長野選手が人的補償で広島に移籍
2019 JAN 8 1:01:20 am by 東 賢太郎
長野選手が丸の人的補償で広島に移籍。これは驚きました。外野は丸、陽、ゲレーロ、長野、亀井、重信。4億円複数年契約のゲレーロを使う必要があり、陽か長野かで落選したとすれば、昨年にマギーをとって村田を落としたのと重なる気もします。実力社会というなら芸能界もそうですが、あちらは64才になっても紅白で歌える。アスリートに円熟という言葉はなく、あるなら旬です。
内海のケースもあったわけですから、プロテクトから外したということは巨人には「未必の故意」(まあそうなってもいいんじゃね、というきもち)があった。旬は過ぎたと判断されたのでしょう。3年浪人するほど惚れた球団のその故意をどう心の中で消化するかですね。いいじゃないですか長野も内海も、これで日本中から大注目されるし、なにくそと活躍すれば一気に全国区で男をあげますね。日本人はそういう人を応援するのです。
一方で、自ら出て行った丸への広島ファンの喪失感よりも、功労者2人を引き抜かれた巨人ファンの心のダメージのほうが大きいでしょう。炭谷と丸への視線も内外で厳しめに変わってくるでしょう。丸はそれをはね返すプレッシャーに耐えなくてはいけませんが、逆に長野は広島では大歓迎されるはずです。カープファンはあったかいし、緒方監督と同郷だし。新井のような立場になって4連覇でもすれば、今やカープは黒字球団だし野球人としては巨人でフェードアウトするより絶対に幸福になれます。大チャンスです、心からおめでとうと言いたい。
経済的なことは忘れてFAが誘因となったトレードと見れば、巨人は
丸佳浩外野手(広島からFA)
炭谷銀仁朗捕手(西武からFA)
中島宏之内野手(オリックス自由契約)
岩隈久志投手(マリナーズ退団)
を得て、重鎮クラスの内海と長野を失った。あんまり成功には見えないですね。
捕手は小林を左打ちの大城と宇佐美が追っていて、去年の印象として大城は他球団ならレギュラー、宇佐美は育てば阿部並の素材ですよ。そこにおじさん阿部も最後は捕手で終えたいなどとわがままいってかぶさってきて、これは紅白歌合戦で大物がトリやりたがるのといっしょ、実に巨人軍的であって若手は本当に不幸です。さらにそこに炭谷って、本音は二人はFA補償で指名されたかったんじゃないか。
中島、岩隈はどうでもいいです。多少はやるだろうが大きな要因ではないです。すると丸と長野のプラスマイナスがポイントですね。才能はいい勝負、長野は5才トシをとってる。ドームの広島戦は熱くなるでしょうね、楽しみです。
(PS)
きのう、長野移籍のニュースに興奮さめやらぬ我が家で何げなくついていたTV。日テレジータスの「徳光和夫の週刊ジャイアンツ」がはじまります。
大のジャイアンツファンである女優・中原ひとみがゲストでした(この方、女性にしては凄く詳しい)。話の流れからどうやら丸選手の移籍が決まる前の録画のようだ。中原さん、巨人をほんとに愛してるみたい。そこで一抹の懸念が走り、僕がこう言いました。
「おい、これ、大丈夫か、中原さん長野のファンだったりして」
「録画だからカットできないよ」
「でもまさかね」
なんて盛り上がっていきます。
TV
「巨人の外野は大変ね、丸さんが来てくれたらどうなるんでしょうね」(中原)
「そうですよね、長野なんかどこ守るんでしょうね(余裕の笑い)」(徳光)
ウチ
「カープのセンターです」(爆笑)
TV
「ところで中原さん、誰のファンなんですか?」
「私、イケメン好きなんですのよ、石川君とかいいわね」
「ほお、坂本は?」
「若い人好みのイケメンね」
「小林とか」
「ええ、ちょっと昭和のイケメンって感じ」
「とすると・・・?」
「実はわたくし、長野選手の大ファンなの、ずっと!」
ウチ(激震が走る)
TV(長野の大アップが映る)
「やばい、本当に出てしまった」(大爆笑)
ここで長野選手の活躍シーンのダイジェスト版が延々と流れTVは大いに盛り上がる。ウチは「よりによって今日これ流すか?」「中原さん、今ごろ寝込んでるね」と、一応東京ドームで見せていただいている身として巨人ファンに同情の気分になっている。
「週刊ジャイアンツ」は様々な角度から楽しめる素晴らしい番組です。
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僕が聴いた名演奏家たち(ニコラウス・アーノンクール)
2019 JAN 7 22:22:16 pm by 東 賢太郎
ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt、1929 – 2016)はオーストリアの貴族ウンフェアツァークト伯爵家の長男であり、ウィーン国立音楽院(現・ウィーン国立音楽大学)でチェロを専攻、卒業後1952年から1969年までウィーン交響楽団にチェロ奏者として在籍した。わが国なら宮様が芸大を出てオケに入りましたというところだが、それで終わらず古楽器オーケストラ「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を立ち上げて指揮者になった。
僕は古楽器演奏ムーヴメントにはアンチだが、そうなった一翼は彼の演奏への幻滅も担っている。マタイ受難曲はカール・リヒターで覚えたので違和感があった。アーノンクールのバッハは学究的でプログレッシブ(progressive)と思い忌避していた時期もある。しかし、僕が古楽嫌いになったのは実はそのせいではなく、後に雨後の筍のように出たピッチの低い古典派のせいだった。ブリュッヘンの「ロ長調のジュピター」に衝撃を覚えて以来だ。
