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ドビッシー 前奏曲集第1巻 (Préludes Livre 1 )

2016 APR 3 14:14:26 pm by 東 賢太郎

今度投資する事業の下見でソウルに出かけました。200の大学のアート系学部の優秀作品展示会に出かけましたが、そこの音楽部門の部屋に入ると壁に大きく文字があって、案内してくれたW君が笑いながら

「あれは ”音楽は唯一の合法的な麻薬である” という意味です」

と教えてくれました。うまいことを言うと唸ったもので、そして、「そうね、それなら僕にはドビッシーしかないけどね」と、口では言わなかったがそうも思ったのです。

ドビッシーの音楽は誰のとも似ず、和声に強く反応する性質の僕には秘密の効能があるのであって、僕は僕なりの色と温度を、曲によっては香りまでをはっきり感じます。それら五感を(ひょっとして6thセンスまで動員して)聴いている自分の脳を自分で意識する唯一の作曲家です。それがいかに特別のことか、うまく言葉になりませんが、イメージ喚起力と言ってしまうと、イメージ(image)はあくまで既知のもので、既視感をベースにしたものだからちがうのです。

彼は「イマージュ」(仏、Images)なる音楽を書いていて日本語で「映像」と訳されていますがこれは大変にミスリーディングで、子供のころこの題名を僕は「風景や人物の映像的な描写であって、それを鮮明でなく印象派風に輪郭の曖昧(あいまい)にしたものなのだろう」と解釈してました。ピンボケ画像やポルノの曇りガラスじゃあるまいし。全然ちがうのですね。Imagesは「心象」です、そう訳したほうがずっと良い。既知でも未知でも、心に喚起される何ものか、です。だから前奏曲集でもドビッシーは各曲のタイトルを譜面の終わりに付記しているだけです。僕は未知の空間、月面に立った心象みたいなものを浮かべて聴いてますが、それでもドビッシーは否定しなかったろうと信じてます。

そもそも印象派=曖昧ということ自体が誤解であり、そうきこえる曲もあるがそうでなくてはならないことはまったくありません。さらにいえば、音楽において日本語の曖昧という言葉自体が曖昧であります。だから僕が「そうきこえる曲」とした、例えば「牧神の午後」のような曲ですが、それは日本語の「曖昧」に近い心象を意図的に、極めて明晰な知性と技術でもって聴く者の心に発生させるべく設計した、ちっとも曖昧でない産物なのであって、霞の彼方に朧に浮かぶ風景を愛でる日本人が好む美感の産物ではありません。これはモネの絵にも当てはまることです。

そしてメシアン、ブーレーズまで行くと調性はなくなります。それでも「キリストの昇天」(L’Ascension )や「プリ・スロン・プリ」(Pli selon pli)などに僕は明確な色と温度を感じるのですが、それは彼らもドビッシーと同じく明晰な知性と感性でもって心象を聴き手の中に産み出すべくあらゆる技法を探究した結果ということです。そこに、僕という聴き手に限りかもしれませんが、色と温度が出てきてしまうことに、僕は彼ら二人が明確な証拠をもってドビッシーの末裔であるということを発見するのです。

以下、あくまで一人の聴き手の心象ということにすぎませんが、僕が本稿で何を主張したいかをお示しするために、それを日本語に描写してみます。

第1曲「デルフィの舞姫」(Danseuses de Delphesは紫色で春の気候です。それが第11小節で不意に冷たい風と共に銀色に変わります。第2曲「ヴェール(帆)」(Voiles)は黄緑で肌寒く、沈丁花の香りがあります。そしてだんだん黄色が増していきます。第3曲「野を渡る風」(Le vent dans la plaine)、これは白っぽい。第4曲「夕べの大気に漂う音と香り」(Les sons et les parfums tournent dans l’air du soir)は薄赤くてややひんやりした気候です。

