Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______ラフマニノフ

ジョルジュ・プレートルの訃報

2017 JAN 9 3:03:39 am by 東 賢太郎

img_4cc4a846a588e0814797b713984c1063151842ジョルジュ・プレートルは大正13年うまれだ。親父と同い年だからどこかで聴いていたかなと記憶をたぐるが出てこない。僕はフランス語圏にはあんまりいなかったし、すれ違いだったようだ。

どういうわけか僕の世代では「おフランスもの」はクリュイタンス、ミュンシュ、マルティノンの御三家ということになっていて、ドビッシー、ラヴェルはこの3人以外をほめると素人か趣味が悪いと下に見る空気があった。「おフランス」は"中華思想"なのである。今だって、「ラヴェルはやっぱりクリュイタンスですね」の一言であなたはクラシック通だ。

「おフランス原理主義者」にいわせれば、ピエルネ、アンゲルブレシュト、デゾルミエール、ツィピーヌ、ロザンタルは保守本流だけど音が悪いよね、パレ―、モントゥーの方が良いものもあるけど英米のオケだからだめ、アンセルメ、デュトワはスイス人でしょとなってしまう。ブーレーズは異星人であり、フルネ、ブール、ボド、デルヴォー、フレモー、プラッソン、クリヴィヌ、ロンバールはセカンドライナーである。

ところがクリュイタンスはベルギー人、ミュンシュはドイツ人、マルティノンもドイツの血を引くのだが、そんなことは関係ない。最初の二人はパリ音楽院管弦楽団の、マルティノンはコンセール・ラムルーのシェフ。JISマーク認証すみだ。おそらくだが、パテ・マルコニを買収してフランスに地盤を持ったEMIがうまく3人をフランス・ブランドで売りこんだことと関係があるだろう。同じ英国のライバルであるDECCAはウィーン・フィルはものにしたがフランスは弱く、スイス人のアンセルメを起用するしかなかったから独壇場だった。

プレートルはそのEMIのアーティストであり、同社内に3人の強力な先輩がいてフランスのメジャーオケによるドビッシー、ラヴェル録音のおはちが回ってこなかったのか、その印象が僕にはまったくない。後に浮気はしたがクラシックはドイツ、イタリアのレパートリーが大黒柱なのだからそっちで勝負となればフランス人であることはあんまりメリットはなかっただろう。晩年にウィーンフィルを振ってドイツ物への適性を天下に見せたが、第一印象とはこわいものだ。

pretre高校3年の5月に大枚2千円を払ってラフマニノフの第3協奏曲のLP(左)を買ったがその指揮者がプレートルだった。ピアノのワイセンベルクは後にバーンスタインと同曲を再録するが、この若々しい演奏は今でも大好きでときどき聴いている。ブルガリアンとフレンチのラフマニノフ、なんて素敵だろう、ピアノが微細な音までクリアに粒だってべたべたせずオケ(CSO)もカラッと薄味なのだが、第3楽章の第2主題なんかすごくロマンティックだ。プレートルの名前はこれで一気に頭に刻み込まれた。

 

106彼を有名にした功績を最もたたえられるべきはマリア・カラスだろう。不世出のソプラノ歌手唯一のカルメンを共にした栄誉は永遠だがこの歴史的録音が発散するはちきれるような音楽の存在感も永遠だ。プレートルが並みの伴奏者ではなくビゼーのこめたパッションやエキゾティズムをえぐり出して歌手を乗せているのがわかる。バルツァ好きの僕だがカラス様はカラス様だ、よくぞここまでやる気にさせてくれたと感謝である。気に入って真珠とりも買ったがこれもいい味だ。

pretre1サン・サーンスの第3交響曲にはまっていた時期があるが、どういうわけかすっかり飽きてしまった。フランス人に交響曲は向いていないという思いを強くするのみで、ピアノスコアまであるし音源は22枚も買ってしまっているがもはや食指が動くのはプレートルの旧盤(64年)、クリヴィ―ヌ、バティスぐらいだ。モーリス・デュリュフレ(オルガン)とパリ音楽院管弦楽団なんて泣かせるぜ、このテの音は絶滅危惧種トキのようなものだ。こういうあやしくあぶないアンサンブルを録音する趣味はもう絶滅済みという意味でも懐古趣味をくすぐるし、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の空間の音響がなんともいいのだ。第2楽章の敬虔な深みある残響は音楽の安物風情を忘れさせる。終わってみると立派な曲を聞いたと満足している演奏はこれだけだ。

dindyこちらもつまらない曲だがダンディの「海辺の詩」、「地中海の二部作」である。モンテカルロの田舎のオケからこんな鄙びたいい味を出す。オケをコントロールして振り回すのではなくふわっと宙に舞わせてほんのり色あいを出す。そうだね地中海の香りがする。この音でドビッシーを全部やってほしかった。

「おフランス」ものはその「いい味」というのがどうしても欲しい。というよりもそれがないのはクズだ。香水やワインのアロマのように五感に作用してなんらかの感情や夢想や情欲さえも喚起する、御三家のうちドビッシーでそれができた人はマルティノンだけだ。ドビッシーの管弦楽というのは意外にもいいものがないのである。

poulenqプレートルだったらというのはない物ねだりだが、その分、プーランクを残してくれた。このEMIの5枚組は主な声楽曲が入っている宝物だ。「人間の声」はデニス・デュヴァルとプレートルによってパリのオぺラ・コミークで初演されたが、それがプーランクを喜ばせたのがもっともだという感涙ものの名演である。

ガブリエル・タッキーノとのオーバード、P協、2台のP協(CD左)、オーセンティックとはこのことだ。作曲当時の息吹が伝わる。管弦楽曲集(CD右)は録音も鮮明でまったくもって素晴らしい演奏が楽しめる。プルチネルラみたいな「牝鹿(可愛い子ちゃん)」の軽妙、「フランス組曲」のブルゴーニュの空気(パリ管がどうしたんだというくらいうまい)、 「典型的動物」のけだるい夜気。あげればきりがない耳の愉悦の連続である。プレートルのプーランクは世界遺産級の至宝だ、知らない方はぜひ聴いていただきたい。