人には長年かけて培った音感がある。モーツァルトが今のロ長調で作曲したのだったとしても音感を矯正するのは不可能だ。我々が彼に近寄るのは、もし18世紀に生きていたらという試みなのであり、それが何らかの意味を持つならば、もし彼が我々に近寄って今のオーケストラを知ったらという試みだってあり得るだろう。どちらであれ、モーツァルトは聴衆の心をつかむ方を選択するタイプの人間であり、ハ長調でも受けがいいなら文句は言わなかったと思う。
私見ではアーノンクールは学者よりも演奏家である。それも熱いハートのある。楽譜の魅力の根源を突き詰めていくと、背景には歴史のパラダイム、すなわち宗教、政治、社会、風俗、美意識、階級、風土、慣習、様式、楽器の種類、特性などが横たわっており、演奏しようと思えば制約条件として無視できないゆえにそれらを演奏行為と同等の重みをもって解釈に取り入れた人だと思う。その考え方はバッハに限らずロマン派でも近現代音楽でも大なり小なり無視できないものであって、そのこととピッチを半音下げることとは決して同じ行為ではない、ここは重要だ。
音楽におけるauthentic(歴史的に真正の)とは楽器の製作年代やピッチやヴィヴラートの忠実な再現、模倣であっても字義的に間違いではないだろう。ドイツ赴任時代にアイゼナッハのバッハ・ハウスで一日過ごしたのは忘れられないが、しかし、そこに展示されているバッハ時代のヴァイオリンやガンバを鳴らしてみるだけなら博物館のショップに売ってる土産物のCD以上のものではないという事実のほうが僕は重要だと思う。authenticな楽器を使おうと使うまいと、聴衆の心を打たない演奏はそれなりのものでしかない。
ブランデンブルグ協奏曲第6番について語っているこのビデオは面白い。ここから多くを教えてもらった。
当時までヴィオラは伴奏楽器で主役(ソロ)の場面はなく、ガンバは旋律楽器でもあり主役というのが常識だった。6番でバッハはそれを逆転したのであり、アーノンクールはそれをプロレタリアート(ヴィオラ)による市民革命だと表現している。学者は6番を6曲のうち最も保守的だとしているが、だから、彼は弦の書法において最も急進的だと述べている。テンポ・ルバートはロマン派の発明ではなくバロック時代のものとも語っている(実際に6番でそれをきかせている)。彼も学者だが、なにより演奏家であるゆえの包括的な洞察であり、現場のリアリズムからくる見解でもある。
僕は彼の厖大な知識と教養からくる多面的な譜読みに対し、常に納得はしていないが、少なくとも一理あるものとして傾聴はしている。マタイを初めて聴いた頃からこちらも変化している。私見では演奏家は一種の霊媒であるのが理想であり、数世紀も前に死んだ人の意図を当時のパラダイムのまま理解、咀嚼したうえで、それを21世紀のパラダイムに変換してオリジナルな意図通りのメッセージを現代人に伝える人たちだ。記号に過ぎない譜面を字面どおりに音にする職人ではないわけで、それが左脳的作業であるなら極めて右脳的なものだ。前者の能力は訓練で誰でもある程度は獲得できるが後者は直観やひらめきのようなもので誰でもあるということはない。
その変換とは、わかりやすく言えば大河ドラマの「時代考証」に近いが、困ったことに史実に忠実すぎると現代人には理解できず、現代に寄りすぎれば史実と乖離する。だから考証を第三者(歴史学者)が頭で考えてやるのはだめなのである。霊媒型を僕が理想とするのは、モーツァルトの霊が乗り移って「なりきって」しまえば、姿形が違おうと怖いものはない、強烈なオーラとインスピレーションで聴衆を引っ張りこむことができるからだ。何かオカルトめいて聞こえようが、コトバを言霊と呼ぶように、音楽演奏にも多分にスピリチュアルな要素があって、それが伝わった時の感動は尋常でない経験を何度もしているからだ。
アーノンクールの学んだウィーンの古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト)にそれは感じたことがない(モーツァルト40番の緩徐楽章のテンポぐらいだ)。氏素性や育ち、教育で霊媒になれるわけではない、テンペラメントがその誰とも違うということだ。なりきれたのはやはりJ.S.バッハであったと思う。彼の「クリスマス・オラトリオ」は名演でこの曲の筆頭の愛聴盤となって久しい。新旧あるがこのビデオはアーノルド・シェーンベルク合唱団との新盤(右)の冒頭だ。全曲をおすすめしたい。
晩年に至ってチューリヒ・オペラでヴェルディまで振った彼だがきいていない。一度だけ彼を聴くチャンスがあったのは1997年7月11日にチューリヒ・トーンハレでヨーロッパ室内管を振ったブラームスの交響曲第1番と2番だ。友人2人とゴルフをして夜にホールに行った。あまり期待していなかったが、流れが良くてテンションの高い1番は会場を大いに熱くして意外であった。曲想に沿って攻めるべきところはぐいぐいとアップテンポで攻め快哉を叫ばせる。僕の趣味のアプローチではないが、冒頭に書いた「アーノンクールは学者よりも演奏家である。それも熱いハートのある」という印象はこのライブで得たものだ。彼はブラームスに強い共感があって、きっと「なりきれる」作曲家だったのだろうと確信する。
古楽器のイメージのせいだろう彼のブラームスは正当な評価をされていないが、あのライブが当日の聴衆を熱狂させたのは証言できる。チューリヒの聴衆は耳が肥えていて日本人のように何でもブラボーなんてことはない。ショルティが人生最後のマーラー5番を振った時(このブラームスの2日後、7月13日だった)に劣らぬ喝采だったのだからTELDECがベルリンフィルと交響曲全曲を録音したのも無理はない。
