二胡の「ハナミズキ」になぜ涙が出るの?
2022 AUG 9 8:08:57 am by 東 賢太郎
ヴィヴァルディの「四季」って知ってるよね。たしかテレビCMで使ってたっけね。ああいう曲ね、昔は『名曲』っていったんだよ、知らないよね。いい曲のことかって?ちょっとちがう。じゃあベートーベンとかシューベルトとか?うん、それはそうなんだけど、でも彼らの曲が全部ってわけでもないのよ。面倒くさいね、じゃあどういう曲?そうね、クラシックなんだけどみんな知ってて、知らないとちょっとね・・みたいな感じかな。
今は音楽の教科書に米津玄師さんがのってる時代だね、そうそう、僕が大好きな一青窈さんの「ハナミズキ」もそうらしいね。この曲、サスペンスドラマのエンディングだったかな、初めて聞いた時にね、サビのところで、凄い!天才だ!って叫んじゃったんだよ。ほんとうに素晴らしい曲だ。
ラブソングかと思ったらぜんぜんちがうんだ。歌っているのはあの9-11で犠牲になった父親(僕)と子供(君)なんだね。「空を押し上げて」というのは瓦礫の下になったからなんだ。庭に咲く5月の花ハナミズキと共に蘇る君との幸せな想い出。「水際まで来て欲しい」は三途の川、「波」は戦争。庭にハナミズキが咲いて君の幸せが永遠に続くことを願う。
『名曲』は昭和のニッポンの定義なんだね。あの時代限定っていうか、あの空気を吸ってた人しかわからないんだろうなあ。どういう曲のこと?って孫に聞かれたらこう答えるしかないかな。
「名曲喫茶でかかってた曲だよ」
昭和生まれの僕らは音楽をそういうものだと教えられて育ったんだ。ちょっと違うんじゃないのって、ビートルズも好きだった僕はそう思ってたけどね。四季や運命をきいて、世の中にこんないいものがあるって知ってね、「だから名曲なんです」って学校で教わるの、でもそれはそれ、ほんとうに楽しかったよ。まだ見ぬ西洋への憧れがどんどんふくらんでね。僕だけじゃない、きっと、名曲喫茶で何時間も粘っていたあの人たちみんなそうだ。外国なんて知らない。どこも行ったことがない。でも、まだ未知の場所があるって、実はものすごく幸せなことなんだ。
もう僕はそれがない。昭和の『名曲』にどきどきもしない。
ちょっとちょっと、もっとわからないよ。名曲喫茶?なにそれ?そうだね、まずそれから説明しなきゃいけないね。
僕がそれにお世話になったのは浪人・大学時代だから1970年代だけど、もっともっと前からあったんだ。有名だったのは御茶ノ水駅前の「名曲喫茶ウイーン」と渋谷道玄坂の「名曲喫茶ライオン」かな、ひと言でいえば「泰西名曲鑑賞専門珈琲店」ってとこだ。立派なオーディオ装置とレコードコレクションがあってね、コーヒー頼んで聞きたいレコードを紙に書いてリクエストすると、お姉さんが順番でかけてくれるんだ。そこでかかるのが、クラシック好きの人が金払っていい音で聴きたい曲、そう『名曲』なんだね。そういうものだから他のお客さんにそこそこ気をつかうんだ、これ注文して大丈夫かなってね。クラシックはポップスみたいに2,3分で終わらないの、平気で1時間かかるからね、皆さんのコーヒー冷めちゃうわけで、僕もそうだったけど新しい曲やら演奏家を発掘したいって人もいる。だから「あいつ、いいのかけてくれたな、ありがと」ってのが望ましいんだ。でも僕はそのころ変なの専門でね、シェーンベルクのピエロなんてそのスピーカーで思いっきり鳴らしてみたいの。そんなのやっちゃうと皆さんアウトだもんね、そういう配慮をくぐりぬけた、皆さん納得の集合知みたいなのが『名曲』だっていうことになるの。もし外国にあったらきっと『名曲』は違うものになってたね。
でも好きだったんだ。あれはひとつの文化でね、智の殿堂って雰囲気もあった。友達もよくひっぱっていったさ。いまはyoutubeあるもんね、ハイエンドのオーディオの味知らない人をお客にするには難しい時代になった。「名曲喫茶ウイーン」をググると漫画家ヤマザキマリさんのブログがあって、若いころここでバイトしてたらしい。僕は『テルマエ・ロマエ』で彼女のファンになったのでうれしい。レコードかけてくれたかもしれないしね。しかもあのアテネ・フランセでイタリア語やったって、僕も少しだけ英語で行ったことあるんでそれもうれしい。あの辺は中学から大学まで庭だったから地元愛みたいなのがあってね。ウィーンはビルはそのままに居酒屋・焼き鳥屋の雑居ビルになってる。ご時世だね。お世話になりました。ここで覚えた曲、けっこうあるよ。
もうひとつ、道玄坂の「ライオン」は嬉しいことに健在みたいだ。渋谷は渋谷でね、駒場の教養学部にいた2年間だけはこっちが根城だったからよく行ったっけ。まわりはストリップ小屋とラブホでいけない。ライオンは大正時代からあるからこれも世相なんだけどね。お値段的には貧乏学生にはなかなかハイソでね、ここでコーヒーは高いってすりこまれたもんだからアメリカ旅行に行ってずっこけたの。安いけど珈琲フレーバーのお湯だもんね。あんなのをこっちじゃアメリカンなんて気取って飲んでんだから気が知れない。名曲喫茶のは本格的だ。旨かったよ。で、その感じがクラシック音楽にコラボしててね、どっちも舶来品だしね、でっかいスピーカーだって高級品でとても手が届かないし、耳の穴かっぽじって聴かなくっちゃってなるよね。だから集中してるんで曲をすぐ覚えた。コーヒーはいい投資だったってことになるね。そこで「四季」が朗々とかかってる。いい音だったね、おお、これがストラディヴァリウスか、イ・ムジチかってね・・・
なんて麗しき昭和の世だったんだろう。
ファンの方のブログによるとこうだ。イ・ムジチの「四季」のレコード売り上げは、1995年時点の日本において6種の同曲録音の合計で280万枚を売り上げている。1976年に100万枚を突破し、その他のレコードを合わせると1977年のイ・ムジチ創立25周年には何と1000万枚を突破する大記録を達成した。1987年来日公演中に「四季」だけでクラシックのレコード界では空前の200万枚の売上を達成。カラヤンの運命もびっくりだ。
四季は立派なクラシックなんだけど堅苦しくなくって、昭和の日本人がややこしいことぬきで楽しめて、たくさんの人が癒されたと思うんだ。そういうのがいい音楽なんだね。イタリアっていいな、行きたいなと憧れたよ。イ・ムジチは一度だけライブで四季を聴いたんだ。香港時代にね、家族を連れて行ったよ。舞台が目の前の席だった。女性奏者のかたと目が合ってね、ウチの小さい子供3人を見つけてうれしそうに微笑みかけてくださったっけ。レコードのとおり、いい音だったよ。
僕はイタリアの弦が大好き。モーツァルトのカルテット全集で一番好きなのはイタリア四重奏団ってくらいでね。なんでかってのはいろいろ考えてみたけどやっぱりわからない。こういうのは食とか女性の好みと一緒で本能的なもんなんだろうね、とにかくぱっと明るくてしなやかでふくよかで、アンサンブル神経質にそろえようなんて雰囲気がなくってね、それでもちゃんとモーツァルトになっちゃう。ああこの気分の軽さとそれでもはずさない品格って、地中海気候で育ったラテン系の人たちだなって。僕はどうやら人も文物もそれが合うんだね、とにかく男も女もね、明るくて面白い人が好きだよ。自分はそれと真逆だからね、気がついてないものを引き出してもらえる感じがするからかもね。
やっぱり弦はいい。ピアノは何でも弾ける。オーケストラの曲だってね。だから僕の中ではシンセサイザーなんだ。では弦楽器はっていうと、ひとりじゃあんまり細かいことはできない。でも、絶対にピアノにできないことができるんだ。歌うことだ。ピアノもシンセも、人を泣かせるって容易じゃないよ。でも弦楽器はできる。泣かせるのは歌なんだ。そんなにうまくなくたって、それこそヨーロッパの街角でヴァイオリン弾いてる大道芸人だってね、ハートに飛び込んできて、感情をグイッとつかみとることができる人を何人も見たよ。
ここからその泣かせる弦楽器の話をしよう。『名曲』と何の関係があるかって、もうちょっとガマンして欲しい、おしまいになってわかるから。
弓で弦をこする弦楽器を撥弦楽器っていうんだ。西洋ならヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスだね。その起源の話をイギリスやドイツでしたことがあるけど、事ここになると西洋人はプライドがあるんだろうね、東洋から伝わったかもしれないは認めるけどやっぱり不明だってことにされる。素材はなんたって羊の腸、馬のシッポだよ、弦を糸巻で引っ張ってこするっていう音の出し方だってね、羊と馬といっしょに暮してたアジアの遊牧民が発祥でないと主張する方が大変なの。とすると、じゃあ欧州起源ですかってことになるけどね、スパゲティがイタリアで生まれてラーメンになるかって?そんなわけねえだろって。いっぽうで、遊牧民の文化は漢民族にもいろいろ伝わってて、そっちでは同じものが「二胡」という撥弦楽器になったんだ。素材はやっぱりおんなじ、音の出し方もおんなじ。張ってる皮は砂漠地帯にいるヘビだけど、胴体が共鳴板になってアンプ役をするって発想は東西でおんなじだよ。
だから弦楽器の発明者はユーラシア大陸の真ん中を行き来してた遊牧民だ。僕はそう思ってるよ。とするとご本家は今ならモンゴル族がそのひとつってことになって、彼らには馬頭琴(モリンホール)というチェロぐらいの大きさの弦楽器があるね。彼らはよく飲んでよく歌う。有名な歌唱法にホーミーがあるよね、祖先の叙事詩も、戦勝も、酒も、男女の愛も、慶事も弔いも、モンゴル音楽は感情をのせた歌なんだ。楽器なら打楽器のピアノでなく弦楽器ってことになるよね。それが漢民族に渡っていく。遊牧民が作れるってことは複雑な工業製品じゃない、馬と羊がいれば庶民でもできる。どんどん広がる。そして歌も人の心に乗って広がる。それが二胡になるんだ。
二胡を聴いてごらんなさい。あの心に響く音色は一度耳にしたら絶対に忘れないよ。すごくオリエンタルで西洋にはないものだね、あれがモンゴルの歌から来た情感で、女真族から朝鮮半島を通るうちにそこの民族の情感もまとって日本に来ていると思うんだ。日本の伝統音楽は宮廷に残ってる雅楽ってことになってるけど、あれは楽器ごと古代中国宮廷からきた天上界の音らしい。中国の学者はもう母国にあの古代楽器は残ってないので、正倉院の御物と宮廷雅楽は宝だって言ってる。笙、篳篥の音ってたしかにどこか宇宙っぽいよね。でもキュンと泣かせるメロディーや唄なんかはないのね。ところが二胡は正反対でしょ、ヴィヴラートかけまくってとろけるみたいに訴えるメロディーはとっても人間くさい。あれはまぎれもなく庶民のもの、遊牧民起源のもので、思うにその唄バージョンの末裔が日本では演歌、艶歌になっていると思う。百済の都だった扶余に旅行した折に遊覧船に流れていた歌を日本の演歌だと思っていたんだ。なんでこんな所でって不思議でね。ところがよく聞くと韓国の唄だったんだ、同じルーツのものだろう。
で、今度は西側の話だ。弦楽器はシルクロードからペルシャと地中海世界に渡ったんだね。だからイタリアに名工がいたのは不思議じゃないんだ。思い出してごらん、2年前、中国の武漢で最初のコロナ患者が出て騒ぎになりだしたころね、春節で帰国した中国人労働者が陸路でヨーロッパにわっーと戻ってね、だからあっちで最初に感染爆発した国はイタリアだったんだ。いまは海路も入れて一帯一路って言ってるけど、絹の道だった昔からそういう地理的な関係なんだ。西洋で最初にできた弦楽器は「ヴィオラ」だったんだよ。ヒザにはさんで弾くのがヴィオラ・ダ・ガンバだね。ブランデンブルグ協奏曲第6番は2丁のヴィオラ、2丁のダ・ガンバが主役でヴァイオリンはなし。なんで?と思ったけど当時は不思議じゃなかったんだね。「ヴィオラ」と「二胡」。なんか因縁あるでしょ、ちなみに、二胡の音域は中央のレから2オクターブなんだけどね、これってヴィオラが気持ちよく歌える音域なんだよ。遠く離れた兄弟かもしれないね。
音楽喫茶と四季と弦楽器。『名曲』でつながってるね。そこにヴィオラと二胡がはいるって楽しくないかな、だって文化と歴史がね、国も時代も超えてシルクロードでつながった感じでしょ?それってなんか『テルマエ・ロマエ』だよね。ヴィオラがイタリアの楽器じゃないし、二胡が中国の楽器じゃないって、イメージふくらましてもらえたかな?頭の中がごちゃごちゃになったって?いやいや、だいじょうぶ、ゆっくり寝て3日もしてごらん、きっと君の凄い発想が時空を飛び交ってるからさ。
ハナミズキの作曲家、マシコタツロウさん。ありがとう。よくわかりました。『名曲』は昭和と共に去ったんだね。そして僕たちも古くなった。あるのは「いい曲」だけなんだ。心に寄りそってはなれず、知らないうちに涙が流れてる曲。それがいい曲でなくてなんだろう。マシコさんをヴィヴァルディやベートーベンと共に讃えたい。えっと思う人はまだ『名曲』の世界の人かもよ。
この曲に二胡の響きがいかにあうか、ピアノじゃないんだね、人の声もそうだけど、弦が歌うとね、9-11の歌になって魔法のように涙をそそる。僕はそんな自分がいたのかって不思議なぐらいやさしい人になってる。どうしてかな。この見事な演奏を聴いて考えてくださいね。おしまい。
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百科事典とベートーベン交響曲全集の運命(改定済)
2022 AUG 3 23:23:21 pm by 東 賢太郎
むかしむかしあるところに百科事典というものがあった。大学の頃、ブリタニカのセールスの売り込みがあったのはたしか真夏であり、会うのは喫茶店、アイス珈琲がただで飲めるというので話をいちどだけ聞いてみた。たしかに知識の集大成は素晴らしいとは思ったが、セールスのポイントはそれではなく「一家におひとつ」だった。僕はまだ一家の主でないんでと断った。彼はセールスがうまくなかったようだ。