聴くことは能わなかったし意識したわけでもないがプレートルは僕のレコード棚のけっこう要所なところに陣取って存在感を発揮してしていた。知らず知らず影響を頂いた方であった。心からご冥福をお祈りしたい。

 

(こちらへどうぞ)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

ポゴレリッチのラフマニノフ2番を聴く

2016 DEC 13 23:23:12 pm by 東 賢太郎

デュトワのカルメンと前後してしまうが、今日の読響について。指揮台に立ったオレグ・カエタニはフランクフルト駐在時代によく聴いていて、ヴィースバーデンでのリング全曲は彼の指揮だった。なにせあのマルケヴィッチの息子だ、もっと硬派なプログラムだったらよかった。

いつも感じることだがボロディン2番はライブだとオーケストレーションに空隙を感じ粗野な原色ばかり目立ってしまう。かと思えば終楽章のあの素敵な第二主題の伴奏になにもトロンボーンを重ねなくてもいいのにというベタ塗りがあったりもする。シンセでたくさん演奏するとスコアを見てヤバいなあというものを感じるようになって、これはやってないがきっとトロンボーンは超弱音か無しにするだろう。

カエタニはまったくその辺を気にしてない風情であった。チューバまで入った金管群であるわけだしこれがロシアの感性と言われれば仕方ないが、そうであるなら男同士がキスする感性など日本人の僕にはわかりようもないというものだ。フランス系のアンセルメやマルティノンは薄口でうまくやっているし、人工的であってもミキシングでうまく化粧した録音で聴く方が僕はずっと楽しめる。カエタニは低音を鳴らすので特にそう思ってしまった。

交響曲が先でトリが協奏曲というのも珍しいが、ポゴレリッチあってのことだろう。

ラフマニノフの2番だったがこれはproblematiqueだ。強めに始まる鐘の音は途中で弱まり、再度強くなる。こんなのは初めてだ。テンポは不可解に遅いと思えば第2楽章の主題は無機的に速く、つづく右手の単音の旋律はなんとフォルテに近かったりする。遅い部分はルバートがかかりまくり、終楽章のピアノの入りのアルペジオは真ん中の数音符だけ突然フォルテで弾いたり、まったくわけがわからない。

それでいてフォルテは強いだけでちっとも美しくなく、細かいパッセージは弾けていないしミスタッチもある。アンコールの第二楽章がほぼ同じだったから即興でもなさそうであって、つまり考えぬかれた解釈のようなのだがではどうしてそうなるのか理解に苦しむばかりだ。演奏家の感性や哲学は尊重するしありきたりの美演より僕はそっちを採る主義なのだがこの曲にそんな深い哲学があるとも思えない。

グールドのモーツァルトはなにくれかのirritationを聴衆に与える意図が隠されていて、彼はそういう屈折した心理を持つ天才だったと思っているが、ポゴレリッチもそうなのか推察するほど僕は彼をよく知らない。記憶にあるのはあの流麗で瑞々しく神のgiftを強く感じさせるスカルラッティやガスパールなのだが、彼のその後の人生には何があったのだろう?拍手をする気分ではないままそういう疑問ばかりが心を占めてしまいサントリーホールをあとにした。

 
Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

オスモ・ヴァンスカ/読響のシベリウスを聴く

2015 NOV 22 1:01:59 am by 東 賢太郎

きのうは北の湖のニュースでショックを受けてしまい、コンサートの感想どころではありませんでした。

こういうプロでした。

指揮=オスモ・ヴァンスカ
ピアノ=リーズ・ドゥ・ラ・サール

シベリウス:交響詩「フィンランディア」 作品26
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
シベリウス:交響曲 第2番 ニ長調 作品43

東京芸術劇場は日本へ帰って来てから6年ぐらいずっと読響の定期(マチネ)をきいていましたが、N響に移って以来8,9年は行ってません。改修もしたようで楽しみでした。

結果として、このホールは東京ではベストと思います。残響が適度にあるわりに後方の楽器まで分離よく細部が聞こえ、低音楽器は倍音が豊かです。ヨーロッパ的な音がしますが欧州の有名ホールに似たものはないかもしれません。よく似てるのは香港文化中心(Hong Kong Culture Center)大ホールではないでしょうか。

さてラフマニノフを弾いたリーズ・ドゥ・ラ・サールですが、冒頭鐘の音の響かせ方から個性があります。ソノリティをじっくり聴き分けながら和音をならす。主張を持ったピアノでとても良かった。ただテクニックではやや苦しい所もあり、こういう曲がいいのかどうか・・・。アンコールのドビッシーは非常に高雅で、彼女の音響、ソノリティへの趣味が良く出た名演でした。低音の弦の微細な振動まで聞こえる芸劇の音響、いいですねえ。彼女はフランス物を聴きたいです。

201202220001_b

 

余談ながら、この人、ビジュアルで得してますね。むかし(今もあるか?)フランス人形というのがありましたが、まっさきにそう思いました。これはオジサン族はイチコロですね。

 

 

 

シンフォニーの2番。ヴァンスカはCDでもそうですが、ザッハリヒなシベリウスをやります。無味乾燥ということではなく、原典主義というか。第4楽章の第1ヴァイオリンのフレージングなど彼の読みへのこだわりでしょうが耳慣れないのがややわずらわしい。音量があがると速度も増す傾向があり、音楽のテンションは非常に高いです。第2楽章はppへのブリッジの休符が長く緊張感が増幅します。大きな起伏にオケがついていけずにバスとずれがあったり、完成度を求める指揮でありながら熱量の方に耳が行ってしまう演奏でありました。ひとつの強い主張を持った解釈であり感銘は受けましたが、僕の好みの2番ではないというところです。

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-

2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎

クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。

ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。

220px-HorowitzBainそのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。

ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。

しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。

彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。

なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。

ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。

第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。

技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。

ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。

実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。

先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。

ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアノニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。

現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。

クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。

僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。

ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。

その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。

 

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30

2014 JUN 20 0:00:01 am by 東 賢太郎

ピアノ協奏曲の王はベートーベンの皇帝だろう。では女王は?シューマンといいたい気もするがこれの前には王女かもしれない。王もひれ伏すしかない豪壮さとメランコリー。ピアニストが最も攻略にてこずるが、籠絡したら未曾有のパンチ力で聴き手を打ちのめす恐るべき音楽である。

