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ドビッシー 西風の見たもの

2014 AUG 22 12:12:34 pm by 東 賢太郎

ピアニスティックに書かれたピアノ曲がいかに「歌えない」かをお示ししたい。そのぐらいピアノというパレットは特別なものだ。今回はドビッシーのピアノ曲の最高傑作のひとつである前奏曲第1巻の7番目に位置する特異な音楽で、僕の関心をこよなくかきたてる「西風の見たもの( Ce qu’a vu le vent d’ouestz)」である。これが有名な2曲、雪の上の足跡(Des pas sur la neige)と亜麻色の髪の乙女(La fille aux cheveux de lin)の間に置かれているというコントラストが周到だ

フランスの西風は強いそうで、この音楽は東洋の我々にはどこか台風が水しぶきを巻き上げ草木をなぎ倒す情景を思わせる。しかし前奏曲12曲の標題はどれもそれほど写実的ではない。この曲も、描写というよりも、そこから感じ取った本能的な自然への畏怖をそのままピアノというパレットにぶちまけた感じである。荒れ狂う暴風雨の中では人間の畏怖もねこの畏怖もそうは変わらないだろうと思わせる意味で抽象的な心象風景であり、1908年作のラヴェルの夜のガスパール「スカルボ」を想起させる。

この、ドビッシーとしては異例に激しい曲の譜面は、あくまで眺めた図形としての話だが、ストラヴィンスキー「春の祭典」のピアノリダクション版を思わせる。作曲は1910年、春の祭典は1913年だからストラヴィンスキーがこれを知っていた可能性はあるだろう。ドビッシーはこの曲を管弦楽化しなかったし、歌えないのだからそれはできないと考えるのが当時の常識と思われる。現にドビッシーは歌える火の鳥、ペトルーシュカはほめたが春の祭典には冷たかった。春の祭典がそれまでの音楽の決定的な創造的破壊(Creative Deconstruction)になった理由の一つは、常識破りのそれをしたからだ。

81oVpH4IzsL__SL1500_前奏曲第1巻、第2巻の名演としてゆるぎない地位にあるのが故ベネディッティ・ミケランジェリのDG盤である。僕もそれには異議のとなえようがない。1985年の5月にロンドンはバービカン・センターで第2巻の実演を聴いてもそう思った(僕の前の席にはアルフレート・ブレンデルが聴衆としていた)。今も彼の2枚が愛聴盤であることをお断りした上で、あえて言おう。彼の研ぎ澄まされた音は息をのむものだったが、彼は音の美食家なんだろうなという印象もあったのは事51R8ZHW53SL実だ。彼のファンに叱られるかもしれないが、音楽の作り方そのものにあんまり「哲学」を感じなかった。

演奏家は時間を「支配」しなくてはいけない。音がきれいかテクニックにキレがあるかという次元の話ではなく、音楽自体が時間芸術であり、時を刻みながら生成されるものだという本質を聴衆に味わわせないならば、音楽は意味の薄い享楽と変わらないものになる。ミケランジェリにはそれがあったしそれが聴衆に息をひそめさせるという稀有の経験をさせていただいた。だがあのドビッシーには何かが足りない。春の祭典に通じる畏怖、破壊、再生・・・そういう第1次世界大戦勃発直前の風雲急を告げる作曲家の心の嵐のようなものが彼一流の美音の陰に隠れていて、平和な世の我々をそこに巻き込むための一種のしたたかな理性、それを駆使した演奏哲学のようなものが欠けているのかなと感じた。

それはピアニストのプレゼンテーションのコンテンツというよりも、相手である聴衆を時間という魔力でコントロールする力、たぶん「意志を持ったオーラ」と言った方が直感的には近い何物かがこの曲には必要ということだ。音の美食の悦楽では足りない、もっと知的でいて本能的、動物的なもの。僕はそれがどうしても欲しい。

51a1tB4Ym7L__SL500_AA280_そういう演奏はないものとあきらめていたら、ひとつだけ近いものがあった。やはりイタリアのピアニスト、ジャンルカ・カシオーリのものだ。彼はすべての音符を自分の理性で一度Deconstructしているように聞こえる。怜悧な眼がひとつとして無意味に見過ごした音符はなく、楽譜をそう読むのかという新鮮な創造にあふれている。それが人為的、人工的な奇矯さに陥らないのは、彼の天性の音楽性とでも呼ぶしかないものがすべてを覆い尽くしてコントロールしているからだ。音とリズムは磨き抜かれ、不協和なクラスター(音塊)でも混濁することがない。そして何より、それをプレゼンする意図、自信の強さに圧倒される。そうは書いてないのだが、作曲家はきっとそれもよしとするに違いないと思わせる何かをもっている。「西風の見たもの」をお聴きいただきたい。