百科事典は皆さん世界史で習ったフランスの百科全書派と関係がある。ボルテール、モンテスキュ、ルソーなど新思想の大御所が著者となったよろず知識大全がエンサイクロペディーだったからそう呼ばれる。新興のブルジョワ階級に売れたのは国王、僧侶を批判した彼らの啓蒙思想が世の中を変えると信じられたからだ。フランスでそれはあの革命の火種となり、我が国では2百年たって応接間の装飾品となった。
「一家におひとつ」は戦後復興期のラジオ、扇風機、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などにはじまる。核家族化で「家」が増えたこともあって売れに売れた。高度成長期で豊かになると対象は高額品のクルマと家に及び、「マイカー」「マイホーム」なる新語を生んだ(マイでないのが普通だったのだ)。「一家に一台」で買われたアップライト・ピアノはいま中古業者によって中国に年間5万台も輸出されているが、百科事典は街の古書店やリサイクルショップでは買い取りはおろか、引き取り処分も断られてしまうらしい。ちなみに、調べるとジャポニカの美品全18巻がメルカリで3,500円で売られている。本棚をまじまじと眺めたりしない客人の前で主人の教養をそこはかとなく漂わせるにはお安いのではないか。
同じころ、そのノリの世の中で百万枚も売れたクラシックのレコードがある。カラヤンの「運命」だ(ヴィヴァルディの「四季」もあるがここでは前者にフォーカスしよう)。百万となると書籍でも堂々のベストセラーであり、まして地味なクラシックでとなるともう金輪際ない数字だろう。まさか想像もしない極東でとカラヤンもDG(ドイツグラモフォン社)幹部も驚いたことは想像に難くない。ドイツ人は思ってないが日本人はドイツを友軍と思っている。敗戦でともに悲哀をかこった心の友が神棚に祭るベートーベン様。うまい商法だった。インテリはそのコマーシャリズムを鋭敏に嗅ぎつけ、「カラヤンは底が浅い、やっぱりフルトヴェングラーだ」とそれをだしに自己の審美眼を誇ることが同等に底の浅いファッションとなる。おかげでドイツでは同年代のファンがだんだん世を去ってお蔵入りになる運命にあったフルトヴェングラーのレコードが、むしろ故人になった方が仏様として祭られて有難味が出る日本市場では大量に売れるという驚きの発展を遂げるのである。カラヤンもベームも日本が好きだったが、最晩年には生きてるうちから神棚に祭られて気分が悪かったはずはなかろう。
そこでおきた現象がクラシックの百科事典化である。レコード産業の資本主義的成長の必然であった。その象徴が泣く子も黙る「楽聖ベートーベンの交響曲全集」であり、「一家におひとつ」のセールストークには格好のアイテムとなる。百科事典は開いたことはなくても、値の高いレコードを買って聞かないことはなかろうと誰もが思う。運命も第九も聞いたことのない主人が教養人に見える強みがあった。全集というと、ひとりの指揮者によるものは1930年代のワインガルトナーが最初ということになっているが、オケは複数であり、百科事典に不可欠である飾りになる威厳と統一感はまだない。フルトヴェングラーにこの仕事は来なかったからカラヤン出現の10年前まではそれを作る思想はドイツのレコード業界になかったと推察される。カラヤンは1951年から1955年にかけてフィルハーモニア管弦楽団と全集を英国資本のEMIに録音したが、これがその端緒だろう(百科事典のブリタニカも英国企業。もっと顕著には、米国の出版業者がクラシックレコードも出した例としてリーダーズ・ダイジェスト社が著名)。ベルリン・フィル一本で初めてそれを企画したのもEMIだが指揮者はフランス人のクリュイタンスだ(録音は1957~1960年)。契約でカラヤンは使えなかったようだがDGは旧敵国にそれをされたら屈辱というのもあったのではないか。
EMIのマーケティング戦略に刺激され、契約問題をクリアしたDGが満を持し、指揮者・オケ・プロデューサー・技師をお国の本丸で固め、前年のEMIの企画を上書きして潰すが如く同じベルリン・フィルを用い、プロテスタント精神の故郷ベルリン・イエス・キリスト教会で録音したコテコテのドイッチェ式こそがカラヤンの1回目の全集(1961~62年、左の写真)だったのだ。英国資本主義とドイツのナショナリズムはナチ問題で相反した。この全集には終戦後まだ16年しかたっていなかったドイツの文化人、知識人の複雑な精神構造、すなわち戦争責任とナチを分離し国家の存続と威厳を保持するという難題を文化のアイデンティティーという国民の心のよりどころでどう処理するかという思いがこもっていたと考えて間違いないだろう。そして、この全集から切り出した第5番「運命」が「一家におひとつ」の百科事典セールス興隆時代にあった極東の被爆敗戦国で空前絶後のセールスを記録し、当時としては高額の2千円のお値段で百万戸もの家庭に “収蔵” されたという今となっては驚くべき事実は、我が国の西欧文化受容史上、安保闘争、反米の左翼的気運が何がしか投影もしたであろう政治、文化風景の象徴的な一里塚と評して良いのではないだろうか。
ベートーベン全集よりも百科事典の性格をおびたと感じるのは同じカラヤンのブルックナー全集(1975-)だ。カラヤンは初期作品を演奏会にほとんどかけておらず、演奏現場からの必然はなく、つまり全集作成のためだけにそれらをあえて演奏したわけだ。2番などそれでこの出来かというレベルで、これがブルックナーかと眉をひそめる向きもあろうが、僕は初物を真摯に読み解いてBPOの最強の合奏力でリアライズしたこれが好みではある。ザルツブルグのカソリック文化で生まれ育ったギリシャ移民カラヤンにとってブルックナーは「ドイツ性」を身に纏うための大事なツールであったと思われる。彼のデビュー録音は当時は知名度の低くかつ長大な第8交響曲であり、楽団はベルリン・フィルだが製作はEMIだ。プロテスタントとのドイツ性の狭間にいたオーストリア人ブルックナーのアイデンティティーの葛藤を巧妙に自身の隠れ蓑として、由緒正しき保守本流のドイツ代表フルトヴェングラーの後継候補筆頭に躍り出んとするカラヤンの対抗馬がルーマニア人チェリビダッケであったことは僥倖だった。連合国の会社EMIがクラシック界の王道中の王道レパートリーである敵国ドイツ物をアルヒーフの中央に鎮座させるためのエースで4番として、玉虫色にマーケティングできるカラヤンをナショナリズムとナチ排斥の自己嫌悪の分裂に乗じて契約で縛ってしまい、プロテスタント楽団のエースで4番であるベルリン・フィルごとかっさらおうという戦略の仕上げに名刺代わりの第1作をブルックナー8番の2枚組LPとする。これで連合国、ドイツ両陣営の市場を抑えられ、時がたてば米国市場にも切り込める。カラヤンの名誉のためにも美学上の理由もあったに違いないと僕は信じているが、事業家としての観点からも実に秀逸な戦略だ。6年にわたり英国の上流知識階級とがっぷり四つで商売させてもらった僕が英国インテリジェンスに心酔するのはこういうところだ。
ベートーベン全集から10余年置いて企画されたDGによるカラヤンのブルックナー全集の重みはそうした背景を知って初めてわかる。出来栄えからして百科事典であって何一つ文句はないが、一方で、これが苦も無く超ド級の演奏水準でスタジオで達成できる彼らが、やる気になれば何の問題もなくやれたであろうし売れたでもあろうマーラー全集はつくらなかったのはとても興味深い。こういうところに欧州文化の深層が見て取れるからだ。ユダヤのマーラーとカソリックのブルックナーは1960年辺りまでは多分に忘れられた演目だった。大オーケストラによる長大な後期ロマン派作品という以外は音楽の性格においてなんら相関のない両者が1970年ごろからそろって人気演目となる背景は、オーディオテクノロジーの進化で長時間の高音質録音が可能になり、LP2枚組で新たな市場が開ける可能性が出たことにある。マーラーは1,2,4,5番、大地の歌など単品としての人気曲目はあったが、人件費のかかる8番、知名度の低い7番、演奏が至難な9番までそろえた「百科全書」はユダヤ系米国人のバーンスタインの起用を待つことになる。マーラーの一番弟子で泣く子も黙る百科事典録音適格者だったブルーノ・ワルターは、米国帰化後にユダヤ系資本CBSからコロンビア交響楽団を提供されて好きな曲を好きなだけ録音できる特権をもらいながら、私見では賢明と思う純粋に芸術解釈の美学上と思われる理由(発言がある)から、3,6,7,8番は選ばなかったからだ。
カラヤンが10才年長で両人はほぼ同じ年まで生きたライバルだったが、バーンスタインが生涯を通じてブルックナーは9番しか録音をしなかったという重い事実を、宗教、戦争、政治が芸術と無縁と思っている、あるいはそこまで無知ではないがそうあって欲しいとは願っている日本人音楽関係者やファンは考えてみたことがあるのだろうか。彼が晩年はマーラーを契機にウィーン・フィルと蜜月になったことは意味深い。筆者は1997年にウィーンで同楽団のヴィオラ奏者たちと会食した折に「我々にマーラーを教えたのはバーンスタインである」という直々の言葉を聞いているが、正妻ベルリンフィルとの諍いがあり、むしろウィーン・フィルを恋人にしていたつもりのカラヤンには心胆寒からしむる思いがあったもしれないからだ(フルトヴェングラーが正妻ベルリン・フィル楽員に人気だったイケメン男カラヤンに懐いた嫉妬心のような)。しかし、カソリックのウィーン・フィルを手中にしても、あれほど何でも振る能力があったバーンスタインはブルックナーは9番しかやらなかったのである。そのようなことを知ってはじめて、4,5,6,9番,大地の歌,亡き児を偲ぶ歌,リュッケルトの詩による5つの歌曲だけで終わったカラヤンの「マーラー進出」は簡単でなかったことが分かる。軽々に芸術解釈の美学上の理由だけと割りきって推察することも本人が語っていない以上はリスクがあり、私見ではナチ問題をひきずって踏み込めなかったバーンスタインの牙城米国という根深い問題が透けてみえているように思う。
戦争が勃発しているいまこう書くのは些か気が引けるが、それでも両人の戦いから半世紀がたったいま、ずいぶん世界はひとつになった。仏教徒がマーラーをやろうがブルックナーをやろうが元から何の関係もないが、ユダヤ人のダニエル・バレンボイムはイスラエル・フィルでワーグナーをやるには細心の気を配ったにもかかわらずブルックナーは気兼ねなくシカゴ響、ベルリン・フィル、ベルリン・シュターツカペレと3度も全集録音を果たす傾倒ぶりであり、かたやマーラーは大地、5、7、9番、歌曲集だけという塩梅であってナチ問題、宗教、美学を分離しているように観える。芸術解釈をザッハリヒに行なう主義を僕は否定はしないが、ことマーラーのような主情的な音楽をそれと切り離して解釈するのは演歌を譜面通り歌うのと同じほどナンセンスだろう。バレンボイムがそれと相いれないパーソナリティの持ち主ならば演奏しないことが解釈なのだという態度をとるしかない。それが許されるほど世界はひとつになったのだ。
東洋人をなめ切っていた米国が最も恐れるのは中国という時代だ。辺境から搾取するのが資本主義なら、巨大な辺境だった中国がそうでなくなろうとしている今、資本主義は行き詰まるだろうという主張はけっして誤りではない。リッチになった中国では、実は日本でもまったくもってそうだろうが、マーラー、ブルックナーは単なる商品であって、ユダヤだろうがカソリックであろうが、そんなことは99.99%の人にはどうでもいいのである。そのノリで新興ブルジョア家庭が子女教育に血眼になり、品質のいい日本の中古ピアノが資生堂の化粧品やピジョンの哺乳ビンの如く飛ぶように売れる(年間5万台、一台20万円上乗せなら100億円の営業利益だ)。むかしむかし、いまの中国人のようにハイカラを気取りたかった我が国の中流家庭によって、娘の誕生における新しいライフスタイルの心弾む新常識として争うように買われたピアノというものは、やがて百科事典と同じ運命になって置き場所に困った大量の長物と化している。だからその商売が栄えているのだとしか考えようがなく、あの気障りなテレビCMを見るたびにいつも機嫌が悪くなる。中古レコード屋に大量に出回るLPもそんなものではないか。楽ではない家計を切り詰めてピアノを買ってくれたおじいちゃん、おとうさんが亡くなったら、なんでこんな重くてかさ張るものが何百枚もあるのよ、早く処分しといてねってことになるんだろう。ウチばかりはそんなことはなかろうとも思うが、カラヤン、バーンスタイン死して30余年、クラシックリスナーなのに彼らの名前も知らない人が出てきてそのCDが1200円という時代がくるなんて当時考えた人はいないのだ。
それを恐れざるを得ない僕は息子に、地下室はぜんぶお前にやるからそのかわり絶対にメルカリに出すなと厳命している。
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チャイコフスキー 交響曲第4番ヘ短調 作品36
2022 JUL 20 19:19:07 pm by 東 賢太郎
作曲家の心をその刹那に支配していた特別なムードというものは、時に塗り壁に封じ込められた霊気のようにスコアの奥に潜んでいて、演奏すると虚空に迷い出て繊細な聴き手の心に忍びこむことがある。そういう楽曲が幾つかあることを僕は知っている。