ライブでこの3番の良い演奏を聴くことは僕のクラシック鑑賞の無上の喜びの一つである。終わった瞬間、我々聴衆はまるでフルマラソンの優勝ランナーをゴールに出迎えるように、能力と体力のかぎりを尽くして走りぬいた勇者を讃えるかのような熱い感情に包まれる。そういう曲はあまり心に浮かばない。

第1楽章再現部前にある大カデンツァのように素人目にも空恐ろしいアクロバティックな印象から狂騒曲の評価を下す人もいるだろう。しかしそうではないように思う。第2楽章冒頭のオーケストラ部分を聴いてほしい。世に数多ある「悲しみの音楽」の中でもこれは優れた部類のものだ。

rachpc3

ラフマニノフの書いた緩徐楽章、第2交響曲や第2協奏曲のアダージョもすばらしく美しいものだがこのどうにも胸が絞めつけられるようなものは聞こえない。3番のアダージョは切々と訴える和声が悲しいが涙をさそうわけではない。何かを諦めたようであり、切なく期待してみるようでもあり、悲しみは結晶化して澄んだ冬空みたいに透明である。僕はこれを聴くたびに耳に残って離れなくなる。気になって仕方なくなる。こんなにウェットな音楽はほかに記憶にない。

ピアノパートのヴィルトゥオーゾ的なものの価値は弾けない僕にはわからない。ラフマニノフ自身がこれをニューヨークで初演したが、渡米する船の中でサイレントピアノで練習して臨んだという。ラヴェルのように自作を弾けない人もいたが、弾かずに書いて他人の作のように練習するという順番になる脳の構造が凡人には想像できない。なお2度目の演奏の指揮者はグスタフ・マーラーであった。慣れないオケにこれは名曲だと時間を超過して練習させラフマニノフを感動させた。

youtubeからお借りするイェフィム・ブロンフマンのピアノは見事。メタボ気味のご体形だがこのぐらい体重がのった強い音がないともの足りない、ピアノを壊すんじゃないかというほどのffだ。速いパッセージも深い音でよく弾けていて、ゲルギエフがあおる終楽章の快速テンポからさらにアップしていくコーダの鬼神のような終結!人間ってこんなに凄いことができるんだね、人に生まれてよかったね、なんて見知らぬ人とハグしてしまうかもしれないなあ。これを聴いたラッキーな方、うらやましい。

N響Cプロ、アシュケナージ指揮でアルプス交響曲の前半にベフゾド・アブドゥライモフというまったく初めて聞くウズベキスタン出身23歳の若者が弾いた。冒頭主題の微妙なテンポの揺れによる主張と完璧なコントロール。只者ではない雰囲気に会場が息をのむ。この曲を何度か録音したアシュケナージだがハイティンクとやったDecca盤ではもう(ほんの微妙にだが)テクニックに苦しさを感じる。それほど超弩級に高難度の曲だ。ところがこの若者、難しいパッセージに一切のほつれもなく、だから難しく聴こえない。普通の野手だとファインプレーに見える難しいゴロが、名手がさばくと普通のゴロに見える、そんな感じだ。だから汗だくで弾いて完走おめでとうのヒーローに拍手をする感じではなく、余裕含みで良い音楽をありがとうという感謝の拍手を送った。大物候補だ。

アシュケナージの指揮について一言。彼がコンセルトヘボウ管と録音したラフマニノフ交響曲全集は名盤である。曲の勘所をこれほどつかんだものはない。この日の伴奏もその例で、コーダでのピアニストと第1ヴァイオリンによる盛り上げの山を両者のシンクロをキープしながら引っぱって全オーケストラが爆発へ向かう興奮はさすがと思った。

 

ウラディーミル・ホロヴィッツ / ユージン・オーマンディ/ ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

4193-NNyMTL__SL500_AA300_自身大ピアニストでもあった作曲者が3番の免許皆伝を与えて自分は弾くのをやめたというホロヴィッツ最晩年の歴史的記録である(78年1月8日カーネギーホールのライブ)。このLPが鳴り物入りで発売され自宅でかけた時の衝撃と興奮は今も忘れない。聴きかえしてみると今や伝説の人となったホロヴィッツは一流のショーマンだったと思う。オーマンディーは唯一残る3番のラフマニノフ自作自演盤の指揮者だ。この人と会って話をしたなど今となるとうそのようだ。もっとその時の話をきけばよかったなあと後悔の方が先に立つ。

 

(補遺、3月12日)

ニコライ・ルガンスキー / イワン・シュピレル /  ロシア国立アカデミー交響楽団

608917201222ロシアの正統ヴィルトゥオーゾの快演。ルガンスキーは新しい録音もあるが若い感性とエネルギーに満ちたこっちが好きだ。シュピレルという指揮者はまったく知らないが、曲想に生気があり、音楽の山の作り方も実にうまい。ピアニストが伸び伸びと力を出し切っており、ff でのタッチのキレと輝きのある高音、深く鳴りきった低音、澄んだ抒情、コーダの豪快な爆発など3番に求めたいものがすべてある。万人におすすめしたい。

 

アレクシス・ワイセンベルグ / ジョルジュ・プレートル / シカゴ交響楽団

51ys-x0oq0L大学時代に買ったこれのLPで3番を覚えた、僕にはおふくろの味みたいな演奏。まず、ピアノがオンの録音でトゥッティでも全部聞こえるという点で稀有である。これがあまりに「ちゃんと」弾けているのでゾクゾクするほど凄い満足感が得られる点でも稀有だ。和音がつかみきれなかったり指が回らなかったり弾き飛ばしたりペダルでごまかしたりというのがないのは3番においてはめったにないことなのだ。タッチはクリスタルのように硬質で、その意味でもこの3番は稀有だ。プレートルの指揮も透明で暑苦しくなく抒情も深く、最高の満腹感を与えてくれる今もって僕の愛聴盤だ。

 

