなどとは僕には到底考えられません。それに徹底してこだわったのはむしろブラームスなのです。

この第5楽章はデュッセルドルフのカーニバルの印象と関係があると言われます。第2楽章の雰囲気をひいた音楽であり、やはりダンスの要素を感じます。第4楽章のテーマを引用していますが特に手の込んだところはないように思います。ところで、かのチャイコフスキーはこの楽章について、

「この交響曲のフィナーレは、もっとも失敗した楽章である。どうやらシューマンは、コントラストを出すために、この陰鬱な第4楽章の後に晴れがましい歓喜の小曲を続けたかったようである。しかし、その種の音楽は、シューマンという、どちらかと言えば人間の悲しみの歌い手には向いていなかったのである」(チャイコフスキー/「ロシア通報」1872年11月18日「第2回交響曲の集い」から、岩田 貴氏訳をお借りしました)

と書いています。第4楽章は絶賛しているのですがこっちには手厳しいです。ちなみに第1楽章に対しては、

「第1楽章のインスピレーションの強烈なパトスや作品のメロディとハーモニーの比類ない美がつねに聴衆に理解されないのは、ひとえに、音楽の美にいかに敏感な聴衆の聴神経をも逆撫でせずにはおかない編曲の色彩のない重々しい濃厚さのためなのである」(同上)

です。オーケストレーションが下手なので曲の良さが理解されない、というのです。チャイコフスキーにこれを言われると気後れしますが、それでもやはり、僕は聴く方の耳の問題だと思います。シューマンのスコアをあまりいじらずに説得力ある演奏となった例をたくさん知っているからです。

最後に、299小節からこの曲はSchneller(より速く)となって大団円に至ります。スコアの様相は4番と似てきます。この楽章を通して鳴るターンタタッターというリズムは4番の第4楽章にも頻出するものですが、コーダではさらにリズムに弾力を与え、すばらしい終結へと導きます。チャイコフスキーが何と言おうが僕はこの楽章が大好きであり、この楽章を喜々として振っている指揮者の演奏が大好きです。それはとりもなおさずラインランド地方を愛しているからで、シューマンもそうだったからで、同じくそうである指揮者と三位一体になれること、同好の士同士の無言の共感に心が震えるのがかけがえのない喜びだからなのです。

本稿を通して僕はこのシンフォニーを「ライン交響曲」と書いてきましたが、シューマン自身がそう呼んだことはありません。楽章ごとのプログラムもありません。そういう曲をニックネームで呼ぶことを僕はあまり好きではありませんが、この曲の場合はほとんど違和感、罪悪感を覚えません。なぜなら、そう呼ばれないのが不思議なぐらいこの曲はラインそのものの音楽だからです。

 

(続きはこちら)

シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第4楽章)

2013 MAR 9 13:13:53 pm by 東 賢太郎

第4楽章です。表題はFeierlich(荘厳に、儀式のように)とあります。

この楽章♭3つ(変ホ長調)で書かれていますが、実質は6つの変ホ短調です。第1 、第5の両端楽章がLebhaft(生き生きと)であり、真ん中の3つの楽章はゆっくり目になりますが、2、3、4  とだんだんゆっくりになり、この第4楽章で最もスローになるのです。シューマンはケルン大聖堂で枢機卿就任式を見ており、その印象を音にしているようです。

ライン交響曲はルソーの自然回帰への賛歌という側面があり、純朴な民衆のダンスや大自然に接して生じる率直な心象風景を描いたものであることを前回述べました。非百科全書派的、非啓蒙思想的、非禁欲的で、非キリスト教的なのです。ですから第4楽章のカソリック大聖堂におけるキリスト教儀式の荘厳な雰囲気は非常に流れに掉さす異質な存在であり、聞き手は楽しいライン下りツアーの最中に、不意に薄暗いドームにまぎれ込んでしまったかのような錯覚すら覚えます。イメージ (23)

この楽章以外では、ライン交響曲で最も活躍する金管楽器はホルンです。しかしここでは、この楽章と第5楽章しか出てこないトロンボーンが重要な役目を負います。この楽器はモーツァルトの時代までは教会音楽にだけ使われました(交響曲に持ち込んだのはベートーベンです)。ですからここで初登場するトロンボーンの音響は当時の聴衆に大聖堂内部の雰囲気を今以上に強く印象づけたに違いありません。

冒頭のソプラノ声部はホルンと一緒にアルトトロンボーンが吹くように指定されています。第4小節でシからミへの4度の跳躍の演奏が難しくて音を外す奏者が多かったそうで、シューマンの楽器法の未熟さを指摘するお決まりの箇所となっています。しかし、そういう危険を冒してでも彼はこれをトロンボーンに吹かせたかったのであり、第5楽章の稿で述べますが、この楽章は「変ホ短調でなくてはならなかった」のです。