チャイコフスキーの4番はそのひとつだ。この曲の第1楽章は疑いなく彼の書いた最も狂気に満ちた恐るべき音楽であり、僕にとって意味深いもののひとつだ。4番を文字にすることを僕は自らに禁じてきた。理由がある。過日のこと、母を施設へ見舞に行って、気晴らしにとヘッドホンでこれをかけてあげたところ、冒頭のファンファーレにはっとして僕の目を見てうなずいたからだ。そのころ、母はすでに認知症で僕が誰かもわからなくなっていた。以来4番は軽々にさわれない気持ちになった。両親が亡くなり、失うものがなくなってその禁を解く時が来たことで本稿がある。
さらにもっと前の話(2008年)になるが、第1楽章をシンセサイザーで作ろうと試みたことがある。ところが展開部のある部分(後述)で弦の合奏が揃わない。低弦のパートを聴きながらだとVnが全然合わない。仕方なくスコアのVnパートを虫眼鏡で拡大・凝視して弾いた。シカゴ響で聴いてもそこは “カタストロフィー” なのだが、わずかでもズレるとカオスになってしまう。和声法も書法も極めて緻密であり、緻密であるがゆえに、この狂気の音符を書いた作曲家の精神状態は尋常でないと今でも思う。彼自身が “プログラム” とした「運命」が4番の陳腐で空疎なキャッチコピーと化し、文学的、情緒的な解説ばかりが施されるが、そんな皮相なものはこの曲の鑑賞には少しも助けにならない。誰も楽曲としての特異性を分析したり語ったりしないのはまことに不思議なことだ。
チャイコフスキーは結婚した時点で既に富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助の申し出を得ており、踏み切ったのは経済的事情より妻アントニーナの猛烈なアプローチに押し切られた側面が大きいと考える。しかし同棲生活は結果としてゲイである宿命を「直視」し「正対」することを余儀なくされたという意味で悲劇というより惨劇であり、モスクワ川で自殺を図るほどの精神的衰弱に追い込まれてしまうのである。そしてわずか2か月で事実上、離婚した。左の写真はすでにその破綻を予言しているように思えてならない。思いを遂げて得意げに微笑む妻、ぎこちなく腰かけてポーズをとるが、どこか落ち着きがなく借りてきた猫のようにいつでも逃げるという風情の夫。新婚旅行なのに妙にすきま風が吹いている。作曲の才に恵まれ前途は洋洋、モスクワ音楽院講師であり美男子でもあった男、普通であれば我が世の春を謳歌したであろう男盛りの37才が、これはない。つまり、彼はおそらく普通でなかったのである。
その後の彼にとってフォン・メック夫人の年金は大切だった。14年も一度も会わずに続いたことからプラトニックな恋愛関係と美化する人がいるが幼稚にすぎる。彼は女に興味ないのである。アントニーナはストーカーだった、ひどい目にあった、でも夫人は単なるファンだ。サービスを強要せずにお金をくれるなんて素敵じゃないか。音楽にはプログラムがあると信じこんているようだ。それならば運命の交響曲ということにして、そうなるように2~4楽章を加えてプレゼントしよう。あの交響詩は狂ってる、暗すぎる。あの時、あの女に俺は発狂していたんだ。悪夢から救い出してくれたあなた様のおかげで私は今こんなに輝いています。暗いあれを第1楽章にしてそんなフィナーレにしよう。満場の喝采も浴びるだろう。そうだ、プログラムはベートーベンの運命交響曲だ。
そうやって彼は明るい陽光の元、イタリアのヴェネチアで終楽章を完成した。着想していた交響詩のような楽曲は第1楽章になった。4番の誕生はそんなものだったのではないか(注)。それでアレを隠して生きていける、もう大丈夫だ。彼が生きるためにどうしても隠したかったもの。それは後に法律学校時代の同窓生に証拠を暴かれ、秘密裁判にかけられ、やむなく自死に追い込まれることになるゲイの性癖である。何の罪もない新婦アントニーナには気の毒なことだが性的嗜好の是否を外野が騒いでも仕方なく、僕は人間の尊厳以前に生死にも関わる重たい一例を見た気がしている。
(注)これは作曲家の弟子タネーエフの主張である
だが本稿の主題はLGBTではない。彼が1878年の書簡でメック夫人に4番の曲頭にいきなり現れるファンファーレの意味を指摘したこの証言である。
「私を幸福から遠ざけ、死に至らしめるほどの力ゆえに従うしかなく、空しく嘆くしかないもの」
これが現れる恐怖。死に至らしめるほどの力である性衝動は止むものではない。女性と同棲すればそれに従えない。2か月で耐えきれなくなり、満たす。その末路は、やがて明るみに出て社会からはじき出され、幸福はなく、嘆くだけのぼろぼろの人生が待っている。意識しないように懸命に逃げ、無視を決め込んできた宿命を結婚で思い知ってパニックとなり、とうとう自殺未遂を犯す。そして15年後にコレラ菌のいる水を故意に飲んで本当に死ぬのである。我々はチャイコフスキーの目も眩むような素晴らしい音楽を聴いて、そんな馬鹿なことがあるはずはないと思う。それは我々が健常者だからであり、同時に、歴史は天才を美化するバイアスを持つからだ。
第1楽章は彼が自殺未遂に追い込まれる精神衰弱の中で書かれた。衝動が襲いかかり、満たせぬそれに抗っているうちに、不意に、人事不省のパニックに陥る。でなければそんなことで人間は自殺しようなどと思わない。問題は「抗えぬ」「不意に」「人事不省」という所にあるのだ。襲ったものは違えども、ハイリゲンシュタットでのベートーベン、第1交響曲の酷評で奈落の底に落ちたラフマニノフも同様の症状に至ったと僕は想像している。なぜなら僕自身も閉所恐怖症で幾度もそれになり、社会生活の一部をギブアップしているからだ。
4番のスコアにそんなことは書いていない。それなりのオーケストラが譜面通り演奏すれば喝采を浴びる。カラヤンやオーマンディの傷ひとつない美演を聴いて満足しないリスナーはあまりいないだろうし、チャイコフスキーはそれで目論見どおりで満足だろう。音楽演奏の美学(aesthetics)を考えるにあたり、この4番ほどわからない楽曲を僕は知らない。作曲家の人生まで勘案すべきなのか、もしそうなら殺人を犯したジュズアルド作品はどうなのか、妻がピストル自殺を図った時に書いていたドビッシーの「海」はどうなのかということになるが、そうした事情が彼らのペンを微塵も動かした形跡はない。しかし、4番はそうではないのだ。
我々は、そう思ってこのファンファーレを聴く必要があるだろう。
タネーエフの解釈は冒頭のファンファーレが苛烈な鬼火のようなトランペットに移行し、ティンパニの鉄槌を食らうとやがて静まって弦にひっそりと現れる不気味なヘ短調の第1主題の在り方に正統性を与える。なんとも黄泉の国のように幽玄だ(蛇がうねるようなチェリビダッケ盤ー下記⑦ーをお聴きいただきたい)。暗闇の中で野火がふらふらと頭上を飛び交い、リズムがシンコペートして引っかっかり何が始まるのだろうという不安がつのる。この時期にこんな交響曲の第1主題がどこにあったろう?(ない。これは交響曲ではない)
第2小節の4,7拍目からの「タタータ」という “リズム細胞” はご記憶いただきたい。楽章を通して繰り返され、耳鳴りのようにそこかしこで響き、しばし忘れるが実は鳴っていることに気づく。8分の9拍子だが ♪ で数えると4+2+3にきこえるこのびっこをひいた不安定なリズムは楽章の通奏低音である。そして後に全開となって聴き手を脈動の迷宮にたたきこむのである。
クラリネットに現れる第2主題は短調であり、これも交響曲の伝統と乖離すると彼はメック夫人に書いている(評論家のようにだ。交響曲だったことにしてしまおうとする彼は、本能はネジが狂っていたが理性は極めて健常だった)。下の楽譜の6連符の部分、滝の水のようにラからミにすべり落ちる半音階下降音型は楽章のそこかしこに楽器を変えて現れる。ホルンの強奏による伴奏でのこれは印象的だ(第78小節)。
やがて長調になりティンパニを伴ったVnによる素朴な第3主題に引きつがれるが、木管の合いの手は第1主題の変形である。やがて主題が弦に移ると楽想はざわめき、Moderato con animaとなってクレッシェンドする。ロ長調のその部分の第1Vnパートを見よう。第1小節はお馴染みの「タタータ」だ。第2小節は ♪ が9つになり、2つ目から一つ置きにアクセントがつく。つまり小節の頭と強拍にズレをつくり聴衆の拍節感を狂わす「頭欠けトリック」がそっと仕掛けられる(後に壮大な迷宮を形成)。第3小節からのソーミードードレミファソ・・は拍節が合致した朗々たる節だが、4小節目が孕んでいるリズムは4+2+3である。通奏低音と書いたことを思い出していただきたい。
たったの4小節にこれだけのリズムの細工と彫琢を施す最高度の理性、知性を持った人と知るにつけ、本能のネジの狂い具合に目が行く人は減る。チャイコフスキーを理解するのは本当に難しい。
朗々たる節は4本のホルンのユニゾンで演奏会場を席巻するほど気持ちよく響き渡る。小節の強拍とメロディーの1拍目が一致した自然な節だからだ。ところがその伴奏は「タタータ」の頭が欠けた「ンタータ」でズレがあり、だんだんそっちが優勢になり、ついにティンパニがfff で「ンタータ」の最初の「タ」(2つ目の ♪)を思い切り叩くようになる(前述の「頭欠けトリック」)。譜面を見てないとそれが強拍と感じてしまい、何拍子かもわからなくなったところで、トランペットとティンパニが突然「ファンファーレ」をぶちこむ(第193小節)。迷宮に連れこまれた聴き手は強烈なパンチを食らうのである。
ここまでが巨大な提示部であり、Moderato con animaから展開部の様相を呈しているが、このファンファーレからが本来の展開部である。しばらく第1主題の亡霊が交互に木管と弦に浮遊する(この部分、熱病にうなされるみたいだ)。やがて第1、第2Vn によって、あたかも魂が天国を夢見ながらそこに登ろうともだえ苦しむような素晴らしいメロディーが奏でられる(ここにしか出ないのであえて「主題」とはしない。交響曲にこんなことはない)。
まったく唐突な出現ではっとする、情熱的なのに高貴でもある驚くべき楽想であるが、第4、第8小節に4+2+3リズムが内包されているのがお分かりだろうか。冒頭の和声はB♭(on a♭)だがメロディーはsus4であるe♭で始まり、ここを4分の3拍子と見れば(8分の9拍子だが)e♭は係留音で次のdに解決する。すなわち、和声的にも第2音が「ぬし」であるという「頭欠け構造」になっているのである。しかも、伴奏のobとclは「ンタータ」の頭欠け音型で、かつ、第5音のsus(係留音)であるg♭から入り第2の f で解決する。以下このメロディーはその法則で音高と音量を増しながら進行する。
この夢遊病のように天国に登る感じは「リズムも和声も頭欠け」という、第1楽章全体を支配する「頭欠けトリック」の応用編というべき構造が我々の脳内に生み出している「像」である。両者に物理的関係はないが、おそらく、脳の同一の部位に作用する。それが僕一人でなく数多の人間に起こる不思議は大変に深遠で面白い。このことで僕は原子核を回る電子の構造と恒星を回る惑星の構造が似ている、銀河が密集して分布する構造(グレートウォール)とラットの脳内のニューロンネットワークの姿が似ているという興味深い事実を思い出さずにはいられない。その2つのペアは、視覚を通して我々の脳の、おそらく同じ部位に、似た「像」を結ぶのだ。このことは、突き詰めれば、チャイコフスキーの脳内で何が起きていたかを知ろうという試みになる。彼は天から降ってきた奇跡のような楽想をここに挿入したくなり、悲痛に恋い焦がれるような、胸がざわざわするみたいな長7度の和声をつけたくなった。「たくなった」というのは「衝動」であって、彼を悩ませ命を奪ってしまうほどの力だったあの性衝動と脳の中で起きている化学現象の本質は変わらないはずだ。ということは、つまり、そういう性癖がある人だったからこれが書けたのである。そういう人が、健常者の作った社会規範の中で楽しく飲み会でもして生きていたのだったらその方がよほど不思議であり、その辺を歩いている人が4番を書いてしまうほど1億年たってもあり得ない事なのだ。それがあってこの交響曲が残っているのだったら、それを楽しませてもらっている我々としては彼の性癖を見て見ぬふりをしたり隠してしまうのではなく、人間のサガとして直視して認めてあげ、それを含めてチャイコフスキーさんという人間に感謝するべきだと僕は心から思う。ちなみに僕をこうして作曲家の脳味噌に執着させ、書き残した作品をTestament(遺書であり聖書)として調査させるもの、これも、趣味でも職業でもない「衝動」だ。地球上のあらゆる人間の中で僕のそれが発動するのは科学者、哲学者、作曲家だけである(結果的に男だけだ)。しかし興味あるのは「彼」ではなく、神品である彼のTestamentであり、彼がどんな変態だろうが狂人だろうがまったくどうでもいい。だからモーツァルトの性癖(こっちは “ノーマル” だが)に目をふさぎ、純真で哀れな天才像を打ち立てようなどという大きく的外れな運動はソ連がスターリンの銅像を祭ったぐらいの人類史の汚点としか見えない。歴史に残った作曲家で、いい人ですぐ飲んでうちとけてカラオケに行けそうな人物は皆無だろう。そういう人はTestamentを残せないが、演奏家や評論家にはなれる。
