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ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

2016 APR 6 21:21:26 pm by 東 賢太郎

mussorgskyこのピアノ曲集がモデスト・ムソルグスキー(1839-81、右)の親友だった画家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものであることは有名です。それらの絵を見せるブログはいくらもありますから検索してください。

「珍衝撃映像ナニコレ珍百景」なるバラエティ 番組を見ていたらに「キエフの大門」のクライマックスを何度も聞かされ閉口しました。ムソルグスキーの書いた音楽がいかにミーハー的にもインパクトが強いものであるかということですが、そうやって150年近くも後になっても誰でも覚えられてテレビで流してくれる音楽を書くというのは大変な才能だと思います。

指摘したいのは、この曲がもともとピアノ曲であり、1922年にクーセヴィツキーの依頼を受けたモーリス・ラヴェルのオーケストラ編曲によってパリのオペラ座で初演され一気に有名になったことです。原曲はムソルグスキーの存命中は演奏も出版もされず埋もれたままで、友人だったR・コルサコフ(以下R)が遺稿から発見して作曲家の死後5年たってようやく出版されたという日陰者の運命にあった作品です。

Rがこの出版にあたり原曲の音符をいじっているのが現代の常識では不可思議ですね。僕はこれをジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団のレコードを聴いて気がつきました。彼は原典版のままの音を吹かせていて、聞き覚えていたのと違うものだからびっくりしたわけです。調べてみると事実がわかりました。ラヴェルが管弦楽にしたのはRの編曲譜だった(原典版を探したが入手できなかった)のです。セルはラヴェル版のその部分をオリジナルの音符で弾かせていたということでした。

Rは作曲家の歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」も和声や管弦楽法が未熟としてまるで先生が生徒にするように音符までを大幅にいじっています。この事情はよくわからない。ムソルグスキーは親が富裕ではあったが地主階級であり、海軍士官をめざしたが挫折して地方公務員となり作曲はおおむね独学であった。一方のRは貴族の出で海軍士官学校卒の海軍大尉で日本海海戦の第2巡洋艦隊旗艦ともなった軍艦アルマーズにも乗ったエリートです。

僕が働いたころのスイスでは銀行での出世は軍隊での職位によると聞き驚いたのですが、日露戦争前のロシアでそういうことがあっても不思議でないでしょう。鉱山技師の息子で秀才だったが文官だったチャイコフスキーが西洋かぶれとみなされ、バラキレフのロシア5人組と距離を置いた。我が国サラリーマン界の国際派と純ドメ派みたいで、当時ロシア作曲界の純ドメ派大物であり軍艦で各国を回りワーグナーのリングも聞いたRが「英語もわかる純ドメ」的な位置で存在感があったように思えます。

Rの管弦楽が華麗であることは認めますがそれは価値観の問題で、より最大公約数的に体系化されていた和声法や対位法の明らかな「間違い」(既存のルールからの逸脱)とは違うでしょう。それだってドビッシーが根底からルール違反のオンパレードの曲を書いて、根底から崩してしまいました。それを知った時代の聴衆である我々はムソルグスキーのルール違反が「おかしい」とは聞こえないし、趣味に過ぎないカラリング(オーケストレーション)はましてそうであると思うのです。

興味深いことに、管弦楽法の大家であるRはこれをオーケストレーションはしなかった(弟子がしてそれに関与はしたとされてますが)。どうせならそこまでしてくれれば面白かったと思いますが、その役目はフランス人のラヴェルに行ってこの曲は壮麗な大伽藍と化したのです。

多くの人がそうだと思いますが、僕もこの曲をまずラヴェルのオーケストラ版で知りました。それが高1あたりで買ったCBSのオーマンディー盤のLPレコードで、この演奏はRが一部を自己流に直したピアノ譜からラヴェルの感性で映し出した壮麗無比な絵画を、フィラデルフィア管弦楽団という当代一の華麗な音響と技術を誇ったオーケストラの絵の具でさらに鮮烈に描き出したものでした。

このレコードの価値は以下のことで些かも減ずるものでありませんが、3つのバイアスがかかった産物であったものだったのです。それは、

①Rの趣味による音符の改竄

②ラヴェルの音の趣味による管弦楽法

③オーマンディーの音の趣味による音化

です。これらを除去しないと、ムソルグスキーの書いた音符の原像は見えてこないということです。いまの僕にとってはそっちのほうがずっと重い。初めてピアノの原曲を聴いた時、僕の知っていた展覧会の絵は「整形美人」だったことに気づいたのです。しかも3回も整形手術をした!

