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選手に金を払うのは球団ではなく観客

2018 DEC 23 23:23:44 pm by 東 賢太郎

内海投手のFA人的補償での西武移籍は衝撃でした。そもそも人的補償ってコトバがいやですねえ、補償とは損失を埋め合わせるという意味でふつうは金銭ですがここでは「ヒト」でオッケーですっていちいち「人的」とつけてる。選手を物か奴隷みたいに見ている語感があり不快です。一番ショックだったのはエースを張っていた内海でしょう。しかしTVで観ていた彼の清々としたふるまいは立派ですね。学ぶものがありました。

このニュースでFAで巨人に移籍した丸選手の話題は下火になった感じです。よかったね。「もっと上でやってみたい」は「もっと評価とお金が連動する世界に身を置いてみたい」という意味だと僕なりに解釈をしています。これをプロだから当たり前といってしまっては思考停止なので、少し考えてみます。

まず評価はどうやったら上がるのでしょうか。すべての野球少年のなかで勝ち上がっていくしかありません。頂点はNPBですが野球は日本だけの競技ではありません。メジャーが明らかに頂点です。なぜなら最も高額の報酬がもらえるからです。こう書くと「すぐお金で計るのはいかがなものか」とご批判もありそうですが、シンプルな事実です。なぜなら興行において選手に金を払うのは観客だからです。

たとえば相撲で、お客は十両より横綱や三役の土俵のほうが見たい。だから懸賞の本数も多いのです。客はスターが見たいし、常人にはできない超人的な技能が見たいのであって、それには納得して足を運んで金を払うのです。プロの「評価」とはお客さんにいくら払ってもらえるかで決まるのが本質であって、はえぬき、男気、お世話になってるみたいな球団事情で決まるものではありません。

だから「金満主義の巨人がけしからん」という批判はおかしい。読売巨人軍という会社は35億円出しても諸々を勘案するとペイすると算盤をはじいたから丸選手をとったわけで、なぜペイするかというと、丸選手の直接、間接の貢献で客がたくさん入ると思ったからです。ということは、丸選手は巨人軍の利益を上乗せした金額、つまり35億円以上をお客さんから支払ってもらえる選手だという評価になります。

それがけしからんというならプロ野球という興行がいかんということになってしまいます。そんなことはカープファンも言わないでしょう。つまり、丸の移籍というのは、広島カープ球団は35億を払ったらペイしない。巨人はペイする。だから巨人を選んだ。それだけのことです。それが嫌ならカープ球団はマツダスタジアムの入場チケットを値上げして35億払っても利益が出せるようになればいい。それだけのことです。

僕はチケット代の2割は選手を指名して直接あげられる仕組みにしたらどうかと思います。1万円の席なら8千円はカープ球団に、2千円は毎試合後に投票して活躍した選手にあげる。売上188億円の内100億円がチケット代として20億円が「ふるさと納税」のように選手勘定になる。それで去年の年俸総額と同額です。投手と野手の調整は必要だけど年間通して大活躍すればひとりで10億円もっていくことも可能。金を払うお客が試合を見て「あげたい」というなら当然勝利に貢献度が高いわけで、プロなんだからフェアな仕組みだしモチベーションは凄く上がってチームも強くなると思うのです。

僕は丸を応援したいのですが、一つだけ不満なのは、「もっと評価とお金が連動する世界に身を置いてみたい」というモチベーションがあるという仮定をするならば「メジャーに行きたい」こそが結論になるはずです。巨人に5年もいたらそれはないんでしょう。ということはその仮定は違っていますかね。単に巨人に行きたかったんですかね。

まあ高校生がドラフトで広島に指名されて大成した、しかし、だからといって一生広島に住みたいかどうかは別の話でしょう。エルドレッドは市民に溶けこみ愛されてずっと居たかったかもしれないが、力が落ちれば「ご苦労さん」で戦力外でバイバイだ。そういう世界です。そんなリスクをとっているのだから、リターンが目の前にあればゲットしてあまりにあたりまえでございます。

 

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ライオンキングの落日

2018 DEC 23 2:02:08 am by 東 賢太郎

きのう森嶌医師が診療で「音楽は聴いてますか」と質問してきた。「いや、ぜんぜん、その気にならないんでね」と答えながら、それがかつてドツボの兆候だったことを思い出した。彼は統合医療の専門家だから心療内科の意味合いからその質問をしたのかなと思う。「いまは猫ですよ、最高の癒しなんで」。とにかく疲れてる。

仕事はジャングルだと書いたが、そうかどうかは仕事による。僕の場合は「良い投資機会」というものが獲物に見立てられるわけで、だからジャングルの比喩がぴったりくるということにすぎない。株式投資に限らず良い投資機会というのは「嗅ぎ分ける」もので理屈ではない。理屈で分かるものは誰でもわかるからすでにほかの猛獣に食いつくされて骨だけになってるのである。