余談だが、レナード・バーンスタインはYoung People’s Concertでこの部分を取り上げている。さすが!真打!と叫ぶしかない。作曲家である彼も神の奇跡に気がついたのであり、音楽の素晴らしさとはこういうものだ、これを子供たちに伝えてあげなくてはと自ら宣教師の役を負ったのだ。こんなハイグレードな講義をさくっと聴けるアメリカの子供が良き聴衆に育つのは至極もっともだ。クラシックの聴衆はエンタメ空間では絶対に育たない。どんなにクラシックは怖くないですよ、親しみやすいですよとホルストの木星をお姉さんが歌って “ポップさ” を装っても、そもそもポップでないのだから本末転倒なのである。音大は音楽家を育てる学校であるが、いまの音楽界の趨勢、到底回復など見込めない日本国の経済状況からすると何校も潰れる危機がいずれやってくるだろう。お金を払って真剣に演奏を聴いてくれる人を増やすことがすべてを救う道だと理事さんたちは考えないのだろうか。本稿の読者のようにクラシックを知りたい人はたくさんいる。しかし我が国のクラシック文化の未来に僕は危機感を持っており、明治時代と同じノリでシューベルトの魔王を教えてる文科省検定の音楽の授業ではお先まっ暗である(ちなみに僕は中学時代の通信簿で音楽は2だ)。それを担っている音大にこそなんとか動いていただきたい。それには音楽の素晴らしさ、感動を一般の人に広く知ってもらうしかない。宣教師の役を負える優秀な教授がたくさんおられるし、何より目先の学校の収入にもなるのに、どうしてバーンスタイン流一般市民向け教養講座でも設けて聴衆を育てないのだろう。
このパッセージは再びファンファーレの襲来で断ち切られて束の間の幻想に終わる。そして忌まわしい運命はいよいよ僕がシンセで弾くのに悪戦苦闘した部分を呼び覚ます(楽譜2小節目から)。これだ(ああ思い出す、忌まわしい)。
ここから数小節、スコアは弦5部と木管だけになり、上掲の第1Vn声部、低弦+Fgの声部、木管(Fl+Ob+Cl)声部の3声で無調のように無機的となり、リズムは第1主題の変形に対して ♪9つが重なる。狂乱である。間にファンファーレが鳴って狂気が反復されることからも、運命の「死に至らしめるほどのパワー」に理性が打ちのめされ、ここをパニックのようにピアノで弾いているチャイコフスキーの姿が浮かぶ。やがて再度のファンファーレが襲いかかり、ティンパニが地獄の審判のような4+2+3リズムを fff で強打する。静まると第2、第3主題が再現、「頭欠けトリック」の迷宮、ファンファーレとほぼ提示部通り進み、Fl、Obにまったく新しい平和な気分のメロディーが登場し、これも新しい「タタータ」を素材とする行進曲のようなメロディーが現れ、激した弦に乗ってファンファーレが轟く。幻想交響曲のお化けより怖い。これを繰り返すと弦が fff のユニゾンのトレモロで第1主題を悲痛に歌い上げ、Allegro vivoのコーダになだれ込んで曲を閉じるのである。ああ疲れた。なんて重い音楽だろう。でもこれが人類の宝であることは疑いがない。
第2楽章は直前に完成したバレエ「白鳥の湖」のムードを色濃く持つ。美しいのは中間部のまた中間部、es のオスティナート・バスの変ホ長調のページで、第1楽章のバーンスタインが弾いた部分を連想させる。
第3楽章は最も早く完成しパリ万博で独立して演奏された。ピチカートだけの主部は異色で和声もファンタジーを感じさせる所はチャイコフスキーの面目躍如である。中間部は木管だけ、金管だけとオーケストレーションに凝っている。この楽章は2011年にシンセ録音した。
第4楽章はメック夫人の庇護を得て極めてoptimisticだ。雪崩のように音階を駆け降りる主題、歓喜に満ちたダンス主題、そして憂愁をおびたロシア民謡「In the Field Stood a Birch Tree」から成る。
降下主題は第1楽章第2主題の半音階降下にも見られるチャイコフスキーの嗜好で、悲愴交響曲第3楽章の行進曲(Tutti)の導入部にも見られる。この楽章で興奮したいから4番を聴く、4番が好きだという方も多かろうが、まったくの私見だが上記民謡の合いの手にシンバルをちゃんちゃんと田舎くさく鳴らす部分の垢ぬけなさは僕の耳には甚だ興ざめであり、あの衝撃の第1楽章を書いた同じ人が真面目に書いているとは信じ難く、百年の恋もさめる。ロシアの土俗性を宿す交響曲第2,3番のままで、4番時点ではチャイコフスキーは未だ西欧化を遂げていない(まあこれは21世紀人の都鄙感覚であり、曲の出来栄えとは関係ない話であるが)。民謡の引用は、大上段の交響曲にしてしまった手前からくるナショナリストの国民学派へのウケを考慮した自信のなさであり、メック夫人へのロシア人の絆の証し、大サービスでもあったと僕は考える。でも、そんなものはアートの価値には関係ないのだ。他人の気持ちやウケなど微塵も考えていない第1楽章と締めのこの楽章の救いようのないアンバランスは4番の最大の弱点である。チャイコフスキーもそう思ったのだろう、第1楽章のファンファーレが闖入して暗い緊張感が支配する場面を挿入したが、村祭りにひと雨パラついた程度のことであり、やおら歓喜主題がホルンで嬉し気に再現し、一気に欣喜雀躍、狂乱のエンディングになだれ込む。この部分の息もつかせぬ絶妙な和声変化は第1楽章に既に萌芽が見えるが、その個性と創意は見事というほかなく、唯一無二、空前絶後のチャイコフスキー・オリジナルワールドであり、チューバのパートを一緒に歌うのは僕に最大級の喜びを与えてくれるから最後は「やられた」と思う。この楽章も2011年に録音した。
4番の初演はニコライ・ルービンシュタインの指揮で1878年2月22日にモスクワで行われた。チャイコフスキーはフィレンツェに滞在しており断片的な情報をメック夫人から聞いただけだったが、後にタネーエフ、オーケストラ団員らから「うまく演奏はされた」という言葉を聞き、成功しなかったことを悟る。後に第5交響曲を初演した折にも数々の酷評があり、彼自身が同曲の評価に自信を失くすが、その折にメック夫人への手紙でこう書いている。「昨晩、私達の交響曲第4番を再検討してみました。何という差があることでしょうか。なんと立派によく書けていることでしょうか。これは大層悲しいことなのです」。このコメントは重要だ。メック夫人という触媒を得て書き連ねた音符は彼を鬱から回復させたが、精神錯乱の中で書いたのだからどうかと思っていた割によく書けていたことを後で知ったわけである。しかしその音符は初演のオーケストラが初見から読み起こして容易に弾けるようなものではない、うまく演奏されただけで立派なことだった。
総括しよう。ベートベンの「運命」は闇から光へとされるが、こちらは鬱(うつ)から躁(そう)へとした方が余程ふさわしいように思う。チャイコフスキーが心の内面を音楽に描写したのではなく、内面がそうだったからこういう音楽になってしまったという代物なのである。そのことはベートーベンなら「運命」ではなく「エロイカ」、そしてラフマニノフならばピアノ協奏曲第2番にも感じ取れる。人間が極度にdepressされて鬱状態に陥り、音楽を書くどころか自殺の淵に立っており、そこで何かの救いがあって脱出し、平常の精神に戻る勢いで書いたという意味で共通項のある曲だからだ。そこには人智では伺い知れぬ、いわば形而上的で神がかったエネルギーが漲っているが、それは注入されたのではなく作品内に “自生” しているのであり、作曲家がそう意図して書いたからではなく、そうだから彼は復活したというのである。我々がdepressしたとき、エロイカ、ラフPC2、そしてチャイコフスキー4番に救われるとすれば、理由があってのことなのだ。
おしまいに演奏について僕の所有する37種の音源からご参考まで(youtubeで聴けるものを優先。カッコ内はレーベルと録音年)。
(1)4番をあまりご存じない方(以下、寸評からお好みのものを)
➀ ムラヴィンスキー / レニングラードPO.(DG, 1960)
辛口大吟醸。オケ特上(AAA)。パワハラぎみ杜氏の支配力は今や絶滅種。
➁ オーマンディ / フィラデルフィアO. (CBS,1963)
キレある甘口。オケは➀に拮抗(AAA)。どこもスタンダードの表現こそ価値。
③ カラヤン / ベルリンPO. (EMI, 1971)
フルーティな吟醸。オケはAAA。舌に丸みある極上快感でスコアの棘を忘れる。
④ セル / ロンドンSO.(DECCA, 1962)
生酒。オケはAA(Mov4がAA-)。無用の遊びなく直球勝負。こういうスコア。
(2)中級者向け
⑤ ベーム / ロンドンSO. (DG, 1977)
重めの個性。オケはAA。杜氏はワインで実績。既存銘柄に飽きた人には一興。
⑥ 小澤征爾 / パリO. (EMI, 1970)
新人杜氏(当時)。オケA。キリっと辛口さわやか。筆者はこれで酒を覚えた。
⑦ チェリビダッケ / ミュンヘンPO. (EMI, 1993)
超まったり。オケAA。これが酒かの声あるほど個性的。初心者は避けること。
⑧ バーンスタイン / ニューヨークPO. (DG, 1989)
老舗謹製。オケAA。製作年に杜氏に会った。癖強い爺さんだった。個性満開。
⑨ フルトヴェングラー / ウィーンPO. (EMI, 1951)
古酒。オケA。香りは飛んでいるが意外感を楽しむ。これで酒覚えるのはなし。
⑩ スヴェトラーノフ / USSR国立SO. (Melodia, 1967)
郷土色あふれる地酒。オケA。アルコール度数は50度。効く。酒豪におすすめ。
(3)上級者向け
⑪ ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウO. (Philips, 1978)
純米大吟醸中汲み。オケAAA。この極上の気品とコクは子供には分からない。
⑫ ルドルフ・アルベルト / パリ・チェント・ソリO. (不明, 1970)
無名の蔵出し。オケAA。キレ、コク、ノドごし最高。人に教えたくない秘酒。
⑬ 芸大の学生さん(タエーネフ編、ピアノ4連弾版第1楽章)
和音の違う部分、リズム甘い部分あるが、演奏はお見事である。
⑭ コンスタンティン・シルヴェストリ / フィルハーモニアO. (EMI, 1957)
いきなり唖然!なんだこれは?と頭が錯綜したのがずいぶん前の初聴のときだ。はっきり覚えている。しかしこれは深謀遠慮なのだ。実に鋭い。原典に根拠があるのかもしれないが、あろうがなかろうがファンファーレは奇天烈で、出るたびに吐き気をもよおす方がチャイコフスキーの作曲意図に合致するのである。だから僕の音楽美学にも完璧に合致し、全面的大賛成である。終楽章の耐え難いシンバルは実に控えめで趣味も良し。スコアを熟考の末にオケに厳しいムチが入っていることがフレージングの隅々まで感じられ、全曲に渡って馬なりに鳴る音符なし。シルヴェストリ恐るべし!上級者の方は発売当初に物議を醸して著名な本盤を経験済みだろうが、これを機にぜひもう一度耳を凝らして聴いていただきたい。本稿の私見にご賛同いただけるかもしれない。初心者はやめた方がいい。
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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(13)
2022 APR 22 2:02:52 am by 東 賢太郎
アンドリス・ネルソンス / ボストン交響楽団
ネルソンズは1978年、ラトビアのリガ生まれ。ラトビア国立歌劇場管弦楽団の首席トランペット奏者から同歌劇場首席指揮者に就任。そこから北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、2008年よりバーミンガム市交響楽団、2014年よりボストン交響楽団の音楽監督と欧州の王道の出世を遂げている。この録音で彼を初めてきいたが、各楽章のテンポは好適でアンサンブルは微塵の破綻も揺らぎもなく正攻法でBSOを鳴らしておりケチのつけどころがない。あえて言えばあまりに整った優等生でネルソンズの個性が見えないが、38才でこれだけの質の演奏を名門から引き出せれば更なる出世はお約束だろう。録音はBoston Symphony Hallのあの素晴らしいアコースティックをとらえている分、ブラームスを主張するには不可欠である細部のアーティキュレーションが不明瞭でサウンドのボディ、重みも欠ける。スタジオ録音でない悲しさだ。終楽章のティンパニが強く聞こえるのは功罪あるが僕は嫌でなく、コーダは減速から元のテンポに戻るだけでいたずらな加速はせず、これも王道を行っている。(総合評価:4)
イルジー・ビエロフラーヴェク / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ネルソンズの稿で「ブラームスを主張するには不可欠である細部のアーティキュレーション」と書いた意味はこれと比べればわかる。2017年に他界したビエロフラーヴェクがチェコ・フィルを振ったドヴォルザーク8番を僕は1984年にワシントンD.C.で聴いたが、あれほど練り絹の如き素晴らしいヴィオラ、チェロの音を後にも先にも聴いたことがなく、ブラームスにもドヴォルザークにも弦の雄弁さは不可欠ということを知った。この89年の録音にあの時の練り絹ぶりは録れていないが雄弁な主張は充分に伝わり、Mov2は弦と木管がうねるように交叉して歌うドラマがあり熱量の抑揚とテンポの動きが自然にシンクロナイズする。こういうものを至芸という。終楽章のテンポの良さは文句なく、第2主題の歌は心に響く。コーダは減速からTrp信号音でほんの微妙に加速し、そこから不変で揺るぎのない盤石の終止に至るが、このことは初めて聴いても、そこに至るまでの指揮の格調の高さから容易に予測できることである。アンチェル、ノイマンに比べ知名度が落ちるがビエロフラーヴェクこそチェコの名匠でありよくぞブラームスを残してくれたと感謝あるのみだ(総合評価:5)。
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ラフマニノフに回帰した今日このごろ
2022 APR 13 0:00:55 am by 東 賢太郎
ラフマニノフの第2協奏曲を弾こうと思った。ピアノに初めて触ったのはバッハの二声のインヴェンション1番とドビッシーのアラベスク1番で独学で何とかなった。バイエルもハノンもやってない。なんだ、大したことないな。それで2番に立ち向かったのは「高尾山に登れたのでエベレストに行くぞ」ということだ。馬鹿と思わない人は世界にひとりもいないだろう。