つまりロジックとしてこれは唯一の解だったわけで、これをもって作曲が下手くそだなどと言う方が知恵が足りないと僕は思います。たとえばピアノ曲としてブラームスやシューマンの書法は弾きやすいとは言えないと思います。手には相談せず、頭に鳴っている音を忠実に鍵盤上に置いていったかのようです。これをもって、ピアニストの手にずっと弾きやすく書いてあるショパンの譜面と比べ、ブラームスやシューマンはピアノが下手だという人はいません。

この楽章において最も重要なことを書いておきます。上の楽譜の続きをご覧ください。イメージ (21)上段5小節目、3/2拍子になった部分、ホルンとオーボエがシ♭-ミ♭-ファ-シ♭・・・といくところです。この音列はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲の冒頭とまったく同じです(下の楽譜)。イメージ (25)

僕はこの24番が好きでときどき弾いています。ですからラインのこの部分にくると必然的にバッハを思い浮かべ、ますますキリスト教的な厳粛な気分になるのです(仏教徒なんですが・・・)。

ユーリ・エゴロフ演奏でその24番を皆さんの耳でお確かめください。

シューマン当時の聴衆が広く平均律24番を知っていたかどうかは疑問ですが、ここに至るまでの自然、欲望肯定的な非キリスト教的ムードに突然投げ込まれた「本歌取り」は、原曲を知っている人にはインパクト絶大だったでしょう。これも上述のトロンボーンの使用とまったく同じで、この楽章に「異彩を放たせる」ためにシューマンが仕掛けた巧妙なプロットなのです。

ここから音楽は実にすばらしい対位法的な展開をしてファンファーレ風の頂点を迎えます。そしてスコアの最終ページはこのような非常に印象的な音響を作りだし、静かに曲を閉じるのです。イメージ (24)

このページの最後から4,5小節目にご注目ください。ミ♭・シ♭のオスティナート・バスの上でオーボエとクラリネットがレ・ファを鳴らします。そこでミ♭とレが「長7度」という不協和音でぶつかって得も言われぬ厳かな宗教的雰囲気を醸し出します。そして続く2小節ではホルンを除く全部の楽器が変ホ短調の主和音をfpで鳴らします。唯一参加していないホルンはというと、一拍遅れて2つの二分音符をこれもfpで(強く、すぐ弱く)、まるで教会に響き渡る鐘のこだまのようにミ♭・ソ♭で2回吹くのです。この悲痛な響きは、変ホ短調の和音とともに聴き手の脳裏に深く焼きつけられます。

(この効果はバルトークが「管弦楽のための協奏曲」第3楽章の終わりで、これも2回鳴る弦とハープとティンパニの予想外のイ短調主和音で実に効果的に踏襲しています)

 

(続きはこちら)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

 

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第3楽章)

2013 MAR 7 22:22:34 pm by 東 賢太郎

第3楽章は「Nicht schnell.(♪=116)」という表題です。

「速くなく」という意味ですが、メトロノーム表示をつけるくらいならそんなアバウトな言葉は書かなくてもいいのにと思ってしまいます。何か書く意味があったんでしょう。前の楽章もそうで、メトロノームに加えてイタリア語のスケルツォ、さらにご丁寧にドイツ語でSehr massig(とても中庸のテンポで)と書いています。これはイタリア語ならMolto moderatoですが、わざわざドイツ語で書いています。

この曲はシューマンがドイツ語で表題をつけた最初の交響曲です。第4番もドイツ語ですが、それは第3番作曲後に改定した時のもので、初稿はイタリア語でした。このドイツ語へのこだわりにも、僕はシューマンが何かを刻印したかった意図があるように思えてなりません。

この交響曲は5楽章あります。これはベートーベンの田園交響曲と同じです。この曲がハイリゲンシュタット(下の絵)での散歩から霊感を得て書かれたものであることは有名ですね。

1820-heiligen

ベートーベン自身が以下のようなタイトルをつけています。

田園交響曲

第1楽章 「田舎に到着したときの晴れやかな気分」                     第2楽章 「小川のほとりの情景」                                第3楽章 「農民達の楽しい集い」                                第4楽章 「雷雨、嵐」                                       第5楽章 「牧人の歌-嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」

シューマンは何も自分で書いていないのでこれを意識したかどうかわかりませんが、僕流の解釈をしますと、

ライン交響曲

第1楽章 「ライン川下りの晴れやかな気分」                         第2楽章 「住民たちの楽しい集い」                               第3楽章 「川のほとりの穏やかな情景」                            第4楽章 「ケルン大聖堂の荘厳な儀式」                           第5楽章 「大聖堂を出た後の喜ばしく感謝に満ちた気分」