さらに良いと思うのは、ルドルフ・ブッフヒンダーをソリストにしたピアノ協奏曲第2番変ロ長調である。このピアニストの弾く同曲はフランクフルトでホルスト・シュタイン/ バンベルク交響楽団という、いまになると我ながら羨望すら覚える組み合わせで聴いて心の底から感動していたからそれもある。アーノンクールとのCDは伴奏がコンセルトヘボウ管でこれがまたすばらしい。終楽章の最後のアップテンポだけは少しやりすぎで交響曲のアプローチと同じだが、コクを求めなければ痛快であり、おおむね満足できる出来だ。ノン・ヴィヴラート気味に聞こえるが第3楽章のチェロ・ソロはかけている。第1楽章をお聞きいただきたい。
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チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の聴き比べ(3)
2019 JAN 6 13:13:24 pm by 東 賢太郎
エーリヒ・クライバー / ケルン放送交響楽団
この演奏のどこがどうのと言っても始まらない。音質もモノラルで良くない。1955年3月、クライバーが世を去る1年前の壮絶な記録で、ライブゆえ第1楽章で弦が乱れファゴットが音を間違えているが、そういうことをうんぬんすべき演奏ではない。アゴーギクの大きさは金輪際聴くことの能わぬもので、名優の一期一会の悲愴に組み伏せられる思いがする。これを初めて聴いて、まったくもって圧倒され眠れなくなったのは終楽章コーダのVnの血のにじむような慟哭だ。凄まじいばかりで、こんな胸をえぐられる音は他に聴いたことがない。スコアにチャイコフスキーが封じ込めた情念はこうだったかもしれないと何度も聞き返した。真に有能な指揮者がいかなるものか、古い録音を忌避していては永遠にわからない(総合点:5)。
(付記:終楽章コーダのVnをよくお聴きいただきたい。最初のシを「タータ」と弾かせていることを!これは第2楽章中間部のリフレーンであり、チェリビダッケはここにティンパニを加えることで同じ趣旨の主張をしているのである)
エーリヒ・クライバー / パリ音楽院管弦楽団
こちらは1953年のスタジオ録音だ。クライバーの悲愴というと一般にはこっちのことをいう。技術的に破綻はなく録音もこちらのほうが良い。しかし、同じ指揮者と思えぬほど何のこともない演奏で、終楽章コーダのVnは「タータ」でなくスコア通り。第3楽章の2度目のマーチは55年盤も減速するがこちらは直前でやや加速してから落とす。コーダでのテンポ操作も恣意的に聞こえる。この程度ならもっと良いものがいくらもある。ここから上記盤までの2年間に何があったんだろう?(総合点:2)。
ヤッシャ・ホーレンシュタイン / ロンドン交響楽団
1967年5月17&18日 ロンドン。キエフ生まれのユダヤ系ロシア人、ホーレンシュタイン(1898 – 1973)の録音はオーケストラに恵まれず実力の割に印象が薄いがこの悲愴はLSOを得てそれがない。一聴すると何もしていないオーソドックスな解釈に聞こえるが、実は読みが深い。通常は第1~3楽章に束の間のロマン、安息、華やぎがあるがここではそれをそぎ落としてむしろ鎮静が支配し、時折響くティンパニが暗さを暗示する。第2楽章中間部のあえて味つけのうすいリズムの単調さは葬儀さながらで、第3楽章の遅めのマーチはマーラーの軍楽隊のカリカチュアを連想させ、終結部は僕には死にゆく(自殺だが)自己の運命への嘲笑にきこえる。終楽章は的確なプロポーションを守り、テンションと絶叫で無用にあおったりしない。これによってコーダ主題は実は終楽章第2主題が短調に化けたものであり、この交響曲はソナタ形式が再現部で中断してフェードアウトで終わってしまう異形の構造なのだという強いインパクトが残るのである。それが自身の死を暗示したメッセージであるという。何も考えてないムードで流すだけの演奏とは雲泥の差。ホーレンシュタインの研ぎ澄まされた知性の証だ(総合点:4.5)。
テオドール・クルレンツィス / ムジカエテルナ
古楽器(風)演奏がロマン派、近代まで進出して久しいが、そのフロンティアは今どこなんだろう?ヘンツェがBPOを振ったステレオ録音があるのだから1960年以前ではあるだろうが不明だ。それも、オーセンティシティの由来が楽器なのか奏法なのか解釈なのか?釈然としない。どうも、新興のEV対策でトヨタが仕方なく出したハイブリッド車みたいな感じがぬぐえない。あるいは羽田空港国際線ターミナルにある「日本橋」の縮小レプリカや、「江戸東京博物館」の類だ(あれはあれで面白いと思うが)。チャイコフスキー指揮の初演の録音なら何十万円払ってでも聞いてみたいが、その頃の楽器ですよ、当時の奏法は研究によるとこんなでした、解釈はまあだいたいこんなんじゃないでしょうかね、なんてものを、学者や演奏者が何日かけてまじめに検討しようが、僕は新風として受け入れるほど音楽においては柔軟ではない。これが古楽器なのか古楽器風なのか、古楽器演奏の思想やエレメントを包含した何か新しい現代オーケストラ演奏なのか、僕は興味も知識もないので不案内だが、聞こえてくる音以外には何もない。ずいぶんおお真面目に考えた風情はあり、元気のいい演奏とは思うが、聞いた後に何も残らない。そんなことよりもっと大事なことがこの曲のスコアには書いてあると思う(総合点:1)。
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まったくとりとめもない正月
2019 JAN 5 16:16:23 pm by 東 賢太郎
新年早々不景気な話ではありますが、多摩川を超低速で半年ぶりに走ったら今日はまたヒザがおかしく、どうもいけません。さっそくホテルのフィットネスに申し込み、ビックカメラでフットマッサージ器、ぶるぶるマシンなどを購入して対策は講じてみましたが不安です。