資本主義はジャングルを肯定する所に成り立っている。一匹のライオンが獲物を全部食ってもいい。ライオンもシマウマもエサは配給制なのが共産主義だ。強すぎのライオンにはレバノン系のフランス人であっても森林管制官からお咎(とが)めが入ったりする日本は和を貴しとなす配給制に親和性がある国民性であり、森林管制官が大勢飯を食えるという側面ですぐれて共産主義的である。かたや米国と中国は相反するように見えるが、ライオンが森林管制官をやっているという側面においては、実は国民性においては非常に資本主義的で似ている。だからこそトランプが習近平をライオンであると察知し、知的財産権にかかわる血みどろのトレード・バトルが発生しているのであり、草食獣の森林管制官がまじめにライオンを取り締まっている日本とはどちらも水と油の国なのである。

ジャングルで獲物を嗅ぎ分ける能力というのは、何度も書こうと思って断念してきた大きなテーマだ。この「嗅覚」は自分で起業して経営をしたり、他人がそれをした会社の株式に投資してそれを疑似体験するということに長年たずさわっていないとなかなか身に着くものではないからだ。どうやって習得しようとある人にはあるものだとしか書きようがない。ジャングルで獲物があれば、同じ嗅覚の他の動物も寄ってくる。基本はそれらはみなハイエナのような敵なのだが、そう思わずむしろ共同したほうが大物を得ることができるのは長年の知恵だ。

この共同ハンターは大事だ。ライオンのハンティングを見ればわかる。僕は長年それらに猫パンチをくらわしてしまう手癖が抜けなかったが、最近になって足腰が衰えてきたせいもあり、むしろそれを集めようと180度趣向をかえた。かといって一人で倒せそうもない大きな獲物を見つけていざっという刹那に、一緒にハントしません?なんて草食獣に声をかけるライオンはいない。しかも同じライオンでも得手不得手があるから選択が肝要である。ハントに役に立たないのに肉を食いに来るフリーライダーは邪魔なだけでいらない。

そのハントのリーダー格になれるかどうかが我が業界の死活問題であり、僕自身がリーダーで長年食ってるわけであり、その感覚は研ぎ澄まされているがそれ以外のことはあんまり興味もない。これを他業界の人にご説明するというのは猫が犬にマタタビの魅力を説くようなもので全く意味がない。証券会社にいた人でも99%は使い物にならない。だからこそ自分の嗅覚で僕に寄ってくる人は貴重なのだ。その人たちは社員になってもらう必要などない。そのほうがコストが安いし機動性は倍加する。それが「伊賀の影丸経営」なのだ。

大手総合証券の強みは引受業務の主幹事ができることで、引き受けた株を「玉(ぎょく)」と呼ぶがそれを握った者がそのディールの支配者、王者であり、いい玉を握れば同業者は放っておいても嗅覚ですり寄ってくる。それを力関係で配分して少しでも多く売らせるわけだ。そうやって需要が多くなれば売値は高くできて発行会社も喜ぶからまた主幹事ができるという寸法だ。そのメカニズムで「ライオンキング」になった者こそがジャングルの王者なのである。

聞けば簡単だがきれいごとの通じる世界ではない。ライオン同士の主従である。支配者になった経験のない者にはとうてい無理で逆に食い殺されるのが落ちだ。僕が野村證券という引受業界で世界のライオンキングであった会社の最盛期に海外でたっぷりと、食ったり食われたりの血みどろの戦闘経験を積ませていただいたのは天の恵みというしかない。向いていたとは思わないが、唯一ネコ科であったからハントの瞬発力では負けない。

しかしライオンにも落日はくる。今の案件が終わったらどうしよう。

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人生初の点滴をする

2018 DEC 22 8:08:25 am by 東 賢太郎

新幹線で名古屋を過ぎるとだんだん血が騒ぎだす。不破関を抜けると関ヶ原古戦場跡の文字が見え、雪を頂く伊吹山をのぞみながらやがて長浜の郊外を走る。ややあって、彦根の佐和山城跡が目に留まり、あれは石田三成の城だったかななどと考えているとあっという間に京都に着いてしまう。秀吉は長浜で初めて城主となり京都で人生の栄華を極めたが、新幹線に乗ってその行程がほんの2、30分で窓の外を通り過ぎるのを見たらなんと言っただろう。

戦国時代が面白いのは登場人物たちが実に生々しく人間くさいからだ。領土拡大の野望丸出しで合戦に明け暮れ、食うや食われるやの虚々実々の権謀術数が尽くされる。しかしこれを戦国時代と呼ぶなら武士が政権を取った鎌倉時代から実質は戦国時代である。世襲による長期安定政権を樹立した徳川家は実質は疑似天皇化していたが、武家政権ではあるゆえにその樹立以前のジャングル状態をあえて戦国と区別したと思われる。その理屈でいうなら中国に戦国時代でなかった時代などないだろう。

自分の企業を経営するのはジャングルで生きぬくことだ。ジャングルに盆も正月も土日も休日もない。ハワイでアロハシャツで休暇をとっても頭の中は安らがない。信長や秀吉がホリデーに1週間も温泉三昧で息抜きする姿なんて誰も思い浮かばないだろう。彼らの気持ちは給与所得者(社長であろうと)には絶対わからないということを僕も経験してみて初めてわかった。だからだろう、そうやってストレスフルな人生を送ったであろう武将たちが命を懸けた関ヶ原のあたりに来ると血が騒ぐのだ。兵どもが夢のあとの文学的な感慨ではなく同胞感からだ。