ゾルターン・コティッシュ / エド・デ・ワールト / サンフランシスコ交響楽団

317Y8HKRR3L作曲者の自演盤も速いがこれはいい勝負である。録音を含めて自演の完成度をストレートに高めた演奏という意味で、僕はこれを3番のベストと讃えたい。コティッシュは大学時代にカセットで聴き込んだドビッシー、ラヴェルで気脈が合致するのを感じる。クープランの墓も全曲をオケに編曲してしまう。安物のセンチメンタリズムに無縁で楽譜のリアライゼーションに徹するなど音楽に対する原理主義者の姿勢がとても趣味に合う。ここでのピアノのメカニックもハイレベルで、それなくしてそういう趣味は達成できないのだが、それをこれ見よがしに売り物としない節操も好ましい。持ってる人と持ってない人の差だ。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演

2014 FEB 23 0:00:34 am by 東 賢太郎

前回のフォローアップです。曲にはおなじみという方にお薦めしたいCDです。世評の高いリヒテル、ルービンシュタインは好みでなくコメントは世の中にいくらも出ているので控えます。今後も良いと思ったものは日々追加してコメントしていきます。また、過去に書いた他のすべての曲についても同様でCDリストはだんだん長くなっていきますので、僕のブログページの右下の方にある「カテゴリー」から検索して適時ご覧ください。

セルゲイ・ラフマニノフ / レオポルド・ストコフスキー / フィラデルフィア管弦楽団

mzi.hggxgout.600x600-75作曲者のピアノによる自作自演盤です。1929年、僕にとっては2年通った思い出のアカデミー・オブ・ミュージックでの録音です。このテンポの速さはSPの収録時間かあの残響のないホールトーンと関係があるかもしれません。あまり粘らないロマンにひたらない演奏であり、下記ヴァ―シャリ盤はこの対極です。和音のつかみには手の大きさを感じますし、指の回りと打鍵の強さからは大変なヴィルトゥオーゾだったことがわかります。彼のピアノのフレージングは音が高く登ってまた降りてくる場面で、登りはだんだん遅くなり下りはだんだん加速するという傾向があり面白いですね。重力加速度のイメージです。こういうことは楽譜に書けないのでこの録音は非常に貴重です。 https://youtu.be/pBx-tr1FDvY

 

タマス・ヴァーシャリ / ユーリ・アーロノヴィッチ / ロンドン交響楽団 uccg5270-m-01-dl

アーロノヴィッチが熱くうねるようなフレージングでこの曲のロマンを徹底的に味あわせてくれる名演です。この曲にひととき身をゆだねたい人に強くお薦めします。雄大な起伏で盛り上がった頂点から崩れ落ちてくるかのような第1楽章展開部はカタストロフィー寸前のものすごさ。終楽章第2主題の登場にいたるりタルダンドと一瞬の静寂の間など、これはもうマーラーの世界です。気迫をこめて低音を打ち込むヴァ―シャリのピアノも感情の振幅を押さえる気配すらなく、オケとのバランスなどものかは感じるままの起伏で対峙します。それでいて第2楽章中間部の叙情、細かいパッセージの切れ味とも一級品。これがライブだったら! 第1楽章です。

 

アレクセイ・スルタノフ / マキシム・ショスタコーヴィチ / ロンドン交響楽団 41GSRXWNMFL._SL500_AA300_

これは多くの人に聴いていただきたく、ここに取り上げます。ピアノのスルタノフはウズベキスタンのピアニストで89年にヴァン・クライバーン・コンクール優勝、95年にショパン・コンクールで1位なしの2位、オリンピックなら2大会で金メダル、生きていたら間違いなく世界トップクラスの俊英でした。ところが惜しくも、2005年にくも膜下出血のためわずか35歳で亡くなりました。これは彼が師と仰いだホロヴィッツのイメージをもって成し遂げた19歳(!)の名演といっていいでしょう。ラフマニノフの弾いたショパンの変ロ短調ソナタがありますが、僕は逆にショパンが、まさにあの2つの協奏曲を書いた20歳のショパンがこれをあの世で弾いたらきっとこんなではないかと想像してしまうのです。若々しい詩情とデリカシーに満ちています。ショスタコーヴィチの息子マキシムの指揮もピアノを包み込む様な大きな流れを作っていて感動的です。

 

ベンノ・モイセイヴィッチ / ヒューゴ・リグノルド / フィルハーモニア管弦楽団 761

モイセイヴィッチ(1890-1963)は作曲者自身が「精神的な後継者」と折り紙をつけ、ヨゼフ・ホフマンにも称賛されたユダヤ系ロシア人ピアニストです。55年録音のこの演奏は独自の緩急とアクセントのあるピアニズムで弾きとおした個性的な演奏です。作曲者自身がショパンの楽譜を自由に解釈して演奏していますから自作に対してもこういう解釈であれ何の問題もなく許容していたと僕は思っています。これぞ19世紀のピアノ演奏であり、自演盤よりずっと録音のいいこの演奏はラフマニノフ存命の時代の空気を濃厚に感じることのできるタイムマシンです。

アビイ・サイモン / レナード・スラットキン / セントルイス交響楽団 MI0000977943

ホロヴィッツのようにそれが前面に出る奏法ではなく録音も地味なので目立ちにくいのですが、最もピアノの技術が高い演奏の一つであること間違いないと思います。弾きながら歌う声が聞こえますが、恐らくこの人は実演でもミスタッチをするイメージのまったくないピアニストでしょう。本当にうまい。野球でいえば井端や宮本の守備のようなもので、あまりにうまいので難しいゴロをさばいても一般の人にはファインプレーに見えず、野球をやった人は鳥肌が立つという。幸いこれは音楽だから心して聴けば誰にもわかります。スラットキンの指揮もサイモンの呼吸にぴったりと合ってシンフォニックなメリハリが最高です。僕は愛聴しています。

 