年末に忙しかったのもありますが、この2年、あまりに多くの大事な人を僕は失いました。ほとんど一気に、怒涛のように喪失感に飲み込まれ続けてきた感があります。立ち直っては打たれ、また打たれで、自分でも戻れたかどうか分からないままどこか心身にひずみが来ているのかもしれません。
この年末年始はかつてない軽さでさくさくと過ぎたのもその印象を倍加します。お正月気分は皆無。2日にはマッサージに行って担当のHさんに3時間、頭を空洞にして帰ります。3日はステーキ屋に行って300g、まだ若いと確認して帰ります。いろいろ思いつくまま、少しづつ心を軽くしていくしかありません。
異界にいざなってくれるのはミステリーかなということで、女流クリスチアナ・ブランドの「ジェゼベルの死」を読みましたが、原文がそうなのか翻訳がだめなのか、殺人現場である舞台の情景描写があまりにへたくそ。フーダニットなのに思考材料のピースがわけがわからずストレスがたまるばかりでした。
僕は女性の書いた地図は弱い。ことごとくわからない。言葉で説明を求めると往々にしてもっとわからない。この書は両人が女性でそのせいかなあと思って読んだ次第。やはりクイーンのオランダ靴がなつかしい、偏見と言われようが何だろうが、あれは男しか書けませんね。ああいうのが読みたいなあ。
TVは特集で観た大谷翔平。彼の全本塁打22本は痛快で超ド級、投げながら松井秀喜の本数を抜いたというのは凄まじすぎ。投球では51回で63奪三振は凄すぎ。球速でメジャー第3位、打球の初速で9位、新人王は当然ですね。米国人を彼ほど力でねじ伏せ、なぎ倒した日本男児は歴史上彼だけです。国宝。
彼はケガがなければ100億円プレーヤーになるでしょう。それだけ客が払って見に来てくれるという道理があるのであってもらいすぎでも何でもない。彼の球が速いといっても草野球の投手より50%速いだけだから、平均年収500万円に対して750万円もらえばいいだろうという人は共産国にもいないでしょう。
余談ながら、去年僕はドームで30試合ぐらいは観ましたが、すべての投手の投げた剛球の1位は菅野でも則本でもなく、二軍戦で投げた巨人・カミネロの外角高め154キロのボール球でした。あの威力は凶器、二人は殺せますね。それでも彼はクビなんです。人間おおいに差があるしトップレベルの僅差は大差です。
駅伝は青学強しで、なんとなく僕の判官びいきに火がついて東海大、東洋大を応援。国士舘の2区、ヴィンセント君の力走には感動しました。この競技、ゴルフのストロークプレーと同じでダボをたたかないゲームですね、つまり10人が5-6位なら優勝、青学はダボ2つで2位。野球なら打線のつながりですね。
4日はソナー社員7名で恒例の日枝神社お参り。11時前でしたがいつになく待ち時間なしでスムーズでした。ここでランチが創業来。去年S君とたまたま山の茶屋のウナギを食べたので今年もと、宮川さんでいただきました。ウナギは夏という思い込みの逆張り精神、大好きですし、現に本来は冬がうまいのです。
今年は相場がup-downして面白くなりますね。猫も杓子も儲かるなんてのは我々にはつまらない。あんまり下がらないボトム圏の株で上昇余地が大きいのをさらに安く買いたいので下げ相場は歓迎なのです。米中摩擦で中国も下がってます、チャンスですね。
まったくとりとめもない正月でしたが、これが現実だということで。
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2019年、ひいたぞ「大吉」
2019 JAN 2 11:11:14 am by 東 賢太郎
皆さま、明けましておめでとうございます。
今年の元旦は晴天に恵まれましたね。富士を拝みながら例年どおり父(95才)を囲んで心斎橋「鶴林 よしだ」さんのおせちで家族平穏にスタートいたしました。宇佐神社のおみくじは今年は「大吉」。勝負の年ですね。皆さまは元旦、いかがお過ごしでしたでしょうか。
昨年は早々から厄災がいろいろあって頭がいっぱいであり、過労で倒れていてもおかしくなく、不安になって検診に行った時期もありました。12月に入ってまた急場がやってきて同様になってます。健康が唯一の取り柄だったのですがそれも危険水域だったようで、点滴を打たれて自信がうせてきました。
「自然体で無理せず」のモットーが崩れたのがいかんですね。この仕事は「戦況」が日々転々とするので、それに振り回されると第1次大戦のドイツ軍みたいになってしまいます。しかし守る立場でもなし、米国のように不干渉でいられる余裕もなしなしです、一個師団+友軍で西部戦線突破といきたいですね。
正月ですから今年の相場について少々。波乱になるでしょう。米中のコンフリクトは最低2年は続くと見ております。ということは世界経済の成長率の下方修正要因であり、世界の中銀が利上げ姿勢で臨めば株やビットコインで浮かれられた環境でなくなるのは確実です。僕は今年の投資のキーワードは「技術革新」と「バリュー」になると確信しております。
たまたまわが軍は中村修二先生のノーベル賞最先端革新技術と、バリュー投資で日本一のノウハウとデータを有しています。もしそういう環境がやってくるとすればこの波乱はチャンスであり、いつやるの?今でしょ、という時の利を得ています。「大吉」のご加護もありますしこんな条件の新年はもうないでしょう。指をくわえて見ていても失敗しても同じこと、ここは一気呵成にやるしかありません。
となると、僕の今年の目標は明白です。
「無病息災」
であります。ここで倒れては一巻のおしまい。「自然体で無理せず攻める」のは難しいのですが、これは8割の力でスナップの効いた回転のいい球を投げるということ。食を制して運動はフィットネスかヨガかジョギングかと普通のことになりますが、やることが大事、やります。