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第5曲「アナカプリの丘」( Les collines d’Anacapriはこう始まりますが、これは心象が強く、オレンジ色で、乾いた暖かい空気に桃の花がほのかに香ってきます。

お釈迦様の蓮の花の風景かもしれない。こういう東洋的な痺れるような幻想をもたらすというと僕は他にオリヴィエ・メシアンの音楽しか知りません( メシアン トゥーランガリラ交響曲)。そして曲の最後の高音のファソラソファはまっ黄色に見えます。

これは旋法や和声の織りなす効果なのでしょうが、しばらく曲が進むとそういう原理を分析したい気持ちがどこかで麻痺して(たぶん左脳が止まって)、浮遊をはじめます。絵画のような景色としてアナカプリの丘が見えてくるわけでもなく、感じるのはただ色と香りと温度が醸し出す茫洋とした「雰囲気」だけです。

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第6曲「雪の上の足跡 (Des pas sur la neige)は寒い無風の灰色の世界です。香りは皆無。雪というよりもひとり月面に立ったらこんなかなという重力の希薄感です。第4小節の終わりのDmまで、音が3つ重なるのに何調かわからない。やっとGに安定したと思いきや右手が9度のa、次がFに増4度のh・・・と、いわば調子はずれのメロディーを乗せていって、もう降参です。和声音楽のように見せておいてそうでもなく、譜面だって僕でも初見でなんとかなる程度なのにじっと見ていると頭の中が訳がわからなくなって船酔いみたになる。まさに麻薬的音楽であり、希薄な和声感を最後の一音で覆す衝撃のDmは魂に響いて精神が凍りつきます。

第8曲「亜麻色の髪の乙女 」(La fille aux cheveux de lin第10曲「沈める寺」( La cathédrale engloutie)は明確かつ平明な和声音楽であって、僕は色も香りも温度も重力も感じません。この2曲で曲集が有名なっているとしたら妙なことです。第7曲「西風の見たもの(Ce qu’a vu le vent d’ouest)がいかに驚異的な音楽かは別稿にしました( ドビッシー 西風の見たもの)。これと「ヴェール」は本曲集の白眉でしょう。

第9曲「とだえたセレナード」( La sérénade interrompue)は「ペトルーシュカ」「春の祭典」へのDNAを感じる曲で、色は黒っぽい。後者のピアノ譜と書法の類似があります。ストラヴィンスキーが三大バレエを書いた時に上演予定のパリの楽壇を意識しなかったとは思えず、そこで大家であったドビッシーの直近の完成作品はこの曲集でした。その引力圏にあったことは想像され、雪の上の足跡」の和声は「火の鳥」に遺伝しているように思います。また第11曲「パックの踊り」(La danse de Puck)は金色で、自作の交響詩「海」の書法を引き継いだ驚くべき作品です。第12曲「ミンストレル」(Minstrels)は炎のような赤で暑い。

以上、主観に終始しましたが、ドビッシーの鑑賞はそれしか表現の術がありません。

名曲ゆえ名演はたくさんあります。最も好きなユーリ・エゴロフ盤は ドビッシー 西風の見たものをご覧ください。

 

アナトリー・ヴェデルニコフ(pf)

31C7M6T70QLロシアの伝説的ピアニスト(1920-93)の89年の録音(音良し)。やや暖色で深みのあるタッチで光と影の陰影まで見事に描いた最高級の名演。「沈める寺」の最初の和音ひとつとっても何とよいバランスで出ることか(そして地響きするような低音の威力!)。ミンストレルのタッチなど最高度の技術なき人から聴くことはまずないという質のもので、彼のドビッシー「12の練習曲」のレコードはあのリヒテルが愛聴していたそうです。ぜひお聴き下さい。