となります。よく似ていませんか。特に第4楽章にひと波乱の緊張があって、それが第5楽章で一気に解ける晴れやかな気分が。この気分は、田園では神への感謝、ラインでは生きる喜びを表しているようです。

僕の解釈ですが、これは以下の諸点、時代背景を共通の底流としているように思います。

人間存在の根源としての自然への回帰を説き、個人の情感と意欲の尊厳を目覚めさせたジャン・ジャック・ルソー

理性偏重の啓蒙主義に反対し、君主や旧勢力の閉鎖的な貴族たちからの独立をめざす(シュトゥルム・ウント・ドラング

それを文学で表したゲーテ

そのゲーテの代表作「若きヴェルテルの悩み

それを7度も読み、エジプト遠征にも持参し、ピラミッドの下でも読んだナポレオン

そのナポレオンを崇拝し英雄交響曲を書いたベートーベン

ベートーベン以後の作曲家の義務は新しい形式で新しい交響曲の理想形をつくることである(ロベルト・シューマン

シューマンはライン交響曲作曲の前年にゲーテ生誕100年記念祭に向けて、『ファウストからの情景』の作曲をすすめ、ピアノ曲集『森の情景』を完成させた

ライン交響曲の作曲はベートーベンの生地ボン近郊でおこなわれた

ボンに居住したケルン選帝侯とウィーンのハプスブルグ王家の対立の構図

ハプスブルグ王家から自立を意図したベートーベンの田園交響曲

田園交響曲が企図する音楽によるジャン・ジャック・ルソーの自然への回帰

 

この底流は以上のような円環形を成しています。この脈絡を背景に、シューマンはラインを題材に自然への回帰を描くことで「新しい形式で新しい交響曲の理想形をつくること」への自己の解答を示したのだと僕は考えます。

さて第3楽章ですが変イ長調で3つの主題からなっています。僕は2番目の主題、スタッカートのついた4つの8分音符から始まるテーマに、ピアノ協奏曲の第2楽章インテルメッツォ(間奏曲)を思い出します。トランペット、トロンボーン、ティンパニはお休み。ボンからケルンへとライン川は平地の穏やかな情景を見せてゆったりと流れます。

ひとつだけ僕の直感から来ることを書いておきます。

この楽章の終わりのところ、第44小節からチェロとコントラバスが「ラ♭ーソ」を繰り返して、それに乗って第2テーマと第3テーマが交互するどこか不安定な模糊とした情緒を作ります。イメージ (17)

最後は第2テーマに回帰して終わるのですがその直前、上のピアノスコアの下から2段目の和声のふらつき。僕はこれと似た印象を抱いている部分があります。ピアノ協奏曲第1楽章の再現部の直前(展開部の最後)です。精神の均衡に、ちょっと危ない感じが聴こえてきてしてしまうのです。

 

シューマンの精神状態の変調がこの曲には表れていないと書きましたが、唯一この部分だけはクエスチョンマークを付しておきます。

 

(続きはこちら)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第4楽章)

 

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97 「ライン」(第2楽章)

2013 MAR 5 0:00:39 am by 東 賢太郎

16第2楽章はスケルツォ(きわめて中庸のテンポで)という表題ですが、諧謔的なスケルツォとは程遠い音楽に思います。ベートーベンの交響曲の精神を受け継いでいるよ、という宣言でしょうか。田園交響曲の第3楽章の農民のダンスとの近親性を表そうとしているのでしょうか。これはドイツ、オーストリアのレントラーという舞曲のようです(映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアとトラップ大佐が踊ったのがレントラーだそうです)。上の写真のようなものです。

28歳での初めてのライン船旅のおりに、たしかコブレンツだったと思いますが、ツアーは昼食休憩のためいったん下船となりました。満腹になり、おいしい白ワインでみなさんほろ酔い気分になると、楽士たちがきてダンスが始まりました。輪になって手をつないで。もちろん唯一の東洋人だった僕と家内も引っぱりこまれました。とても楽しかった。小学校の頃、フォークダンスなるものを踊らされましたが、そういえばこんな感じの音楽だったかもしれません。ドレスデンからデュッセルドルフの楽長に赴任し大歓迎されたというシューマン夫妻もこんな風に踊ったのでしょうか。