これを8年やってきた勤続疲労が出たのか、このところ心身とも調子がいまひとつだ。別にどこも痛くも痒くもないが、英語ならout of orderであり、もっとぴったりに書くなら、指は動いていても調律が狂ってるピアノを弾いているいやな感じだ。これを大阪の守口に行って、ラヴィータ・クリニックの森嶌先生に訴えた。「病気じゃないけど心身とも疲れていて万事がすっきりしない」。こんなのを治す薬はない。でも先生のドイツ製の精密な診断機器である「バイオ・レゾナンス」は数値で答えを出してくれる。だからここの予約は数週間待ちで常に満員御礼だ。

ものの30分の検査(といっても服を着たまま座ってるだけだ)で結果が出る。「全身の代謝、血行が弱ってます。”腎”が良くないから鼻づまり、耳鳴り、頻尿です。これは漢方で治ります。臓器のシグナルが全部弱く、脳細胞の膜がストレスにやられる可能性があります。東さん、かなりひどい数値ですね過去最悪の状態です、放っておいたらまずかったですよ」という診断データのリーディングになり、すぐに別室で2時間の点滴を受けろということになった。看護師さんがとんでくる。「すいません、63才なんですが点滴は人生初めてなんで」「ええっ?そんな方おられるんですね、初めてです」。そっちも初めてだったんだ。

「入院したことも、そもそも病院のベッドに寝たこともないです」。これは看護師さんにはひとかどの驚きだったらしく、血管が細いだのああだこうだうるさい患者に細心の注意で痛くなく注射をしてくれた。「これ押して歩いてもトイレに行かれても結構です」。名前は知らないが入院患者が点滴しながら歩く時の車輪がついて薬剤がぶら下がったあれだ、あれが装着されてしまう。とうとうその身になったかと感慨もひとしおなのは、いつもは大丈夫?と心配する側だったが、される側になってみると意外に悪いもんじゃないと思ったせいでもある。

なにせジャングルで戦う身だ。ライフルを構えているそばから「ところで五十肩のほうは最近どうだ?」なんて心配してくれる輩がいるはずがない。つまり入院経験がない以前にケアされた経験がないのだということに気がついた。そうか、はやいことジャングルはぬけだしてやさしくケアされて生きるのも一法だな、すぐボケるだろうけどなんて考える。打ったのは「αリボ酸+VB」と「高濃度ビタミンC」である。点滴しながら森嶌先生がベッドの横にやって来て、ある重要な相談をされた。実は今日来たのは患者としてではない、相談に乗ってくれと招かれたからで、でもそれがなければ点滴もしなかったわけで幸運だった。

内容はまだ書けないが、実現すれば画期的なアイデアである。こうやって血が騒ぐのはまだまだジャングルにいたいからでケア人生なんか到底無理ということも知る。どうやろうかと考えているうちにウトウトしてしまい、終わりましたと起こされたらなんとなくすっきりした感じはあった。帰りに処方されたのはツムラの漢方4種類(かなりの分量だ)、オメガー3、植物発酵由来LPS(リポポ酸)である。「先生、ありがと、来てよかったよ」お礼をいって日帰りしたが、新横浜で降りたのが失敗だった。22時なのに菊名までの混み方が半端じゃない。もう2度と使わない、品川にするぞ。

家族が2人も増えました

2018 DEC 17 1:01:30 am by 東 賢太郎

今日は玉川田園調布の交差点に近い「NPO法人 みなしご救援隊 犬猫譲渡センター」へでかけました。家内と娘が「8才の姉妹がいるよ、いい子たちよ」というので行ってみました。いきなり頬ずりしてきて手をなめられてしまい、即決でした。ウチには大事なノイがいるので、「慣れるまではケージに入れて様子を見たほうがいいですよ」というセンター長の佐々木さんのアドバイスにしたがい、すぐにペットショップで3階建てのケージを買ってきました。

名前はクロとシロだった

とってもおとなしい上品な姉妹です。前の飼い主さんは三鷹のかたで、きっと大事にかわいがっておられたのでしょう。ご高齢で施設に入られることになり引き取り手をさがしていたそうです。別れるのはおつらかったでしょうが、ウチに来てもらえば安心です。

子猫がかわいいというかたが多いのです。8才のメスのペアというとなかなか見つからず、かわいそうに9月からずっとセンターのケージで暮らしていたのです。ところが僕はふつうの人と反対で子猫より大人の猫のほうが欲しいからちょうどいいお年頃で、この出会いはご縁だったにちがいなし。家族から最高のクリスマス・プレゼントをもらいました。

さてちょっと心配はノイです。びっくりして「シャー」をやってしまい、机の下にかくれてしまいました。

でも、年下ではあるけれど、我が家ではノイが先輩です。そこは譲れませんからノイのきもちを最大限に尊重です。はやくなじんでくれるといいな。

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チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」