セシル・ウーセ / サイモン・ラトル / バーミンガム市交響楽団

unnamed (55)ウーセはヴァン・クライバーン・コンクール優勝のフランス女性です。今年まだ78歳ですが残念なことに病気で引退され、後進の指導や世界のコンクールの審査員をされているようです。僕は彼女のフランス物を愛聴していますが、ブラームスの2番を弾いてグランプリを受賞するほどの剛腕でもある。この2番の男勝りのタッチでばりばり入るバスの効いた第1楽章、いいですねえ。僕は第1主題の伴奏ピアノが聞こえる方が好きです。第2楽章も速めでさらさら流れ、ラテン的感性でいっさい粘りません。同じフランス人のグリモーも以前はこんな風だったかもしれません。終楽章はラトルの指揮がやや僕の感性とは合いませんがメリハリは充分で、ウーセのピアノを聴いているだけでなぜか気持ちがいいのです。スイス勤務時代に車に入れて毎日聴いていたほど気にいっています。

 

フェリシア・ブルメンタール / ミヒャエル・ギーレン / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

51GvxNRLVbL__SS2801958年録音。ポーランドのピアニスト、ブルメンタール(1908-91)はLP時代に廉価盤の常連で、レパートリーは広いがその程度のピアニストと思ってました。しかし彼女はシマノフスキーの作曲の弟子で、ヴィラ・ロボスにはピアノ協奏曲第5番を献呈された20世紀前半の需要なピアニストである。このラフマニノフ、ギーレンとウィーン・フィルの伴奏(!)が面白く、ピアノは弾けてしまって流してる感じの所もあるが、最後は帳尻があっていい音楽を聞いた充実感を残してくれるのです。最近のテクニックばりばりで磨きぬかれて大仰な「大演奏」に飽きているのでこれはお茶漬けの味であり、時々聴いてます。 i-tunesで600円です。

 

ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

2014 FEB 22 16:16:34 pm by 東 賢太郎

浅田真央のフリー、何度見てもいいなと思い、今日もまた見てしまいました。キム・ヨナさんのオリンピック最後の演技も大拍手を送りたいし、優勝のロシアの子のジャンプも凄かった。しかし、それでも、真央さんのあの試合直後のインタビューには演技と同じほどの驚きと感動と涙を何回もいただいているのです。あの心の底からでてくる数少なくて重たい万感のこもった言葉にはもう年齢など関係なく、畏敬の念しかわいてきません。修羅場をくぐって何かをやり遂げた人は静かで美しい。

彼女がこの曲にのって劇的リカバリーを演じたというのはとても意味があるように思います。というのはラフマニノフも彼女と同じ24歳のときに大失敗をしてどん底まで落ちこんだ人だったからです。それは自信満々だった交響曲第1番が評論家から想定外の低評価を受けたためでした。ショックから作曲不能に陥った彼を救ったのはニコライ・ダーリという精神科医で、快方に向かったラフマニノフが書き上げた起死回生の一曲がこのピアノ協奏曲第2番だったのです。

そういう生い立ちのせいでしょうか、この曲は切ないセンチメンタリズムに聴く物を酔わせ、暖かくハグしてくれるような包容力に満ちあふれ、勇気と生きる力を与えてくれて鼓舞してくれます。圧倒的に素晴らしい「第1楽章展開部の終わりの数ページ」はいつ聴いても血沸き肉躍りますし、夢うつつのように安らぐ第2楽章。最後の1~2ページ、秋空の夕焼けが広がってこころに希望と深い平安が訪れます。終楽章はロマンスと歓喜の嵐であり、全曲を締めくくるコーダの興奮となにか難事を達成したかのような充実感!修羅場をくぐりぬけた人だからこそ書くことができた音楽に、生きる喜びがぎっしりと詰まっているのです。本人のピアノです。

この曲との42年のつきあいは17歳の時、チャイコフスキーPC1番の稿に書いたヴラディーミル・アシュケナージ盤(コンドラシン指揮モスクワ・フィル)によって始まりました。そのLPで知って、こっちの方が好きになってしまったのです。すぐに夢中になってしまい、第3楽章のエキゾチックな第2主題、あの変ロ長調をそこだけ何度も何度も練習してついに弾けるようになった快感といったらありませんでした。そのアシュケナージの絶妙のテンポ・ルバート!今これを聴いても初恋の記憶がリアルによみがえります。

3番は技術的にはより難しいといわれます。その2と3を両方弾く人が多いのですが、どちらかだけというこだわり派の人もいてなかなか面白い。リヒテル、ルービンシュタインは2番だけ、ギレリス、ホロビッツ、アルゲリッチは3番だけ、ですね。ミケランジェリは4番だけという変人ぶりを発揮していますが。ラフマニノフは弾かない人もいます。アラウ、バックハウス、ケンプ、ゼルキン、カサドシュ、ブレンデル、ポリーニなどです。

いろいろ聴いたライブでは01年にオペラシティでテミルカノフ/ザンクト・ペテルブルグ・フィルとやった中国人のラン・ランのテクニックの冴えには驚きました。アメリカでFM放送で聴いた故アリシア・デ・ラローチャのサンフランシスコ響(エド・デ・ワールト指揮)での84年のライブは忘れられません。彼女は一度香港でリサイタルを聴きましたが小柄で手が小さい人でした。しかしそれを補ってたおやかで優しく、ツボを押さえた名演が非常に印象に残っています。第2楽章の夕焼けはこれを凌ぐ演奏を知りません。

それを髣髴とさせる美しさがあったのが、N響で聴いたアンナ・ヴィニツカヤでした( N響 フェドセーエフ指揮アンナ・ヴィニツカヤの名演!)。これも正統派の名演ですね。タッチの折り目正しさがいい。これでスケールを身につけていったら将来非常に楽しみと思います。

最後にもう一つ。花ごよみさんに教えていただいたカティア・ブニアティシヴィリです。まずお断りしますが、僕はこの演奏を買いますが全面的には支持できません。テクニックはけっこうラフであり、第1楽章提示部の最後や終楽章コーダの入りの加速などあまりに唐突で僕は到底ついていけない。前者など満場あ然の急発進でオケはマンガ的スピードにされたまま置き去りとなり、再現部冒頭は指揮者がわけがわからなくなってピアノとばらばら。この楽章の白眉がぶちこわしです。局部的にかきたてる興奮、最後は前代未聞の超特急ぶりで聴衆はロックコンサート並みに湧いてますが、この曲は真っ当にやってもっと巨大な感動を生み出せるのです。