第2楽章は、まず最初にヴィオラ、チェロ、ファゴットがレントラー情緒の田舎風旋律を奏でます。伴奏も泥臭いズンチャッチャのリズム。同じ3拍子でも、間違ってもウィンナワルツみたいに小粋に跳ねたりはしません。調性も能天気に明るいだけのハ長調です。壮麗な躍動感と緊張感に満ち満ちた第1楽章からの強烈な落差には、おもわずズッコケるほどです。ところが、それを2回繰り返すと、優美でロマンティックな「ミニ中間部」が出てくる。これです。イメージ (18)

こうしてピアノ譜にして見ると「トロイメライ」か何かのようで、実にシューマネスクです。田舎踊りに不意に現れた乙女という感じです。この部分はフルート、オーボエ、ヴァイオリンというまったく違う楽器群が旋律を奏でますが、冒頭部レントラーとは見事な対照であり、シューマンの独特な音色感覚を発見します。オーケストレーションが下手だなどと言っている方がなんとも稚拙な耳なのではないかと思います。

もうひとつだけ楽譜を見てください。この楽章で好きなのはここです。展開部でレントラー主題がイ長調(A)で出てきますが、楽譜2段目でふっとイ短調(Am)になるのです。イメージ (22)                                         この曲は同名長調と短調の交代が和声のキーポイントの一つになっていますが、それはその最もマジカルでポエティックな一例です。ここのたった3小節の和声的経過句で、突然にハ長調のホルンによる勇壮なソ・シ・ド・ミ・ファ・ソを呼び覚ましてしまうという魔法のような瞬間は、ブルックナーの数少ない、最も神憑った(がかった)和声進行を例外として僕は聴いたことがありません。

この交響曲は全曲にわたってこうした神憑りが頻出し、シューマンに何かが憑りついていたのではないかと思うばかりです。これは第3番となっていますが、4番は作曲順では2番なのでシューマン最後の交響曲です。彼がデュッセルドルフでこの直前に書いたチェロ協奏曲は、これも僕の愛聴曲なのですが、やはり神憑った部分と、精神を病んでいる風情の部分が混在しています。しかしこの曲に病んだ部分はほとんどありません(第3楽章については次回)。ラインランドでの生活が彼の精神を健康な方向に引き戻していたのでしょうか。しかし、悲しいことに、結局彼はそんなに好きだったライン川に投身自殺を図るのであり、最期をボン近郊のエンデニヒの精神病院で迎えているのです。

(続きはこちら)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第3楽章)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第1楽章)

2013 MAR 4 19:19:28 pm by 東 賢太郎

第1楽章です。

初めてスコアを見た時は眼を疑いました。僕はこの冒頭をてっきり2分音符を1拍とした3拍子、つまり3/2拍子だと思っていたのです。ところがスコアはなんと3/4拍子になっているのです。なんでこんな変な書き方をしたのだろう?  しばらく意味が分かりませんでしたが、よくよく楽譜を調べると楽章全体のリズム構造に精巧な仕掛けがしてあることがわかってきました。そのためには、この冒頭は、こう書かれねばならないのです(ピアノスコアでご覧下さい)。

イメージ (19)

 

 

 

 

 

 

冒頭にいきなり鳴り出す第1主題、リズムが2、1/1、2 (下線部はタイ)となっていることがお分かりでしょうか。このように拍節感がずれて2が3つに聴こえるものを「へミオラ」と呼ぶことは、ドヴォルザーク新世界の第3楽章にて指摘したことです。ベートーベン、ブラームスが愛用した手です。しかし、のっけから曲がへミオラで開始するというのは見たことがありません。

この第1主題は「アアア・アアア・アア」を一単位とする固有のリズムを持っています。これを「リズム細胞」と呼ぶことにしましょう。一見3拍子で書いてあるのですが、「アア」の部分で聴き手は音が4分割されていることに気づきます。機関銃のように速いのでわかりにくいのですが、リズム細胞は4拍子を内包しているのです。しかもこの「アア」には「ーー」という音が充てられ、ソ(g)から上のミ(e)への大ジャンプによって4拍子が強調されています。どこか男性的、父性的、戦闘的、機動的な推進力を感じます。

ところがこの直後に「タ・タタ・タ」という、今度は根っからのシンプルな3拍子が続きます。これが不思議と温和な安定感を持って聴こえ、難しいこと言わずにすべてをやさしく包みこんでくれる母なる大地のように感じられます。女性的、母性的なのです。例えば、やがて現れる第2主題は3拍子であり、女性的なほのかな憂いと哀調を帯びます。ところが、トランペットとティンパニのパパパンという信号音とともに冒頭主題(リズム細胞)が戻ると一気に音楽は男性的になります。このように、この楽章のリズム構造には、4拍子と3拍子、父性的なものと母性的なものの調和と対比が各所に散りばめられているのです。