それは高1のころのことだったと思う。レコードでメロメロになってしまい、寝ても覚めてもそれだけ。要は2番のストーカーみたいになっていて、たまらない部分を何百回も弾けるまで練習した。好きこそものの上手なれとはよく言ったものでだんだんそれらしくなる。大音量で行く。おお、すごい、ラフマニノフだ!そこで満足して野球に熱が行ってしまい僕のピアノの成長は止まった。
それでも2番への愛は途切れなかった。ところが浪人することに決め、やがて数学にはまってバルトークを知って趣味が一変する。大学ではその勢いで現代物にはまってしまい、ラフマニノフは「二級の映画音楽」の地位に転落するという反抗期のようなものがやって来たからいけない。それ以来、あんなものに熱中していたのは何かの間違いだったという自己否定にまで至ることになるのである。
19世紀のウィーンの批評家ハンスリックがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を「悪臭を放つ音楽」とまで言い放ったドイツ語圏のロシアへの侮蔑。それへの憎悪はレーニンにもスターリンにもプーチンの行為の根底にもある。英米独仏は露を半分アジアと見下し異質と扱っていることを知らないとNATOの成り立ちも、ユダヤ系のゼレンスキー大統領がプーチンにあろうことか「ナチ」呼ばわりされてしまう理由はわからないだろう。
英独仏の影響を受けて誕生した明治政府。それが招いたお雇い外国人による西洋音楽教育。東京音楽学校、東京大学の創立。その官製の流れをくむ日本の論壇。そこに露の入りこむ余地は微塵もなかった。僕の世代は戦後教育によってその世界観を教え込まれ、洗脳されていた。しかし受験に失敗して真っ暗になったその日に僕が取り出していたのは露西亜人ラフ様の第2交響曲のレコードだった。魂が必要なものしか受け付けない、どんな慰めも無意味な日の選択は実に重い。
最近、その想いが復活したのか、彼のピアノ協奏曲第3番には畏敬すら感じるようになっており、ホロヴィッツがメータとやったニューヨーク・フィルとのライブビデオなどあらためて感動している。2番も復活だ、こっちは甘酸っぱいまるで初恋の相手である。そんな気分に戻ることは最高のストレス解消だし、同時に、この憂愁とロマンのたぎりは尋常じゃない、書いた男は何者なんだという新たな好奇心がめらめらと湧き起こるのを感じる。
まず、こういうものを恥ずかしげもなく20世紀のドイツ人やフランス人が書くことは想定できない。イタリア人はあってもカラッと乾いた陽性のテンペラメントだ。ラフ様のロマンは沼に沈んだような湿度のある陰性と背中合わせで、いつも救われず満ち足りない。足りないままマグマが盛り上がるから熱くはなるが、いつも暗示は悲劇であり優しい夢想もほんの一時である。そして最後の最後に至って負の陰影は去り、想いは成就する。これが2,3番の共通の精神構造だ。
つまり沼の暗闇、欲求、否定、反抗、否定、夢想、否定の弁証法が手を変え品を変えうねうねと展開し、コーダで昇華して成就、快哉となるエネルギーの開放感たるや甚大なのだ。ベートーベンが全曲を通しての短調→長調、闇から光への猛烈な直進という新機軸で創造した運命交響曲の興奮だが、それがもたらすカタルシスの解消をラフ様はメランコリックな旋律と和声の迷宮で増幅しているわけだ。その「うねうね感」にロシアを感じると言ったら間違いだろうか?
そう言い切る自信がないのは、僕はロシアへ行ってないからだ。しかしホロヴィッツの演奏を聴いていると3番のうねうねは日本人にも通じると大いに感じる。僕は日本のクラシック受容は「サブカル型」と思っている。歌舞伎、浄瑠璃、講談、落語は武家の能・狂言に対する町人のサブカルチャーだった。明治の文明開化によってハイカラを競うニューアイテムになったクラシックは、鹿鳴館を離れそのサブカルのスペースにうまくもぐりこんだというのが僕の持論である。
歌舞伎の醍醐味は「千両役者」が「十八番」で「大向うをうならす」という3拍子がそろって「成田屋!」と声が掛かる場面にある。フルトヴェングラーのバイロイトの第九が日本で売れたのはその3つともあるからである。逆に、寄席で彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術などは「色物」と呼んで軽く見る。「カラヤンは色物だ」と識者ぶる馬鹿馬鹿しい風潮が1970年代はあった。江戸時代からある「鋳型」にあてはめてクラシックの受容が進んでいった痕跡である。
ホロヴィッツのラフマニノフ3番。クラシックの演奏史で「歌舞伎型」の音楽に千両役者をあててこれほどハマり、大向こうをうならせたドキュメントはそうはない。このビデオを見ている聴衆を相手にするこれからのピアニストは大変だと思う。しかし皮肉なもので、こういう人が現れたといってもそれは「稀有の場面」であったからこそビデオが残って珍重されているのであって、西洋のクラシック鑑賞にそういう要素がリクワイアメントとして求められるわけではない。
2020年に倒産したコロンビア・アート(CAMI)はスターを囲い込んで歌舞伎モデルによる業界支配を狙った会社だったが、ホロヴィッツやパバロッティだからチケットを買おうという人は、彼らが出演しなければ奥さんや恋人を劇場に誘う口実はなく、レコードはブロマイドだからスターが死ねばもう売れないのだ。1990年頃に肝心の千両役者が相次いで世を去り、モデル化は終焉した。わかった教訓は、クラシックにマイケル・ジャクソンは不要だったということだ。
日本の音楽産業はCAMIのマーケティングに乗って「巨匠」「名演」「定盤」の概念を生み出し、鹿鳴館のハイカラをうまく大衆化するのに成功した。歌舞伎の3拍子に欠けると「平板である」「無個性だ」と大根役者扱いされてしまう我が国の批評文化は欧州のそれとは似ても似つかないものだが、CAMIの米国流には偶然の親和性があり、ドル箱の日本はそれこそ神であったろう。しかしカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツら御本尊が世を去ればそれも続かなかった。
その日本の「サブカル型」受容は「舶来品のプレミア・イメージ」と相まっていたが、水と油の矛盾を内包していた。「鹿鳴館のハイカラを競うアイテム」になったクラシックの輸入盤をまだ戦後の闇市、どや街の臭いが漂っていた秋葉原の電気屋街に買いに行く。舶来品は三越、高島屋の時代だ。この違和感は高校時代の僕にとって強烈だった。ラジオがオーディオ装置になり、それをハードとするならソフトであるレコードも同じ店で売る。理にかなってはいたのだが・・。
もっと凄かったのはオペラ、オペレッタだ。歌舞伎座はでんと銀座の真ん中にある。ところがオペラ座はなぜか浅草であって、当初はカルメンや椿姫もやっていたようだがその界隈というと僕にはストリップ小屋のイメージしかなかった。オペラ後進国の受容は特に「お国柄」が出る。パリではムーランルージュのキャバレー文化になり、ニューヨークではスタイリッシュなミュージカルになり、東京では「天国と地獄」のカンカン踊りを代名詞とする浅草オペラになったわけだ。
我が世代のクラシック入門書だったレコード芸術誌の新譜評の順番が交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲そしてオペラ、声楽曲であったのは受容がドイツ至上主義であった表れだろう。英国に赴任してグラモフォン誌の筆頭が声楽曲であるのをみて日本の特異性を知ったわけだが、当時の執筆陣の東大文学部美学科の先生方においては器楽曲は銀座、オペラは浅草の順とするのがレコ芸、すなわち日本のクラシック受容の権威にふさわしいコンセンサスだったのではと思う。
この目に見えぬ意識の呪縛を解くのに僕はヨーロッパに住んで10年の時を要した。そしてそのコンセンサスは、器楽、オペラのいずれにせよ闇市で売っていて違和感なしという本質的イメージギャップの上に成り立っていたのであって、権威の威光が剥げ落ちていけばプレミア・イメージも消えていく運命に元からあった。先日、渋谷のタワーレコードへ立ち寄ってみると、現代曲コーナーは消えてディズニー・コーナーになっていた。他は推して知るべしだ。
サブカルであれ何であれ、1970年代のクラシックは熱かった。ブーレーズのペトルーシュカやベーム / ウィーンフィルのブラームス交響曲全集という「新譜」を購入したワクワク感! あれは小学生のころ毎週待ちわびていた少年サンデーが家に届いて袋を開く歓喜の瞬間そのものである。ともすればお高くとまった舶来の嗜好品、辛気臭い骨董品になってしまうクラシック音楽をそこまで大衆化して楽しませてくれた日本の音楽産業の遊び心は偉大だ。敬意と感謝を記したい。
そんな時代になってしまったようだが、いまも僕は50年前に指に教えこんだラフマニノフ2番のつまみ食いを弾くことができる。その都度、ああなんていい音楽なんだろうと感謝する。これを覚えたアシュケナージのレコードに感激する。そして、このホロヴィッツの神がかった演奏に震撼しているのだ。ラフマニノフが二級の映画音楽であろうがなかろうが、プーチンのロシアにどんな制裁がくだされようが、この喜びは1ミクロンも減ることはない。
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パリというと思いだす名曲たち
2022 MAR 23 3:03:03 am by 東 賢太郎
正月に書きましたが、いま我が家はフランスでもちきりです。昨日、「パリ殺人案内」というサスペンスドラマを家族で観てまして、なかなか面白い。パリのオペラ座が舞台でカルメン歌手の母子が主役で、アリアのシーンが出てくるし、犯人の意外性もある。すっかり現代の設定と思って見てました。でも終わってみると、一ヶ所だけ変だった。「あいつは死んだぜ」と刑事が言った男の墓石に「~1889」と彫ってあったことで、「あれはどういう意味だったんだろうね?」と。まさかと思ってネットで調べると「19世紀を舞台にしたフランス2時間サスペンス」とあるではないですか。ぼーっと見てたんですね。でもこんなこと東京やニューヨークだったらあり得ない、これがヨーロッパです。
気分はすっかりパリになって、何度も行ったけど、ところで、あそこではどんなメロディーが脳裏に浮かんでいたんだっけ、ラヴェルかなドビッシーかなと、これは性分なんですね。仕事ということになってたけどそれは少しでほとんど遊びだったなあ、あそこで**、あそこで++・・・じっくり思い出します。出てきた曲はけっこう意外でした。その顔ぶれはこのようなものです。
フォーレ「ペレアスとメリザンド」よりシシリエンヌ
これ、たしかFMのクラシック番組のテーマ曲で(高校ぐらいだったかなあ)、なぜかパリというすり込みがあって、もうシャルル・ド・ゴール空港の例の白いトンネルをくぐっただけで出てきてました。
フランシス・レイ「白い恋人たち 」(1968年)
販売差止訴訟となった吉本興業のお菓子「面白い恋人」の元ネタはこれ(「白い変人」ってのもあった)。当時僕は中二。甘酸っぱい名曲にまだ見ぬパリを想っていましたっけ。不思議な転調を重ね、謎のホルンが強引に元に戻すのだけどこの不可解さがたまらず耳がクラシックを追っかけるようになってしまった記念碑的音楽でもあります。
サティ「ジュ・トゥ・ヴー」(あなたが欲しい)
いきなりミ・ソ・レとC9のコードで始まる斬新さ。パリ留学したバート・バカラックが名曲『Close to You』でそのまんまパクる(カーペンターズで大ヒット)。無理もない。ラヴェルもドビッシーもサティをパクってるんだから。
ポール・モーリア「恋はみずいろ」(1967年)
一橋中学でお世話になった音楽の森谷先生。あだ名はポール・モリヤでした。原曲はアンドレ・ポップなるイージーリスニングのフランス人らしいですが、モーリア先生のアレンジはいま聴くとチェンバロ、ハープの伴奏がちゃんとフレンチ・クラシックであり、オーボエ・ソロもお品がよろしいですね。他愛ない曲と思ってましたが、弾いてみるとバスが4度づつ3回上がる(a-d-g-c)なんてのが斬新だったんですね。
フランシス・レイ「パリのめぐり逢い」(1967年)
やっぱり僕はレイが好きだったんだと今わかりました。D♭M7-Csus7-C-BM7 - B♭sus7なんてコード進行は当時は高級すぎて不可知。しかし、おしゃれだ。ギターであれこれ試してついに秘密を解き明かしたわくわく感は忘れません。この時の「悔しいけどおしゃれだ」がそのままパリのイメージになったのでした。
シェルブールの雨傘(ミシェル・ルグラン)
戦争が引き裂いた恋人たちの悲劇というと、僕が断トツに愛する映画は『哀愁』(ウォータールー・ブリッジ)です。私事で恐縮ですが、突然に米国留学の社命が下ってまず頭をよぎったのは哀愁でした。もしも2年待っててくれと言って家内とどうなったか・・結局そのままロンドン赴任になって8年帰ってこなかったのだから・・。哀愁は今でも涙なくして観られません。対してパリの傘屋の娘はどうだろう。妊娠していてそれはないだろうなんて思うのは古い人間なんでしょうか。悲恋なのかどうかよくわからないのがフランス映画らしいといえばいえますが、ルグランの音楽は悲しいですね。そういえば「パリ殺人案内」の歌手の娘も冤罪で投獄された恋人の子を宿していて、どうなるか心配しましたが・・。
以上、パリ音楽めぐり、なぜかラヴェルもドビッシーも出てこないのでした。
