ラヴェル「フォルレーヌ」の特異な和声
2020 JUN 5 22:22:03 pm by 東 賢太郎
7年前にこういうものを書きました。ずっと家にいるので、指が忘れていた第3曲「フォルレーヌ」を復習しようという気になり、先ほど読み返してみたのです。今も寸分たがわぬ自分がいることを知ると、この曲への愛情は遺伝子レベルに発していると思ってしまいます。
ただ、オーケストラ版はダメですね、もうあんまり聴く気がしない。これの魅力はピアノのソノリティと不可分だからです。暗譜はけっこう大変でしたが指がやっと思い出した喜びは何物にも代え難いですね。これ、圧倒的に「ラヴェルを弾いている」という感じがするのです。
クープランの墓の譜面を買ったのがいつだったか、最初のは仏Durandでご覧のとおり猫に爪とぎをやられて表紙がとれてます。前の猫だから大学時代です、入学してすぐの年あたりです。曲を覚えたのはジャン・ドワイアンのレコードでした。いや、覚えたというかあっという間に虜になってしまい、何度もくりかえして刷り込まれたのはワイセンベルクの演奏でした。まだリスナーとして初心者でピアノ曲はまずショパンになじまなくてはと努力したのですが、が学習者は誰もが弾いてみようというノクターン作品9-2みたいな曲はまったく口にあわないのです。素敵なコードプログレッションとは思いましたが、それをくりかえして客がそろそろ飽きたかなとなるとピロピロピロと右手が装飾音符を散りばめだす、あの女性のドレスについてるフリルみたいな空疎な無意味さが耐えられなかったのです。
ですから当時、ショパンは無縁でラヴェルにハマってしまった。ドビッシーは少々難解な音楽に聴こえておりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトは面白くも何ともなくさっぱりで、しばらくの間、ピアノ曲といえばラヴェルという時期が続きました。弾く方は熱心で、練習曲としてJ.S.バッハのインヴェンションなどを暗譜しながらラフマニノフのP協2番のさわりとかラヴェルのト長調P協の第2楽章、ダフニスの「夜明け」冒頭部分がそこそこ再現できてました。独学ですが、それまで弦6本のギターで覚えていた和声というものの理解が10本指で格段にディメンションが広がり、自分の中での革命でした。
自己流だとどうしてもうまくいかない所があり、例えばメヌエットの粋な装飾音符のようなものですね、譜面で見ると何でもないようなものが、なぜか何度練習してもだめでした。上級者に伺うとラヴェルは難しいですよと、自己流は無謀だという。野球も大学受験もゴルフも自己流で押し切ったのですが、ピアノには歯が立たなかったわけです。ハノンをざっとさらったぐらいで甘かった。そこで参考書としてこの中井正子版を10年ほど前に買い、運指を学んで少しは解決しました。まあ参考書を買っただけで独学は変わってないわけですが・・・。
僕の場合、他人の前で演奏して自己主張したいという顕示欲はなくて、あくまで作曲家研究の素材として楽曲に触れてみたいというだけです。それで発見することがあまりにたくさんあることを知ったからです。むしろ弾かないとわからない。交響曲でもオペラでもです。
フォルレーヌは形式も5つの主題が並列して出るだけで構成にも主題の音程やリズムの骨格においても論理性はなしです。彼の音楽は感覚的でドイツ人の脳みそから出るものとはおよそかけ離れています。しかし、素晴らしい和声の発明の前に理屈は無用。ドビッシーも和声の化学の大家ですがラヴェルは彼オンリーワンの絶対的な魅力で君臨します。
フォルレーヌの構造を分解してみます。主題をABCDEとすると全体は
AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A
となります。Aの楽節は優雅な舞曲のリズムなのですが和声が難渋、奇怪で、ヴァイオリン・ソナタにも見られるラヴェル特有のシニシズムを感じます。B楽節は一転して禁欲的でアルカイックな宮廷円舞です。実に美しい。やや変容したAをはさんで現れるC楽節はプリマの高貴なヴァリアシオン。全曲の華です。D楽節は宴の終わりが近いことを告げる壮麗なファンファーレ、E楽節はシニカルなふらつき、よろめき、そしてAの断片による短いコーダとなります。
僕はA”の部分(楽譜1)に強い思い入れを持っております。心の中で類のない化学反応が起きるからです。ここです。
音で確認しましょう。22秒からこの楽譜です。
丸印の2つの和音!G#m→G7(e)、F#m→F7(d)なのですが、誰しもの予想を大きく裏切る音ですね。この2つは聴いた当初から強烈なインパクトがありました。しかも下に密集して濁りがあり長7度の濁りもあり、それらがなにやら発酵食品のようで美味に感じ陶酔を誘うのです。何度弾いても魅せられます。
さらに予想の裏切りという点であまりに特異なので想像があらぬ所に飛びます。以前に量子力学の入門書を読んでいて「原子核のまわりの電子は光が当たると瞬時に位置を変える」とありましたが、それを目撃した感じがする。G7(e)、F7(d)が鳴った瞬間、奇術のようにぱっと風景の色が変わるのです。
もう一度楽曲の構造をご覧ください。
AA’A”AA’A”ABB’BB’BACC’CAA’A”ADD’DEE’A
青字は繰り返しです。Aが主要主題でA’、A”はその派生主題という具合です。副主題B、C、D、EはAとの関連はなく、各々がB’ C’ D’ と派生主題を持ちます。Aだけが2種の派生を持ち、楽譜1のA”は都合3回現れますからラヴェルはこの回り舞台のような楽節を重視して使っています。
2つの和音の音の混合(ブレンド具合)はピアニストのセンスの試金石です。ラヴェルの音づくりはピアノでもオケでもそういう箇所に神経が行き届いていないと、雑駁な甘さが支配する音楽になりかねません。気品と知性のないラヴェルはただのムード音楽です。
この2和音は同じ音程関係を長2度だけ下方に並行移動したものですが、ラヴェルは偏愛していて全く同じことが第1曲「プレリュード」でも行われます(楽譜2)。
音をどうぞ。1分28秒から楽譜の2小節目になります。同じメロデイが5小節目から下方に長2度平行移動してますね。
ここの2度目が僕は大好きで、なんだか幼い頃の郷愁のような切ない感じがする。和声はというとAm→G7(e)、Gm→F7(d)と、太字はフォルレーヌの箇所と同じことがわかります。自分はそれに感応してる。なぜだろう?まったくわかりませんが、これが和声の「化学変化」なのです。ドビッシーも「映像」を書いた時にその言葉を使っています。2人、それからメシアンにも随所にそれがあって、ドイツ人の音楽にはありません。フランスとドイツ。面白いもので、食事やワインにもそれと共通したものがあります。
ショパン弾きのイメージの強いアルトゥール・ルービンシュタイン(1887 – 1982)は幾つかラヴェルの録音を残しましたが、「クープランの墓」は「フォルレーヌ」だけを弾いています。寂しげなモノローグで始まりますが、A’ でバスの mf をきっかけに瞬く間に加速して感情が高まりあっと思います。ところが、次の A” に入る直前のほんの微妙な “間” ですぐ思い直して pp に戻り、高揚は抑えられ、また A の灰色で幽玄な世界に鎮まるのです。そんなことは楽譜に書いてないのですが、こういう深い「読み」ができるからルービンシュタインはルービンシュタインだったのです。ここで効いてる G7(e)、F7(d) をじっくり味わっていただけるでしょうか?書いてきたことがお分かりいただけるのではと思います。
C楽節はひっそりと清楚に淡々と進みますが和声の感情に合わせたテンポ・ルバートが絶妙で、感じている。彼はラヴェルの和声の求めるものをテンポとタッチで見事に具現します。そして、ここでまたやってくる A” は1度目よりさらにテンポをぐっと落とすのです。何という細やかさ!実に素晴らしい。これほどに A” の和声の薬味を効かせ、抜群の効果(薬効)を醸し出した演奏は他に聴いたことがありません。D楽節もファンファーレは控えめで無用に騒がず、E楽節の直前のルバートは大きめにとっていますがEのふらつきは控えめである。いっさい気品を失わずにシニカルなほろ苦さを後味として残し、静かに曲を閉じます。何というセンスの良さだろう、究極のオトナのラヴェルです。
