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クラシック徒然草-音楽は鐘である-

2013 JUL 30 19:19:28 pm by 東 賢太郎

ベートーベンの9つの交響曲について花崎さんと僕で良いと思う演奏を順次ご紹介していますが、趣味によってずいぶんとセレクションに違いが出てくるのにお気づきの方も多いと思います。趣味ですからもとより正解はありません。ところがわが国の教育は基本的に正解がある問題を解かせる主義ですからこういう問題は学校ではあまり出くわさず、どんな秀才であっても苦手な人は大変多いように思います。AKBで誰が好きかの類は秀才ほどだめなのかもしれません。きっと秀才であられた花崎さんがこの企画を立てられ、ご自分の発見や趣味をストレートで明快な文章で綴っておられるのは実にすがすがしく思います。テーストの一貫性を感じますからきっとそのご趣味もお人柄や人生観のようなものが投影されているものだろうと拝察しています。それがすがすがしいのです。

自己主張というのは日本では我儘(わがまま)や自慢、傲慢の代名詞といったニュアンスですが、とんでもないことです。それはテーストや考え方を世に示して自分の居場所を鮮明にする行為のことです。市民(citizen)とはそういう存在です。居場所不明の人が主体的に主権者として市民生活を送るというのは、少なくとも民主主義、自由主義の国家においては非常に不可解なことです。主権在民といいつつ肝心の民がどこにいるのかわからないような国家はこと政治に限らず国際的にきわめて特異な存在であり、良くも悪くもガラパゴス化するのは必然と思われます。百歩譲って国は措くとして、若い方はご自身がガラパゴスではいけません。海外ではおろか、グローバル化が進展する国内ですら大きな活躍の場はなくなるとご自戒いただいたほうがよろしいでしょう。

ここで言う自己主張というのは歌を歌ったりダンスをしてみせることではありません。文章を書いたり読み上げたり、根拠を挙げて何か判断を示すことで自分の主義、信条、立ち位置などを他人に理解してもらうことです。そういうものをステートメントと呼ぶことにすれば、ステートメントはシンプル、明快であるべきです。分かってもらわなければ意味がないからです(ちなみに「プレゼンテーション」と呼ばれているものはステートメントのビジネス用バージョンのことです)。ものを難しく言う人は世の中にいくらもいます。簡単なことを難しく言う人、難しいことを難しくしか言えない人、両方ありますが、おそらくその半分はその事柄が良くわかっていないというケースが多かろうと、単なる経験的な観察ですが、そう見ております。簡単に表現できないことは世の中にそう多くはなく、もしあったなら理解していないことをまず疑うべきと考えます。

矛盾するようですが自分自身そういうことがあります。例えば昨日読み終えた夏目漱石の「こころ」の感想文を今すぐ文章にしろと命じられれば、きっと難しい文章になってしまうのかなという危惧を今もいだいております。漱石の文章や心理描写はほんとうにシンプルで簡素で明快で、それぐらいは僕でもわかるのですが、それが好きではあっても何か評価の真似事でもしてごらんと言われれば僕は退散するしかありません。ほとんどないはずの簡単に表現できないことの一例です。けっして「こころ」が難しい小説なのではなく、達人が積み上げた「言葉」による建築物をシンプルに簡素に明快に表わす、誰でもすぐに理解できるような便利な言葉を僕は持たないということです。

それと同じぐらい、僕はベートーベンの音楽を言葉にしてみる試みへの自分の無力さをいやというほど感じています。もちろんそれをして成功した人はあまり思い浮かびませんし、そういうことができないからこそベートーベンも音楽を書いたのだと思います。彼が書き残した音楽は彼のステートメントであり居場所証明です。少なくとも交響曲は非常に簡素、明快であり、五番や七番を初めて聴いたとしても作曲者の言いたかったことを言葉におきかえることは割合容易にも思えます。「俺は負けないぞ!」「明日があるさ」「みんな楽しもう」・・・まあそんな感じで。しかし歌ったり踊ったりがステートメントでないのと同様、そういう感嘆符が安易についてしまうような類の言葉がベートーベンの音楽の片鱗ですら表現してくれることはついぞ期待できません。

だから演奏家という創造者とは別個の才能をもった人が介在し、ベートーベンのステートメントを自分のそれに換えて言葉の何倍にも増幅された感動を伝えてくれる、演奏芸術とはそういう二重構造を持っているわけです。同じ五番でも「俺は負けないぞ!」なのか「みんな楽しもう」なのか、たぶん出てくる音楽は違うでしょう。これが「演奏解釈」と呼ばれるものです。僕が挙げたCDで例えますと、非常に比喩的に申し上げればですが、フルトヴェングラーが前者、クライバーが後者というイメージで「演奏者のステートメント」を僕は受け取っています。どっちが「作曲家のステートメント」かは誰もわかりません。ただ、どちらの演奏もその主張すべき領域において非常にシンプル、簡素、明快でわかりやすい。漱石を文章で表せない程度の僕に比ぶればはるか天空の高みにある天才の力を感知するしかない仕事なのです。こういう演奏こそ僕が価値を感じるものであり、共通しているのはどちらも作曲家のステートメントに非常な感動と敬意をもった結果生じたものだろうという、揺るぎのない確信にもとづいて行なわれたという響きをもっていることです。

少し教科書的な表現を用いれば、音楽と演劇はテキストと演者があって成り立つ点が絵画や文学と違い、演者は芸術そのものが不可分に内包している要素です。このことを作曲家の立場からくぎを刺そうとしたのでしょうか音楽作品は「鐘」であり、演奏家は「鐘突き」である、「いい鐘はちゃんと鳴るように出来ているから演奏家は余計なことをせずにただ突けばいい」と言ったのがストラヴィンスキーです。そう言う彼が自作曲の鐘突きとして必ずしも達人ではなかったのは面白いことです。花崎分類1「向いている」というのは非常に深い含意があるわけです。ルーブル美術館がモナリザの服の色を今日は塗り替えてみようということは絶対にないわけですが、ではシェークスピア劇やベートーベンの音楽でどこまで演者が立ち回れるかということにもなります。ストラヴィンスキーが自分で思った以上に素晴らしい音を彼の創った鐘から発することのできる演者が現に何人もいるのです。またシェークスピアを原語の発音で演じて今の英国でどこまで理解されるのかは知りませんが、少なくとも異国語でやっても価値は通用するわけです。

良い鐘というのは造られた日から作り手の物ではなくなって多様な音を発する可能性があるものと思われます。逆にそういう可能性がある鐘こそが名鐘として何百年でも残るものだと。グレン・グールドのバッハが今でも人気を集めていますが、それは彼のバッハが天才の産物だの代表盤だのという刹那的な評価などより、ああいう想定だにしない弾き方でも受け入れてしまうバッハの音楽こそ名鐘であるという当然すぎる事実に改めて僕は感銘を受けます。ベートーベンやストラヴィンスキーの音楽を人類が100年後に聴かなくなっていることに賭けるのは、同じ期間にナイアガラの滝が全凍結するのに賭けるのと同じぐらい危険なことでしょう。どうしてもどっちかに賭けろと強いられるならば、フルトヴェングラーやクライバーのCDが手に入らなくなるほうに僕はします。それをおそらく危惧していたフルトヴェングラーは指揮者ではなく作曲家として世に評価されることを望んでいたそうです。演奏会で僕のする拍手は90%が作曲家、10%が演奏家に向けてというのは、まことに恣意的ながら、さような小理屈から僕の導いたステートメントであります。

 

 

Categories:______クラシック徒然草, クラシック音楽

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