彼の前奏曲第1巻における創造的破壊(Creative Deconstruction)というものは、ピエール・ブーレーズの春の祭典そしてグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲という、まったく素養の異なる天才たちが各々の特異な方法論によって我々を驚かせたそれの場合との同質性をほのかに感じさせる。そういう行為をして聴衆を「創造的に驚かせる」には、その音楽を constrac tした天才と同じほどの理性が求められ、聴衆にだってそれに共鳴し、少なくともびっくりぐらいはするほどのヴァイブレーターを求めてくる。

経済学においてシュンペーターが使った Creative Deconstruction という概念に近いのはグールドではなくブーレーズだろう。グールドが creat eしたものは、極めて磨かれてはいるが極めて特異でもある彼の個性というものだ。ブーレーズは作曲という領域で創造を行い演奏という領域で再創造ををするという棲み分けを行ったが、彼の提示した春の祭典は強烈な個性の刻印はあるものの、あくまでも、すぐれて知的に彫琢され尽くした春の祭典である。一方、グールドのバッハは、ちょっと乱暴な表現をお許しいただければ、グールド本人である。

グールドのようなピアノのソノリティに鋭敏な耳を持った人がドビッシーを弾かない、いや弾かなかったかどうか知らないが少なくともたくさん録音するほど積極的ではないというのは象徴的だ。恐らく、彼はそこに Deconstruct するものを見なかったと思う。やったとしても、そこに「グールド」を constract する誘惑には駆られないほどその余地を見出さなかったのではないか。それは、きっとドビッシー自身がそういう人で、それを作品の中で完ぺきにやり尽くしてしまっているからかもしれない。そのピアノ曲としての完成度が、本人をして管弦楽曲と感性の仕分けができていたということを示していて、だから彼はラヴェルのように自作をオーケストレートしていないのではないか。

ブーレーズが前奏曲を弾いたらどうなのかは大変興味深いが、彼の「牧神の午後への前奏曲」は彼の Deconstruction の非常に微視的な方法論をよりわかりやすく見せてくれる。それは別稿としたいが、カシオーリというピアニストがここで見せているのはそれとも違う、言葉ではうまく表せないが、作曲家でもある彼の眼がレントゲンのように音符を透過した観のある、そういう人でしか出てこないような音の在りようが似ていると思う。

ホロヴィッツやルービンシュタインのような根っからのピアニストが見たもの。それはピアノの譜面なのだろう。彼らは恐らく、それをオーケストラのパレットに移したらどうなるかというような性質の関心はない。ただそこからあらん限りのピアノの音の魅力を紡ぎだすことにおいて、彼らは並ぶ者のない天才であった。だからそういう行為を前提として書かれた音楽にこそ十全の力を発揮した。その代表格がショパンであることは論を待たない。

僕はショパンやチャイコフスキーに Deconstruction を求めないが、カシオーリという人はショパンを弾きながらノクターンを作曲者自身の装飾音符を付したバージョンで弾いてみようという実験精神を発揮もしている。過去の作品は、そういうことに向いていようがいまいが、彼の理性が思考する「素材」としてどこかクールに突き放したところに置かれている感じがするという一点において、彼はグールドに似てもいるのだ。まだ35歳。実演を耳にしてはいないが、ここからどう進化していくのか、非常に面白い才能だと思っている。

(補遺) 前奏曲第1巻・第2巻

ユーリ・エゴロフ(pf)

5099920653125これは全集の並みいる名盤の中でも僕が最も気に入っているもののひとつ。エゴロフは僕と同じ学年だが同性愛をカミングアウトしており88年にエイズで亡くなった。本当におしい才能と思う。このドビッシー、ふっくら、ひっそりと何かを語りかけてくる。ミケランジェリやカシオーリはピアノという楽器が語るが、エゴロフは音楽だけが心に響き、沈める寺のような曲でも詩情が支配する。それは強靭な技術あってのことだが、ここまでレベルが高いとメカニックや楽器を聴き手の意識から消してしまうのだ。稀有な名演。i-tunesにあるがお薦め。

 

(こちらへどうぞ)

ドビッシー フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915)

 

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