2018 DEC 15 22:22:49 pm by 東 賢太郎

幼いころ家族でときどき不二家へ行ったが、あれは銀座のどのへんだったんだろう。現在は数寄屋橋だがちがう気がする。たしか、入り口にでっかいペコちゃんがいて(こっちが小さかったわけだが)、レストランは2階でなく地下だったと思う。定番はお子様ランチなのだがそっちよりもデザートのチョコレートパフェを親父が機嫌よく頼んでくれるかどうかが大きなポイントだった。そのためだけに買い物中はいい子でいたりしたものだ。

最近はその心配がないのをいいことに、ファミレスなんかで巨大なのをどど~んと頼んでしまう。周囲が恥ずかしくなるのだろう、「東さん、こどもにかえってますね」と隣の席にも聞こえるような声でいわれるが、そうではない。チョコレートパフェはおいしいものなのだ。僕はチョコレートを混ぜたアイスや飲み物は好かないが、ソースとして、それも写真のように生クリームにトッピングするのは別格的に好きだ。カップの形状もいい。細長いスプーンで掘っても掘ってもまだ出てきそうで、もちろん最後は尽きるのだが、狭くて丸っこい底にチョコレートソースが名残惜し気にたまっているのをきれいに掬い取るエンディングも満足感があったのだ。

チャイコフスキーの「くるみ割り人形」にもスペインの踊りが「チョコレート」として出てくる。ヘンゼルとグレーテルをおびき寄せる魔女の家もチョコレート製である。この食べ物は子供をひきつける魔力があるのだ。子供といえばくるみ割り人形の「雪のワルツ」には児童合唱がでてくるが、そこにさしかかると難しい音符はひとつも出てこないのにふんふんと得心して楽しんでる自分に遭遇する。「あれっ、俺って子供に帰ってるのかな」と思わないでもない。どんな子供でもすぐに歌えそうなメロディーをくるんで優美なワルツに仕立てあげた、この誰の耳にも心地よい音楽は、子供の味覚世界を大人が腕を振るってヴィジュアルもわくわくさせるしゃれたデザート、チョコレートパフェさながらだ。

「雪のワルツ」の見事な舞台をご覧いただきたい。これが第1幕のエンディング、最後はホ長調で第五交響曲と同じ終わり方をするのだ。

フランクフルトからマイン川を車で40分ほど下るとマインツがある。活版印刷を発明したグーテンベルグが生まれた街だ。そこの州立劇場で娘二人にこの曲のバレエを観せたが、幼稚園児だった妹のほうがネズミが出てくると怖がって泣いてしまい、チョコレートパフェを与えたつもりがちょっと想定外だった。ヘンゼルとグレーテルの魔女もだめだった。今は昔だ。ドイツではその2曲は年末の子供連れ定番であり、忘れないようにとニュルンベルグのX’mas市でこいつを買って娘たちにプレゼントした(右)。彼は王子の化身であり、娘を驚かせたネズミと戦ったわけだが、今となってみるとなかなかレトロな置物に化けている。

この音楽をチャイコフスキーは童心に帰って書いたと単純に考えていたが、それがファミレスで僕にそう言ったみなさんと同じほどちがっていたということを12月12日にサントリーホールで聴いたフェドセーエフ/N響(B定期)における千葉潤氏によるプログラムノートで知った。

チャイコフスキーも(作者のE.T.A.ホフマンと同様に)このお伽話(とぎばなし)に切実な意味を見出したひとりである。旅行中に読んだ新聞記事で、彼は実妹アレクサンドラの死を知る。彼女は早くに亡くなった母親の代わりにチャイコフスキー家を支えてきた人物であり、嫁ぎ先の家庭はチャイコフスキーにとって第二の故郷であった。妹の死をきっかけに、チャイコフスキーは幸福だった幼年時代の想い出をこの物語に重ね合わせたに違いない。

そうだったのか・・・・

亡くなる前年の作曲だ。全曲はほとんどが長調で平明、素朴、明朗。翌年の悲愴交響曲と好対照であるが、妹のことが動機であったなら、どちらも底流のテーマはdeath(死)なのだ。たとえば、ヴァリアシオンⅠはどことなくカルメンを思わせる曲想だが、小序曲が終わった直後の第1曲 情景 (Scène) もカルメンの幕開きの女工たちが出てくる場面の雰囲気を感じる。このオペラの通奏低音も死であることは論を待たない。パ・ド・ドゥの第1曲アンダンテ・マエストーソのドシラソファミレドは第4交響曲の終楽章テーマで同曲の不吉な金管によるパッセージも顔をのぞかせるが、音階そのものの旋律はモーツァルトのお家芸で、チャイコフスキーはそれに「アマデウス和声」をつけているのも暗示的に思う。

組曲版は第1幕からの「小序曲」、「行進曲」で開始して、第2幕のディヴェルティスマン (Divertissement) をはさんで「花のワルツ」で閉めるというのがおおよその骨組みだが、作曲者が自作演奏会用に編んだ曲順はなかなか意味深い。彼自身が舞台に乗ったオーケストラで演奏してもよいと考えたのだから、演奏会形式は是とすべきなのだが、全曲ではチョコレート(スペイン)、コーヒー(アラビア)、お茶(中国)と踊りの脈絡で続くのが、踊りを無視した組曲ではスペインは省かれ、平明な音楽の中で響くアラビアの踊りの和声の妖しさを引き立てるためかトレパック(ロシア)に続く。「ジゴーニュ小母さんと道化たち」も省かれる。