そうは思いつつも、このお嬢さんの天衣無縫のじゃじゃ馬ぶりはいとも抗しがたき魅力がある。この人は他人を理屈でなくオーラで巻き込んで説得し、えいっとねじふせて支持者にしてしまう何かを持って生まれているのです。そういうものを肯定してしまうDNAを持って生まれているらしい自分として、理屈でなく感性で賛成票を投じている。人間とは不思議なものです。

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30

ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27

 

オスモ・ヴァンスカ/読響のシベリウスを聴く

リスト メフィスト・ワルツ第1番 S.514

 

 

ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27

2014 JAN 12 0:00:01 am by 東 賢太郎

前回、大学受験失敗記にて書いた「不合格だった日」、1974年3月20日は僕の今までの人生で最も暗い日だった。そこから記憶がないと書いたが、記録が一つだけ見つかった。記録魔でレコードを聴くと必ず日にちを書いている。そして、その日に聴いたレコードがわかった。ラフマニノフの交響曲第2番であった。

あの日にこれを選んだとは・・・。それはこの曲が僕とどういう関係にあったかを物語る。恐らく誰にも、親にも友達にも会いたくなかったろうし、どんなあたたかい励ましの言葉も空しく響いたろう。でも苦しんでいる自分はそれを求めていて、この曲だけが、それができたということだ。僕はこのシンフォニーが心から好きである。そこには他にかえがたい「癒し」があり「鼓舞」がある。

ラフマニノフには同じく人気作のピアノ協奏曲が2つある。それらも名曲だが、この曲ほどの奥行きと広がりはない。この2番はより大作であり、交響曲という均整と深みがあり、ロシアの憂鬱があり、そこからの解放という強靭なエネルギーがあり、そして何よりも癒しのメロディーの慰ぶに満ちあふれているのだ。どん底に落ち込んで地獄を見ている人を一気に救い出す力がある音楽だ。

それ以来もたびたび、僕は精神的に厳しい時に無意識にこの曲のCDを取り出してきたような気がする。そういう時にバッハやベートーベンのような音楽はつらい。暗い曲、重い曲は心痛を倍加する。しかしウインナワルツのようなお気楽なもてなしは逆効果だ。モーツァルトは明るくしてくれるが、そういう鼓舞を受け入れられるならまだ心底から落ち込んでいるわけではない。どうしようもない時の薬は昔からこれなのだ。

僕はこの音楽が鳴り出すと左脳がオフになる感じがする。他の曲ではないことだが、楽譜が浮かんでこないし見たいとも思わない。口からは言葉も出てこない。男性的なものが目の前から消えて、女性、それも気のおけない母や妻や娘などといて何も考えてないようなうつろな精神状態になる。それでもハートは音楽のうねりに熱く乗っていて知らず知らずヴィオラやチェロのパートを一緒に恍惚となって歌っている。何という心地よさだろう。そして曲が終わってあとに残されるのは、元気になっている自分なのだ。

ブラームスの交響曲第2番、チャイコフスキーの第5番がひょっとするとそれの代わりをつとめる可能性がある曲だ。しかしまだこちらのダメージの程度が軽い場合のように思う。それ以外、そういう音楽は知らない。

 

ヴラディーミル・アシュケナージ / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

515Co0w7x8L._SL500_AA300_圧倒的に素晴らしい演奏、音響のCDであり、僕はこれがあれば他はいらない。21種類の音源を持ってはいるがもう増やすことはないだろう。アシュケナージの指揮はなんら誇張がなく、スコアの怪しからぬカットや余計な改変もなく、作曲家への敬意に満ちていてその意気にオーケストラが心服して名技で応えているという幸福な音楽である。コンセルトヘボウの素晴らしいホールトーンが見事にとらえられているという意味でも非常に価値のあるCDである。これが美しく聞こえなかったなら、値段に関わらず、あなたの装置はクラシックに向いていないと思われたほうがいい。

アンドレ・プレヴィン / ロンドン交響楽団

プレヴィンこの曲を教えてくれたのはプレヴィンであり、敬意を表したい。「あの日」に聴いたのは1965年の旧盤であるが、カットがある。これは73年盤でそれはない。2番がまだそれほど知られていない60年代からとりあげ、世界にヒットさせたのはプレヴィンである。第3楽章のクラリネットの美しさ、終楽章の厚いオーケストレーションの鳴らし方など、実にうまい。ロンドン交響楽団がやや無個性であり、アシュケナージのオケの魅力に及ばなないのが唯一の欠点だが、これをファーストチョイスにされることは賛成できる。

TVドラマやポップス編曲で大変有名になった第3楽章です。

 

ユーリ・テミルカーノフ  /  ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

724356977624CDはまだなくLPは持って行けなかった米国留学時代、しばらく2番の音源がなくてどんなに「ひもじい」日々を送ったことか。そしてこれのカセットテープを見つけ狂喜し、毎日どれだけ癒されたか。僕の救世主的存在で、ロンドンでアシュケナージ盤を当時最先端だったCDフォーマットで入手するまで宝物だったこれが廃盤とは悲しい。ザンクト・ペテルブルグPOとの新盤が出たからお蔵入りはない、これはテミルカーノフ39才のレコーディング・デビュー録音で並々ならぬ気迫にあふれ、オケが渾身の演奏で応えている快演だ。ロマンティックかつシンフォニックで、音楽のプロポーションのバランスが実にいい。久々に当時の感慨に浸った。

 

ホセ・クーラ / シンフォニア・ヴァルソヴィア

51YYZT7JEKL__SX425_オペラ歌手の指揮である。内声部が鳴りすぎでアンサンブルが饒舌かつ雑で未整理感が残るが、そういうことは眼中にないのだろう、歌また歌の2番となっており他に換えがたい魅力がある。なんといっても、長大でカットが通例だった頃もある第1楽章の提示部を繰りかえしてしまうのだから彼のこの音楽へのloveは半端でない。恥も外聞もないその情熱は、2番が圧倒的に好きである僕としてもとうてい看過できない。これが指揮で来たら気持ちいいだろうなあと思う。

こちらはスラットキンがシカゴ響を振ったライブ。悪くありません。

おしまいは第2楽章を中学生の演奏で。福島県郡山市立郡山第二中学校のオーケストラ。うまいね~~!