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無観客のケンぺ指揮チャイコフスキー5番
2020 MAY 26 11:11:35 am by 東 賢太郎
この演奏は一度ブログにしてます(ケンペのチャイコフスキー5番)。同じCDを扱うのは、先日聴きなおしてさらに思うところがあったからです。
これをFM放送できいたのは45年も前ですが、第4楽章のティンパニを強打した頑強な骨組みの音楽に魅入られ、一音も逃すまいとスピーカーににじり寄って聴いたのです。その場面を、ティンパニは右チャンネルから聴こえていたことを含めてはっきりと覚えていて、勿論、その日のその前後の記憶などまったくないのですから余程の衝撃だったのでしょう。
それまでもっぱら聴いていたオーマンディー(CBS)のレコードはいま聴いても素晴らしいもので後に同曲の実演も接したのですが、あれはアメリカの音、こっちがドイツの音と、非常にプリミティブではありましたが、僕の中に仕分けの箱ができたという意味で自分史の重大事件でした。前稿は2013~4年、会社の存続が大変な時期でそこで偶然うまくいったから今がありますが、精神史として読み返すと痛々しくもあります。
さてFMで衝撃を受けて忘れられなかったケンぺの5番ですが、放送録音らしく正規盤が見つかりませんでした。仕方なく翌年にEMIの正規録音であるBPO盤を買いましたがどうも熱量が足りず、悪くはない(1つ星を付けてる)のですがどうしてもそれが忘れられずにいました。以来ずっと海賊盤を探し続けていて、ついに2002年に石丸電気でそれと思われるCDを発見した喜びがひとしおだったのはご想像いただけるでしょうか。これです。
今回、6年前執筆時よりは僕の精神も安定しているのでしょう、感慨を新たにしました。なんてドイツドイツしてるんだろう!これをアップしたらすぐ外国の方が「(この演奏を)ソ連のオケと思ってました」とコメントをくれましたが、自分も前稿でナチスの行進もかくやと書いております。さように両端楽章で主題を威風堂々奏するところ、トランペットの鳴り具合とティンパニの迫力はそれがチャイコフスキーの書いた最も「自己肯定的」な音楽であることを知覚させます。ロマンと陶酔でムード音楽のようにあっけらかんとした快楽主義の5番が横溢する中で、ケンぺの解釈は強烈な存在感を主張します。
後に彼はこの曲に否定的な評価をして見せるようになりましたが、4番で分裂症的になり、5番で立ち直り、6番で破綻した。各々に白鳥の湖、眠れる森の美女、くるみ割り人形が呼応している様は彼の精神史そのものです。否定的だったのは「実は俺は立ち直っていない、ふりだけだ」という自己嫌悪の現れだったように思います。私見ではチャイコフスキーにはドッペルゲンガーの側面があると考えています。その段に至った彼はケンぺの演奏を嫌ったかもしれませんが、書いたスコアは雄弁にこの解釈(男性的なもの)を志向しており、だから否定的姿勢をとるしかなかった。分裂的なのです。
それをカムフラージュするロマンへの逃避(女性的なもの)は同じく精神を病んだラフマニノフが踏襲しましたが、近年の演奏家の両者の楽曲解釈はというと、大衆の口にあう後者をリッチに描きエンディングで男性性を復帰させて盛り上げるという安直なポピュリズムの横行で、そちらに寄るならポップスでよしと若者はクラシックからますます遠ざかることを危惧するしかありません。ケンぺを絶対視するわけではありませんが、かくも剛直に自己のイズムを貫徹させる指揮者は本当に絶滅危惧種になりました。後述しますが、指揮者が絶対君主たりえない時代のリーダーシップの在り方の問題と同根でありましょう。ケンぺは僕が渡欧して接した歴史的演奏家たちのぎりぎりひと世代前であり残念でした。
Mov2のホルン・ソロの、レガートのない垢ぬけなさは録音当時世界を席巻していたカラヤンを否定してかかるが如しで、ケンぺの気骨を感じます。この委細妥協せぬ圧巻のユニークさは、それを聴いていただきたくてアップしたレオポルド・ルートヴィヒのくるみ割り人形組曲(同じオケ、66年録音)に匹敵するもので、こっちのホルンもとてもチャイコフスキーとは思えません。これです。
ケンぺ盤にあらためて発見するのは音色だけではありません。オケの内部を聴くと第2楽章はテンポが曲想ごとに動くのがスリリングでさえあります。ラフマニノフがP協2番の緩徐楽章に取り入れた出だしの弦合奏は森のように暗く深く、その陰鬱が支配しているのですが木管が明滅する第2主題は水の流れのようで木霊が飛び交うよう。爆発に至るエネルギーの溜めが大きく、リタルダンドして頂点でティンパニの一撃を伴ってバーンと行く様はクラシック音楽がカタルシスを解消し人を感動させる摂理の奥儀を見せてくれます。
意外にアンサンブルが乱れるところもあります。VnよりVc、Cbが微妙に先走って低弦が自発的な衝動で速めたように聴こえ、メロディーは何事もなかったように即座に反応してそっちに揃うわけですが、棒が許容した自発性にVnがついていかなかったのか弦楽合奏の中でこういうことはあまり遭遇したことがありません。第2楽章の全体としてのテンポの流動性はケンぺの指示に相違ないでしょうが、セクションのドライブに委ねる遊びがあって、それが奏者の共感するテンポへの自発性を誘発したかもしれません。何が理由かは知る由もなしですが、この演奏の内的なパッションは稀有なものです。それを呼び覚ましたのはこういう部分かもしれないとこの楽章をヘッドホンで聴きましたが、指揮者の棒がどちらだったのか興味ある瞬間でした。
ただ、そういう乱れはスタジオ録音では修正されますからこれはライブです。しかし客席の気配がない。想像になりますがゲネプロ(本番直前のいわば「無観客試合」)ではないでしょうか。にもかかわらず「低弦の自発的な衝動」のようなものが楽員のそこかしこにみなぎっている感じが生々しく伝わってくるのはライブであれ正規録音であれ極めて稀です。フィラデルフィア管の定期が大雪でほぼ無観客でやったチャイコフスキー4番の快演はそれに近いものでしたが(クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-)、指揮者(ムーティ)も楽員も、交通手段が途絶えるなか万難を排して会場に来てくれた少数の客をエンターテインしようという気迫と集中力が観ていてわかるほどで、天下のフィラデルフィア管弦楽団が本気で燃えた一期一会の名演を生んだわけで、人間ドラマとしての演奏行為とは実に奥が深く面白いものです。
さように演奏者の自発性というのは大事です。その有無でコンサートの印象は大きく変わります。ウィーン・フィルが地元の作品をやる場合にそれを感じることが多くありますが、しかしこのオケが常時そうかというと否で、違う姿を何度も見て幻滅もしています。プロとして恥ずかしくない演奏を常にくりひろげてはくれますが、一次元ちがう「燃えた」演奏が極めて稀にあることを知ってしまうともうそれだけでは満足できない。人生、なかなか難儀なものです。
百人の人間の集団がリーダーに心服してついてくるか否かという深遠な問いについてここでは述べませんが、僕は経験的にそれにあまり肯定的ではなく、選挙にせよアンケート調査にせよ企業経営にせよ全会一致は疑念を持たれるほど異例でありましょう。プロの楽団は指揮者への心服の有無に何ら関わらず一定水準の演奏を仕上げられる実力があるから「プロ」なのであって、心服したアマチュアの演奏会の方が感動的という経験も何度かございます。今回聴きなおしたケンぺの5番はそれがプロの高い技術で提示されたものという印象であり、20才でたまたまラジオでこれを聴けたことは幸運でした。
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ハイ・ファイ・セットの凄さ
2020 MAY 18 0:00:20 am by 東 賢太郎
一日ずっとピアノに向かっておりました。ハイ・ファイ・セット(以下、HFS)をひさしぶりに聞いて耳に残ってしまい、こうなるとどうしても弾いてみようとなる。ついでに荒井由実もカーペンターズも片っ端からやって、気がつくと夕食になっていたという塩梅です。
前稿のLP(最後から2曲目)に入ってる「真夜中の面影」(山本俊彦作曲)は名曲です。これが一番好きです。サビのところ、泣かせます。弾いてみるとコードは9thの連続で、メロディーラインはなんと9度、7度の音を歌ってる。