「ヴァリアシオン II ドラジェ(日本では金平糖)の精の踊り」を3曲目に持ってきたのはチェレスタを聴かせたかったのだろう。彼はアメリカ楽旅の途中にパリでこの楽器を見つけて購入して、すぐにロシアへ送ってここで使ったのだ。選曲は小味な趣味の効いたもので、「行進曲」のあとは全曲盤のままディヴェルティスマンから終曲までを演奏すれば十分に良いようなものだが彼はそうしなかった。ちなみに、その「ディヴェルティスマンから終曲まで」をフェドセーエフが1986年に(旧)モスクワ放送交響楽団を指揮した演奏でお聴きいただきたい。いかがだろうか?

僕はこの演奏の「花のワルツ」(12分00秒~)が好きでよく聴いている。いいテンポであり最高にゴージャスだ。面白い、これはダンサーが踊れる「花のワルツ」であって、音楽が内包する踊るためのリズムや抑揚を見事につかんだ演奏だ(ダンスが目に浮かぶ)。この録音はロジェストヴェンスキーが振っていたオケの優秀さも出色(「コーダ」のうまさ!)で、録音の趣向で木管が良く聞こえるのがやや耳についたが慣れれば気にならないだろう。N響のアンサンブルがちょっと危なかった第4曲 踊りの情景 (Scène dansante) も見事。チャイコフスキーがチェレスタだけでなくこだわって散りばめた特殊音響もくっきり聞こえ、ロシア人が母国の天才の音楽に込めた愛情とプライドを感じる見事な演奏だ。ところが先日のフェドセーエフのライブは86才の年輪で慈しむがごとくにテンポが遅く、花のワルツは最遅の部類だった。だからこその演奏会形式だったと思い至った。フェドセーエフがなぜ敬愛するチャイコフスキーのこれを演じたのか。どこかに妹にこめた思慕を感じたんじゃないかと思いながら聴いた。

「花のワルツ」は古今東西最高級の名曲であって僕はこれをピアノで弾くことを今生の喜びとしている。以前のブログにも書いたが、だからワルツのテンポには少々うるさいのだが、最近は速めが趣味になってきていて、ジェームズ・レヴァインがウィーンフィルを振ったのが自分で弾くテンポになってきている。これは6分27秒で、前項のボニング/ナショナル・フィルよりやや速い。

ただしこれはワルツ主部の弦のフレージングに個性があってややしっくりこないし、このテンポはきっと劇場では(ダンサーには)無理なんだろうなと思ってきた。ところが今回youtubeでAshley Bouderというニューヨーク・シティバレエのプリマの動画を見て大変に驚いたものだ。これはレヴァインのテンポに近い速度で踊った、おそらく唯一の、トップクラスのダンスと思料する。

やっぱりアメリカ人は凄い、やる気になればやっちまうんだと称賛するしかない。ヨーロッパのクラシックな趣味からすればスポーティーに過ぎるかもしれず(僕にはダンスのことであれこれ述べる資格は皆目ないが)、十分に美しいからいいではないかと思う。オケも小味なリズムの刻みがいい味を出しておりレヴァイン盤より好みだ。ロシアとアメリカが組んだら恐るべしだ。

対極的なのをフランクフルトで買ったCDからひとつ。ドイツ人のレオポルド・ルートヴィヒがバイエルン放送交響楽団を指揮した組曲だ。何が面白いってこんなバリバリのドイツの田舎風くるみ割りはもう世界のどこへ行っても絶対に聴けない。中国の踊りの伴奏はまるで熊おどりだ。おしゃれとは程遠い花のワルツのダサいテンポ、聴いたことのない垢ぬけないホルン、これをまじめにやってしまう。いやすごいものだ。ご記憶いただきたい。これが昔のドイツ流だ。ベートーベン、ブラームスなら活きるのだから音楽は奥深いと思う。

 

(こちらもどうぞ)

チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」より「花のワルツ」

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野村證券・外村副社長からの電話

2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎

外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前の27才。コロラド大学エコノミック・インスティトゥートで1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだ。

「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」

一気に目がさめた。この時、外村さんは米国野村證券の部長であり、コロンビア大学修士で日本人MBAの先駆者のお一人だ。社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。なにより、留学が決まったはいいものの英語のヒアリングがぜんぜんだめで気ばかり焦っているような日々だった。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決したのだ。

「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」

ロッキー山脈にて

コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルのロッキー山脈の高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもう10年もやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。

その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで朝の飛行機に乗り、午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、キャッチャーのダンだと紹介されてサインを決めた。外人とバッテリー組むのは初めてだ。「俺は2種類しかないよ、直球がグーでカーブがチョキね」。簡単だった。フリーバッティングで登板した。ほとんど打たれなかったがアメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。