もうひとつ、ノイであります。年末に年上が2匹もやってきてしまいました。プライドの高い姫であり、自分からは近寄らないし、寄られるとウーと低く唸り、ときにシャーが出てしまいます。それでも気になってときどきリビングを覗きに来ます。「もういないだろう」という感じで。それが必ずいるし、しかも可愛がられているものだからすねていて、後ろ姿が寂しそうです。これはまずいと思って集中的に遊んでやったらちょっといい感じですね、これだ、これでいこうということで。猫もいろいろ大変なんです。
最後に、同年輩の皆さまにおかれましても無病息災に越したことはありません。今月に再度、漢方の神山先生と統合医療の森嶌先生による巨頭会談をセットしており、東洋医学と西洋医学を融合した新しい実践的な健康サポートのコンセプトを共同で構築していただくプロジェクトを企画しております。成果はいずれ当ブログ、Nextyleの動画などで公表しますのでお役立てください。
それでは、皆さま本年もよい年でありますようお祈り申し上げます。
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今年のプライベート5大ニュース
2018 DEC 31 22:22:09 pm by 東 賢太郎
2018年のプライベート5大ニュースです。
1.ヒザが痛い
体重が増え筋肉が落ちただけといわれる。
2.右目に飛蚊症
左目はすでに飛んでおりバランスがとれる。
3.猫3匹体制に移行
マネジメントは苦労するも精神的な貢献は大。
4.巨人軍の応援歌が歌えるようになる
年間シートの効果。ただしタオル回しはやらない。
5.社業は年末に切り返す
二段目ロケット噴射の時期に来た予感。ここで一気に成層圏へ突き抜けたい。
今年のおみくじは「小吉」で、そのとおりの1年でありました。仕事の環境は前半が大変に厳しく、そのぶんよく働きましたが仕事以外の記憶はあまりない年になってしまいました。9回裏に逆転アーチが出て上り坂ですが、体力は下り坂。これをどうするかが来年の最大の課題です。
それではみなさん、よい年をお迎えください。
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猫語と第九交響曲の関係について
2018 DEC 31 10:10:33 am by 東 賢太郎
去年の年の瀬にこういうものを書いていました。
まったくそのとおりなのですが、今年ウチに来てくれた猫、シロとクロの “言葉” をきいて、これも語学であろうと思ったのです。猫はいっぴきいっぴき、言葉が違うのです。というのは、野良猫を見るとわかりますが、猫同士はほとんど鳴き声で意思疎通はしません。鳴くのは「人間用」だからです。
ではなぜ鳴くか?人間に何かをさせたいからです。エサをくれ、遊んでほしい、甘えたい、放してくれ・・・と人間を支配するための信号であって、どんな音を出せば我々がどう反応するかを彼(女)らは注意深く観察して記憶しています。これを僕はクロ様の「長鳴き」(かなり長い)で気がついた。信号にはけっこう個体差があって、どこか似てはいるものの、それらを一元的にネコ語であるとして文法的類型化はできそうもありません。
でも、わかるのです。いっぴきいっぴき、何をいいたいのか・・・。
これはおそらく、ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって、それがいっぴきごとがしゃべると別々の方言にはなるのですが、たくさん聞いていると枝葉が取れて幹だけが伝わるようになるのです。
それはクラシック音楽に似ています。と突然に言われてもどなたもにピンとこないでしょう。ご説明します。僕はべートーベンの第九交響曲のディスクを58枚持っていますが、その第1号は大学1年の年末に買ったクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のLP(右)です。全くの初心者であった当時として、演奏者は誰でもよく、5番(これは第3号)と2枚組で1800円と少し安かったからこれを選びました。
ところが調べてみると、翌年の2月に2枚目の第九としてリスト編曲の二台ピアノ版(左)を買っています。当時、この曲は「合唱付き」と副題をつけてレコードが売られており第4楽章の声楽こそが目玉でしたが(今でもそうですが)、僕はそれは無視だったわけです。理由は簡単で、マズア盤を聞いてもこの曲がよくわからなかった。むしろ歌が邪魔でオーケストラがよく聞こえず、輪郭がつかめなかった。そこにいいタイミングでこのLPが出て、第九の「幹」だけを知りたくて飛びつきました。僕は第九をピアノで覚えたのです。
この方法は、「ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって」、という感じにとても似ています。標準の文法さえつかめば枝葉の違いは飛び越えておおよそが理解できる、それは理屈ではなく感性なのでうまく説明できませんが、たとえば英単語でラテン語っぽい接頭語や接尾語をまとめて覚えてしまうと初めて見る類語がすいすい理解できる、それに近いでしょう。利点はとにかく記憶が速いことで受験などには有利です。
ところで、ブラームスは22才の誕生日をデュセルドルフのシューマン家で迎え、14歳年上であったクララとこのリスト編曲の「第九」二台ピアノ版を弾いています。
「それは素晴らしい響きがした。続く数日間というもの、真の喜びを味わいながら、毎日毎日、それを弾いた」(クララの日記より)
演奏しているコンティグリア兄弟はマイラ・ヘスの弟子で、無味乾燥のリダクションものではなく独自の音楽性を感じます。ピアノはボールドウィンSD-10でリッチな低音と高音の輝きが第九にとてもふさわしい。僕の原点です。お聴きください。