この曲をシューマンの英雄交響曲と呼ぶ人がいます。それを言うなら田園交響曲と呼ぶべきなのですが、冒頭にいきなり鳴り出す第1主題そのものが、展開部を待たずして既にリズムと和声による長大で劇的なドラマを形成しているという一点においては、その指摘は正しいでしょう。冒頭主題はGm、Cm、Fmというマイナーキーを渡り歩き、ロマン的、幻想的な様相を見せながら展開していくのです。

第43小節ではヴァイオリンとヴィオラのユニゾンで「アアア・アアア・アア」だけが2回鳴り響きます。オクターヴでソ(g)の音だけを弾くこの部分はこのリズム細胞の骨格、スケルトンだけを露わにしており、これがラヴェルのボレロの小太鼓のように楽章を通して鳴っている通奏低音であることに気づかせてくれます。この、常に底流で脈動している筋骨隆々たるリズムが、常に大河の水を押し流し、滔々と流れゆくライン川の生命力を感じさせる秘密のように思います。

ここで2回繰り返されるリズム細胞は徐々にエネルギーを蓄積し、ついにFmの爆発に至りますが、これに短3度上のマイナーキーであるA♭m  が続くのは後にラフマニノフが偏愛することになる非常にロマンティックな和声連結です。このFm⇒A♭mの連結部分は「3/4拍子⇒ユニゾン(裸の)リズム細胞」というリズムの拮抗が背景となっていてリズムと和声の両面で実に劇的であり、ベートーベンの運命動機リズムで鳴るオスティナート・バス(シ♭)の上にB♭⇒D⇒Gm⇒B♭7という和声が乗っていって再度、主調のE♭で冒頭主題が力強く回帰するに至る様の素晴らしさは、もう筆舌になど尽くせるものではありません。

前述した第2主題はオーボエとクラリネットがユニゾンで吹きます。シューベルトの未完成交響曲第1楽章第1主題のほの暗い響きがします。そこに不意に冒頭主題が現れますが、再度沈静化してフルートと弦によって第2主題が戻ります。それがだんだん力を得てCm⇒E♭mという再度のラフマニノフ連結を経ると、今度はホルン2本が冒頭主題を朗々と吹きます。通常ホルンは森を連想させる楽器ですが、この曲ではライン川を挟む谷間に響き渡るようで、広々としたレゾナントな空間を感じさせます。ブラームスが交響曲第1番でクララに聴かせたのはアルペンホルンですが、この曲の音響が頭にあったのかとも思わせます。やがてリズム細胞が弦5部、クラリネット、ファゴットによるシ♭のユニゾンでsfで現れ、それがファ#に飛んで不意の転調を用意するという、これも未完成交響曲を思わせるやり方でト長調の展開部に入ります。

ここまでの提示部が十分に展開部並みの様相でしたが、真の展開部は新しい主題が現れます。これは暗い影を帯び、どこか第4楽章に通じる雰囲気を持っています。これにからみつつ2つの主題が今度は対位法的に扱われて見事な効果を上げます。冒頭主題はロ長調と嬰ヘ長調で現れます。次いで現れるホルンによる素晴らしい冒頭主題の回帰はまさにあのライン川の光景に他なりません。再現部は変ホ長調fffのテュッティで冒頭主題が再現しますが、第2主題に移行する前にファゴット、クラリネットがpでト長調の下降音型を吹きます。ここのG7の和音の低音部にド(c)が加わる部分の効果は田園交響曲の第5楽章の冒頭を思わせ、非常に印象的です。

コーダはリズム細胞から派生した「タタッター」「タッタター」を組み合わせ、壮麗としか言いようのない最高のエンディングに向かいます。これがどう最高か?聴いていただくしかありません。この第1楽章はシューマンがローレライ近辺の船旅で得たインスピレーションによるという説がありますが、僕はそれを支持します。これぞ僕も同じ船旅で感じた雰囲気であり、特に頭で鳴っていて最も光景とシンクロしていたのがこのエンディング部分なのです。ここをアッチェレランド(加速)して振ってしまう指揮者が多いのですが、それは明白に間違いです。そんな指示はスコアにもなければ、音楽が求めてもいません。

シューマンのオーケストレーションが稚拙だとしてマーラーはじめ多くの指揮者がスコアをいじり、金管を補強したり、木管と弦の厚すぎる重複を解いたりしています。しかしマーラーはこれを管がよく鳴る彼の交響曲の響きにしてしまっています。本来あっさり系のシューリヒトは意味不明のイロモノ改悪で曲を壊しています。この曲は変ホ長調という弦があまり鳴らない調であえて書かれているわけですからオケの鳴りが悪いから稚拙だという理屈は立ちません。まして木管をとっかえひっかえして旋律を受け継ぐイロモノなどシューマンが意図したはずもなく、勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。僕はマーラー版のスコアを見たことがないので判断できませんが、それが一概に悪いとは考えておりません。マーラー版とされるトスカニーニ盤は彼の残した最も不名誉な演奏の一つですが、同じくジュリーニ盤は全演奏の中でも特別の価値を持つ秀演です。