いよいよ日曜日だ。初めて知ったが、それは第七回日本クラブ主催軟式野球大会というものだった。試合はマンハッタンとクィーンズの間にあるランドールズ・アイランドで朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで僕が一番若い。初回、先頭打者にストレートの四球。2番には置きにいった初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、やばいと思った。鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。3番は記憶がないが、4番を三振に取ればマウントできると思って渾身の高めストレートで狙い通り空振り三振にとった。それで平常心に戻り、なんとか2点で抑えた。

投球フォーム

勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちます」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、相手投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。ダン捕手のリードが良くてカーブがまったく打たれず、後半はのびのび投げて被安打3、奪三振5で完投し、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭でも倒したみたいな騒ぎになった。

後列、右から3人目が僕

チーム全員(中央列、左から6番目)

午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。試験のことはからっきし記憶にないが、無事にウォートンへ行けたのだからきっと受かったんだろう。ということはシコシコ勉強なんかしてないで野球でサボって大正解だったわけだ。やれやれこれで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あって、フィラデルフィアからも2度アムトラックに乗って「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。

コロンビア大学ベーカー・フィールドのマウンドに立つ(1982年8月29日)

準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいにド派手なジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた(被安打2、奪三振5)。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。

 

外村監督が4位の表彰を受ける

残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。

大会委員長から「最優秀選手賞」のトロフィーをいただく

この大会の結末はというと、決勝戦は日本教育審議会とJALの対決となり、1965年の夏の甲子園1回戦であの平松政次の岡山東を完封した神山投手(日大二)擁する日本教育審議会が1-0の接戦の末に優勝した。JALのエースはニューヨーク・ヤンキースのテスト生で剛球左腕のオザワだった。もう試合を終えていた僕は客席で観戦していたが、この試合は緊迫したプロ並みの投手戦となり球場がかたずをのんだ。

試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表である。優勝投手の神山さんと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は神山さんが阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位である。聞き間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。

これを最後に僕が野球に呼ばれることはなかったから、これが引退の花道みたいになった。高2で肩・ひじを故障して泣く泣く野球を断念した人間だ、おかげでそのトラウマは薄れた。しかし、それもこれも、同じほど信じれられなかった外村さんの電話からはじまったことなのだ。これがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、今度は英国流にゴルフを何度もご一緒し、テニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。

そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目でお叱りもいただき、数えたらきりのないご恩と激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まるニューヨーク野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得されなんでも相談できる大先輩であり、第2に、延々とその話だけで盛り上がれる、野村には二人といない野球の同志でもあられたのだ。

きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、

「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」

「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」

が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、

東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村

とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、

外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。

とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。

12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。

寺尾聰「ルビーの指環」

あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どうして書く気になったんだろう?どこからともなくその気がやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本のお電話だったのかもしれない。

外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。

 

 

 

プロの投手と対決した思い出

寺尾聰「ルビーの指環」

2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎

先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。

調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。

ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。

しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。

なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。

合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。

38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。

寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。

歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。

枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・

それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。

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ワインを飲みながら学生時代に帰る

2018 DEC 4 23:23:19 pm by 東 賢太郎

顧問のK先生とワインを飲みながら伊賀の影丸の話に熱中してあれこれやってるうちに「横山光輝は影丸を中性的に描いたのが偉い」という鋭いご指摘があった。「敵役は醜怪な面相ばかりで女性っぽいのが善玉らしい」と。なるほどと思ったが、さらに「由井正雪もね」とくるものだから感動もひとしおである。

先生は1学年上で非常に有能な官僚、政治家、大学教授、将棋4段であられるが、影丸で盛り上がれるうえに「サインは V !」の戦後世代的考察があり、団塊世代から見下されるわが世代を論じつつ「宇宙少年ソラン」と大阪万博の「こんにちは」はそらで歌い、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチを唱和される(これは名曲だ)。

吸った空気は同じということだが社会に出るまでに乗り越えてきたものが同じということでもあり、そういう中においてなかなかこういう方は知らない。漫画を子供時代にそう見ているということは生身の人間もそう洞察してきておられる。わが身と似たものがあるのであってこういう部分で通じ合えるのは心強い。

通じ合えるというのは何でも話せるということでもあって、僕がここまで来たモチベーションは受験、出世のトラウマで今に見てろの馬鹿力だなど全部お話しし、狭い所がだめで飛行機も床屋もアウトでどう対処しているかなど「う~ん、けっこうめんどくさいね」となり、かなり酔って中村案件+ディズニーランド構想など経済産業省の規格外の大草案をぶってもなるほどとうなずかれる。

そこまで東北のルサンチマンなんてことから「東京もんだってある」となり、大阪赴任はカルチャーショック、『ええかっこしい』言われ、やってもないのに『にいちゃん、二度づけ禁止やで』だと反論、でもこれは言えない、言っても嫌われるだけ、でもいまや都鄙感覚は地理的ばかりじゃないとなり、ネット時代はどこにいようが知識で「都に勝てる」となり、地方創生は教育だとなる。

思い起こせば大学時代に下宿でこんなことを、はるかに低次元だが毎日のようにわいわいやっていた。いわば原点、心のふるさと。社会に出ると現実に締め付けられそういう馬鹿げた議論ができない。僕はそれを化石のようにまだ持っているが、誰もわからないから大変に寂しいし、ときに非常に疲れる。そこでアライアンスを組めた先生の存在は、精神の深い所で、実に大きいと思う。