このまま歩いたら 君に出逢う前の 孤独なあの頃に戻ってしまうけど・・
僕は断然「歌詞より音」派なのですが荒井由実は女ごころの歌詞がときにひっからないこともない、これは男の歌です、ぐっときますねえ、こんなことあったよなあ、そこでG7で入ってくる(7thなのがすばらしい)彼女の声、
いい~の~
まいりました。よくないですね、戻ってます、僕なら。
ここはピアノでコーラスが完璧に再現できます。快感です。歌は男の地声のソロが素人っぽくて録音で作った感じはするものの、バスの大川茂はその市井の味が完全主義的な息苦しさを救って良かったりする。それがコーラスになると器楽的にビシッと音程が決まって完璧な “クラシック” になる。それが山本潤子。うまい。センス最高。声もそうだが、なにより、耳がいいんですね。
滝沢洋一の至高の名曲「メモランダム」はブログにしましたがアルバムバージョンがこれです。山本潤子の恐るべきアジリタで正確なピッチ、山本俊彦、大川茂の密集和音の見事なコーラスワークは芸術品の域である(音符を書いた滝沢が偉いということですが、それをリアライズする能力ということです)。これは耳のよい人でないとわからない、クラシックの方に味聴していただきたいです。
山本俊彦の曲で有名なのはCMになった「風の街」でしょう。1977年発表とは思えない新しさをお聴きください。なんて晴れやかにしてくれる音楽!心弾むリズム、抜群ににおしゃれな和声!永遠に残りますね、これは。
ところがHFSはCDを探してみると手に入りにくいのです。ポップスはファッションでもあって、「音楽」として聞かない層もあるから時と共に忘れられるのは仕方ないのですが、それ以前に、我が国には大人が音楽を楽しむ土壌がないですね。アメリカもイギリスもフランスも夫婦やカップルが夜にカクテルを楽しむような上質のエンターテインメントがあります。ショービジネスの客は大人であって子供は家で寝るのです。
J-ポップは今やとんだりはねたりで、観てる方もやってる方もガキだ。マイケル・ジャクソンの影響かなと思いますがジャクソン5は歌もうまかったのです。欧米のショーで日本みたいな素人並みの歌手というのは道化でもない限り見たことがありません。タレントもフツーの人が増えましたね、その同質感でステージと客席が一体で盛りあがる。一種の村祭りだなと思います。政治で言えば昔からの自民党支持層ですね、日本国はこの種族が数では圧倒的であって民主主義である以上は支配層だからどうもならない。
HFSやユーミンはお祭り用ではないですね。なお、これを都会派という人がいますが、都会である東京とて村祭り族の方が多いのです。そもそも当のHFSは大坂、奈良、三重の3人だから土地柄の問題じゃない。音楽のプロフェッショナリズムの問題であって、どこまで質を求めて追い込んで “音楽” を作っているかということです。聴く側からするなら、そのプロの仕事をじっくり楽しむクラシック型ポップスというべきです。となると日本では人口が少ないわけです。この種族は圧倒的に少数派ですし、3分以上じっと聞けない子供も無理だからです。
ピアノでじっくりとHFSの作品の魅力の秘密を探りました。書いたらたくさんになるのでやめます。陳腐になりますが荒井由実の影響が強いです(特に和声と倚音の使い方が)。しかし山本俊彦の独自の作曲センスもあるのです。HFSは昔からの一定の固定ファンがいますがほとんどが山本潤子ファンなんですね、旦那の方はwikiにもなってないし、そりゃないだろうと文句を言いたい。彼のコーラスワークの洗練ぶりは1978年のこのアルバム(第1曲・スウィング)で極致に達してます。
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ハイ・ファイ・セット ”HI-FI BLEND”
2020 MAY 15 21:21:49 pm by 東 賢太郎
アメリカのコーラスグループというとダバダバで有名だったスイングル・シンガーズがあり、これはまで男4+女4でバッハがらジャズまでやってしまう。マンハッタン・トランスファーは男2+女2でありました。ア・カペラのハーモニーの透明感はとても魅力があるものですが、このレベルのグループはそうはありません。
日本でというと男2+女1のハイ・ファイセットでしょう。赤い鳥というと僕はフォークにさっぱり興味がなく、そこからこの人たちが彗星のように現れたのは驚きです。
この ”HI-FI BLEND” なるLP、ベスト盤でありファンであったわけではなくとにかく荒井由実が好きだったのでその延長で買ったのでした。1979年発売だから大学4年の最後です。
何回きいたかわかりません。とにかく全曲めちゃくちゃ好きであり日本のコーラスグループのLPで最高峰と評したいですね。
山本潤子は音域が違うがカレン・カーペンターに迫る稀有の日本人と思います。音程、声質、ディクションともホンモノ、速いパッセージでもアジリタで完璧なピッチ。何時間でも飽きることなし。これはクラシックのうるさいリスナーを黙らせるハイレベルな歌であります。僕の趣味としてはこのグループの真骨頂はテナーの故・山本俊彦による高音部のおしゃれな和声感覚とハモリと思います。この人はただものじゃない、このアルバムの収録曲の作曲者は荒井由実、村井邦彦、渡辺としゆきと実力者ぞろいなんだけど僕は山本の曲が好きです。
この3人、6-10才うえの兄ちゃん姉ちゃん世代。戦中派にはない洋楽(そんな言葉があった)の息吹にどっぷりつかって育ったサウンドで、僕もそうだからストライクゾーンど真ん中なんでしょう、荒井由実もひとつうえです。当時はお笑いだってクレージーキャッツもドリフターズもバンドで楽器やってましたからね、まさにひとくくりの洋楽であってクラシック、ジャズとも無縁なものではなかったですね。
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paris match 「太陽の接吻(キス)」
2020 MAY 10 13:13:40 pm by 東 賢太郎
ヤフーCSOの安宅和人氏が日本は国難の危機から立ち直るのに慣れた稀有な国だ、むしろチャンスだと語っていて刺激になりました。アフター・コロナじゃなくウイズ・コロナの世は確かに大きく変わって決して元には戻らない。逆にそこには大きなビジネスチャンスがあるという元気の出る話です。
バフェットがエアライン株を全部売りましたが彼は下がったから売る人じゃない、アフター・コロナで同じだけ人が飛行機に乗るか自信が持てなくなったというのが理由です。安宅氏もエコノミークラスはない世の中になるという。三密を避けて席数は減り、フライトは贅沢品になるといってます。海外出張は無駄だったね、ZOOMでいいね、もう何度もやったのでまさにそうなるという肌感覚はすでにあります。
東京とロンドン、フランクフルト、チューリヒ、ニューヨーク、ロス、シスコ、ウィーン、香港、シンガポールを何回往復したか数えきれません。起きてると不安なので(恐怖症)ワインをがんがん飲んで食事いらないと言って寝ます。起きてしまうと仕方なく機内の音楽を聴きます。ジャズ、ポップスの知らない曲ばっかりです。すると時々おっ!というのがあるから、これはこれでもうけものではあるんですね、こいつはいいと曲名を書いておいてCDを買うというパターンが定着しました。
J-popはユーミンとハイファイ・セット、山下達郎、竹内まりあ、ぐらいでしたが、だいぶまえにロンドンからのJALで発見したのがparis matchで「太陽の接吻(キス)」を聴いて曲も歌もこれは素晴らしいと。
リズムセクションなしでもOKなのは曲がいいからですね。
すぐCDを買って、最初の曲はさらに気に入りました。8番目のカメリアのコードはハーブ・アルパートばりで光ります。センス抜群。
コード進行が格好よくてメロディーもビートも作曲の才能を感じます。
ガキがとんだりはねたり。歌はのど声。どうして日本には大人のポップスが根づかないんだろう?ずっと考えるのですが、こういうのがマジョリティーにならないんですね日本って。paris matchの生い立ちのビデオを見ていたら杉山氏は好きなサウンドをロンドンまで求めていって見つけてる。そのグループの曲名がparis matchだった。外国へ行ったのがどうのでなくってセンス、感性の話なんですが、非常に良い意味でおたくなんですね。そうじゃないと行きません。