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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(12)
2022 MAR 21 18:18:26 pm by 東 賢太郎
ヨハネス・ヴィルトナー / フィルハーモニア・カッソヴィア
シューマンの序曲集(NAXOS)が大いに気に入った指揮者である。元ウィーン・フィルのVn奏者だったようで、そのブログ執筆時はブルックナー9番とウィンナ・ワルツ集ぐらいしか録音が見当たらなかったと記憶している。これを見つけて期待して聴いたが、だめだ。シューマンの稿では「普段着の演奏」を評価したが、オーケストラがここまで弱いと話にならない。ポーランド国立放送交響楽団が素晴らしかったということのようだ(総合点:2)。
レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
バーンスタイン44才の1962年、初のアメリカ生まれの指揮者としてNYPOの音楽監督に就任して4年目の演奏だ。出来栄えはまことに素晴らしい。バーンスタインという人の真髄を知るに彼のハーバード大学における講義は必聴である(youtubeにある)。チョムスキーの言語学におけるPhonology(音韻論)とSyntax(構文)を音楽に当てはめた説明は目から鱗で、この講義は彼が20世紀の知の巨人の一人であることを示す。かような教養の土台の上に、イマジネーションを持った作曲家であり、さらに、傑出したエンターテイナー(指揮者)でもあった。彼の知性はいつも音楽への愛に包まれているので表には見えない。Mov1冒頭の春の陽だまりの暖かさ、第1主題を導く呼吸の深さ、木管に絡むホルンの明滅。すべてが室内楽的に最高のテンポとピッチと技術で提示され、展開部の声部の交叉は綿密だが理屈っぽさはかけらもなく自然だ。Mov2はティンパニの録音レベルが低く、VCのしなやかなフレージング、第2主題の歌は後年のVPO盤(DG)に一歩譲り、結尾のFgがやや先走るという微細なアンサンブルの乱れもあるが、NYPOのホルン・セクションのうまさは半端でなく録音の劣勢を補って余りある。Mov3のObはチャーミングだが弦楽部のテンポ(やや速い)を戻すフレーズなどに若さが感じられなくもない。Mov4のテンポは理想的だ。ティンパニの楔の打ち込みも良く、第2主題は情に溺れないが再現部のそれは感情の深みが出て十分な充足感をもたらす。コーダは減速の深みからTrpの信号まで少々加速するが興奮に煽られることなくTrbの下降音型は冒頭のアレグロであり、そのまま盤石のインテンポで堂々の終結を迎える。若きバーンスタインに指揮台でジャンプしてオケを駆り立てるイメージがあるとしたら誤りだ。知性がコントロールしながらブラームスの許容する範囲の情熱を内部からたぎらせる。バーンスタインはそれをclassically contained(古典的に抑制された)と別なスピーチで述べている。ここに聴く2番の「読み」にうけ狙いの軽薄さの類のものは皆無で、今なお保守派の正道の解釈であり、永遠にそうだろう。後にウィーン・フィルに受け入れられる素地はそこにあったと思われる。(総合点:5)
ロリン・マゼール / クリーブランド管弦楽団
1976年録音で僕の大学時代に1-4番が出たがあまり評判にならなかったと記憶している。ベーム初の1-4番がウィーン・フィルでほぼ同時期に出て話題をさらい押されてしまったと思われるが、細部まで貫徹したマゼールの意図を文句なしに秀逸なオケがリアライズした演奏は大変聴きごたえがある。我が国の世評ではマゼールの指揮に「あざとさ」を見る傾向があり、例えばMov2は弦にポルタメントをかけ、終結のティンパニを強めにして暗い谷間をのぞかせ、Mov3は曲想に合わせて微細なテンポの揺らぎを見せるような部分がそうだろう。しかし同じほど美点もあり、オケの透明感は類がなく、終楽章のallegroは快適でTr、ティンパニの合いの手などリズム要素が磨き抜かれ、当時はとてもモダンな解釈であった。Mov4コーダはバーンスタイン同様に最後の二分音符で減速、さらに、「ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(8)」の④を減速(!)という特異な解釈であり、興奮を煽る下品で安っぽい手管は微塵もなく終わる。好まない方もあろうが、dumb blonde(頭の空っぽな金髪)を思わせる何も考えてないアッチェレランド派(最近これがルーティン化しつつある)の対極に位置する(総合点:4.5)。
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ストラヴィンスキー 「詩篇交響曲」(1930)
2022 MAR 5 22:22:38 pm by 東 賢太郎
いつか天に昇る時、きこえる音はこんなかなと思っている曲がある。「詩篇交響曲」の第3楽章、ハレルヤだ。僕は宗教以前に「星の彼方に父がいる」(第九の歌詞。父か神かは問わない)を科学的に信じる者である。ストラヴィンスキーの信仰、精神世界に心が共振するのはそのためだろう。この曲は彼の作品の内で最も好きなもののひとつであり、ときに自分という存在を他者と相対化して見えにくくなってきた時に何より深い慰撫を与えてくれる大切な宝だ。
「詩篇交響曲」(Symphony of Psalms)は1930年にクーセヴィツキーよりボストン響創立50周年記念のため委嘱された合唱つきの交響曲で、彼の新古典主義時代の代表作の一つである(プロコフィエフ4番、ルーセル3番も同時に委嘱された作品だ)。ここで交響曲とは一種の外形的な標題であり、ストラヴィンスキーは「詩篇の歌唱を組み込んだ交響曲ではなく、私が交響化(symphonize)した詩篇の歌唱だ」と語っている。確かにこの曲ほど「歌」が感動をそそる彼の作品はない。ではなぜそう書いたのか?それを探るには、彼が晩年に告白した「信教における精神的危機」に触れねばならないだろう。
ストラヴィンスキーは1882年にサンクトペテルブルク近郊のロモノソフで、高名なバス歌手を父として裕福な家庭に生まれ、敬虔なロシア正教徒として育った。ロシア・バレエ団との三大バレエの成功でパリに移り住むとそこはいわば異教の地ではあったが、写真のような華やかなパリジェンヌやアーティストたち(彼の左がニジンスキー、右二人目がディアギレフ)に囲まれ、花の都で時代の寵児として扱われる煌びやかな日々は、ロシアの田舎から出てきた30才の若者にとって気分の悪いものではなかったろう。
このころ、彼は夏はウクライナのウスティルーフで家族と過ごし、冬はスイスのクララン、モルジュでという生活を1914年まで送ったが、第一次大戦とロシア革命の勃発で祖国に帰る道を閉ざされる不幸に見舞われる。しかも、頼りのロシア・バレエ団からの著作権報酬もロシア政府がベルン条約を批准しなかったため支払われず、ディアギレフに契約違反だと詰め寄るが無駄だった(それがなくてもこの男は債務の踏み倒しで有名だった)。やむなくスイスの篤志家ウエルナー・ラインハルトの援助を受け危機を切り抜けたが、ロシア・バレエ団との関係は1920年の「プルチネルラ」で終わり、彼はスイスへ帰っている。
そんな物質的危機にあって家族を助けてくれたのはラインハルトやココ・シャネルというキリスト教徒だ。米国から手を差し伸べたのはロシア人だがユダヤ教徒であるクーセヴィツキーやストコフスキーだった。母国ではマルクス主義革命を成功させたレーニンがロシア正教会を徹底的に弾圧していた。彼が精神的にロシア正教から離れ “conversion”(改宗)という迷路に迷い込んだのは不思議でないだろう。彼はその頃の心境を最晩年にこう語った。「あの頃、ゴスペルや宗教書を通じて気持ちがキリスト教になびいていた。神学は見事に構成されたものだが、作曲における対位法以上のものではない。信心を売ってしまえば私は生きる理由が見つからなかった」。この精神的危機を救ったのは1924年にニースに移住して出会ったロシア正教の司祭だ。それを機に彼は元の宗教に戻り、1934年にはフランス国籍、後にハリウッドへ移住してアメリカ国籍を取るが、もはや改宗という選択はしなかった。
「詩篇交響曲」が書かれた1930年はロシア正教への信仰、すなわちロシア人としてのアイデンティティを取り戻した後だ。彼によればクーセヴィツキーの委嘱はお決まりの提案で、「管弦楽(合唱なし)のための大衆にわかる(popular)曲を」だったが、自らが何者であるかという根源的な問いへの答えを、ラテン語の詩篇を歌詞として信仰心を吐露するという形で提示するというかねてより温めていたプランを彼は頑として捨てなかった。このことへの理解と共感なくして譜面づらを撫でても同曲の正鵠を得た解釈とは程遠いが、それは敬虔な宗教心(僕個人的には「宇宙の創造主」を信じる確固たる科学精神であるが)を持つことが最大公約数であって、そのためにロシア正教徒である必要はないだろう。ちなみに本稿を構想し始めてから勃発し、期せずしてconcurrentなトピックとなってしまったロシアによるウクライナ侵攻だが、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは無神論を掲げたソ連のKGB職員だったのであり、今ではロシア正教の信仰を受け入れている。その精神の軌跡はストラヴィンスキーと変わらない。彼が「侵略ではない」と主張する根拠の一つに2019年1月にキエフ府主教がモスクワ総主教庁から独立し、イスタンブールの総主教に帰属したことが指摘される。その真偽の解明、およびそれが単なる戦争の口実であったか否かの判断は後世の歴史家に委ねるしかないが、彼が全世界を敵に回して譲らぬほど「ロシア正教の信仰」が東スラブのアイデンティティと確信している可能性はある。仮にそうであるなら彼は無慈悲な暴君ではあっても領土的野心丸出しの帝国主義者ではなく、カネに身も心も売った悪魔でもない。それと戦争という殺人行為の善悪は別であり、その点において彼は西側が懸命にプロパガンダするような狂人ではない可能性はある。このこととストラヴィンスキーの詩篇交響曲の作曲動機を関連付けて論じることを忌み嫌う方も多くおられようが、「宗教とはそういうものだ」とお答えするしかない。芸術がいつもピュアであり、人間の悪の側面である暴力や穢れであるセックスから遠ざけておく存在だという主張は、日本人が子供に見せるべきだと思う絵本で描かれる熊や狼の猛獣がいつも笑顔であるようにあまりに牧歌的な現実回避であり、人間という善でも悪でもある者の精神活動に他ならない芸術の自己否定になり、やがてそれを衰退させるだろう。
そして、そのことについてもうひとつ、我々日本人の理解が及び難い事実を指摘しておくべきだろう。
1920年の「プルチネルラ」で、ディアギレフとの関係も終わった(はずだ)。ロシア貴族の末裔であるこのインプレサリオはヴェニスで糖尿病の併発症で客死し、当地のサン・ミケーレ島にある墓地の “ロシア正教地区” に埋葬された。これが1929年8月19日のことであり、「詩篇交響曲」の作曲は翌1930年であることは重要だ。まず第3楽章がフランスのニース(彼がロシア正教を取り戻した地だ)で書かれ、指揮活動で中断があり、次いで夏に第2、第1楽章が彼の避暑地であったジュネーヴの南にあるタロワールのエシャヴィーヌ村で書かれた。作曲経緯の詳細は不明だが、歌詞は当初スラブ語であり後にラテン語に変えた。以上の事実から、筆者の仮説では、ストラヴィンスキーは第3楽章をディアギレフへのレクイエムとして既に構想していたが、偶然に舞い込んだクーセヴィツキーの委嘱にそれを充当する計画をたてた。米国向けにスラブ語歌詞を断念し、後年に、 その変節を「”popular”とは大衆が分かる音楽でなく、世界に普及していて誰でも理解するラテン語の歌詞であると解釈した」とやや苦しい正当化をロバート・クラフトに対して行っている。初演はボストン響に先立って欧州(ブラッセル)でエルネスト・アンセルメ(ディアギレフゆかりの指揮者)によって行われたこともそう考えれば平仄が合う。委嘱は作曲の単なる外形的な契機だったにすぎず、「詩篇交響曲」は(少なくとも第3楽章は)ロシア正教徒によるディアギレフへのレクイエムであり、クーセヴィツキーもそれに敬意を払ったというのが真相ではないだろうか。
このことを念頭に置けば、1971年にストラヴィンスキーが遺言を残し、ニューヨークの5番街920番地のアパートで亡くなったにもかかわらず、ヴェニスのディアギレフの墓の隣りに埋葬された意味が理解できるのである。父祖の地である祖国でなく、作曲家として大出世したフランスでも家族と日々を過ごしたスイスでもなく、大家として迎え入れてくれたアメリカ合衆国でもなく。シューベルトも遺志でベートーベンの隣りに永眠しているが、それは教科書が教えるように作曲家が同業の先達への、いわば職人としてのピュアな敬意からそうなったと理解して良いだろう。しかしディアギレフとストラヴィンスキーは同業者ではなく、発注者と職人、ビジネスマンとクリエーターという現世的でリアリスティックな関係である。それでいながらという事実の背面にはもっと直截的で複雑なものがあったと理解するしかない。クラフトとのTVインタビューでストラヴィンスキーは、
初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注1)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注2)(参照:我が流儀の源はストラヴィンスキー)
と皮肉とも嫌悪ともつかない笑みを浮かべながら述懐している。筆者は以下の注解を付した。