 

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広島カープは来年も勝つ

2018 DEC 3 23:23:03 pm by 東 賢太郎

広島カープにとってFAは受難の歴史だ。大好きだった江藤、川口が、それも巨人に盗られるとなってどれだけ憤慨したか。だから今回の丸騒動で彼のグッズがユニホームからサインボールまで「売り気配」になったのもよくわかる。

あれから年月を経て、いまの気持ちをというと、野球人としての丸の思い切りを見守ってあげたいのが半分、カープの奮起を楽しみにしたいが半分だ。

前々回のブログを書いていて、なぜ僕が幼くしてカープファンになり、54年もそれであり続けたかわかった。「10倍になる株」探しが生来のライフワークだからだ。タナキクマル、誠也、松山、中崎、会澤、西川、屋台骨のセンターライン・クローザー・クリーンアップにドラ1はひとりもいない。みな「10倍になった株」なのだ。これぞ僕にとって魅力の源泉だったし、これからも変わってほしくない。FAで「すっ高値の株」をつかんで大損するなど、僕の美学からは最も恥ずかしいことである。

丸が出て行ってもこの「目利き力」が健在ならまったく問題ない。若い芽を見つけ育てて大輪の花を咲かす。こんな夢のある球団はない。芽は良いのにほとんど枯らしている巨人は常勝というノルマで集客を運命づけられた球団だからそれができない。だから今回はヒールになってでも丸が欲しかった。広島はたたけば全国でスタンディングオベーションしてくれる大物悪役が現れて、むしろラッキーと思ったらいい。

丸は悪役にしてほしくない。というのは巨人の提示内容は彼が一度しかない人生でのリスクテークを促すに足るものだったと思うからだ。プロである以上、残留したとしても、毎年やることはいっしょである。ぎりぎりの努力を重ねた選手だからどこでやろうと同じという割り切りがあったと思う。ならば野球に集中できる環境が大事であり、そこを巨人は担保したということではないかと愚考する。

田中は原監督、菅野の東海大相模だし、菊池、誠也、岡田、中村祐太は東京出身、会澤も茨城だ。丸の選択の影響がないとはいえないだろうし、黒田、新井が盛り上げてくれたカープ愛だがそれだけでは難しいというのが今回の教訓でもある。私事で恐縮だが僕も入社すぐ大阪に配属になって、今も第2の故郷、仕事の原点と感謝の思いが非常に強いが、終生そこに住むかどうかは別だ。

カープの「10倍になる株」探しは続くと信じるし、ドミニカ共和国に作った日本球界史上初のアカデミーなど、その育成システムは真の意味で堂々たるグローバル戦略だ。おためごかしの海外進出ではなく、少ない資金で最大の結果を得ようという血のにじむような努力、まさに僕らが野村證券で営々とやってきた「地に足の着いた、真にリターンのある海外戦略」である。徹底的に応援したい。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(オイゲン・ヨッフム)

2018 DEC 2 21:21:14 pm by 東 賢太郎

1983年にフィラデルフィア、1986年は1月にロンドン、12月にアムステルダムでのことだったが、最晩年のオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 – 1987年3月26日)の欧米でのライブ演奏に接することができた幸運を音楽の神様に感謝するしかない。彼はドイツ王道のレパートリーを二キッシュ、フルトヴェングラー、カイルベルト、ベームらと同様に19世紀の演奏解釈に深い脈絡のある伝統と格調高い様式で演じ、眼前で体感させてくれた。あの経験なくして僕のモーツァルト、ベートーベン、ブルックナーへの理解が現在のようになることはなかったろう。いわば双葉山、大鵬、北の湖の巨峰の列であって、こういう格の人の音楽を聴いてしまっていると、昨今の相撲界と同様で誰が出てきても小物感が否めなくなってしまう。加えて、日本はホール事情の問題がある。「本場の巨匠」やオケが来ても、ウィーン・フィルもドレスデンSKもチェコ・フィルも、あれでは彼らに出稼ぎ感覚になるなと言っても人間だから難しいだろうと思う。ギャラも食事もホテルも客席も。僕はひとりでドイツの歌劇場を普段着でめぐっていたが、モーツァルトやワーグナーやR・シュトラウスがああいう風に日本のホールで鳴るとは到底信じがたい。双葉山、大鵬、北の湖は地方巡業でなく国技館で観ないといけないのである。

ちなみに、事情は後述するが、ヨッフムはフルトヴェングラーの葬儀の際にベルリン・フィルでモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」(K.477)を演奏し(ハイデルベルク聖霊教会)、生誕百年記念演奏会をフィルハーモニア管弦楽団で振っている(ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。この人の演奏を聴くというのは司祭の典礼に列席する趣で、ヨッフム自身が儀式めいた重みを漂わせたということではなく聴衆と舞台の音楽家たちの醸し出す深い敬意がどの名演奏家の演奏会とも違う雰囲気を作っていた。