僕はこだわりの人が作った音楽だけが好きで、あとは感性があうあわないです。ブラームス4番のあとにJ-popでOK、ピアノでもカーペンターズのあとにブルックナーも弾いてますんで音楽と食い物についてはノンポリでだらしないということですね。カーペンターズは何時間弾いてもOKでだんだんリチャードの気分に乗り移ってきて歌の上手い女の人を見つけようかぐらいになってくるんで、もしピアノを早くからやってたらそっちに行ってたかもしれません。
paris matchの生い立ちのビデオを見ていたら杉山さんはミズノマリさんを「見つけた」のですが、それがカーペンターズを聴いてのことだった。これ、こじつけでなく、さっきそのビデオで、オーディションした曲が前回に書いたWe’ve Only Just Begunだったというのは偶然とはいえご縁がありました。これです。
ミズノさんちょっと固いですが、カレンがいかに凄いかということが逆に分かりました。でもこれだけ歌える日本人はあまりいないと思います。
ミュージシャンがライブできない事態がどう解消できるのかまだ誰もわかりませんが、音楽は決して贅沢品ではないですから必ず戻ってくると信じます。
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わが命の音楽、ブラームスの4番
2020 MAY 7 19:19:55 pm by 東 賢太郎
コロナ疲れはありますが、きのう放映されていた聖マリの救命救急センターの戦場のようなビデオでそんな言葉は吹っ飛びました。医療現場のみなさま、心からの敬意と感謝あるのみです。みなさまの姿に勇気づけられました。
なかなか安らぎませんし、音楽も特にほしいことがありません。クナッパーツブッシュ(以下、”クナ”)のブラームス4番をきいてみようと思い立ち、youtubeに上げてあったブレーメンじゃなくてケルンのほうですが、あらためて感じ入りました。これは凄い。ガツンとやられました。こちらです。
youtubeに好きな録音を現在108本上げていますが、第1号が正式録音を残さなかったクラウス・テンシュテットの同曲ライブでした。アクセス数トップはカルロス・クライバー / ベルリン・フィルで5万6千ほどです。4番は僕にとってあらゆる音楽のなかで別格中の別格、もはや人生です。どれだけ聴いたか。ロンドンのころ第1楽章を毎日ピアノで弾いていて、長女は言葉をしゃべるまえにこの曲を覚えました。
ケルンとブレーメン、クナの4番について記しておきます。4番は知るかぎりこの2種しか残っておらず、出来は甲乙つけがたし。彼は変幻自在の即興のイメージがあり、練習を “はしょった” という逸話ばかり有名になっていますが、深く楽譜を読み込んでいるので解釈はほぼ同じです。彼はブラームスと親交があったフリッツ・シュタインバッハの弟子で、習ったのがケルン音楽院なんですね。幾分オケの技量が勝るのと一期一会のような気迫においてケルン放送交響楽団盤に分があるかもしれません。気迫ということではクライバーBPOに勝るものはないと思いますが、それを勘案してもケルン盤はすごいものです。
しかも幾つかあるリリースのなか(全部聴いたわけではありませんが)このウラニア盤は音がいい。彼の解釈の命脈である弦のうねりがはっきりとらえられています。1953年のライブでモノラルですが、奏者の内面から湧き出る熱と質量を伝えており、音質うんぬんよりそうしたスペックにならないものが伝わることを評価します。Mov1、あっさりはじまります。ロマン派めいてなよなよしない。お涙頂戴が多いのはフルトヴェングラーの影響かもしれませんが、この曲はそうじゃない、悲愴交響曲の死や哀感のごときテーマのない純粋無垢の絶対音楽の仕立てですからクナの開始に賛同します。初稿では短い前奏があったのをブラームスは削除してモーツァルト40番のようにソナタの第1主題から開始した。いきなり泣きというのはブラームスの意図ではないと思います。コーダ突入前の主題のトゥッティの壮絶な強奏をきいてください、なよなよ始まったらその発展形としてここに呼応する印象が鮮明に出ない、実に立体的に設計、構築された見事な解釈です。
クナは本質的に女々しさの対極の人でお世辞にも整ってなく、オケのサウンドと質感は荒っぽい。きれいに聞かせようなんて気はさらさらないですね、気に入らねえなら帰れというがんこ一徹の骨っぽさです。流れやうねりの造り方には徹底的にこだわっても細部は、アンサンブルは、あえていうなら放縦ですね。この点については思うことがあって、ピエール・ブーレーズはオーケストラの一糸乱れぬ合奏はアメリカで始まった、だからバルトークはクーセヴィツキーにボストン響用に書いてくれと委嘱された折に、アメリカのオケの合奏力をフルに聴かせる「管弦楽のための協奏曲」を書いたと言ってます。
とするとブラームス当時の合奏はボストン響みたいな高性能ではなかったでしょう。フルトヴェングラーはベルリンフィルに出だしの弦のアインザッツをわざとずらしすためにあいまいな棒を振ったといわれますが、その真偽はともかくアンサンブルが整然と揃いすぎると「らしくない」という美学が19世紀生まれの指揮者にはあったように思います。ワーグナーを磨きぬいた合奏でやることは、そもそもバイロイトのオケは寄せ集めであって前提ではなかったでしょう。クナは無手勝流なのではなく、当たり前のごそごそ感だった可能性があります。ちなみに一時流行した古楽器演奏には懐疑的ですが、楽器だけオーセンティックでもアインザッツは現代風にぴっちり揃ってる。コンセプトに矛盾があると思います。
現代の指揮者にこの美感が継承されてないのは残念ですが現代のコンサートホールでごそごそ型をやったら下手くそと言われるでしょう。聴衆の耳も変わってしまって、アメリカ起源のヴィルトゥオーゾの技術を愛でに会場へ来る人がたくさんいます。そうした快感やスリル追求型の鑑賞もあっていいし名曲の楽しみは多面的ではありますが、やはりブラームス4番という作品はそれだけでは魅力の半分も味わえないでしょう。このクナのブラームスを評価する方は多いし、オンライン鑑賞の世になっても語り継がれてほしいと思います。本当のオーセンティックは楽器ではなく美学にあるべきで、それはけっして博物館に展示される遺物ではありません。人間が作り、人間が感じるものですから、何世紀になろうと不変なものは不変。人を感動させるパワーが永遠にあるものだと思います。
Mov1のコーダにはアッチェレランドがあって、それをティンパニ4発でぐっと落とす。楽譜にないのですが、たとえばウィーンで買ってきたモーツァルトやシューベルトの自筆譜ファクシミリと現代の印刷譜を見比べるといろんなことに気づきます。修正跡とか書きぶり(筆致、筆跡etc)とか印刷譜にない情報がたくさんあります。ブラームスは表示記号をマーラーやチャイコフスキーみたいに細かく書きこまないほうでそれは古典派の精神を継承した姿勢と思われますが、自作を弾くとずいぶん熱くて振幅の大きい演奏をしたと証言が残ってます。楽譜にはないのですがクナのあまりの千両役者ぶりにひょっとしてこれがブラームス直伝かとさえ思えますが、C・クライバーは “まったくのイン・テンポ” だったんです。加速という麻薬を使わないであの熱と質量を出してみせた彼のオーラは忘れられません。
Mov2は遅めのテンポで曲想にはまりきって変幻自在、一個の巨大なドラマであります。弦がとことん歌うのです。後半、ティンパニを地獄の仕置きのように打ちまくったあとの一瞬の静寂をおいて血の色の弦合奏がフォルテに近い音圧で鳴り渡るところ、こんな音を作った指揮者がほかのどこにいたか?楽譜を読むとはこういうことです。Mov2にこんな小宇宙が来てしまうと全曲のバランスがおかしくなりますが、些末なことはいっさいお構いなし。我が道を行くほんとうに見事な男ぶりであります。
Mov3はどうしてもクライバーが耳に君臨しています。録音でも何が起きたんだというばかりの荒れ狂った嵐にびっくりされるでしょう。あれに対抗できるのはこのケルン盤ぐらいかもしれません。こっちのほうが遅いですが、これを会場で聴いたら完全にノックアウトだったと思うのは、クライバーの音、ベルリンのフィルハーモニーに響き渡ったあの音響がCDになるとこう聞こえると知ったからです。それを逆算するとああなる。ということは、このクナ盤を実演できいた音響は・・・と推測してしまうわけです。時の人類最高レベルの奏者たちがクライバーという指揮者に心酔して心底燃えまくって4番をやるとこうなるのかという奇跡のような体験でしたが、ケルンの聴衆もそういうものを感じたと思います。