前述のエンディングの加速ですが、オーケストレーションの改変と同じ理由があるかもしれません。朝比奈隆でしたか、指揮者がコンサートで振りたくない名曲はこれと田園だと著書に書いていました。第5楽章のエンディングが地味で唐突なので拍手がわきにくいのでしょう。そんな軽薄な理由で加速が行われるとは信じたくないのですが、マーラー版も彼がニューヨーク・フィルを振った時のスコアなのですから所詮「客受け」が念頭にあったわけです。バーンスタイン/ウィーンフィルの気違いじみた加速を聞くと、やっぱり指揮者という人たちもそういう程度のものなのかと悲しくなります。

前回、この曲は「非ウィーン的」だと書きました。ですから、ドイツ交響曲主流派の指揮者たちにとってこの曲は鬼門といえましょう。何故か振ってしまったワルター、トスカニーニ、シューリヒト、バーンスタイン、カラヤンなど死屍累々です。フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ベーム、ケンぺ、ケンペン、ライトナー、ヨッフム、フリッチャイ、マルケヴィッチ、アンチェル、クレツキ、ロヴィツキ、カイルベルト、クライバー父子らが避けて通ったのは賢明でした。これを振るならラインガウに住めとは言いませんが、じっくりライン下りぐらいは味わってからにしていただきたいものです。

(続きはこちら)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97 「ライン」(第2楽章)

 

 

 

 

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97 「ライン」 (序論)

2013 MAR 3 0:00:31 am by 東 賢太郎

もし無人島に持っていく曲は?ときかれたら、これかもしれません。

大学時代に夢中になり、アメリカ留学時代もカセットテープで何度聴いたことか。ウォートンスクールの夏休みに28歳で初めてヨーロッパへ行きましたが、ケルンからマインツまでの快晴のなかのライン下り(上りですが)では、ローレライや丘の上にお城のある景色を見ながらずっとこの変ホ長調の第1楽章が頭の中で鳴っていました。その時、船上で見るその景色こそ、デュッセルドルフに移り住んだシューマンがこの曲の霊感を得たものだったということを僕は確信したのです。それはこんな景色です。

EBP10-10657Aまさか9年後にこのすぐ上流のフランクフルトに僕も移り住むことになろうとは、その時は知る由もありませんでしたが、1992~1995年の3年間、結局そういうことになってしまったのです。下の写真は戦勝記念碑のある丘の上からリューデスハイムという街を望んだ風景ですが、このあたりはラインガウといってリースリンク種という白ワインのブドウの産地です。手前にあるようなブドウ畑がライン流域の南向き斜面一面に延々と連なっている平和で穏やかな風景は、どなたも一度目にしたら忘れられないでしょう。                                                                                                                                           800PX-~2

-391800556_gallery2僕はヴィースバーデンというライン川ぞいの街が大好きで毎週末、家族を連れてドライブしてました。ここのオペラハウス(右)はフルトヴェングラーやシューリヒトも振っていた名門ですが、当時の古風でローカルな味わいも残っていて僕にはたまりません。ワーグナーのリングもここで全曲初めて聴きました。まだ幼かった娘たちが初めてオペラやバレエ、ヘンゼルとグレーテル、魔笛やくるみ割り人形、白鳥の湖を見たのもここでした。ラインガウのライン河畔にあるいくつかのレストランの食事と地元ワインは最高です。アスパラガスの季節にワインを何種類か利き酒しながらの昼食は心からの幸福感にひたれ、是非どなたにも味わっていただきたいものです。ドイツ料理がまずいなどという迷信は吹き飛ぶでしょう。こうして、3年間のわが家の生活はフランクフルト~ヴィースバーデンを結ぶマイン、タウナス、ラインガウの風土にどっぷりと浸かっておりました。

431a56ff6a0e198a960e50a1f1db33d0それで何がシューマンなんだ?ということでした。この曲は僕にとって、そうしたラインガウでの生活そのものなのです。音楽は何か物語や風景や愛のような具体的なものを表すことができると言われます。リストが創始した交響詩というものはその例です。いや交響曲のような絶対音楽でも、ベートーベンの田園交響曲(ハイリゲンシュタット)やメンデルスゾーンのスコットランド交響曲(エジンバラ)のようにある特定の場所で得た霊感によって書かれたものがあります。

