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クラシック徒然草-ベートーベン交響曲第3番への一考察-

2013 JUL 14 19:19:10 pm by 東 賢太郎

昨日は久々にエロイカを各種聴いてみた。面白かった。この曲は特別の精神作用を及ぼすと思うのだが、それは個人的な感性のことがらかもしれないし、そういうデリケートなことをあまり独断的に書いてしまうのは良くない。しかし僕個人が少し変わった音楽趣味を持っているかもしれないとしても、他の音楽、それが同じベートーベンのものであっても、どこからも得られない作用なのだから、まずその事実を忠実にお伝えし、それからどうしてそういう作用が及ぶのかという僕なりに考えた解答をお示しするのは多少の意味があるかもしれない。

エロイカは音楽史の中でただならぬ革命を起こしたという意味で並ぶもののない音楽である。これが書かれていなかったらという仮定は西洋近代史においてフランス革命なかりせばという命題に匹敵するだろう。実際、書かれたのはその革命のわずか15年後であり、ヨーロッパのヘゲモニーが根底から瓦解、再編される血の匂い、壮烈な軋みや熱狂や希望と無縁であったはずはない。モーツァルトはそれを見ずに死んでしまったが、死まで考えただろうベートーベンはそれによって日々悪化する耳疾という心的病苦を逃れ、そうでなくてはあり得ぬほどの正のエネルギーに転嫁した。それが産んだ異形の子供、エロイカの楽譜を見ながら今、この音楽、特に第1楽章の奇跡的な様相に鳥肌が立つ思いを抱いている。

この曲が1才年上のナポレオンに捧げるために書かれ、交響曲第3番「ボナパルト」になるはずだったらしいことは有名だ。結局、 「Sinfonia eroica, composta per festeggiare il sovvenire d’un grand’uomo 英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」 となった。ナポレオンが皇帝になったことに失望し表紙を破り捨てた(フルディナント・リース)ということになっているが、その表紙は無傷のままウィーン楽友協会アルヒーフにある。

ベートーベンはパート譜をパリに送ったらしい。ナポレオンを崇拝していたのは事実のようで「ある偉大なる人」がそうかもしれないが、それだけで34才の男が心血を注いでこんな楽譜を書いたというのはあまりに書生論ではないか。「コックの隣で食事させられのです」(モーツァルト)というドイツ語圏音楽家の処遇が、フランス革命の灯が及ばず君主制が打破されないウィーンでそう劇的に改善していたとも思えない。ベートーベンはフランスで有名になる野心があったのではないか。パリへの売り込みが空振りであり、それを弟子のリースが美化したという方が現実味があると思うが・・・。

歴史は書かなければ残らない。だから歴史を創るのは事実ではなく、書いた者だ。音楽史は思うに美化のオンパレードであり、美化史と呼んだ方がいいかもしれない。天才は穢れてはいけない。従妹に残した淫乱な手紙は戯言だし、名曲は金や売名のためではなくいつも高貴な精神の産物である。相手を過度に美化するのが恋愛の特性なら、音楽史は天才たちへの満たされない愛を吐露する壮大な片思いの物語だ。どんなにモーツァルトがセックスにだらしがなくベートーベンが金に汚くても彼らが残した楽譜の一音符たりとも変更を迫られるわけではない。

交響曲第5番(運命)は少なくとも1804年、つまりこのエロイカを作曲したころにはスケッチが始められていた。ハ短調、変ホ長調とも♭3つ。エロイカにもタタタターンの運命動機がちりばめられている。たとえば第1楽章の第1主題、ドーミドーソドミソドー・・・の下線部にDNAの遺伝情報(塩基配列)のごとく埋め込まれている。スコアをご覧いただきたい。

eroica

提示部の繰り返し記号が主題を分断しており2度目はドミソドー(タタタタ―)から開始するのがわかる。曲の出だしをご覧いただきたい。主和音をバン、バンとパンチのように2発。5番の曲頭はタタタタ―、タタタタ―とやはりパンチ2発だ。エロイカ提示部のしめくくり、展開部、そしてコーダに至る最後の数ページはタタタタ―の嵐と言っていい。第2楽章、葬送行進曲の伴奏も、これでもかとそのくりかえしだ。ぜひご自分の眼でスコアを見て確認していただきたい。僕はエロイカ第1楽章と5番は兄弟という以上に、双生児に近い濃い血縁を感じている。

この第1主題だが、ドミソドーのあとトニックの根音(E♭)が半音ずつ下がってA#上の減7となってしまい、高音部には落ち着かないシンコペーションのリズムが走る(スコアの第7小節)。英雄の堂々たる行軍かと思いきや早くも晴れ間から雲がかかって不安の陰りが出たかのようだ。そもそもかつて交響曲の第1楽章冒頭でこんな妙な事件が起きたことはない。しかし、これはこの楽章が和声連鎖の絶妙かつ劇的なドラマにおいて第2番を(そしてあらゆる古典派を)すでに凌駕している一つの予兆であって、メルクマールでもあることがやがてわかる。彼がここで試行している和声語法はロマン派にエコーしていく。それだけでも凄いことなのだが、さらに特筆しなくてはいけないことは、この楽章のリズム構造の革命的新奇さに至ってはロマン派を一気に飛び超え、はるかストラヴィンスキーやジャズにまでエコーしていることだ。このことを僕はいくら強調しても足りない気分でいる。

