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演奏会は死んでいくか?

2016 JUL 10 16:16:12 pm by 東 賢太郎

 

(1)演奏会は死ぬと思った日

先日、証券会社の後輩が「支店に来るお客さんの平均年齢は優に70以上です。大手だと80です。東さん、60なんて若手ですよ」と妙な励ましをくれました。「国全体で見ると金融資産は60歳以上が約85%を保有しています。30歳代はマイナス資産ですよ」。

たしかに演奏会へ行くと老人ばっかりです。僕もそろそろその端くれです。若者はクラシック・コンサートに興味ないかと思いきや、彼はとんでもないといいます。

「好きでも生活に余裕なければ行きませんよ。チケットは高いし、連れて行くカノジョはいないし。それはちがいます」

30歳代はマイナス資産・・・。

これは悲しい。そうなると大枚はたいてホールに来るのは金融資産85%組ばっかりになるのも納得だ。

「それに若い人はスマホとyoutubeでいいんです。タダでいくらでも聴けますし。」

それはわかる。僕だって結構楽しめるし。そうなると若者はそれが習慣になっちゃうな。親の遺産もらっても習慣は変わらないな。85%組はあと20年ぐらいでこの世からいなくなるから、演奏会もいっしょに消えていくんじゃないか?

それからいろんなことが頭に浮かび、ああそうかと思いついたことがあります。忘れないうちにここに書き留めておこうと思います。

 

(2)音楽について書いていて気がついたこと

作曲家の頭に浮かんだ楽想や即興演奏は放っておけば消えます。それを記録しようと彼が思ったものだけが作品として残ります。我々が聞き知っているクラシック音楽はぜんぶそういうものです。

英語で楽譜のことをwritten music、 sheet musicといいますが、「(紙に)書かれた音楽」という意味です。ということは書かれていない、「音の状態にある音楽」というものもあるということで、我々が聞いて楽しむものはそっちのほうです。

つまり音楽(music)というものは二つあって、それは

書かれた音楽

聞こえる音楽

です。

書かれた音楽は聞こえる音楽にもなりますが、聞こえる音楽が書かれたかどうかはわかりません。ジャズの即興演奏がそれで、書かれていないけれど面白い。

 

(3)楽譜とは何か?

音楽を聞く人にとっては、書かれているかどうかはどうでもよいことです。それが楽しいかどうかだけです。音を出す人だって、本当は即興演奏だけでもいいかもしれない。ショパンのソナタのような音楽が次々と弾けるなら・・・。

現にモーツァルトはそれで飯を食っていましたし、ピアノは即興で、オーケストラにはちゃんと伴奏さすためにパート譜を書いた。それが残ったのが彼の27曲のピアノ協奏曲です。出版用にピアノ譜も書いたが本番でそのとおり弾いたかは不明で、26番のピアノパートは不完全のままになっています。

ところが時代が下って即興の要素はカデンツァを除いてどんどん減り、作曲家が書いた音符だけをを弾くのがクラシックだという定義づけができてしまいました。

音符そのものはもちろんマーラーみたいにホルンの朝顔を上に向けろだの立って吹けだの、ああだこうだ細かい指示まで譜面に書き込むようになります。覚え書き程度だった楽譜というものが、そのとおり演奏すればいつも同じ「聞こえる音楽」がこの世に立ち現れるという意味で「作品」というものになりました。擦ると魔人が出てくるアラジンの魔法のランプのようなものです。

すると「書かれた音楽」とレコードとは何が違うのだろう?