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30

 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演

 

 

 

クラシック徒然草-ユージン・オーマンディーの右手-

2012 OCT 20 0:00:33 am by 東 賢太郎

「チャイコフスキーの交響曲第5番、バルトークの管弦楽のための協奏曲、ガーシュインのパリのアメリカ人とラプソディー・イン・ブルー、コダーイのハーリヤーノシュ、シベリウスの交響曲第2番、サンサーンスの交響曲第3番、メンデルスゾーン・チャイコフスキーのバイオリン協奏曲」

以上の名曲を僕はオーマンディー/フィラデルフィア管弦楽団のレコードによって初めて聴き、耳に刻み込みました。高校時代のことです。10年のちにそのフィラデルフィアに留学し、2年間この名門オケを定期会員として聴くということになり、不思議なご縁を感じざるをえません。そのオケに42年君臨したのが、ユージン・オーマンディーさんです。

はじめは名前も知らず、誰のユージンだ?ぐらいに思っていました。あとになって、友人だったかどうかはともかく、シベリウス、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、バルトークなど大作曲家との交流があったことを知りました。また、「ファンタジア」や「オーケストラの少女」で有名な大指揮者ストコフスキーの後任であり、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ゼルキン、アラウ、ロストロポーヴィチ、スターン、オイストラフなど音楽史を飾るソリストと競演した、20世紀を代表する大指揮者のひとりです (写真はSony Classical Originalsより、左・オーマンディー、右・ショスタコーヴィチ)。

僕がフィラデルフィア管弦楽団の定期会員だった1982-84年はリッカルド・ムーティーに常任指揮者のポストを譲ったあとで、すでにご高齢だったオーマンディーさんは定期に数度しか現れませんでした。もう一回指揮予定があったのですが、たしかベートーベンの田園とシベリウスの5番だったか、ドタキャンになりました。残念でなりませんでした。しかし、その理由は、その1回だけ実現した演奏会の終演後に知ることとなりました。

その演奏会、プログラムは前半がチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、後半が交響曲第5番。あいだにインターミッション(休憩)が入ります。前半も後半もオケが鳴りきった立派な演奏で、このコンビがチャイコフスキーを長年オハコにしてきた様子がよくわかりました。ただ、休憩が終わっても後半がなかなか始まらず、30分以上遅れてしまったことがどこか気になっていました。

証券マンの図々しさで、僕はいろいろな演奏会で終演後の楽屋に侵入しています。この時ももちろんです。係員の女性に止められましたが、

「どうしてもマエストロに会いたいのです。日本で彼のレコードで5番を覚えたので。」

などと随分身勝手なことをいうと、そこはアメリカ人の懐の深さで 「そうですか、それはいい機会ですね。ではどうぞ (OK,come in ! )  」 となりました。このとき、歩きながら彼女が開演が遅れた理由をこっそり教えてくれました。

「でも先生も困ったもんですわ。今日はコンチェルトが終わると、それで終わりと勘違いして家に帰っちゃうんですもの」

なるほどそうだったんですか。でも先生、後半の5番の指揮は完ぺきでしたね。すべてのフレージングやポルタメントが、そうこれこれ、とうなずくほど僕の耳にこびりついている、まさにあなたのものでした。チェロの前の最前列から見させていただいたかくしゃくとした指揮姿、忘れることはありません。

おそらくこれが最後からン回目ぐらいの指揮だったでしょう。先生が亡くなったのはその2年後の1985年でした。

楽屋で先生は奥さんとご一緒で、突然の闖入者も意に介さず上機嫌。オー、よく来たなという感じでした。「僕は日本が大好きなんだよ。みんな優しいし、ごはんもおいしいしね。」 とお茶目で元気いっぱい。僕と握手した時間の5倍は僕の家内の手をしっかり握っていました。そのかたわらから僕は「先生のレコードで・・・・」、 これはあまり聞こえておられなかったようです。サインをもらって満足してしまいました。ああ、もっと話を聞いておけばよかった・・・・。

先生の右手はコロッとしていて肉厚で、西洋人としては小さめでした。今でも感触をはっきりと覚えています。

この写真を見ると、すごい、俺はシベリウスやラフマニノフと握手したんだ!

いや、AKB握手会になってしまいました。

(写真はタワー・レコード”Sony Classical”スペシャル・セレクションよりお借りしました)

 

(こちらをどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

 

 

クラシック徒然草-僕の音楽史-

2012 SEP 14 14:14:33 pm by 東 賢太郎

僕の一番古い記憶は、親父のSPレコードを庭石に落として割ってしまったことです。2歳だったようです。中から新聞紙 ? が出てきたのを覚えています。ぐるぐる回るレコードが大好きでした。溝の中に小さな人がはいっていて音を出していると思っていました。

これが昂じたのか、僕はクラシック音楽にハマった人生を歩むこととなりました。作曲や演奏の才がないことは後で悟りましたから聴くだけです。就職した証券会社では、大阪の社員寮に送ったはずの1000枚以上のLPレコードが誤って支店に配送されてしまい、入社早々大騒ぎになったこともありました。

転勤族だったので国内外で24回も引っ越しをしました。そのたびにLP、テープと5000枚以上あるCD、オーディオ、ピアノ、チェロ、楽譜がいつも我が家の荷物の半分以上でした。この分量はクラシックが僕の57年の人生に占めてきた重みの分量も示しているようです。

僕がお世話になった証券業界では僕は変り種でしょう。この業界は オペラのスポンサーはしても社員オーケストラをもつような風土とはもっとも遠い世界の一つです。それでも僕が楽しくやってこれたのはひとえに海外族だったからです。アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスに駐在した13年半に、僕はもう2度と考えられないほどの濃くて深い音楽体験をさせてもらいました。

そういうとやれ「カラヤンを聴いた」「バイロイトへ行った」という手の話に思われそうですが、そうではありません。僕はそういうことにあまり関心がなく、書かれた音符のほうに関心がある人間です。たとえば、同じ夜空の月を見て「美しい」とめでるタイプの人と「あれは物体だ」と見るタイプの人がいます。僕は完全に後者のほうです。文学でなく数学のほうが好き。文系なのに古文漢文チンプンカンプンというタイプでした。