さて、もう一つの原点である上掲のマズア盤ですが、録音は1973年で今聴いても悪くないです。彼の最初のLGOとの全曲録音で、合唱団はライプツィヒ、ベルリン、児童合唱団がドレスデンと当時のオール東ドイツの布陣で、独唱も新人だったアンナ・トモワ・シントウにペーター・シュライヤー、テオ・アダムと最強。その割にエキサイティングなパンチ力には欠けますがオーソドックスな安定感は捨てがたい。終楽章、児童合唱のピュアなソプラノパートはなかなかです。弦だけの歓喜の歌にからむファゴットのオブリガートはスコア通り1本で、これで覚えたので2本版は僕は非常に違和感を覚えますし(セル盤は優れていますがその1点だけで聴きません)、主旋律とユニゾンとなる部分の美しさはこれを凌ぐ演奏を未だに聴いたことがありません。ドレスデン・ルカ教会の豊饒な残響も最高で、これでドイツ音楽の醍醐味を知りました。おふくろの味の第九というところです。
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エマ・ドゥ・コーヌ(Emma de Caunes)
2018 DEC 30 22:22:58 pm by 東 賢太郎
エマ・ドゥ・コーヌ(Emma de Caunes、1976年9月9日 – )は、フランス共和国の女優。
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今年の演奏会ベスト5
2018 DEC 30 16:16:27 pm by 東 賢太郎
第1位
第2位
第3位
第4位
第5位
クリーヴランド管弦楽団演奏会を聴く(天皇、皇后両陛下ご臨席)
法学部卒ですから経済学を知らず、ウォートンで習って初めて知ったことがたくさんあります。会計学がそうで、簿記も知らなかったからそれも含めて英語でゼロからであって、いまだに会計用語は日本語の方をよく覚えてません。経済学でも「限界効用価値逓減(ていげん)の法則」なんてのでがそうで、英語で law of diminishing marginal utility というのですが、これも英語のほうがロジカルで数学的にわかりやすい。日本語は限界、効用価値、逓減の定義がよくわからんのです。一個でもわからんとロジカルにはわからない。それでアバウトにわかった気になる人は例外なくロジックに弱いです。
逓減と低減とどう違うのか?なにやらぼわっとした「文学的要素」が入る気がして、要はそんなものどっちでもいいのですが、この訳語を考案した御仁の趣味の問題であって、僕はそういうつまらない恣意の雑音が入るとロジカルな概念を理解できなくなる頭の構造なので英語のほうが断然よかったのです。逓減には低減にはない漸減という時間概念がはいるという工夫は評価するが、英語はそれをmarginal でロジカルに誤解なく示すわけで、その仕事をdiminishにはさせないのですね。それならなぜ漸減にしないの?と、まあ、この提案を含めて訳者のどうでもいい趣味としか言いようがない。僕は彼に何のリスペクトもないですから、そんなのを押し付けられることに頭が反発して学習意欲もなくなるのです。
要するに「ビールは一杯目が一番おいしい」なんですが、これは「とりあえずビール!」と居酒屋でやってる人は誰でもわかる。しかしビールが変化するのでなくの個々人の主観(満足度)が変化するので統計的に把握できませんから数学的概念として定量化(需要曲線)して微分してみようというインテリジェンスには当時感動すら覚えたものです。こういうインテリジェンスに満ちた「原書」を翻訳して手っ取り早くインフォメーションとして教えるのが日本の大学で、そのために明治政府が作ったのが我が東京大学なのでありますが、アメリカで教育を受けてみて、インフォメーションとして学習した学生が(そのこと自体は悪くはないが)どのぐらいそれをインテリジェンスに還元して日々の生活やビジネスに活用できているかというと大変に疑問に思ったものです。
それは「千人の第九」で音楽家でない多くの方々があのコーラスを大音量で力の限り唱和して、全員が一つになって感動して涙を流し、それは人間として大変に結構なことで何の違和感もないし、そういうイベントを企画した人たちや指揮者やオーケストラや裏方さんたちも讃えられてしかるべきなのですが、しかし、お客さんも含めて、そこにいたすべての方々が、終演後の拍手の何パーセントを Ludwig van Beethoven 氏のインテリジェンスに捧げていたか? 僕は疑問であり、この疑問は日本の大学教育への疑問と同根、同質であると確信するのです。
僕が law of diminishing marginal utility のインテリジェンスを実生活で還元するとなると、ビールよりも(弱いから何杯も飲めない)、音楽でリアルに体感するわけです。なるほどこれは law であるわい、と。ブラームスの交響曲のレコードやCDを500枚も持ってる僕がどうして501枚目を買うんだろう?501杯目のビールですからね、utility (満足度)はほぼゼロですね、もう吐きそうだ。演奏会でブラームスの交響曲のチケットを買うかどうか?おんなじです。ブラームスに限らず、1万枚もレコード、CDのストックがある人間として、1万1枚目に対するモチベーションはもうあんまりないのです。だから僕は定期演奏会を2つ買って、プログラムを見ずに、「シェフのおまかせ」状態で通うしかない。見てしまうと「この曲はよく知っている。もう満腹。やめとこう」となって、行く気が失せるからです。