初めて聴いたフィラデルフィア公演の印象は鮮烈だった。ただし、上述の文脈からすればこれは出稼ぎの地方巡業だ。しかし、なにせ定期会員だったフィラデルフィア管弦楽団の演目が指揮者ムーティーの好みかドイツ物が少なく、会場の音響もデッドで僕の趣味からほど遠く、ヨッフムが連れてきたバンベルグ響のオール・ベートーベン・プロは選曲も音もまさに天の福音だった。レオノーレ3番が鳴るや否や、ああこれだ、これぞドイツの音だと電気が走り、ピアニストのベロニカ(令嬢)が4番の協奏曲を弾いたがインティメートな好ましさがこれまた脳天を直撃し、これを毎日でも味わいたいとないものねだりの渇望に襲われてしまう。7番はVnのボウイングにいささか驚いたが、砂漠のオアシスの如しで楽の音が五臓六腑に染み渡るとはこのことだった。このオーケストラは後にフランクフルトのヤーレ・フンダート・ハレで何度も味わって至福の時を過ごさせてもらうことになるが、この1983年10月9日を思い出さないことはなかったように思う。外国でいくつの演奏会に足を運んだか数えようもないが、これほど待ち望んで満ち足りたものはひとつもない。ヨッフムは大学時代に買ったギレリスとのブラームスPC、カルミナ・ブラーナのイメージが強くベートーベンは認識がなかったが一気に僕の中ではドイツ物の巨匠の地位になった。

 

ロンドンに赴任していた3年後にヨッフムがロイヤル・フェスティバル・ホールにやって来た。フィルハーモニア管弦楽団がゆかりの深かったフルトヴェングラーの生誕百年演奏会にロリン・マゼールを呼んでいたが、体調不良でヨッフムが急遽代役になったのである。その旨がプログラム右上に記載され、ヨッフムから「急なことで準備の時間がなく、予定されていたブラームスの交響曲第2番をモーツァルトのジュピターに差し変えることをご了解いただきたい」ともある(僕としてはブラームスを残してベートーベン7番を変更してほしかったが)。面白かったのはフィルハーモニア管でも7番第4楽章第1主題の第1Vnを各プルトがスラー有りと無しに分かれて弾いたこと(この効果はLPOとの録音ではよく聞き取れないが)。ヨッフムのジュピターは良かった記憶がある。81年にウィーンフィル定期演奏会の初日で振ったライブ録音(下)があるが、こちらもかように素晴らしい演奏になっている。

この年、ザルツブルグ音楽祭の最中にカール・ベームが逝去し、9月20日のオープニング公演はヨッフムにゆだねられた。最初の「フリーメイソンのための葬送音楽」の最後に1分間の黙とうがありそれも録音されている。彼は期せずしてフルトヴェングラーとベームの生誕百周年と追悼を任された指揮者となったが、ウィーン・シュテファン大聖堂におけるモーツァルトの命日ミサ典礼も指揮しており(1955年12月5日)これは僕の生まれた年だ。

最後にヨッフムを聴いたのは1986年12月4日木曜日、底冷えのする真冬のアムステルダム・コンセルトヘボウでのことある。僕はロンドン赴任時代にオランダの投資家も担当しており、月に一度はオランダに出張していた。ところが丁度この頃にアムステルダム現法に日本人担当者を置くことが決まり(オランダは膨大な年金の運用資産があり野村にとって重要なマーケットだった)、その引継ぎで後任を紹介する出張の折にこれを聴いたのだ。

これはヨッフムの生涯最後のコンサートでもあったようだが、僕にとっても生涯忘れがたいコンサートになった。「ようだ」というのはTAHRAの解説にin his last but one concert on 4 December 1986とあるからで、とするとこのCDの演奏は12月3日のものということになり、CDの記載は「3&4 December」だから2日間の録音を編集したものだが3日がメイン(少なくともこの解説者はそう思って書いている)ということになる。僕が聴いたのは4日で、だからそれはヨッフムの生涯最後のコンサートであったということになるのだろう。

聴くほうも集中しており疲れていたが、足がおぼつかず階段を登れなかったヨッフムが最後の力を振り絞ったアンコールが終楽章とは驚いた。ヨッフムはスコアにない金管を増強(記憶ではHr4,Tr3,Trb3,Tuba1)していたが、そうしないと奏者は肉体的負担が大きく終楽章のコラールが天界に響き渡るほど豪壮に鳴ることはない。彼らには受難だったかもしれないが、オーケストラにとってもヨッフムにとっても、もしかしてこれが最後という思いはあったと思料する。そうでなければこんな音楽は生まれないだろうというほど稀有な演奏で、こういう質のものは「聴く」という言葉では浅く、「参加する」「体験する」とでも書くしかない。ヨッフムはこの3か月後に亡くなった。

この演奏会が録音されていたとは驚きだが、TAHRAからCD(右)になって出たときは嬉しかった。コンセルトヘボウの音響を見事にとらえており、あの日の情景がよみがえる(彼の顔をちょうどこのビデオの写真の角度からみる位置の席であった)。クライバーのブラームス4番とともに、自分史の生きた記録となった。

この演奏のCDはそこかしこで絶賛されているが異論はない。よい装置でかければ「体験」を実感していただけるにちがいない。

 

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