高校時代はストラビンスキーの春の祭典、バルトークの弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(通称、弦チェレ)みたいなものにはまっていました。特に春の祭典は高2のころ1万円の大枚をはたいてスコア(オーケストラ総譜)を買い、穴のあくほど眺めました。この曲は実に不思議な呪術的な音響に満ちていて、それがどういう和音なのか楽器の重ね方なのかリズムなのか、全部を自分で解析しないと気がすまなかったのです。

弦チェレの方は、第3楽章です。ちょっとお化けでも出そうなムードですね。フリッツ・ライナーの指揮するレコードで、チェレスタが入ってくる部分。この世のものとは思えない玄妙かつ宇宙的な音響。なぜかこの演奏だけなんですが。敬愛するピエール・ブーレーズも含めてほかのは全部だめです。これもスコアの解析対象となります。

時が流れて、僕はフランクフルトに住みました。その家はメンデルスゾーンのお姉さん(ファニー)の家の隣り村にありました。そう知っていたわけではなく、たまたま住んだらそうだったのですが。彼はそこでホ短調のバイオリン協奏曲を書きました。あの丘陵地の空気、特に彼がそれを書いた夏の空気をすって生きていると、どうしてああいう第2楽章ができたのかわかる感じがします。あそこを避暑地に選んだ彼と、その場所が何となく気に入った僕の魂が深いところで交感して体にジーンと沁みてくるような感覚。うまく言えませんが、かつてそんなことを味わったことはなかったのです。

こういう感覚は、大好きで毎週末行っていたヴイ―スバーデンという町でもありました。ブラームスの交響曲第3番です。もういいおっさんだった彼はここに住んでいた若い女性歌手に恋してしまい、ここでこの曲を書きました。彼としては異例に甘めの第3楽章はその賜物でしょうが、むしろそれ以外の部分でもこの町の雰囲気と曲調が不思議と同じ霊感を感じさせるのです。この交響曲はこのヴイ―スバーデンとマインツの間を流れるライン川にも深く関係しています。

シューマンの交響曲第3番とワーグナーのニュルンベルグの名歌手第1幕への前奏曲。この2曲はそのライン川そのものです。すみません。どういう意味かというのは行って見て感じてもらうしかありません。このシューマンの名作は後世にライン交響曲と呼ばれるようになりました。シンフォニーのあだ名ピッタリ賞コンテストがあったらダントツ1位がこれです。

名歌手は全部ライン川で書かれたわけではありません。でもあのハ長調の輝かしい前奏曲はヴイ―スバーデン・ビープリヒというライン川べりで書かれたのです。ワーグナーの家は水面にちかく、滔々と悠々と流れるラインが自分の庭になったような錯覚すらあります。太陽がまぶしい秋の朝、目覚めて窓を開けると眼前に滔々と流れるライン川、そこにバスの効いたあの曲が流れる。僕の理想の光景です。

こういう経験をして、僕はだんだんとお月様を見て「美しい」と思う感性も身についてきました。物体だ、という感性が消えたわけではなく、少しはバランスのとれた大人のリスナーに成長できたということでしょうか。基本的にはロマンチストなので、ボエームやカルメンを涙なしに聴き終えたことはないし、ラフマニノフの第2交響曲を甘ったるい駄作だなどとは全く思いません。

しかしメンデルスゾーンのジーンとした感じは、涙が出るとか甘いとかそういう次元の話ではありません。泣くというのは作曲家が仕掛けた作戦にまんまとはまっているということです。そうではなく、作曲家がそういう作戦を練る前の舞台裏で、一緒に昼飯を食ったというイメージなのです。どうも話が霊媒師みたいになってきました。

ところで今、心を奪われているのがラヴェルです。音楽を書く手管、仕掛けのうまさという意味でこの人は最右翼です。もちろん、どの作曲家も聴き手を感動させようと苦労し、手練手管を尽くしています。そうでないように思われているモーツァルトの手管はパリ交響曲について書いた彼の手紙に残っています。しかしラヴェルはその中でも別格。うまいというより、彼は手管だけでできたみたいなボレロという曲も書いています。もうマジシャンですね。ドビッシーと比べて、そういう側面を低く見る人もいます。

僕も、そうかもしれないと思いながら、聴くたびに手管にはまっているわけです。ダフニスとクロエ。このバレエ音楽の一番有名な「夜明け」を聴いて下さい。僕は2度ほどギリシャを旅行してます。あのコバルトブルーの海に日が昇るような情景をこれほど見事に喚起する例はありません。音楽による情景描写というのはよくあります。しかしこれを聴いてしまうと他の作品は風呂屋のペンキ絵みたいに思えてしまいます。そのぐらいすごい。手管だろうがペテンだろうが、この域に達すると文句のつけようもないのです。

僕のラヴェル好きは高校時代にはじまります。春の祭典と同じ感覚で。両手の方のコンチェルトの第2楽章、ピアノのモノローグを弾くのは今でも人生の最大の喜びの一つです。もう和音が最高。ダフニスと同じコード連結が出てくる夜のガスパール第1曲も(これは弾けません)。バルビゾンの小路に似合う弦楽四重奏の第1楽章。僕にとって、ヨーロッパの最高度の洗練とはラヴェルの音楽なのです。

あれもいいこれもいい。 50年も聴いてくるとこうなってしまうのです。しかし50年たっても良さがわからない有名曲もたくさんあります。最後は好みです。もう今さらですから、ご縁がなかったとあきらめることにします。好きな曲は何曲あるか知りませんが100はないと思います。50-60ぐらいでしょうか。

これから、時間はかかりますが、1曲1曲、愛情をこめて、なぜ好きか、どこが好きかを書いていきます。これは僕という人間のIDであり、作曲家たちへの心からの尊敬と感謝のしるしです。読んで聴いて、その曲を好きになる方が1人でもいれば、僕は宣教師の役目を果たしたことになります。聴かずして死んだらもったいないよという曲ばかりです。必ずみなさんの人生豊かにしてみせます。ぜひお読みください!

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

木ノ内輝
松上一平
福井利佐