そういう中で、今年の演奏会ベスト5は上記になりました。1,2,5位は「定期」でなく自ら買ったもの、3位はいただきものでした。ちなみに5位は、演奏はぜんぜんで、偶然すぐお近くの座席におられた天皇、皇后両陛下に謁見できたことへの感謝ですね。平成の終わりの年にありがたき幸せでした。終演後の拍手は2019年4月30日で退位される天皇陛下に向けて、敬意をこめ、懸命にさせていただきました。
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ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その2)
2018 DEC 29 22:22:54 pm by 東 賢太郎

そういう経緯があるものだから、2番に対する僕の深い愛情は長らく不変である。それは音の構築物としての即物的な価値としてまず意識下に棲みついた。その価値がいかに膨大であったかは、それが作曲の動機を僕に子細に調べる事を命じ、上述のような結論に至らしめ、このような文章で語らしめたことでわかる。そうしたことで、次に、つらい境遇に陥った局面でこの曲が、3番よりは直截的ではないやりかたで、僕の精神を鼓舞してくれる特別の効果をもつことを知る。奈落の底から立ち返る原動力となった彼の心のマグマは2番の中でピンと張った生命の糸に置き換わる。それは曲のどの部分でも弛緩することがなく、あらゆる細部に至るまで畏敬の念を喚起する。それはモーツァルトの魔笛のような、およそ人間が創ったと思い難い物への畏敬ではなく、人間くさいヒューマンな物への畏敬だ。そんな音楽はまたとない、なぜなら音楽を書いた人でそういう履歴をたどった人間はいないからだ。
ここに挙げたレイボヴィッツ盤をきく。彼はあのブーレーズの先生だが、ああいう超人が他人から何かを習おうと思ったとしたらレイボヴィッツはさらなる超人だったことになる。巷の演奏は誤りだらけだと言ってLvBのメトロノーム指示を守って60年代初頭にRCAに録音したこの全集、原典版などと新奇性をうたって楽譜順守のあまりに油分のない干物みたいになる悲しい例が多い中で、潤いと音楽性をも感知させる稀有な事例である。2番はアンサンブルを揃えた感じはない演奏だがオケをドライヴするパッションが尋常でなく、これだけのメリハリと推進力があるものというとトスカニーニ盤とシェルヘン盤しかない。それを春の祭典を聴く耳で微細に聴くとレイボヴィッツが勝る。
2番のスコアで心肝寒からしむる部分はここだ。第1楽章コーダでバスが d から半音づつ12音を総なめしてさらに先まで行き(14回上昇) 9度上の e まで達し、それに D7、E♭dim7、Am、F7、F#dim7、Cm、A♭7、Adim7、E♭m、B7、Cdim7、F#m、D7、B7、Em、A7、D、Bm、Em、A7という和声が乗る信じ難いほど素晴らしいパッセージだ(8分39秒から)。ブログにバッハと書いたがそれはバスの事で彼はこんな和声はつけない、やはりLvBオリジナルの革命的ページと思う。
レイボヴィッツはトランペットの短2度を強調して鳴らすが、和声変化に感応してバランスを取っており、原色的だが奇異にならない。まさに作曲家が狙った効果かくありと思う。これは一例だがレイボヴィッツの刻み込んだ音はどこをとってもスコアからえぐりだしたインテリジェンスを感じ、トスカニーニのようにパワハラ練習した風情はないのにどうしてこういう演奏ができたのか不思議だ。
2番の白眉というと第2楽章ラルゲットだろう。LvBの書いた最も素晴らしい緩徐楽章の一つと思う。この冒頭の弦の美しさは筆舌の及ぶものではなく、精神が天国に舞って浄化されるようだ。このピアノ譜を弾いてみればそれが再現できる。
これをさらに深淵にしたのが第九の第3楽章であるが、第九といえば、2番は第1楽章の序奏部に、第九の第1楽章の第1主題を思わせる下降音型が、同じニ短調で現れる。
第1,2楽章には、しかし、斬新な創意があるとしてもまだ伝統的なハイドン、モーツァルトの交響曲のフレームの中だ。それを破壊はしておらず、第九終楽章で否定される素材だ。
破壊が始まるのはここからである。
第3楽章は交響曲で初出のスケルツォだ。一気にラディカルに直進する。笑い声かもしれないシンプルな動機で旋律らしきものが出てこないのは5番の第1楽章を想起させる。
一方で音量は一小節ごとに目まぐるしく変化し、 pp、p、f、 ff、sf の5種類を変遷しながらリズムを強調する。そして和声は、ニ長調(D)で始まりすぐ変ロ長調(B♭)に、そしてトリオの部分で嬰ヘ長調(F#)に飛ぶ(楽譜下、下段2小節目)。
この3つの調はどの2つのペアも長3度の距離にあり円環形(円弧上に描けば正三角形)を成している。主調Dのドミナントを半音上げ、サブドミナントを半音下げたもので、どちらも古典派作品に前例はあるが両者を統合して幾何学的調和とした例は知らない。F#に飛んだ4小節に sf (急に強くしてびっくりさせる)が2度も書かれ、ここを聴衆の耳に焼き付ける。
つまり旋律、リズム、和声の3要素のうち旋律美の追及は第2楽章に集約し、第3楽章ではそれを捨ててリズム、和声に斬新な仕掛けを施すという設計だ。捨てた旋律の代わりに簡素な素材(タタタであったりタタターであったり)をピースとしてミクロからマクロを構築する方法は彼の「スケルツォ」の本質であり、5番を経てその技法が最高度のレベルで凝縮したのが8番である(第1楽章提示部の繰り返し冒頭を聴けば、8番もタタタターで幕開けすることが分かる)。8番の稿に「全楽章がスケルツォだ」と書いたのはそういうことだ。
第3楽章が運命を大勢で笑い飛ばす宴会であったなら、第4楽章はその結末であるひっくという酔っぱらいのしゃっくりで始まる。