Mov4、テンポも強弱も自由自在、フレーズが生き物のごとく脈動し、ティンパニが鉄槌のように打ち込まれブラスがさく裂し、弦は切れば血が噴き出すテンション。遅めのコーダ!最後の和音は譜面どおりさっと打ち切られます。この楽章、クライバーは疾風怒濤のごとく恐るべきエネルギー放射で駆け抜け、実演ではしばらく会話もできないほど圧倒されましたが、クナのほうはフルートソロ直前のppの弦の魂のふるえから渾身のffの咆哮まで密度と陰影が深いテンポのギアチェンジで生々流転、ぐっと歩みを遅めて居住まいを正すように迫ってくる最後の審判のようなコーダはまさにこれという絶対の説得力を感じてしまい、いまはこちらを採りたいと思います。
クナのケルン盤は数ある4番の録音の中でこのクライバー盤と共に1,2を争う文化遺産と思います。
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見えている現実はすべてウソかもしれない
2020 APR 29 1:01:54 am by 東 賢太郎
見えている現実はすべてウソかもしれない。そう考えたのはアルトゥール・ショーペンハウエルを読んでいる時でした。急に閃いたのです。ただし、これから彼の驚くべき著書を読まれる方に誤解のないように書いておくと、彼は以下に述べるようには言っていません。あくまでこの尊敬する哲学者が弱冠30才で看破した宇宙の真相を僕が理解した限りにおいて、そこに僕の妄想が入ったものにすぎないのですがひとつだけある確固たる経験的な理由によって、この妄想にはけっこうリアリティーがあるのです。それを実感として味わえるのは日本人男性の100人に5人しかいないかもしれませんが。
僕はわからない色があります。それを妻や娘は「薄い緑よ」なんていいます。本当にそうだろうか?そう思ったのです。すべてはこの疑問から発しています。見えている現実ってなんだろう?同じものが自分と違って見えている人が世の中には確実にいる。それが僕にとってのまぎれもない現実であり、だとすれば僕はその人たちとは全然別個の世界を見てここまで生きてきたことになります。経験論者であると何度も書きましたが、それが「薄い緑」だとその人たちが口をそろえて認識するようには経験していないのだから、それ(お茶でした)は僕にとって、存在しないに等しいのです。
統計があって、僕のような人は男性で日本人に5%、白人に8%います。残りの95%、92%の人たちとどっちが正しいというわけではなく、緑色はいろいろあるんだと考えたら変でしょうか?僕らにとって、地下鉄の切符売り場にある路線図はただの迷路です。世界史年表の地図の色分けはもはやナンセンスで、それで大学入試は世界史を選択しませんでした。僕は95%の人たちが多数派であることをいい事に作りあげた埒のあかない現実にうんざりしていて、とうとう、この人たちは「95族」という自分とはまったくの異人種であるという理解に落ち着いたのです。肌の色や何国語をしゃべるかなんてことより、いまはこれがずっと本質的な人間の区分ではないかと思っております。色は光にはなく、脳内にあります。鳥は人間より多くの色が見えます。
僕の属する「5族」が95:5と圧倒的なマイノリティーなのは、人類300万年の歴史でその色の見え方が生存に有利でなかったことの残念な証明なのでしょう。赤緑を見分けたほうが有利なために人類は95族へと進化が進み、僕らはそれに乗り遅れた人種だったかもしれませんね。しかしそれなら、なぜ5族はネアンデルタール人のように絶滅しなかったのでしょうか。なぜ配偶者を得られたのでしょう(女性はほぼ全員が95族です)。本来は生存競争に敗れて絶滅するのが自然な流れだったのが、人類の進化上で何らかの有意な変化が起きて、色の見え方の不利を相殺した結果ではないでしょうか。
例えば、我々の遠い祖先が猛獣を避けるために樹上生活をしていたころ、緑の葉っぱの中の赤い実を見分けてすばやく食べるには5族は明らかに不利です。しかしやがて人類は火を使って猛獣を追い払い、地上に降り立ちます。二足歩行して両手の自由を獲得し、狩猟や農耕による社会に移行します。赤い実を探す能力は生存の決定的要件ではなくなったから生き残れたか、あるいは、逆に樹上での逆境をコミュニケーション能力で補っていたのが5族とすれば(仮定ですが)、地上生活ではそれが有利に働いたというようなことが起きていたかもしれません。
ところが、ショーペンハウエルに戻りますと、赤か緑かということよりももっと現実は深いものを秘めているかもしれないということになってきます。目に見えてるものはすべて「表象」という仮想現実だからです。彼の著書『意志と表象としての世界』には、ものは唯一絶対のものとして「ある」のでなく、見えたり感じたりして認識しているから「ある」のだと書いてある。つまり彼は、主観はすべてを認識するが、主観は他の誰にも認識されないものであり、主観が存在しないなら世界は存在しないのと同じであるというのです。それが赤か緑かということは、もっとおおきな括りの中では大同小異になってくるのです。95族が「緑よ」といってるものだって、95-Aさんと95-Bさんの緑は同じではないのです。
二人が上野の西洋美術館のゴッホ展に行って「『ひまわり』っていいね」と合点しても、AさんにはBさんの見たひまわりは見えていません。「ゴッホのひまわり」は人の数だけあります。それは光線が見た人の眼球を通過して脳に結んだ像にすぎず、その像は脳の数だけ存在するからです。こう考えると、僕が60余年見てきた「世界」とは僕の脳にだけ「ある」もので、実はぜんぶウソ(CGみたいなフィクション)だったかもしれず、4次元(3次元空間+時間)の映画のようなものを見ていたんじゃないかという仮定は、常識的にありそうに感じるかどうかはともかく、否定はできなくなってくるのです。
人生とは表象の集合として相互に関連しあう “長い夢” であり、単なる表象だという意味で、夜見る夢(“短い夢”)と区別のつけられないものになってしまう(ショーペンハウエル)
映画が終わったら(つまり死んだら)「はい、お疲れさん、次の見てくかい?」なんておじさんが声かけてくるんじゃないか?そこで「はい、見ます」と手を上げると、次の上映になるのです。これを人間界では「転生」(生まれ変わり、reincarnation)と呼んでいて、多くの宗教が死者の魂は天界に登って再生すると認めているし、エジプト人は戻ってくるときのためにミイラまで作ったのです。前の人生を記憶していた人の話は世界中にありますし、「空中で画像を見ていて、このお母さんにすると決めて生まれてきた」という「記憶」を語る子供や、前世の家族や友人や自分を殺した人を詳しく覚えていたり、習ってもいない前世の言葉を喋った人の記録もある。イアン・スティーヴンソンという学者(ヴァージニア大学)の研究です。僕はこういう妄想を持っています。
宇宙は実は天界のディズニーランドである。アトラクションの「ワンダフル・ヒューマン・ライフ(素晴らしき人生)」は人気だ。テレビスクリーンに地球上の妊娠中の女性が映る。お客は自由に選択でき、ボタンを押すと下界に降りてそのお母さんの胎内に入る。そこからはその胎児の目線(五感)となって「70~80年コース」の4次元コンテンツが始まるが、上映時間は天空の1時間ぐらいである。割増料金で100年コース、上映時間は90分の長尺も選べる。
そうかもしれない。本気で思うのです。宇宙は地球外知的生命体によって精巧に造られたアトラクション用の舞台装置で、お母さんも胎児も何もかも原子という超微細なレゴで組み立てられている。4次元で「時間」の要素がある遊びだからお客さんは、だんだん成長する仕掛けの胎児という乗り物に乗りこんで、そこから始まる「人生」というストーリーに「五感」というツールを与えられて楽しむ「参加型アトラクション」である。
脳学者によるとどのひとつの脳細胞にも「自我」(ワタクシ)が見つからない。哲学者は人間は「考える葦」で「我思う、ゆえに我あり」と言う。大変結構だけれど、脳は単なるアトラクションの部品です。例えばジェットコースターに乗ったとして、動力であるモーターとあなたとは一体でもなんでもないわけです。脳を調べてるのは地球上の人間という、これまた別な胎児から成長したアトラクションだからそれがわからない。ロボットがロボットを分解してるだけです。4次元映画の中ではその理解できないものを「魂」「精神」などという名で呼んでいます。