このことが注目されないのは現代の指揮者のほとんどがスコアのAllegro con brio (付点2分音符=60)で演奏しないからだ。99%が遅すぎる。速いといわれるトスカニーニでも遅い。古楽器のヘレベッヘやガーディーナーですら(楽器だけ古くて何の意味があるんだ?)。第5はAllegro con brio(2分音符=108)だ。タタタターンをこれと等価に鳴らすにはエロイカは付点2分音符=72だ。これに近づくほど5番との相似に気づく。60というのはベートーベンの意図を浮き彫りにする熟考された重要なテンポだ。世の指揮者が誰のどういう了解のもとにこのテンポをいとも簡単に無視しているのか、全く理解に苦しむばかりだ。

内部構造の次に、全体から見たコンセプトという観点からしても、5番は暗→明と直線的、3番は明→暗→明とU字型だが暗闇から光明へというパターンは同じだ。第2楽章が誰の葬送かなどというどうでもいい文学的な解釈論よりも光明へ突き進む正のエネルギーの根源が何かと考える方が、これも現実的だと思う。第2番で述べたように僕はそれが負のエネルギーを逆転したハイリゲンシュタットの遺書を起点とする一貫した流れで、結局それは第九まで到達すると思っている。奇数番号曲といわれるものがそれであり、5と9が直線型、3と7がU字型だ。

第1楽章だけでも書きたいことはいくらもある。今回はこのぐらいにして最後に一言。エロイカの自筆譜は失われた。現行スコアはパート譜から作られた。だからというわけではないが1か所だけ昔から気になっている箇所が第1楽章にある。第65小節の第1ヴァイオリンの下降パッセージに第2ヴァイオリンが6度でからむが、再現部ではその「からみ」が消えていることだ。どうもすきま風が吹いている感じがしてならない。ベートーベンが書き忘れるはずはない。生前に彼が指揮もしている。そうであれば意図的にオミットしたということになる。でもなぜ?わからない。現行スコアが歴史的にどこのパート譜からどう成り立ったかについて知識はない。僕はどこかで写譜のミスがあったかもしれないと思っている。

 

(補遺、16年2月8日)

エロイカ第1楽章のテンポについて

チャイコフスキーは悲愴交響曲の終楽章コーダに Andante giusto と書き込み四分音符=76としているが、これはTempo giusto(1分間に四分音符=80=「心拍数」のテンポでやれという意味)のことである。コントラバスが心音を表し、最後にピッチカートで心臓は止まる(私は死ぬ)のだという明確な含意があったという私見はこの giusto という標語が証明していると僕は考えている。

エロイカ第1楽章Allegro con brio は付点2分音符=60で、1小節が心拍よりやや遅いぐらいになるので心臓に手を当ててイメージしてみていただきたい。これに近いテンポというと比較的速いシューリヒトが56、もっと速いムラヴィンスキーが56-58ぐらいであり、それでもまだ遅い。僕の知る限りAllegro con brio はノリントンの60-63だけだ。ほとんどの人が速すぎに感じると想像するがそれをお聴きいただきたい。

私見ではこれがエロイカだ。西洋音楽特有の3拍子は乗馬のひずめ音であり、パカパ・パカパ・パカパ・・・である。英雄は馬に乗っているのだ。僕はノリントンがそれにぴったりと感じる。パカパが心音にシンクロするので快感だ。これが速いと思うのは、ロマン派を振る20世紀前半の指揮者たちが慣習化した50以下の間違ったテンポに耳が慣らされてしまったからにすぎない。

(比較)

ハンス・クナッパーツブッシュ / ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団

ノリントンと対極の遅さというとこれだろう。冒頭Es和音の物々しさからして何がおきたかとびっくりするが、主題の速度は馬とは程遠く重装歩兵の行軍だ。短調部分の翳りが重く、僕の印象だがあんまり戦さに勝つぞという気はしない。だから葬送されてしまうのか、そういうストーリーなのかなあ?こういうエロイカがお好きな方もおられようし何ら否定する気もないが、万事自分の眼で見た譜面のイメージから曲を聴くのでどうも違うという思いが強い。その調子で全曲とてつもなく遅いのだから、何を聴いてるんだかわからなくなりとてもついていけない。こういうのはワーグナーが愛でたベートーベン像が19世紀のスタンダード化して産み落とした末裔なのではないかと想像する。

 

(追記、3月8日)

エロイカのスコアで震撼する箇所は複数あるがまずはこれだ(第2楽章、上掲ノリントンの22分25秒から)。

eroica2

ノリントンだとあっけないが、チューリッヒで聴いたショルティが凄かった。あれは一生忘れない。ピアノ譜の3小節目から、左手の上声を第2ヴァイオリンが、下声をヴィオラとチェロが受け持つが、トーンハレ管弦楽団の弦が渾身の ff で鳴りきって、チェロのa 弦のa~eの強靭な輝きには度肝を抜かれるばかり。フルートとファゴットに現れる d と e♭の短2度の鋭い軋み!なんという凄まじい音楽だろうと唖然とした。そして一陣の嵐が去った後やってくる第1ヴァイオリンのa♭(青枠)だ。そのとき、僕はシューベルトの未完成、あの第2楽章の虚空に飛翔するようなコーダの、これも第1ヴァイオリンによる長く伸ばした単音を思い出したのだ。シューベルトはこれを聴いてあの浮世離れした天国への音を書いたのだと勝手に思っている。未完成の第1楽章だって、エロイカの第2楽章の色に覆われているではないか。そしてこの楽譜のあとに突如狂ったように雄渾にやってくる変イ長調・・・この部分はへたすると夢に出てうなされかねない狂気を孕んだ天才の音楽である。

 

(こちらへどうぞ)

エロイカこそ僕の宝である

ベートーベン交響曲第3番の名演

 

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