ディノ・チアーニ(pf)

zb2118078デリカシーの極み。コルトーの弟子で32才で交通事故のため夭折したチアーニ(1941-74)の最高の名演。デルフィの舞姫をこんなに詩的に奏でた人はいないでしょう。亜麻色の乙女の気品たるやふるいつきたくなる魅力があり、両曲ともこういうテンポ、流儀で弾くとお子様向けの砂糖菓子になりがちですが、なぜかそうならないのが品格というもの。持って生まれたものは争えないということです。西風の見たものの研ぎ澄まされた切り込みなど、全てにおいて超ド級のレベルを保ち、彼が生きていたらポリーニは危なかったと言われたらしいですがそれはポリーニに失礼でしょう。違う人たちであって、ただ、人気が食われたという意味ならそうかもしれません。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(pf)

81oVpH4IzsL__SL1500_1985年にミケランジェリ(1920-95) の実演をロンドン(バービカン)で聴いて、それも前の方で彼を背中から見る位置で、まさに夢のような時間を過ごしました(前の席にブレンデルがいた)。魔術師の錬金術でも観る雰囲気で、ドビッシー前奏曲第2巻はご馳走でした。ここでもそれは全開で、ヴェール(帆)は黄泉の国の蓮の池で見たことのない鳥が舞いアナカプリの丘の音彩(右手のタッチのパレット)の豊富さは驚異的で、僕はこれはヘッドホンで楽しみます。沈める寺の聖歌のように交唱するeとd#の短2度の余韻!その「うなり」の回数まで計算され尽くしているかと思われるほどの凄みで、au Mouvtの左手の低音域の弱音(pppp!)などピアノでこんな音が出るのかという領域です。最高の知性、感性による最高のコントロール。ホンモノの音楽はそのどれが欠けてもできないという厳然たる事実を世につきつけた録音でありました。ロンドンでも僕はピアノの横に立って、弦を覗きこみながら聴きたい願望にかられたのを覚えてます。

サンソン・フランソワ(pf)

012イマージュの喚起力の潤沢な演奏というとこれになりそうです。「ヴェール」は実は書法が緻密ですが、それがそう聞こえずに詩になってしまう。こういうところがフランソワの魔力なのです。夕べの大気に漂う音と香りの出だしのルバートは妖気をはらみ、アナカプリの丘の楽譜部分は神話を思わせ香気に満ちています。Retenuの部分、和音がBからAになる、ここの麻薬的効果は凄いものですが、フランソワのここの表情こそ天国の花園でしょう。雪の上の足跡を印象派風(間違った意味での)に弾いた灰色の世界も魅力的で、西風の見たものは幻想交響曲みたいに妖怪を思わせます。録音はあまりよくありませんが最も色と温度を感じる一枚です。

アルド・チッコリーニ(pf)

414Y2BASJEL1991年の録音。チッコリーニは東京で一度だけ聴きました。ファッツィオーリの音が煌めきました。ドイツ、スイス時代にこのドビッシーは車に常備していて、毎日のように聴いた時期がある、僕にとって家具のようなものでした。西風の見たものが凄いです。彼のタッチはエラールを弾くようなフランス風の軽いものでなく、低音は重いのです。和音を崩す傾向があって、自由な解釈ですが恣意的という印象がなく、一家言ある演奏です。

 

 

スタニイ・デーヴィッド・ラスリー(pf)

71jLMpJiRmL._SL1080_このCDの売りは楽器がドビッシー時代のエラール(1874年製)なこと。ベートーベンがワルトシュタイン、熱情を書いたのもエラールです。音は減衰がやや速く、音色はくすんでいます。速いパッセージは少しぽこぽこした感触で、それはそれで古雅なイメージがあって魅力があり、高音は充分な煌めきがあります。リストが好んで弾いたピアノで僕はパリでリストに縁が深いエラール本社(跡)も訪問しました。ラスリーの演奏は特にどうと言う特徴はありませんがエラールの美音を味わえるものです。

(こちらへどうぞ)

ドビッシー 西風の見たもの

 

 

 

 

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Categories:______ドビッシー, クラシック音楽

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