という疑問がでてきます。

 

(4)缶詰とインターネット

レコード(録音、CD、MDなど)も、再生すれば「聞こえる音楽」が立ち現れる魔法のランプだという意味では書かれた音楽(楽譜)と同じ役割のものです。料理に喩えれば楽譜はレシピであり、レストランのコックさんがその場で作るのが演奏会、料理をそのまま詰めこんだ缶詰がレコードにあたります。

問題はその缶詰が美味で大量生産されると、レストランはどうなるかということです。

レストランがコンサートホールにあたります。後輩が主張するように、youtubeをパソコンのスピーカーで聞いてもショパンは充分楽しめるという人は多いし、そういうネットのメディアが高音質化するとともにその人口は増えていくでしょう。

となると、缶詰とはいえホロヴィッツやミケランジェリという名コックの料理がタダで家で好きな時間に食べられるのです。知らないコックの料理を、決められた時間に間に合うように電車に乗ってレストランまで行って5000円払って食べたい人が永遠にいるのでしょうか。

 

(5)料理と音楽

ちょっと視点を変えてみましょう。料理というものも、地球上にある食材のバライエティは有限ですからその組み合わせであるレシピも限度があります。12個の音という限られた素材の組み合わせである音楽と似た事情があります。

現代の料理の原型はほぼ19世紀までにでき、20世紀に完成されたそうです。この100年はメニューがあまり増えてないのです。未知のおいしい魚や野菜が発見されたり、刺身にソースをかけておいしいと感じる新人類でも出ない限り、それは未来も変わりそうにありません。

音楽だって、いままでにない特定の12音の組み合わせ(メロディー、ふし)を好む民族が増えて、それを含む音楽を永遠に必要としてくれるということはあまり期待できないでしょう。シェーンベルグの12音音楽のメロディーをお母さんが子守唄に歌う時代は、一万年後は知りませんが僕らが生きてるうちはまず来ないでしょう。だから音楽のメニューも増えないのです。

 

(6)マーラー、ブルックナー人気

1970年代は音楽のメニューがLPレコードというメディアの普及によって増えた特別な時代でした。SPがモノラルになった時にも起きた変化が、LPによる収録時間、立体的な音のライブ感と細部のクラリティというメリットによってもっと劇的に拡大されたのです。それまでのメディアでは充分に理解されていなかった音楽が、LPという新しいパレットに描く画材として好まれるようになった。それが長大なマーラー、ブルックナーだったと言えるでしょう。

それまでも演奏され、知られてはいましたが、レコードというメディアが今のネットのごとくそれらの魅力を世界の聴衆に認知させた。それにより演奏会のメニューにのる回数がうなぎ登りに増えたというのは事件でした。食べ物でいえばカップめんにした創作ラーメンがコンビニで人気となったことでそのラーメン屋に行列ができたようなものです。

ストラヴィンスキーなど近代音楽でも、モノラルでは聞こえなかった細部の面白さが浮き彫りになって似た現象が起きました。僕はそれを聞いてクラシックにのめり込んだ人間です。それまで夢中だったビートルズがスタジオにこもってアビイ・ロードのようなライブでできない音作りに移行したのもLPレコード現象とするなら、僕のような嗜好の人間がクラシックに入るブリッジができた時代だったんでしょう。

しかし、CDという新メディアがLPを引き継ぐ形でそれをさらに拡大したにもかかわらず、そのメリット自体も飽和感が出ています。70年代に劇的に増えた新メニューもそれ以上は増えないところに来たのです。SP時代に霞のかなたで聞こえていた音楽がライブに近い質で家で楽しめる。もはや「メディアが作用してメニューを増やす」という現象はネットに道を譲り、そのこと自体がコンサートゴーアーの数を減らすかもしれないというジレンマに陥っているのが現状です。

 

(7)歴史のトラップ

それは、料理も音楽もどちらも素材の数が限られているわけですから、どう組合わせようとその数は「順列組合せの数」という数学的な上限に行き当たるわけです。だから新しい組合せ、すなわち「新製品」の投入がもはや望めないというところに来ている。1970年代の現象はミクロ的なものであって、マクロでみるなら20世紀とはそういう時代であったのではないかということです。

それは創造の天才が出現しなくなったのではなく、人類が食べたいと感じる素材の数、聴いて調和を感じる音階を構成する音の数から導き出せる「バラエティ」がいよいよ最終飽和点に近づいた。歴史が料理や芸術を囲って閉じ込めてしまうわな、「歴史のトラップ」があるということなのです。