お客さんである魂や精神にとって、胎児の成長や、意志に関係なく動く心臓や、宇宙の生成や運動は、すべてプリセットされたアトラクションの舞台装置です。お客さんは初めてスペース・マウンテンに乗った時のように、仕掛けの壮大さ精巧さに圧倒され、周囲を観察して、「どうしてだろう」「どうなってるんだろう」と思うだけです。選んだ乗り物(胎児)のDNA(能力や寿命)は変えられず、その範囲内でうまく操縦して良き人生航路を辿るというゲームです。乗り込んで地球時間で2~3年してから映画(意識)が始まるので、そこに至った経緯は認識がありません。そして、毎日毎日、その魂である我々は、「うまく操縦する」ことにこうして精を出しているというわけです。
もしそうなら、死ぬということは単なる「ゲームオーバー」であります。天界に戻って、またおじさんに代金を払って次のゲームを楽しめばいいのです。どうやって天界に戻るかという点ですが、死んでしまった人の証言はないですから臨死体験をして生き返った報告に頼ります。すると、魂だけが足の先から身体を抜け出て、ベッドに横たわる自分や泣いている親族を天井から眺めていたというようなものが多いことがわかります。体外離脱と呼びます。ゲーム開始のときはお腹の中の胎児に「降りてきた」ので、ゲームが終わるとその逆のことが起きるのだと考えれば納得性があります。
体外離脱の経験はありませんが、ある音楽にそれを連想したことはあります。モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調 K.491の第3楽章のコーダ部分です。ピアノ譜をご覧ください。
枠で囲ったドからソまでの和声の半音階上昇とその前後の和声です。何かに魂が吸引されて足先から抜けていく。天界の和声がきこえてくる。また下界に戻される。また抜けていく・・・。ロココの作曲家などと烙印を押すのがいかにナンセンスか。彼の前後、こんな不気味な音楽を書いた人間は一人もおりません。彼の死後10年以上たって、彼を意識して書いたベートーベンの5曲のピアノ協奏曲も、これを見てしまうと常識の範囲内の作曲と言うしかありません。モーツァルトがなぜこんな恐ろしい音を書いたのか、何を見たのか?知るすべはありませんが、僕が乗っている乗り物はなぜか彼が大好きで、ちょっとしたことに反応してしまうのです。
「死はぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。」(モーツァルト書簡全集Ⅵ、海老沢敏・高橋英郎訳)
以上が自説であります。僕が65年前に選んだ東賢太郎なる乗り物も年季が入ってあちこち不具合が出るようになってまいりました。そういうことを考えていると、母が頭をよぎります。寝たきりで意識がなくなって、それでもずいぶん長くがんばってくれました。逝ってほしくなかったからです。でも、こう思えば、もっとはやく見送ってあげればよかったのかもしれません。きっともう次を選んでるにちがいない、まだ3才ですけどね。
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カーペンターズ 「We’ve Only Just Begun」
2020 APR 27 18:18:26 pm by 東 賢太郎
以前にも書いた気がしますが、コロナ禍などで殺伐とした気分になると歌が聞きたくなります。それも女性のですね。正直のところワーグナーやR・シュトラウスのドラマティコという、オーケストラを尻に敷いてしまう堂々たるソプラノはこういう時はだめですね。重すぎて負けてしまう。結局、ネットで探していてやっぱりこれだと思ったのがカレン・カーペンターだったのです。
彼女が拒食症で亡くなってしまった1983年2月4日に、僕はアメリカにおりました。全米が悲しみに沈みました。学生時代からLPを擦り切れるほど聴いてましたからね、ショックでした、なんでそんなので死んじゃうんだってね。カーペンターズのオリジナル曲は音楽として非常に完成度が高く僕はクラシックと思ってるし、リチャードの作曲、編曲の才能によるところ大と思いますがやはりここまでブレークしたのは彼女の歌ありきだったんですね、ドキュメンタリー番組での友人の証言によると兄貴も嫉妬してたそうです。
”We’ve Only Just Begun” は「愛のプレリュード」なんて邦題でした。「私たち、たったいま始まったばかり」ですね、ほんとは。なんせ女性がドラム叩いてリリックに歌うなんてね、バンドっていうとリンゴ・スター、メル・テイラーみたいなバリバリ叩く能天気あんちゃんのイメージだったから新鮮でした。このビデオはエド・サリバン・ショーあたりでしょうか、彼女のドラムスはよく聞くといい味だしてる。うまいです。センスいいです。バックコーラスもですね、We’ve only begun~とピアノ、ドラムスといっしょにかぶさってくる、begunのコード(Am9!)がア~と来るところですね、いやこれは凄い、何度聴いても快感。これぞカーペンターズの看板の響きになりましたね。
しかし何といっても、カレンの歌なんです。なんて心に寄り添ってくるんだろう。これは悩殺なんて安っぽいのとちょっと違う、セクシーではあるが孤独で超然としたところもあってひとかどの尊厳まで帯びていて、それでいて究極の癒しもいただけているという、なんだか説明の出来ない優しさがあるのです。
僕は彼女を古今東西の最高の女性歌手と思ってます。マリア・カラスもルチア・ポップも入れてですよ。ジャンルなんか関係ないわけですね女性の歌っていうのは僕にとって一種の聖域なんで。まず驚くべきは純正調の神のように完璧で美しいピッチです。和声へのフィット感など真に驚異的であります。クラシックの一流とされる人でもほとんど気にくわないのです僕は。彼女はジュリアードやカーティスでトレーニングしたのではないけど、こういう人に教育は不要ですね。声質も音色も歌い回しも、ちょっとかすれ気味に陰るところも美しい発音、活舌も、そうしたものの天衣無縫の使い分けも音楽的に完璧である、凄い、ああ凄いと感嘆、嘆息しながら聴いてるわけですが、終わってみるとそんな些末なことは言うだけ唇寒しになってしまう。こういうことは他の人ではありません。
こっちはやや後年でしょうか、少々太目でとても明るく元気そうだ。こっちの歌唱も黙らせます。明るさをいただけます。このまま行ってくれてればおばあちゃんになってもいい味出したろうなあ・・・
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モーツァルト クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
2020 APR 23 0:00:16 am by 東 賢太郎
みなさん、Stay Homeお疲れさまです。こういうときはモーツァルトを聴きましょう。いいかもと思ってたまたま聴いてみたのが「クラリネット五重奏曲」(K.581)でした。最高の癒しになったのでこれを書こうと思いたちました。いま、心に澄みきった青空が広がり、ほのかに陽がさした気分なのです。
この曲についての賛辞は 「雲のない春の朝」(アーベルト)、「天空に燦然と輝いている作品」(オカール)、「まさしく最も洗練された室内楽作品」(アインシュタイン)と枚挙にいとまなしです。クラリネットと弦楽四重奏は相性が良く非常に魅力的な組み合わせと思いますが書いた人は少なく、著名なのはブラームスぐらい。まあこんな作品がいきなり現れてしまえばねと納得です。
これに限らずモーツァルトの作品でいつも感嘆するのはそのプロポーションの良さなのです。八頭身美人というかギリシャの彫刻というかですね、理屈じゃなく、メロディーも和音もリズムも光っているのですが、聞き終わって心に残るのは見事にバランスしたプロポーションの良さ。「何か尋常でない美しいものに触れた」という感銘と安らぎで胸騒ぎがしているという風です。この心地良さを知ってしまうともうぬけられません。