(注1)アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名(それを公言してはばからなかったことでも著名)。
(注2)ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。
クラフトの語るストラヴィンスキーの埋葬(youtubeにある)は、4月の小雨まじりの曇天の日だった。サン・ミケーレ島に150のゴンドラが停泊し、参列者は半マイルも歩いてロシア正教地区の墓にたどり着いた。いよいよ納棺して遺族たちが花を投げ込んだそのときだった、墓石のIGOR STRAVINSKYの文字が目に入り、そこにさっと陽光がさしこんだそうだ。クラフトはキリスト教徒だが、その描写が宗教的であることが、仏教徒である僕にとっても非常に印象的である。1971年のソ連にロシア正教徒の安住の地はなく、その事情はディアギレフの亡くなった1929年も同じだ。そこに並んで、ストラヴィンスキーは神の祝福を受け永遠の安息を得た。彼にとって、三大バレエを作曲できたことも、それで世に出たことも、その後の人生のすべての起点はディアギレフとの出会いにあった。その終焉の地がイタリア国のヴェニスであったことは、この作曲家にとって自分のパスポートが何色かほど意味のないことだったろう。能力を引き出して最高の人生を恵んでくれた恩人を、彼は一面冷めた目でプラグマティックに見てはいたが、親でもできなかった「自分の才能を見抜いた」という “偉業” を成し遂げたその男の才能にこそ深い敬意を懐き、その運命の出会いと究極のアイデンティティを与えてくれた神に感謝する。そして、サン・ミケーレ島には祖国にはない “ロシア正教地区” があった。想像にはなるが、選択の理由はそれであったに違いないと僕は考えている。
松平頼暁は著書『現代音楽のパサージュ』の中で「20世紀音楽のほとんどのイディオムはすべてストラヴィンスキーの発案」と述べている(wikipedia)。ロバート・クラフトとの75才でのインタビュー(youtube)でも「自分は常に聴衆の先を行く意識を持った」と作曲姿勢を述懐しており、その鉄の意志を神が祝福した結果そうなったということだろう。ストラヴィンスキーが「詩篇交響曲」の各楽章で使用したイディオムは模倣されている。第1楽章はカール・オルフがカルミナ・ブラーナ(1936)で、第2楽章はオリビエ・メシアンがトゥーランガリラ交響曲(1949)で、第3楽章はレナード・バーンスタインがウエストサイド物語(1957)のクロージング・シーンで使用しているのはどなたの耳にもaudibleと思う。彼の「先を行く」姿勢が「カメレオン」と揶揄もされるが、「真似るのではなく “盗む” 」と言い切った考え方こそが際立った彼の個性であり、他の誰もそこまではできなかったから誰も「春の祭典」は書けなかったのである。
彼の作品で「詩篇交響曲」ほど「歌」で出来たものはない。歌を人間の声に委ね、オーケストラからヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネットという歌う楽器は省かれている。ピッコロ、フルート、オーボエは終楽章で天上界に差し込む光のような、雅楽の笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛の如き効果を醸し出し、ティンパニは釣太鼓を思わせる。ストラヴィンスキーが雅楽を聴いたかどうかは定かでないが、1878年のパリ万博や1884年のロンドン衛生万博に雅楽の楽器や楽譜が出品され、フランスで誕生したジャポニスムの影響がクロード・ドビッシーの美術品収集に現れていることを考えると知った可能性はあるだろう(写真の後ろの壁に葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。ストラヴィンスキーはこの2年後に「日本の3つの抒情詩」を書いている)。「ドビッシーはパリ万博で五線譜に記された雅楽の笙(しょう)の和音を見て衝撃を受け、自身の作品に取り入れたと言われている」と
mie238f さんのブログにある。採譜するとこうなるようだ(根音がメロディー)。
春の祭典第1部の「誘拐」「敵の部族の遊戯」のホルンのブロックコードの連続による旋律の進行はこれを思わせ、詩篇の第3楽章の速い部分(「春の祭典」的だ)につながる。また、詩篇の合唱パートには彼が高く評価した、16世紀に無調音楽を書いた作曲家カルロ・ジェズアルドの影響がある。
以下、楽章ごとに音楽を追ってみよう。
第1楽章
ホ短調の一撃で開始し、オーボエ、ファゴットが変ロ長調のアルペジオ風の旋律で応じる。ホルンがシ-ラ-ソ-ファ#の狭い音域の旋律を歌いピアノが打楽器的に伴奏するが、ホルンに独奏チェロをユニゾンで重ねる効果はめざましく、ドビッシーの発明である「海」第1楽章コーダ直前のイングリッシュ・ホルンと独奏チェロのユニゾンがモデルだろう。
そこに初めて声(アルト)が登場し、ミ、ファの短2度の2音だけから成る旋律(ホルンから派生)を歌い、やがて4声となるが、未だレ-ファの短3度の狭い音域の呪文のような歌であり、ホ短調の一撃で何度も中断しつつも伴奏に厚みが増していく(最高音域のオーボエが重なるのも耳をとらえる)。合唱は音域が広がり、金管が加わって転調し、音圧は最高潮となって輝かしいト長調で終わる。一貫してカルミナ・ブラーナ風でありここから着想された可能性は大だろう。
第2楽章
ド-ミ♭-シ-レの長七度上昇を含みド-レ♭、シ♭-シ♮と長七度の下降が2回あるオーボエの主題で開始する。これは八音音階(octatonic scale)で、オリヴィエ・メシアンの『わが音楽語法』(1944年)にいう「移調の限られた旋法」第2番にあたる。その完全5度上で第1フルート、第2フルートが原調、第2オーボエが5度上で同主題を重ね、バッハ風のフガートとなる。
主題の音列ド-ミ♭-シ-レは楽章を通して通奏低音のように現れ、第3楽章のハレルヤ主題(ド-レ-ミ♭)の萌芽となる。主題は低弦に移り(短3度上)、合唱が登場する。前楽章がアルカイックで呪術的ならこちらは痛切な悲歌だ。モーツァルトのレクイエムと言っていい。徐々に高潮し、主題が弔いのトロンボーンに出ると金管が加わり、高弦を欠く分はチェロがハイポジションで緊張感を与えつつ全楽器の素晴らしい対位法となる。やがて合唱だけが残って鎮まるが、突如ティンパニの強打で怒りの表情となりチューバが主題を轟かせる。やがて音楽は和声的となり、フルート、オーボエが高域で天使の響きを聴かせると怒りの潮は引いて静かに変ホ長調(E♭9)の清澄な和声で終わる。
第3楽章
信じ難いほど清冽で、心を絞めつけるようなAllelujaの祈りで幕を開ける。
男声のLau_da_teが厳かな読経のように低くゆったりと響き、女声が入ったそのとき、ティンパニが4拍目に「ミ♮」をたたく!この衝撃たるや言葉にならない。それに導かれて変ホ長調がDO_MI_NUMのハ長調に変位し、さんさんと陽光が降り注ぐ。ハイドン「天地創造」の末裔の音楽である。ハ長調、ハ短調が交叉してLau_da_teの読経がゆっくりと続き、再度DO_MI_NUMに落ち着く(和音C7)。
ファゴットとホルンの信号音から曲想が変わる。
トランペットに現れる g-b♭-a♭-c の音列は「春の祭典」の練習番号31から第3オーボエが吹くこれを想起させる(第3音が半音低い)。
ここからスコアは俄然「春の祭典」の様相を呈し、ソプラノとアルトが f でLau_da_teを歌う。次いでアルトとテノールが声をひそめて Laudate DOMINUM と歌う所からピアノ、ハープが低音の e-g の悪辣な短3度を響かせる。ティンパニを重ねず「祭典」との重複を巧妙に避けている印象がある。やがて音楽は静まり、残ったファゴットとコントラファゴットの変ロ音にフルートとオーボエのヘ長調が乗る所は「ウエストサイド物語」(Somewhereの死の暗示)を想起。そして二度目の Alleluja がやってくる。再びリズミックなセクションとなるが、ここのオーケストレーションも春の祭典➡ウエストサイドのブリッジとなっている。ヘ長調と嬰へ長調の複調で静まると、ソプラノに抒情的な歌が現れる。
4声の対位法で転調を重ねながら神秘的な和声の展開を遂げて最高潮に達すると、Molt meno mossoとなり変ホ長調の感動的な祈りの歌が静かに鳴り響く。
ここから終結の Laudate DOMINUMまで、ティンパニが弔いを厳かに告げ、オーボエ族5本、トランペット族5本、3分割したチェロのハイポジションが弱音で伴奏し天国の色彩を作り出す。そして灰色に沈みこんだ Lau_da_te を4度くり返し、バスの「ミ♮」が再び神のハ長調を導いて永遠の安息を求め虚空に消える。
人間が作った最も神の領域に近い音楽と思う。ストラヴィンスキー万歳。
レナード・バーンスタイン / ロンドン交響楽団、英国バッハ祝祭合唱団
バーンスタインが詩篇交響曲から得たインスピレーションをウエストサイド物語に注ぎ込んだことは間違いないと僕は信じている。せっかく彼とロンドンで話をしたのにそのことを尋ねなかったのは何という痛恨だろう。この演奏の録音は1972年。バーンスタインが同ミュージカルを書いてから15年たっているが、もう完全なクラシックになってしまった両作品がまだ近い距離にあったと感じる。それほど彼は熱い心で振っている。第3楽章は入魂で、祈りの歌がこんな感動をもって歌われた例はない。
このビデオは知らなかったが、ストラヴィンスキーの葬儀のビデオにバーンスタインが解説している。この後にコンサートがあったようでプログラムは春の祭典、カプリチオ、そして最後が詩篇交響曲であった。
ここでも詩篇を振っている(ワシントン・ナショナル交響楽団、1982年)。暗譜で指揮しておりこれを記憶していたこともわかる。バーンスタインにとって特別な作品だったようだ(1:03:4)。
ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送合唱団
これを挙げたのは音程が良いからだ。何物も彼が振ると整理されてこうなるという見本のようなものだが、音を正確に聴きとらないとこの曲の真価はわからないだろう。ただし、エモーションの深さにおいてバーンスタインより落ちる。
シドニー大学音楽学部管弦楽団
指揮は先生だろうか、とても素晴らしい。
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ウクライナの綺羅星のような音楽家たち
2022 MAR 2 18:18:06 pm by 東 賢太郎
ウクライナの人と初めて話したのは1996年のスイスでのことだった。「国はどこですか」と英語で尋ねると「あいむ ふろむ うーくれいん」という。はて、どこだろう?わからない。地図とスペルを書いてくれた。なんだ、そうか「うー」にアクセントがあってわからなかったのだ。それ以来てっきりそれが母国語の発音と思っていた。「うくれいーな」だったと知ったのは恥ずかしながら最近だ。
「うくれいーな」は我々なら「にほん」に相当し、「ゆーくれいん」(Ukraine 、英語)が「じゃぱーん」だったのだ。そういえば「ぐるじあ」の名称が2015年に「じょーじあ」になったが、これは「じゃぱーん」に当たる外向けの名の話で、彼らは自国を「サカルトヴェロ」という正式名称で呼んでいる。我々日本人はそこは鷹揚で、外向きが「はぽん」だろうが「やーぱん」だろうが気にしないが、彼らには「ロシア語のグルジア」は切実な問題なのだろう。
そこまで嫌いなのかと意外に思っていたのは甘かった。2019年7月に今度はウクライナ大使館が「日本語でウクライーナと表記すべきだ」とはじめた。「グルジア」を採用していたのだから「ウクライナ」はロシア語だ。だから不快である。より原語に即した「ウクライーナ」にせいということなのだ。そういえば最近、バルト三国も「旧ソ連」呼ばわりはやめろと強硬だ。
2014年9月に締結されたミンスク合意はそうした「民族主義とロシア帝国主義の衝突」の脆弱な解決であった。それを一方的に反故にしたロシアの言い分は「スラブ民族への欧米帝国主義への反抗」である。つまりウクライナの主張を是とすればロシアの武力行使も是だという「正義」の所在が本件の本質だ。だから、ウクライナのEU加盟でNATOが武力解決という道はなく、停戦合意ならウクライナ不利は明白という囲碁をプーチンは打っている。
もうひとつの解決手段である「経済制裁」は罪のないロシア国民を不幸に巻き込む。政治は情報統制で隠蔽できても日々の生活の危機は隠せず、そこで「ロシアの民主主義」が正常に機能することを期待するしかない。しかしそれを北朝鮮で期待するのとどっちが確率が高いのかは外部の誰も判断できないだろう。この囲碁にプーチンが勝ってしまうならウクライナの命運は他人事ではない。強国が勝手につけた通名で国際表記される国に「現状変更リスク」があることは明治時代以来変わっていない。我が国も一緒ということは銘記したい。
ここからはロシア音楽の話をしよう。なぜか父がロシア民謡好きで、僕は赤ん坊のころからダーク・ダックスのレコードが耳元でかかっていた。自然に好きになり、長じて自分は本格派のドン・コサック合唱団のを買った。コサックとはウクライナの屈強の軍事共同体である。赤軍に敗れたコサック軍の副官セルゲイ・ジャーロフがトルコの捕虜収容所で作ったのが名高い同合唱団だ。「ヴォルガの舟歌」はどなたもご存じだろう。
男声だけであり、ピンと張ったテナーから伸びのあるバスまでこれぞロシアと思っていたが、実は「これぞウクライナ」が正解だったのだ。カラヤンがチャイコフスキーの「1812年」の録音に同合唱団を起用しており、西欧にない迫力は効果満点ではあるが、「ロシアらしさ」のつもりなら表面的だ。