 

この美人に魅せられてしまった高校生は、まずはお決まりの「キエフの大門」に感動し、「鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤーガ)」の不気味なイメージを空想してハマりました。整形が悪いわけではない、なぜならその妖しい魅力のおかげで僕はクラシックの深い森に迷い込んでいったからです。

森の入り口で誘っていたこの曲は音も普通でなく、不気味な和声、足が引っ掛かる変拍子など当時の僕にとって「普通でない音」と「異様にカラフルな音彩」にあふれ、バーバ・ヤーガはやはり普通でなく聞こえていたストラヴィンスキーの「火の鳥」の「カッチェイの踊り」などにエコーして聞こえていました。これがそのオーマンディー盤です。

展覧会の絵の原曲は1874年の作品です。その年にはワーグナーが「神々のたそがれ」を書いてリングを完成し、チャイコフスキーはピアノ協奏曲第1番を書き、ヨハン・シュトラウスは「こうもり」を初演し、ヴェルディはレクイエムを書きました。ブラームスの第1交響曲も白鳥の湖もカルメンもまだ書かれていなかったのです。

それらの曲調を思い浮かべるに、ムソルグスキーが「オペラ作曲中の気晴らしに絵画のような作品集を書いた」と称した展覧会の絵の和声や変拍子の1874年時点での斬新さは、1913年のパリでひと騒動ひき起こした春の祭典のそれに匹敵するか、オリジナリティーという意味を加味するならひょっとして上回るかもしれないと思っています。

一方でモーリス・ラヴェルは展覧会の絵の編曲後はヴァイオリン・ソナタ、ボレロ、二つのピアノ協奏曲ぐらいしか主要作を書いていません。つまり最後期の熟達の技法を投入したということでどこから眺めても美麗であり、その価値を否定するものではありませんが、これはあくまでラヴェル的な、ラヴェルの作品だという印象も強いのです。

例えば冒頭の華々しいトランペットです。曲想に楽器の特性があまりに合致しており、あたかもムソルグスキーだってこう書いたろうと思わせる自然さです。しかし、これは作曲者がプロムナードと呼び、絵の印象ではなく、絵から絵に歩を進める気分を描いた曲想です。友人の死に落胆し、追悼しようと遺作展の会場に足をふみ入れる男の心がこんなに晴れやかなものだっただろうかといつも思うのです。

これは指揮者レオポルド・ストコフスキー編曲版ですが、出だしを聴き比べてください。

私見ではこれのほうが作曲家の心情には近いように思えます。以降のプロムナードの弦のトレモロの精妙な使い方もそう。しかしながら、これを聴いていると同じストコフスキーのJ.Sバッハ編曲が浮かんできて、あれを聴いていると確かに面白いのですがディズニー的でもあり、聞いてるそばからバッハの原曲に戻りたくなる。そうやって、だんだんに、「他人の編曲でデビューし、それで世に記憶された曲が他にあるだろうか」という疑問が頭をもたげてくるのです。

編曲はラヴェル、ストコフスキーに限りません。ゴルチャコフ版もライブで聴いたし、ピアノ協奏曲版があり、他の楽器ではギター版、チェロ、トロンボーン、アコーディオンはおろかロック版、ジャズ版まである。まさに百花繚乱です。ホルスト「惑星」のジュピター、アランフェス協奏曲、パッパルベルのカノンなどポップス化した曲はありますがこれだけ丸ごと「いじられた」クラシックはありません。

さらに、何とも訳の分からないことに、「ピアノ版」まであるのです。これがそれ、ホロヴィッツ版です。

非常におかしいのは、原曲がピアノなのに管弦楽版が先に有名になって、それのまた編曲であるかのようにこれが存在するわけです。香港に駐在した時だからもう17,8年前のことですが、路地裏で「日式老麺」なるものを発見しました。何かと思うとラーメン風のものに見慣れぬ物体が乗っていて、よく見るとそれはウナギである。地元ではそれを日式(日本食)と信じこんで食されていたわけです。中国の老麺が日本でラーメンになり、ふるさとに戻ったら似て非なる物に化けていた。ホロヴィッツ版ですね。