それがハイドンの作り上げたソナタ形式のような一種の「鋳型」によってもたらされているかというと、どうもそうではない。例えばオペラに鋳型はありませんが、モーツァルトだけはそれでも感じるのです。「魔笛」は筋書が錯綜しておよそまとまりがありません。それなのに、全部聴き終わってみるといつでも、絶世の美女のような、完璧な肢体のプロポーションのような調和を見てしまうという具合です。こういう印象を覚える作曲家はほかに知りません。
プロポーションと書きましたが、それは数字の比だろうという考え方が昔からあるようです。有名なのが「黄金比」で葉書や名刺の縦横がそれです。一方で「白銀比」というのもあり、紙の寸法のAシリーズはそれです。美に絶対はないように思います。プロポーションという単語の語源も pro-(前に)+ portion(分け前)であり、何かを分配する前に「いい塩梅だね」という感じでしょう。とするならば主観であり、時代や状況で変わるかもしれません。
バルトークは黄金比を楽譜に埋め込みました。プロポーションのもたらす固有の美に意を配ったのでしょう。では、モーツァルトの楽譜にもそうした(八頭身の「八」のような)数理が隠されているか。僕はそうではなく、エジプトのギザのピラミッドは空から見るとオリオン座の三ツ星に見えたり、底辺や高さが地球の大きさに関係しているといわれる、むしろそういうものではないかと感じます。何らかの均整が隠されているのですが、それはメタフィジカルなものです。
「クラリネット五重奏曲」(K.581)はそれを最も感じさせる音楽の一つと思います。なぜこの音楽がいきなり心をつかむのか、理屈は説明できないのですが、やっぱりこれかなあと思うのは矢印のところです。
柔和なレガートで、まるでうららかな春の小川の流れのように始まったソーミーレードーのメロディー。矢印のラで主調にもどってワンフレーズ落ちつくかと思いきや、想定外の短調の和音が来ます。えっと驚いて、川の流れは一瞬止まります。この哀感!一気にハートわしづかみです。この主題はすぐくりかえされますが、そっちでは主和音(長調)で予定調和的に終止します。これが冒頭だったら「つかみ」は弱かったと思いませんか。
「えっと一瞬驚いて時が止まった感じ」、これを理屈で言うとフレーズのお尻を平行調で持ち上げて止めた感じのこれを僕は日本語文法の「連体止め」になぞらえたくなります。
紫だちたる雲の 細くたなびき “たる”
であります。体言止めほど終止感が強くなく含みを残します。個人的には枕草子の清おばちゃんの決然たる物言いが大好きなのですが、パンチが効きすぎないのは体言止めのぼかし、余韻を使った押し引きが抜群にうまいからで、彼女は連体止めの達人なのです。ファンだから僕の文章も影響を受けていると思います。そして、その趣味で見るモーツァルトも平行調止めの達人であるのです。
最初の4小節でこのありさまです。K.581の驚くべきところはそのミクロが大構造に組み込まれてくるところで、楽譜の冒頭(第1主題)矢印の①平行調版と②主調版ふたつを絶妙に使い分け、提示部が①、②、展開部は①、再現部は②、コーダは①と、つまり1,2,1,2,1と数列になります。第3楽章第2トリオと第4楽章主題は形を変えますが冒頭で驚かせた①が回想されます。こういうのはピラミッドを天空から眺めないとわかりません。
第2楽章ラルゲットはイ長調から4度上(希望、天国の)ニ長調で始まる同じ調のクラリネット協奏曲と双生児です。天上界を羽の生えた天使のように浮遊する様はロマンティックとも違う不思議というより超常的な世界で、異界にさまよいこんだかと感じます。冒頭の雰囲気は同じニ長調のザラストロのアリア(これも異界)ですね。P協20番K.466の稿に書きましたが彼の音楽にはフィガロ前後からそういう「こわい」ものが混入します。フリーランスになって当座は有頂天でしたが敵も作りました。自分が壊れる恐怖といいますか、問題オペラを書きながら夢にうなされるようなぴりぴりしたものが鋭敏な芸術家の神経にふれていておかしくありません。
その事で思い起こすのですがアーティストの横尾忠則さんがこう述べています。
芸術の創造のルーツは、過去の歴史の文脈の中だけではなく、こうしたまだ見ぬ未来の時間の中にもすでにスタンバイして、その創造が芸術家の手によって、現実化されるのを待っているのです。だから芸術家が幻視者とか予言者と呼ばれる理由かも知れませんね。
僕は昨年、瀬戸内海の豊島で氏の「生と死」をテーマとする作品を観て感じるものがありましたが、芸術家の直観や霊感(インスピレーション)はときに超常的であり、鑑賞する人の99.99%は日常的です。
第3楽章は建築物のようにかっちりと構成された、ふわふわの前楽章と対極のごつごつ堅牢な世界です。ここは現実的です。ところが、二つあるトリオの第1は弦だけのイ短調に対し調性がB♭、F7まで飛びます。ハ短調に移調するとP協24番K.491の、僕が魂の体外離脱と信じてる第3楽章の和声関係とぴったり同じです。K.491はフィガロと並行して書かれ、K.581は三大交響曲の翌年で予約演奏会の会員がスヴィーテンひとりになってしまい、ベルリンへ売り込みに行ったりの困窮の中で書かれました。どちらも極度の不安の中だったでしょう。第2トリオは一転して牧歌的です。短調になるあたりはパパゲーノのアリアを予見しています。
第4楽章は終幕にふさわしい喜々とした舞曲風の楽想で、真ん中の2楽章の異界感を解きほぐします。それが6回変奏されますが、スタッカートではじけるような第4変奏の後にアダージョの第5が来ます。一度遅くしてコーダになだれ込むのはハイドン、ベートーベンのお家芸ですがモーツァルトはあまりない希少な例ですね(この雰囲気はブラームスが同じ編成の作品115でぱくっていて、しかし冒頭主題の生々しい回帰というパンチを強烈に効かしているので御一新にはなってます)。しめくくりの第6アレグロに入る前に5小節のブリッジが入るのはソリストのポン友シュタードラーにカデンツァの見せ場を与えたと思います。借金を踏み倒したり自筆譜を紛失したり(売った説あり)とヤンチャな奴ですが、彼なくしてこれなし。我々としてはええい何でも持ってけ、ありがとうシュタードラーであります。
この曲に指定されたバセットクラリネットは当時は新奇でシュタードラーの専売特許的な楽器でしたからK.581は実験的作品でした。ウィーン音楽家協会(Tonkünstler-Societät)で1789年12月22に開催されたクリスマス・コンサート(ウィーン、ブルグ劇場)で初演されましたが、資料はありませんがモーツァルトも舞台に立ったと思われます(ヴィオラか?)。自分の予約演奏会が全く売れなくなるという想定外の事態に追い込まれそうなったのでしょう。当日は2年後に夜の女王を初演することになる義姉のマリア‣ホーファーも出演しており、モーツァルトとその仲間たちのコンサートだったようです。
第6変奏ですが、素晴らしく快活で元気の出る音楽です。中盤からヴィオラが八分音符でラの音を延々と刻むのはハイドンセット(ニ短調 K.421)を思わせますね(K.581は同曲と書法的には似た部分が多々あります)。この楽譜の5小節目からのクラリネットの下降音型にF#7、B、G7、A、F、B♭、E7、Aと和声が付きます。ここで第3楽章第1トリオの魔界のF、B♭が響きます(聴いただけではまずわかりません)。
同じ下降音型には今度はF#、 B、 G、A、 G7、A、 Eと平穏な和声が付くのです。このように同じパッセージの片方に魔界の和声を付ける例はプラハ交響曲の第2楽章にも非常に印象的な例があります。
以上俯瞰しましたが、こういう細部の意匠が隠し味になっていると知るのはあくまで天空からピラミッドを眺めた時だけなのです。それを知ったとて聴いているときはわかりませんし、その必要もございません。ただただ見事な霊的調和を感じさせて曲が閉じ、余韻を静かに味わい、ただただ溜め息をつけばいいのです。この曲のプロポーションの良さは数学的な比率を超越したメタフィジカルなものというしかなく、聴きこめばどなたでもそれを容易に感じるようになり、心はとけるほどやわらかになり、モーツァルトの虜になることでしょう。
