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クラシック徒然草-シベリウス2番のおすすめCD(その1)-

2012 DEC 24 22:22:36 pm by 東 賢太郎

 

シベリウス2番の演奏でこのカヤーヌスによる解釈をさけて通ることはできない。

ロベルト・カヤーヌス(Robert Kajanus、1856-1933、写真)はシベリウスが現れなけれなければフィンランドの代表的作曲家だったであろう人だ。シベリウスが大作クレルヴォ交響曲を書いたのは、1890年のベルリン留学中にこのカヤーヌスがベルリン・フィルを振った自作の交響詩アイノを聴いて触発されたからである。

しかしそのカヤーヌスは、逆に9歳年下のシベリウスがヘルシンキ音楽院を卒業した1889年に作曲した弦楽四重奏曲イ短調を聴いて、自分がもはや国の第一人者ではないことを認めていたのだ。シベリウスの才能も凄いが、音大を出たばかりの若僧に負けを認めたカヤーヌスの眼力も凄かったことは後のシベリウスの作品群が見事に証明している。

カヤーヌスはその後ヘルシンキ楽友協会(フィルハーモニー)を設立し、その指揮者としてシベリウスの音楽を国外に広めることになる。後にシベリウスは代表作の一つ「ポヒョラの娘」をこのカヤーヌスに献呈している。

さて第2交響曲だが、初演の2年前、1900年にパリ万博(写真)が開かれた。当時フィンランドは未だロシアの統治下にあったが、ヨーロッパに高まるナショナリズムの後押しを得て「一民族」  として万博にパビリオンを建てて参加することになった。カヤーヌスとヘルシンキ・フィルもパリに招かれて演奏の場を得ることとなり、シベリウスも指揮の機会はなかったが副指揮者としてパリに同行した。演奏されたのは交響曲1番、フィンランディア、トゥオネラの白鳥、レミンカイネンの帰郷などだが、注目してほしいのはフィンランディアが政治的影響を恐れて 「ラ・パトリー(祖国)」  という名で演奏されていることだ。

このわずか2年後の1902年に初演された第2交響曲がこのようなナショナリズムの空気と無縁だったとはとうてい考えにくいだろう。

                                                                   その2番の初演から28年の歳月を経た1930年、フィンランド政府と英国のEMI-Columbia社がシベリウスの1番と2番の交響曲の録音を企画した。このときシベリウスが指揮者として推したのが、2番の作曲中も多くの手紙をやり取りしていたカヤーヌスであった。右の写真が、そうして生まれたSPレコードから転写した、カヤーヌス盤のCDだ。

 

いわば作曲家による免許皆伝の演奏であり、このCDが2番のあらゆる演奏のレファレンスになることは疑いないだろう。

しかし問題がある。クラシックは作曲家の意図が音で聴けるケースはまれで、楽譜だけが手掛かりというのがほとんどだ。ところがその楽譜の「読み方」も時代とともに変わる。だから曲を覚えてからあらためて自演を聴くと驚くということがあるのだ。

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たとえばこれだ。イーゴル・ストラヴィンスキーがN響で自作「火の鳥」の全曲を振った貴重な映像だ。指揮がシロウトくさいのはご愛嬌だが、問題はフィナーレの7拍子の弦のキザミだ。どうしてだ?と絶句してしまう。センセイ、あのスコア、そういうおつもりだったのですか?と頭が錯綜するばかりだ。

 

 

 

 

こっちは天才ピエール・ブーレーズがニューヨーク・フィルを振ったもの。フィナーレは同じ曲とは思えない。しかしながら、全編がすばらしいニュアンスと光輝に満ちた逸品である。大変申しわけないが、センセイ、こっちの解釈の方がぜんぜんいいですと言いたいのだが・・・・。

 

 

カヤーヌスのシベリウスはどうか。彼はプロの指揮者だから技術的な問題はない。しかし楽譜とじっくり比べると、やはりうーんという部分がけっこうあるのだ。

面白いことに、楽曲解釈の問題以前にこういう事実がある。カヤーヌスが「2番には愛国的意味あいがある」と言ったところ、シベリウスは「政治的なメッセージ性はない」 とそれを真っ向から否定している。僕は前述のとおりでカヤーヌスが正しいと思うので、失礼ながらシベリウスは真実を語っていないのではと思っている。

理由はわからない。フィンランディアと同じで、かわいい息子であるこの曲が国粋主義的とレッテルを貼られて政治に巻き込まれるのを嫌ったのだろうか。晩年、アイノラ山荘で暮らしたシベリウス(写真右)は世界中でラジオ放送された自分の曲はすべて熱心に聴いていたという。自作をとりあげてくれる演奏家にも好意的で、ストラヴィンスキーはカラヤンの春の祭典を酷評したが、シベリウスは自作の解釈者としてカラヤンもオーマンディーもほめている。フィンランド人ばかりが演奏して自国でだけ聴かれるという事態を恐れたということもあるかもしれない。

しかし、ほめられたのが2番かどうかは知らないが、カラヤンもオーマンディーも2番を録音しており、お互いにぜんぜん解釈が違う上に、免許皆伝のカヤーヌスと似ても似つかないのである。困ったものだ。

この2番という曲、非常に自己主張と説得力が強い。有無を言わさず聴き手をねじ伏せる名プレゼンテーションなのだ。だから、よほど技術に難でもない限り、誰がどういう風に演奏しても一応は  「ブラボー!」  となる。無神経な演奏をすると魅力が吹っ飛んでしまう4番や7番とはわけが違うのだ。わかりやすく言えば、これは  「フィンランドの忠臣蔵」  みたいなものであって、大根役者でさえなければ、大石内蔵助を誰が演じようと必ず泣かせてくれるのだ。ちなみに僕が一番好きなのは長谷川一夫のこれだ。

クラシックの同曲異演を聴くというのは、忠臣蔵をいろいろ見比べるのとなんら変わりはない。次回、本家本元のカヤーヌス盤をベースに僕の好きな2番のCDをご紹介する。

(続きはこちら)

クラシック徒然草-シベリウス2番のおすすめCD(その2)- 

 

 

 

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