歌舞伎は一種の解毒剤である
2015 AUG 9 0:00:43 am by 東 賢太郎
昨日は歌舞伎を観ていて、いろんなことを思いました。京都へ行くといつもそうかと閃めいて東京に帰ってくるといつも忘れることなんですが、お膝元の日本にこそいいものがたくさんあるということです。
西洋音楽にめざめてしまって、それはあちらの歌舞伎みたいなもんですからね、どうしても本場の歌舞伎座に行ってみたくなった。それで10代から西洋にあこがれました。受験なんかではなくそういうモチベーションで英語も覚えたし、行きたい行きたいと思ってると会社にも通じたんでしょうか、ホントに16年間も行ってしまった。
思いを遂げたんだから恵まれた人生と思うし、すごい人たちの演奏会をめいっぱいたくさん聴いていっぱしの通気取りで帰ってきて、これも一種の西洋かぶれですね。日本にもいいものがあったじゃないか、そんな苦労しないでも、京都をゆっくり味わって、そんな思いにかられるようになって、そしてそれを忘れてたのを昨日こっちの歌舞伎座で思いだしたというややこしい話です。
たまたま昨日の演目に「祇園恋づくし」というのがあって、祇園は先達に多少教えてもらったものだから楽しみました。京都三条の茶道具屋である大津屋次郎八と江戸の指物職人の留五郎というのが出てきます。この二人が京都と江戸のお国自慢で張り合ったりするのですが口上をきいていると京都が英国に、江戸が米国に思えてきて、なるほどそういえばそんなもんかとすごく面白い。
芸妓の染香が二股三股かけていて悪い女だねえって笑いがおこるんですが、そんなもんよと客もわかってるから面白い。こういう男女のかけひきって万国にわたってもう森羅万象の領域としておんなじで人間の本質ですね。笑いってのは本質じゃないものにはおこらない。ところがそれをみぬいてる丁稚役の子の口上がこれまた笑いを取るんでなかなか深い。
こういう劇は筋書きとしては西洋にも似たものがあるかもしれないが、江戸やら祇園やらの風情や人情やなりゆきというのはない。それこそが日本だからです。祖父、祖母がそんな言葉つかってたなとか、ああいう物腰や所作だったなとかいちいち懐かしいし、日本人が忘れちゃいけないいろんなもの、それを伝統といってしまえばそれまでだが、そんな一言で簡単にくくれない「良きもの」を役者の見事な動きで見せてくれる。これがたまらなく良かったですね。
思いおこしてみれば僕の西洋かぶれは、西洋がさきにあったというよりベンチャーズのテケテケみたいな音響への即物的な興味がまずありきだったわけです。だから西洋に行きたいと思った。蝶々マニアが珍種をおっかけてブラジルまで行っちゃう、あれです。彼らはブラジル国に興味があるんじゃないのであって、ブラジルかぶれでもなくって、蝶々がいる所にたまたまそういう国があっただけです。
ある世界的に著名な蝶々収集家(有名な経営者です)に「どうしてですか?」とうかがったら、「そこにいるからです(笑)」でしたね。愚問でした。でもどうして蝶々ですか?にはお答えがなかった。それは僕の猫好きといっしょだからもっと愚問だった。好きなものに理由はないのです。
僕の好きな音楽(音響)というのは日本にはありません。だから貴種のモルフォ蝶が日本にいないのと一緒で西洋に行くしかない。で、それが西洋かぶれに見えようが何だろうが、それを消化して自分の言葉に還元して飲みこむしかありません。そうやって初めて西洋の精神で書かれたクラシック音楽が日本人の僕の「腑に落ちた」状態になります。
僕の音楽趣味の原点はいわば「音の化学」であって、あんな面白い化学反応が生まれた国を見たいという興味はありますが、それ以上のものではない。ベートーベンの造った化学反応はものすごく研究したいですが、それは楽譜でできるのであって、それでドイツに憧れたりゲーテの詩を読んでみようなんてことには発展しません。化学は化学で完結してるからです。
歌舞伎に思ったのは、そこには化学はないということですね。そういう興味を持つことはたぶんない。しかしとてもヒューマンで洗練されたものがあって、江戸時代から日本人の心の底を流れる喜怒哀楽や美意識というものが主題ですが、そこに常に人間がかかわっている。西洋の芸術はどれも背後が神であり、ロマン派になって人間が主役になっても神を意識する限りにおいて自由な人間ですね。根本的に違う。
これは僕には新鮮であり、まったく西洋かぶれするつもりはないのですが音楽を聴いたり語ったりすればいつもついてくるそうしたうっとうしい「西洋人的な視点」から自由にしてくれる気がします。毒といっては悪いが、解毒剤ですね。僕はもう必要がなければ海外に住みたいと思いませんし、もう特に行きたくもありません。なぜならそれほど日本はすばらしいし、もっと日本を知りたい、それに時間と労力をつぎ込みたいからです。
16年の欧米生活というのは精神の芯にも見えない影響を落としていて、日本的な心、和の感性が鈍っているのではないかと思いだしています。西洋的なことが悪いとは思わないですがもったいない話で、そういう日本人にはなりたくない。歌舞伎はいいですね、たくさん観てみようと思います。
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阿曾 靖子
8/9/2015 | 1:42 PM Permalink
歌舞伎鑑賞デビュー、以前からお勧めしていたので嬉しいです!
おめでとうございます。
歌舞伎は元々「かぶく」という
アバンギャルドでロックにも通じる精神から生まれた
庶民が生んだもの。
まさに当時の娯楽の王様ですが、
今を生きる人々にとってもまた古典の様式をとった普遍的な「お芝居」。
長い年劇を経て洗礼された部分も多く
視覚的効果も内容も日本の美意識と精神のオンパレード、善悪も含めてです。
演劇科の貧乏学生時代も3階席から一幕見に行った事が懐かしいです。
西室 建
8/9/2015 | 8:23 PM Permalink
オッ、東 兄の歌舞伎デヴューですな。
演目もいい出し物のようで、まずはおめでとうございます。
しかも当代きっての伸び盛りの役者連、まことに結構。
東 兄の場合、長年クラシックで耳を鍛えてますから、間の読みなんざお手のモンでしょう。
解毒剤は言い得て妙ですな。何しろ廓話が芸術になっちまうジャンルですからねぇ。
しかもフラっと行ったってえのが粋じゃござんせんか。
東 賢太郎
8/10/2015 | 7:46 AM Permalink
阿曽さん、かぶくがアバンギャルドはわかりやすいですね。歌舞伎座はどこか敷居が高かったですがぶらっと入ったのも京都のおどりについていろいろご講義いただいていたからです。感謝しております。
西室兄、オペラみたいにおべべ着てすまして観るのもたまにはいいが江戸っ子としてはこっちかな。よくわかったよ役者絵があんなに残ってるの。江戸時代こりゃあたまらんかったろう。