コサックは屈強である。ソ連になる前からロシアにとりこまれ “ロシア軍” であったのだから、一概にカラヤンの判断が間違いとは言いきれない(日露戦争の旅順戦で強敵だったようだ)。コサックダンスにその運動能力を垣間見る。この分野は詳しくないが、ロシアの壮麗なクラシックバレエ、フィギュアスケートのルーツに関係があるかもしれない。五輪コーチのドーピングしてでもメダルが当然という思想と、プーチンの軍事力信仰が同根であるなら悲しむべきことだ。
以上、かように僕らはコサックをロシアと思っている。この「誤謬」は、クラシック音楽界ではより広範に存在している。以下、調べてみたウクライナ出身の音楽家を列挙する。ユダヤ系も多い。今回のプーチンの愚にもつかぬ暴挙によりウクライナの人々の独立意識がさらに高まることは必至だ。この人達は「ウクライナ人」だと現状変更するなら、ロシアは偉大な文化遺産を失うことになろう。
ヴラディーミル・ド・パハマン、ニコライ・マルコ、ゲンリフ・ネイガウス、ベンノ・モイセイヴィチ、ダヴィッド・オイストラフ、イーゴリ・オイストラフ、レオニード・コーガン、アイザック・スターン、スビャトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリス、ウラディミール・ホロヴィッツ、マリヤ・グリンベルク、サムイル・フェインベルク、アレグザンダー・ブライロフスキー、シューラ・チェルカスキー、ミッシャ・エルマン、ニコライ・デミジェンコ、コンスタンチン・リフシッツ
ニコライ・リムスキー・コルサコフはザンクトペテルブルグ近郊のチフヴィン生まれであるが、ウクライナ北部(キエフとモスクワの中間)の貴族の末裔であり、ウクライナの素材によるオペラ『五月の夜』を書いている。その弟子イーゴリ・ストラヴィンスキーは西ウクライナ(ヴォルィーニ)の貴族を父方とする出自で、スイス時代に夏を過ごした別荘もウクライナにあった。ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキーのパトロンのフォン・メック夫人はウクライナに屋敷があり、交響曲第2番を書いたのもアンダンテ・カンタービレのメロディーを採譜したのもウクライナであった。
「展覧会の絵」の壮麗な終曲である「キエフの大門」は、ムソルグスキーの友人の画家ハルトマンが描いた絵(左)を題材としているが、1869年にキエフ市が門を再建するに際して行われたデザイン・コンペに応募したもので門は実際には存在しない(再建計画が打ち切られたためだ)。架空の門がキエフを世界に有名にしたが、それから150年の時を経て、最低な人間たちの愚挙でこの街が放映されるのは耐え難い。
「キエフの大門」をテオドール・クッチャー指揮ウクライナ国立交響楽団の演奏で。早期終結とウクライナ国民の安泰を祈りつつ(2022年3月2日)。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
ウィリアム・シューマン 交響曲第8番 (1962)
2022 FEB 15 17:17:24 pm by 東 賢太郎
この曲を愛好している方がおられたら友達になりたい。ウィリアム・シューマン(1910-92、以下WS)は米国を代表するシンフォニスト(10曲書いたが1、2番は撤回したので3-10番の8曲)のひとりである。3、5番が著名だが、あまり知られていない8番をここで紹介したい。
WSはニューヨーク生まれのユダヤ系である。改革派シナゴーグで初等教育を受け、ヴァイオリンとバンジョーを習ったが、根っからの野球少年だった。高校ではバンドを作ってコントラバスを弾き、地元の結婚式やユダヤ教成人式で演奏した。ニューヨーク大学商学部に入り、広告代理店でバイトをしている。そこでも趣味でポップ調の歌を書いていた。彼の音楽がこのキャリアから生まれたとは想像し難いが、そうなるきっかけは20才の時にカーネギーホールできいたトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニーの演奏会だった。衝撃を受けた彼は、「翌日に作曲家になる決心を固めた」と述懐している。そこで大学は退学して23才で作曲家ロイ・ハリス(1898-1979)に弟子入りし、25才でコロンビア大学の音楽教育学士号を得る。ハリスの紹介でクーセヴィツキーに会い33才で彼の妻の追悼に3番を書いたことが登竜門になったが、著名にしたのは新聞社オーナーで富豪のユダヤ系ハンガリー人、ジョーゼフ・ピューリツァーの遺志で1943年に設けられた「ピューリッツァー音楽賞」の最初の受賞者に選ばれたことだ。その後1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設。1961年にリンカーン・センターの音楽監督となり米国の音楽教育界の重鎮の道を歩む。
米国の作曲家のキャリアは実に面白い。パイオニアであるチャールズ・アイヴズ(1874-1954)はシェーンベルクと同い年である。陸軍バンドのリーダーの父に音楽を仕込まれたが高校では野球部のエースで主将であり、エール大学では花形フットボール選手で監督が「あいつが音楽をやめてくれればトッププレーヤーになる」と惜しんだ。アメリカの学校カースト最高峰のジョックを地で行くが、同時に作曲ができ、アイビーリーグ・コミッティーのチェアマンも務めた「三刀流」の超エリートでさぞ女性にモテたに違いない。保険会社に就職したが後に自社を起業して成功。著書「生命保険と相続税」は売れ、保険業界で名を成したため業界人は作曲もするのかと驚いた。こういう人は欧州にはいない。
時代が下って、ジョージ・ガーシュイン(1898-1937)はユダヤ系ロシア人で皮革工員の父、毛皮業の母の息子でブルックリン生まれだ。WSを教えたロイ・ハリスもオクラホマの田舎の農家の倅で、ピアノは母に習っただけでUCバークレーに入り作曲は独学。トラック運転手をして学費を稼ぎ「色彩交響曲」の英国人アーサー・ブリスに弟子入りして大成した。アーロン・コープランド(1900-90)はユダヤ系リトアニア移民でブルックリンの雑貨屋の息子だ。父がスコットランドで3年働いて家族の米国渡航費を稼いだほど貧しかったが15才でパデレフスキーの演奏会を聴いて作曲家を志した。
これらをアメリカン・ドリームと見るのは容易だが事はもっと複雑だ。貴族の嗜みを出自とするクラシック音楽が貴族のない国でどう居場所を作るかという背景があったからで、米国は日本とさして変わらぬクラシック後進国だったのである。その頃、作曲の才があれば渡欧して学ぶのが常だった。ガーシュインはパリでラヴェルに弟子入り志願して断られ、コープランド、ハリスはフランス留学してロシア貴族(キエフ大公)の末裔で20世紀最高の音楽教師ナディア・ブーランジェ(1887- 1979)に師事しているが、自身もそのひとりだったヴァージル・トムソンは「アメリカ合衆国の各都市には安物雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしている」と皮肉った。
その事態を変えたのがアウグストゥス・ジュリアード(1836-1919)だ。彼はフランス(ブルゴーニュ)出身のユグノー教徒の息子で、両親が米国に逃げる船上で産まれた。繊維会社を立ち上げ成功し、銀行、鉄道、保険に投資して富を築き、メトロポリタン美術館のパトロンとなり同オペラハウスCEOを30年にわたり勤めた。篤志家だった彼の遺志で、死の翌年にその基金で設立されたのがジュリアード音楽院である。また、もうひとつのカーチス音楽院のほうも、女性雑誌(Ladies’ Home Journal、今もあり日本なら女性セブン、女性自身)を創刊したカーチス出版社のオーナーの娘が1924年にフィラデルフィアに設立した(母方はオランダからの移民だ)。このファミリーは現時点でも歴代米国富豪20位に入っているが、米国はかように成功者が寄付で社会貢献する文化が今もある。この2校の設立によって才能ある移民の子女を米国で教育し、米国で作曲・演奏をさせ、自国の歴史を紡いでいく基礎が形成されたのである。もとより自国の音楽であるジャズもこのシステムに取り入れたことは言うまでもない。
両校は日本なら東京芸術大学にあたるが、音楽好きの富豪が私財で作った学校であり、移民や貧困層の才能ある子に教育、奨学金を与えアメリカ音楽の発展に寄与してもらおうというものだ。例えば上記の「ピューリッツァー音楽賞」は作曲家に与えられるが『その曲はその年に米国人によって書かれ米国で初演されること』が厳格な条件である。「欧米で評価された」と喜ぶ我が国の音楽界の如き根無し草でないことがわかるだろう。つまり、米国の篤志家の行為を金持ちの道楽、節税とするのはまったく皮相な見解である。以上列挙した人たちはみな出自、国籍、宗教がばらばらだ。それを捨てて集まったアメリカ合衆国へのパトリオティズム(愛国心)がいかに強烈かということのアート界における例証なのであり、国家も税を免じて寄付を促進するということだ。フランス革命の精神に発し、何もせず何の能力もない貴族を消し去った民主国家に移住してきた市民の末端にまで浸透した建国精神を見る思いだ。そこに貧富の差などなく、あるのは才能への天真爛漫とさえいえる素直な敬意である。現代がディバイドに陥っているならアメリカの最大の美質であるそこが狂ってきているという根腐れが原因だ。社会主義など検討する暇があるならそれを検証すべきだろう。
一方、芸大の前身は1887年創立と米国より早いが、なにせ官立であり、国家的課題であった不平等条約解消への “箔つけ” として鹿鳴館で流せる類の洋楽の輸入をすることが目的だ。国威発揚で軍を増強し、軍艦を並べる精神と同根のものでアート本来の意義とは無縁のものである。芸大はその音楽学校(共学で女子多数)が東京美術学校(男子校)と1949年に統合してできた大学で、伝統的日本美術の保護を目的とした後者の敷地面積が大きかったのは当然だろう(西洋美術教育は後に加わった)。つまり日本からベートーベンを出そうとか庶民の人生を音楽で豊かにしようなどとは無縁のものであったが、僕も母方は軍人だからそれが国家戦略として合理的であったことに何ら異論はない。音楽を学ぶ人は「そういうものだ」という教養をもっていればいいのであって、その芸大から尾城杏奈のような才能が巣立つのを僕は喜びをもって見ている次第だ。
心の底から自国の音楽を育てたいと市民が推進したボトムアップの音楽教育。かたや西洋に遅れまじと国がトップダウンで与えたそれは今となると共産主義時代のソ連、東欧のオリンピックへの姿勢にダブる。それでも強ければいいではないかというアスリートの世界とアートは一律には語れない。音楽教育の内容にも水準にも彼我の差はなかろうが、それを享受する人間の行動はモチベーションが動かすのだ。小澤征爾というワールドクラスの異才は成城学園、桐朋音大と私学の畑からはじけ出たが、成城学園から官製大学へ行った僕はその差に敏感であると思う。母は福沢諭吉存命中の慶応ボーイの娘であり、二代飛んで家族もまた慶応のお世話になっていて、やっぱり官と民は一味違うという実感が肌感覚にある。教育というものはどっちでもできるが、その結果は個人にも国家にとっても極めて重要だ。それは今後の僕の関心事になろう。
WSに話を戻そう。彼はジュリアードの校長時代に音楽理論、ソルフェージュ(聴音)を嫌ってカリキュラムから外し、彼独自の教育メソッドを導入した。音楽の実体の動的な性質を生徒に認識させることに主眼を置き、和声、音楽史、耳の訓練のやり方は個々の教師の解釈で決めるというものだったようだ(よくわからない)。教育の体系がないとして後任者が元に戻してしまったが、彼自身の音楽を聴くともったいなかったかなと思う反面、それなしで作曲できたのは不思議にも思う。彼が書いたのは和声音楽だ。美しいタテ(和声)とヨコ(リズム)の包括的な調和がある。そういう観点から作曲した人が他にいるかどうかは知らないが、それを教えようとしてそうなったとすると理論、ソルフェージュをやる普通の音大からはもう出現しない才能かもしれない。
彼はCBSの What’s My Line?というテレビ番組に出演した。1962年9月30日のことだ。そういえば子供の頃「私は誰でしょう」というクイズ番組の記憶があって、調べるとNHKラジオ第1放送で1949 – 1968年にやっていたようだ。名を伏せたゲストにパネラーが質問しながら誰かを当てる趣向だったがモデルはCBS番組だったのかもしれない。WSは音楽関係者だろうという所まで判明し「わかった!あなた、レナード・バーンスタインでしょ?」「いえ、彼の友達です」「じゃあルドルフ・ビング(メット総支配人)だ!」「いえ、彼の友達です」「おい、音楽界で彼の友達じゃない奴いるのか・・・」「でもメットで歌ったことはありますよね?」「時々そうしたいと願うのですが、お誘いがないもので」で当たった。その場で「彼の第8交響曲が来週(10月4日)にバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニーによって初演されます」と披露されたそうだ。
8番である。冒頭の妖しく美しい和声の質感からしてたまらない。まったく類のない神秘的で枯淡の味があるクオリアの感覚はぜひヘッドホンで味わっていただきたい。バーンスタインとNYPOのexecution!オーケストラ演奏の極致であり、もう凄いとしか書きようがない。アメリカ文化、恐るべしだ。
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