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ラヴェル「クープランの墓」を弾く

2018 JUL 31 0:00:59 am by 東 賢太郎

 

弾くといって、もちろん全曲ではない。第1曲、プレリュードである。「自分で弾くのが人生の夢だ」と5年前のブログに書いたが、挑戦を始めたのはロンドンに勤務していた何十年も前のことだった。言うだけでは夢のままだから挑み続けているが、ピアノを一度も習っていない者がこれを弾こうというのはドンキホーテだ。譜面は簡単に見えるが、運指は難しく指の回りとすばやいポジション移動が求められ、素人にはかなり難儀である。しかしだ、困ったことに、とにかく、僕はこの音楽が好きで好きでどうしようもない。これなしの人生などあっても意味がないのだ。しかも悪いことに僕は好きなものに所有願望がある。録音をたくさん集める程度では済まず、誰のお世話になるでもなく自分の指で再現するのが究極の所有だという気がしてくるわけだ。音符はぜんぶ頭に入っているのだからそれを音にするだけだろうとわけもない自信が沸き上がってきて、ピアノに座るとまずはこれを鳴らす。そうやって何十年、ストーカーさながらにこれに付きまとって、やっとなんとなく自分のものになってきたというところだ。

プレリュードは3分で春風のように吹きぬける音楽である。ラヴェルは Vif. とフランス語で記しているが、いきいきと、鮮やかに、すばしこく、という意味だ。タッチはチェンバロのように軽いが、曲想の陰翳に添って多様なカラーが求められるからチェンバロでは弾けない。こういう響きの着想はエラールなのかなと思う、擬古的な装いを纏った20世紀フランス音楽である。

しかし僕の興味はそういうところにはない。あくまで和声だ。迷宮、魔界を駆けぬけながら景色も陽射しもくるくる変わる。この万華鏡のような七変化が好きかどうかでこの曲の好悪は分かれるだろうが、僕にとってネコのマタタビだ、これは麻薬的効果であって、ドイツ音楽を和声の視点で眺めるときに必ず割って出てくる左脳がぜんぜん機能していないのを感じる。右脳を刺激し活性化し、それを右脳だけが喜ぶという稀有の音楽である。

ロンドン時代にDurandの楽譜を買ったが指使いがどうも不如意であり、細かく指示が書いてあるのを探していたらこの写真の中井正子校訂版に出会った。記憶定着が弱い部分がこの運指だと強まることを発見し、いけそうになってきたのは有り難かった。この曲集のピアノ版は、いま聴き返してみると大学時代に夢中で聴いたアレクシス・ワイセンベルクで刷り込まれているようだ。「フォルレーヌ」など、まったく彼のテンポ、フレージング、ニュアンスで弾きたいという思いがあって、三つ子の魂は音楽鑑賞にもあるという思いを強くする。ちなみに、ワイセンベルク盤のきれいな音色のピアノは何だろう?この音楽を弾きたいのだからあのピアノはどうにも欲しくなってしまうが、この曲を好きになったのはワイセンベルクの饒舌、奔放気味な表現と、いっぽうでロマンティックで清楚でもある和声への反応のアンバランスが、最高に美しいピアノの音色でつなぎとめられて調和がとれているからでなかったか。

楽譜は御免という方もおられて申し訳ないが、ほかに方法がない。すこし、プレリュードの気になる部分をお示ししておくが、こちらの動画がご参考になるかもしれない。

 

まずはここだ。ラヴェルならではの和声の変転はうっとりするばかりだが、レガートで濁らないように弾くのは素人には難儀だ。管弦楽では弦4部に割り当てており第1,2Vnが交互に旋律を、VaとVcがレガートで和声の生地をつくる。

次に下の部分に行く。管弦楽版では2小節目からまずクラリネットが、次いで赤い矢印からオーボエが旋律を吹くが、常識的には高い前半をオーボエ、後半をクラリネットにしそうなものだがラヴェルは逆にしている。和声でみるとAm→G7が後半はGm→F7に歌舞伎の廻り舞台みたいにパッと変わる、うっとりするほど素敵なところだが、赤い矢印からの得もいえぬ翳りにはオーボエがなんてぴったりなんだろう!ピアノであってもそういう音色が欲しいと思ってしまう。

さらに、同じ音型、曲想で、和声だけ変えてこうなる。今度は旋律はミュートしたトランペットとコールアングレである。ここからの8小節は魔界だ。

魔界が過ぎ去ると、澄んだ凛とした冬空が悲しみをたたえてやってくる。ラヴェルの管弦楽法の冴えは認めつつも、この魔界→冬空のところは僕はピアノ版に軍配を上げる。このソプラノパートを、神経にそっとそっと触れるがごとき繊細な感情で表現できる楽器がピアノであり、ほかのいかなる楽器も及ばない無限の可能性を感じる。ああ、やっぱりワイセンベルク盤のピアノが欲しい!

ラヴェル 「クープランの墓」

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