演奏ですが、一般にはウィーン系の団体のもの、例えばアルフレート・プリンツとウィーン室内合奏団、あるいはレオポルト・ウラッハとウィーン・コンツェルトハウス四重奏団などが高く評価されています。古い録音ですが味があります。僕もかつてはそれらを聴いていたのですが、モーツァルトの時代に20世紀の「ウィーン風」があったわけでもなく、いまは純音楽的な視点でリチャード・ストルツマンとタッシの演奏になってます。これは僕が大学4年のときにニューヨークで買ったLPです。タッシのピーター・ゼルキンはこのころまだ若い兄ちゃんで、僕は親父の方をフィラデルフィアで聴きましたが、ピーターも2月に他界してしまいました。
この演奏、当時の日本の評論家は無視でした。ウィーン情緒がかけらもないからでしょう。モーツァルトといえばウィーン・フィル、カール・ベームという輩ばかりでしたね。でも97年の元旦にウィーンでウィーン・フィルの団員と食事しましたが最晩年に日本人が熱狂していたころのベーム爺さんの棒はよれよれでわからんかったと言ってました。ワインはペトリュスしか飲まんという、まあペトリュスはけっこうな品ですがね、それを薦めるのは普通のオジサンでもできるとも思うのです。
この演奏、テンポはたっぷりめでウィーン系があっさり聞こえますが、第2楽章の天使感や「こわい」と書いた箇所の深さ、第4楽章第3変奏のヴィオラの「泣き」がクリスピーにスタッカートを効かせた快速の第4変奏に移る見事さなどなど、当時若かった彼らが楽譜から読み取ったインスピレーションを感じ切って弾いています。各種手持ちのレコード、CDを聴きなおして見ましたが、コロナ疲れを癒してくれるのはこれでした。ご賞味あれ。
(この曲が歌えるようになりたい方はこちらをどうぞ)
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ラヴェル 組曲「鏡」(Miroirs、1905)
2020 APR 4 21:21:58 pm by 東 賢太郎
週末は小池都知事の外出自粛要請にしたがって在宅。こういう時にピアノは友だ。その場にある楽譜からまずブラームス交響曲第4番のMov2。最後のE durとC durの痺れるような交差が最高。ベートーベン第九のMov3と終楽章、なんとか最後まで。次、7番のMov2を弾いてみると、どことなく月光ソナタの情景が。そこでそちらのMov1を。ああいい曲だ。なんとも外の雪景色になじむではないか。コロナで殺伐とした気分なのに、ふかくふかく心を癒してくれる(注:本稿は4月1日に書いた)。
ところが、かつて暗譜で弾けていたラヴェル、クープランの墓のフォルレーヌがいけない。指の記憶はけっこう残ると思っていたが、こういうこみいった曲は飛んでしまうようでまた譜読みだ(臨時記号だらけ)。しかしその甲斐はある、ラヴェルの和声創造の秘儀にもう一度感嘆の声をあげられる、これ、大昔に読んで犯人を忘れてしまったコリン・デクスターのミステリーの読み返しみたいだ。
ラヴェルのピアノの譜面は、まるで彼が管弦楽において各楽器の細々したフレージング、音域による音色変化や和声内での混合バランスに微細な神経を使っているように、ピアノから出てくる音のラヴェル的としか表現しようのない響きの「らしさ」に資するべく個々の音の「置き方」が最高度の人智によって巧妙に設計されている。加えて左手の協奏曲などに至ると、そうした立体的ともいえる配置の妙であたかも両手で弾いているように聴こえさせ、トリックを聴衆にかけて楽しむ。
我々はトリックと知っているのだが、あまりに精巧にできていて、疑う自分が野暮に思えてくるというレベルのものだ。嘘なら嘘で最後まで騙してくれよとしまいにはひれ伏して懇願でもするしかない。さように人工的な音楽なのだが不思議と情緒に訴求するものがあり無機的にきこえない。しかし、だからといって感情移入するとさらっとかわされてしまい、人肌と思って触れてみると実はホフマン物語のオランピアみたいに機械仕掛けの人形でしたという感じである。この特性は組曲「鏡」においてもはや妖術の領域に達しており、譜面を読んでみると初めてオランピアの体内を造形しているネジやバネが即物的なあっけらかんとした姿を見せる。なんだこんなものだったのかと白けるが、通して聴いてみるとまたまた蠱惑の罠にはまりこみ、気がつけば人形の妖術にかかっているのである。
その感覚は後の音楽よりも現代アートに通じるものがあって面白い。まず思い出すのは昨年に瀬戸内海の直島の地中美術館で観たウォルター・デ・マリアのアート「Time/Timeless/Notime」だ。人工的だが宇宙的でもあり、どこか達観してツンとしていながら不思議と感情に訴える。巨大な球に近づき裏側にも回り、そのばかばかしくもあっけない即物性を知るのだが、写真の視点に戻ると荘厳な秘教の神殿みたいな非現実のヴィジョンに再度捕えられてしまう、3次元のだまし絵のような作品だ。
もうひとり、ジェームズ・タレルは光と造形で人の感覚を惑わし、なんとも不可思議で超自然的な調和のある光景を味わわせてくれる。誰も見たことのない景色だが、どこか数学の法則、神の摂理が心に親和性をもって語りかけるようでいて、しかし、まったくの人造物なのだ。これはアリゾナ州立大学にある作品だ。
ラヴェルにもそういうものがある。何回騙されても面白いミステリーであり、機械仕掛けの蠱惑的な人形である。
組曲「鏡(Miroirs)」についてラヴェルは、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー 』の「目はそれ自体を見ることは出来ない、何か別のものに映っていなければ」を引用しており、以下の5つの曲を友人たちに献呈しながら、各曲を鏡として映る自分の姿を投影している。このメソッドは、例えばドイツの雑誌「シュピーゲル」(Der Spiegel、 鏡の意味)、イギリスの日刊タブロイド紙「デイリー・ミラー」(The Daily Mirror)でおなじみだが、我が国は世相を映し出す「大鏡」が平安時代に遡るから遥かに先進国である。
1.蛾:詩人のレオン=ポール・ファルグに献呈。
2.悲しげな鳥たち:リカルド・ビニェスに献呈。
3.海原の小舟:ポール・ソルドに献呈。
4.道化師の朝の歌:ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシに献呈。
5.鐘の谷:モーリス・ドラージュに献呈。
これらをアナリティックに聴くのはあまり意味がないだろう。ベートーベンのように形式論理(あることはあるが)を見出しても、それでラヴェルに入りこめるわけでもない。そのかわり、これらの自画像には揶揄、皮肉、憧憬、孤独、欲望、畏怖がある。3,4は自身が管弦楽にして著名になったが僕はピア二スティックである1,2,5を好む。ドビッシーは和声を混合して反応させ変幻自在の化学式を探求したが、ラヴェルは同様の試みをしながらリスト伝来のピアニズムにも語法の要諦を託した。それは比較的初期の「鏡」で試行され、のちに「夜のガスパール」で開花する。
ラヴェルをどう聴こうが十人十色だが、デ・マリアやタレルの絵画がしっくりくる僕にとって彼の音楽は宇宙の真空、無音の空間にぽっかりと浮かぶ神秘の方程式であり、どんなに世俗的で怪異、グロテスク、性的に見えていようとその真実は完璧な球体の如く無機的である。しかし、そのひんやりした感触が、たまらず魅力的なのだ。彼の後継者は現れなかったが、意外に思われようが僕はジャズ、それも白人のビル・エヴァンスらのクールなタッチと和声感覚に引き継がれているように思う。
「鏡」が異界の妖術たり得るには、ピアニストは完璧な指回りの技術とタッチの質感とグラデーション、そして10種類を超える音色を要するだろう。これと夜のガスパールは、したがって素人に手の出る代物ではなく、僕の知る限りプロでも満足のいくリアライゼーションを成し遂げるのは至難である。5曲を非常に高い水準で聴けるひとつに、アブデル・ラーマン・エル・バシャの2種の録音がある。比べるなら、旧盤(右)が上だ。お聴きいただきたい。
もうひとつ、こちらも光彩陸離で動的であること出色で愛聴しているエリック・ハイミの演奏だ。鏡とガスパールだけはモノラルの古い録音はどうしてもハンディがある。不思議とクープランの墓、ソナチネはそうでもない。2系列あるのだ。ピア二スト、ハイミ(1958~)は知られていないがアメリカは時にこういう素晴らしいヴィルトゥオーゾを輩出する。このCDの「スカルボ」は僕の知るAAAの演奏のひとつで特筆したい。
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