展覧会の絵は不幸なことにもともと他人の上書きで世に出たのだから、原曲にこだわることはないだろうという、クラシック音楽にはあり得ないほど原曲楽譜無視があたりまえという先入観ができた異例の曲なのです。それではムソルグスキーがかわいそうだ。春の祭典を上回る独創性はオリジナルのピアノ版でなくてはわかりません。それが本稿執筆の動機です。

ということで、この曲はまず原典に近いピアノ版でお聴きいただきたいと思います。

 

エヴゲニ・キーシン(pf)

280オーソドックスではないリズム、フレージングがあって、その由来は不明ですが説得力はあり、トータルにはきわめて満足感の高い名演です。鮮明な切れ味のタッチ、神秘感のあるピアニシモなどを駆使して絵画的なイメージ喚起力に富み、オーケストラにひけをとらない色彩を感じます。アレグロ部分に高度な技術を感じますが、そういう些末な事がアピールの主体でなく、彼の読み取った全曲の構図が細部までを形成する観があるのが非常に印象に残りました。

 

エリザベート・レオンスカヤ(pf)

41tNj-CleZL誇張や改変がなく、オーソドックスな解釈で原曲の良さをストレートに表現した姿勢が好ましい。この人、クルト・マズアとのブラームスのP協2番が立派なもので女流の限界を感じさせませんが、リヒテルに比べればやや非力と思う所もある。しかし男が剛腕で行ってしまう所をスタッカートで弾いたり(バーバ・ヤガー)工夫もあり、「キエフの大門」も無用に壮大をよそわず、良いピアノ曲を聴いたという感動を残してくれるのがかえって個性になっております。

 

マリア・ユディーナ(pf)

2700000152195こちらは個性の塊。「こびと」のフレージングはきわめてユニークで、「テュイルリーの庭 」も他に類のない解釈。「ビドロ(牛車)」、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の遅いテンポは一体なんだ?というレベルのもの。「リモージュの市場」の噛んで含めるようなタッチも面白い。「バーバ・ヤーガ」はグリッサンドまで駆使。「キエフの大門」は低音でルバートしてパウゼに至って絶句しますが強弱の対比あり表現主義的部分ありで引きずり回されることうけあい。これを許容するところこそ、春の祭典に比肩する要素であります。すべてが見事に普通でないのですが、ここまで自信をこめてされるとこういうものかと思ってしまう。嫌でないのはテクニックのひけらかしでないからです。聞き慣れた人に一聴の価値あり。ショスタコのソナタ2番がこれまた名演です。

 

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団

7e4c8eac-2aca-422c-a29d-2fadaaf28740上掲のLPです。オケ版は僕にとってこれ抜きには語れません。冒頭トランペットから「うまい!」と、食い物系バラエティ番組のお笑い芸人風に叫びそうだ。高校時代、あまりにくりかえし聴いたもので楽器の微妙な一言一句の綾までが耳にこびりついていて、いま聴きかえしながら50年ぶりに帰った田舎のあぜ道の匂いってこんなものかなと想像にひたる次第です。オーマンディーは僕のおふくろの味だったんだと眼からうろこです。楽屋で何か忘れたが愚妻の手を握って片言の日本語で話しかけ、上品な奥様に「あんたのしゃべれる日本語、それだけよね」といじられていたお茶目なオーマンディーさん。お世話になりました。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団  (1953年)

61DTGCN9S4Lオケ版で強烈なのはこれ。モノラルだからダイナミックレンジは広くないですがビドロ(牛車)のpからffへの爆発はすさまじく、音量ではなく質量感でそれを感じさせるのは原音の風圧でしょうか凄いことです。「鶏の足の上に建つ小屋」の打楽器と重低音アタックのパンチ力は恐れをいだくほど。強弱のインパクトはメリハリを超えてどぎついと感じる人もありましょうが、ラヴェル版はこのぐらい乾いたラテン感覚でやったほうが映えるでしょう。

 

ユージン・グーセンス/ ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

516qLVGV8iL穏健な表現ながらラヴェル版のつぼをおさえた音楽的な演奏。並録のシェラザードも誉めましたが、葦笛のような質感のオーボエがチャーミングで木管群の鳴らし方がセンスにあふれ(卵の殻をつけた雛の踊り)、音程がきまっており、今これをコンサートホールで聴いても文句は出ないでしょう。トランペットが上手くない(サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ)など微細な欠点がありますがとんがったところを作って勝負する昨今の風潮に照らせば正攻法で潔い。録音は古い割に楽器の遠近感まであるステレオで僕は最近のデジタルより好きです。

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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