LvBは遺書に「本来自分は社交好きなのに」と書いている。社交。ワハハだらけの陽気な宴会でそこいらじゅうで酔っぱらいのしゃっくりが響く。常識派の方はそんな莫迦なと思われるだろうが、あり得ない話ではない。ハイドンがこれとよく似た音型を低音部に書きこんだ交響曲(第82番ハ長調)は、21世紀人にはおよそ意味不明な「熊」とあだ名がついてしまった厳然たる事実があるからだ。19世紀初頭のヨーロッパ人のセンスからすれば、82番の主題を、ハイドンにその意図はかけらもない「熊おどりである」と主張してセールスを昂進させようという試みは「そんな莫迦な」ではなかったのである。
もし2番がハイドンの作品であったなら、「びっくり交響曲」に並ぶ「しゃっくり交響曲」であったかもしれない。なぜそうならなかったか?それはあのLvBの作品だからである。ちなみにハイドン82番第1楽章は「運命リズム」が頻出し、第3楽章トリオ冒頭のファゴットによるとぼけたソ・ソ・ソ・ミ、ファ・ファ・ファ・レは、もしこの曲が運命より後に作曲されていれば運命主題のパロディとして満場の笑いを誘うところだ。LvBが先生のこの曲を知らなかったとは考え難い。
LvBは第4楽章をハイドンばりに一旦静止してからコーダになだれ込み、最後はモーツァルト(ジュピター)をひねったドミソミドで閉じている。彼は自らの運命に打ち勝って笑い飛ばし、酩酊し、先人への勝利宣言までした。繰り返すが、この2番を彼は「遺書」の半年前に書いていたのである。そして遺書の翌年の初演では、どん底から立ち直って見せて喝さいを浴びたのだ。かように、LvBの精神史における交響曲の位置づけは運命との凄まじい闘争の歴史書という側面があって、そんな視点で譜面を眺めるのも一興だ。
本稿の最後に、LvB氏を襲った宿痾と生への希求との闘争という心の闇が生んだ交響曲について私見を書いて本稿を閉じたい。
氏は生きるために、逃れようのない耳疾という宿痾が喚起するパニックの恐怖を意識から締め出し、忘れる必要が絶対にあった。このことはパニック障害に追いつめられた同病者しかわからない。人間のすることだ、長嶋一茂氏が極真空手に、僕が起業に、藁にもすがる気持ちで没頭したのと同じだ。気を紛らわせるといった生易しいものではなく、制御の効かない恐怖を抑止するためのストッパーを皮膚に埋め込むために血だらけになるぐらいすさまじい意志だ。
LvBはストッパーを得た。「封建制への熱狂的憎悪」である。2番作曲の時点ではまだ充分の勝利ではなく多分に空元気であり、むしろ苦しみの真相のほうが同時期に構想したピアノ協奏曲第3番がモーツァルトのやはり苦しみの吐露である24番ハ短調K.491をモデルとしたことに表れている。ところが彼にとって幸運なことに、封建制の破壊者ナポレオンがそこに良いタイミングで出現してくれた。彼の称賛はいわば「通りすがり」でナポレオンの業績に陶酔したわけではない(だから簡単に献呈を棄却できたのである)。むしろ同病相憐れむ僕としては、そこまで精力を費やして運命から逃避した彼の絶望、苦悩、恐怖が察しられ、そのことに胸が痛む。
そうして意図して産み落とされた英雄への狂信的傾倒が創作エネルギーとなったエロイカを経て、とうとう5番では仇敵である宿痾の恐怖を「真っ向から直視して袈裟懸けに叩き斬る」精神力の回復を見る。ついにやってきた真の勝利を謳い、二度と忌まわしいパニックが生き返って襲ってこないようくどい程のハ長調和音の強打で悪魔を打ちのめして全曲を結ぶのである。そうして彼はかつて遺書を書いたハイリゲンシュタットの田舎道を逍遥して自然の美しさに感じ入る。田園交響曲を生んだ精神の真相である。何というコントラストだろう。何の自己への欺瞞もなく楽しめる自分が愛おしく、嬉しく、人間として求めてきたものを得た幸福を6番に刻み込むのである。
彼は交響曲をそのために、つまり宿痾のパニック障害と戦って勝ち抜くために書いたのであり、5番に至るまでは精神の弁証法的発展の記録だ。そして、その目的を達した6番で書く意味を喪失した。だから7番は不埒な舞踏の享楽となるしかなく、弁証法的プロセスの一環とはならなかった。それは人生の意味をプログレス、革命的に新奇ながら歴史の大河の流れでもあるというテーゼで作曲した彼にとって自己否定だ。だからだろうか、僕は7番という曲に何の喜びも感じたことがない。そこで現れる8番は精神の本流への回帰の試みであり、形式は懐古的であるが随所に運命動機が拡散し、5番を書いた弁証法プロセスへの連鎖を試みる。そして9番に至って、従前には良いと思ったすべての主題を否定するのだ。そこに過去と隔絶した革命を起こしたのであり、そこが彼の交響曲の終結点でもあった。
否定された断片が2番の序奏と緩徐楽章からとられているのは象徴的だ。そこは彼の復活と勝利の起点である。2番が僕に摩訶不思議な力を与えてくれるのは、作曲家を反転させたパワーがぎっしりと詰まった音楽だからなのだろうか。彼にとって病気は災難だったが、それがあったから、それがスプリングボード(跳躍板)となったからその後があったと思う。本稿は皆様方の大事にされているベートーベン像を破壊しようというものではない。自分がかつて陥ったピットホールが実はそんなにシリアスなものではない、むしろ跳躍板かもしれないと、鏡を見ながら自分を納得させるための文章であることをお断りして筆を置きたい。
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本稿は2番に関わりつつ自分史の重要な部分を記述しております。なお、貼った動画で消されているものがありますが、あくまでオリジナルを尊重したく、投稿してからの歴史なのでそのままにしています。ご了承ください。
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