絵にたとえますと、風景画と抽象画にアートとしての違いはありません。抽象画と言っても画家が見た何ものか、それが景色であれ人であれ悪夢であれ、そこから得た心象風景を描いたものです。ただ抽象画というフォルムで絵を描くということになると、見たままの対象を描くわけではありません。それが人の顔であれば、それをそのままの造形で描くわけではないでしょう。しかし音楽の場合そういうことはなく、旋律、調性、リズムといった造形には何ら変わりがありません。音楽はもともと抽象的なのです。たとえば、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲は、シンフォニーという「抽象画」の装いですが、実際は交響詩(風景画)に限りなく近い。こういうことができてしまうのです。

シューマンのライン交響曲がユニークなのは、アルプス交響曲のような風景描写はなにもなく、両端楽章はソナタ形式という「抽象画」の様式を踏みながら、ライン地方の風景、風土という具象を強く感じさせることです。田園交響曲がどうしてもハイリゲンシュタットでなければ書けなかったと言い切るほどの自信を僕は持てませんが、この曲の場合、それはラインランド地方でなくてはならない必然性を強く感じるのです。

ドイツ保守本流の交響曲の歴史はウィーンを中軸にして展開しました。モーツァルト(39~41番)、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラーみなそKdomうであり、わずかにメンデルスゾーンとシューマンが例外です。しかしライン交響曲は、中でも群を抜いて非ウィーン的です。さらに、快楽、自然に非常に肯定的、啓蒙主義的です。禁欲的なキリスト教的雰囲気がありません。ライン地方の民族舞踊レントラー(第2楽章)のあとに第4楽章のケルン大聖堂(右)での「荘厳な儀式」が変ホ短調で出てくるとちょっとした違和感を感じるほどです。しかしこの曲で厳粛なのはここだけで、直後にいきなり始まる第5楽章は第1楽章とまったく同じLebhaft(生き生きと)という表題を持ち、快活な民衆の人いきれが回帰します。この回帰が、これまた心地よい違和感なのです。

僕がこの交響曲を偏愛するのは、シューマンが抽象画として描きこんだ「ライン地方の生活からの心象風景」としてのすばらしい音楽が、僕が3年間味わったライン河畔の生活の、これまたすばらしい思い出となぜかシンクロナイズするからにほかなりません。「音楽は抽象的」と書きましたが、どうして僕がそう感じるのかは一向にわかりません。同じ風土で暮らしてみて、シューマンの得た心象風景、霊感と僕のそれがたまたま一致したのだと、あい勝手ながらそう思わせていただくことにしています。以前書きましたが、38歳の僕はこの地で初めて現法社長のポストにつき、長男を得て、幸せの絶頂にありました。留学の休暇でのあのライン下りで、勝手に脳裏でずっと鳴り響いていたこの交響曲は、なにか深い運命的な縁があったのかもしれません。

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第1楽章)

 

 

クラシック徒然草-オーケストラMIDI録音は人生の悦楽です-

2013 JAN 26 15:15:08 pm by 東 賢太郎

僕は1991年にマックのパソコン(右)を買いました。米国Proteus製のシンセサイザーとYamahaのDOM30という2種類のオーケストラ音源を電子ピアノで演奏し、MIDIソフトで多重録音して好きな音楽を自分で鳴らしてみるためです。PCに触れたこともなかったからセットアップは大変でした。好きこそものの・・・とはこのことですね。

現代オーケストラから発する可能性のあるほぼすべての音(約130種類)を約50トラックは多重録音できますから、歌以外の管弦楽作品はまず何でも録音可能です。まず音色設定をフルート、オーボエ、クラリネット・・・と切り替えて個別にスコアのパート譜を電子ピアノで弾いて個別にMIDI録音します(高速のパッセージなどは録音時の速度は遅くできます)。相当大変なのですが、全楽器入れ終わったらセーノで鳴らすと立派なオーケストラになっているということです。

弦楽器の音色が今一歩ではありますが、イコライザーなどの音色合成の仕方でかなり「いい線」まではいきます。買ってから21年間に僕が「弾き終わった」曲は以下のものです(順不同)。

モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」(全曲)、同クラリネット協奏曲(第1楽章)、同弦楽四重奏曲K.465「不協和音」(第1楽章)、同「魔笛」序曲、同「フィガロの結婚」序曲」、ハイドン交響曲第104番「ロンドン」(全曲)、チャイコフスキー交響曲第4番(全曲)、同第6番「悲愴」(全曲)、同「くるみ割り人形」(組曲)、同「白鳥の湖」(情景)、ドヴォルザーク交響曲8番(全曲)、同第9番「新世界」(第1,4楽章)、同チェロ協奏曲ロ短調(第1,3楽章)、ブラームス交響曲第1番(第1楽章)、同第4番(第1楽章)、ベートーベン交響曲第3番「英雄」(第1楽章)、同第5番「運命」(第1楽章)、シューマン交響曲第3番「ライン」(第1楽章)、ラヴェル「ボレロ」、同「ダフニスとクロエ第2組曲」、同「クープランの墓」(オケ版、プレリュード、メヌエット)、同「マ・メール・ロワ」(オケ版、終曲)、ドビッシー交響詩「海」(第1楽章)、同「牧神の午後への前奏曲」、シベリウス「カレリア組曲」(全曲)、リムスキー・コルサコフ交響組曲「シェラザード」(全曲)、バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(第1、2楽章)、同「管弦楽のための協奏曲」(第5楽章)、ストラヴィンスキー「火の鳥」(ホロヴォード、子守唄以降)、同「春の祭典」(第1部)、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、同「ジークフリートのラインへの旅立ち」、J.S.バッハ「フーガの技法」、同「イタリア協奏曲」(第3楽章)、ヘンデル「水上の音楽」(組曲)、ヤナーチェク「シンフォニエッタ」(第1楽章)、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」(歌、間奏曲)、ハチャトリアン「剣の舞」、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」(第1楽章)、ベルリオーズ幻想交響曲(第4楽章)、ビゼー「カルメン」(前奏曲)

こういうところです。これ以外に、やりかけて途中で放り出したままのも多く あります。成功作はチャイコフスキー4番、バルトーク「オケコン」、シベリウス「カレリア」、ブラームス4番、ドヴォルザークチェロ協、ドビッシー「海」、マイスタージンガーでしょうか。録音はオケ全員の仕事を一人でやるので長時間集中力のいる作業です。生半可な覚悟では取り組めません。ですから以上は僕の本当に好きな曲が正直に出てしまっているリストなのだと思います。弦の音色の限界で、好きなのですがやる気の起きない曲(特にドイツ系の)も多いのですが、総じてやっていない作曲家、マーラー、ショパン、リスト、Rシュトラウスなどは興味がない、僕にはなくても困らない作曲家だと言えます。

もう少し時間ができたらシベリウス交響曲第5番、バルトーク弦楽四重奏曲第4番、ラヴェル「夜のガスパール」にチャレンジしたいです。この悦楽には抗い難く、この気持ち、子供のころプラモデルで「次は戦艦武蔵を作るぞ!」というときと全く同じ感じで、これをやっていればボケないかなあという気も致します。骨董品のアップルに感謝です。

 

(追記)

これらは全部フロッピーディスクに記録していますがハードディスクに移しかえたいと思います。やりかたがわからないので、どなたかご教示いただけるとすごく助かります。

 

 

 

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シューマン トロイメライ

2012 SEP 16 17:17:06 pm by 東 賢太郎

ベートーベンは重い、長い。どうしても嫌だという方はこれを。演奏時間は2、3分でポップス並です。ピアニストはプロなら誰でもいいでしょう。

トロイメライ(Traumerei)は夢という意味のドイツ語です。「子供の情景」という13曲からなる曲集の7番目です。できれば全曲聴いてほしいのですが、これ単品でもピアノ名曲集などに入っています。それで結構です。

繰り返しを入れてもたったの33小節しかない小品。技術的にはやさしく僕でも弾けます。しかし、これほど人の気持ちを鎮静させる作用のある音楽はほかに知りません。運命交響曲が人を元気にする薬ならこれは精神安定剤。だから高ぶっているときはこれを静かに弾いて寝ます。

どうしてそういう作用があるのか?この曲、同じメロディーが8回繰り返されるだけ。「サビ」すらない実に原始的なつくりをしています。ところがついている和音は次々と変わります。ヘ長調だったメロディーはニ短調、ト短調、変ロ長調、ニ短調とロマンティックな旅をつづけ、またヘ長調にもどります。凡庸な作曲家ならこれで冒頭に戻っておわりでしょう。

しかしこの人はシューマンです。おしまいの3小節で凄いことをやっています。なんとト長調(属七)という驚きの和音をフェルマータで長く、しかもピアニッシモでそっーと引き伸ばす感動のピークを作ります。そこからすぐヘ長調に戻したと思ったらふと影が差したようにト短調になり、バスをやさしくハ音が支えると、あーやっぱりヘ長調だったんだと安心して幕になる。

もうこれは小宇宙というしかありません。まさに薄明のなかで夢を見ているような、何が現実かよく理性では理解できないもの。僕はこの最後のト短調のところで、いつも、なぜか母のぬくもりを感じます。

 

バルトーク 「子供のために」(sz.42)

 

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

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