同じことは工業製品にも見られます。例えば眼鏡(めがね)は1280年から1300年の間にイタリアで発明され、つるを耳にかける形になったのは18世紀から19世紀初期、球面レンズの採用が20世紀初頭です。100年大きな変化はありません。4輪の自動車や4翼の飛行機のかたちというのもおそらくそうでしょう。

 

(8)歴史がトラップできないもの

僕がベートーベンのエロイカをききたいとき、60枚ほどもっているCDの中から取りだすのは5枚ぐらいでしょう。その5枚だけで実は足りるのです。それにめぐり会うために60枚も買って、55枚は失敗だったわけです。演奏会でその5枚以上の名演が聴ける確率は非常に低く、そのために入場券に1万円を賭けるリスクをそう何回も取ろうとは思いません。

では僕はエロイカの演奏会に行かないか。矛盾のようですが行くのです。それは、5枚のCDより感動した演奏会をこれまで3回も経験したからです。そのひとつ、チューリッヒ・トーンハレで聴いたゲオルグ・ショルティの演奏。同じ楽譜、同じオーケストラから出てきたとは信じ難い光彩と生気と威厳に満ちあふれた音楽でした。

ああいうものは音楽に限らず、人生で何度も経験できないなにか特別なもので、舞台上の100人の人間が発する「気」が生んだ強烈な磁場のようなものです。それは、そこにいて時間を共有しないと体験できないもので、20世紀だろうと21世紀だろうと人間というものが変化しない限り変わらない、つまり、歴史がトラップできないものです。

そうなると音はその媒体にすぎなくなってしまいます。それを録音してもレコードには音しか入りません。それを再生しても、そこにいた人が何を感じたかはほとんどわからないでしょう。それはその場で演奏者と「気」を共有し、それに全聴衆ごと同期化し、音楽のうねりと一緒に会場ごと一体に動く精神の抑揚を感じないとわかりません。良い演奏会というのは音を聞く場ではなく、共体験の場なのです。

 

(9)空気とアトモスフィア

僕は英国時代にお客様といっしょにクリスマスの教会へ行きました。周囲でみなが賛美歌を歌い、祈り、牧師の言葉に耳を傾け、オルガンが演奏される。あの一連の音だけをあとで録音で聴いてみても、恐らく、そこにいた者でさえ何の感興も得られないでしょう。聖書も読んだことのない僕でさえ、しかし教会の広大な空間に満ちた雰囲気にどこか心洗われ、厳粛な気分に浸ってドームを出たことを覚えています。

atmosphere(アトモスフィア)は日本語で雰囲気と訳されます。この単語はギリシャ語源のatomos(蒸気)+sphere(球)の合成語、つまり地球の大気であり、気圧の英語はatmospheric pressure です。気圧の「気」がatmospheric という対応ですね。この「大気」が「気」であり「雰囲気」である、これは大気の振動が音楽であるというという対応を生んで、実にぴったりです。僕の教会体験はそれそのものです。

演奏会とはそれに似たものと思います。ホールの空間も聴衆も大事な要素であり、音楽の一部なのです。リサイタルで、ピーンと張りつめた空気を破るようにピアニストが登場します。一度座ってみて、椅子をちょっと動かす。カタッという微かな音がする。それがホールの空間にスーッと拡散する。最後の咳払いをコホンとする聴衆。集中の一瞬。そして、音が鳴る。

こういうものだって、音楽の要素なのです。ベートーベンの運命の、「音の鳴る前の休符」のことを以前に書きました。それは交響曲が鳴りだす前から音楽が始めっていることをベートーベンは認識していたということでしょう。オケのチューニング(調弦)がはじまり、会場がシーンと静まり、指揮者が登場して拍手が鳴り、また静寂が支配する。そこに音楽はもう聞こえているということです。

 

(10)ユーミンのしなやかな感性

オーボエの長いa音に始まるチューニングの音が僕は大好きです。あれがきこえると、いよいよ音楽が始まるぞというときめきを感じ、じっと耳を澄ますようになります。

前に書きましたが、大学時代によくきいていた荒井由美の「さざ波」という曲の歌詞に、こういうのが出てきます。

秋の光にきらめきながら                                        指のすきまを 逃げてくさざ波                                    二人で行った演奏会が                                        始まる前の弦の響きのよう

これを聴いて、彼女の鋭い感性に舌を巻いたのを覚えています。

演奏会が始まる前の弦の響き!

