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時の流れを何かで埋めたい

2017 JUL 23 17:17:42 pm by 東 賢太郎

6月のように深い海の底へ沈んでしまうと、心を解きほぐせるものがそうあるわけではないことを知る。押し寄せてくる時の流れを何かで埋めたいが、どんなことをしてみてもなじまないことがわかってくる。お悔やみも慰めも魂に響かない。お定まりの暇つぶしである映画や小説はもとからさっぱり関心がないし、音楽はというと、今度は効きすぎてかえって危ないかもしれない。

サンフランシスコに出向いたはいいが、よし蟹でも食うかとフィッシャーマンズ・ワーフに行ってみると、なんで俺は昔こんなつまらない卑俗な雑踏に感激してたんだろうと嫌悪感がわくばかりで困ってしまった。心がどうもネガティブにはね返ってコントロールが効かない、どうしようもない。

つかの間の救いはY君が連れていってくれたナパ・バレーのケンゾー・エステートだった。丘の葡萄畑を望むフランス風のテラス(右)がいかにも素敵だ。これで樹木がマロニエなら最高なのだが文句は言えない。こういう風情の所で食事とワインというのが昔から人生最も好きなことの一つであり、知らず知らず雰囲気に浸ってしまった。

もうひとつ、阿曾さんがチケットを譲ってくださった野村万作の出る能・狂言というのが有難かった(国立能楽堂)。オペラだったらお断りしたい心境だったが能は初めてという薬味が効き、橋弁慶、船弁慶、曽我兄弟など話は知っている演目なのも幸いした。楽の音も景観もまことに異形、異界だが、600年前も前の人の情念が今も変わらないのがどこか心地までよくて、ふと眠りに落ちたりしながらも魂に響くものがあった。信長、秀吉を捉えたものが生死隣り合わせの美だったかもしれないと思いながら観た。証券用語の仕手、前場、後場が能からきたとは知らなかったが、相場も死がすぐそこにある世界ではある。

未だ不案内だが右の書物には目から鱗の思いだ。死が隣り合わせの中世は神、精霊、幽霊に出会う場が能であった。免疫学者で東大医学部教授だった著者は「私は理系の人間で能を見るときもどこか分析的になってしまう。しかしその分析を超えたところで一種の発見があり、科学の発見と同じく能の中のどんな小さな発見も例えようのない喜びである」と書く。文系的な人の書いた能の本はすべからく理解不能で、わけわからん説明を読むほど苦痛なものはないからこの出会いは福音だ。「間の構造と発見」の稿(本書はエッセイ集である)、ピエール・ブーレーズのリズム分析さながらに邦楽の「間」が図解(スコア)で定義されよくわかった。読む方も喜びである。

そして今、僕のピアノには長らくシューマンのピアノコンチェルトが置いてある。この曲の第1楽章、アレグロ・アフェットゥオーソは「速く、愛情を込めて」だが、なんと矛盾に満ちた指示だろう。二律相反するものを「間」をもって弾き分ける必要があるではないか。その間をとれるだけ成熟したピアニストがどれだけいるだろう。

第2楽章インテルメッツォをたどっていくとこういうのにぶつかる。

赤いほう、ヘ長調のメロディーがA、F7、B♭に、まるでエアポケットに入ったみたいに浮遊するのが不思議だ。そして青いところ、それが樹海に木霊したかのように木管がDm、Gmを2度さびしく奏でる!この不意に襲ってくる悲しい翳りはなんだ?この青からの4小節は無くたっていい、普通の作曲家まらまず最後から2小節目へ飛ぶのだろう。

以上コード記号を書いた和声は、子供の情景の「トロイメライ」であのふわっとした慕情に郷愁のペーソスを仄かにまぶした感じを醸し出すためにシューマンが工房で素材として用いたものだ。このインテルメッツォも同じ心情で書かれたものかもしれないと思い至った。

多田富雄氏が能に「発見」されたのは、音楽ならそういうものだろうか。氏は世阿弥の天才を説いているが、こんな音楽を書いたシューマンだって只事ではない。この協奏曲はいま僕の脳内に棲みついて次々と発見をくれているが、それをすればするだけ満足な演奏は遠ざかっていくから困ったものだ。そしてわかってくるのは、僕がどれだけこの曲が好きかということ。この大儀なときに心に入ってきて何もかも忘れさせてくれる、他のコンチェルトでは一向に無理なことであって、人生最も大事にしなくてはならないもののひとつだったのだということを思い知った。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

 

 

 

 

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Categories:______シューマン, 読書録

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