彼女がチューニングの音に感じたポエジー、それも音楽なんです。

 

(11)音のしない音楽

ジョン・ケージという作曲家をご存じでしょうか。彼の作品に「4分33秒」があります。ピアニストが舞台に出てきて、ピアノの前でなにも弾かずに4分33秒座っているという「音楽」です。その空白の時間に去来するすべての会場の雑音、その空間への拡散、空想の音響、ピアニストの姿や所作、いらだち、不安まで・・・そうしたすべてが聴衆の心に形成するものが音楽だということです。運命の休符の拡大版ともいえましょうか。

「4分33秒」のレコードがあったという話はほんとうでしょうか。ジョークかもしれません。ともあれ作曲家は4分33秒だけ切り取ったカンヴァスに白地の絵を描き、そこに何を見るかは居る者の感性にゆだねた。哲学的かもしれないが僕はそれは芸術家の強いメッセージだと受け取ります。ユーミンがチューニングに聴いた音楽というものに、それはとても近いものだと感じるのです。

 

(12)演奏家の磁力

演奏会場で、今日だけしか聴けない一期一会のものにめぐり会えるかもしれない。いつもそう思って足を運んでいます。行った回数に比べればずいぶん少ないですが、とにかく一生忘れることのない体験を味わえたからです。それは周囲の聴衆と一つの状態になってしか味わえないし、全部の聴衆を引きずり込んで「同期化」してしまう、強力な磁場をもった演奏家なくしてなりたたないものでしょう。

演奏家の力は絶対に必要なのです。すぐれた演奏家とはテクニックばかりの人のことではなく、聴衆をだまらせ、集中させ、引きずり込み、引きずり回し、うーんこれは凄いと我を忘れさせ、作曲家がランプにに封じ込めた魔人を解き放ち、その魔力と一体になって、参りましたという大拍手を送るしか感情のやり場のない状態に聴衆を追い込むことのできる人のことです。

実演の場で僕は何人かこういう人たちに接してきました。

セルジュ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティ、ダニエル・バレンボイム、アイザック・スターン、ヴラド・ペルルミュテール、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、カルロ・マリア・ジュリーニ、カルロス・クライバー・・・・

定期演奏会の会場が、おそらく、クラシック音楽を「教養」として知り、覚え、楽しんでこられた世代ばかりという状況は、これから活躍の旬を迎える若い演奏家が変えてくれるものだと信じます。老人はそう遠くない将来に死んでいきますから、それとともに演奏会も死んでいくかもしれない。ネット社会がそれを急速に後押しするかもしれない。それを救うのが、演奏家の磁力とでも呼ぶべきものです。

 

(13)未来

若い方々が僕のショルティ体験のような味を覚え、もっと体験したくなり、もっと会場へ足を運ぶ。解決法はそれしかないと思うのです。それはネット社会が、ネットビジネスが、どう頑張ったところで浸食も淘汰も出来ない、人間の精神活動の最も高貴で深い部分だからです。今の若い方々は、むしろそういう体験を我々の世代よりも必要とし、強く求めておられるのではないかと思います。

拙文、愚考が50万も読まれたならそれもネット社会の変容の結果です。浸食されるばかりでなく逆にそれを使ってクラシック音楽体験の素晴らしさを少しでも伝えること、これは誰かがやるべきですし、僕は大作曲家への「決して支払えない印税」のつもりでそれをやっていこうと決心しております。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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